時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

新たな「階級」論争:日本・ドイツ

2007年01月23日 | グローバル化の断面

 出所:Eurostat
「貧困率」 at-risku-of-poverty 以下の人々の比率(%) 。社会的給付移転後の可処分所得(メディアン)の60%。 人口構成調整、2003年



  「格差社会論」は、いまや日本やアメリカにとどまらず、ドイツでも盛んになりつつあるようだ。新年に送られてきたいくつかの文献を見ていたら、「ドイツよ、お前もか」という感じになってしまった。

  日本には、バブル期にみられたような「一億総中流」というおめでたいイメージはとうにない。ドイツでも健全な中産階級の国というイメージはいつの間にか消えてしまったようだ。ドイツは日本とよく比較されるが、格差論議についても似ている部分が非常に多い。資料を眺めながら感想めいたことを少し記してみたい。

  最近の日本では「格差社会」を肯定し、「ニューリッチ」の生成を誇らしげに語り、彼らを社会の活力の担い手と持ち上げる動きも高まっている。他方で、「ワーキングプア」に始まり、親子心中、高齢者の独居死など、いたましいニュースも多くなった。日本版「アンダークラス」(最下層階級)の顕在化といえるかもしれない。

  ドイツでは、グローバル化に伴う不平等の拡大は、同様に二つの議論を呼び起こした。ひとつはブルジョアの存在やその社会的評価について、もうひとつは「アンダークラス」の問題である。前者はかなり以前からくすぶってきた、後者は2005年頃に外国からの投資増加に伴う社会階層の盛衰をめぐって盛んになったようだ。

  「新ブルジョア」Neue Bűrgerlichkeit をめぐる議論は、新聞文芸欄などにみられる、やや行過ぎた知的遊戯のような様相を呈しているという。このまさにブルジョア的再生の風潮として、上等な衣服への嗜好、ラテン語の勉強、個人教授などが復活してきたことがあげられている。他方、新たなブルジョア時代の到来と積極的に評価する向きもあるようだ。

  第二次大戦後、「ブルジョア」 Bűrugerlichkeit は、ドイツ社会では居場所がなくなったとの評価が有力だった。この概念は急速に時代遅れのものとされ、1990年代初めでもブルジョアという言葉は侮辱の響きを持ったという。しかし、今日若いドイツ人はあまり抵抗感がないようだ。日本でも「ブルジョア」はいつの頃からか急速に語感が希薄になり、死語になりかけている。70年代くらいまでは頻繁に登場していた「プチ・ブル」 petit-bourgeois という言葉も、若い人にはなじみがないようだ。代わって、「ニューリッチ」が台頭してきた。対する「ニュー・プア」という言葉も目につくようになった。「階級」といういやな言葉も復活するのだろうか。

  ドイツではブルジョア論争よりは、新たなアンダークラス論の方が盛んになりそうだ。ドイツ人の8パーセント近くが、熟練度が低く、仕事もみつからず、改善の見込みがほとんどないグループだとの報告もある。グローバル化は経済的・社会的格差の収斂よりは拡大を引き起こすようだ。グローバル資本主義は人を幸福にもするが、不幸にもする。それでも「停滞」よりは良いのだろうか。

  多くの豊かな国のように、ドイツでも貧困は増大している。所得再配分後の全国メディアン(中位数)で、60%以下の可処分所得しかない人たちという尺度でみて、2004年にはドイツ人のおよそ16%は貧困者のグループに分類された。この比率は2000年と比較すると、大きな増加となる。数値自体はヨーロッパの平均くらいだが(図表参照)、ドイツの貧困率は、かつてはヨーロッパの平均を大きく下回っていた。いうまでもなく、東西ドイツ統合の影響が現れている。旧東ドイツの貧困率はイギリス型に近く、若年者と移民の間で高い。

  「アンダークラス」という言葉自体が差別的と思う人もいるが、新たな「アンダークラス」が生まれていることは事実のようだ。物質面での欠乏という問題も相変わらず深刻だが、文化的格差が拡大していることの方がいまや重要だと考える人もいる。ベルリン自由大学の歴史家ポール・ノルト Paul Norte は、今日のプロレタリアートはかつてのような上昇志向がないという。そればかりか、社会の主流から自らを隔てる生活スタイルとなっているらしい。

  こうした新階級社会論ともいうべき議論を見ていると、論点も実に多様化しており、とてもここで概括などはできない。その中で気になるのは、新しいアンダークラスの問題は、貧困それ自体でもあるが、それ以上に社会的移動、モビリティの不足にあると言う指摘である。その背景には、ドイツの教育システムが特定階層について選別的な作用を持ち、階級格差を拡大・固定化するという。

  日本の教育改革論議にもつながる論点だが、最近の日本の状況と対応は、労働改革と同様にあまりに拙速だ。教育改革案といわれる内容をみると、これまで長い間無為無策であった状況を、急に思いつきに近いような施策で修正できるのかという印象が強い。

  さて、ドイツの連立政権的状況は政党間の競争効果でプラスに働き、政党指導者を大胆な改革者に駆り立てる可能性があるとも予想されている。そうすれば、経済活性化、失業減少につながる良い結果が生まれるかもしれない。日本は連立効果も働かないとなると、どうなるのだろう。


Reference
'Class concerns,' The Economist November 11th 2006.
熊谷徹『ドイツ病に学べ』新潮社、2006年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学冬の時代:中国版

2007年01月23日 | グローバル化の断面

  センター入試が終わった。全入時代となっても、学生にとってはそれぞれに大きな試練の時だ。 

  中国の大学で10年以上にわたり教鞭をとられている日本人のF先生から、新春恒例のご挨拶を兼ねた「中国事情」が送られてきた。長い中国での経験に裏打ちされての観察は大変鋭く厳しいが、中国への愛も深い。現地の社会へ溶け込んで信頼を得て、はじめて知りうる情報も多く、いつも楽しみである。

  多くの話題の中から、特に大学問題についての情報は興味深い。中国の大学の数、規模はともに拡大に次ぐ拡大を続けてきて、進学率は10年前の約5%から今は20%以上になったとのこと。新卒者の数も10年前は100万人を切っていたが、今年は415万人。2007年は450万人に達する見通しで、10年間で4-5倍になるという驚くべき拡大ぶりである。

  中国の大卒者は文字通り将来が約束される「精英」(エリート)だったが、状況は一転して日本語学科や電子学科など一部を除くと、就職難時代に移行している。2001年には、85%以上だった就職率が、2005年には70%近くまで低下した。

  13億人の大人口を抱える広大な国なので、大学にしても実態を掌握することは大変難しい。しかし、清華大学を頂点に大学とは言いがたいような学校まで厳然たるピラミッド構造が出来上がっている。

  しかし、日本と同様に大学の乱造で、大卒者の初任給も低下傾向をみせ、東北地方では平均1000元。低いのは800元と、工員並みのところまで落ちている。短期間の間に大学数が爆発的に増えた裏には、国営企業の民営化に伴う失業対策としてのねらいもあったとのうがった見方も聞いたことがある。

  美国(アメリカ)留学、外資企業就職などに有利と、これまで人気の高かった英語科はどこも拡大しすぎて飽和状態となっている。それでも、地方の中学の先生なら口はあるが、目線の高い学生は敬遠して行かないらしい。

  中国教育部は、もはや精英(エリート)教育ではなく普及教育の時代に入ったとして、大学側に市場のニーズに対応した学部編成やカリキュラム改革を要請しているが、大学の対応が進んでいない。中国経済が将来成長鈍化すれば、大学生は失業予備軍化することは必至との見通しである。

  同じ話は中国人の友人からも聞かされた。このところ、中国の大学は政治問題もからみ内情はなかなか大変なようだ。大学という民主制が最も機能すべき場が、中央政府の影響力行使もあって複雑な状況に置かれているらしい。社会の動く方向を定めるについて、大学の社会的影響力が大きいからだろう。

  中国の大学市場の影響は日本にも響く。日本の大学の中には以前から日本人学生の応募が少なくなり、中国人留学生に頼っているところもかなりある。この小さな島国に1,000近い大学を乱立させてしまった日本は、今そのつけを払いつつある。アカデミアのイメージとは程遠い。日中両国ともに、大学の冬は長く続く。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「労働」ブームの危うさ

2007年01月22日 | 労働の新次元

  作家の恩田陸さんが、『文芸春秋』(2007年1月)の「06年、一番面白かった本」の中で、「「負け犬」「少子化」「未婚」「人を見下す若者」「国家うんぬん」などなど、最近ベストセラーになったりしたものの根底にあるのは、実はすべて労働問題だったということに気付く」と記されている。「労働問題」の定義次第とはいえ、最近、「労働」「働くこと」にかかわる問題が、きわめて増加していることだけは確かである。この意味では、もうひとつのブームとなっている教育問題も、労働に関わっている。

  これは歓迎すべきことなのだろうか。労働問題が大きく取り上げられる時代は、あまり良い時代ではない。振り返ってみると、日本人の多くが、「1億総中流」という思いを、たとえ幻想に近くとも抱けた時代は、労働問題への関心は低下していた。もっとも、その「豊かさ」は、際立って物質的豊かさであったのだが。

  80年代から労働組合活動への参加も少なくなり、組織率も低下の一方だった。「労働」という文字が入ると、本も売れませんよと、出版社から言われたこともある。しかし、このひと時の見かけの豊かさへの「陶酔」(ユーフォリア)は、バブル崩壊とともにもろくも崩れ去った。

 人々が仕事や働き方に大きな意味を見出し、生活におけるその位置や役割を考えることは望ましいことだろう。しかし、最近の「労働」ブームはどう見てもそうではない。仕事に生きがいを見出せない、働き疲れ、格差の拡大、将来への不安など、マイナスのイメージがブームを支えている。

  浅薄な制度いじりが横行し、「ホワイトカラー・エクゼンプション」に象徴されるような、働く人自身が理解できない制度が拙速に移植されようとしたり、短期的視点で全体を見失った改革フィーバーが展開している。

  90年代のアメリカで労働関係の「法律の氾濫」が話題とされたことがあった。目前の変化に対応するために、次々と新たな法律が作られ、専門家でも実態がどうなっているかよく分からなくなるという現象である。「労働ビッグバン」という最近の風潮も、その危険性を多分に含んでいる。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理念なき労働改革の挫折

2007年01月17日 | 労働の新次元

    「ホワイトカラー・エグゼンプション」(ホワイトカラー・労働時間規制除外)制度の通常国会への法案提出は、見送られることになった。労働分野の研究者の一人として、議論の渦の外から見ていて当然だと思う。「成果主義」という言葉が流行し始めて以来、言葉だけが踊り、実像の見えない議論が多くなった。

  「ホワイトカラー・エクゼンプション」は、確かに簡単に言ってしまえば、年収など一定条件を満たしたサラリーマンを残業手当ての適用から除外する制度ではある。しかし、英語名が使われているように、元来主としてアメリカというビジネス社会で、かなりの年月を経て熟成してきた制度である*。アメリカに特有な経営風土の中で形成されてきた働き方の仕組みであり、その部分だけを切り取ってきて移植しようとしても、うまく行くとはかぎらない。ひとつの制度がある風土に受け入れられて根付くには、かなりの時間とさまざまな条件が必要である。「日本版」はそれほど簡単には作れない。

  仕事の効率と報酬を結び付けたいという経営側の考えも理解できないわけではない。効率的に仕事をしている社員には相応に報いたいが、そうでない社員は残業代を抑制したいという意図は、この時代当然生まれる考えだ。

  それとともに、仕事も大事だが、家族などと過ごす生活も大事と思うようになってきた若い社員への対応のひとつという思いも、推進者のどこかにあったのかもしれない。(論点がずれているようだが、)残業代の出ない仕事などさっさと切り上げて、帰宅して家族と過ごしたらということだろうか。

  しかし、決定的に無理なところがあった。当のホワイトカラーの人々にとっても聞き慣れない制度を導入をした場合に、職場の風土を含めて暮らしや働き方のなにが変わるのかという説得力を持った説明がまったくできていない。自動車の部品が壊れたからといって、部品だけを取り替えれば動き出すという話ではない。

  「ホワイトカラー・エクゼンプション」に限ったことではない。「労働バン」とかいう軽薄な風潮に乗って、日本が世界にモデルとなりうるような「労働の未来」について納得できる構図を描く努力をすることなく、拙速に制度の改廃、雇用ルールづくりという次元での議論を進め、「魂なき技術論議」に終始したことが失敗の原因である。



* アメリカでは労働時間について直接の規制はないが、企業が従業員を週40時間を超えて働かせる場合、通常の5割増しの賃金支払い義務を負う。ただし、管理職などのホワイトカラーの場合は、適用が除外され、週40時間を超えて働いても割増賃金を支払う必要はない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新入りに冷たいEU

2007年01月13日 | 移民政策を追って

移民問題グローバル・ウオッチ  

   トルコのEU加盟が遠のいた今、ブルガリアとルーマニアへのEUの対応が注目されていた。今月から加盟が決定した両国は、EUにとってトルコほど大きな政治、宗教上の問題はない。ルーマニアにおけるハンガリー系住民、ブルガリアのトルコ系住民の問題はあるが、1割以下で大きな問題とはならない。両国にとって加盟のメリットは大きい。ただ、2004年加盟の国々と比較して、経済水準が格段に低いことが問題とされている。ブルガリアの一人当たりGDPはUS$3,480、ルーマニアは$4,490と、先に加盟した8か国の$9,240、EU全平均の$29,930と比較して大幅に低い。

  低い賃金水準と劣悪な社会環境を背景に、EUに加盟後は海外出稼ぎが大きな流れとなることが予想されている。すでに200万人のルーマニア人と80万人のブルガリア人は、自国の外に居住している。こうした点を見越して、EU側はこの2か国からの出稼ぎ移民に冷たい対応をとった。旧加盟国で完全に自由な移動を認めるのは、スウェーデン、フィンランドの北欧2カ国だけである。残り13カ国は規制措置を設定した。「新参者はすぐには仲間に入れないよ」 The new kids on the block (The Economist) という冷めた空気が支配している。

  EUは加盟拡大に伴う暫定措置として既存の加盟国に新規加盟国からの労働者の受け入れ規制を認めている。イギリス、アイルランドは開放政策を転換し、ルーマニア、ブルガリアからの受け入れ制限を実施する。ドイツ、オーストリアは04年加盟の中・東欧と同じく受け入れを規制する。そして、フランス、イタリア、デンマーク、ベルギーなどは人材が不足していうる建設やレストランに限り受け入れることになった。

  EUは建設工事や観光業、レストランなどサービス分野の労働の域内移動自由化を決めたばかりだが、現実には足並みが揃わない。

  これまでもブログ上でウオッチしてきたが、EUといっても加盟国間の政治・経済上の差違は大きく、移民労働者の送り出し国も受け入れ国も包含している。さらに、EU域外からも参入をめざす人たちが押し寄せてくる。とりわけ、正規の入国手続きを踏まない不法移民は最大の問題となっている。

  EUは域内の人の自由移動を認めており、一部の国が不法移民や低賃金国からの労働者を大量に受け入れれば、その後EU全体に影響が及ぶ。たとえば、スペインは2005年、不法移民に滞在許可を与える合法化措置を実施し、他の加盟国の反発の的となった。EUはスペイン経由の移民流入に危機感を強めており、昨年には事前協議の枠組みを整え、加盟国間の政策調整を強めることで一応の合意をした。ドイツは2007年からEU議長国を務めるが「域外国境の効率的防御」を予告している。これについても、EUはより「人道的な移民政策」をとるべきだとの批判もあるが、アフリカからの不法移民を受け入れる「開放政策」にも踏み切れない。

  アメリカ・メキシコ国境でも見られるように、ここでも国境は冷たい存在であり、押し寄せる移民の波に立ちはだかっている。


Reference
”The new kids on the block,” The Economissssst January 6th 2007.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョルジュの見た焔

2007年01月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  窯(かまど)の中に真赤に燃える炎が見える。薪を焼べる焚き口からは、妖しいまでに揺らめく焔の様子がうかがわれる。得体のしれない魔物のように、めらめらと踊り狂っている。一瞬として同じ形はない。見つめていると、魅入られたようになる。時には窯は夜を徹して焚き続けられる。

  こうした炎の姿をいつも目の辺りにする仕事は多くはない。陶芸家板谷波山(本名嘉七:1872-1963)の生涯を描いた映画を偶然に見る。学生時代、岡倉天心に思想的影響を受け、後に横山大観に続き、陶芸家としては初めて文化勲章の栄に浴した。その生涯はその作品と同じように、端正で気品とぬくもりで貫かれていた。幼い頃に見た陶磁器の美しさに惹かれ、一生を作品制作に捧げた陶芸家であった。 
  
  現代フランスを代表するの文人の一人パスカル・キニャールPascal Quinard* が記すところによれば、17世紀初めアンリIV世 の医師団の一人で名声高かったデュレ Duret は、炎は身体に良くないと思っていたようだ。この時代の医学の「常識」だったらしい。彼は暖炉の残り火を見ると、水をかけて消していた。蝋燭を見ると身震いした。これが17世紀が始まった頃、花の都パリの一情景だった。焔が燃えている部屋にいることに、医学という時代の最先端にいるこの男は耐えられなかった。
 
 
  ロレーヌのヴィック=シュル=セイユ では、同じ1600年、7歳の子供がパン屋のかまどの前に立っていた。今の時代よりはずっと大人びていたとは思われるが、彼がなにを考えていたのかは一切分からない。

  家業のパン屋を継ぐことをせずに、画家というきわめてリスクが大きく、先の見えない道を選んだジョルジュである。パン屋として父親ジャンが築いてきた信用によって、ラ・トゥール家は町では名の知られた存在であった。パン屋という職業は徒弟修業が必要であったが、家業であればその道はかなり見えていた。ジョルジュがまったく新たな職業を選択する必要はなかったはずである。

  画家ラ・トゥールの作品には、光、焔などが大きな役割を果たしていることはよく知られている。この画家の創り出した「光と闇」の世界は、時に「テネブレ」の次元にたとえられる。

 「テネブレ」Tenebrae とは、カトリックで復活祭の前の週の聖木、金、土曜日の3日間に行われる儀式である。キリストの受難と死を記念して行われる。エレミヤ書哀歌とマグダラのマリアの嘆き の歌唱が堂内に響く。赤色のローブと白色のサープリスをつけた子供が、ヘブライ語で神を意味する文字を一字ずつ消してゆく。それらを意味する蝋燭の明かりを一本ずつ消していくことで儀式は進む。すべては闇の中へと没して行く。

 バロック音楽における Tenebrae 「暗闇のレッスン」と、ラ・トゥールの絵画における蝋燭は、図らずも時代を共にする。デュレの心象風景には、テネブレが残像としてあったのだろうか。それとも医師としての経験がなにかを残していたのか。少し調べてみたい気もする。

 ラ・トゥールの作品は、夜を王国とした。内面の夜である。ジョルジュが画家となった動機がなにであったのか、謎は深い。少なくもかなりはっきりしていることは、父親が家業を継がせることなく、息子に画家の道を選ばせる決断ができたほど、ジョルジュは幼い頃から図抜けた才能のきらめきがあったに違いない。

 そして、いつの頃からか、この画家は「光と闇」について同時代の他の画家とはきわめて異なった世界を実現していた。作品の多くは、描き出された人間と画家自身の対話といってよい。その間をとりもつものが蝋燭や神秘な内面の光である。幼いジョルジュが窯の中に何を見たのか。焔の謎は深い。



Reference
パスカル.キニャールがタレマンTallemand des Réauxの言葉として記しているが、出所不明(未確認)。

Georges de la tour et quignard (français) par Quignard Pascal(Broché) , 2002.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「怒りの葡萄」その後

2007年01月05日 | 移民の情景

移民問題グローバル・ウオッチ  

スタインベックの名作、『怒りの葡萄』の情景を思い浮かべることのできる人は少なくなった。1930年代大恐慌の中、オクラホマの砂塵の舞う貧しい土地を離れてカリフォルニア州サン・ホアキン・ヴァレーへと新天地を求めた人たちの物語である。豊かな日の光と水に恵まれたこの地は、農業にとっては当時、理想の場所であった。自然の環境は今も変わらない。しかし、そこで働く人々の実態は70年近くほとんど改善されていないらしい。グローバル化は新たな貧困を再生産している。

  ブッシュ大統領の移民政策は、中間選挙後ほとんど実質的進展がない。イラク問題の収拾で手が回らないのだろう。しかし、政策実施が遅れるほど、不法移民増加などの既成事実が定着してしまい、選択肢はなくなり、対応は困難の度を増す。最近のニュースがその実態を伝えている。

不法移民が支える農業
  サン・ホアキン・ヴァレーは、「カリフォルニアのアパラチア」といわれたように、貧困者が多い地域ではあった。東部アパラチア山脈の一帯が、公的扶助などに依存して生きる貧しい人々が多いことはアメリカでは良く知られている。

  しかし、ヴァレーの現状は見方によっては繁栄しているともいえる。2002年、このヴァレーがあるフレスノ郡は28億ドルという全米の農産物の半分近くを生産した。それを支えるのは南の国境を入国に必要な書類を所持せず、あるいは偽造の書類で潜り抜けてきたメキシコ人などヒスパニック系労働者である。そして、この地域の農場主は、長らくこの安く豊富な労働力に依存して経営を続けてきた。

  しかし、いくつかの局面の転換があった。ひとつの転換は、
1960年中頃、それまで季節労働者を合法的に受け入れてきた「ブラセロ・プラン」が中止されたことである。その後、1970年代中頃に農業労働者の組合が結成されて、連邦最低賃金の倍近くまで賃金が引き上げられたこともあったが、農場主たちはあまり意に介さなかった。賃金率が2倍になったところで、彼らの採算にはあまり響かなかったのである。

  そして近年再び局面が変化した。過去数年間に国境管理が厳しくなり、同時にアメリカ側の建設産業が活況を呈したことで賃率が上がり、そちらに移民労働者が流れて、低賃金で果実採取などに従事する労働者を確保することが困難になってきた。

追い込まれる農場経営
  農場経営に関する自然条件が恵まれていても、人手が足りない状況が生まれている。カリフォルニア州選出の上院議員フェインシュタイン Dianne Feinstein が主張するように、不法移民をなんとか合法化して認める以外に、この地で農業を維持することが難しくなってきた。この地域はアメリカ国民にとっては重要な食料の供給地でもある。

  かつて日米の移民労働のフィールド調査を実施した時に、この地の農業は、もはやヒスパニック系(不法)移民に頼ることなしには存続しえないことを実感した。確かにコンバイン、トラクター、航空機による農薬散布など農業の機械化も普及したが、葡萄、いちご、トマトなどの摘み取りは、まだかなりの部分人手に頼らざるを得ない。

  こうした状況を背景に、サン・ホアキン・ヴァレーの農業労働者賃金は1993年から以前の6.29ドルから9.43ドルへ引き上げられたが、小売業などの産業と比較するとかなり低い。

寄せては返す移民の波
  「ブラセロ・プラン」廃止の後も長い間、メキシコの農業労働者は夏の収穫期に国境を越えて出稼ぎに来て、小さな掘っ立て小屋などを借りて住み、農閑期になると故郷へ戻っていった。国境はあってなきがごとし状況だった。しかし、いまや国境管理が厳しくなり、入国に必要な書類を持たずになんとか国境を越えたとしても安心できない。移民局などに発見されて強制送還されると、戻ってくるのが大変困難になっている。家族との離散も避けがたい。そのため、なんとかアメリカで見つからないように身を隠す努力をする。

  国境の南から太平洋の波のように移民が押し寄せ、そのかなりの部分がアメリカ国内に残るというイメージが生まれている。アメリカへなんとか入国できたら、そこを足場に家族を呼び寄せ、アメリカでの生活基盤の確保を図る。そのためには、本国送還されないように、さまざまな手立てを講じる。

  こうして、不法に入国したヒスパニック系労働者も世代が変わると、少しずつ社会的な地位上昇も進む。教育熱心なアジア系移民ほどではないにせよ、上昇志向は強い。教育が最も確かな社会的地位向上の道なのだ。

  アメリカは社会的格差はきわめて大きな国だが、これまであまり問題にされなかった。それは、きわめて苦難を伴う道とはいえ、「アメリカン・ドリーム」を実現させる空間が存在したからである。しかし、今アメリカも大きな岐路に立っている。格差拡大への不安がかつてなく高まっている。上下両院共に民主党優位となったアメリカ議会が移民にいかなる選択をするのか。その行方に、今年も目が離せない。


Reference
* "A job for all seasons." The Economist December 26 2006

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理念なき労働市場改革

2007年01月04日 | 労働の新次元

  年末から新年にかけて例年のことだが、過ぎゆく年と来るべき年への回顧と展望の時間が生まれる。新聞、テレビなどのメディアもこの時期はかなり集中して、大型番組を流す。
 
  そのいくつかを見ていて、ブログではとても意を尽くせない問題だが、気になったことについてメモを書いてみたい。流行語ともなった「格差社会」にかかわる問題である。日本人と比較して、アメリカ人は格差をあまり気にしない国民であるといわれてきた。アメリカは、先進国の中で最も貧富の格差の大きい国である。しかし、格差の縮小が国民的政策課題となったことはあまりない。今は貧しくとも努力して幸運に恵まれれば、自分も成功者の仲間入りができるかもしれないという「アメリカン・ドリーム」が、まだ生きているのだろう。

取り残される人々
  かつてジョン・F・ケネディ大統領が、「上げ潮になれば、ボートは皆浮かぶ」といったことがある。景気が回復すれば、失業、賃金など多くの問題は解決するという含意である。そこには、まだ幸せな時代であったアメリカの夢が端的に示されている。しかし、1995年以降、アメリカでも「ワーキング・プア」の問題が提示されるようになった。2003年時点で730万人近くが「貧困ライン」以下の所得しかないワーキング・プアに該当するともいわれる(BLS)。税控除後の所得で上位層は恩恵を受けているが、中位以下の労働者層の賃金上昇はほとんどない。  

     日本の安倍内閣も経済成長さえ維持できれば、経済問題の多くが解決すると思っているようだ。しかし、すでに戦後最長の経済成長という政府の発表にもかかわらず、所得格差は縮小せず、長時間労働など雇用の内容にもさしたる改善がみられない。

  その中で「働き方の多様化に対応した新たな雇用ルール」を設定する動きが、新たな法律作りや改正という形をとって進行している。その中心的柱役割を担うのは、労働基準法の改正案と労働契約法案(仮称)づくりである。

目標を失った改革論議
  政府側は労働政策審議会などでの検討を通して、通常国会への法案提出を目指している。個別の問題の検討は、それなりに必要である。しかし、重要なことが欠落しているのではないか。今のように個別の案件をいくら積み重ねたところで、人間らしい労働の未来像が浮かび上がるわけではない。議論がスタートした段階では、「労働契約法」の構想のように時代の流れに対応しようとの問題提起もあったが、議論が枝葉の段階に入り混迷するにしたがって、著しく形骸化している。

  政府が戦後最長の景気と誇示している目前で、「格差社会」「ワーキング・プア」の問題が提起され、多くの国民が将来に不安を感じている。日本の「労働の未来図」として、いかなるイメージが描かれているのか。10年、20年、50年後の「仕事の世界」として、どんなシナリオが描けるのか。法案作成を急ぐあまり、政策の基礎となるべき理念・構想の提示がなされていない。「労働の未来」が国民に見えなくなった。「木を見て森を見ず」の弊に陥っている。「改革」の後にいかなる「仕事の世界」が待ち受けるのか、国民にはまったく見えていない。

  「労働時間にしばられない自由な働き方」が検討に際して、ひとつの目標になっている。使用者そして一部の労働者にとっても、「労働力の流動化」という言葉は、耳ざわりよく響くのかもしれない。しかし、実際は企業にとって雇用調整がしやすい労働力を増やすことが主眼になっている。ビジネスの繁閑に応じて、労働投入量の調節がより自由にできることが期待されている。しかし、「流動化」は光と影を伴っている。

衰亡へのスパイラル
  ひとつの例を挙げてみたい。たまたま目にしたTV番組が、岐阜県の繊維産業の実態を 映していた。1万人近い中国人研修生、実習生が月給6万円程度の安い賃金(正しくは手当)で働いている。このブログでも再三とりあげてきたが、研修生という名のチープレーバーが拡大している。こうした「偽装雇用」ともいうべき実態は今始まったことではない。かなり以前から放置されてきた。そして、年を追って事態は悪化してきた。

  安い賃金で働く中国人研修生が、同じ労働市場の日本人労働者の賃金を引き下げ、労働条件を劣化させ、雇用機会を奪っている。研修生にとっても、地元の労働者にとっても、自ら望んだことではない。グローバル化の大波に翻弄されている中小企業としても、他になすすべがない。

  ロボット化もできず、生産費の安い中国へも工場移転できない状況で、中国からの繊維製品に対抗するためには、中国人労働者を低賃金・雇用する以外にないという選択である。経営者を含めて誰も満足していないという恐るべき現実が展開している。このままでは、出口はなく破綻するというスパイラルが生まれている。

  100年後には日本の人口は半減するとも言われるが、それほどの長期を待たずとも、すでに危機的状況が各所に生まれている。人口増と女性の労働・子育て両立化が焦点だが、それだけでは到底人口減少が作り出す問題の解決にはならない。タブー化して十分議論が尽くされていないが、移民の受け入れも決して万能薬ではない。しかし、働き手のいなくなる日本は、あらゆる分野で外国との協力、共生の経験を積み重ねていかねばならない。問題を先送りせず、しっかり国民的議論をする必要がある。移民受け入れの問題点を国民が十分認識する必要がある。長期的に予想しうる諸条件、制約の下で、いかなるシナリオが描けるのか。壊れたジグソーパズルは離散したままである。

  市場主義原理での解決という言葉が空虚に響く。将来を見通した議論をすることなく、セフティ・ネットの充実もなされることなく、目先きの労働力の流動化を追求することがいかに危険か。グローバル化に対応できず、翻弄されている状況がさまざまな惨状を生んでいる。安易な言葉に押し流されず、現実を見詰め、将来図を描き直し、そこにいたるまでの道に転落を防ぐしっかりとした防護策を設定することが先決ではないか。さらに言うならば、世界のモデルとなる「人間本位の労働生活」構想を率先して掲げる誇りを持つべきではないか。それとはおよそ対極にある、次々と破綻して行く実態に絆創膏を貼り続けるようなことだけは避けてほしいと、新年の願いは例年になく重いものとなってしまった。



「ワーキングプアII:努力すれば抜け出られるのか」2006年12月10日、NHKTV



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

A Happy New Year

2007年01月03日 | 雑記帳の欄外



謹賀新年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする