時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ペシミズムでもオプティミズムでもなく

2019年12月31日 | 特別トピックス

新年おめでとうございます。
私たちはどこから来て、どこへ行くのでしょう。

2020年(令和2年)元旦


ペシミズムでもオプティミズムでもなく
新年の予想あるいは見通しがさまざまに提示されている。いまだ実現していない近未来のことであるから、近い過去に引きずられることが多い。加えて、人間の常として、いまだ実現していない将来には少しでも明るい光景を期待したい。これまでは、戦争前夜など、いくつかの例外的時点を除いては、多くの場合、明るい楽観的な基調の見通しが提示されてきた。

急速に後退するオプティミズム
しかし、今年はかなり異なる印象を受ける。2020年の日本はやや例外で、オリンピック開催国として、ことさら明るさを前面に出しているかに見える。しかし、世界の多くの国々では、楽観、オプティミズムは急速に影を潜めている。地球温暖化、異常気象、人口爆発、核の脅威、米中対立、テロリズムの脅威、保守主義の抬頭、BREXIT、自国第一主義、政治的対立・紛争、長い経済停滞など、ペシミスティックに傾く要因は数多い。実際、前途についての楽観は影をひそめている。

元旦のNHK番組、「これからの10年が地球と人類の運命を定める」  
NHK :10 Years  After, 2020年1月1日

その流れの中でひとつの注目すべき点に気づく。近未来についてあえてひとつの方向性を提示することを回避し、現在を大きな流れの中での転換点と捉える動きだ。その代表的な例は、The Economist 誌(Christmas double issue, 2019)のように、「ペシミズム」と「進歩 」(pessimism v. progress)を対比し、現時点はそれらが交差する段階にあるという。(「ぺしみずむ」と「進歩」は対比概念では必ずしもないが、今は問わないでおこう。)

 

技術がもたらす負の側面への不安
同誌が指摘するように、過去においてはこうした時期には、停滞を破る要因として、新しい技術に期待がかけられてきた。技術は戦略的な閉塞打開の武器と考えられる。しかし、このたびは様子が異なる。いかなる技術も善悪双方に使用される可能性がある。なかでも最も恐ろしいのは、核技術あるいは遺伝子を扱う生化学だが、他の技術でも起こりうる。これまで社会メディアは人々を結びつけると思われてきた。例えば、2011年のアラブの春には、歓迎された。しかし、それはいまやプライヴァシーを侵し、時にフェイク・ニュースまで伴って、プロバガンダを広め、民主主義を破壊しているところがある。親たちは子供がスマートフォンに入り浸り、広い世界が見えない中毒・視野狭窄症になるのではないかと心配している。ネット世代の子供たちは、SNSの負の側面を知らないのだ。

過去においても長い停滞を打破すると期待された新技術について、手放しで明るい期待が込められていたわけではない。21世紀の最初の20年が過ぎようとしているが、次の10年を支配することがほぼ定まっている技術 AI (人工知能)は、これまで人類が開発してきた新技術以上に前途に不安な暗い影を落としている。

歴史軸上の産業革命
産業革命は蒸気機関、繊維機械などを中心に、多数の労働者が生み出された。1920年代 自動車産業の興隆期にそれが文明へ及ぼす影響について、その社会的費用をめぐり、単調労働、大気汚染などネガティブな受け取りが生まれたこともそのひとつの例だ。L.S.ラウリーが描いた世界でもある。多くの人の仕事を脅かし、専制的なルールを生む可能性も出てきた。莫大な富を数少ない富豪が手にする反面、多数の貧困な人たちが生まれ格差が拡大する。しかし、これまでは生活水準の向上など、光もさしていた。

健全な懐疑主義の役割に期待
現在進行している第4次産業革命では、スマートフォン、ロボット、ソーシャル・メディアなどが形成するペシミズムのムードが漂う。技術はエイジェントがない。結果は、それを使う者次第となる。廃絶が期待できない核技術への脅威、さらに遺伝子を取り扱う生化学については、神の世界へ踏み込み、冒涜することへの恐れがつきまとう。核技術が専制的為政者の手によって軍事力拡大のために使われる可能性も大きい。ペシミズムを生むものは技術それ自体ではなく、それが根ざす社会が抱く政治的ペシミズムと思われる。社会に根ざす健全な懐疑主義は、技術の無謀な利用、暴走を防ぐ重要な装置だ。それをいかにして育み、維持して行くか。2020年はその成否が問われる残された短い期間の始まりではないか。

 

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セピア色からよみがえる:芥川龍之介の上海

2019年12月31日 | 午後のティールーム

 

和平賓館コースター

このところ、タイムマシンで時空を遡る試みが多い。NHK「ストレンジャー 上海の芥川龍之介」(12月30日NHK)を見た。ブログ筆者にとっても、かなり懐かしい場所、上海が主たる舞台となっていた。今からおよそ100年前の大正10年(1921年)3月、大阪毎日新聞の特派員として上海を訪れた芥川龍之介の過ごした世界がそこにあった。予期した以上に迫力をもって再現されていた。

欧米、日本など列強が上海に租界を設け、蹂躙し、欲望をほしいままにしていた時代の中国社会が見事に再現され、映し出されていた。当時の中国は動乱真っ只中、清朝を倒した革命は、やがて軍閥の割拠という混乱に至り、絶望的な退廃と貧困の中にあった。

全編がほとんど上海で撮影されたとされるが、その舞台と人物が見事に映し出されていた。日本映画界を代表すると言われるカメラマン・北信康氏のカメラワーク、映像の美しさに圧倒された。今日の上海は見違えるほど美しくなり、世界有数の大都市となっているが、この時代を彷彿とさせる建物や街並みが至る所に残っている。それにしても、あのセピア色に沈んだ時代の上海が驚くほど感動的に再現されていた。

今は改装されて見違えるほど美しくなっているが、この映画作品の冒頭に出てくるダンスやジャズの光景はかつての和平賓館(1929年サッスーン家により「キャセイホテル」として創業し、幾多の歳月を経て、2010年「フェアモントピースホテルとして改装、再開)が使われたのではないだろうか。だが、確かではない。というのも、こうしたダンスやジャズ演奏が見られた場所は、芥川の頃は未だほとんどなかったはずで、事実、芥川は「万歳館」という今は存在しないホテルに宿泊した。今日に残る写真を見ると、ホテルの建物はかなり立派であったようだ。

ブログ筆者が何度か滞在した頃は、和平賓館はいまだ古いままであり、客室にゴキブリがいたりして驚いたこともあった。南京路の入り口に近く、外灘(バンド)地域のランドマークであった。このホテルのジャズバーは長年にわたり1920-30年代のファンを魅了してきたが、ブログ筆者が訪れた頃はジャスマンはほとんど皆が、オールド・ジャズマンというべき、かなりの年齢に達していた。その後、訪れた時は「フェアモントピースホテル」として新装され、見違えるほど立派な豪華高級ホテルになっていたが、いたる所にキャセイホテル時代の面影が保存されていた。

芥川の上海訪問時にはキャセイホテルはなかったとはいえ、ほとんど同時代の建物である。ブログ筆者は、芥川が船上から望んだガーデンブリッジ近くの上海大楼にも宿泊したことがあるが、こちらは内装も古く、普通のホテル並みだった。しかし、客室から眺める黄浦江風景は格別だった。


ガーデンブリッジから上海大楼を望む

さて、今に残る記録によると、芥川は1921年(大正10年3月28日から7月17日頃)、120日余りかけて、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、大同、天津、沈陽などを巡歴した。「老大国」が中華民国になって10年に満たない時期であった。流石に大作家であるだけに、多くの資料、研究が残っている。


江南の春

芥川は、かねて抱いていた理想と目前に突きつけられた現実の断裂に絶望感すら覚えながらも、急速に中国の精神世界の深みへと沈潜していく。上海は「魔都」といわれ、そこ知れぬ妖しさ、いかがわしさを秘めた暗黒な都市であった。『上海遊記』にはそこに生きる妓楼の女たち、そして微かな可能性を信じて革命に生きる男たち(その代表が李人傑こと李漢俊であり、1902年に14歳で来日。東京帝国大学を卒業し、帰国後は21年の中国共産党設立に関わる。27年に軍閥により殺害)との短い出会いの断片が、見事に描かれている。

1920~30年代の上海を映像化した作品は、カズオ・イシグロの傑作『私たちが孤児だったころ』(2000年 )など、いくつか見たことがあるが、1920年代の退廃、貧困、絶望の極みにあった上海がこれだけ見事に映像で再現された作品は見たことがなかった(ちなみにイシグロの作品は、1923年の上海がひとつの舞台となっている)。8Kという映像技術の先端が生み出した迫力に感嘆した。日本が生んだ偉大な作家であるだけに、時代考証もしっかりとしていて、ネット上で見ることのできる研究成果も多い。

芥川は中国の古典文学にも詳しかった。最近読んだ『蜜柑・尾生の信他18篇』(岩波文庫、2017年)にも、その造詣を生かした短篇が多数含まれ、この作家の中国文学への並々ならぬ傾倒ぶりを忍ばせる。上海滞在時、芥川は29歳、その中国文学、社会への造詣の深さと共に、天才の真髄を改めて実感させられる。芥川にとって、この中国への旅はいかなる意味を保ったのだろうか。心身ともに疲労が蓄積したのか、作家は帰国後、1927年7月に服薬自殺している。

「上海游記・江南游記」は、半世紀近く前に初めて上海に旅した頃に読んだ記憶が残るが、新年にもう一度読み返してみたい。



「上海游記・江南游記」講談社文芸文庫、講談社、2001(平成13)年10月1第1刷刊

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足下を見直す:拡大・再編が進む下層労働市場の行方

2019年12月29日 | 労働の新次元


年末の東京、新宿、渋谷駅などでは構内に中国語、韓国語、英語のアナウンスが飛びかい、その間を流れる日本語を拾って、一瞬、ここはどこかと思うことがある。朝夕の通勤時など、スマホ片手の日本人、大きなカートを引っ張る外国人でごった返している。10年近くで東京など大都市の駅や車内の光景は激変した。外国人観光客の急増に加えて、首都圏の駅周辺の家電量販店、コンビニなどでは、中国人やヴェトナム人などの店員が急増し、働いている。多くは留学生アルバイトのようだ。日本語の能力は十分でなくとも、バーコードや電子マネー決済方式が普及したため、商品確認などが容易にになったのだろう。外国人観光客のほとんどがカードで支払いをしている。

変わる代金決済「サービス」の実態
長らく算盤や暗算に慣れてきた日本人は比較的抵抗が少ないようだが、例えば税込786円の商品を買って、1000円札を渡すと、214円の釣り銭を硬貨でひとかたまりに渡されることに当惑、違和感を感じたという外国人の話を聞いたことがある。このごろは電子レジの普及で、買い手にも直ちに釣り銭額が表示されるようになり、金額の大きな貨幣から100円2枚、10円1枚、1円4枚の順で渡してくれる店も増えた。小さな変化だが、外国人や高齢者には親切な対応だ。カードでの決済ならば、こうした心配はもとより払拭される。

数年前のことだが、空港のカフェテリアで中国人とみられる客が、掌に硬貨を載せ、これから取れと店員に迫っていた光景が目に浮かぶ。さらにこの客は、店員が中国語が分からず当惑しているのにお構いなく、大声で喚いていた。店員はそれでは足りないと言いたいようだった。こうした光景を一度ならず見た。10年くらい前の中国の実態では、さほど珍しいことではなかった。

かつて中国の国営商場などで、商品や釣り銭を売り場の台上にばら撒くように放り出され驚いたことがあった。中国語の「服務」という概念には、日本では当たり前の顧客へのサービスという実質が希薄だった時代があった。日本の店は親切だという中国人観光客の感想には、単なるお世辞にとどまらない、かつての自国の残像もあるのだろうか。

用例
我们应该全心全意地为人民服务 (=我々は 誠心誠意人民に 奉仕すべきである)。

変化が早い世の中で、注意していないと気づかないことだが、サービス産業の景色も大きく変わった。

誰もやりたがらない仕事をする人々
他方、労働力不足がもたらした深刻な人手不足は、一般の人々の想像をはるかに上回っている。若い人たちが忌避し、ロボットの開発も採算が合わないような仕事、ほとんどが低賃金の肉体労働は、外国人や高齢労働者に押しつけられている。新たな下層市場が急速に形成されていることを実感することがある。

最近目にした光景である。近くの工事現場では、日雇いの労働者が集まらず事実上、仕事ができないようになるという。五輪ブームで建設需要が増えた裏側である。ある日の解体工事現場を見た。解体されているのは、数十年は経過したと思われる古い木造家屋、以前は小さな居酒屋や商店であったのろうか。油と埃で真っ黒な木材になっている。解体現場では、明らかに外国人と見られる労働者、数人が働いている。夕方など、作業着と手足、顔の区別ができないほど埃でまみれている。防塵マスクもメガネも装着していない。作業員の容貌の区別など到底できないほどに汚れ、一見して息を呑んだ。管理者らしい日本人が来て、時々指示をしている。夕方になると、数人の同国人と見られる外国人が、連れ立ってどこかへ帰って行った。

建設業は、外国人労働者なしには立ち行かない事態にまで到っている。こうした産業はいまやかなりの数に上る。


近くの私鉄の駅に行く。そこでも痛ましいような光景に出会った。駅の階段の手すりや足元の階段の汚れをかなりの年配の女性が掃除をしている。多分、60歳代後半から70歳代だろうか。驚いたことに、床に設置されている目の不自由な人(視覚障害者)のための黄色の「警告ブロック」や「誘導ブロック」を床に座り込んで、雑巾で拭いているのだ。多分、棒の付いたモップ雑巾ではきれいにならないからだろうが、強いショックを受けた。そこまで要求されねばならないのだろうか。日本の街路はきれいと外国人は称賛するが、それを支えている人たちの中にはこうした人たちがいることを忘れてはならないと思う。

地方創生、活性化の促進を政府は強調するが、現実は仕事の機会は大都市にますます集中する傾向が進行している。賃金も都市部は高いので当然の動きといえる。現行の都道府県別最低賃金制は、この傾向を助長している。労働市場の範囲を段階的に道州制くらいまで広域拡大し、さらに広域市場間の賃金格差の平準化に努めないと、大都市圏への労働力集中は避けがたい。アメリカ・カリフォルニア州ぐらいの広さに日本列島はすっかり収まる。その範囲を都道府県単位で細分化し、多大な行政コストをかけて、それぞれ賃率を定めることの無意味さに気づくべきだ。全国一律の賃金率だけ定め、後は必要ならば各広域地域の実情に合わせてプレミアムを加算するという方式に移行すべきだろう。制度は一度作ってしまうと変更し難いのは事実だが、時代遅れとなった制度は改廃しなければならない。最低賃金制度のように歴史が長く、制度自体が新たな変化に対応することを拒む足かせになっている例は数多い。

進む労働市場の階層化
他方、労働市場の階層化が急速に進行している。東京オリンピック関連工事などの関連で、被災地や地方の工事は人手不足がさらに深刻になった。2019年4月から日本はこれまで表向きは受け入れていなかった外国人労働者(単純労働)を、労働力不足が厳しい特定分野に限って受け入れるという政策に転じた。今回の外国人受け入れ政策転換は、またもや人手が確保できなくなった産業の圧力に押されて、不熟練労働者を受け入れるという成り行き任せの政策となった。

技能実習と新しく導入された特定技能(1号、2号)の差異は、外国人には大変わかりにくい。日本人でも、法令の文言と実態の関係を正しく理解することはかなり難しいのではないか。さらに、細部は省令に委ねられ、手続きもきわめて煩瑣のようだ。新しい制度であるにもかかわらず、具体的レベルで詳細を詰めることなく見切り発車をしてしまったので、現場には混乱が起きる。こうした準備不足で透明度を欠いた制度は、形骸化したり、犯罪など不正の温床となる。現に、特定技能制度は導入が拙速であり、受け入れの仕組みも整備されていない。送り出し側、受け入れ側双方に決定的な対応の遅れがあり、すでに多くの問題が発生している。

日本人がやりたがらない仕事を埋めるために外国人労働者を受け入れることは、多くの場合、日本人労働者の下に新たな低賃金労働者の階層を作り出すことになる。市場ビラミッドの最底辺を外国人労働者や高齢者が担う構図になっている。新たな下層労働市場の形成は、1980年代後半から進行し始めたプロセスだが、このたびの不熟練労働者の受け入れで一段と拡大した。

他方、期待する高度な専門知識や技能を持つ外国人は来てくれず、集まるのは不熟練労働者ばかりという流れは政策の貧困に起因している。必要なのは、現在の政策が内包する不合理な諸点の是正と関係者への透明度の貫徹だ。出入国管理政策とって最重要な要件のひとつは、外国人労働者を含めて国内外の関係者にとって、制度の体系、運用についての透明性、正当性が浸透し、確保されることが不可欠だ。その点が確保されない限り、制度の悪用、乱用は避けがたい。「多文化共生政策の推進」など、一見耳ざわりの良いスローガンも聞かれるが、決して安易な道ではない。

世界中にきわめて深刻な問題を提起している「移民・難民」の流れに対応する新たな出入国管理の政策体系とそれが果たすべき役割が、現状では全く感じられない。オリンピック後には、彼らのあり方を含めて、大きな混乱、反動が生まれることはほぼ確かだろう。足元を見直し、将来につながる政策を構想し直すことを期待したい。


稲上毅・桑原靖夫・国民金融公庫総合研究所『外国人労働者を戦力化する中小企業』(中小企業リサーチセンター、1992年)

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『老人と海』を読み直すが・・・・・。

2019年12月19日 | 午後のティールーム


大学共通テストのあり方が教育界に大きな混乱、混迷を引き起こしている。とりわけ英語教育のあり方、評価については、日本は戦後だけでも長い試行錯誤、検討の期間を過ごしているだけに、今回の対応はあまりに拙劣、無責任な思いがする。

英語自習時代を振り返る
ブログ筆者は戦後の英語教育実質ゼロのスタートライン時代から今日まで長年にわたり、研究、教育を含むさまざまな局面で英語と対峙してきた。 当初は英語教材も今のようにヴァラエティに富んだものはなく、せいぜい英会話学校の教材やNHKラジオ講座のテキスト程度(平川唯一「カム・カム・エブリボディ」)だった。その後、英日対訳のテキストなども増加してきた。しかし、かなり長い間、hearing,speakingのためのオーラル教材は少なく、読み書き中心で、学習のスタイルも自習が多かった。読み、書き、話す、聴くの全てに対応できる教師も少なかった。その後、奨学金を得てアメリカの大学院への留学に至る過程で、かなり多くの英語教材と対面した。今とは違って、学部生の留学はきわめて少なかった。ライシャワー大使夫妻が、激励のために渡米前の学生をティータイムに招待してくれた時代だった。1ドル=360円の固定レートの時代でもあった。

ヘミングウエイとの出会い
専門は全く異なるのだが、英語力を高めるための教材は文学作品が多かった。その中で印象に残る作品のひとつにヘミングウエイの『老人と海』があった。簡潔だが力強い表現で、しっかりと主題を伝えていて、愛読書のひとつとなった。今はかなり忘れてしまったが、冒頭の部分はたどたどしいがなんとか覚えている。他に覚えているのは、オスカー・ワイルド『幸福な王子の冒頭部ぐらいになってしまった。

ちなみに、『老人と海』の、冒頭部分を掲載しておこう:

He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty-four days now without taking a fish. In the first forty days a boy had been with him. But after forty days without a fish the boy’s parents had told him that the old man was now definitely and finally salao, which is the worst form of unlucky, and the boy had gone at their orders in another boat which caught three good fish the first week. It made the boy sad to see the old man come in each day with his skiff empty and he always went down to help him carry either the coiled lines or the gaff and harpoon and the sail that was furled around the mast. The sail was patched with flour sacks and, furled, it looked like the flag of permanent defeat. 
(Earnest Miller Hemingway, The Old Man and the Sea, 1952)

このたび、新聞でヘミングウエイErnest Miller Hemingway(1899年 - 1961 年)の短編を素材に英文法を学ぶという受験参考書の刊行を見て、書店で手にしてみた。昔、読んだ英文法の参考書は、例文は文法の説明のたために作ったような味気ないものが多かったので、タイトルにつられ、手にした感もあるが、読み始めてみると従来の参考書とは一線を画す工夫がなされており、興味深く読んだ。受験生にも好評であったようで、続編が刊行され、『老人と海』も最終章だけではあるが、取り上げられていたのでこれも読んでみた。表題の目指す「英文法を学ぶ」というよりは、ヘミングウエイの短編のさわりを英文法の手助けで読み直す感じとなった。

倉林秀男・河田英介『ヘミングウエイで学ぶ英文法 1』アスク出版、2019年
倉林秀男・今村楯夫『ヘミングウエイで学ぶ英文法2』アスク出版、2019年

大学院時代の友人に英文学を専門とするアメリカ人(ポモナ・カレッジ教授)や、スペイン語を話すプエルトリコ出身のヴェテラン大学院生(帰還兵への優遇措置による)などがいたこともあって、この作家のカリブ海を舞台とした晩年の小説はかなり話題になった。ブログ筆者は、ヘミングウエイの『老人と海』を1952年に出版したチャールズ・スクリブナー書店のファンだったこともあり、一時はかなりのめり込んだ。スペンサー・トレイシー主演の映画も観たが、あまり印象に残っていない。

マノリンは少年か若者か
『老人と海』は主要な登場人物は老人とマノリンという少年だけという組み立てだが、その組み合わせが絶妙に感じられた。上掲の文法書の著者は、boyという英語を「少年」と訳することに異論をとなえ「若者」としている。ブログ筆者にはやや違和感が残る。「少年」より「若者」の方が、日本語の語感では adult な感じを受けるが、これは日本語の語感の問題のように思われる。老人とマノリンの関係を見ると、マノリンはいわば舞台回しの役割を負っている。言い換えると、この小説には欠かせない人物である。老人に私淑し、親の意思にも反して、老いた漁師を手助けし、弟子のような役割を果たしている。この関係をもし制度化すれば親方漁師と徒弟のような関係にあたる。

アメリカでは徒弟制度は広く形成されなかったが、伝統的な仕事の世界には慣行として受け継がれていた。徒弟がほぼ一人前の大人と認められるのは、徒弟修業を終えて職人としてひとり立ちができる段階に達してからであった。老人とマノリン少年の関係は、伝統的技能の習得の本質も体現していた。少年は老漁師を助けながら、老人の人生観や仕事のやり方を学んでいた。通い徒弟のような日常を過ごしていた。マノリン「22歳」説もあるようだが、ブログ筆者にはあまりしっくりこない。

ヨーロッパ社会における徒弟は親方の家に住み込み、仕事の手伝い、親方の身の回りの仕事などをしながら、熟練を体得していた。文字通り徒弟の仕事だった。彼らは職業などで異なるが、大体12-13歳から17-18歳くらいまで徒弟としての生活を過ごした。徒弟の費用は通常、親が負担した。親としては息子の将来を考え、最もふさわしいと思う親方を選ぶのが普通だった。マノリンの父親も、最も漁獲が多い、練達した漁師のボートに乗れるよう考えていたようだ。老漁師は運に見放されたのか、かなり長い間漁獲に恵まれなかった(上掲引用部分 salao)。マノリンはどこに惹かれたのか、老漁師の身の回りの世話をし、会話を楽しんでいた。マノリンは未だ大人として成人の段階に到達していない、純粋さが残る少年のイメージが浮かぶ。


ヘミングウエイ と子供たち(バンビ・パトリック・グレゴリー)
ビミニでの釣り旅行の記念写真(1935年撮影)
(倉林・今村著付録葉書)

原文と翻訳の間には、いかに優れた翻訳といえども伝達しきれない微妙なものがある。作品中の人物を全て現実に実在したモデルと重ね合わせるという研究者の努力には敬意を抱くが、フィクションと現実の距離にも注目しておきたい。

英語や英文学に関心を寄せる人には、上掲の本は受験参考書というイメージを離れて、読み物としても楽しめる好著といえる。願わくは、『老人と海』の全文を取り上げてもらえたらと思った。

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ラ・トゥールの謎に迫る?

2019年12月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593 - 1652)という画家は長らく「謎の画家」と言われてきた。その生涯は、作品発見の過程から今日まで多くの謎に包まれてきた。この時代の画家に必ずしも限ったことではないが、当時の画家の生涯や作品の全てが、今日明らかであるわけではない。名前すらほとんど知られることなく、歴史の中に埋没してしまった人々の方がはるかに多いといえる。

その後、美術史家たちの弛まぬ努力の結果、類稀な才能に恵まれたラ・トゥールという画家の生涯と作品制作の実態が次第に解明され、今日にいたった。今や17世紀フランス画壇にそびえる中心的画家のひとりである。

それにもかかわらず、この画家の生涯、そして作品の制作をめぐっては多くの謎が生まれ「謎の画家」としても知られてきた。その謎のいくつかは画家がたどった人生と画業にまつわるものである。ロレーヌという戦乱の地で画業生活を過ごした画家であったため、史料や作品の多くが散逸し、その多くは戦火などで失われたものと推定されている。発見された史料の類は数少なく、断片的である。そのため、史料の解釈をめぐっては、多くの異論が提示されてきた。画家の生前の精力的な制作活動から推定して、現在画家の真作と推定される50余点を数倍は上回る作品だを残したと思われる。

「昼」でも「夜」でもない世界
今回は、ら・トゥールにまつわる伝承や謎に関わる問題のひとつを取り上げてみたい。ラ・トゥールは長らく「夜の画家」あるいは「闇の画家」と言われてきた。しかし、1972年にパリ・オランジェリでこの画家の全作品を集めた特別展が開催され、《ダイヤのエースをもつ女いかさま師》、《女占い師》が初めて公開され、大きな反響を呼んだ。画面には蝋燭も松明も見当たらず、それまでラ・トゥールの作品の特徴として伝承されてきた「夜の作品」ではなかった。

ラ・トゥールの研究者たちは、この長らく忘れられ、多くの謎に包まれた画家が、「昼の作品」をも制作していたことに驚かされた。ここでいう「夜あるいは闇の画家」という意味は、作品の背景が夜のごとく暗く、画中には蝋燭、油燭、たいまつなどの光源が描かれ、人物などを映し出している。光源らしきものは見当たらず、「神の光」とも言われるどこからともなく射し込んでいる光が描かれている作品もある。画面には、画家が最も重視する人物などが細部にわたり、委細克明に描かれている。他方、「昼の作品」といわれる絵画には、蝋燭など光源のようなものは一切描かれていない。

余計なものは描かない画家
ラ・トゥールの作品の特徴の一つは、テーマに直接関連しないと思われる部分は徹底して省略されていることにある。例えば、この画家の作品で、背景の壁などが、それと分かるように描かれているものはほとんどない。夜とも闇ともつかない不思議な暗色系の色で塗りつぶされている。
同じ17世紀のオランダの画家フェルメールが室内にあるものすべてを克明に描いているのとは全く正反対であり、ラ・トゥールは自分が考える必須の対象だけに集中し、その他のものはほとんど描いていない。対象への集中に専念したのだろう。フェルメールの作品は現代人の多くの目には、大変美しく見えるが、画家の抱く精神的世界での沈潜は浅く、厳しい評価をすれば、表面的な美の世界にとどまっている。他方、ラ・トゥールの作品の多くは、描かれた人物の生涯、精神世界に観る者を引き込む引力を感じさせる。
 この画家の作品を長年にわたり見てきたブログ筆者は、ラ・トゥールは「昼の画家」でも「夜の画家」でもなく、「光と闇のはざまに生きた画家」と考えている。この画家の作品を、この視点から見直すと、室内とも屋外ともつかず、背景は不思議な暗色で塗り込まれている。思うに、この画家にとって、昼と夜の区分は問題ではない。


《大工ヨセフ》の作品に見るように、室内とも屋外とも、場所も定かではない。ヨセフと幼きイエスは同じ空間に描かれながらも、二人の視線は交差することなく、あたかも俗界と霊界を区分する色の色が支配している。


ロレーヌの冬の空は薄暗く、春が待たれる。車道から離れ、少し森の中に踏み込むと、獣道のような道ともいえない道があり、深い森に続いている。立ち入るほどに昼なお暗く、土地の人の話では猪や鹿狩りも行われているという。事実、筆者が訪れた時にも、遠くで銃声のような音が聞こえていた。17世紀までは、夜になると魔女が集まり、踊り狂う恐ろしい場所でもあった。


戦争、飢饉、重税など、絶えず襲ってくる幾多の災厄、危機に、農民のみならず、画家の心象風景も揺れ動いていた。

 

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亡くなって知る人の偉大さ: 中村哲医師を偲んで

2019年12月05日 | 午後のティールーム

 

 


アフガニスタンで中村哲医師が凶弾に倒れたニュースは、瞬く間に世界に伝わった。20年以上前に遡るが、ある国際協力に関わる会で、中村哲先生の講演を聴いたことがあった。日本が誇るべき真に偉大な人のひとりと即座に感じた。日本であったなら人も羨む恵まれた仕事も待っていたかもしれないのに、自ら進んで戦乱の地に活動の場を求め、医師でありながら井戸を掘り、灌漑事業に力を尽くすという想像し難い仕事に生涯をかけられた。

ブログ筆者がアフガニスタンに関心を抱くようになった背景のひとつには、中村哲先生の話がどこかで影響していたかもしれない。先生が日本ではメディアも「カブール」と言う表記で知られているかの地の首都を「カーブル」と言われていたことも、耳奥に残った。

かつては東西文化交流の要衝の地として栄華を極めたアフガニスタンが、その後なぜ低落の道を辿り、世界で最も過酷な戦乱の地と化したのか。一時期、多少のめり込んで調べたことがあった。タリバンの抬頭、イスラム過激派ISの出現など、実態は宗教的対立に政治的要因が絡み、なかなか分かりにくい。中村医師を襲った者がいかなる背景を持つ勢力なのか、実態解明には時間がかかるかもしれない。

今はただ心からご冥福を祈りたい。

 

アフガンに関わる本ブログ記事: 

The Kite Runner (凧を追いかけて) 2005年11月18日

戦火の下のラピスラズリ アフガニスタン 2006年12月9日

カブールの燕たち 2007年3月11日

パリ:行列のできる展覧会(2)  2007年3月28日

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ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』の偽造事件から・・・・・

2019年12月03日 | 午後のティールーム

 


絵画作品では偽作 imitation, fake は、珍しくない。本ブログで取り上げているラ・トゥールにしても《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》(横型)のように、画家の真作は未発見だが、工房作などの模写、コピーは多数発見されている。これらは贋作というよりは、この作品主題の愛好者、顧客が工房作品でもよいと納得した上で発注していることが多い。一般に贋作とはいわないが、なかには明らかに贋作の範疇に入る場合もある。

偽造されていた『星界の報告』
今回取り上げるのは、それとは異なり、書籍(学術書)の贋作者の話だが、今日よくある海賊版のことではない。古い時代の書籍を初版本の時代にまで遡り、紙、活字、インク、装丁などを専門家にも見破られないように再現、制作するのだ。こうして作られた書物はいかに初版本に似ていようとも偽造本であり、それが市場に出回り高額な価格で取引される対象となると、明らかに犯罪行為となる。このたび、ガリレオ・ガリレイの歴史的名著 _『星界の報告』Sudereus Nunclus_ *1を偽造した犯人をめぐるドキュメンタリー・サスペンスがTVで放映されていたのを見る機会があった。

*1 世界のドキュメンタリー『偽りのガリレオ:世紀を超えた古書詐欺事件』NHKBS、ドイツ 国際共同制作 Ventana Film/rbb/ARTE/NHK 11月27日(水)23:00放送
 
邦訳
ガリレオ・ガリレイ『星界の報告他一篇』山田慶児・谷泰訳、岩波書店、1979年
ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』講談社(講談社学術文庫) 2017年

偽造の犯人マッシモ・デカルロは、勤め先だったイタリアのジロラミーニ図書館(ナポリ最古の図書館)から数々の古書を盗み、その紙やインクを使って、ガリレオ・ガリレイの『星界の報告』の複製を行った。後に地動説を唱える根拠となった月の観察記録だ。2005年に鑑定団が「本物」(真作)と認めるが、後にイギリスの若手研究者が贋作と看破した。デカルロは自宅で懲役7年の禁固刑となるが、ドキュメンタリーの取材班に対して「次は見破れない傑作を作る」と自慢のコレクションを披露する。ガリレオ・ガリレイの真の初版本であれば、オークションなどで数億円(推定10億円)はするといわれる。こうした行為は明らかに犯罪であり、刑罰の対象なのだが、贋作者は、専門の鑑定家を嘲笑するかのように、見破られない作品の制作に生きがいを感じているかのようだ。贋作者の異常な心理でもある。デカルロは少しも悪びれることなく、「次は見破れない傑作を作る」と偽造本のコレクションを披露する。

画材、紙質、顔料、活字などあらゆる面について、贋作者、鑑定家が持てる技量の最大限を尽くす。アイロニカルではあるが、こうした偽造本の鑑定をめぐって、鑑定技術も進化する。“史上最高の贋作”を作った犯人と、専門家の攻防は今も続く。決して好ましいことではないが、17世紀の印刷・製本技術の粋を見ることができ、ドキュメンタリーとしては興味深い。

思い出したこと
ガリレオ・ガリレイの名で思い出したことがある。このブログでは既にガリレオ・ガリレイに関わるテーマを2009年、2013年に取り上げている。今回はガリレオ・ガリレイの時代に立ち戻り、これまで指摘しなかった側面を展望してみよう。

ブログ筆者は、恩師の影響もあり、かねてから30年戦争などを題材としたドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの作品に関心を抱いてきたが、そのひとつに1947年刊行の戯曲『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫)がある。この戯曲は2013年に文学座によって上演された。ブログ筆者も微力ながらその過程に関わる機会があった。

ブログ筆者の関心はブレヒトの作品と生涯への探索から始まった。その過程で、ガリレイの裁判にも関心を呼び起こされた。ガリレイは地動説を唱えて以降、ローマの異端審問所から有罪判決を受け、 1633年、第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。その後、シエナ のピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。さらに、ガリレイは視力を失い、アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。

17世紀天文学者、科学者、知 識人のネットワーク
『ガリレイの生涯』などを読んでいると、17世紀というITは言うまでもなく、電話すらなかった時代にもかかわらず、かなり迅速に情報が伝達されていたことに驚かされる。とりわけ、知識人の間にはかなり濃密な連絡のネットが存在した。ガリレイの裁判なども、迅速に伝わったことだろう。

ケプラー、ガリレオ・ガリレイ、メディチ家コシモII世、グロティウス、リシュリュー、ハーヴェイ、フランシス・ベーコン、ルーベンス 、デカルトなど、この時代の知識人の間にはりめぐらされたネットワークの存在と役割に気づかされる。今日ではネットワークは、IT技術を駆使して構成されているが、17世紀においては主として書簡の交信によるものであり、時には構成メンバーが旅をすることで、情報が伝達されていた。こうしたネットワークの中心にいた人物の一人が、ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペイレスク(Nicolas-Claude Fabri de Peiresc 1580-1637) である。日本ではあまり知られていない人物だが、もっと見直されていい知識人だ。

ペイレスクはフランスの天文学者 、博物学者、美術品・骨董品収集家、そして役人であった。1611年に オリオン大星雲を発見した。北アフリカを含む、地中海周辺の各地で 月食]の観測者を組織して、その観測結果から各地の経度の差を計算し地中海の正確な大きさを求めた。ペイレスくが送った書簡は残っている限りでも1万通に及び、ヨーロッパ全域の知識人のほとんど全てをカヴァーしたといわれている。骨董品の収集でも知られていただけに、骨董屋ともいわれたようだが、今日に残る人物の活動領域を見る限り、この時代の文化人を取り持つ中心的人物のひとりであったことが分かる。

ペイレスクのパン屋の息子ラ・トゥールの隠れた才能を見出した代官ランベルヴィリエも、この画家の将来性について、ペイレスクとの間で書簡を交わしている。美術品へのペイレスクの関心が窺われる。

ガリレオ・ガリレイには多数の支持者がいたことも分かっている。有罪判決を受け、収監されているガリレイが、ペイレスクに宛てた書簡が残っている。書簡は1635年5月12日付で、内容は異端審問裁判における厳重な尋問、ガリレイの収監状況などが記されている。

ガリレオ・ガリレイの『星界の報告』の偽造に関わる者を追求することはそれなりにサスペンス・ドラマのような関心を生み出すが、400年近い昔において、人間の英知と文化の所産を守り抜こうとするネットワークが形成されていたことにも、注意しておくことも大切と思う。ペイレスクはガリレイやケプラーのような時代を代表するような天文学者、科学者にはなり得なかったが、政治や教会と科学研究を隔離、独立させることに貢献した。そして、可能な限りで、研究のために支援を惜しまなかった稀有な人物だった。

P. N. Miller,Peiresc’s Europe. Learning and Virtue in the Seventeenth Century, Yale U. Pr. 2000

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