ピエール・ミニャール『キリストとサマリアの女』
Pierre Mignard (1612 Troyes; Paris 1695), Christ and the Woman of Samaria, Canvas, 122 x 160cm
Signed in capital letters and dated, lower left: P. MIGNARD, OINXIT//PARISIIS. 1681 North Carolina Museum of Art, Raleigh
旧大陸ヨーロッパからアメリカに所有者が移った17世紀フランス絵画の数や種類の正確な実態は、今日でも必ずしも分からないことが少なくない。公的美術館ばかりでなく、公開されていない個人の所蔵になるものも多く、所在も不明なものがかなり多いといわれている。これからも興味深い事実の発見が続くだろう。
ひとつの時代の終わり
フランスの黄金時代を形成したルイXIII世の死(1643年)後、太陽王ルイXIV世が1661年に親政の座に就くまでの期間、これまで見てきた主要なフランス画家たちの多くが世を去り、世代交代が進んだ。こうした主要な画家の没年を記すと、ブランシャール(1638)、ヴーエ(1649)、アントワーヌ・ル・ナン(1648)、ルイ・ル・ナン(1648)、フランソワ・ペリエ(1650)、ラ・トゥール(1652)、ラ・スュール(1653)、ラ・イール(1656)、ステラ(1657)などである。
これに対して、プッサン、クロード、ドリュエなどの画家は、イタリアで、さらに長い画業生活を続けた。彼らの作品はヨーロッパのみならず、新大陸でも需要があったが、次第に両大陸を包含する国際的な絵画市場の形成の中で取引されるようになっていった。時には国家的に重要文化財クラスの名作が流出し、大きな政治的論争の的となったこともある。
ル・ブランとミニャール
1662年に制作されたシャンパーニュのEx-Votoあたりが、一七世紀前半の終わりを象徴づける作品かもしれない(ロザンベール)。王室画家の世界でも、新しい若い画家の台頭があった。とりわけ、このアメリカへ移転したフランス絵画作品展との関連では、シャルル・ル・ブラン Charles Le Brun (1619-1690)およびピエール・ミニャール Pierre Mignard (1612-1695)の二人が注目される。この二人は激しいライヴァル関係にあった。ル・ブランは最初フーケ、次に若いルイ14世がパトロンであった。単に絵画の分野にとどまらず、ヴェルサイユ宮殿のガラスの大歩廊の豪華な内装なども手がけた。さらに、宮殿のタペストリー、ゴブラン織り、家具、金などを惜しみなく使った器物なども製作した。広範な装飾美術家ともいうべき存在だった。
この王室首席美術家の座を争ったのはピエール・ミニャールだった。とりわけ、ル・ブランの死後、1690-95年の5年間は大変生産的だった。1690年にはルイXIV世付きの首席画家に任ぜられ、アカデミーの理事にもなった。ミニャールはヴーエの下で修業した後、1636-57年はローマに住んだ。そして1657年にルイXIV世に呼び戻された。ル・ブランのように、モデルはカラッチ、ドメニキーノ、プッサンなどの流れを受け継いでいた。しかし、制作された絵画の画風もイタリアよりも、分かりやすく,優雅で、甘美なものとなった。
ル・ブラン、ミニャールの双方ともに、王室の美術装飾責任者をもって自ら任じていたようだ。そして、ヴェルサイユなどの王宮を次々と作り替えていった。この二人が世を去るまでに、フランスは政治的にも文化的にもヨーロッパの大勢力になっていった。パリ、ヴェルサイユがその中心となったことは言うまでもない。ローマの美術上の優位は、数世紀を経て初めてチャレンジを受けるようになった。
ミニャールの生涯についての話は、かなり歪曲されて伝えられてきたようだ。フランス美術史上,最大の不公正のひとつとまで言われている。プッサンとヴーエの確執の話のように、闇に包まれ十分解明されていない点が多いようだ。王室画家の世界は、そのイメージとは裏腹に、世俗的名誉や欲望への争いが絶えなかった。記録文書などが残りにくく、多分に憶測などが支配していた。
この画家は1635年ころからイタリアへ行き、20年近く滞在したようだが、その詳細は明らかでない。しかし、作品は急速に著名になり、1657年にフランスへ帰国した。そして、王室画家としてル・ブランのライヴァルになった。しかし、この画家の作品はあらかた滅失し、今日残る作品が少ない。
上掲の作品にしても、プッサンの作品などと比較して、わかりやすい。作品は1681年にマドモワゼル・ド・ギーズ Mlle de Guise(1615-1688)が、300ピストール(フランスのルイ金貨)の報酬で注文し、制作された。しかし、彼女は100ピストールしか支払わなかったといわれる。しかし、死後の遺産目録には残された作品の中では最高額の2000ルーブルと評価されていた。もっとも、ロザンベールによれば、元来3000ルーブルくらいのコストがかかったものであったはずだとされる。その後、作品はマドモワゼル・ド・ギ-ズから、近い親戚の者に贈られた(作品が一般の人々に知られなかった理由のようだ)。マドモワゼル・ド・ギーズは、この作品のコピーも所有していたようで、遺産目録では20リーヴルと評価されていた。このコピーは1688年におよそ105リーヴルで売り立てられた。
上掲の作品『キリストとサマリアの女』は、少なくも1763年まではイングランドにあり、1952年にクリスティの競売で、アメリカ・ノースカロライナ、ラレーの美術館が取得することになった。
キリストと女性は日没の光の中にあり、女性の黄色のガウン、キリストの赤のローブとマントのブルーの対比が鮮やかで美しい。作品としては大変美しく描かれている。しかし、批評家によれば、確かに美しい作品ではあるが、色合いや衣服の襞などの微妙さが不足しているとも指摘されている。一見派手でひと目を惹くが、深み、陰影がない。
この作品については、ルイXIV世がご執心だったようだが、ギゼーは王には贈らなかったようだ。そのため、王は1690年、自分のためにもう一枚制作させた。このオリジナルのレプリカ(1691日付)がルーヴルに残る作品らしい。ラレー版とルーヴル版は同じ主題ながら、微妙なニュアンスの差があるらしい。
いずれにせよ、これらの作品は、イタリアの画家たちがしばしば描いた主題のヴァリアントのようだ。ラレーの作品は現代人の目からすると、面白みが少ないようだ。しかし、17世紀当時の人々には、コピーでも所有したいというある種の魅力があったようだ。作品の理解には、時代の空気、風土などへの一層の接近が必要なことを示す例でもある。
18世紀への道
これまで取り上げたジャンルは、神話や宗教画が多かったが、アメリカへ渡ったフランス美術のカテゴリーとしては、風景画、肖像画や静物画などもかなりの数に上っている。それぞれ興味深い問題を内蔵しているのだが、予定を越えて、ブログ記事としては大変長くなってしまったので、ひとまずこの辺で一区切りして、別の機会に待ちたい。
アメリカに渡った17世紀フランス美術の続編として、ルイXV世紀の時代の作品についての特別展*も行われた。この展覧会も開催地が大変懐かしい場所であることもあって興味深いが、適当な時に紹介してみたいこともある。
*The Age of Louis XV in Ottawa, Toledo and Owego in 1975-7
Source: France in the Golden age, exhibition catalogue