時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

破綻した外国人研修・実習制度(3)

2006年11月29日 | グローバル化の断面

  外国人労働者研修・実習制度の違反が、また問題になっている(NHK「クローズアップ現代」20061129日)*このブログでも再三取り上げてきたが、事業所の違反事例、研修生の失踪などの弊害が、年々悪化していることが指摘されている。この5年間に失踪者は1万人を越え、時給300円、時間外労働でも350円という最低賃金以下で働かせられている研修生もいることが発覚している。なぜ、これまでになるほど放置されてきたのか。

  番組は研修制度が悪用されていると指摘しているが、この制度(1993年に導入)は、すでに制度設計の段階から使用者による悪用の可能性が予知されていた。低賃金での労働者を求める使用者側の圧力に押されて、「単純労働者」受け入れ禁止の条件下で導入された妥協の産物であったからである。制度がそのための「隠れ蓑」とされる可能性は当初から予想されていた。「研修」による国際貢献という名目は、その目的を糊塗するものであったとさえいえる。本来ならば、「研修」と「就労」は、別のカテゴリーで独立の制度として透明度を維持して構想されるべきものである。それを承知の上で、無理やりひとつの制度として折衷した妥協の産物である。しかし、こうした制度は決して長続きしない。

  程なく制度の問題点は露呈する。妥協で歪んだ制度は、機能しないのだ。他方、安い賃金で働く労働者を求める使用者も多く、この制度で受け入れられる外国人研修生の数は、
最近は8万人にまで拡大している。

遅れた改善措置
  
  最大の問題は、かなり前から欠陥が判明したにもかかわらず、改善が行われなかったことにある。「研修」の名の下に安い手当で、厳しい労働条件で働かされる外国人研修生の問題は、何年にもわたり指摘されてきた。それにもかかわらず、ほころびを繕う程度で抜本的改革が後回しにされてきた。制度への不信感は高まるばかりで改善されることがなかった。

  最低賃金以下で働かされている外国人も多い。これまで何度か記したこともあるが、この最低賃金制度自体も根本的な欠陥を露呈してから多くの年月が経過している。グローバル化の時代に、「木を見て森を見ない」不毛な議論や分析が続けられている。研修生受け入れの任に当たる共同組合が、最低賃金違反を認識していない。

欠陥の原因
  労働市場にかかわる制度、政策の分野では他にも、重大な欠陥を含んだものがかなり目につく。その原因については、
1)制度設計時から検討が不十分で欠陥が存在した、
2)利害関係者の圧力で制度、政策が歪んで作られた、
3)導入後の現実の変化に制度が対応できなくなった、
4)導入後の政策をフォローするシステムが役割を果たしていない、
5)制度が複雑で分かりがたく、透明性が低い、
6)制度設計、検討の視野が狭く、「木を見て森を見ず」の弊に陥っている、
7)現行制度自体が、改革のための障害、桎梏となっている、
など多くの要因が考えられる。

  ここまでくると、制度改革の方向は明らかである。改革は遅れるほど痛みを伴う。基点に立ち戻り、制度の根本的再設計を期待したい。

教訓

1)設計の動機が不純な、透明度のない制度は破綻する。
2)過ちを改めるにためらうことなかれ。

「NHKクローズアップ現代:歪められた外国人研修制度の裏側」2006年9月29日

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サラトガ・スプリングスの紅葉

2006年11月28日 | 回想のアメリカ

  毎年、紅葉の時期になると思い浮かべる光景がある。そのひとつはかつて何度か訪れたニューヨーク州北部アディロンダック国立公園の紅葉である。日本の紅葉も実に美しいが、この地域の秋も視界全面、目を奪うばかりに紅葉して素晴らしい。

  今回は箱根の紅葉と温泉からの連想で、同じニューヨーク州北部のサラトガ・スプリングスの思い出の一片を記してみたい。場所はニューヨークから車で3時間くらい、サラトガ・スパ州立公園の中にある。その名前から連想できるように、ここにはアメリカでも珍しい間歇泉の温泉がある。ニューヨーク子やニューイングランドの人々のリゾート地である。またアメリカ最古の競馬場があり、独特の華やかな雰囲気をかもし出している。近くには、ギデオン・パトナム・ホテルというジョージアン風の素晴らしいホテルもある。

  この地を訪れることができたのは、まったく偶然であった。いまや生涯の友人であるB夫妻の奥さんが、サラトガ・スプリングスにある名門スキッドモア・カレッジ Skidmore College の卒業生だった。今では男子学生も4割近く入学しているが、1960年代の終わり頃は全学生1000人ほどの女子カレッジだった。一緒にニューイングランドの秋を楽しんだ時、キャンパスへも連れて行ってもらった。当時は男子禁制だったが、特別に見せてくれた。ドミトリーなど、高級ホテルに見えるほどの設備が準備されていた。学生が髪を洗うのに楽なように洗面台を設計したなどの説明を受け、そこまで配慮するアメリカの豊かさを感じた。そして、キャンパスの紅葉が実に美しかった。

  サラトガ・スプリングスの競馬は大変有名であり、Mさんは大学卒業後も、ニュージャージーで3人の子供を育てながら、しばらく乗馬クラブやスキーなどの競技会に出ていた。文学評論にも通じていた。アメリカの中産階級の人たちの人生とはこういうものかと思ったが、その後の人生にはかなり大きな波乱が待ち受けていた。

  サラトガ・スプリングスを訪れた頃、アメリカはベトナム戦争にかかわり敗色濃く、社会は急速に変化していた。少し経って振り返ると、アメリカの良き時代の終わりのひとこまを垣間見たような思いがした。

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紅葉狩り:箱根行き

2006年11月27日 | 午後のティールーム
  晩秋の一日、中国上海からの客人あり。箱根へ紅葉狩りに誘う。新宿から小田急特急で宮ノ下まで行き、登山鉄道で強羅へと上って行く。紅葉は今が見ごろとのことで、電車は中高年女性グループを中心に満席状態。強羅には共通の友人のS先生が都会の喧騒を離れて隠遁生活?を送っておられる。私鉄のPRでは紅葉は中旬・下旬が見ごろということであったが、紅葉事情に詳しいS先生によると、箱根の紅葉は赤色が少なく、さほどお勧めではないとのこと。

  確かに色彩の美しさという点では、いまひとつという感があるが、東京から2時間で標高700メートル、俗塵から離れた静かな環境は素晴らしい。強羅からケーブルカーでさらに早雲山まで上ると、晴天に恵まれ絶景であった。ケーブルカーの客も絶景に呑まれ、しばし声がない。皆、圧倒されたように無言でカメラのシャッターを押していた。客人のC先生ともに、来てよかったと思う。

  このあたり、バブル期に雨後の筍のように乱立していた企業の保養所が、合理化のためか居心地のよさそうなホテル・旅館に転換しているものが多い。この温泉だけは、火山国日本の生んだ独特の雰囲気であり、都会の生活で疲れた心身の癒しには欠かせない素晴らしいものだ。これまで訪れたいくつかの国でも温泉を経験したが、医療施設としての活用が多く、情緒に欠ける。日本の温泉の素晴らしさを再認識する。

  都会の生活、駆け足で走っているような人生。渦中にある時は気づかないが、距離を置いて見ると、その異様さに気づく。C先生によると、上海の変化はすさまじいらしい。グローバル化の怒涛のような流れが人々を駆り立て、押し流している。誰もそれを止めることができない。静かな山中でティータイムを楽しみながら尽きない話をしていると、「下界」の喧騒は狂気じみて見えてくる。
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フェンスでも断ち切れない移民の流れ

2006年11月26日 | 移民政策を追って
  アメリカ中間選挙で、イラクに次ぐ決定的な政治問題といわれていた移民問題だが、一部の州を除いて争点としては表面に浮上しなかった。増えすぎてしまったヒスパニック系移民を敵にまわすことは政治的に不利と、共和、民主両党ともに考えたからであろう。すでにアメリカ市民となっているヒスパニック系の中には、ヒスパニックがこれ以上増えるのを好まないグループも生まれている。エスニシティの壁は複雑である。ヒスパニック系住民は移民政策の対応が遅れている間に急増し、政治的にも大きな存在となった。
  
  「さわらぬ神にたたりなし」と両党とも選挙戦に入ると、移民問題を主たる争点としなかった。現実に争点として明暗を決したのは、イラク戦争と下院のスキャンダルであった。しかし、アリゾナ州のように不法移民増加の最前線では、この問題を避けては通れない。しかし、選挙前には不法移民へ強い対応を提示する共和党候補が優勢を伝えられたが、蓋を開けてみると、「移民」は票につながらなかった。

アメリカ:我々は誰なのか
  しかし、不法移民問題が自然に解決するわけではない。対応が遅れるほど、困難さは増すばかりである。このまま経過すると、アメリカの人口に占めるヒスパニック系の比率は、2003年の14%から2050年には25%近くに達すると予想されている。黒人の比率は現状の13%からほとんど変化しないとみられるから、ヒスパニック系人口の重みと発言力は大きく増加する。そして10%近くまで増えるとされるアジア系と併せると、アメリカのエスニックな構成比は、大きく変わる。白人(非ヒスパニック系)の比率は、2050年には約半数にまで減少する。アメリカはいまや「サラダボウル」「モザイク社会」ともいわれているが、その図柄も大きく変わる。

  これまで、ブッシュ政権、そして保守党の移民政策を批判し続けてきた民主党だが、上下院ともに多数を制することで、自分たちに批判の矢が向いてくること回り合わせになった。このブログで「定点観測」してきたように、ブッシュ大統領の移民政策(「総合的移民政策」)は、共和党議員(特に下院)の間では支持者が少なく、むしろ民主党議員の間で支持者が多い状況だった。そして、大統領候補にも挙げられている保守党マッケイン上院議員と民主党ケネディ上院議員の連携という他の領域では考えられない結びつきを生んでいた。

「総合移民政策」の3本の柱
  ブッシュ大統領の移民政策は簡約すると、3本の柱から成っている。第一は、アメリカの産業界が必要とする農業、サービスなどの分野で、合法移民のビザ発行数を増やすことである。第二は、南部の国境を越えて来る不法移民に対する政策を厳しくし、効果的な対応をとることである。そして、第三は、すでにアメリカ国内に居住している1200万人ともいわれる不法移民と家族に自らの力で、合法的な次元へ移行できる措置を導入することである。このすべてが実現して機能すれば、論理的には一応まともな政策体系となりうる。

  これまでブッシュ大統領が実現しえたのは、第二の国境のフェンス(壁)を高く、長く張り巡らし、パトロールを強化する部分のみである。いわば、物理的・地理的次元での対応である。現在は75マイルのフェンスを延長・拡大し、約700マイル(1100キロ)のフェンスを新たに築くことになっている。しかし、議会での政治勢力バランスも変わり、実際にいかなる結果になるか不明な部分も多い。

  そして残された政策も、実現は決して容易ではない。「移民の国アメリカ」では、移民政策に関する国民の合意形成が難しい。ブッシュ大統領に残された任期2年の間に、実現しうるか。共和党員の間には、民主党のお手並み拝見という気分が生まれている。民主党の支持基盤の一角を形成する労働組合も、移民増加には批判的であり、ボールを投げ返された民主党は当惑気味でもある。

  民主党は公約のひとつである連邦最低賃金率の引き上げに取り組むだろう。アメリカの賃金が上がると、国境を越えようとする人の流れの圧力も高まる。フェンスはいかなる役割を果たすだろうか。その背後には、グローバル化する労働市場が急速に浮かび上がっている。フェンスで断っても断ち切れない関係が両国間に展開している。

References
Tamar Jacoby. "Immigration Nation." Foreign Affairs. November/December 2006.
中間選挙以前に書かれており、観念的、楽観的だが問題の整理には役立つ。
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介護士を目指す15歳

2006年11月25日 | 移民の情景

  日本でも男性の看護師、介護士に時々出会うようになったが、未だ圧倒的に少数派である。しかし、フィリピンでは珍しくない。 偶然、BS1の番組 「介護士を目指す15歳の少年:僕とおばあちゃんのために」『アジアに生きる子供たち』で、その涙ぐましい苦闘の日々を見る。

  フィリピンの小さな町カランバで、年老いて病いに悩み、余命も少ないおばあちゃんの面倒を見ながら、ジュニア看護師養成学校へ通っている15歳の少年ジェフリー君の毎日が映し出される。父親は15年前に家出、母親は海外出稼ぎに出たまま消息不明。20歳の兄デルフィンは、失業しており、おばあちゃんの介護をするつもりもない。

  ジェフリーは漁師の手伝いや町のレストランで夜中に働き、学費と生活費を稼いでいる。介護士養成学校の制服を買うお金もないほどの貧しさだ。しかし、こうした貧困の極みの日々を過ごしながらも、おばあちゃんの面倒を見つつ、学校に通っている。その姿は実に感動的である。日本ではあまり目にしなくなったイメージである。

  看護師養成学校の実習では、日本人が経営している高齢者向け施設で1週間を過ごす。実習生のひたむきな奉仕の姿が見る人の胸を打つ。時にいらだったり、わがままになる高齢者にもじっと耐えて、介護する若者の姿は感動的で言葉がない。将来、この施設で働くことができるようになったら、どんなに素晴らしいことかという彼らの思いが画面を満たす。

  身よりもない環境の中で、やっと心を許せる友達となったマイケルの家も、姉ルースがクエートで介護士として6年間働き送金し、7人家族を支えている。一時帰国したが、まもなくサウジアラビアへ出稼ぎに行く。海外への出稼ぎ生活が多くの苦難を伴っていることはいうまでもない。しかし、この姉もその一端は口にしても、じっと耐えている。

  国内に雇用の機会が十分ないフィリピンでは、多くの人々が海外へ出稼ぎに行く。肉親、家族から離れて見知らぬ地で働くことは良いことばかりではない。海外で働いている間に、家族と離散状態になってしまうことも珍しくない。逆境にくじけないフィリピンの人々の明るさだけが救いである。

  しかし、一歩距離を置いてこの厳しい実態を見つめる時、果たしてこの状況を続けていていいのだろうかという思いがする。フィリピン政府は経済発展が軌道に乗るまでの間、海外移民に頼るといい続けてきた。大統領は「海外出稼ぎ労働者は英雄だ」とまで持ち上げる。しかし、この国はあまりに長い間、こうした状況を続けてきた。生まれ育った土地や国に、仕事の機会があることが基本的には望ましいことである。貧困から逃れるために海外出稼ぎを企てる過程では、ブローカーなどから多額の借金を負ったりもする。グローバル化の時代とはいえ、海外出稼ぎは次ぎの選択であるべきだ。そのためには、なにをしなければいけないのか。移民問題の原点がそこにある。



 * 「介護士を目指す15歳の少年:僕とおばあちゃんのために」 『アジアに生きる子供たち』2006年11月23日 BS1

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追悼ウイリアム・スタイロン(3)

2006年11月22日 | 回想のアメリカ

  11月3日に取り上げたウイリアム・スタイロンの作品『ナット・ターナーの告白』 The Confessions of Nat Turner (1966)について友人から尋ねられた。この作品を読んだのは、ずっと昔のことなので、その後邦訳の出版があるか調べたことがなかった。インターネットで当たってみると、1979年に大橋吉之輔氏の訳で河出書房新社から刊行されていることが分かった。しかし、今は残念ながら、古書扱いのようである。

  あれだけ著名な作家なので、スタイロンの訳書もかなりあり、当然楽に手に入るものと思っていたが、まったくの誤算であった。不思議なことに、日本での知名度もいまひとつのようなのだ。立ち寄った新宿の著名な大書店では、『暗闇に横たわりて』(須山静夫訳、白水社、新装版)だけが在庫にあったが、なんとフランス文学のコーナーに入っていた。最近はしばしば見かける「作家追悼コーナー」もなかった。個人的には、ノーベル文学賞が授与されても不思議ではないと思う作家なのだが。

  一寸ショックを受けて、自宅の書棚にあった書籍を引っ張り出した。これはさすがに「リストラ?」されずに残っていた。1968年刊行、赤い表紙のPB版である。スタイロンがピュリツアー賞を受賞した後の版である。

  懐かしくなって、ページをめくってみる。記憶が蘇ってきた。この版には、Author's Note (1967)がついている。主題は、アメリカ史でも著名な1831年に起きた「ナット・ターナーの反乱」である。ヴァージニア州サザンプトンの農園で働いていた奴隷のナット・ターナーが指導者となって起こした反乱事件で、仲間の奴隷とともに彼らの所有主であった家族を含め、50人以上の白人を殺害した。その鎮圧のために軍隊が投入された。ナットは当時28歳。きわめて優れた若者で聖書にも詳しかった。彼は白人牧師の語る「奴隷制度の正当化」に納得できずにいた。そして、ある日、神の啓示を受けて(ここはひとつの論点)、奴隷たちを解放することを決意する。そして、仲間を集めて大反乱を起こした。

  スタイロン自ら、小説ではあるが史実に基づいて描いたと語っている。冒頭に To the Public と題して、捕らえられた首謀者の一人ナット・ターナーの告白にかかわった7人の判事たちの立証文書が掲げられている(この告白はいわゆる『告白原本』として、後の論争のベースとなる)。ナット・ターナーを含む首謀者たちは逮捕され、全員縛り首の刑となったが、それ以外に120人を越える黒人が殺害された。

  この反乱の重要な意味は、過酷な労働、重圧に耐えかねた黒人奴隷の農場主などへの怒りの爆発という次元を超えて、「神の啓示」が背景にあったという点において、深刻な衝撃をアメリカ社会に与えることになった。

  スタイロンのこの作品が出版されてから、ターナーに回帰する新たな論争がアメリカ社会に起きていた。「アンクル・トム」とはまさに対極の奴隷イメージの「ナット・ターナー」像をめぐって、激しい論争がキャンパスでもあったことを思い出した。友人のパーティで紹介されたアメリカ奴隷制と知識人に関する著作を出版したばかりのS教授(いただいた著書を持っているのだが、見つからない)の話も、かなり鮮明によみがえった。いずれメモを記すことがあるかもしれない。奴隷制と知識階層との関わり、奴隷制の評価、ヴェトナム戦争を背景として、白人よりも黒人の徴兵率が高い、などの論争も行われていた。遠い昔のことだが、昨日のことであったような気もする。


*
 William Styron. The Confessions of Nat Turner. A Signet Book, The New American Library, Inc. New York, N.Y., 1968.

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外国人看護師・介護士とともに

2006年11月22日 | 労働の新次元

  今年は日本・フィリピン国交回復50年とのこと。来年から日本はフィリピンから看護師・介護福祉士を受け入れることで合意している。厚生労働省関係の看護師需給予測は、多少なりとも実態を知る者から見ると、予測の条件設定、作業内容についても大きな問題があり、今後需給ギャップが縮小の方向に進んで行くとはとても思えない。数字上、看護師の供給は増えているかもしれないが、実際の需要はそれ以上に増えている。

  看護師、介護士の人手不足は強まるばかり。看護師の潜在有資格者が多数いるから、その復帰を目指すと職業団体はいうが、説得力はない。
現在の労働状況で需給が改善されるまでに、職場を離れた看護師が仕事に復帰してくるとは予想しがたい。病院の労働条件は厳しく、離職率も高い。離職中の医療・看護技術の発展も早い。看護師、そして介護士の労働条件は年々厳しくなっており、むしろ、実態はさらに悪化の方向へと進む可能性が高い。看護師の労働条件の改善はいうまでもなく、夜勤体制、労働時間、給与水準など早急な見直しが必要である。旧態依然たる「白衣の天使」的イメージに期待することでは、問題はなにも解決しない。この職業分野が真に魅力的なものとならないかぎり、需要に見合って供給が増えることはない。需給が逼迫すれば、給与などの労働条件が改善されるとの考えはきわめて長期についてのみ当てはまり、実態の改善にはつながらない。

  そうした中で、フィリピン看護師・介護士 caregivers の受け入れが決まった。しかし、その背景は外交上、日比両国の面子を維持することが前面に出た政治的決着であり、看護師・介護士労働の実態を踏まえて、その中で外国人看護師・介護士をいかに位置づけるかという観点での検討はまったく行われていない。そのため、受け入れの条件を厳しくし、日本語、国家資格試験など、バーを高めるということに重点が置かれている。しかし、受け入れると決めたからには、そのあり方について、より広い視野からの位置づけ・対応が必要である。

  数は少ないが、日本で働いているフィリピン、ヴェトナムなどの看護師、介護士の献身的なサービスは、高く評価されている。今後の日本の医療・看護・介護の領域を、日本人だけで充足して行くことは、いまやほとんど不可能、非現実的となっている。そればかりではない。日本は今後あらゆる分野で外国人労働者の力を借り、お互いに協力して行かねば存立していくことができない。日常の生活の中で、外国人と助け合い、共存して行く経験を広く着実に蓄積して行く必要がある。すべて日本人だけで充足できるという認識は改めねばならない。


* 「日本で働くフィリピン人介護士」NHKニュース2006年11月21日

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ポール・ジャモ:ラ・トゥールを再発見した人々

2006年11月20日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

    ラ・トゥールという画家とその作品が、17世紀以来長らく歴史の闇に埋もれていたことは、この画家に関心を持つ人々の間では良く知られている。当時はフランス王室の画家にまでなった有名な画家だったが、その後さまざまな理由で、人々の視野から消えてしまった。ところが、20世紀に入って、次々と作品が再発見され、画家の生涯にも少しずつ光が当たってきた。

  その「発見の歴史」では多くの興味ある出来事が起きているが、1934年パリのオランジュリー美術館で開催された展覧会がラ・トゥール発見のひとつの契機となったようだ。「17世紀フランスの現実の画家たち」と題されたこの展覧会は、大変よく企画、検討されたものであったようだ。さすがに私も生まれる前のことであり、詳細を知るよしもないが、画期的な展覧会として今日に伝わっている。

  折しも、明日11月21日から新年3月5日までの会期で、今年5月新装なったオランジュリー美術館のお披露目として開催される特別展がまさに、この1934年の再現、「オランジュリー、1934:現実の画家たち」les Peintres de la réalité なのである。ラ・トゥールの発見と評価に多大な貢献をしてきたオランジュリーとして、満を持したともいえる大変素晴らしい企画であり、この希有な画家についてさらに新たな知見を付け加えることだろう。今回はいかなる評価が与えられるか、大変楽しみである。忙しい日程だが、ラ・トゥール・ファンの一人として、なんとか見てみたい(上記のサイトには、あのあやしげな目つきの女性たちが出ていますよ。)

  1934年の展覧会には、イタリアで活躍していたカラバッジョ派の画家やロレーヌなどの地方画家の作品150点近くが展示され、パリの画家になじんでいた人たちを驚かせた。この中には、ル・ナン兄弟の作品17点やラ・トゥールの作品も含まれていた。
  
  
 この展覧会では、「聖ヒエロニムス」(グルノーブル)、「聖セバスティアヌス」(ルーアン、カタログを作ったステルランはラ・トゥールの作品と考えず、リストに入れていない)、「女性の横顔」(1930年にラ・トゥールの作品とされた。断片が現在ヴィック=シュル=セイユ)の3点を除く、当時ラ・トゥールの作品とされたものが、すべて展示された。さらに、それまで公開されたことのなかった「辻音楽師のけんか」など5点が出品されていた。

  展覧会を企画したのは、当時ルーブルの絵画美術部門の学芸員であったポール・ジャモ Paul Jamot であり、展覧会のカタログは学芸員のシャルル・ステルランが書いた。ポール・ジャモが残したラ・トゥールに関する一冊*が手元にある。

  ポール・ジャモはル・ナン兄弟に関する論文を多数残しているが、ラ・トゥールについても論文を書いていた。それを死後、姪のテレーゼ・ベルタン=ムロが、まとめて1942年に刊行したものがここで紹介する書籍である。その多くは、ジャモの生前に美術評論誌などに掲載されたものを、編集しなおしたものである。カタログ調ではなく、ジャモの考えに沿って編まれたユニークなラ・トゥール紹介である。

  この60ページ程度の小冊子に収録されたラ・トゥールの作品の中で「手紙を読む聖ヒエロニスムス」(Saint Jérôme etudiant dans sa cellule. Au Musée du Louvre, Paris.) と「灯火の前のマグダラのマリア」(La Madeleine à la veilleuse. A Mr.Camille Terff, Paris. ) の2枚だけがカラーであり、残りはモノクロ印刷である。表紙もモノクロである。しかし、このモノクロが感動的に美しい。高い印刷技術の水準を感じさせる。すでに65年近い年月が経過しているにもかかわらず、それを感じさせない。後年の出版物でもこの水準に到達していないものも多く、実際の作品を見られなかった当時の人々にとっても大きな感動を与えたものと思われる。

  実際、1934年の展覧会は2度にわたって延長されたといわれ、この画家の評価に大きな影響を与えたものとなった。こうして、ラ・トゥールは急速にプッサンやクロード・ロランなどと肩を並べる17世紀フランスの大画家として認められるようになって行く。画家の発見は、小さなことの着実な積み重ねであることを実感する。
 

 George de La Tour par Paul Jamot, Avec un Avant-Propos et des Notes par THÉRÈSE BERTIN-MOUROT. Paris: LIBRAIRIE FlOURY, 1942. pp.59.

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17歳の決断:アメリカ軍のリクルート

2006年11月18日 | 回想のアメリカ

    11月17日の「追悼ウイリアム・スタイロン」の記事の中で、かつて若い頃、アメリカの大学キャンパスで目にしたROTC(Reserve Officers' Training Corps:予備役将校訓練部隊)について言及した。ところが、翌日の18日、ふと見たBSドキュメンタリー「高校生を獲得せよ:米軍リクルート活動」*で、ジュニアROTCをとりあげており、あまりのタイミングの合致に目を疑った。

  イラク戦争に深くかかわっている米軍は、多数の兵員を必要としている。そのために、1960年代から、Junior ROTCと称する高校での軍事教育訓練を実施している。現在では全米で3000校、高校生40万人が参加している。ニューヨークでは、米軍はブロンクスなど黒人、ヒスパニックの多い地域で、重点的にリクルート活動を行っている。貧困な家庭のため大学に行かれない高校生を、除隊後の奨学金、在役中の安定した給与で誘っている。

  数は少ないが、軍のリクルーターを生徒に近づけないよう追い返しているしっかりとした校長もいないわけでない。しかし、人生経験の浅い17歳の高校生は、リクルーターの執拗な勧誘で入隊を決めてしまう

  9.11以後、愛国心に訴えるリクルーターに誘われて、軍隊に入ったところ、たちまちイラクへ送られ、幸い帰国し、除隊した若者の1人が、これではまるで「貧困者に的を絞った徴兵制度」 economic draft だと述べていたことに共感した。

  現在では海外派兵の対象とはならないと思われていた州兵も海外へ派遣される。さらに、「落ちこぼれ防止法」No Child Left Behind Act という驚くべき法律が軍リクルートを支えるひとつの背景になっていることを知り、さらに愕然とした。「教育基本法」審議の現状を目の前にして、しばらく不眠につながる原因が増えてしまった。


* 「高校生を獲得せよ:米軍リクルート活動」BSドキュメンタリー・シリーズ、2006年11月18日

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追悼ウイリアム・スタイロン(2)

2006年11月17日 | 回想のアメリカ

  11月1日に亡くなったウイリアム・スタイロンを偲ぶ論評がいくつか見られるようになった。この作家の作品は大変好きなのだが、読むたびに大きな衝撃を受け、いつも立ちすくむ思いがしてきた。

  スタイロンほど人間や歴史の深部、とりわけ暗黒部に深く切り込み、正面から立ち向かった作家はあまり多くない。ある弔辞が記していたように、人種問題やホロコーストなど、他の作家が避けて通るような重く難しい問題ばかり選んで対決して来たようなところがある。スタイロンの作品はかなり読んできたが、作家自身の人となりや人生の歩みについては、比較的最近まであまり知らなかった。
  
  若くしてその才能を認められたスタイロンは、作家として恵まれた出発をしたと考えられる。最初の小説『闇の中に横たわりて』"Lie Down in Darkness"が刊行され、大きな賞賛を受けたのは1951年、26歳の時であった。ヘミングウエイ、フォークナーを引き継ぐ作家として、期待されてきた。しかし、スタイロンは自分がフォークナーの継承者あるいは「南部派作家」として定型化されることをひどく嫌った。それにもかかわらず、スタイロンはさまざまに南部の精神的風土や問題と深く関わり合ってきた。作品の舞台が南部であっても、スタイロンが描いたのは「不信と絶望」が支配する現代社会なのだ。

  ヴァージニア州ニューポート・ニューズの造船所で働く父親を持った作家は、そこから離れ、距離を置いて南部を考えたいと願っていたようだ。そして、ニューヨーク郊外へと移り、1952年にはパリにも旅した。ヘミングウエイの人生とも重なり合いそうな部分もある。スタイロンは、第二次世界大戦で海兵隊員として軍務に服し、1945年には沖縄にいたこともあった。海兵隊員は前線で最も危険にさらされる軍務である。

  『ナットターナーの告白』(1967)は、文壇に大きな衝撃を生み、多大な讃辞の反面で、白人が黒人の心を描くことは出来ない、史実に不正確だなど、激しい批判の嵐にあった。それでも、ピュリツアー賞が授与された。この作品が出版されてから、およそ40年の年月が経過した今日、振り返ってみてもアメリカ文学史上大変重要な作品だという思いは強まるばかりである。アメリカという国の実態が少しずつ分かりかけてきた私にとっても、その理解を大きく深めてくれた一冊である。当時は、ヴェトナム戦争が展開しており、それと重ね合わせて、読者としても重い課題を背負った。

  この頃、私が在学した大学院宿舎で一時期ルームメートであった学生ジムは、アメリカ陸軍で軍役に服した後、除隊しヴェテラン(退役軍人)としての教育上の優遇措置を得て、大学院へ入学してきた。私より年上、30代のやさしい静かな男だった。しかし、彼も自ら語りたがらない過去を背負っていた。夜中に夢遊病者として歩き出してしまうほど、トラウマに苛まれていた。一般のアメリカ人学生とも離れ、ただ黙々と勉強していた。彼がその後どんな人生を送ったか、音信が途絶えてしまった今でも時々頭をかすめることがある。

  大学キャンパスには、ROTC(Reserve Officers' Training Corps:予備役将校訓練部隊)が置かれ、絶えず軍事訓練が行われていた。キャンパス内に軍服姿の学生を見るのはきわめて異様であった。アメリカにとって「正義のない戦争」という前線のイメージは、テレビや増える一方の戦死者などを通して、キャンパスへも次第に浸透してきた。ヴェトナム戦争で敗北したアメリカは大きな転換期を迎えたのだが、その後イラク戦争を始めたことで、さらに癒しがたいほどに自らの傷を深める道を今も進んでいる。

  スタイロンは作品テーマの苦悩と自らの苦悩を重ね合わせていたようなところがあった。作家はグスタフ・フローベルの言葉にならい、自らの生活を律することが、読者を大きく揺り動かす、ヴァイオレントで独創的な作品を創ることができると努力を続けていたらしい。

  60歳の時、それまで愛していた「アルコール」と決別する。その後、大きな欝が襲いかかった。最後の作品となった『見通せる闇』 Darkness Visible(1990) は、まさに「絶望の先にある絶望」についての作家自身の果敢な闘いともいえる作品となった。

  しかし、スタイロンの晩年の作品には絶望的な闇の中に、張り詰めた救いのなさをわずかに和らげるような人物やプロットが登場する。『ソフィーの選択』にナレーターで半ば傍観者として登場するスティンゴがそれである。アウシュビッツの苛酷な刻印を心身ともに刻み込まれたポーランド人女性ソフィーへの性的衝動に駆られているひとりのやや滑稽な青年の存在である。奈落へと進んで行くやりきれないストーリーを辛うじて支えている。しかし、結果としては何の救いともならない。破断の結末が待ち受けている。精神を病んだ1人の若者と彼を愛する心に深い傷を負っている美貌の女性。二人のどこまでが真実で、どこからが虚構や病んだ心のもたらす部分なのか、スティンゴには分からない。しかし、もはや癒しがたいまでに深く精神が傷ついている二人に先はない。女性だけでも救おうとするスティンゴの努力も徒労に終わる。

  スタイロン自身が1985年には自決を考えたという。しかし、それをまっとうするに適切な遺書の言葉が浮かばず、思いとどまった。この作家には自分自身と作品世界を重ね合わせたようなところがあった。世俗的な成功にもかかわらず、スタイロンは長年にわたり、心身ともに苦悩を背負っての作家生活を送ったらしい。厳しい作品を書くためには、自らを襲う苦悩にも、決してひるむことのない生き方をしようと苦しみ続けた稀有な作家であったであったようだ。

  
* "William Styron: As a writer, wilful and unrepentant." The Economist November 11th 2006.

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果てしないせめぎあい

2006年11月15日 | 移民政策を追って

  NHKBS1がアメリカの移民問題について、久しぶりに?タイミングの良い番組を放映していた*。このブログでも定点観測しているアメリカの移民政策にかかわる番組である。中間選挙の結果を受けて、イラク問題に続く重要問題として与野党ともに真剣に取り組まねばならなくなっている。

  カリフォルニア州コスタメサ市 Costa Mesaは、メキシコ国境に近い。多数のメキシコ人が不法に越境して働きにくる。住民との間でさまざまな軋轢・衝突が生まれている。

  こうした状況で、コスタメサ市は増加した不法移民に対して市警察が介入、捜査活動に当たるという対応に踏み切った。発案者のアラン・マンスール市長は刑務所の看守を勤めたことがあり、不法移民が減れば犯罪も減るという考えの持ち主である。市の犯罪が増加し、生活環境も劣化しているこの町で、メキシコ国境を越えて入国してくる不法移民が、その原因になっているという考えである。

難しい合法・非合法の線引き
  市警察が捜査活動を強化し、犯罪容疑者を調べて凶悪犯罪者を移民局へ引き渡し、強制送還へつなげるという考えだ。しかし、警察が不法移民の犯罪捜査を始めると、市民の3割以上はヒスパニック系であり、大きな不安を生み出すことになりかねない。当然、反対も強まる。不法移民=犯罪者ではないはずだという論理である。しかし、不法移民はすでに越境という違法行為を犯しているではないかと、先住者は反論する。

  越境入国者と先住者との溝は深い。このコスタメサ市でも、自衛組織としてのミニットマン・プロジェクトが生まれた。不法滞在者のために税金を使うべきではないとして、市長は職業紹介所の閉鎖に踏み切った。結局、市長の政策をめぐって、市長派および反市長派の候補の選挙で、市民の考えを問うことになった。

新移民対旧移民の対立
  移民擁護派(反市長派)として、ヒスパニック系のミルナ・ブルシアナ候補が立候補した。彼女も移民であり、今は市内でメキシコ・レストランを経営している。市長もエジプト人の父親とスエーデンの母親からなる移民の子供なのだ。その意味では、旧移民と新移民の対立という面もある。

  住民は、越境してきたメキシコ人労働者は町を大切にしないという。他方、住民は、アメリカ人がやらなくなった建設工事、造園、サービスなどの仕事を引き受けているという。日給70-90ドル。アメリカ人にとってはきつい労働だが、越境者にとっては、メキシコでの1週間分に当たる。

  たまたま10年ほど前にカリフォルニア州南端のサンディエゴと日本の浜松地域のフィールド調査をしたことがあった。当時と比較して基本的な違いは感じられない。しかし、南から北を目指す人の流れは一段と大きくなったようだ。メキシコ国境沿いの町ティフアナには金網フェンスも設置された。物理的な国境は強固になるばかりだが、それを乗り越えようとする力も格段に強まっている。

  選挙結果では、現市長と市長が押した女性候補が当選した。寄せては返す波のように、せめぎあいは果てしなく続く。 連邦レベルでは、共和党と民主党が協力しないかぎり、新たな次元を切り開く移民政策は生まれない。アメリカにメキシコの旗が翻る日はくるのだろうか。その動きを見つめたい。


* NHK/BS1 「不法移民に揺れる町」 2006年11月11日

** 中間選挙と並行して行われた投票で、アリゾナ州は英語だけが公用語であることを確認した。

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物置から出てきたカラバッジョ

2006年11月12日 | 絵のある部屋

  イギリスのメディアTelegraph、CBCなどが伝えるところでは、11月10日、イギリス王室Hampton Court Palaceの物置に眠っていた絵画の中に、16-17世紀に活躍したイタリアの画家カラバッジョ(1571-1610)の作品があったことが公表された。王室は約400年ほど前に入手したが、これまでは模作と考えられてきた。しかし、ほぼ6年間の修復作業などの後、このたび真作と判定されたようだ。画題は「聖ペテロと聖アンデレの招命」であるらしい。

  ネット上でみるかぎり、修復前の作品はかなりひどい状態であったようだ。カラバッジョの真作は50点ほどしか現存せず、メディアによると、現実にはありえないが、もし絵画市場に出せば5千万ポンド(1億800万ドル)近い価格がつくとも推定されている。

  カラバッジョはラ・トゥールよりも少し前の画家だが、当時のヨーロッパ絵画の世界への影響力は大変大きかったことは、このブログでも記したことがある。

  この作品は11月21日からローマで開催されるカラバッジョ展でお目見えするらしい。そして来年3月にはバッキンガム宮殿で開催される「イタリア・バロック・ルネッサンス」展へ出品される予定とのこと。一寸見てみたい気がする。

  カラバッジョに限らず、この時期の画家の作品にはもしかするとまだ発見されずにどこかで眠っている作品がある可能性はかなり高い。イギリス王室だけでも7000点の作品を所有しているという。発見されれば今回のように大きな騒ぎとなる。
 
小説の種となったラ・トゥール
  後世における有名画家の作品発見は、しばしば小説や劇作などのテーマにもなる。カラバッジョもラ・トゥールもしばしば登場する人気画家?である。ひとつの例を挙げてみよう。

    アメリカの作家ディアンヌ・ジョンソン Diane Johnson の小説『離婚』Le Divorce (1997) *の中に、似た話が出てくる。パリに住むアメリカ人(カリフォルニア育ち)の女性ロクサーヌ・ド・ペルサン(ロキシー)とフランス人の夫シャルル・アンリが離婚の危機を迎える。夫妻には3歳の娘がおり、ロクサーヌは妊娠している。双方の両親がなんとかよりを戻すよう頭を痛める。 

  この小説のいわば触媒のような役割を果たしているのが、ロキシーの居間にかかっている古い絵画である。画題は「殉教者聖ウルスラ」  St. Ursula である。これは彼女が継父からもらったもので、結婚の時に夫アンヌにプレゼントしたことになっている。その時はたいした価値はないと思われていたが、その後、ラ・トゥールの弟子の作品、もしかするとラ・トゥール本人の作品ではないかとの噂が広がり、ゲッティ美術館から展示のために貸して欲しいとの要請もある。そして、絵の推定価格が上がるにつれて、あたりにいる人々の反応もおかしくなる。 

  夫のアンリは離婚の際に、この絵の所有を放棄したが、彼の側の家族は離婚が成立するまで、ゲッティ美術館の展示へ貸し出すのは見合わせたらとご丁寧に忠告する。アンリの母親は「とどのつまり、あの絵はフランスの絵よ」と言い出す始末。そして、ラ・トゥールの真作かもしれないという噂が出るにいたって、夫妻の家族関係者のどん欲さは高まるばかり。さて、その結末は。

    

LE DIVORCE By Diane Johnson. A William Abrahams Book/Dutton, 1997. 

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ラ・トゥール(1997-98年)展カタログ

2006年11月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

Georges de La Tour. Galeries nationales du Grand Palais 3 octobre 1997 - 26 janvier 1998, Paris: Rèunion des Musèes Nationaux, 1997. pp.319.

    ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについては、これまで世界でいくつかの特別展が開催されてきた。フランス(パリ:オランジェリー、グランパレ)とアメリカ(ワシントン、フォトワース)で開催された展示は、とりわけ大規模なものであった。こうした特別展のたびごとに、新たな研究成果が付け加えられてきた。そして、幸運にも新たな作品が発見された場合には展示されたりもした。ラ・トゥールに関する新しい出版物も、しばしば特別展に合わせて刊行されることが多い。

    こうした展示の際のカタログは、新たな発見が加えられていることが多く、大変楽しみである。同時に、過去のカタログを眺めてみると、色々なことに気づく。とりわけ印刷技術に驚異的な発達が見られ、年を追って大変美しいカタログが見られるようになったのもうれしいことである。

   1972年のオランジュリーのカタログと1997年のグラン・パレのカタログが手元にあるが、後者は倍近い大判のカラー印刷となり、この間の美術書印刷技術の進歩を目の当たりにすることができる。オランジュリー展のカタログは、当時としては大変よくできたものだが、作品のほとんどはモノクロで、カラーは表紙を含めてわずかである。

  グラン・パレ展になると、展示も大変整備され、見やすい配置であった。作品も推定制作年の順になっていた。真作と非真作が別の場所に分けられ、非真作も適切なコピーが配置されていた。グラン・パレの特別展の時は一時期はかなり長い入館者の列が出来て、1時間近く待った記憶がある。終わってみると、53万人という当時としてはこれも驚くべき記録であったらしい。 今でも、大きな垂れ幕が残像として脳裏に残っている。

    1997年のアメリカでの特別展が終わったすぐの展示であり、フランス側としては対抗心も働いたのだろうか。もっとも、カタログの表紙は、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する「女占い師 」diseuse de bonne aventure (détail) が採用されている。アメリカでの特別展のカタログも大変素晴らしい出来栄えであり、これもいずれ紹介することにしたい。 

  このグラン・パレ展のカタログは、ピエール・ローザンベールとジャン=ピエール・キュザンが委員で、ディミトリ・サルモンが補佐し、ジャック=テュイリエがカタログ解説をするという文字通りラ・トゥール研究についての豪華キャストである*。改めて見直してみて、感心することが多い。

  ワシントン、フォトワース、パリ(グラン・パレ)と次第に、この画家の昼光の下における作品の積極的見直し、位置づけが進んでいることに気づく。世俗画 worldly art とでもいうべき領域におけるラ・トゥールのきわめてユニークな作品について、新たな興味を呼び起こされる。


*
Jean-Pierre Cuzin
conservateur général chargé du département des Peintures
du musée du Louvre

Pierre Rosenberg
Je l'Acadmie française Président-directeur du musée du Louvre

avec de collaboration
de Dimitri Salmon

カタログの構成

Couverture:
La diseuse de bonne atventure (détail)
New York, The Metropoljtan Museum of Art
lntroduction par Jacques Thuillier professeur au collge de France

SOMMAIRE

Avant-propos

JACQUES THUILLIER
rcorges de La Tour: après un quart de siècle...

PIERRE ROSENBERG
Georges de La Tour : de l'Orangerie (1972) au Grand Palais

JEAN-PIERRE CUZIN
La Tour vu du Nord
Notes sur le style de La Tour et la chronologie de ses æuvres

JEAN-PIERRE CUZIN
Catalogue

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それでも国境を越える

2006年11月09日 | 移民の情景

  アメリカの中間選挙で民主党が躍進したことが判明した11月8日、BS1「世界のドキュメンタリー」が、「それでもアメリカに行きたい」Crossing Arizona という番組を放映していた。2005年に作成されたものである。

  その内容は、このブログで継続して追ってきたテーマである。新しいことはほとんど含まれていないが、日本人があまり真剣に考えているとは思われない移民問題の実態について、映像を介してひとつの迫真力を持ったケースを見せてくれた。

注目を集めるアリゾナ州
  アメリカ・メキシコ両国国境に1120キロに及ぶフェンスを構築する法案がすでに成立している。カリフォルニア州サンディエゴからエルパソにわたって封鎖が強まった反動として、越境者がアリゾナ州境へと移動してきた。そのため、アリゾナ州が越境者の多い州として、最近はさまざまな問題が生まれている*。国境地帯では、毎年50万人近くの越境者が逮捕されている。その背後には100万人を越えるといわれる越境者が存在する。さらに、過酷な国境越えで数千人が命を落とす。

  番組ではNAFTAが越境者増大の契機となったと伝えていたが、必ずしも正確な認識ではない。それ以前から越境者の流れはさまざまに存在した。「ブラセロ・プラン」と呼ばれた農業労働者の「ガストアルバイター」型の合法的労働者受け入れ時代から、アメリカ人がやりたがらなくなった仕事を引き受けているのは、メキシコ人を中心としたヒスパニック系労働者である。

さまざまな関係者
  国境では越境者や国境パトロールばかりでなく、さまざまな組織や団体が活動している。越境者を商売にしているコヨーテといわれる越境あっせん業者もいる。国境は密輸業者などが暗躍する場でもある。他方、テレビが伝えたHumane Bordersなどの人権団体も、越境者擁護のために砂漠地帯での給水などの活動を人道的観点から実施している。

  他方、不法入国者によって牧場が壊されたり、家畜が被害を受けたり、ごみの捨て場となるなどの被害を受ける牧場主も多い。アリゾナ州では2004年に不法移民取締り強化をする法案の是非を問う世論調査が行われ、56%が取締り強化を行う法案に賛成した。反移民感情がかなり高まっている。「メルティング・ポット」とも呼ばれてきた多文化主義が失敗し、アメリカを分裂させているとの批判も強い。

  2005年アリゾナ州ツームストンでは、自警団ミニュットマンが組織された。国境にメディアの関心をひきつけようとする意図もある。

必要な超党派の協力
  問題の根源は深く、単なるグローバリズムのひとつの結果と片づけるには重い、多くの課題がある。問題を整理し、破綻した移民システムを建て直すのはかなり大変である。その中で、ブッシュ大統領が掲げてきた「総合的移民政策」は、民主党のケネディ上院議員などが考える案とも重なる部分が多く、政策の方向としてはかなり良く考えられた内容になっている。しかし、その実現のためには皮肉なことに民主党の力を借りないかぎり難しい情勢になっていた。ブッシュの「総合的移民政策」の中身は共和党よりは民主党議員の考えに近いところが多いからだ。

  今回の民主党の議院支配で、「総合的移民政策」が実現できる可能性は従来よりも高まったといえる。守勢にまわったブッシュ大統領にとってはイラク問題とともに、「これは君たちの問題でもある」とボールを投げ返すことができるからである。しかし、これまでの対立の経緯もあり、どんなことになるか。しばらく、成り行きを見守りたい。

* 今回の中間選挙でアリゾナ州は反移民的な4法案を投票にかけ、すべて成立した。

References:

 「それでもアメリカに行きたい」Crossing Arizona, 2005年、レインレイク・プロダクション
「世界のドキュメンタリー」 2006年11月8日 BS1放映

Tamar Jacoby. 'Immigration Nation.' Foreign Affairs. November/December 2006.
やや右よりで観念的ではあるが、中間選挙前の問題状況を伝えている。

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閉じられる扉:揺れ動くイギリス移民政策

2006年11月07日 | 移民政策を追って

  「国境」は国家 nation state を象徴する最後の存在といえるだろう。このところ、アメリカ、ヨーロッパなどで国境をめぐるせめぎ合いがあわただしくなっている。

  2004年5月、EUが加盟国拡大に踏み切った時、イギリスはアイルランド、スエーデンとともに、東欧・中欧など新加盟国からの移民労働者に労働市場を開放する政策をとった。しかし、この小さなブログでも観測対象としてきたが、この「開放ドア」政策は2007年1月から新たに加盟国となるブルガリア、ルーマニアには適用されないことになった。すでに内務次官ジョン・リードが8月にその可能性を示唆していた。

  その後、ポーランドなどからの労働者流入数が、政府の当初の年間1万3千人との予想を大幅に上回り、自営業を装った労働者まで含めると60万人近いことが判明した。政府にとっては大誤算であった。

  今回のイギリス政府の措置の目的は、新規加盟するブルガリア、ルーマニアからの低熟練労働者を制限することを企図している。農業と食品加工の2産業だけに限ってわずかに19,750人だけが認められる。そして、非EU加盟国からはこれらの産業への入国・就労は認められなくなった。また、就労許可があることを条件に高い熟練を持った労働者だけが就労できる。学生はパートタイムで働くことは許可される。

  開放ドア政策がはかなくも終わりを告げたことは確かだが、新政策がどれだけ有効かは分からない。ブルガリア、ルーマニアからのイギリス入国自体は認められる。もし、彼らが自営業として仕事をするかぎりイギリス政府は働くことを禁止できない。最初にEUに加盟した8カ国についてみるかぎり、この点は政策の欠陥と考えられる。

  今後、不法に就労している者は罰金1,000ポンド(1,870ドル)が課せられる。彼らを雇用する使用者に対する罰金は5,000ポンドである。問題は職場レベルでの監視をどれだけ実効性あるものとなしうるかにある。ブルガリア、ルーマニア政府がこうしたイギリスの政策に反発するのも当然ではある。しかし、国境という最後の象徴の権威を維持しようと、イギリス政府もなりふりかまわず、いったんは開いたドアを閉じ始めた。 国家というのはきわめて身勝手な存在であることを、また思い知らされた出来事である。

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