時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

聖ペテロの涙

2008年08月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour. The Tears of St. Peter, also called Repenting of St. Peter. c. 1645-50. Oil on canvas. The Cleveland Museum of Art, Cleveland, USA 



  前回記したマグダラのマリア聖ペテロは、カトリック宗教改革で象徴的な役割を負っている特別の存在といえる。ペテロは12使徒のいわば統率者で、キリストと最も近い関係にあった者のひとりである。そのために、キリスト教史においてもきわめて重要な位置を占め、キリスト教美術の流れでも、さまざまな主題の下に登場してきた。

  ラ・トゥールもペテロを主題として、おそらくかなり多数の作品を制作したものと思われる。しかし、今日に伝わるものはほとんどない。模作と推定される作品を別にすると、わずかに「聖ペテロの悔悟」Les Larmes de st Pierre と「聖ペテロの否認」(ラ・トゥールとその工房作)Le Reniement de Saint Pierreの2点のみが、ラ・トゥールの手によるものとされている。これらについては、すでに概略を記したことがあるが、若干視点を変えて付け加えてみたい。

  大変よく知られている話だが、いちおう記しておこう:

  キリストは捕縛された後、大祭司カヤバから、尋問を受けた。その間、ペテロが中庭に立っていると、カヤバの召使いの女が彼に言った。「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と。しかし、ペテロは彼を知っていることを打ち消した。すると雄鷄が鳴いた。彼がそうした否認を3度すると、そのたびに鶏が鳴いた。ペテロは彼にキリストが予言したことを思い出し、泣き出した(「マルコ福音書」14: 66-72)。

  ここで、この著名な話を再度取り上げるのは、ペテロの悔悟に関するラ・トゥールの作品のためである。自らの過ちを悔いて泣くペテロは、イタリア、スペインの美術にはかなり見られる。今日に残るラ・トゥールが描いた一枚もこの場面である。カトリック宗教改革の教会は、悔悛もそのひとつとして含まれる「7秘蹟」の信仰を広めるために、このテーマを好んだようだ。バーグは「涙にくれる聖ペテロやマグダラのマリア」が頻繁に表現されるようになったことは、プロテスタントが悔悛の秘蹟に対して行った非難に対する目に見える反論だと解釈されている」(邦訳p85)としている。

  ラ・トゥールのこの作品、現在はアメリカのクリーブランド美術館が保有しているが、アメリカにあることも手伝ってか、従来フランスの研究者からはあまり評価をされてこなかったきらいがある。作品を見れば明らかなとおり、簡明直裁に主題に迫った作品であり、一瞬にしてなにを描いたものかが分かる。

  一人の純朴そうな男が両手を組み合わせ、涙を流している。彼の顔面は、ラ・トゥールの作品に固有のどこからか分からない光源からの光に照らされている。この作品にはもうひとつ、足下にランタンの光源があり、彼の右足部分を照らし出している。机上には雄鷄が一羽、つくねんと座っている。

  前回取り上げたマグダラのマリアと違って、この主題においては、ペテロの悔悛の涙は欠くことができない。雄鷄が3度鳴くことによって、ペテロには自らの裏切りと悔悛の念が一度にこみ上げる。彼の目はしばたき、取り返しのつかない行為への深い悲しみが胸に突き上げてくる。泣くという行為は、大変情緒的であり、直接的である。一見単純な構図のように見えるが、イコノグラフィカルな点でも、謎解きにように多くの工夫が籠められた作品である。

  ラ・トゥールという画家は、作品制作に際して、きわめて深く考えていた画家である。カラヴァッジョのように、衝動的な情熱に駆られて一気に描き上げるという気質の画家ではないように思える。制作に先立って、かなりの時間を細部を含めて構想に費やしたのではないか。ラ・トゥールが生涯の多くを過ごしたロレーヌは、カトリック宗教改革の前線として、さまざまな圧力が働いていた。そこに生きた画家は、オランダとはまた大きく異なった風土の下で制作活動を行っていた。同じ17世紀前半のヨーロッパでありながらも、フェルメールやレンブラントのオランダとラ・トゥールの生きたロレーヌは、大きく異なった風土であった。今日、作品に接する者は、その風土の中に入り込む努力が求められる。さもなければ、彼らが描こうとしたものの本質は見えてこない。

  ラ・トゥールは、画風としても、自分の構想する主題に直接必要ないものはいっさい描かないというところがある。たとえば、人物が室内、屋外のどこにいるのかさえ、定かでない場合が多い。しかし、必要と考えたものには驚くほどの注意が籠められている。

  
ペテロの悔やみきれない深い悲しみとそれがもたらす信仰への強い悟りの境地が、生まれる瞬間である。彼の犯した裏切りの行為と深い悔悛の情が一挙に噴出する。原初の意味での聖的・霊的なパッションが未だ存在した時である。ペテロの口元がわずかに開いているのは、涙にとどまらず、叫びとなっていることを示している。一見すると、単純な構図の作品に見えるが、きわめて味わい深い一枚である。


Reference
Peter Burke. Eyewitnessing: The Unses of Images as Historical Evidence, London: Reaktion Books, 2001. ピーター・バーク(諸川春樹訳)『時代の目撃者』中央公論美術出版、2007年

 

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オランダの光:画家の真意は?

2008年08月29日 | 絵のある部屋

Pieter Jansz saenredam (1597, assendelft-1605, Haarlem)
Interior of the Church of St.Bavo in Harlem
oil on panel, 2 x1.4m, National Gallery of Scotland, Edingburgh  

  

    退屈だといわれた17世紀、オランダ・ジャンル画について、先入観を捨てて再度見てみたいと思ってきた。美術史家ではないアマチュアの目で見たら、別のことに気づくことがあるかもしれない。実はこんな不遜な思いを多少抱いたのはかなり以前のことだ。それまで折に触れて見たり、読んだりしてきた美術史家の著作やカタログの中などに、時々どう考えても納得できない記述に出会い、作品を見直したり、知人の専門家に尋ねることで、誤りを発見したことが少なからずあったからである。老眼も、時々妙なことに気づくことがある。

  17世紀のオランダの美術界は、「黄金時代」の繁栄をきわめた。しかし、新教カルヴィニストは偶像や絵画を礼拝の対象とすることを禁じ、個人の救済は信仰にのみよって得られるとして、教会内に聖人などの偶像を置くことを禁じてきた。16世紀、とりわけ1566年頃にはイコノクラズム(偶像破壊運動)が町や村へと波及し、数多くの教会や修道院の聖像などが破壊された。絵画や装飾に比較すると、聖像は立体的で迫力があり、人々に訴える世俗的信仰の対象となりやすいこともあって、物理的破壊の対象となりやすかったらしい。

  それにもかかわらず、17世紀のオランダ美術が繁栄の時を迎えたのは、宗教色の薄い靜物画、風景画、風俗画などのジャンル画の領域へと比重が傾斜したことが、ひとつの大きな理由といえるだろう。しかし、反面で宗教画や歴史画のような、人々の心に訴えるものを次第に失っていた。おびただしい作品数にもかかわらず、オランダ・ジャンル画が平凡で退屈だという印象を創り出したのは、このためだろう。

  17世紀、オランダの画家サーンレダム(サーレンダム) Pieter Jansz saenredam (1597, assendelft-1605, Haarlem) の描いた教会画について触れたことがある。サーンレダムが描いた教会は、建築家の設計図を思わせる精密さで描かれていた。

  この画家はなにを目指して制作にあたったのか。最初はプロテスタント新教会の刷新されたイメージを精確に描くことを目指したのかと思った。描かれた作品、とりわけ教会内部の聖像や装飾が一切取り払われたクリーンな壁面は、新教徒たちの清新さを誇示するかにも思えた。内部に描かれた人々の数も少なく、時には人影も見あたらない。わずかに目立つのは、カルヴィニストにとって最も重要な説教壇 culprit くらいなものである。長く見慣れたきたカトリック教会に溢れていた聖像や装飾は、もはやそこにない。

  しかし、作品をかなり見ている間に、少し印象が変わってきた。人物が描かれている場合でも、教会全体に比して、きわめて小さく描かれ、教会の壮大さをことさら誇張しているような作品も多い。これらの例を見ると、一見正確に対象を描いたかのようにみえる教会画も、画家の意図が働いた創作であることが分かる。

  何度も目にしたハールレムの聖バーヴォ教会の内部を描いた作品(上掲)があるが、この一見して、がらんとした印象の教会は、カトリック教会を改装し、「中立的な」教会イメージとして、教会画ジャンルで、カルヴァン派教会が認めたモデル的な作品とされてきたらしい。

  ところが、西洋文化史家のピーター・バーグが、驚くべきことを述べていることに気づいた。要約すると、サーンレダムの描いた一連の教会画は、教会自体はカルヴァン派の礼拝に用いられていたものだが、カトリック教徒のような人々も描かれているという。描かれている儀式の執行者は、プロテスタントの牧師ではなく、サープリスという短い白衣とストールを身につけたカトリックの司祭だと記している(邦訳p.129)。*

  サーンレダムは、ハールレムのカトリック教徒と親しかったことが知られている、(この点は、サーエンレダムの研究者にはかなり知られていることではあった)。注目すべきことは、バーグが次のように結論づけていることだ。「ということは、画家は絵画の中で教会をかつてのカトリックの状態に”修復”してしまったのだ。したがって、サーンレダムの絵画はオランダにおける教会の当時のありさまよりも、オランダにおけるカトリックの不屈さを物語るよい証拠だといえる。それはありのままどころか、「歴史的、宗教的な含みをもたらされている」**のである。」(バーク邦訳 P.129)

  バークは、この点を先行研究者のシュヴァルツとボックから示唆された(**の部分)ようだが、この画家の作品を最初見た時とは、別の新たな衝撃を受けた。一見、新教会を精確に描くことが画家の意図であった思っていたが、もしそうであれば画家の意図はまったく異なってくる。バーグが指摘することが正しければ、これらの作品は当時の教会の忠実な描写ではなく、画家の隠された意図を含んだ作品ということにある。

  もちろん、サーンレダムにかぎらず、教会画を描いた画家たちが現実にはないさまざまなものを描き込んだり、故意に捨象していることには十分気づいていた。しかし、この指摘が正しければ、一見客観的、実証的な絵画作品の中に封じ込まれた画家の思いを読み取らねばならない。


Pieter Jansz saenredam
Interior of the Church of St Odulphus, Assendelft (detail)
1649, Oil on panel
Rijksmuseum, Amsterdam
当時の教会内部での説教風景が推測できて、大変興味深い。


  スペインとの長年にわたる熾烈な戦争を経て独立を勝ち取った新教国オランダでは、カルヴァン派は強権をもって国内の制圧・支配に当たった。特に16世紀後半のヨーロッパのカルヴァン派の地域は、「あらゆる聖像を全面的に拒絶する」という意味での「聖像恐怖」という時期でもあった。しかし、そこにおいても、カトリック教徒やユダヤ教徒がある程度の居場所、空間を保持していたことは知られている。この「共存」の関係、きわめて興味深いところがあるのだが、最近はその実態を解明しようとの研究もかなり進んできたようだ。聖像破壊運動や聖像恐怖にしても、ヨーロッパ全域に広がっていたわけではない。カトリック、プロテスタントの教徒たちの日常の生活はいかなる状況にあったのか。
これまで疑問なく見ていた一枚の教会画も、急に見え方が変わってきた。



 バークの邦訳(下掲)に掲載されているサーンレダムの作品にみるかぎりは、カトリック司祭や教徒らしき人物は十分確認できない。他の作品も検討しているが、サーンレダムの全作品を見たことがないので、バーグの主張はまだ十分納得できないところがある。しかし、きわめて興味深い謎を含んだ指摘である。
  

** Gary Schwartz and Marten J. Bok, Peter Saenredam the Painter and his Time, 1989: English trans. London; 1990.pp.74-6.

Peter Burke. Eyewitnessing: The Unses of Images as Historical Evidence, London: Reaktion Books, 2001
. ピーター・バーク(諸川春樹訳)『時代の目撃者』中央公論美術出版、2007年

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いつの間にかシンプル・ライフ

2008年08月27日 | 午後のティールーム

Zurbaran, Francisco de
(1658-1664)

Still-Life with Pottery Jar
Oil on canvas, 46 x 84 cm
Museo del Prado, Madred



    別に、故中野孝次氏の「清貧の思想」に感銘し、実践したりしているわけではない。そればかりか、かつてベストセラーになったこの作品を手にしたことさえない。しかし、このところ、意図してきたわけではないが、生活がシンプルになったことを実感している。いうまでもなく、シンプルは清貧と同じではない。

  かなり前から特に買いたいと思うものが、ほとんどない。戦後日本経済の成長過程では、それなりに消費欲を煽り立てられた。中流の家庭として、ほどほどの物を求めたことはある。しかし、それでも特に記すほどの物欲にとらわれたことはなかった。立派な家に住んで、豪華な車に乗りたいなどの思いは、まったく生まれなかった。

  今時、携帯電話も使わないので、奇異な目で見られることもある。実は一応持ってはいるが、緊急発信用にしか使わない。緊急時など滅多にないから、使わないのに等しい。これまで、時には人並み以上に忙しい時期もあったが、使わずにいてなにも支障がなかった。むしろ、使っている時は無駄な仕事ばかり増えた。「携帯」を使わないことにしてからのメリットは計り知れない。「携帯」に追われる生活など、願い下げだ。親しかった精神医学者の友人が、いつも電話に追われるような日々を送っているのを目の前にして、これでは君の健康の方が心配だよと冗談まじりに言っていたのだが、残念にも若くして逝ってしまった。電車の中などで、反射的に「携帯」を取り出している人たちを見ると、一種の「生活習慣病」ではないかと思うほどだ。利便性を得るはずだけの「携帯」に行動から思考まで束縛されていて異様に見える。使っている本人は、もう周りが見えなくなっている。
 
  「モノ」に固執しないことで、当惑したことがなかったわけではない。ひとつの例。しばらく前まで、一見して安物の腕時計をしていたことがあり、「身分相応?」の品を身につけたらと、大先輩からたしなめられたことがあった。ある新聞の購読の景品としてもらったもので、確かに5000円もしない安価なものだった。しかし、私にとっては短針・長針・さらに秒針もあって、時計としての機能は十分備えている。薄いために軽くて楽であり、何も疑念を抱くことなく愛用していた。もっとも、一時期、別の事情である著名ブランドの時計を愛用していたこともあった。しかし、15年ほど前に故障した時に、スイスの本社にも、補修部品がなくなったと告げられ、それを機会に新たなブランド品を使うこともなくなった。出来れば、時計のない日々を送りたい。

  車についても同様だった。故障さえせずに、輸送という機能だけを安全にしてくれれば十分と思っていた。実際には、かなり故障して悩まされたが、修理の仕方などが身に付けばそれなりに楽しめた。一時期、バッテリー、ライト、オイル交換などは自分でやっていた。イギリスでは「グリース・モンキー」というのだが。

  パソコンも、一時期はマックのフリークであった。新機種情報、操作法など販売店の店員より詳しい時もあった。SE/30、CUBE(トースター形状の本体)も処分するには忍びがたく、今でも時々動かしている。現在、主に使っているパソコンは、2002年のIBMーX30である。さすがに時々ダウンして、がっくりさせられる。しかし、重症の場合でも、工場出荷の段階に戻したり、アプリケーションやHDを入れ替えるなど半日くらいの修復作業の結果、健気に?立ち直ってくれて、まだ目前にある。暇さえあれば、修復する作業自体が楽しいこともある。

  こうしてシンプルな生活がいつの間にか定着してきた。時間に追われて休みもないように仕事をしていた時期もあったが、今は積極的に切り落としている。もともと、今日まで生きてきたのが僥倖に近いと思うくらいだから「多病息災」と考えて、気楽に過ごすことにしている。機械のように、突然、ブラックアウトして、終幕になってくれればよいと思うこともあるが、これだけはどうなるか分からない。

  ひとつだけ、シンプルにならないのは、頭の中だ。今まで多忙なために考えなかったり、時間がなく実現できなかったことをしてみたいと思うことが次々と生まれてくる。雑念も多く、これはこれで実は難物なのだが、その多くは楽しい部類だ。こちらも、いずれどこかで断線して終わりになるだろうと期待しているのだが。

  
  

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美術館にはない闇の深さ

2008年08月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

George de La Tour(1593ー1652)
1638-43
Oil on canvas, 133,4 x 102,2 cm
Metropolitan Museum of Art, New York


  

   「悔悛するマグダラのマリア」は、現存する真作と模作の数からして、おそらくジョルジュ・ド・ラ・トゥールが最も好んで描いた主題ではないかと思われる。このラ・トゥールの描いた「マグダラのマリア」のシリーズを見ていて、同じ主題を描いた他の画家の作品と比較して、印象がかなり異なることを感じていた。改めていうまでもなく、ラ・トゥールという画家に関心を抱いた一つのきっかけだった。

  「マグダラのマリア」は、16世紀から17世紀バロックの時代、絶大な人気があった画題でもあった。といっても、この時代にどれだけの数の「マグダラのマリア」が描かれたのかも分からない*。しかし、キリスト教美術の主題の中では、格別の人気度であった。それだけ、この主題に共感を持つ人々が多かったのだろう。その時代的風土については、考えることが多々あるが、未だ整理がつかないでいる。

  特に気をつけて「マグダラのマリア」に関わる作品を見てきたわけではない。マグダラのマリアを主題とした作品はいくつかのジャンルに分かれる。その中で、マグダラのマリアの悔悛のテーマは、しばしば涙を流し、組み合わされた両手、そして見るからに大仰に誇張された表情と姿態をもって描かれることが多い。描いた画家が誰であったかは記憶にないのだが、ルーブルでマグダラのマリアを描いた作品を見ていた観客が、「やっぱり涙を流している!」と同伴者に話しかけていたのを記憶している。

  ラ・トゥールの作品では、「マグダラのマリア」の涙としばしば対比される「聖ペテロの悔悛」 あるいは「聖ペテロの涙」 St. Peter Repentant (the Tears of St Peter, 1645)では、まさにその通り、涙にくれる一人の老人の悔悛の姿が明瞭に描かれている。

  他方、ラ・トゥールの「悔悛のマグダラのマリア」  Repentant Magdanene シリーズでは、マグダラは、この作品を知る者にとってはすでにおなじみのプロファイルで、闇の空間を凝視し、沈思黙考するひとりの女性として登場している。そこには、しばしば激しい「熱情」、「情熱」と表現されるパッションを伴ったマグダラのマリアとは異なった静寂な時間が支配している。どことなく神秘的 mystic ともいうべき雰囲気も漂っている。没我の境地ともいえるかもしれない。あの17世紀、未だ「近代」への曉闇ともいうべきか、魑魅魍魎が跋扈するロレーヌの風土を思うと、その感じは強まる。これは、現代の明るい美術館で作品を見ているかぎり、およそ感じられない闇の世界である。この絵、ロレーヌの片田舎、小さな修道院の片隅にでも掲げられているのが最も適している。マグダラのマリアと心を同じにする者が、ひとり静かに対峙し、闇の深奥との交流をはかる場である。

  涙を流すこともなく、ドラマティックな表現も見せていないマグダラのマリアを描くラ・トゥールの作品は、当時の絵画的・イコノグラフィカルな伝統からは、ある距離をおいている。心の内面の高ぶりも抑え、蝋燭の光が映し出すかぎりの光の空間、その外に広がる闇の深奥部を見つめる一人の女性の姿には、いささかも劇的な要素は感じられない。

  マグダラのマリアの悔悛を、涙を流し誇張されたた表情とジェスチャーをもって表出する代わりに、ラ・トゥールは彼女の表情や動作の感情的部分を極力減らすことで、自らの心の内面と神との交流を強調しようとしたと思われる。この画家は、パッションを描くにあたって、ドラマティックな身体的表現で大げさに示す世俗的な理解へ違和感を抱いていたのではないか。
  
    ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593ー1652)の生きた時代は、近代哲学の祖といわれる哲学者ルネ・デカルト(1596-1650)の時代でもあった。画家と哲学者というまったく異なった領域で活動した二人が、同時代人としてお互いの存在を知っていたかはまったく分からない。ラ・トゥールは現在のフランス東北部に当たるロレーヌ公国に生まれ、デカルトはフランスのトゥレーヌ州に生まれた。デカルトの生涯は、年譜的にもかなり明らかにされているが、ラ・トゥールは謎が多い。どちらか一方でも他の存在を知っていた可能性はきわめて少ない。しかし、時代は両者を包み込みながら、聖俗双方の世界において、大きく転換していた。
   
  今日、情熱、熱情などの語義で使われている「パッション」 passion は、17世紀フランスで使われていた意味とは、明らかに異なる。現代ではパッションは、主体の感情あるいは情緒の心理的状態を意味する。しばしば激しい感情的高ぶりを伴う。実は、こうした世俗化した概念には、17世紀後半まで強かった宗教的含意は無くなっている。Passion という用語は元来、苦痛、苦悩という意味のラテン語のpassioから由来している。キリストの受難が意味するキリストの死と人類への贖いのための肉体的苦難 suffering の意味であった。しかし、17世紀後半には、パッションにまつわるこうしたキリスト教的、あるいは精神的、霊的つながりは次第に浸食されていた。

   宗教改革に続く新旧教対立の流れで、17世紀前半は、カトリック宗教改革 Reforme catholique が作り出した精神的、美術的刷新の時期であったことに注目しておくべきだろう。デカルトが人間を理性的主体として位置づけ、精神がその感情を支配するとしたのに対して、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのような画家は、精神的なパッションの優位を神との契約の手段とした。他方、この時期に生まれたデカルト的解釈に基づき、肉体的行動と理性的な主体という意味でのパッションの再定義によって、パッションの精神的、霊的、聖的つながりは薄れていった。  

  最後のトリエント公会議(1563年)の後、カトリック教会側は宗教画のあり方、とりわけその「適度な平衡」の維持にきわめて神経質であった。画家の制作活動へのさまざまな介入・制約は多数指摘されている。それをいかに受け止めるかは、画家の力量、思慮、社会的名声など多くの要因が関係していた。

  マグダラのマリアは、別格の主題であり、それだけに注目度も高かった。ラ・トゥールはこうした時代の変化をどこかで深く受け止めながら、マグダラのマリアを描いたのだろう。ラ・トゥールの宗教的・精神的遍歴をたどりうる証拠は、ほとんどなにも見いだされていない。残された細く、切れた糸をつなぐような作業は、今後も続くのだろう。それにしても、パッションの原初的意義に立ち戻り、見えざる神との心の交流を描こうと試みたラ・トゥールのマグダラのマリアは、そこに含まれた精神性と神秘性という点でも、深く考えさせる内容を含んだ作品であることを改めて思う(北京五輪の喧騒が収まりつつある深夜、眠れないひと時に)。


References
* 岡田温司『マグダラのマリア』中公新書、2007年

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患者も国境を越えて

2008年08月23日 | グローバル化の断面
    グローバル化の進展は、当然ながら医療、健康の分野の人材移動にまで及んでいる。その一端はこのブログでも折に触れて、紹介、分析を加えてきた。国境を越えてインターネット上で情報の授受が可能なカルテの事務処理・解析、X線画像読影などは、すでにかなり前から大きなビジネス分野になっている。IT上での診断、手術指導なども行われている。

  そして、これも以前からかなり注目を集めてきたのは、医師、看護師、介護士など、医療・看護スタッフの開発途上国からのリクルートである。 さらに、近年顕在化してきたのは、患者自身の国際移動である。この動き、メディアは「メディカル・トゥーリズム」medical turism と称している。治療を受けるために患者が国境を越えて、他国での治療を受けることがその内容である。

  特に最近増えているのは、アメリカ人で医療保険に加入していない人(約4500万人との推定もある)あるいは保険金が低額しか期待できない人の海外治療であるようだ。他方、富裕層が海外で休暇を過ごす傍ら、美容クリニック、整形治療などを受けることも多いらしい。彼らが目指すのはシンガポール、バンコク、クアラルンプールなどのアジア、あるいはメキシコ、ハイチ、ドミニカなど、ラテン・アメリカの病院である。この頃は在外インド人などで、本国へ戻って治療を受ける者も多いという。インド国内の医療水準が顕著に向上したことも、ひとつの理由らしい。EU諸国は総じて国内の医療システムに依存しているようだが、NHS改革後も問題の多いイギリスからは、トルコ、インド、ハンガリーなどの病院で治療を求める患者の移動増加が指摘されている。 

  シンガポール、バンコクなどでの動きについては、以前にも記したが、最近注目される動きとしては、タイ、バンコクのブムルングラッド病院 Bumrungrad hospital が、6000人の外国人患者を受け入れる世界最大を誇示するアネックスを開設した。アメリカ、中東諸国などからの患者増加を期待しているようだ。

  こうした海外の病院で受ける治療の安全性、医療の質的内容などでは問題点が指摘されているが、経済的問題を抱えた当事者にとっては残された唯一の選択肢となっていることも多い。

  さまざまな形での差別化が同時進行しており、シンガポールの病院などでは、医療設備、スタッフともに世界最高水準とPRしているところもある。国際的な医療サービスの認定機関から、「お墨付き」を得て、医療につきものの治療の安全性、質的保証への不安解消に努めている。最寄り空港からの送迎サービスに始まり、高級ホテル並みの滞在サービス、そして最高の医療サービスをうたっている。最近、東南アジアに居住の場を移した友人から、現地病院で前立腺がんの治療を受けた話を聞いたが、インフォームド・コンセントの問題を含めて、医療の内容には大変満足していた。

  現在の段階では、こうしたメディカル・ツーリズムを生んでいる最大の動機は、富裕層の場合は別として、おおかたは患者として医療コストの大幅軽減が見込めることにあるようだ。医療費高騰が激しいアメリカでは、同じ治療を海外で受ければ、本国の15%程度ですむとの試算すらある。企業によっては、医療費削減のために従業員の海外での治療を支援・促進する方策を導入しているところさえ出ている。

  アメリカでは、2012年までに1千万人の患者が海外で治療を受けるために旅するのではないかと推定されている。それによって、アメリカ国内の病院収入は減少し、年間1600億ドルの減収が生じるとの推定もある。

  開発途上国で危惧されていることは、自国の希少な医療・看護スタッフが、高い報酬が保証される外国人の患者や一部富裕層対象の病院へと移動し、自国民に対する医療システムが劣化することだ。しかし、海外へ希少な医療・看護スタッフが流出することを、こうした変化が多少なりとも抑制できるならば、頭脳流出を防ぎ、国内に高い技術を維持する医療基盤が根付くことに貢献するかもしれない。実際、中南米諸国の一部では、民間病院ではあるが、医療水準の改善に伴い、海外へ流出した医療人材がUターンしてくる事例も増えているとの変化も生まれている。

  こうした一連の医療関係者、患者の国境を越える移動が、開発途上国にとって、全体として「頭脳流出」 brain drain となるのか、外国人患者増加による病院収入増などによる「ネットゲイン」 net gain となるのか、現段階では情報が不足しており、あまり明らかではない。しかし、将来を見越して、アメリカのメイヨ・クリニック、ジョンズ・ホプキンス大学などのように、中東やアジアへ拠点を築こうと動いているところもある。

  開発途上国に置かれた拠点的病院から高い技術があふれ出る「スピルオーバー」効果を生めば、地域の医療水準向上という点で長期的には望ましい結果につながることも考えられる。バンコクやシンガポールの一部の病院のように、世界最先端のIT技術を導入し、加えての医療人材コストの優位性(ある推定では、病院医療コストに占める比率でみて、アメリカの55%に対して18%くらい)で、グローバル市場での優位を誇示するところも現れている。

  医療の世界においてもグローバル化が、多様化とともに、さまざまな格差を拡大することは避けがたい。問題は人間として最低限必要な医療サービスを受けられない層をいかに救済するかということにある。 

  現状では、こうした「メディカル・ツーリズム」は、問題を抱えた国の医療システム改善に大きく寄与するとは考えられていない。医療という分野は、言語や移動に伴う問題に加えて、治療の安全性、サービスの質の保証、さらには倫理性などの点で、他の分野とはかなり異なる問題を内在しているからだ。

  しかし、こうした変化の推進者たちは、彼らの試みが競争要因を世界の医療市場へ導入することになり、システム改善への促進要因となると考えているようだ。とりわけ、これまで市場要因が最も働きにくいとされ分野のひとつとされてきた医療領域での新たな動きは、グローバルな医療の世界にかなり顕著な変化を生み出すだろう。看護師・介護士問題を除くと、日本ではあまり注目を集めていないトピックスだが、不可避的に進行するグローバル化の多面的な動向からは目を離せない。



References
'Importing competition' The Economist August 16th 2008
'Operating profit' The Economist August 16th 2008
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オランダ絵画は退屈か

2008年08月19日 | 絵のある部屋

Jean Miense Molenaer
The King Drinks (detail)
1636-37
Oil on panel
The Collection of the Prince of Lichtenstein, Vaduz



    17世紀オランダ美術、とりわけジャンル画は退屈だという感想を聞いた。確かに、最初レンブラント、ハルス
などの大家の歴史画、肖像画などを見ていた頃には、魅了されるばかりで、退屈さなどは感じなかった。しかし、その後、他の作家の風景画、静物画、風俗画などのいわゆるジャンル画の領域に入り込み、作品を見慣れてくると、次第に単調さ、平板さを感じるものが増えてきた。風景画や静物画にしても、大変精緻に描かれているようにみえるが、なんとなく訴えるものに欠け、印象が薄い作品がかなりある。

  オランダは「黄金時代」であり、制作された作品の数は桁外れに多かった。絵画の大量生産市場が生まれていた。その結果、当然ながら、かなりの凡作にも接することになり、こうした印象を強めたのかもしれないと一時は思った。しかし、1781年にオランダへ旅した著名なイギリスの画家ジョシュア・レイノルズ(初代のRAA院長も務めた)が、当時のオランダ絵画を渋々賞めながらも、「この派の作品が目指したのは、単に目だけのためだ」として、「退屈なエンターテイメント」barren entertainment *と評したことを知って、自分の印象もあながち的はずれではないのかと思った


  
あの人気度抜群のフェルメールについてさえ、そうである。テュイリエの辛辣きわまりない批評もある。簡単に言ってしまえば、美しい光の中にあるがままに描かれているが、ただそれだけではないかということである。フェルメールの作品は確かに美しい。使われている色数が多く、総じて華やかで、精緻に描き込まれている。しかし、それから先へ進まないのだ。描かれた情景に接した時に、一瞬の美しさを感じることはできるのだが、そこでとどまってしまう。別にこちらが、作品に哲学・教訓や深遠な含意を求めているわけではないのだが。

  ピーテル・ヤンス・サーエンレダムに代表される教会画にしても、まさに設計図のような美しい線で描かれている。しかし、画家はそれによって、なにを訴えようとしたのか。しばらく考えていたことがあった。

  17世紀オランダの精神世界を支配したのは、なんといってもカルヴィニストの影響だった。カルヴィン個人の美術に関する具体的考えは、必ずしも明らかではないが、改革教会を通してのカルヴィニズムが、時代の風土形成に与えたものがきわめて大きかったことは改めていうまでもない。この時期のオランダ美術の環境条件を形作ったと考えられる。カルヴィニズムが偶像や人物画を崇拝の対象とすることを禁じたこともあって、宗教画が描きにくくなったのもひとつの結果だろう。静物や風景、世俗の情景を描くジャンル画といわれる領域が生まれた一因でもある

  この時期のオランダ絵画の特徴をなんと表現すべきなのか、美術史家ではないので分からない。しかし、興味にまかせて、いくつかの文献を見ていると、この問題の解釈はかなり複雑であることも分かってきた。絵画を評価するメンタリティ自体が17世紀とその後ではかなり異なっていた。
17世紀には、時代特有のさまざまなシンボルや暗喩・隠喩などが含まれていたことも事実だろう。

  ただ、17世紀のほぼ3分の2近い時期を通して、オランダ・ジャンル絵画の大きな特徴は、自然主義 naturalism とされてきたが、それは必ずしも好意的な評価ではなかったようだ。

  「自然主義」 naturalism という概念は、1672年に理論家ベローニ Belloni によって、カラヴァッジョおよびその追随者カラヴァジェスティに与えられた、対象の美醜にかかわらず、ディテールにこだわった作風を指してのコメントであった。しかし、この概念が、美術批評において重要な意味を持ち出したのは、19世紀になってからだ。

  時代の経過とともに、「自然主義」という概念の精緻化も図られた。科学的正確さをもって、外部世界を描くということがその真髄となった。エミール・ゾラの思想などが影響したのだろう。文学における’自然主義’は科学的な正確さとほぼ同義と考えられた。人間行動の原因と結果を支配するものを、科学的に示すことが意図された。

   しかし、それだけにとどまらない。「自然主義」は、「リアリズム」の緩やかな定義に近いものとなった。19世紀になると、「自然主義」あるいは「自然主義的」という概念は、時代を超えて、あるがままに描く作風について使われた。クールベなどがその例とされている。しかし、一見するとあるがままに描かれているかに見えても、画題の選定の過程における価値判断がかかわる。

  こんなことを考えながら、10年ほど前から、それまでやや遠ざかっていたオランダ・ジャンル画を見る機会があるごとに、なるべく既成観念から離れてみようと思った。
オランダ社会や歴史についての理解が多少深まったこともあって、単調さを感じていた作品にも新たな面白さも見えてきた。作品評価は、見る側のあり方で大きく変わるものだということを実感している。17世紀北方絵画の世界は、かなり面白く見られるようになってきた。
  

* Quoted in Sverlana Alpers, The Art of Describing: Dutch Art in the Seventeenth Century (University of chicago Press, 1981), pp. xvii-xviii.

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様々な王義之

2008年08月17日 | 午後のティールーム

黄庭堅 草書諸上座帖巻  


    かねてから評判の「北京故宮 書の名宝展」(江戸東京博物館)を見る。例のごとく「史上空前の傑作書が来る!」、「王義之蘭亭序、日本初公開」など、コピーはかなり大げさだが、暑さしのぎに行ってみることにした。お盆休みのせいか、予想したほどの混雑ではなかった。この企画展の売り物は、触れ込み通り、「書聖」王義之の行書〈蘭亭序〉だ。といっても、本物は晋の時代に制作されたが、唐の第2代皇帝・太宗李世民が溺愛し、遺言によって昭陵に副葬されてしまった。そのため、今日、見られるのは伝わっているさまざまな複製、模本である。

  2年前に開催された『書の至宝 日本と中国』(東京国立博物館、2006年1月11日ー2月19日)でも、王義之の〈蘭亭序〉の模本を見たことがあった。この時は、日本にある双鉤塡墨という技法による模本の名品3点が展示されて、注目を集めた。王義之が酒宴を開いたという蘭亭には、10年ほど前、浙江省紹興に行った時に案内してもらった。しかし、魯迅の小説「孔乙巳」の舞台となった「咸亨酒店」は、昼食をとった記憶とともに、食事の内容までよく覚えているが、こちらは石碑を見た程度で記憶があまり鮮明ではない。味覚の支援がないと、記憶も薄い?

  伝えるところによると、唐の時代から1000年以上後の18世紀後半、清の乾隆帝の下には、唐太宗の宮廷で制作されたと信じられる〈蘭亭序〉のコピーが少なくも3種類あったという。

  それらは初唐三大家のひとり虞世南が写した(臨本?)といわれる「八柱第一本」、同じく褚遂良による「八柱第二本」、そして名工・馮承素による「八柱第三本」であり、今回、来日展示されているのは、この「八柱第三本」である。これらのそれぞれに興味深い来歴、故事がつきまとい、興味深い。中国書史における王義之への熱狂的な人気ぶりがうかがえて興味深い。

  これらの模本のいずれについても、明代の所蔵家がそう鑑定しただけで根拠があるわけではないようだ。しかし、これまでの来歴によると、唐代まで遡る優れた模本であるようだ。本文自体はこれまでの書道の教本でおなじみなのだが、模本とはいえ優れた名品を見るのはそれなりに楽しみだ。台北の故宮博物院の方はこれまでに何度か訪れているのだが、北京は度々訪れながら故宮博物院は一度しか見ていない。しかも、この作品は初見である。

  単なる素人の印象であり、作品について評価する能力などはないが、王義之の書は自由闊達、奔放なところもあり、見て楽しい。〈蘭亭序〉においても、加筆した文字などもそのままに残され、大変興味深い。カタログには逐語訳はついていないので、類推するしかないが、漢字圏のおかげで、なんとか推測はつく。唐代には〈蘭亭序〉は多数の臨書も行われたようで、おそらく馮承素などは全文暗記していたのだろう。いずれにせよ、臨書の手本はあったはずだ。

  こうした名品となると、歴代所蔵者の印が多数押印されている。乾隆帝などの印などを含め、所狭しとばかりに立派な印が押されているのも面白い。最初は作品をスポイルしてしまうのではないかと、異様な感じもしたが、見慣れてくると、墨の黒色と印の朱色の対比の美しさも感じられるようになった。

  王義之の〈蘭亭序〉は、実際どれだけ模本、拓本が作成されたかわからないほど人気があったようだ。今回の企画展には、清の時代に制作された自由なアレンジによる〈蘭亭序〉(八大山人 〈行書抄録蘭亭序軸〉)なども出品され、好き嫌いは別として面白い試みに思えた。絵画の世界で、模写の段階から、原作から発想を得て新たな創作が行われる過程に似ている。

  明の初代、洪武帝が手ずから書いた勅書〈草書総兵帖、朱元璋〉なども半紙一枚程度の短いものだが、当時の戦線の指示書などはこうしたものだったのかと思わせる興味深いものだった。

  この企画展では、こうした作品を中心に、唐、宋、元時代の名品、さらに明、清時代の書も含めて、中国の書の流れを一通り見ることができるようになっている。出展品の数などから決してバランスのとれた企画展というわけではないが、夏のひと時を楽しむことができた。

  連日、メディアを賑わしている北京五輪の方は、開会式も人目を驚かす大仕掛けのデジタル花火演出、事大主義的なマスゲーム、仮装の多民族融和など、中国政府が国力と威信をかけた行事ということは伝わってきたが、壮大な乱費という感じで見るからに暑苦しい。参加している選手たちの真摯な演技だけが救いだ。省資源、エネルギーがこれだけ問題化している時代、静かな企画展の方が、はるかに中国文化の精髄が伝わってくる。



References
 『北京故宮 書の名宝展』(江戸東京博物館、2008年7月15日ー9月15日)
『書の至宝 日本と中国』(東京国立博物館、2006年1月11日ー2月19日)
余雪曼編『蘭亭叙』二玄社(新装版、2003年)

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消える現実・消えない記憶

2008年08月14日 | 雑記帳の欄外

  世界は広いようで狭く、驚かされることが度々ある。それを思い知らされるのが、最近のIT技術の進歩だ。ラ・トゥール遍歴を始めた時に、最初にロレーヌの旅の拠点としたのは、ドイツのザールブリュッケンであった。フランス国境に近く、フランス語ではサールブリュックと呼ばれている。アメリカでの修業時代から終世の友人となったK夫妻が、アメリカから帰国後住んでいた。ベルリンでの仕事を離れたこの友人は、ザールブリュッケン大学で教壇に立っていた。訪れると、ほとんどは自宅に泊めてくれたのだが、当時は夫妻に子供が生まれたばかりだったので、ホテルの方が静かで休めるだろうと、最初は市内のホテルを予約してくれた。

  先日、身辺の整理をしていた時に、当時の旅の宿泊カードが出てきた。時代は遠く1970年代のことである。しかし、不思議なことに記憶は新鮮に残っていた。ザールブリュッケンはまだドイツ経済を支える重要な工業・鉱業都市として、活気が残っていた。サールランドの中心地として、鉄鋼と石炭が主要な産業だったが、周辺には機械や陶磁器などさまざまな産業があった。しかし、その後、鉄鋼、石炭ともに衰退の途を辿った。

  当時宿泊したこの小さな家族的なホテル(Hotel am Staden, 66 Saarbrűcken, am Staden 18)はその後も宿泊したことがあり、雰囲気も良く覚えていた。このホテルのその後を知りたいと思い立ったひとつの契機があった。ブログでたまたま私のラトゥール遍歴記事を読んでくださった日本人の主婦の方が、ロレーヌのメッスに住んでおられることを知った。それだけでも驚くことなのだが、大変楽しいブログを開設されており、コメントをくださった。ロレーヌに関心を持ち、ほとんど知られていない小さな町や村を探索している日本人がいることに驚かれたらしい。そして、最近、ザールブリュッケンを訪れた記事を書かれていた。

    地理に詳しい方は思い浮かべることができようが、フランス側のメッスと、ドイツ側のザールブリュッケンは指呼の距離である。ザールブリュッケンは、かつてパリ滞在当時に何度も通った懐かしい場所であり、市内の地理もよく覚えている。メッスはラ・トゥール遍歴の最初の方で記したこともあるが、モーゼル川とセイユ川の合流点に位置しており、17世紀初めは、ラ・トゥールの生まれたヴィック=シュル=セイユにも大変近い所に位置している。ヴィックはメッス司教区のいわば飛び地領だった。


ザールブリュッケン、ホテル宿泊カード

  IT技術の進歩によって、Google の地図検索で、ホテルの場所から周辺の光景まで最新のイメージを確認することができる。一寸怖いくらいである。まだ存在すると思っていたホテルだが、残念ながらもう営業していないようだ。しかし、周辺の風景はほとんど変わっていない。ザール川にかかる古い石橋もなつかしい。

  ついでのことと思い、先日記事に書いたパリの凱旋門に近いバルザック通りのホテル・セルティックも検索してみた。便利な場所だったので、こちらも一時期定宿にしていた中規模な4星ホテルであった。名前から推定されるように経営者に、アイルランドの人が関わっていたのだろうか。白い壁と窓枠などが緑色の縁取りが印象的な清潔なホテルだった。こちらも検索すると、ホテルは別の名称になっているようだ。最近は、パリへ行ってもサンジェルマン近辺のホテルに宿泊するようになっており、エトワール周辺はあまり訪れなくなっていた。その間に変わってしまったのだろう。

  これまで宿泊し、なじみのあるホテルをいくつか検索してみると、多くは現存しているが、名前の変わっているものも少なくなく、ホテル業界の変化、とりわけチェーン化の進行が著しいことが感じられた。

  普通、現実は歴然として存在しているにもかかわらず、記憶の方が次第に薄れるのだが。今度は、記憶はかなり鮮明に残っているのに、現実が大きく変わってしまっている。なにごとも栄枯盛衰は避けがたいのだが、こうなると浦島太郎のような感じになる。誰も知らなくなる事実を多少なりとも留めるために、記憶細胞が生きている間に、少しでも書いてみようと思っている。

  


 

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移民市場の潮流変化?

2008年08月12日 | 移民の情景

  
  世界の移民の数や人口に占める比率は、長い時間のパースペクティブで見てみると、着実に増加している。かつて「人口爆発」といわれたほどの増加率ではなくなったが、現在67億人近い世界の人口は、国連推計では2050年に向けて87億人近くまで増加を続けると推定されている。この地球はさらに混み合ってくる。島国であることに加えて人口減少が急激に進む日本に住んでいると実感がないかもしれないが、人はさらにひしめき合って、この地球に生きることになる。とりわけ開発途上国の人口増加は、環境汚染や食料危機をさらに悪化させる原因のひとつになっている。そうした「悲惨な時代」に、幸い自分は確実に存在していないことが分かっているのだが、やはり気になる。

  世界の人口に占める移民の比率も、国際的な統計が次第に整備され、ほぼ時系列で追跡できるようになった。世界の人口全体の中では3%強とさほど大きくないかに感じられるかもしれないが、移民は特定の地域に偏在するので、非常に大きなインパクトを感じる地域も多い。長期的に比率は上昇傾向を辿っている。

  他方、短期の視野で見ると、国境を越える移民・外国人労働者の動きにはかなり大きな波動のような変動がみられる。いま、世界の移民の潮流はひとつの転換期にあるという指摘がなされている。要するに、これまで増加してきた移民の流れが落ち着き、反転減少の動きを見せているという*。大分眉唾ものだと思っているが、移民労働のウオッチャーとしては、見逃せない点だ。

  移民の需要と供給の双方について、いくつかの点が指摘されているので、見てみよう:

(1) メキシコなどラテン・アメリカ諸国から、アメリカへの移民の数が減少している。
  これについては十分信頼できる統計はないが、いくつかの観察結果から、そうではないかと推察されている。ひとつには、このところ3年続けて、アメリカ・メキシコ国境周辺での不法移民の拘束数が減っていることだ。2000年には年間164万人の拘束者があったが、その後大幅に減少、2002年かから再び増加を見せたが、最近ではおよそ半減に近いという。また、移民の母国であるラテン・アメリカ諸国への外貨送金は、2007年には240億ドルと観光収入を上回っていた。しかし、2008年については減少しているようだ。

  このように、流入移民数と外貨送金の二つが減っている要因としては:
  
  
第一に、 アメリカ国内での移民、とりわけ不法移民に対する反感が高まったことが挙げられている。これについては、9.11以降の反テロリズム基調が続いていること、州レベルでの入国書類不保持者を雇用することへの規制強化、州や郡などのレベルで強化されてきた移民取締り、不法入国者についての情報を入手する科学的探索・発見などの技術的向上などがあげられている。
  
  こうした中で、アメリカの国土安全保障省は、新年度の不法入国者(テロ対策も含む)対策予算として120億ドルを計上した。これには、国境パトロールの強化、物理的障壁の設置などが含まれている。南のボーダーは確かに物理的障壁は高くなる。

  第二に、アメリカ経済の停滞の影響が指摘されている。2007年以来、経済が停滞し、新規雇用も減少している。そのため、アメリカ国内の移民労働者の雇用機会が減少し、その情報がメキシコなどへ伝わっている。こうした情報の伝達速度は、IT時代の今日ではきわめて速い。

(2)EUにおいても移民数の流入が減少している。
  EUの統一的移民政策Frontexの責任者は、政策効果が上がって証拠として、北アフリカからの不法入国者を例年の倍近く送り戻したと報告している。イギリスなどでも、移民流入数は減っている。しかし、これについては、テロ対策などもあって事業所などへの臨検が拡大している影響もある。フランス、イタリアなどでも同様な動きが見られる。ブログで指摘したロマ人問題もそのひとつだ。

  ヨーロッパでは東欧諸国などからイギリス、ドイツなど西を目指す移民の流れは、一時は専門家の予想を上回った。しかし、当初の高い水準が継続するわけではない。流れの逆転も起こりつつある。ポーランドからイギリス、ドイツなどへ出稼ぎに行った労働者からの外貨送金は当初増えた。しかし、バルティック諸国の経済が活況を呈するようになって賃金も上昇し、ポーランド国内の建設労働者などの賃金も上昇し、労働力不足の事態も生まれるようになった。その結果、帰国者の数も増加しているという。これも、事実として確認されているとみてよいだろう。
  
  結果として、ヨーロッパでも、移民への需要も供給も減っているという推測である。しかし、これはアメリカ、ヨーロッパに見られている変化であり、世界の他の地域、中東諸国、オーストラリア、アフリカ、アジアの一部などでは、移民・外国人労働者の数は依然増え続けている。さらに、テロ対策その他で受入国の規制が強化されて流入が減少しているとしても、その背後にある流入圧力も軽減しているとは言い切れない。

  アメリカの移民政策が連邦法レヴェルでは、新大統領が決定するまで、事実上機能不全状態にあること、オバマ、マッケインいずれの大統領になろうとも、ヒスパニック系票田確保にこれまで以上に傾斜を強めざるをえないこと、物理的障壁強化の実効性に疑問が持たれていることなど、多くの要因が不安定な状態にあることが、現在の小康状態を生んでいると見るべきではないか。

  EUについても、加盟国拡大に伴い基軸国と新加盟国との人的交流は拡大しており、人的移動性が減少することは考えにくい。焦点は加盟国拡大によって前線が東へ移行しており、新たな国境問題も外延部へとシフトしていることだ。

  これらの点を総合してみると、それほど簡単に移民の流れが減少の方に方向転換する兆しが見えているとは断定できない。母国が次第に競争力を身につけ、経済水準がある一定レベルに達すると、海外出稼ぎへのインセンティブは次第に低下し、送り出し数は漸減する傾向はこれまでも観察された。ポーランドやルーマニアなどでそうした動きが見られることは望ましいことだ。雇用の機会が自国内にあり、家族などと離れることなく過ごせることは、いかなる国にとっても望ましい。

  ヨーロッパやアメリカへ移民しようと考える所得の閾値は、年収6000ー7000ドル(Kathleen Newland、Migration Policy Institute) くらいという推定もある。しかし、この判定ラインも経済発展とともにかなりシフトすると見るべきだろう。

  総体として自国内に仕事の機会が得られるようになることは、その国にとって望ましいことだ。しかし、自国経済が十分な雇用機会を提供しえない最貧国にとっては、先進国の壁が高くなり、移民の機会が減少することは影響が大きいと見られている。 World Bankの推定では、1兆ドルが2007年には貧しい国へ流れたが、2009年には8000億ドルくらいに減少するだろうとの推定だ。外貨送金の減少が、原油や食料品の高騰と重なると打撃が大きい。そうなると、国内経済の不振で雇用機会がなく、急迫した海外出稼ぎへの圧力も高まる可能性も残されている。

  地域を個別的に見ると、さほど楽観はできない。最大の問題地域は中国だ。国内労働移動の問題になるが、北京などから強制的に送り戻されている農民工たちは、五輪後どうするのだろうか。インフレ圧力の高進の下、十分な雇用機会を確保することは難しくなっている。

  中国政府は、北京五輪という国民的目標が達成された後の空白に不安を抱いているという。すべてを五輪の成功のためにと、牽引してきた緊張が途切れる瞬間だ。メディアは五輪の成功に中国13億人が燃えていると形容しているが、燃えていない人の方がはるかに多いのではないか。五輪の火が消えた後の闇の暗さは大きな不安要因だ。

  ヨーロッパでは自国民の人手が足りなくなっている高齢者の介護などの仕事は、次第に遠方の国から受け入れないとまかなえなくなる。たとえば、イギリスの場合、遠く、スリランカ、フィリピンなどのアジア諸国に依存する動きがある。高齢化はアジアでも明らかに拡大し、人手不足をおぎなうために、台湾、そして日本でも外国人を「家事手伝い」として雇い入れる動きが静かに浸透している。
  

  OECDの推計によると、2000年頃の時点で、OECD諸国に占める外国生まれの人口比率は平均7.5%とされている。15歳以上の人口については、およそ9%とされる。比率が高い国はルクセンブルグ(32.6%)、オーストラリア(23%)、スイス(22.6%)などだ。他方、韓国、メキシコなどは1%以下である。日本もかろうじて1%を上回る程度である。

  世界全体の移民の絶対数、人口に占める比率には大きな変化はなく、着実に増加している。今日の2億人の移民ストックは2-30年すれば、3億近くになるのは間違いない。アメリカ、EUなどに見られる一見、移民の流れが弱まっているかに見える動きは、かなり多くの要因が重なったものであり、世界の移民の流れが需給共に減少、反転に向かっているとは即断できない。大きな潮流、小さな流れの双方について、絶えずウオッチを続ける必要は依然として残っている。


Reference
"A turning tide?" The Economist June 28th 2008

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酷暑を避けてのサイクリング

2008年08月10日 | 雑記帳の欄外

  酷暑の日が続く週末の夕方、運動不足の解消にと自転車に乗る。日中は30度を越えて、とても日向にはいられないほどの暑さ。日かかげり、日没間もない頃、できるだけ深い緑がある地区を選んで走る。幸い、50キロ四方くらいの地域に、いくつかの大学キャンパスや大公園が散在している。その中から、1,2を目標にコース設定をする。といっても大げさなものではなく、その日の気分や体調に応じて、適当な候補地を選ぶ。一回に走る距離はせいぜい15キロから20キロだ。

  止まっていると淀んで暑苦しい空気が、ほどよい爽やかさに変わる。大学周辺は休暇に入り、人通りが少ない。普段はマナー無視の車やバイクが多いので、敬遠しているところもある。グラウンドにはさまざまなスポーツを試みている若者たちの姿が見える。中高年の市民がストレッチやジョギングなど、思い思いにエクササイズをしている。サッカーのプライベート・クラブもある。土日などは子供たちの練習試合もあり、多数の親たちがピクニック気分で練習風景を見ている。歓声が響き、楽しげな光景だ。しばし、自転車を降りてその様子を眺める。

  乗っている自転車といっても、「NHKTVドイツ語講座」に出てくる自転車屋さんのような格好良い車ではない。いわゆる「ままチャリ」といわれるシティ・バイクに、安全装置だけ過剰につけた変な車だ。バックミラー、光量調整がワンタッチでできるヘッドライト、車輪で駆動するバッテリーライト、点滅する大きなテールランプ、速度、累積距離などが測れるサイクル・コンピューターまでついている。変速ギアは3段しかない。今日、累積距離をみたら1200キロを越えていた。サイクル・コンピューターをつけてから2年くらいだが、思いの外走っていた。

  ガソリン価格の高騰が始まってから、顕著に変わった光景は、新しい自転車が急速に増えたことだ。クロスバイク、マウンテンバイクなど、見栄えのする車が多い。多段の変速装置やバッテリー駆動装置までついている車も増えた。外国ブランドの車が非常に増えたことに気づく。通勤・通学手段を自転車に変えた人も多いようだ。町に1軒しかない自転車屋さんは見違えるように忙しそうだ。省エネルギー型生活への転換が、ここでは着実に進行していることを実感する。

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「師」は「士」より上?

2008年08月07日 | 雑記帳の欄外

  
    今月からインドネシアの看護師・介護福祉士の受け入れが始まった。これも、実態が当初の予想とはかなり異なっている上に、受け入れの制度自体も不透明さが解消されないままであり、多くの不安要因がある。第一陣はすでに日本へ到着した。しばらく注視するしかない。
 
  それはともかく、男性の看護師が増えてきたこともあって、看護婦の名称は中立的な「看護師」と改められた。看護士は看護婦に相当する男性とされているようだ。縁あって、看護学校の入学式や戴帽式に出席する機会があった。最近では1~2割は、男性の入学者である。もっとも入学式などでは、「女性の園」での黒何点?、なんとなく居場所が見つからないようでほほえましい光景もあるが、すぐに慣れるのだろう。病院などでは、患者の移送や機械器具の操作など、力仕事も必要な場合も多いから頼もしい感じがする。

   しかし、「介護福祉士」は、介護福祉師ではない。なぜ、医療・看護・介護の分野に従事する人たちの職名が「師」であったり「士」であったりするのか。「看護師」が男女共通に「看護士」であってはならない理由も、あまり説得的ではない。「介護福祉士」は、現に男女の別なく使われている。「美容師」、「弁護士」など、古くから使われている呼称もある。


  ある時、厚生労働省関係の人から、「看護師」の方が「介護福祉士」より要求される技能水準が上であり、それを区別する必要があるとの説明を受け、大変違和感を持ったことがある。看護であれ、介護であれ、人と接触・対応する仕事は、専門的知識・技能に加えて、表情や言葉の断片から心身の状態を推察したり、要望に対応したり、高度な経験を必要とすることが多い。職業に最初から順位を前提としない方がよいと思うのだが。お役人の思考は違うようだ。もっとも「公僕」civil servants などという言葉は、とっくに死語になっているのだから無理もないが。

  たまたま看護師となった男性のA君から、「ナース」と呼ばれるのは内心、抵抗感があるという話しを聞かされた。ナースの○○君と呼ばれると、一寸たじろぐことがあるという。男性看護師の誰もがそう感じているかどうかは分からない。英語のnurse は普通は女性を指すが、男性も含むことにはなっている。nurse は長らく女性の職業とされ、男性は看護兵など、かなり限定されていた名残である。  

  スチュワーデスが、フライト・アテンダントやキャビン・アテンダントになったのはさほど抵抗なく、受け入れられてきたようだ。しかし、「ナース」の場合は、外国ではどうなのだろうか。日本社会では、人によって思い浮かべるイメージも異なり、しばらく特別の感覚がつきまとうのだろうと思う。A君には男性優位の職業では、女性が同様に抵抗感を感じるはずだよと言ってはおいたが。

  別の例として、以前に教えた学生(女性)が会社員から「大工」さんに転身したいという相談を受けて、一寸驚いたことがあった。「大工」と聞くと、どうも「男の職業」という先入観が強かった。しかし、話を聞いてみると、しっかりとした職業展望を持っていて、一般事務職よりも技能が身に付き一生続けられる大工の仕事に挑戦したいという。一般に「男性の職業」は賃金水準などが高いことが多く、そこに女性が参入すると、しばしば有利なことも分かっている。女性らしい(というと語弊があるかもしれないが)丁寧な仕事、気遣いなどを生かせば、素晴らしい大工さんになるだろう。諸手を挙げて賛成した。今頃は職業訓練校を卒業し、いなせな大工さんとして、きっと活躍していることだろう。

  「格差社会」という言葉が流行語となり、労働者間の報酬などの差異拡大が問題になっている。世の中の差別現象は、法律などの手段ではなかなか解消できない。職業に貴賎なし。職名ひとつにも大事な意味があることをもう一度考えたい。



辞書的な定義によると、「看護師」は厚生労働大臣の認可を受け、傷病者などの療養上の世話または診療の補助をすることを業とする者。高校卒業後、4年制大学のほか、3年制の短大、看護学校等の養成機関を経て、国家試験に合格すると資格が与えられる。看護婦は女性の看護師。

「社会福祉士」は社会福祉専門職のひとつ。日常生活に支障がある人に入浴、排泄、食事その他の介護、指導を行う。1987年制定の「社会福祉士及び介護福祉士法」による資格。
(新村出編『広辞苑』第6版、岩波書店、2007年)

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富豪は幸せなのか

2008年08月03日 | 回想のアメリカ


  前回から読んでいただくと、なにやらアメリカ史の一齣の解説みたいになってしまうのだが、多少の個人的感慨もあってメモ風になってしまった。まだ感受性の豊かだった?20代に、アメリカの歴史的大争議の膨大な記録に接し、強い衝撃を受けた。今では想像もつかないほど懸命にメモもとった。そして、一方の立役者が、フリックやカーネギーであったことは、その後「フリック・コレクション」や「カーネギーホール」を訪れた時に、単なる富豪の遺産という存在を超えて迫ってくるものを感じた。

    「フリック・コレクション」の優雅な雰囲気に浸っていると、ともすれば展示された美術品の素晴らしさに圧倒されて終わる。そして、メトロポリタンのような美術館でも購入できなかったような名品を、いとも容易にわがものにしていた富豪たちのすさまじくも、どん欲な富への欲求があったことを忘れてしまう。実は、その結果として、今日この壮大なコレクションが目の前にあるのだ。絵画がパトロンの庇護と助成の下に制作されていた時代から、富豪の所蔵品へ、そして公共の場へと移り変わってきた歴史を考えることになる。

仲たがいしたカーネギーとフリック
  閑話休題。両雄並び立たず、ホームステッド争議の後、さまざまなことから、カーネギーとフリックの関係も急速に悪化し、結局フリック50歳の時に二人は袂を分かつ。1899年、カーネギー製鋼所の会長はチャールズ・シュワッブとなった。

  カーネギーは大富豪でありながらも、その富の社会還元にはフリックよりもリベラルであったように思われる。貧しいスコットランド移民から巨富を成したカーネギーは、特に移民をアメリカ社会へ同化させる手段としての英語教育に多大な力を注いだ。著書『富の福音』では、富める者の社会的責任を論じている。しかし、労働者に対する考えではあまり大きな差異を感じられない。

  ホームステッド争議についても、カーネギーに対する社会的指弾もさまざまにあった。カーネギーが直接対処していたら別の結果となったろうか。当時の数々の争議を見る限り、大きな違いは生まれなかったように思える。カーネギーも当時勃興しつつあった労働組合を敵視し、非組合員を一律低賃金で雇用しただろう。当時の著名な産業資本家ヘンリー・フリック、アンドリュー・カーネギー、ジョン・D・ロックフェラー、ジェームズ・ヒル、ジョージ・プルマンなど、いずれも今日の倫理基準からすれば、粗野でしばしば非人道的な資本家たちであった。「泥棒貴族」と呼ばれた仲間だ。ただ、100年近い年月を経て、彼らを見ると「金ピカ時代」といわれた時代に吹いていた風のようなもの、そしてそれを受け止めていたそれぞれの人間の微妙な違いが感じられて興味深い。


Andrew Carnegie(1835-1919)   

  ホームステッド争議の激動を経験して、フリックは心身ともに傷ついたことは間違いないのだが、その事業欲、蓄財への執念はまったく衰えなかったようだ。自ら実際の経営の第一線に携わることをせず、多数の会社の役員を兼任し、株式投資などによる事業拡大を図り、さらに巨額の富を築く。その規模がいかなるものであったか、想像を絶するが、今に残る遺産の数々を見ることで、そのすさまじさを知ることはできる。      
  
  フリックは、事業で得た有り余る富を当時の富豪たちの流行でもあった美術品収集へと注ぎ込んでいった。その対象も広く、13世紀から19世紀のヨーロッパの絵画、彫刻、絨毯、家具、陶磁器まで及んでいる。訪れてみれば一目瞭然だが、日本で人気のフェルメール作品3点は、コレクション全体の中ではほんの一部にすぎない。フリックの買い求めた所蔵品の中には、かなり「がらくた」もあったようだ。フリック自身が美術品鑑識の素養があったとは到底思えない。収集を始めたのも40代半ば頃からであった。大邸宅や美術品が富豪の位を決める基準になっていたから、高値で買ってくれる富豪は画商にとって、願ってもない顧客だった。フリックの指南役となったのは、あの画商デュヴィーンJoseph Duveen とフライ Roger Fryであったようだ。彼らはフリックの意図と資金力を確かめつつ、ヨーロッパとアメリカの間で、美術品の仲介を行った。     

  世間からは冷酷・非情な資本家経営者の権化のように見られていたフリックだが、私生活は恵まれなかった。1891年、92年には幼い長女と次男を相次いで失った。ペンシルヴァニア州クレイトンに、広大な私邸を持ち、家族と暮らしていたが、1892年にはニューヨークへ転居し、1914年フィフス・アヴェニューに面した豪邸を収集品で飾り立てていた。彼の死後、父親の遺志を継いだ娘のヘレンが、1935年に美術館として一般公開するようになった。これが、現在の「フリック・コレクション」The Frick Collection である。クレイトンの私宅は、今日では、Frick Art & Historical Center として一般公開されている。双方訪れたが、その規模と豪華さに驚かされた。その源泉は過酷な労働者の労働以外にないことを知っていたからだ。

平穏ではなかった心の内
  一時期は共同経営者としてカーネギー鉄鋼の経営に当たっていたアンドリュー・カーネギーとの関係も、争議の後は極度に悪化していたらしい。その事実を客観的に知ることは今となってはかなり困難なのだが、伝えられる逸話から類推するしかない。晩年、カーネギーはかつての盟友フリックとの和解を求めたらしいが、フリックは「地獄で会おう、二人ともそこに行くのだから」"I will see him in hell, where we are going." と答えたといわれる。この言葉、しばしば引用されるのだが、二人の富豪の歩んだ人生を見る限り、きわめて意味深長なものがある。物質的にはなにひとつ不足のなかったはずの彼らの人生、しかし、その心の中は外から見るほどに恵まれてはいなかったのかもしれない。ちなみに、年齢はカーネギーの方が14歳ほど年長だったが、没年は1919年と同じだった。

  アメリカのフィランソロピーの潮流には、富める者の罪の意識があるのではないかと指摘する者もあるが、この時代の富豪経営者の心の深層に流れていたものがいかなるものだったか、十分解き明かすことはできない。しかし、残された断片は現代のわれわれにさまざまなことを考えさせる。

  マンハッタンの真ん中、セントラル・パークに面し、これ以上はないと思われるフリック・コレクションの豪華な環境の中で、フラ・フィリッポ・リッピなどのイタリア美術品の数々、レンブラント、ベラスケス、ターナー、エル・グレコ、ティツィアーノ、フラゴナールなどを見た後、外に出て5番街のざわめきへ戻ると、あの製鉄所を囲んだ労働者の叫び声や銃撃の音が遠くに聞こえるような気がした。


Reference

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巨富を築いたフリック

2008年08月01日 | 回想のアメリカ

  日本人にフェルメール好きが多いことは、改めていうまでもない。個人的には、最近の相次ぐ客寄せ「フェルメール展」に食傷気味である。高額の貸出料が見込める海外所蔵家やディーラーは、ほくほくだろう。何しろ、日本にはフェルメールは1枚もないのだから。17世紀美術には、他に多数の名品があるのにと思わないでもない。

  それはともかく、フェルメール作品を収集した人物については、ほとんど知られていない。フェルメールの作品は、今日ではヨーロッパとアメリカにほぼ二分したように分布し、所蔵されている。その中で、ニューヨークにある8点のうち、「兵士と笑う女」、「女と召使」、「稽古の中断」など3点は、「フリック・コレクション」が所蔵している。しかし、このコレクションの所蔵する作品はすべて、その収集家であったヘンリー・クレイ・フリック Henry Clay Frick(1849-1919)の遺言によって、館外に貸し出しが禁止されている。

  したがって、フェルメール・フリークは全作品を見たいと思ったら、どうしてもニューヨークへ行き、この「フリック・コレクション」(旧フリック邸を美術館に改装)を訪れねばならない。フェルメールは関心はあるが、とりたててフリークではないので、全点を真作で見たいとも思わない。幸い実際には、ほとんどの作品を各地で見ることが出来た。

     フェルメール・フリークではないこともあって、例の野口英世がニューヨーク時代に、フリック邸でフェルメール作品を見たかもしれないといった仮説は、それ自体なにも知的好奇心を引き起こさない。

  それよりもはるかに知りたいのは、当時メトロポリタンのような一流美術館でも到底手が届かなかったような豪華絢爛たる美術品を、次々と買いあさった実業家ヘンリー・フリックは、いかなる人物であり、どれだけ美術品の鑑識眼があったのか、なんのために収集したのかという方がはるかに知りたいことだ。一般の旅行者などは、「フリック・コレクション」の豪華、華麗な豪邸のたたずまいと作品に圧倒されて、その背後にあった事実などを考えることは少ない。日本でも、フリックは「鉄鋼業で巨富を成し、それを美術品収集に注ぎ込んだ」程度しか、紹介されていないが、それだけでいいのかと思ってしまうことがある。
 
  少し長くなってしまうのを覚悟の上で、その理由を記しておこう。折りしも、新日鉄八幡製鉄所のコークス工場の火災が報じられているが、フリックは最初コークス業で名を成したのだった。

辣腕経営者としての生い立ち
  実は私が最初にヘンリー・フリックの名を知ったのは、前回記したように、この華麗なコレクションの創始者としてのフリックではなく、アメリカ労働運動史上、稀にみる暴力的な争議として知られる1892年のホームステッド争議(Homestead strike)を指揮した経営者としてであった。


  当時、フリックは後にUSスティールの前身となったカーネギー鉄鋼の会長兼工場長として、経営の責任を負っていた。ちなみに、この争議はアメリカ史上、きわめて著名な出来事であり、今でも多くの人が学んで知っているはずだ。日本だったら、戦後の三井三池争議などに相当するような、経営・労働史上で大きな転換点を画した争議であった。実業家としては、大成功をとげ、死後のことにはなるが、フィランソロピストとして膨大な私財の多くを美術館などの形で、社会へ公開したこの人物については、なかなか頭の中で同一人物としてイメージがつながらなかった。

  フリックの生い立ちはかなり波乱に富んでいた。父親はスイスからの移民で、ヘンリーはペンシルヴァニアで生まれたが、父親の醸造所が破産し、大学も1年で辞め、不安定な仕事を転々としていた。フリックは、仕事熱心で、商機を見る才能などがあったのだろう。その仕事ぶりの熱心さなどを評価し、仕事を斡旋し、取り立てた人もいたようだ。

  いくつかの仕事の後に、いとこや友人とピッツバーグで、1871年に小さなコークス会社を始め、瞬く間に成功を収め、30歳にしてすでに「コークス王」としてミリオネアの名を得ていた。財政的には長年の友人であった資産家トーマス・メロンの支援が大きな支えであったようだ。顧客はカーネギー製鋼など、大手の鉄鋼企業であった。1880年にはペンシルヴァニア州の石炭生産の8割近くを自らの手中にしていた。「アメリカン・ドリーム」は、この時代、確実に生きていた。

  余談となるが、はるか後年、1970年代初めに、ペンシルヴァニアのスクラントン炭田(露天掘り)の実態を見学する機会などもあり、その規模に圧倒されたことがあった。日本の炭鉱はエネルギー政策の転換で、斜陽の色濃く、鉱山の閉鎖が相次いでいた。海底奥深くまで掘り進まないと炭層に行き着かない日本の炭鉱と比較して、巨象と蟻くらいの差異を感じていた。

  さて、当時の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーとヘンリー・フリックは、1881年ニューヨークで会い、意気投合したようだ(フリックは新婚旅行の途中だった)。カーネギーは当初フリックのコークス企業を買収・統合したいと考えたようだが、フリックに譲る意思がなく、不可能であることを知り、当時40歳のフリックをカーネギー鉄鋼の共同経営者に迎え入れた。カーネギーが1889年に引退した後、フリックはカーネギー製鋼の会長となって、世界一といわれた鉄鋼・コークス生産企業の経営に辣腕を振るった。フリックは、すでに当時勃興していた労働組合運動にきわめて厳しく当たる、こわもての経営者として、知られていた。

「ジョンズタウン大洪水」のあらまし
  フリックはカーネギー鉄鋼やコークス事業拡大の傍ら、中心的な投資家としてペンシルバニア州ジョンズタウンの近くに、当時の名士からなる閉鎖的なクラブ South Fork Fishing and Hunting Club を設立・運営していた。会員はペンシルヴァニアの名高い人物60人あまりであり、フリックの親友であったアンドリュー・メロン(メロン財閥の創始者)やアンドリュー・カーネギーも入っていた。クラブは、仲間で狩猟や釣りを楽しむために当時世界でも最大といわれた土石ダムで、川をせき止めた人工湖を持っていた。

  ところが、1889年5月31日、このダムは保守の怠慢、集中豪雨などが原因で決壊し、2千万トンともいわれる水と土砂で渓谷を埋め尽くし、推定2200人ともいわれた多数の死傷者を出した。ダム決壊の一報を受けたフリックたちは、緊急救済委員会を設置、厳重な情報統制の下で、犠牲者救済などの手だてを尽くした。クラブ会員だった弁護士は、法廷訴訟の道を巧みに封じ、本来ならば全米を揺るがす一大社会問題となったであろう責任問題も抑圧、回避した。クラブは告訴されたが、裁判所は自然の不可抗力であったと退けた。下流にあった商売敵のカンブリア鉄鋼会社への補償も怠りなかった。

  もし、メディアなどが大々的に報じていたら、アメリカを揺るがす大変な社会問題となっていたことは間違いない。会員たちの社会的地位も大きく揺らいだことだろう。アメリカ史上、もっとも巧みに隠蔽された事件とされ、後年、「ジョンズタウン大洪水」 the Johnstown flood として知られるようになった不名誉な出来事だ。フリックはその当事者として中心的人物だった。ここまで、カーネギーはフリックの豪腕ともいうべき実行力を買っていたようだ。


Henry Clay Frick(1849-1919)

ホームステッド・ロックアウト
  しかし、この事件の後、カーネギーとフリックの関係を決定的に引き裂く事件が続いて起きた。1892年にカーネギー鉄鋼のホームステッド工場で、合同鉄鋼労組 Amalgamated Iron and Steel Workers Union との間で、激烈な労働争議が勃発した。発端は競争相手の企業への対抗上、フリックが労働者の大幅一律賃金カットを行ったことだった。

  カーネギー鉄鋼の経営者でホームステッドの工場長も兼ねていたフリックは、強力な反組合の経営者として知られていた。工場の周辺に有刺鉄線を張り巡らし、銃を持った警備員を配置し、組合員の労働者全員を工場外へロックアウトした。当時、工場は「フリック砦」と呼ばれていた。この時代の労働争議というのは、文字通り資本家と労働者の力による激突ともいうべき様相を呈していた。

  フリックはアメリカ史上も悪名高い300人の武装したピンカートン探偵(一種の暴力団)を、7月5日、工場の傍を流れるオハイオ川を経由して、はしけで夜陰に乗じて工場内に導き入れようとした。スト破りを雇い入れ、非組合員で操業しようという算段だった。気づいた組合員との間に銃撃戦が起こり、労働者、市民を含み10人以上の犠牲者が出る暴力争議となった。町には戒厳令が布かれ、紛争は最終的にはペンシルヴァニア州知事の命令で、8500人の州兵が出動して収束した。そして、工場は非組合員を主体に運営されることになった。組合は破れ、旧組合員の多くは非組合員となることで、賃率も下げられて雇用されることになった。

  争議は経営側の勝利に見えた。しかし、この時代はアメリカも燃えていた。「資本家の時代」は、「労働者の時代」でもあったのだ。フリックの手段を選ばない厳しい対応は、世論の批判の的となった。労働組合は弾圧されたが、その後フリックの企業は組合組織化の目標とされた。当時、カーネギーは表向きは経営から引退し、スコットランドの城で過ごしていた。しかし、世論はカーネギー鉄鋼の総帥であり、アメリカを代表する企業の経営者としてのアンドリュー・カーネギーへ向けられた。カーネギーはフリックよりもリベラルな考えを持っていたと思われており、以前の言説との違いを突かれて、偽善者という指弾も受けた。

暗殺を免れたフリック
  冷酷・非常な経営者と見られたフリックもついに暴漢に襲われることになった。争議が収まっていない1892年7月23日、ピッツバーグのオフィスに進入したアナーキスト、バークマンによってピストルで2発撃たれた。幸い、同室していた副社長(後に社長)のジョン・ジョージ・アレクサンダー・ライシュマンの手助けでとどめの3発目を免れ、命をとりとめた。フリックは深手を負ったにもかかわらず、気丈に暴漢に立ち向かい、急を聞いてかけつけた従業員や警官によって暴漢は取り押さえられた。フリックは暴漢を射殺せず、法廷の場へ突き出せといったらしい。暗殺者バークマンは22年間の刑に処せられたが、支持者たちの運動もあって1906年に出獄した。

  一時は経営側に分が悪くなりかけたこの争議は、フリック暗殺未遂についての経営側のネガティブ・キャンペーンなどで、労働側の敗色が濃くなり、労働者2500人は解雇され、残った労働者の賃金も半分に減額された。ちなみに、この争議後も多くの出来事があったが、鉄鋼業は1930年代末まで労働組合が組織できない産業であった。1901年にUS Steel が設立されたのが象徴であるように、資本側の力は強大であり、強力・専制的な資本主義の時代が展開していた。

  さて、この後、カーネギー、フリックの人生にも新たな転機がやってくる。長くなったので、一休みしよう。

  

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