時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ルーカス・クラーナハとマルティン・ルター

2016年11月21日 | 絵のある部屋

 

晩秋の一日、予定していた『クラーナハ:500年後の誘惑』(国立西洋美術館)に出かける。クラーナハ(Cranach, Lucs the Elder, 1472-1553))は、とりたてて好みではないが、以前に記したメッケネムやデューラー、そしてとりわけルターなどの関連で気になる点もいくつかあって、機会があれば作品を見るようにしてきた。

  最初にこの画家の作品に改めて惹かれるようになったのは、東西ドイツ統合前の国立ベルリン絵画館だった。それまでは、作品は各地で見ていても、なんとなく好みに合わない感じで、深く考えることはしていなかった。作品の裏に隠れた画家の人生や時代環境についての知識も、十分ではなかった。

 ベルリンでは開館して間もなく入館したためか、あまりに空いているのに感動していると、展示室の管理をしている館員が、手持ち無沙汰なのか、遠来の客に多少のサービスをと思ったのか、先方から話しかけ、近くの展示品の案内をしてくれた。次の部屋にクラーナハがあるよと知らせてもくれた。名作だから見逃すなよ、という含意があったのかもしれない。

『ルクレティア』との出会い
 記憶が正しければ、その展示作品のひとつは『ルクレティア』という女性の裸体像だった。この時代、画家がこれほど大胆なイメージを描いたということ自体かなりの驚きだったが、クラーナハ(父)は、この画題で何枚も制作したらしい。アルプス以北では最初のことのようだ。宗教戒律が厳しいという地域と思っていたが、画家の制作当時もかなり話題となったようだ。この画家の作品、とりわけ裸体を描いた作品が与える第一印象は、人体の裸像であっても、なんとなく冷たい、どことなくアンバランスな独特な感じを与えることだ。マルティン・ルターの肖像画も見たはずだが、あまり強い印象を残さなかった。

 今回の展示作品にも、同じ画題の作品『ルクレティア』があったが、ウイーン造形技術アカデミー所蔵だった。少し気になって、今回の東京展カタログを調べてみたが、ベルリン国立美術館関係からは借り出されていないようだ。この画家はきわめて多数の作品を制作したらしい。息子も画家であったから、その数、2000点を超える ともいわれる。銅版画を多数制作したことも、画家の作品販路の拡大、知名度を高めることにつながった。

 本展の注目作品のひとつ『ホロフェルネスの首を持つユディト』のように、ホロフェルネスの首を左手で押さえ、右手に剣を掲げたユディトは、肖像画のスタイルで描かれているが、少なからずグロテスクな感じもして、怖いところがある。カラヴァッジョの作品のいくつかに見るリアリスティックなグロテスクさとはやや異なるが、あまり長く見ていたくはない。この時代の人々にとっては、戦乱の巷などで残酷な光景はさほど違和感がなかったのかもしれない。『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』、『ルクレティアの自害』(銅版画)も同様なアイディアで描かれている。特に前者はストーリーの次元で考えている場合はまだしも、美女が持つ大皿の上に置かれた生首の絵は、美的観点からも良い印象ではない。ちなみに、中世の伝統を引き継ぐならば、ユディトは「美徳」を現し「快楽」という悪徳を克服するものとみなされてきた。

ルーカス・クラーナハ(父)
「ホロフェルネスの首を持つユディト」部分
1525/30年頃油彩、板(菩提樹材)
87x56cm
ウイーン美術史美術館 

  展示を見ていて興味深かったことのひとつに、売れ筋作品のイメージ・パターンが工房には多数類型化されていて、注文主の要望などに応じ、描き分けられていたとのことだった。作品主題が『ルクレティア』、『ヴィーナス』といっても、微妙に異なる作品が存在することになる。こうした型紙に相当するものは、ロレーヌの画家の工房などでも使用されていたことが知られている。売れ筋の人気作品はこうした型紙の使用で、工房の職人や徒弟などの手であらかた整えられ、最後に親方が筆を加えるということもあったようだ。

現代から見るマルティン・ルター
 クラーナハに興味を抱いた他の点は、以前にも記したがマルティン・ルターとの親交であった。時代の精神面を支配した宗教に改革の狼煙を上げ、時代を大きく転換させた人物と美術の世界において創造性とその成果の浸透に力を尽くした画家との交流は家族の段階に及んでいた。

1517年に、神学者であったルターが教会の優位性と無謬性に異議を唱えたことをきっかけに、各地で農民戦争が勃発し、1555年に、プロテスタンティズムは正式に認知されることとなった。ザクセン選帝侯領の宮廷画家クラーナハは、本作品以前に別のルターの肖像画を描いたほか、多くの聖書挿絵や布教版画を作成し、ルターのイメージとともにプロテスタントの画像を広めた。大規模な自分の工房で、絵画と版画を繰り返し複製させたことが知られている。この大規模工房の仕組みについても、書きたいことはあるが、今はその余裕がない。作品の出来映え、精粗が大きいことなどが気になっている。

 ルターについては、時系列的には最初に下掲の修道士姿のルターの銅版画が継承されている。

 

ルーカス・クラーナハ(父)
『アウグスティヌス会修道士としてのマルティン・ルター』 
1520年、エングレーヴィング(第3ステージ)
144x97cm
アムステルダム国立美術館 

 油彩画についても、画家はいくつかの作品を残している。誇張した表現ではあるが、クラーナハ(子)は、1000枚を超えるルターの肖像画(多くは銅版画と思われる)を制作し、この宗教改革者のイメージを世に広めることにつとめたといわれる。

 

 

ルーカス・クラーナハ(父)の工房
《マルティン・ルターの肖像》
1533年頃 油彩、板
ベルリン国立絵画館

  油彩で描かれたルターの肖像は、無地の背景に、3/4斜め正面のマルティン・ルターを、黒髪と黒いマントをまとった学者として描いている。緑色無地の背景と黒色のマントの中に、硬い表情のルターの顔だけが浮かび上がっている。ヨーロッパ世界を揺るがすほどの時代の改革を担った先駆者の姿を、今日こうした形で追憶することができるのは貴重なことだ。ルターの容貌は、かなり独特であるために、修道士姿でなくとも直ぐに判別できる。

 ちなみにマルティン・ルターは1525年6月13日、カタリナ・フォン・ボラと結婚した。当時も聖職者の婚姻は公には認められず、ルターは聖アウグスティヌス会を追われた。その後、二人は元修道士と元修道女という立場で、クラーナハの工房で肖像画を描かせた。残念ながら、妻を描いた部分は滅失してしまったようだが、その後1529年頃に描かれた肖像画は残っている。夫妻ともに質実な容貌で独特のベレー帽を被ったルターと中流市民的な裏地に毛皮のついた上着の妻が描かれている。いずれの作品も画法の精緻さという点では洗練されているとはいえないが、写真のなかった時代、きわめて貴重な記録史料となっている。

 

ルーカス・クラーナハ(父)
『マルティン・ルターとカタリナ・フォン・ボラ』 
1529年
油彩、板
36.5x23cm, 37x23cm
ウフィツィ美術館 




Von Martin Warnke, Lucas Cranach; Luther (邦訳マルティン・ヴァルンケ『クラーナハ;ルター』岡部由紀子訳、三元社、2006年)

『クラーナハ展; 500年後の誘惑 LUCAS CRANACH THE ELDER』 国立西洋美術館、2016年10月15日ー2017年1月15日

 

 

 

 

 

 

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THE DAY AFTER

2016年11月19日 | 午後のティールーム

 


 11月10日を境に世界は変わった。変化は人々の心の中で起きている。震源地は今度はアメリカだ。

 アメリカ大統領選挙で当選がほとんど確実視されていたクリントン候補をトランプ候補が僅差でしのいで当選した。世界の著名メディアでこの結果を予測したものはほとんどなかったといわれる。当然、大きな衝撃が世界を走った。BREXITの予想外の結果に続き、世界は激震に揺れ動いた。どうしてこんなことになったのか。CBSのキャスターは自戒するかのように状況を伝えていた;「メディアやジャーナリストたちは、現実を見ていなかった」。彼らはいったいなにを見ていたのか。 

 10年前の2006年11月、ある経営者団体で小さな講演をしたことを思い出した。論題は『移民が引き裂くアメリカの行方』だった。人口に占める白人層の比率は傾向的に低下、黒人の比率はほとんど動かず、減少した白人層の分をヒスパニック系、アジア系が取って代わるという予測の構図を説明した。そして、その変化がアメリカ社会や政治の領域にいかなる変化がをもたらすかを推理して論じた。出席していたのはアメリカでビジネスの経験がある企業の経営者、元外交官などであった。しかし、移民の実態が生みだす人種構成の変化と、それにより社会が分断されるという話は未だ遠い将来のように思えたようだ。しかし、筆者はその前にアメリカ、カリフォルニア大学サンディエゴ校との間で日米移民調査を終えたところで、アメリカの移民先進地域であるカリフォルニアでの実態変化を肌身で実感していた。

「数は力なり」
  メキシコを中心に中南米からアメリカに入国審査を回避して入り込んでくる「不法移民」illegal immigrants、 言い換えると「入国に必要な書類を持たない移民」 undocumented immigrantsは、カリフォルニアを中心に南部諸州へじわじわと入り込んでいた。多くは南部における農業やサービス分野の人手不足を補う形であった。こうした越境者たちは最初は男子を中心に単身で働いていたが、年数の経過とともに配偶者を呼び寄せる、あるいはアメリカで結婚するなどで、家族の形を整えてきた。子供達も次第に成長し、学齢期に達し、なし崩し的に住居地域の公立学校へ入学していった。最初は、英語で行われる授業に苦労していたが、居住者の数が増加するとともに 、スペイン語の教師を要求するまでになった。

  時が過ぎ、2016年11月8日、大統領選挙で当選したトランプ候補は選挙戦の途上で公言していたように、メキシコからの越境者を敵視し、アメリカに居住する不法移民(約半分はメキシコ系)を国外退去させ、国境にメキシコの費用負担(本国家族への送金に課税か)で壁を作ると述べ、アメリカ国内にいる正当な入国書類などを保持しないメキシコ人を怯えさせた。なかには、今のうちにカナダへ出国しようと試みている者もあるという。

 メキシコ政府はアメリカに不法居住するメキシコ人に向けて、最寄りの領事館などで早急にメキシコ人であることを証明する書類を発行するので、手続きをとるように呼びかけている。

  トランプ大統領が実際に公言していることを実行に移すかは定かではない。しかし、一度口にしたからには、かなりの程度、実行する可能性はある。オバマ大統領の時代と異なり、上下両院共に与党共和党が多数を占めるため、政治環境が有利になっている。司法長官には移民に厳しい考えを持つジェフ・セッションズが就任することが決まった。

  世界中が混迷の霧に包まれている時代、いつまでウオッチャーを続けていられるだろうか。移民の旅は終わりなき旅路なのだから。オバマ大統領は自らの任期中に公約した移民制度改革をなしとげられなかったことを「正義へ弧を描く移民システム」と表現して、目的に到達する道が一直線ではない難しさを嘆いた。トランプ政権移行で移民制度改革の道はさらに厳しさを増す。


桑原靖夫編『グローバル時代の外国人労働者: どこから来てどこへ』東洋経済新報社、2001年。

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