時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

貴族の処世術(3):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年01月30日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

 

Statute Représentant Charles III, Duc de Lorraine

1545-1608

Nancy, Musée lorrain

 

 

貴族になった条件
 近世初期17世紀、ヴィックのパン屋の次男から画家として名を成し、さらに貴族にまで栄達をとげたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯についての記述を読んでいると、さまざまな疑問が浮かび上がる。
ラ・トゥールはなにを評価されて貴族になったのだろうか。新妻ネールの父親がロレーヌ公に仕える貴族であることが、考慮の条件のひとつであったであろうことは推定できるが、貴族が一代で終わることはこの時代、珍しいことではなかった。当時の貴族に求められる人格要件などは、いかなるものだったのか

 

 他方、この画家をめぐる美術史などの記述には、貴族となった画家の金銭欲や粗暴な行動などが伝えられている。しかし、それらの根拠は、ほとんどが徴税吏などの第三者の記録であり、断片的なものに留まっている。これらの点を同時代の他の貴族たちと比較して、いかに理解すべきか、少なからず疑問を抱いてきた。

 この点を解明するひとつの糸口は、可能ならば同時代の同様な貴族との比較を試みることであると考えた。幸い近年の古文書研究と家系学の成果が、この謎をある程度解明してくれている。かならずしもこのテーマに限ったことではないが、近世初期のロレーヌに関する史料は、ナンシーの文書館あるいはパリの国立文書館にかなり良く保存されている。戦乱・騒乱などを幸いにもくぐり抜けて、今日まで継承されてきた貴重な資料だ。それらに基づいた研究がたまたま今回目に触れた。

ジャック・マウエの場合
 前回記した16世紀末、1599年にロレーヌ公から貴族に任じられたジャック・マウエは、ロレーヌ公国の政治の中心であるナンシーやメッスなどからは遠く離れた小村の地主に過ぎなかった。なぜ、ジャックは貴族にまでなりえたのだろうか。マウエ家の家系に関する詳細な研究によって、興味深い事実が浮かびあがってきた。

 ジャックの父親ニコラ・マウエは1500年代後半、北バロアBarrois の小村アタン Étain の村長だった。この小村はメッスへつながる要衝の地に位置していた。ニコラ・マウエは、村長として村人に対する公的サービスの提供などを行う資質は備えていたようだ。

 ジャックに貴族の称号を授与するに際して、ロレーヌ公シャルルIII世が判断基準とした要件がいくつか記録に残されている。そのひとつは、ジャック・マウエが「徳性、思慮深さ、慎重さ、勤勉など」を備えていることを称えている。特にこれらの要件は、ロレーヌのみならず、その他の土地でも同じように、同時代の人たちが貴族に必要な要件と認めていることが記されている。要するに貴族としての一般的要件をジャックも備えているとしている。ここで注目すべきひとつの点は、個人の人格について記しているが、家系には一切言及していないことにある。

重要な要衝としての認識
 注目されるのは、ロレーヌ公がジャックがマルス・ラ・トゥール Mars-la-tourの村に27年間居住していることに言及していることだ。この地は、ロレーヌの政治経済上の拠点であるメッスに隣接していて、ロレーヌ公国と司教区にとって、戦略上重要な意味を持っていた。

 さらに1590年代初期におけるロレーヌ公シャルルIII世とフランスのアンリIV世との戦いにおけるジャックの貢献を評価したようだ。シャルルIII世は敬虔なカトリック信奉者で、新教徒ユグノーの支援を受けたHenryIV世と対抗していた。アンリIV世が1589年にフランス王位に就くと、たちまちロレーヌ公爵領と司教区の間の前線で争いが始まり、平和協定が締結された1594年まで絶えなかった。マルス・ラ・トゥールは、ロレーヌ公国にとって、戦略上要衝の地と考えられていたようだ。ジャックが貴族に任じられた最大の理由は、こうした大国、小国入り乱れての領土争いにおけるロレーヌ公への貢献が評価されたためだった。

 中世以来、ヨーロッパの君主にとって、領土をめぐる戦い、そしてそれを支える財政的基盤の確保はなににもまして重要なものであった。戦いは大きな意味を持っていた。君主にとっては自らの領土の維持・拡大が彼らの存亡を定めることであり、そのための戦いは最大の関心事であった。当然ながら、戦略・戦術を含めて、軍隊の力が勝敗を定めた。そのために身を挺して武勲を挙げた者、戦略にたけた者が功労を評価されて、貴族にとりたてられることが常であった。何世紀にもわたって戦争の結果と領土の存亡とは表裏の関係にあった。その争いの中核的集団としての貴族にとって、戦争は常に中心的関心事であった。

 

 こうした戦乱の時代を生き抜くために、貴族たちは名誉や利得ばかりでなく、多くの負担も背負っていた。ロレーヌ公国では重要な決定は、旧騎士 ancienne chevalerieとして知られた建国以来の功労者として、いくつかの名家が握っていた。ロレーヌはフランスと神聖ローマ帝国の双方から影響を受けていたが、貴族制の実態についてはフランスに近いものだった。

 

 

 貴族に任じられるまではマウエ家は無名の家系であった。だが、マウエ家は、その後ほぼ5世代を通して貴族制の中で昇進を続けた。ロレーヌのような小国は、17世紀初頭の時代のヨーロッパではいたるところに見られた。王朝の盛衰は激しく、1代かぎりで消滅した貴族は多かった。しかし、この中にあってマウエ家は巧みに世の荒波を切り抜け、生き残った家系だった。それには巧みな処世術も必要だった(続く)。

 

 

 

同家の子孫は1900年代初期にナンシーの古文書館に家系に関わる重要書類を移管し、とりわけ初期の文書の滅失を免れていた。継承されている文書はかなり充実した形で残されているが、財政的史料、女性に関する史料はさまざまな理由で開示されないようだ。

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貴族の処世術(2);ロレーヌ公国の下層貴族

2012年01月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚



 

貴族になることは
 前回述べた通り、17
世紀近世初期のヨーロッパ小国の貴族とは、いかなる規範、信条あるいは人生観を持って生きていたのか。彼らはなにを基準として、君主から貴族に任じられたのだろうか。貴族になることはどんな意味を持っていたのだろうか。彼らに求められた条件、責務はなんであったのだろうか。これらは大変興味深い問題なのだが、問題の性質上、直接にその核心に迫ることは難しい。

 貴族制度全体あるいは著名な大貴族に関する研究は多数あるのだが、小国の下層貴族を対象にして、これらの問題に正面から取り組んだ仕事や作品は数少ない。しかし、さまざまな領域の研究者の努力で、今に残る断片的記録から、その輪郭を推測することはできそうである。ここでは、前回紹介したジョルジュ・ド・ラ・トゥールとほぼ同時代に、ロレーヌ公国の下級貴族であった一族の来歴についてのLippの研究を手がかりに、この問題の輪郭を考えてみたい。

 このブログで何度も記してきたように、17世紀ロレーヌ公国は西にフランス、東に神聖ローマ帝国という大国に挟まれた小さな国であった。この国の為政者はさまざまな手段で自国の独立・権益を守ることにあらゆる手立てを尽くした。他方、フランス、神聖ローマ帝国は、いわば緩衝地帯にあるこの小国を、なんとか利用あるいは自らの手中にと、多様な策略を弄してきた。他方、ロレーヌのような小国は、この時代のヨーロッパには多数存在し、それぞれに存亡をかけて、懸命に努力してきた。

 

 前回、肖像画で紹介した貴族シャルル・イグナス・ド・マウエ(1687-1732)は、17世紀末から18世紀前半、ロレーヌ公に使えた下級貴族である。彼が生きた時代は、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールよりは少し時代が下る。しかし、実はマウエ家は、ラ・トゥールよりもかなり前の代からロレーヌ公の下で貴族に任じられていた。話は、この家系でシャルルの祖先に当たるジャック・マウエが、貴族階級入りをした時期に遡る。16世紀末のことである。


貴族の誕生
 

 マウエ家の当主ジャック・マウエが貴族に任じられたのは1599年1月であった。彼はすでに70歳近い高齢で、メッス司教区、バロアに近い小さな村の地主だった。貴族への任命はいかなる理由で決定されたのだろうか。

 

 貴族になることは、君主であるロレーヌ公に対して、大きな忠誠と義務を負うことではあったが、名誉なことでもあった。貴族の勅許状 letters patentと共に、「紋章」coat of arms が授与された。紋章学 heraldry は、この時代の家柄、家系などを知るには、図像学 イコノグラフィとともに欠かせない学問なのだが、ここで詳細を記すことはできない。いずれにせよ、ジャック・マウエは、シャルルIII世の軍務官のひとりとしてロレーヌ公に仕えることになった。それと同時に、ひとたび戦争などがある場合には、軍費調達などの一端を担うことにもなっていた。ただ、シャルルIII世が勅許状でジャック・マウエに付与した内容は、単なる紋章以上のものであった。
 

 勅許状にはマウエ家が(他の貴族が付与されているのと同様に)、ロレーヌ公へのほとんどの租税公課の支払いから免除される特権が付与されることが記されていた。これらの特権は、当時すでに内容が関係者には共通に理解されていたものと思われ、一般的な表現で特権付与が記載されている。 

この租税免除の特権については、1620年ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生地ヴィック・シュル・セイユから、ロレーヌ公の領地である妻ネールの生地リュネヴィルに移住を申請した時に、ロレーヌ公アンリII世宛に特権供与の請願書を提出したことなどでご記憶の方もあるだろう。当時ジョルジュは27歳であった。この請願書には自分が貴族の娘と結婚したこと、画業は高貴な仕事であることなどが記されている。今日残る記録上で、ジョルジュが貴族の称号を肩書きに記しているのは、1634年フランス王ルイ13世への忠誠宣言書に署名した時である。画家は41歳と推定される。

 

  そればかりでなく、シャルルIII世はジャック・マウエと嫡子に、封建的な制度にまつわるさまざまな特権(たとえば、領民からの税の取り立て)、騎士への命令・指揮権、公国の領地、城砦、塔、領地などの使用、狩猟権、借地権、さまざまな司法的・行政的判断、貴族としてふさわしい権威の行使などを、直ちに認める権利を付与している。これらの特権の行使はジャック・マウエにとって、何にもまして大きな意味を持ったようだ。

 それを具体的に示すものとして、ひとつの例を挙げてみよう。勅許状が届けられて3ヶ月後の1599年4月28日には、ジャックは近隣のMars-la-Tourでいくつかの土地と村落を1300フランで購入している。さらに、7月には大量のブドウ酒や穀物の購入などを行っている。これらはすべて勅許状が一般的な表現で貴族に付与したとされるさまざまな特権の範囲に含まれるとされていた。いったい、どうしてこれほどの特権が、ロレーヌ公国の政治の中心から離れた地域の小村で、しかも高齢の一地主に付与されたのだろうか。謎は深まり、なにやらミステリーを解くような面白さが深まってくる(続く)。

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貴族の処世術(1):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年01月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

 
 

Anonymous. Portrait of Charles-Ignace de Mahuet, oil on canvas, 1700s, Musée Lorraine, Nancy, details.


 かつらのような長い髪と独特な髪型。ほとんど半円形のように描かれた眉毛。皮膚にたるみはみえるが、経済的には豊かな生活をしているようにみえる中年の人物。来ている衣装の材質、金釦の付いた上着など。 

 この画像の人物、いったいどんな人でしょう。名前を知る人はまずいないでしょう。少なくも現代人ではないですね。それではいつ頃、どこの国に生きた人でしょう。どんな職業についていたのでしょう。

  このブログでは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを含む主として17世紀の画家の作品と生涯について、断片的な感想、資料紹介などを続けてきた。とりわけ、ラ・トゥールの
作品とその生涯には、思いがけないことが重なり、かなり深入りしてきた。さまざまなことがあって、この画家とその時代に関わってきた。

素人の目で作品を見る

  これまで走り続けてきた人生で余裕が生まれたら、まったく新しいことを始めて見たいと思っていた。美術への関わりも、そのひとつの試みではある。他にも2,3あるのだが、ここに記すまでにいたっていない。別に「先憂後楽」、楽しみは後にと考えてきたわけではないが、幸い好奇心は絶えることがなく、多くのことが頭に浮かぶ。自制しないと、時間を忘れ、自分の専門以上に深みに入り込んで、止めどもなくのめりこんでしまう。 

 
専門として生きてきた世界ではしがらみもあり、いろいろな規制・自制も働き、それほど勝手なことはできない。しかし、まったく新しい領域では、素人の強みが発揮でき、物怖じせずに問題に対することができる。「めくら蛇に怖じず」の勇気も働いて、先人の苦労した点、取りこぼした点などにストレートに対することもできる。

 
これまで美術史を専門としたことはなく、一時期、修復学など中級講座程度を受講したことしかないが、機会には恵まれ、好きな作品を見る時間だけはかなり確保できた。思いがけないことが役立つことがある。専門家ではないだけに、しきたりや方法論にとらわれないで見てきた。 

 
仕事柄、かなり幅広い分野の人たちと交流があった。専門家といわれる人たちにもさまざまな人がおられる。中には自分のしていることが人生のすべてになり、普通の人から見ると恐ろしく偏狭な世界に生きておられるような方もいる。それはそれでよいと思う。この世の中で、それだけのめりこめる対象があることは素晴らしいことだ。ただ概して、優れた専門家は、自分の専門分野をかなり広い視野の中で位置づけられており、お話自体が大変興味深い。

 

閑話休題 

 このブログをお読みいただいている方は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという17世紀の画家が、ヴィック・シュル・セイユという小さな町のパン屋の次男から身を起こし、画家となり、ついにはロレーヌ公国の貴族、フランス王の画家に任ぜられるまでに栄達をとげたことをご存じだ。 

 
この画家の過ごした生涯については、乱世の時代に生きたこともあって、断片的な記録しかない。それも、本人の手になる記録文書のたぐいはほとんどなにもない。わずかに残るのは40点弱の作品だけだ。同じ17世紀でも少し時代が下り、社会生活も安定し、小市民的生活を享受しえたオランダのレンブラントやフェルメールとは比較にならない、厳しくも苛酷な環境に生きた。多くの謎に満ちた画家である。そこにこの画家と作品の魅力がある。

 画家をめぐる謎のひとつに、パン屋の息子がどうして貴族になれたのか。生地ヴィックからリュネヴィル移住に際して、ロレーヌ公に送った租税免除などの特権請願書になぜ、執拗なまでにこだわったのか。またひとたび得た租税免除などの特権を、他人からは傲慢にみえるほどかたくなに維持しようとしたのか。さまざまな場面で、貴族や王室付き画家の肩書きにこだわった。多くの疑問が解明されないままに残る。他の貴族たち、あるいは農民はどんな生活をしていたのか。ラ・トゥールの行動は例外だったのか。これまでの美術史研究書の多くは、これらの点に十分答え切れていない。今に残る短い文書記録などに則り、ほぼそのままに受け取っている。しかし、これらの記録は公的文書などの断片に留まり、それも他人が記したものである。本人がどう考えていたかは、まったく分からない。この画家の真実を知るには、残された作品や周辺状況から推察する以外にない。

下層貴族の世界
 
こうしたことを考えていると、17世紀当時のロレーヌ公国で貴族に任じられ、生きて行くためには、なにが必要であったのかという疑問が生まれる。貴族は「第二身分」とも呼ばれたが、専制君主の王や君主に仕え、農民、商人などの階級を支配した特権階級だった。しかし、貴族も階層分化していた。ラ・トゥールは、その出自からして平民から上方移動した下層貴族であった。

 
ロレーヌという小さな国の下層貴族たちは、いったいいかなる規範や考えの下に生きていたのか。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品、人生を考えながら、彼が生涯多くの時間を過ごしたロレーヌ公国の貴族の生活がいかなるものであったかを知りたいと思った。断片的なことはかなり分かってきたが、闇に閉ざされた部分の方が圧倒的に多かった。同時代に同じような環境に生きた人の情報はないだろうか。

 
思いがけない記録の発見
 探索の過程で一つの文献に出会った。それがこれから記す内容である。ラ・トゥール本人についての記録ではないが、ほとんど同時代に生き、同じロレーヌ公に貴族として使えた一下級貴族の記録が発見され、それらの解明によって、当時の貴族の生き方、処世術などがかなりの程度明らかになった。

 
ここで、冒頭のフレーズに戻る。かつてロレーヌ公国の公都であったナンシー(フランス東北部の都市)にあるロレーヌ美術館の2階に展示されている一枚の肖像画が上掲の人物である。この美術館、これまでに何度か訪れたのだが、残念ながらこの肖像画は記憶にない。他の作品に目を奪われていたのだ。

 
この人物シャルル・イグナス・ド・マウエ Charles-Ignas de Mahuetなる人物は、今日に残る記録によると、1559年に同じ家系の祖先である最初の人物が貴族に任じられた。「偉大なるシャルル」と呼ばれたロレーヌ公シャルル3世の治世で貴族となり、その18世紀初めまで、5代に渡って、貴族の称号を受け継いできた。そのほとんど最後に当たる人物である。時代は近世初期 early modern と言われる時代であり、ロレーヌという小国の下層貴族であった。ロレーヌ公国自体、戦乱、悪疫、飢饉など、大きな社会的変動を経験した時代にあって、マウエの家系はいかなる運命をたどったのか。ラ・トゥールの場合も、次男エティエンヌは途中で画家になることを断念し、親の七光りで得たものか、貴族のステイタスをなんとか維持しようとした。同時代の下層貴族の記録からなにが見えてくるか。少なからず、楽しみでもある(続く)。


 

 Charles T. Lipp. Noble strategies in an Ealrly Modern Small State; The Mahuet of Lorraine. University of Rochester Press, NY: Rochester, 2011, pp.249. 

 

追悼 

テオ・アンゲロプロス監督、1月26日、不慮の事故死を悼んで。「三文オペラ」を題材として映画を制作中だったとのこと、映画は完成するのだろうか。

 

 

 

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日本は消滅、再生は?

2012年01月16日 | 移民政策を追って

 



 フクシマ問題が脳裏を離れず、当初意図してきたブログテーマから次第に疎遠になってきた。ブログの当初の目的は、薄れ行く記憶を飛び石のようにつなぐためなので、この際時間を巻き戻して、少し記しておきたい。


閉じられる扉

 
ヨーロッパ、アメリカ、日本などのかつての先進国、移民受け入れ国の間で、移民政策の方向が、急速に保守的・閉鎖的な政策へと転換している。これらの地域へ仕事を求めて入国を目指す道はきわめて厳しくなった。歴史家としてのジャック・アタリが、ドイツ、ロシア、日本は「機械的な消滅」の最中にあると予言している。そのひとつの要因は人口減少、移民への対応にあるとされる(アタリの母国フランスはどうなのかと聞きたいのだが、それには言及していない)。とりわけ、日本は意識的にそうした方向を選択しているという。アタリの説明は十分でないが、言わんとすることは伝わってくる。日本は真の意味での決断ができない国なのだ(下段 YouTube)。


 大波が繰り返し押し寄せるように、再び移民への反発・反対が高まっている。その要因は従来から存在するのだが、受け入れ国における移民の増加とともに、国民からの反対が強くなってきた。反対の理由としてあげられているのは、主として、1)多くの不法移民への給付が国民の負担で行われている、2)移民は低い賃金で働き、国民の仕事を奪っている、3)イスラム教徒は受け入れ国の文化に同化できない、などである。

 これらの点については、多分に誤解に基づき作り出された面もある。たとえば、メキシコ側から越境してきた労働者に頼るほかない南部の農業経営は、アメリカ人国内労働者がもはやや就労をしない分野になっている。すでにかなり以前から、越境労働者に依存しないかぎり、アメリカ農業は立ちゆかなくなっている。

 
他方、ドイツのように、多文化主義の失敗を首相が公に認め、思い切り良く方向転換を図っている国もある。日本のように移民問題をことさら国民的議論に浮上させることを避け、なし崩し的に移民政策を決定し、出生率改善にも有効な手を打つことなく、高齢者層が政治的圧力で若い世代への負担を増すことで、生き延びようとしている国もある。またしても、ブログ管理人の考えることではないが、この国はアタリが言うようにひとたびは消滅し、50年後に再生するのだろうか。恐らく国として年老い、活力はなく、ただ死を待つような国にならないといえるだろうか。

母国へ戻れない人々
 
最近のジャーナリズムの流れは、受け入れ国の門扉が閉ざされたことによって、母国へ戻れなくなった移民(ディアスポーラ)、家族離散の意義と役割を積極的に評価する方向へと移行している。受け入れ国の壁が高くなれば、なんとかそれを乗り越えたいとの思いも強まる。壁が低い時には明らかでなかった合法・不法の差もはっきりする。閉鎖的な移民政策の導入を前提とすれば、ディアスポーラの存在もよりはっきりと是認しなければならなくなる。

 
雇用の機会がどうしても国内にないなどの理由で、国外に仕事を求めねばなならない人々は仕方がないが、最も望ましい方向は、自分たちが家族とともに居住する地域に、望む仕事の機会が存在することだ。そのためには先進地域は協力して、アジア・アフリカなどへ投資も行い、雇用の機会を創出する支援をしければ問題の解決へつながらない。移民はあくまで「例外的な人々」 exceptional people なのだ。このことはOECD、EUなどの場で以前から論じられてきたが、ほとんど実効ある策は導入されないできた。同じことは、被災地にも当てはまる。被災地に人が集まらないかぎり、再生は困難なのだ。

 移民のもたらす得失を限られたスペースで論じることはとてもできない。ディアスポーラについても、これまで記してきた通り、とりたてて新しい現象ではない。最近浮上してきた側面は、祖国の外に住む人たちが、さまざまなネットワークを拡大して、活発に活動している点を評価しようというのだ。ディアスポラが避けがたいからには、従来軽視されてきたプラスの面に着目しようとしている。 

 
世界史的に見ても、ユグノー、スコッチ、アイリッシュ、ユダヤ人あるいは日本との関係では日系ブラジル人など、海外移住者が果たした役割はきわめて大きい。世界には約21500万人の第一世代移民がいると推定されている。世界の人口のおよそ3%にあたる。彼らをひとつの国としてみたら、ブラジルより少し大きいくらいの規模になる。そして、特定の国、たとえばインドをとれば、2200万人近いインド人が国外に移住・生活している。 

 
移民大国アメリカでは、移民は人口の8分の1に相当し、技術・エンジニアリング産業の4分の1を創設したと推定されている。経済を牽引するITなど先端技術産業における移民の貢献に注目が集まっている。インドのコンピューター産業の発展におけるバンガローとシリコンヴァレーのつながり、中国へ戻る海外留学生(「海亀族」)の寄与などが度々話題となってきた。海外留学生は激減し、国内の産業へも優れた外国の頭脳を誘引できない日本のIT産業は、瞬く間に韓国や中国に追い抜かれている。

 このところアメリカは多くの若者を受け入れ、教育した後は、仕事の機会を与えずに母国へ帰らざるを得ないような政策へと傾斜しつつある。不法越境者を含めて、潜在的移民希望者には居心地の悪い環境が生まれている。共和党政権になれば、さらに保守化の程度が強まるだろう。ニューヨーク市長が「国家的自殺行為」という方向である。

 
欧米諸国、そして日本などが閉鎖的政策をとれば、送り出し国側は頭脳流出がなくなるという効果が強まるかもしれない。他方、彼らが目指す先進技術の習得によって、自国発展を目指すという役割、効果は削がれることになる。

ふたつの地域を結ぶ 
 
注目すべきは、ディアスポーラは急速に拡大する新興国市場とかつての先進国を取り結ぶ媒介者の役割を果たしていることだ。彼らはふたつの地域の間で、情報、技術、資金を流通させるに大きな活動をしている。

 
受け入れ国側の立場からすると、経済停滞に苦しみ、自国民の雇用を維持することが難しい状況で、国境を閉ざしたいという願いは理解できるが、それを上回る大きな危険も含んでいる。

 移民労働者は、受け入れ国に新しい考えや力をもたらす。これは入国してくる人々、受け入れ国側双方に良い効果をもたらす。移民を受け入れず、活性化の源を断つことは、自らの衰退の速度を速めることでもある。



 “The magic of diasporas The Economist November 19th 2011.

 

 

 

 

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絆の先を読む

2012年01月04日 | 特別トピックス

 

 

恒例となった、過ぎ去った年を象徴する一文字として、2011年3月11日、この国を大きく揺るがした東日本大震災後、被災地復興を願う象徴的言葉として「絆」が選ばれた。この言葉、受け取る人によって、こめる思いはさまざまかと思う。ちなみに『広辞苑(6)』によると、「(1)馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱、(2)断つにしのびない恩愛、離れがたい情実、ほだし、係累、繋縛」とある。

 

字義通り、大変日本人的な選択であると思った。ひとりの日本人として、この言葉のある部分は、共有できる。しかし、少し離れて、「絆」で今後の被災地復興・再生がはかれるかというと、多分に情緒的で、迫力に欠ける。関係者の強い連帯・支援を基礎とする、かなり大きな枠組みによる強力なテコ入れが欠かせない。

 

まもなく震災発生1年の日を迎えようとする今、求められているのは復興・再生に向けて被災地を積極的に創り直すことを目指す計画性と力強い実行力ではないだろうか。単に被災地をかつてあった状態に戻すことが目的でなく、さらに新しい次元を創り出すことだ。福島第一原発問題を含めて、単に家族愛、日本人、あるいは人間愛などで、被災地、被災者と他の人々を結ぶだけでは復興・再生は到底実現できない。

 

同じ日本国内でも被災地とその他の地域の間には、距離を隔てるほどに緊迫感が薄れ、疎遠な空気が生まれている。3.11の衝撃の光景、原発事故の恐怖も、時間の経過とともに、迫力を失ってゆく。放射能は目に見えない上に、現代人は、映像慣れしてしまっている。被災地を遠ざけ隔てる「見えない壁」が生まれ、被災地や被災者に閉塞感を生み出す。

 

被災地の人々はこれまで実に良く耐えてきた。しかし、国内外から集まったヴォランティアなどの方々の支援活動にも限度がある。さまざまな文化活動の力も素晴らしいが、それだけでは次の段階へは進めない。

 

次の段階とは、一定の産業集積とそれに基づく雇用の創出であり、新たな町や村創りだ。これについては、1980年代から世界のさまざまな所で試行錯誤がなされてきた。成功・失敗例を含み、かなりの方法的・実例の蓄積もある。特別区、研究パーク、研究・製造混合区などでは、かなり大規模、計画的なインフラ整備も必要となる。古い例ではイタリア東北部(「第3イタリア))のような伝統的産業の集積の例もある。町の親方たちが昼食時などに集まり、自分たちの町のあり方について、情報交換、提案するなどの例もあった。


 これまでの町村の行政域を超えて、伝統的な地場産業を集約し、集積するなどの試みが図られるべきではないか。これまで、ダイナミックな中小企業の類型、それらを育成する枠組みなども検討されてきた。単なる経済理論の次元にとどまることなく、より現実に近づいた枠組みと具体的手段の準備と実行が欠かせない。これまで蓄積されてきたさまざまな考えや方法をもっと投入して生かすべきだ。産業政策と雇用政策の間には、まったく有機的関連がない。経産省と厚労省は別の次元でばらばらに動いていて、政策としての連携が薄く、統合度がきわめて低い。

復興・再生に向けて、なににもまして重い意味を持つのは、福島第一原発にかかわる不安感、恐怖感を低減・払拭することだ。ここに最大限の力を結集すべきではないか。人類の安全確保のためにも、この地を国内のみならず世界中の英知や技術が流入し、結集する場に変えねばならない。フクシマを閉ざされた場所にしてはならないと思う。

 

大震災後、まもなく1年が経過しようというのに、復興の確たる枠組みが提示されているとはいいがたい。とりわけ、福島第一原発の影響で、域外へと避難・流出した人たちは、思いもかけなかった天災・人災のために、故郷から離れざるをえなかった。故郷とその他の地域を隔てる見えない壁は、「風評被害」などの予期せぬ差別も加わり、次第に高くなっている。

 

移民の世界では、故郷・故国を失った人たちを、しばしば「ディアスポラ」(Diaspora, 発音はダイアスポラに近い)と呼ぶ。元来、バビロン捕囚後、ユダヤ人がパレスチナ以外の地へ離散したことに由来する。そして、現代では(国・地域からの)集団移住、離散を意味している。

 

 被災あるいは放射能の影響を免れようと被災地から域外へ移住した人々、そして被災者の人たちは、現代日本のディアスポラでもある。生まれ育った故郷の地へ戻る可能性を奪われつつある。これ以上、ディアスポラ(故郷なき人々)を増やしてはいけない。

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