1972年、ラ・トゥール展文献の一冊から:表紙
このところ、筆者の小さなブログのラ・トゥールに関する記事へのアクセスが急増していることに気がついた。2005 年の国立西洋美術館での企画展の時も同様な現象が起きた。今回の背景には大阪に続き、東京国立新美術館で本年2月9日に開催されるメトロポリタン美術館展の展示作品に、ラ・トゥールの《女占い師》が含まれており、しかも日本初公開というニュースが伝わったことがあるようだ。
この作品に描かれた美女と占い師の老婆の容貌は、一度見たら忘れられない。とりわけ中央に描かれた美女の顔は、その特異な顔立ちからジプシー(今ではロマと呼ばれる)ではなく、ロレーヌの人々の血筋を引いていると見られる。画家の名前は知らなくとも、この顔に見覚えのある人は少なくない。認識度ではモナリザに次ぐともいわれるほどだ。美術史家でもない筆者の仕事場にも、この顔を表紙にした書籍が少なくも10冊以上ある。
半世紀以前の出会い
ブログ筆者が初めてこの作品に出会ったのは、1965年ニューヨークのメトロポリタン美術館であった。半世紀以上前の昔である。《女占い師》はひと目で惹かれた作品ではあったが、他の作品にも目を奪われ、専門も全く異なっていたので、画家や作品について深入りして調べたことはなかった。初めての壮大な美術館に感激して、ニューヨークにいる間、連続して訪れた。
この画家についての印象が転機になったのは、その後1972年パリ、グラン・パレで開催されたラ・トゥールの大企画展であった。たまたま仕事でパリに滞在していた幸運もあったが、この時の強い印象はその後の人生を通して消えることのないものとなった。ラ・トゥールの作品で当時知られていた主要作品のほぼ全てが出展されていた。《女占い師》はルーヴル所蔵の《ダイアのエースを持ついかさま師》と並んで展示され、画家の数少ない「昼の作品」として、大きな注目を集めることになった。
1972年ラ・トゥール展に並ぶ人たち
周到な企画と展示作品の素晴らしさは、目の肥えたフランス人を含め多数の美術愛好者にたちまちアッピールし、当時ほとんど例をみなかった長い行列が生まれた。ひとりの画家の展覧会としては、最大の観客数を記録したと言われる。ラ・トゥールの名は日本では未だ知られていない時代であった。日本の美術史家の中で、この展覧会を訪れた人はきわめて少なかったと思う。筆者は幸いにもそのひとりに入ることができた。時を同じくして刊行された当時は新進気鋭の美術史家田中英道氏の著作からは大きな啓発を受けた。『冬の闇』(新潮社、1972年)は、今でも専門も全く異なる筆者の仕事場の書棚に置かれている。
発見された「現実の画家たち」
いつしかラ・トゥールのフリークとなった筆者は、その後世界で開催された主要企画展はほとんど訪れることになった。ラ・トゥールばかりでなく、プッサン、ル・ナン兄弟など、いわゆる「現実の画家たち」*を初めて紹介した1934年のオランジェリーでの展覧会をそのままに再現した2006 - 2007年の企画展も観ることができ、この画家のほとんど全ての作品に幾度も接する機会を得た。必然的に知識も増え、その一端がこの覚書きのようなブログを始めた契機となった。
ORANGERIE 入り口
作品に込められた深い精神性
ラ・トゥールの作品を正しく理解することはそれほど容易ではない。この画家は制作に際して、深い思索に沈潜する時間を過ごしていたとみられる。それも、単にカンヴァス上の美の表現、体裁にとどまらず、人間の本性、精神面に深く立ち入った作品が多い。
これまでのブログ記事から推測できるように、画家が主として画業生活を送った環境は、17世紀ロレーヌという激動、混迷の地域であった。30年戦争に代表される戦乱、悪疫の流行、魔女狩りの横行、飢饉の頻発など、当時の文化の中心であったローマ、パリ、そして北方諸国の繁栄とは大きく異なっていた。
しばしばラ・トゥールと比較されるプッサンあるいはフェルメールと比較して、ラ・トゥールが過ごした環境は、格段に厳しかった。この画家の作品がきわめて少ないのは、戦火など動乱の中で逸失したことが大きな理由とされている。断片的な記録から、ともすれば横暴、強欲な画家と評されることもあるが、家族や使用人への心遣いなど、多大な配慮をしていた記録も残る。
ロレーヌの人々は、突然迫ってくる戦火や悪疫などに絶えず脅かされていた。現にラ・トゥール夫妻は1652年1月に相次いで呼吸器系の感染症(インフルエンザか?)で死亡している。
「危機の時代」を考える手がかりにも
17世紀はさまざまな危機的状況がグローバルな次元で発生した最初といわれる。初期にはヨーロッパに限定されたものと考えられてきたが、すでにグローバルな範囲に拡大していた。その後、人類は第一次、第二次大戦を含め、幾多の危機を経験してきた。
今日、人類はその存亡を賭けての危機に直面している。新型コロナウイルスがもたらしたパンデミック、地球温暖化に伴う異常気象、巨大地震、火山噴火などの勃発、アフガニスタンのタリバン復権、ウクライナ国境の緊迫、AIシンギュラリティに向かって新たな次元での戦争への恐怖など、時代は明らかに危機に満ちている。
危機の内容は異なるが、17世紀、ラ・トゥールという稀有な画家が、何を思いカンヴァスに向かっていたのか。その答えを求めてきたこのブログも終幕が近い。
Reference
*
ORANGERIE, 1934: LES “PEINTRES DE LA REALITE’ , Exposition au musee de l’Orangerie, Paris, 22 Septembre 2006 - 5 mars 2007.