時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

黄金時代のフランス美術(10)

2013年01月31日 | 絵のある部屋




ピエール・ミニャール『キリストとサマリアの女』
Pierre Mignard (1612 Troyes; Paris 1695), Christ and the Woman of Samaria, Canvas, 122 x 160cm
Signed in capital letters and dated, lower left: P. MIGNARD, OINXIT//PARISIIS. 1681 North Carolina Museum of Art, Raleigh

 

 旧大陸ヨーロッパからアメリカに所有者が移った17世紀フランス絵画の数や種類の正確な実態は、今日でも必ずしも分からないことが少なくない。公的美術館ばかりでなく、公開されていない個人の所蔵になるものも多く、所在も不明なものがかなり多いといわれている。これからも興味深い事実の発見が続くだろう。

 ひとつの時代の終わり
 
フランスの黄金時代を形成したルイXIII世の死(1643年)後、太陽王ルイXIV世が1661年に親政の座に就くまでの期間、これまで見てきた主要なフランス画家たちの多くが世を去り、世代交代が進んだ。こうした主要な画家の没年を記すと、ブランシャール(1638)、ヴーエ(1649)、アントワーヌ・ル・ナン(1648)、ルイ・ル・ナン(1648)、フランソワ・ペリエ(1650)、ラ・トゥール(1652)、ラ・スュール(1653)、ラ・イール(1656)、ステラ(1657)などである。

 これに対して、プッサン、クロード、ドリュエなどの画家は、イタリアで、さらに長い画業生活を続けた。彼らの作品はヨーロッパのみならず、新大陸でも需要があったが、次第に両大陸を包含する国際的な絵画市場の形成の中で取引されるようになっていった。時には国家的に重要文化財クラスの名作が流出し、大きな政治的論争の的となったこともある。

ル・ブランとミニャール
 
1662年に制作されたシャンパーニュのEx-Votoあたりが、一七世紀前半の終わりを象徴づける作品かもしれない(ロザンベール)。王室画家の世界でも、新しい若い画家の台頭があった。とりわけ、このアメリカへ移転したフランス絵画作品展との関連では、シャルル・ル・ブラン Charles Le Brun (1619-1690)およびピエール・ミニャール Pierre Mignard (1612-1695)の二人が注目される。この二人は激しいライヴァル関係にあった。ル・ブランは最初フーケ、次に若いルイ14世がパトロンであった。単に絵画の分野にとどまらず、ヴェルサイユ宮殿のガラスの大歩廊の豪華な内装なども手がけた。さらに、宮殿のタペストリー、ゴブラン織り、家具、金などを惜しみなく使った器物なども製作した。広範な装飾美術家ともいうべき存在だった。

  この王室首席美術家の座を争ったのはピエール・ミニャールだった。とりわけ、ル・ブランの死後、1690-95年の5年間は大変生産的だった。1690年にはルイXIV世付きの首席画家に任ぜられ、アカデミーの理事にもなった。ミニャールはヴーエの下で修業した後、1636-57年はローマに住んだ。そして1657年にルイXIV世に呼び戻された。ル・ブランのように、モデルはカラッチ、ドメニキーノ、プッサンなどの流れを受け継いでいた。しかし、制作された絵画の画風もイタリアよりも、分かりやすく,優雅で、甘美なものとなった。

  ル・ブラン、ミニャールの双方ともに、王室の美術装飾責任者をもって自ら任じていたようだ。そして、ヴェルサイユなどの王宮を次々と作り替えていった。この二人が世を去るまでに、フランスは政治的にも文化的にもヨーロッパの大勢力になっていった。パリ、ヴェルサイユがその中心となったことは言うまでもない。ローマの美術上の優位は、数世紀を経て初めてチャレンジを受けるようになった。

  ミニャールの生涯についての話は、かなり歪曲されて伝えられてきたようだ。フランス美術史上,最大の不公正のひとつとまで言われている。プッサンとヴーエの確執の話のように、闇に包まれ十分解明されていない点が多いようだ。王室画家の世界は、そのイメージとは裏腹に、世俗的名誉や欲望への争いが絶えなかった。記録文書などが残りにくく、多分に憶測などが支配していた。

  この画家は1635年ころからイタリアへ行き、20年近く滞在したようだが、その詳細は明らかでない。しかし、作品は急速に著名になり、1657年にフランスへ帰国した。そして、王室画家としてル・ブランのライヴァルになった。しかし、この画家の作品はあらかた滅失し、今日残る作品が少ない。

  上掲の作品にしても、プッサンの作品などと比較して、わかりやすい。作品は1681年にマドモワゼル・ド・ギーズ Mlle de Guise(1615-1688)が、300ピストール(フランスのルイ金貨)の報酬で注文し、制作された。しかし、彼女は100ピストールしか支払わなかったといわれる。しかし、死後の遺産目録には残された作品の中では最高額の2000ルーブルと評価されていた。もっとも、ロザンベールによれば、元来3000ルーブルくらいのコストがかかったものであったはずだとされる。その後、作品はマドモワゼル・ド・ギ-ズから、近い親戚の者に贈られた(作品が一般の人々に知られなかった理由のようだ)。マドモワゼル・ド・ギーズは、この作品のコピーも所有していたようで、遺産目録では20リーヴルと評価されていた。このコピーは1688年におよそ105リーヴルで売り立てられた。

 上掲の作品『キリストとサマリアの女』は、少なくも1763年まではイングランドにあり、1952年にクリスティの競売で、アメリカ・ノースカロライナ、ラレーの美術館が取得することになった。

  キリストと女性は日没の光の中にあり、女性の黄色のガウン、キリストの赤のローブとマントのブルーの対比が鮮やかで美しい。作品としては大変美しく描かれている。しかし、批評家によれば、確かに美しい作品ではあるが、色合いや衣服の襞などの微妙さが不足しているとも指摘されている。一見派手でひと目を惹くが、深み、陰影がない。

  この作品については、ルイXIV世がご執心だったようだが、ギゼーは王には贈らなかったようだ。そのため、王は1690年、自分のためにもう一枚制作させた。このオリジナルのレプリカ(1691日付)がルーヴルに残る作品らしい。ラレー版とルーヴル版は同じ主題ながら、微妙なニュアンスの差があるらしい。

 いずれにせよ、これらの作品は、イタリアの画家たちがしばしば描いた主題のヴァリアントのようだ。ラレーの作品は現代人の目からすると、面白みが少ないようだ。しかし、17世紀当時の人々には、コピーでも所有したいというある種の魅力があったようだ。作品の理解には、時代の空気、風土などへの一層の接近が必要なことを示す例でもある。

18世紀への道
 
これまで取り上げたジャンルは、神話や宗教画が多かったが、アメリカへ渡ったフランス美術のカテゴリーとしては、風景画、肖像画や静物画などもかなりの数に上っている。それぞれ興味深い問題を内蔵しているのだが、予定を越えて、ブログ記事としては大変長くなってしまったので、ひとまずこの辺で一区切りして、別の機会に待ちたい。

 

 アメリカに渡った17世紀フランス美術の続編として、ルイXV世紀の時代の作品についての特別展も行われた。この展覧会も開催地が大変懐かしい場所であることもあって興味深いが、適当な時に紹介してみたいこともある。

 

 

The Age of Louis XV in Ottawa, Toledo and Owego in 1975-7

Source: France in the Golden age, exhibition catalogue

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黄金時代のフランス美術(9)

2013年01月26日 | 絵のある部屋

パリ・スクールの誕生

 前回とりあげたアントワーヌ・ル・ナンの作品『若い音楽師』、多少なりと、この画家についてご存じの方は、驚かれたかもしれない。実は、ブログ管理人の私も最初この作品に接した時は、半信半疑だった。ヨーロッパに残る作品を見ていたかぎり、ル・ナンの作品と聞くと、直ちに目に浮かんだのは、農民や職人をリアリスティックに描いた作品だったからである。『農民の家族』や『鍛冶屋』のように、時間が止まったように立ち尽くす人たちのイメージが強く頭の中に残っていた。

 『黄金時代のフランス美術』展を見て、改めてこの時代のフランス画家たちを頭に浮かべると、従来の画家へのイメージ、そして時代への理解がかなり大きく変わった。この特別展のカタログの執筆責任者だったロザンベールの説明を読みながら、さまざまなことを思った。実際、これらのアメリカへ渡った作品群を初めて目にしたフランス人のかなり多くの人が、仰天したようだ。自分たちに見る目がなかったのかと。そして、なぜこれほどの作品を流出させてしまったのかとの複雑な思いが生まれたようだ(この問題のいくつかの様相については、いずれ記してみたい)。

 特別展カタログで 「最初のパリ・スクール」 The First School of Paris と題する項目で取り上げられたのは、13点、すべて17世紀のパリで制作されたものであった。制作されたのは1636年から1654年の20年に満たない期間だ。それらの作品は、さまざまな経緯で海を渡り、アメリカへ移転した。制作した画家たちは誰もイタリアへ行ったことはなかった。イタリアへ行くことが画家として身を立てるに欠かせない条件とされていた時代であったにもかかわらず。

 このグループでの最年長者はフィリップ・ド・シャンパーニュ Philippe de Dhampaigne で、1602年生まれだった。最年少はユスタッシュ・ラ・シュール Eustacche La Sueur だった。ラ・イール La Hyreは二人の中間だった。年少の二人はそれぞれ、1655年、1656年に世を去った。そして、最も年長だったシャンパーニュは長生きして1674年まで生きた。

 これらの ”パリっ子”画家たちは、彼らの画題がなんであろうと、ある特徴を共有していた。たとえば、impasto と呼ばれた絵の具の厚塗りをせず、polished finish といわれる画法を採用した。彼らの画風はネオ・クラシズムといえるかもしれない。

 アメリカが買い求めたこれらの作品は、アメリカ人の好みに合ったものであり、同時になんらかの理由で、フランス人あるいはヨーロッパが手放した作品であった。そして、長い時間が経過した後、彼らが最初の「パリ・スクール」ともいわれるエポックを作った人々であることを、フランス人に知らしめることになった。フランスの美術愛好者たちは、複雑な思いでこれらの作品を見たのだった。以下には、管理人の好みで、最初の『パリ・スクール』の画家たちの作品から3点ほど選んでみた。いづれもヨーロッパに残る同じ画家の作品と比較しても、群を抜いて素晴らしい作品である。これらのそれぞれについて、記したいことは山ほどあるが、ここにはとても書いていられない。なにかの折を待つことにしたい。

シャンパーニュ『モーゼと十戒』 拡大はクリックしてください。
Philippe de Champaigne, Moses and the Ten Commandments, 99 x 74.5 cm.
Milwaukee Art Museum Collection, Gift of Mr.and Mrs. Myron Laskin

Eustache La Sueur, The Annunciation, 156 x 125.5cm, The Toledo Museum of Art, Gift of Edward Drummond Libbey

Laurence de La Hyre, Allegory of Music, 94 x 136.5 cm. The Metropolitan Museum of Art, New York, Charles B. Curtis Fund.

続く

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黄金時代のフランス美術(8)

2013年01月23日 | 絵のある部屋

 

アントワーヌ・ル・ナン『若い楽師たち』
Antoine Le Nain, The Young Musicians, 27.5 xx 34.5cm, Los Angeles County Museum of Art,
annonymous gift 


 早朝、BBCのニュースを見ていたら、ごひいきの美術館 Royal Academy of Artsで開催されている『マネ』展の紹介をしていた。あの『シャボン玉を吹く少年』も映し出された。今の日本の国レベルでの政策論議でほとんど聞こえてこないのは、文化政策の視点ではないかと思う。経済力では日本よりはるかに下位にあっても、一貫して自国の文化に誇りを持ち、振興する政策を持った国は尊敬される。かつて訪仏した池田首相が、ドゴール首相から「トランジスタの商人」と揶揄されたこともあったが、今の若い人からは「トランジスタってなに?」と聞かれるかもしれない。

 閑話休題。17世紀フランス絵画の世界は、長い間二人の画家で、代表されてきた感があった。ニコラ・プッサンとクロード・ロランである。しかし、以前に記したように、二人ともほとんどローマで制作活動をしていたので、真の意味でフランスの画家なのかという指摘もされてきた。管理人自身もこの時期のフランス絵画に関心を抱き始めてからずっと疑問に思ってきた。フランス人美術史家のイタリア・コンプレックスかと思ったこともある。近年、ようやく軌道が修正されてきたようだ。

 その過程で少しずつ生まれてきたのは、フランスの風土に根ざした固有のいわば「フランス・スクール」は存在しなかったのかという議論だった。ラ・トゥールは、正確にはロレーヌ公国の画家だった。しかし、フランス王室付きの画家でもあったのだから、フランス・スクールの一角を占めてもよいだろう。次に注目されたのは、ル・ナン兄弟の位置づけである。ル・ナン兄弟もラ・トゥールと同様に「再発見」された画家であり、イタリアなど他国の影響から相対的に独立で、フランスの風土で育った純粋フランス的な画家ともいうべき人たちだった。

 ル・ナン兄弟の場合、ラ・トゥールと同様に「現実の画家たち」のカテゴリーに含まれる。1978-1979には、グラン・パレでジャック・テュイリエの企画で素晴らしい特別展が開催された。ル・ナン兄弟は、アントワーヌ、ルイ、マテューの3兄弟である。

 1982年の『黄金時代のフランス美術』特別展では、アメリカにあるル・ナン兄弟の作品の中で6点が選ばれ、展示された。この時点では真作の帰属が未確定の作品を含めて、11点がアメリカに存在する作品 inventory とされていた。ル・ナン兄弟の作品には、兄弟の個別の名前が記されていないものもあり、作品の帰属確定には大きな問題がつきまとってきた。

 出展されたのは音楽師、農民、子供たちの日常の生活光景を描いた作品だった。兄弟の作品の中には、神話や宗教的主題での素晴らしい作品もあるが、彼らの制作活動の世界は,農民、職人などの日常生活を描くことだった。宗教画や歴史画にやや飽きてきた19-20世紀の人々は、ル・ナン兄弟のリアリズムに新鮮さを感じたのだろう。その存在と作品は急速に見直されるようになる。

 ル・ナン兄弟の作品に描かれた人々は、一瞬時が止まったかのように、画面の中で静止している。多くの作品に使われている緑がかったセピア色も不思議な印象を与える。時にはメランコリックで、微かな悲哀感も漂う作品もある。その底流には、ヴァランタン、ラ・トゥール、そして歴史画などではかすかにプッサンなどの画風に通じるものも感じられる。一時期、長兄ルイはイタリアへ行ったことがあるのではとの議論もあったが、今ではその事実はなかったとされている。管理人はとりわけ、ルイの手になったと思われる作品を好んで見てきた。もうひとつ、兄弟がしばしば描いた仕事の世界については、個別にブログを立ち上げて整理したいと思うほどなのだが、もうその時間はないだろう。

 さて、上に掲げた『若い楽師たち』と題された作品、ル・ナン兄弟の農民や職人たちを描いた作品などを見慣れていると、一瞬これもル・ナン?の作品と思われるかもしれない。大変色彩が鮮やかで美しい作品である。もっとも、修復の際に洗いすぎた?との説もあるのだが。左側の二人の若者が楽器を演奏し、三人目の若者が楽譜を持って歌っている。左側の若者の足下には、犬が顔を出している。机の上に置かれた品々の描き方には、フレミッシュの影響が感じられる。

 一時はル・ナン兄弟の中で、誰の作品か帰属が不明であったが、今では長兄アントワーヌの手になるものとほぼ理解されているようだ(もっとも、J-P キュザンのようにマテューの作とする見方もある)。この作品は木板の上に描かれているが、もう一枚ローマのGalleria Nazionale が所蔵するカンヴァスに描かれたヴァージョンがある。しかし、今日ではこのロサンジェルスにある作品が真作で、カンヴァス版はコピーとされている。

 このロサンジェルス版は、1958年現在の美術館が取得するものになったが、来歴を見ると匿名の寄贈者によるものらしい。しかし、一時はロスチャイルド家の所蔵品でもあったようだ。この作品がロサンジェルスに渡るまでには、多数のコレクター、画商などの手を経由している。人間同様に、絵画作品が安住の地?に落ち着くまでには、しばしば波瀾万丈の旅があるようだ。


 手元にある Illustrated Catalogue of Pictures by the Brothers Le Nain, London, 1910 (copy)によると、1910年の時点では Lent by Lord Aldenham と記載されている。

 

続く

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黄金時代のフランス美術(7)

2013年01月20日 | 絵のある部屋

 

フィリップ・ド・シャンパーニュ 『悔悛するマグダラのマリア』
Philippe Champaigne de (1602 Brussels, Paris 1674), The Penitent Magdalen, Canvas, 115.5 x 87 cm, Museum of Fine  Arts, Houston, Museum Purchase, Arnold Endowment Fund.



 アメリカへ移った17世紀フランス美術作品の内容を見ていると、改めてヨーロッパに残っている作品だけを見ていたのでは、この時代に活躍した画家たちの実像は十分に掌握できないことが分かる。これまで予想していなかった所に、画家の力作が所蔵されていたりするからだ。さまざまな理由で、世界に散在することになった画家たちの作品を見ていると、時に目が洗われるような気がしてくる。次第に欠けていた球体が少しずつ埋められて、丸みを取り戻してくるような思いもする。

 あるエポックを画した画家の影響力がいかなるものであったか、それがいかなる経路を通して、浸透・拡大していったかというメカニズムについては、従来の美術史的手法では十分対応できないことを痛感する。この問題については、経済学の分野で開発されてきた技術進歩の普及(diffusion)に関する理論と研究はかなり有力な分析手段になりうると考えている。あるイノヴェーターによって、生み出された革新の種(シード)が、いかなるプロセスを経て、社会に受け入れられ、拡大・浸透して行くのか。美術経済学という領域も生まれているようだが、まだ揺籃期だ。近年、カラヴァッジズムの国際的拡散のプロセスなどについては、かなり見るべき成果が集積されているように思えるが、未解決の問題が多数残されている。


 ここで、この大テーマについて、議論することはとても不可能だが、断片的な課題ならば扱うことができるかもしれない。今回取り上げるのはそのひとつといえる。

 1590ー1600年の間にフランスに生まれた画家で、ある時期、ローマに滞在した者はすべて深くカラヴァッジョの影響を受けたといわれてきた。しかし、カラヴァッジョの作品に接しながらも、結果としてほとんど影響を受けることなく、独自の道を選択した画家たちも多い。その仕組みを解明することは、美術史家が取り組むべき重要課題のひとつではないかと思う。

 17世紀初めのヨーロッパにおいて、主導的な文化の集積が生まれ、多くの文人、芸術家などを集めた都市は、パリとローマに集中していた。その他にも独自の光彩を放っていた都市はもちろんあるが、この二都市を凌ぐ都市はなかった。そして、美術に限ってみると、パリは長らくローマの後塵を拝していた。ルイ13世、宰相リシュリューなどは、あらゆる手段を尽くして、パリにローマに匹敵する繁栄と文化の花を咲かせようとしていた。

 しかし、少しスコープを拡大してみると、当時から現在のフランスの各地に小さな花は開花していた。ロザンベールが挙げている例は、トゥルーズ、ルーアン、エクサン・プロヴァンス、ナンシーなどの都市の文化である。しかし、さまざまな理由、とりわけ宗教改革のもたらした激しい精神的変革と破壊に耐えかねて、ロレーヌ、プロヴァンスなどから、イタリアへ活動の地を移した画家たちの数はかなり多かったようだ。

 1982年の『黄金時代のフランス』展で、取り上げられているこの時代の中心的画家の中で、ラ・トゥールはその制作活動のほとんどを動乱の地ロレーヌで行った。他方、対照的にクロード・ロランはロレーヌで生まれながら、すべての制作をローマで行っていた。そして、カラヴァッジョの影響力がまだかなり残っていたローマにいながらも、まったく影響を受けずに、独自の風景画の世界に沈潜していた。銅版画家のジャック・カロはナンシーで生まれ、憧れのローマで修業したにもかかわらず、カラヴァッジョの影響という点では、かなり限定的だ。

 フランス王ルイ13世、リシュリュー枢機卿のお気に入りであったフィリップ・ド・シャンパーニュの場合をみてみよう。この画家は今のベルギーの首都ブラッセルで生まれ、画業の修得をした後、終生パリで生涯を送った。あのニコラ・プッサンがイタリアへ旅立った1621年、パリへやってきたのだ。一度もローマへ行くことはなかったが、プッサン同様、カラヴァッジョの影響はいささかも感じられない。シャンパーニュは生涯ひとつのスタイル、強いて言えば「フレミッシュ」の伝統をどこかに保ちながら過ごした画家と言われている。

 シャンパーニュの所にもカラヴァジズムの風は届いていたはずである。しかし、この画家はほとんどその影響を受けずに画業生活を送った。上に掲げた作品にしても、フレミッシュの色は感じられても、カラヴァッジョの影響は見いだせない。あのラ・トゥールのマグダラのマリア・シリーズとも大きく異なる。

 シャンパーニュはマグダラのマリアを2点残したといわれる。そのひとつはアメリカのヒューストンに、もう1点はレンヌの美術館に所蔵されたものだといわれる。来歴については、かなり複雑でさまざまな推理が行われてきた。かなりのミステリーが語られている。

 それらの”雑音”を排除して、この作品をみると、肖像画の名手といわれたこの画家の特徴は明らかに感じられる。悔悛するマグダラのマリアの目には涙が光り、いずこともなく射し込む冷たいが、霊性に充ちた光が画面を覆っている。ラ・トゥールのマグダラ・シリーズと比較すると、画家の出自、社会的背景、修業のあり方などの違いを深く考えさせる。

続く


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黄金時代のフランス美術(6)

2013年01月14日 | 絵のある部屋



Jacque Stella、The Liberality of Titus
178 x 147.5 cm. Fogg Art Museum, Harvard University, Cambridge, Mass.
イメージ拡大は画面をクリックしてください。

 毎度、古いお話で恐縮です。フランス人で1590-1600年頃の生まれで、ローマに憧れ、彼の地に滞在していた画家たちは、カラヴァッジョの影響を深く受けていたようです。しかし、日本ではこの画家が知られるようになったのは、比較的新しく、2001年、東京で「カラヴァッジョ」展が東京都庭園美術館で開催された時は、閉幕近くでも楽に入館できて、カラヴァッジョって誰?といった雰囲気さえありました。隔世の感があります。

 しかし、16世紀末から17世紀初めにイタリアへ行ったフランス人画家でも、カラヴァッジョの画風にほとんど影響されなかった画家たちもいました。17世紀当時、イタリアに滞在していたフランス人画家の中に、あのジャック・ステラ Jacques Stella (1596 Lyons-Paris 1657)もいました。当初はフィレンツエの画家の影響を受けていたようですが、次第にプッサンの画風に惹かれるようになります。プッサンをリシュリューやルイ13世に推薦したひとりでしょう。

 このステラがリシュリュー枢機卿のシャトーのキャビネットに描いた『ティトウスの寛大さ』 The Liberality of Titus なる作品も、アメリカに流出し、現在、ハーヴァード大学のフォッグ美術館が所蔵しています。ティトゥス(40?-81、ローマ皇帝)の時代には、イエレサレムの寺院破壊、ヴェスピアス噴火、ポンペイの壊滅など、破滅的な出来事があった時代でしたが、ティトウスはそうした中でも寛大さを失わなかったといわれ、その情景を描いたものと言われます。

 ステラはリシュリュー枢機卿のごひいきの画家のひとりで、ステラにこの作品の制作を依頼したのは驚くことではありません。リシュリュー卿のシャトーのこの部屋は、ほかにもプッサンの『ネプチューンの勝利』 The Triumph of Neptune, Canvas, 144.5 x 147 cm, Philadelphia Museum of Artも掲げられていたようです。さぞかし、華やかで枢機卿お気に入りの部屋だったのでしょう。

Jacques Stella, 1634
Oil on canvas, 114,5 x 146,6 cm
Philadelphia Museum of Art, Philadelphia

 この作品もリシュリュー枢機卿のために描かれたことは疑いありません。恐らく3枚の『バカナルス』 Bacchanls よりも前に制作されたものと思われます。リシュリュー好みの大変華麗な作品ですが、かなりペダンティックな要素が多く、さまざまな解釈がなされているようです。

 こうしてみると、17世紀イタリア、フランス美術には、かなりの多様性がみられたことが推察できます。

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黄金時代のフランス美術(5)

2013年01月11日 | 絵のある部屋





Q.この絵は誰がなにを描いたものでしょう。答えは後ほど文末で。

 

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの話をしていた時であった。関連してニコラ・プッサンという画家を知っていますかと教養課程段階の学生さんに聞いてみたことがあった。しかし、誰も名前すら知らないことに驚いた。ラ・トゥールについて、日本では知名度がきわめて低いことは、かなり以前から分かっていたが、フランスでさらに大きな評価を受けている国民的画家ともいえるプッサンの知名度がそれに劣らずきわめて低いことに驚かされた。日本の画家でもなく、別にこうした画家を知らないからといって、それ自体日常生活に何の影響もないのだが。一抹の寂しい思いが脳裏をかすめた。
 
 ニコラ・プッサン(1594-1665)は、ラ・トゥール(1593-1652)と同世代の17世紀の画家であり、当時のイタリア、フランスでは、ラ・トゥールをはるかにしのぐ人気を得ていた。ルイ13世、リシュリュー枢機卿が三顧の礼を尽くして、ローマからパリへ招いたほどの大画家である。

 プッサンはフランス生まれでありながら、殆ど不明な修業時代を除けば、画家としての職業生活の大部分はイタリア、ローマで過ごし、フランス国王の招きでルーヴル宮に王室首席画家として滞在した1640-42年の一時を除き、フランスへ戻ることもなかった。プッサンについては、その経歴からフランスの画家として評価すべきかとの疑問も提示されているが、生まれはフランスで、30歳近くまではフランスにいたことなどを考えると、フランスの美術界としてはこの大画家を自国の画家と考えたいようだ。

 フランスの美術品の評価、とりわけその市場価値や所蔵状況は、ヨーロッパの画商を通し、すでに19世紀からさほど大きな時間的落差をおくことなく、新大陸アメリカに伝わっていた。こうした画商は停滞しているヨーロッパ美術市場よりも、次々と富豪が生まれ、活気を呈していた新大陸アメリカの美術品市場の動向に大きな関心を抱いていた。アメリカの富豪や収集家たちは、フランス絵画については、当初印象派などの比較的新しい時期の画家の作品に興味を示すことが多かったが、次第に17世紀の画家たちの作品収集への関心も高まっていた。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールもニコラ・プッサンも富豪、愛好家たちの対象になっており、ラ・トゥールについてみると、1973年にはアメリカの美術館は少なくとも6点の作品を保有していたと推定されるが、ここで話題としている1982年の『黄金時代のフランス美術』展の時には、その数は11点にまで増えていた。1938年以前にはアメリカにはラ・トゥールの作品は1点もなかったとみられる。

 ラ・トゥールに比較して、作品数がはるかに多かったプッサンの場合、かなり多くの作品がアメリカへ移っていた。正確な数は不明だが、1982年の特別展では少なくも30点を越える真作が展示された。他の画家の作品についても当てはまることだが、プッサンについては、画題自体が古代ギリシャ・ローマ神話、聖書などにかかわる審美的、哲学的な作品が多く、画題、含意、来歴、真贋などについて、多くの論争もあり、きわめて困難な問題が介在していた。(ちなみに、プッサンもラ・トゥールも、画題や制作年についてほとんど、なにも記していない。)

 しかし、美術史家、美術鑑定家などの努力で、上述の『黄金時代のフランス美術』展でもそれぞれの画家についてアメリカの公共美術館、個人の収集家などが所蔵する優れた作品が選び出され、ヨーロッパにある作品と併せて、プッサンの作品様式の変遷、精神的な旅路を理解することができるようになった。グローバル化が進む現代世界では、ひとりの画家の作品世界を理解するにも、きわめて多くの情報、知見が必要になっていることを示している。国際的な美術品市場の形成の過程は、それ自体、きわめて興味深いテーマでもある。





 さて、冒頭の問の答は・・・・・。

Nicolas Poussin, The Holy Family, 98 x 129.5 cm. Fogg Art Museum, Harvard University, Cambridge, Massachusetts. 
ニコラ・プッサン『聖家族』

続く

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年頭のご挨拶

2013年01月05日 | 午後のティールーム

 

新年おめでとうございます。

 このところ、しばしば頭を去来するのは、この国のあり方です。考えてもしかたがないと思いながら年末から新年にかけて、やはり頭に浮かんできました。

 日本に限らず、世界は非常に不安定な、「危機的」時代を迎えています。ブログでしばしば取り上げてきた「危機の時代」と呼ばれた17世紀ヨーロッパと、どこが違うかと思う深刻さです。これまで年末には人間の幸福とか、進歩といった哲学的なトピックスを考える機会があり、その一端を記すことがありました。しかし、このところ、そうした命題を考える余裕がなくなった気がします。

 例年、年末に深く考えさせられる話題を提供してくれる、いくつかの内外の評論も、アメリカの財政の壁、ユーロ危機、イスラエル・パレスチナ問題、中東の戦争、尖閣諸島問題など切迫した問題が押し寄せていることもあって、Can America Be Fixed?, Goodbye Europe, Old battles, new Middle East (Gaza, Israel and Arab Spring)など深刻なタイトルで目白押しになっていました。例年、年末特集で、愉しみに読んでいたThe Economist にいたっては、A rough guide to Hell...and much more, including 「地獄への殺風景な手引き、そしてそれ以上の・・・」
という陰鬱な特集でした。もちろん、内容は多分にシニカルで、現在の世界の惨憺たる有様をイギリス人ジャーナリストらしく、斜めに見ているのですが。いつの時代でも地獄へ行きたいなどと考える人はいないので、今回は、the Infernal Tourist Board (さしずめ、地獄旅行案内公社)が、ダンテとミルトンの調査結果に基づいて、旅行案内を作りましたという、凝りようです。旅行されたい方はぜひお読みください

 「ストップ・アンド・ゴー」政策という言葉があります。元来、保守党から労働党など、政策方向が対立する政権が交代するごとに、政策目標が変えられてしまい、結果として長期安定的な成長は阻害され、国家として停滞の道を歩むという政治現象です。

 リーマン・ショック以降の日本は、ほとんど前進しない列車に乗っていたようでした。そして、年末、突然の総選挙。そしてほとんど前触れもなく突如生まれた「未来の党」が瞬時にして、未来のない党になってしまうなど、国民も振り回され、右往左往してしまいました。そして、迎えた新年。前方に線路が敷かれていない列車に乗っているような思いがします。他に乗る列車がなかったといえば、それまでですが。

 英語のことわざに、The road to hell is paved with good intentions (地獄への道はよき意図という敷石が敷き詰められている、言い換えると、よい意図があっても実行出来なければ結果はかえって悪い)という意味のものがあります。なかなか意味深長です。日本という列車はどこへ行くのでしょうか。



 





 ”HELL:Into everlasting fire” The Economist, December 22nd 2012

 

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