時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

このごろ都に流行るもの:コロナ禍で増加した新職業

2020年09月30日 | 仕事の情景


このごろよく見かけるようになったこの姿、その実像は?

新型コロナウイルスの拡大は、世界の主要な国々で働いている人々の世界(労働市場)にも大きな変化をもたらしている。その目指す方向はAI化、ロボット化、機械化、オンライン化、二極分化など、さまざまに表現されているが、変化は現在進行中であり、その全体を見定めるにはもう少し時間が必要だろう。

しかし、いくつかの主要な流れはすでにその姿を現しつつある。一つは流動化、独立自営業者化などである。今回はその典型例として、新型コロナウイルスの感染拡大が収束しない状況下で、労働市場の人の流れが大幅に減少する過程で、急速に増加しつつある食品配達パートナーとしてのUber Eats、さらにその原型ともいえる20世紀末から増え始めた書類・メッセージ、物品などの配達者としての「バイク・メッセンジャー」の実態を眺望してみよう。

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N.B.
このブログを訪れてくださる方は、扱われているトピックスが、17世紀以来の美術史的領域と20世紀を中心とする労働の世界に関わる領域が混在して分かりにくいと感じられてきたと思われる。筆者にとってはほとんど違和感がなく今日まで来たのだが、少し背景を記しておくことにしよう。とりわけ後者については、筆者は経済学(とりわけ労働経済、労使関係、産業・労働史)を専門としてきたが、「労働」「仕事」という問題を研究対象とするに当たって、「人間」との距離感を失うことなく適切に保つことを心がけてきた。日本ではあまり話題とされない「仕事」や「職業」の分野の写真・絵画、インタビューなどの記録媒体に注目してきた。かつて中山伊知郎先生が、日本でもこうした記録を大切にしなければと言われていたことも思い出す。このブログでも取り上げたStuds Turkel という歴史家、社会学者のインタビュー記録にも大きな影響を受けてきた。


Studs Turkel Working: People Talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do, Pantheon Bs、1974  (スタッズ・ターケル 中山容他訳『WORKING 仕事』晶文社、
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コロナ禍拡大の中、外出する人々の数が激減する中で、ひときわ目立つようになったのは、ウーバーイーツとして知られるレストランやデリカテッセンなどの食品を顧客に届ける配達パートナーである。出前サービスの請負に近い。彼らは、自転車、バイクなどで契約したレストランなどから連絡を受け、食品などを家庭や企業などに届ける。ながらく上海市に住む友人からコロナ禍の発生とともに、食品や消費者物資の宅配、出前が急速に増えているとの話を聞き、「風が吹くと桶屋がもうかる」という話みたいだなとブログに記したことがあった。

ウーバーイーツはサンフランシスコに拠点を持つUber Technology社であり、2014年にオンラインの食品配達サーヴィス業として設立された。2016年には日本にもUber Japanとして誕生、そのサービス・エリアは16都道府県に及んでいるといわれる。

配達パートナーたちは、ギグワーカーの代表例だが、新型コロナの感染拡大とともに、外出自粛、レストラン、スーパー・マーケットの過密化防止などの規制強化に伴い、外出がしにくくなった人たちが、こうしたサービスに頼ることになったようだ。しかし、ウーバーの増加と流行は比較的最近でコロナ禍発生の少し前からのようだ。

実は、ウーバーの流行の前に先駆的例として、バイクなどで主として企業などの依頼でメッセージ、書類、小型の荷物などを相手先に届ける「バイク・メッセンジャー」という職業が存在した。

ニューヨーク市でこの仕事をしている若者へのインタビュー調査が存在するので、ここに紹介してみよう。

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N.B.
実はこの話は『100の仕事:アメリカの都市における仕事のパノラマ』という調査からの紹介である。


 Ron Howell, One Hundred Jobs: A Panorama of Work in the American City
Photographs by Ozier Muhammad
The New Press, New York, 2000
pp.152-153

先程記したStuds Turkel,Working, 1974という大著は、アメリカ社会に存在する職業の中から110を選び、133人に個別にかなり詳細なインタビューを行い、その仕事の実態、収入、感想など多くのことを聞き出し、記した稀有な研究として知られる。

Studs Turkelの調査は、膨大な数の職業について、多くの労力が注ぎ込まれており、統計調査では明らかにしえない労働市場の全体的な階層構造、個々の職種、職業の持つ多彩かつ微妙な特徴を明らかにしたもので、大変貴重な調査結果であるといえる。

それと比較すると、『100の仕事』は、はるかにお手軽ではあるが、どちらかというと普通の人たちがあまり良く知らない仕事、労働市場では比較的中・下層とみられる仕事の例を提示していて、それなりに興味深い。実はこうした試みは他にもかなりあるのだが、筆者の書棚の片隅で断捨離されずに残っていた一冊でもある。
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バイク・メッセンジャーの実像は
このバイク・メッセンジャーのインタビュー例となっているのは、フェルナンド・リヴェラという名の33歳の男性である。調査時点は20世紀末である。仲間からは、“The Kid”として知られている。

彼は、マンハッタンの市街地を自慢の自転車で走り回っている。Gregory Messenger Serviceという企業と契約して、市内の関係作にメッセージ、書簡、書類、小型の荷物などを届ける仕事をしている。

身なりとして頭にはナイキのバンダナをし、背中には125ドルした耐水性のバッグを背負っている。配達するメッセージや荷物次第で手数料を受け取っている。この世界で”エリート”配達人とされるリヴェラは他の配達人より手数料が5%多い

疾病手当のようなものは一切ないので、仕事を失わないよう努めている。これまでグレゴリー社と6年間契約してきたが、肺炎の症状があった時も水を沢山飲むことでしのいだ。仕事を失いたくなかったので、ひどい病気で休んだことは一回しかない。

このようにタフなニューヨーク子だが、夏と冬、そしてハロウイーンには気を使う。とても暑い日には、顧客が水やソーダーのボトルをくれることもあり、彼はそうした気遣いを有り難く思っている。冬は寒いので衣類や荷物が重く、気分はあまりよくない。ハロウイーンの時は、とりわけ夜に人々が街路に投げ捨てた卵の残骸に気を使う。滑って転んだりすると大変だからだ。この日だけ、彼は仕事の行き帰りに自転車を地下鉄に乗せて運ぶ。

普通の配達人は年間15,000〜16,000ドルの収入を得ているが、彼は一生懸命働き、良いボスにも恵まれて、年35,000ドルくらいを稼ぐという。時には契約している企業で注文の電話を受けるなど、オフイスの仕事も手伝う。それでも彼は二人の娘の教育費などを考え、もう少し働かねばと思う。さらに歳をとってこの仕事がきつくなったら、小さな八百屋など、自営の仕事をしようと貯金をしなければと思っている。
ニューヨークで働く配達人の中には15~20年働き続けている者もいるという。彼はこれからもまだまだ長く働きたいと思っており、そのためには、毎朝エクササイズをしっかりやり、体調を整える努力をしているという。

さらにニューヨークは荒っぽい都市であり、油断をするとつけいられるので、身のこなしなども敏捷にすることに努めているという。彼は自分は大丈夫、問題ないと答えている。

かくして、1日ほぼ12時間、週5日働いている。特別の給付などはない。
この仕事に必要とされる経験あるいは条件は、身体が丈夫で市内の街路など地理に通じていることだという。
近年多くの人々が使っているアイフォン、コンピュータなどはまだ使えない時代であった。気をつけているのは、バイクに幅寄せし威嚇したりする、攻撃的な自動車運転手らしい。

N.B.
今日のウーバー・イーツの配送パートナーの場合、収入を含む労働状況について信頼しうる実態調査は目にしたことがない。わずかにweb上に散見される記事などから推察するに、労働環境はバイク・メッセンジャーとほぼ同様なものと考えられる。
Uber Eatsの仕事は、シフトがなく、働き方は自由に決めることができるという意味では、現代、とりわけコロナ禍が解消していない市場状況にかなり合致する特性を備えている。Uber Eatsだけで生活費を稼ぐことは地域や働き方次第では不可能ではないようだ。しかし、専業の場合、稼働日と時間を自分で決めて収入を管理する必要がある。
労働への需要は派生需要であるという観点からみると、ランチタイムとディナータイムに注文が集中し、土日も注文が増える傾向がある。安全確保の理由から、Uber Eatsは12時間以上稼働することができない仕組みになっている。運転時間が12時間に達すると、自動的に6時間オフラインになる。こうした点は旧来のバイク・メッセンジャーなどの働き方よりは、過重労働の危険性をある程度回避している。

UBER EATSは、TV広告なども実施しているようで、こうした新たな働き方がどの程度浸透するか、他の形態と併せ十分注目に値する。


追記(2020/10/02):
偶然見たテレビ番組(日本テレビ)でヴァーチャル・ショップと称して、ひとつのキッチンで10近い店名のオーダーを受付け、そこへUBEREATSの配達人がピックアップに来るというニュースを見た。
(2020/10/10)
「料理宅配員4万人超す 外食モデルに転機 雇用受け皿「調理場」のみ新業態も」『日本経済新聞』

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歴史を凝縮してみる:コロナ禍のひとつの見方

2020年09月26日 | 回想のアメリカ



電話交換手の世界:監督者はローラースケートを履いて交換t手の間を動き回っていた。繊維工場では女子工員もスケートで機械の間を走り回って働いていた。今どれだけの人がそのイメージを描けるだろうか。


2020年という年を後世の人々はどう位置づけるだろうか。中国武漢に始まった新型コロナウイルスの感染は、数ヶ月で北極、南極を除く大陸のほとんどに拡大した。当初は限定された地域での感染に過ぎないなどと、ことさら楽観視していた政治家たちも目に見えないウイルスには勝てない。2020年9月現在、世界の感染者数は3,200万人に達した。死者も100万人を越えている。

ウイルスは人間の健康を脅かしたばかりか、政治、経済、科学、文化などあらゆる面でさまざまな歪みやきしみ、そして破壊を生み出している。その変化の大きさと深さを考えると、もはや単に健康面に関わる狭い問題にとどまらない人間活動のあらゆる面に関わる新しい形をとった深刻な「危機」「恐慌」という変化であることはほとんど間違いない。コロナ禍の発生・拡大前からブログでも記していた世界史上の過去の激動期の変化と比較しても、今回の変化の特異なことは明らかだろう。コロナ禍の場合、問題化してから未だ10ヶ月に満たないきわめて短く圧縮した時間に実にさまざまな「破壊」と「創造」が同時的に起きている。平穏な時には抵抗や障壁も多く実現しがたい「イノヴェーション」(innovation: 革新) の21世紀的展開とみることができる。

歴史を圧縮して見ると
ここに紹介する番組のように1世紀近くの長い時代を短時間に圧縮して見ると、このたびの特異な点を実感できる。ひとつの例が、コロナ禍のため家にいることが多くなり、TVなどを見る時間が増えたことだ。その結果、偶然に20世紀のアメリカを題材とした歴史回顧の番組を見る機会があった。

「カラーで見るアメリカ:”メイドインUSA” の誕生」”America in Color:Season 3”  BSTV101, 9月25日、2020年 (「世界のドキュメンタリー」2019年の再放送)
以下では、筆者が番組を視聴している時に記憶に残るトピックスしか取り上げていないが、より詳細は上記番組リザーヴにアクセスしていただきたい。アメリカ社会の産業・労働史についてある程度の知識が必要かもしれない。


20世紀の変化を30分ほどの短い時間に提示しているだけに、見ていて忙しい番組だったが、印象に残ったイメージを中心にいくつかを断片的に記してみよう:

「メイドイン・アメリカ」の時代
今ではメイドイン・アメリカといえるものになにがあるか、列挙するのは難しいが、20世紀前半には、繊維、鉄鋼、非鉄金属、自動車、家電など多くの産業分野で、アメリカ製品が世界市場を席巻していた。General Motors, U.S. Steel, ALCOA(Aluminum Company of America)、General Electricなど、General , U.S. , Americaなど、アメリカ企業の優位を暗示するような社名も目立った。こうした巨大企業の発展の対極には、AFL、CIOなどの大労働組合の誕生と発展があった。大企業に対する大労働組合という構図である。とりわけ、1920年代の”アメリカン・ドリーム”の時代がとらえられていた。

このブログでも記した1911年3月25日、ニューヨーク・マンハッタンで起きたトライアングル・ファイア Triangle Shirtwaist Fire 事件も伝えていた。10階建てビルの上部3階を占めていたこの衣服工場で閉じ込められ、女性ブラウス(shirt-waists)などの縫製仕事で働いていた女子労働者が、18分間で146人(男性23人以外は女子123人で大半は移民労働者、最年少者は14歳)が死亡するという痛ましい火災事故だった。製品の盗難を防止するとの名目で経営者によって工場のドア、階段は鍵がかけられていた。唯ひとつ開けられていた狭い階段は、たちまち壊れ去った。当時の消防車の梯子はビルの高さに対応できなかった。アメリカ社会・労働史上に残る歴史的大事件だった。

アメリカではこうした労働災害などの後に、画期的労働立法などの成立を見たことが多い。本ブログでも記した女性で初めて労働長官に任じられた
フランセス・パーキンス女史の姿も映像に写っていた。1930年代、F.D.ローズヴェルト大統領のニューディール政策の一貫としての社会保障局設置などもこの時だった。


フランセス・パーキンス女史


1940年代には世界初の電子コンピューター(1945年完成)の登場など、現代の社会の先駆けとなった製品が生まれている。ブログ筆者が初めて仕事で使った手回し式の計算機(タイガー計算機)は、鋼鉄製でおそらく数キロはあり、足にでも落としたら、確実に大怪我をする代物だった。大学で使ったコンピューターは、カードパンチ式だった。その後の変化のすさまじさに改めて瞠目する。



タイガー計算機(手回し機械式)

1940年代末には化粧品や衣類の一部では、訪問販売が新しいビジネスとして始まっていた。1940年にはデュポン社がナイロン・ストッキングを売り出した。フライドチキンなどファースト・フッドもアメリカで始まっていた。一大消費市場が生まれていた。

トライアングル・ファイア事件後40年、服飾産業は42万人が働く一大産業になり、労働組合が大きな力を発揮していた。
インターナショナル・レディース・ガーメントワーカーズ・ユニオン(国際婦人服労働組合)は、かつて米国で最大の労働組合の1つであり、主に女性の組合員からなる最初の労働組合の1つであり、1920年代〜1930年代の労働史の中心的存在だった。1969年には45万人の組合員を擁したが、活動を終了した1995年には25万人まで減少していた。労働組合は、時代の主要舞台から去っていた。

1970年代には大きな訴訟の原因となった建築材などでのアスベスト使用の記録、チョコレートで知られたペンシルヴァニア州ハーシー社のカンパニータウン(会社城下町)など、日本人にもなじみのある光景もあった。

映像から学ぶ
残念ながら、日本ではこのアメリカのドキュメンタリーに対応するような番組は、筆者の知る限り見たことはないが、こうした映像番組を見ると、現在コロナ禍の中で展開している変化がいかに大きいかを改めて実感する。歴史の時間軸がぐっと圧縮されているようだ。そのことを認識することで、目前で起きている大きな変化への心構えも違ってくる。そして、この記事のブログへの入力をしながら、世界でコロナ禍と戦う人たちのドキュメンタリーを見た。そこでは人々は世界各地で、眼前のコロナウイルスと闘いながら、貧困、格差などコロナウイルスの後ろに立ちはだかる人類社会の病理と対決していることが伝わってきた。

We shall overcome!


世界同時ドキュメント「私たちの闘い」BS1 2020年9月26日



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コロナ禍の先に:待ち受ける「認知症」の危機

2020年09月19日 | 特別トピックス


'The perils of oblivion' The Economist August 29th-September 4th 2020
「忘却の危機」The Economist  「認知症 dementia」特集カヴァー

新型コロナウイルスの世界的感染拡大は、歴史観を変えるほどの衝撃を世界に与えた。人間社会の健康面にとどまらず、経済、政治、科学、文化など、ほとんどあらゆる面に深刻な影響を与えている。現在でもその収束の見通しは明らかではない。しかし、これまで世界に影響を与えた感染症の多くは、治療薬、ワクチンなどの開発で、ほぼ抑止されてきた。新型コロナウイルスに対する医療・介護・看護など、医療従事者を中心の多大な努力で、前方にかすかに光が見えてはきた。安全で有効なワクチンが実用化されれば、収束への道は大きく開かれる。

日本では成立したばかりの新内閣が、新型コロナウイルス感染の克服を第一の政策目標に掲げている。そのことは1~2年の短期を視野に入れれば、妥当と考えられる。しかし、より長い時間軸で未来を視野に入れると、新型コロナウイルスよりもはるかに困難な問題がすでに存在することに気づかされる。それは「認知症」dementiaへの正しい理解と国家としての政策樹立である。

「認知症」への正しい認識を
新しい世紀を迎えた頃から、ブログ筆者はこの病に侵された人々の話を聞く機会が増えてきた。親子などの近親者の間でも、しばらく顔を見せないと「あなた誰?」といわれるというような話は、何度か聞いている。こうした話をしている本人は苦笑いしているが、心の中の例えようもないつらさ、悲哀は痛いほど分かる。認知症は残酷な状態を作り出し、人々から喜びと希望を奪い去る。新型コロナに対するロックダウン中における日常的、社会的な接触の遮断は、認知機能の低下を早めた。認知症が原因として特定された死亡者数も増加した。

この問題にはかなり前から関心は抱いてきたが、新型コロナウイルス問題以上に、正しい認識と政策対応が必要になっている。現実は厳しく、新型コロナウイルス問題の比ではないとブログ筆者は感じている。メディアでも「認知症」への関心は高まっている

たとえば、NHK連続ドラマ「ディア・ペイシャント 絆のカルテ」(なぜことさらに分かりにくい英語を使うのだろう)でも取り上げられていた。やや拙速に問題を作り上げ、結論に導くという点はあったが、認知症の難しさは伝わってきた。ドラマは最終回ハッピー・エンドに近くまとめてあったが、むしろ答えのない「オープン・エンド」にした方が問題の厳しさを客観的に伝えることができたのではないか。

世界がコロナ禍の中で右往左往しているさなか、長年にわたり購読してきた雑誌 The Economist が、The perils of oblivion (’忘却の危機’)と題して「認知症」特集を組んでいる。改めて、その悲惨さ、深刻さ、影響の大きさを実感させられた。世界では今やcovit-19に次ぐ死者数が記録されている。

「認知症」については多くの誤解もあり、正しい知識の普及が必要だ。「認知症」とは病名ではない。ある特有の症状や状態を総称する概念である。よく誤解されているように、「もの忘れ」とも峻別されねばならない。中心は加齢に伴って増加する症状だが、若年者層でも起こる症状でもある。今日の段階で、完治が期待できる有効な治療薬はないが、症状を改善したり、発症を遅らせることはできる。

コロナ禍の裏側で
世界が新型コロナウイルスに翻弄されている裏側で、静かにしかし冷酷に人類に迫っている認知症への正しい理解と取り組みが必要ではないか。日本は世界でも際立って高齢化が進行し、人口の28%は65歳以上、90歳以上の人は240万人、100歳以上は7万人を越えている。日本は世界でもこの問題の最前線に置かれ、最も厳しい対応を迫られていることを認識すべきだろう。問題を正しく理解するための知識の普及と指針の提示が必要ではないか。認知症は加齢にともなう「物忘れ」ではない。人間の究極の本質、倫理的な領域に深く関わる問題と理解すべきだろう。

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N.B. 
認知症は高齢化ととともに急増する。世界で最も高齢化が進んだ日本では、認知症の深刻さも最も厳しく国民に迫っている。
認知症は世界で5000万人以上に影響を及ぼしている。有病率は年齢、とともに増加する。
65-69歳層の1.7%に認知症があり、発生率(新しい症例の数)は5年ごとに2倍となるとの推定もある。ある推計では85歳時点で3分の1から半分が認知症を発症している。
認知症のタイプとしては、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、脳血管性認知症の3つが知られているが、他にもある。日本人ではアルツハイマー型が最も多いとされる。



患者数は厚生労働省によると、認知症である人の数は2012年時点で462万人と推計されている。これは高齢者の約7人に1人に相当する。団塊世代が75歳以上となる2020年時点では700万人前後、高齢者の5人に1人に認知症の症状になるとされている。認知症は日本人にとって一段と近い存在となる。

健常な状態から認知症にいたる中間の段階として軽度認知障害(MCI)という概念が設定されており、この段階から適切な治療や予防に取り組めば、認知機能の改善や症状の進行を遅らせることができる。この段階にある人は厚生労働省が2014年に公表した結果によると、軽度認知障害(MCI)または認知症の高齢者は約862万人とされる。65歳以上の4人に1人に相当する
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認知症という人間の根幹的、倫理的領域にかかわる問題への対応は、新型コロナウイルスなどの感染症とは異なる視点が必要である。ここでは、The Economist 誌にならって、この問題を考える場合に考慮すべきいくつかのテーマを記しておこう。


認知症の治療法の探求はうまくいっていない
現在の段階では、症状の根本的改善に効果がある感染症の場合の治療薬、ワクチンのような治療手段は開発されていない。

認知症ケアは誰がそれをするか
 「神の待合室」ともいわれる認知症の段階では、医療・看護・介護者などのケアの必要度が年々増加する。
 すでに長寿への道が良いことばかりではないことに、国民は気づいている。しかし、医療を中心に有効な手段は限りがあり、高齢化の進行に伴う認知症の増加に医療、看護、介護などの分野に従事する人々は顕著に足りなくなっている。

認知症ケアに資金は誰が提供するか
高齢化にともない治療薬などの開発費用、医療・看護・介護などに当たる従事者が増加の一途をたどる。必然的に認知症ケアに必要な資金が増加するが、その負担を誰がするかという大きな問題が発生する。必要な資金額はほとんど不可逆的に増加する。

低賃金経済へのケア依存は増えるか
ヨーロッパの一部には、ケアに必要な負担を軽減・回避するために、東南アジア諸国への観光旅行の名目で看護・介護費用の負担軽減をはかる動きもある。しかし、これは富める国、富裕層などの一時的逃げ道に過ぎず根源的解決にはつながらない。

認知症の人の基本的権利をどう守るか
認知症への対応には苦悩に満ちた倫理的ディレンマの問題が生まれる。人間としての尊厳をいかに守るか。認知症への対応として安楽死、自殺支援などを認める国では、問題は最も先鋭化し激しく対応は困難を極める。認知症になった人が、自らの判断で、今が正しいと思う時に、最後の判断をできるだろうか。たとえ、認知症についての安楽死が認められている国でも、未だ人間である患者の最後を心にわだかまりなく決断できるだろうか。目の前にいるのは、死者ではない。生きている人間 Humanなのだから。


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’Special report Dementia: The perils of oblivion’ The Economist, August 29th 2020




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大英帝国の盛衰を感じる一枚:ターナーの傑作(2)

2020年09月11日 | 絵のある部屋

最後の帆船軍艦として保存されている「戦艦ヴィクトリー」(ポーツマス港)


戦艦テメレールの終幕の光景(前回)を描いたターナーは、船体がスクラップとして解体される場所にまで足を運んだようだ。この画家は最終的な作品がいかなる形で制作されるかに関わらず、描かれる対象についてスケッチを初めとしてできる限りの準備をして制作に当たった。

《戦艦テメレール》の場合も、周到な準備に基づいて描かれた作品だが、現代人にとっては当時の戦艦あるいは海戦のイメージを思い浮かべることは容易ではない。そこでこの作品が生まれた背景について前回に追加して記しておこう。
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N.B. 

ネルソン提督のイギリス地中海艦隊の実態
ターナーは三本のマストと三層のデッキのある船を描いているが、いかなる構造なのか細部は分からない。そこで、現在最古の軍艦としてポーツマスに保存されているかつての英国海軍の旗艦Victoryの写真を掲げておこう。ネルソン提督が乗船した旗艦であり、テメレール(戦列艦)はその第2列に配置された。ヴィクトリーを見ると歴然とするが帆船としての3本のマストが目立つ。船体は硬いオーク(ブナ科)材で作られ3層から成っていた。
戦時の乗組員は合計でおよそ750人で、同規模の商船よりはるかに多い。船内の生活条件は厳しく、寝床はベッドではなくハンモックだった。支給された食物も新鮮ではなかった。監獄にいるような状況だった。報酬は契約期間が終了する時に賃金が支払われた。そのため、不満が鬱積し反乱がしばしば発生したが、決まって残酷な対応を受けた。


テメレールの場合、反乱は1801年12月アイルランド沖で起きた。この船はイングランドを離れ、すでに9年近くが経過していた。船員たちは故郷へ帰りたがったが、海軍本部は無情にも西インド諸島への航海を命じた。耐えきれなくなった船員の間で反乱が起きた。14人のリーダーが捕らえられ絞首刑に処せられた。反乱参加者は国王陛下の艦船で騒乱を起こしたとのかどで船員から永久追放となった。
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その後苦難な時を過ごした戦艦テメレールにとって、反乱の恥辱をぬぐい、栄光の日とする出来事が起きた。トラファルガーの海戦の勃発である。
 
栄光の日
「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」

海戦に際して、ネルソン提督が戦艦ヴィクトリー艦上に掲げた信号旗

トラファルガーの海戦は、1805年英国艦隊がスペイン・フランスの連合艦隊を破り、ナポレオンのイギリス侵攻の意図をくじいたことで知られている。1805年10月26日はイギリス艦隊にとって海戦史上に残る栄光の日となった。ネルソン提督 (Horatio Nelson, 1958-1805)は、旗艦Victoryに乗船、26隻の船舶でスペイン南西海岸、大西洋に面するジブラルタル岬の沖合でスペイン・フランス艦隊に大勝した。当時の海戦は遠く離れて砲火を浴びせる形ばかりではなく、しばしば相手に接近し、銃砲火を相手に浴びせたり、相手艦船に乗り移り戦うという形も多かった。戦いは「ネルソン・タッチ」として知られる接近戦で、スペイン・フランス連合艦隊の半分以上を撃沈・拿捕、イギリス艦隊は喪失艦なしという見事な勝利だった。ネルソン提督は過去の海戦で右目、右足を失っていたが、この戦いで被弾し、イギリスの勝利を見届けて息を引き取った。最後に残した言葉は「神に感謝する。わたしは義務を果たした」だったと伝えられている。戦艦ヴィクトリーはその後保存の道が開かれたが、海戦に参加した他の艦船はテレメールを含めて相次いで後方での再活用、解体、廃船への道をたどった。悲しいことに、解体して価値のあったのはオーク材と銅の継ぎ手くらいだったと伝えられている。

戦艦テメレールは自力での航行能力を失い、戦争終了後タグボートで近くの港へ曳行され、必要な補修を受けて戦線後方で補給船、監獄船、新兵収容艦として使用された後、1816年軍艦としての役割を終えた。その後解体のため1838年に売却された。この間に同艦のたどった勇敢な歴史は詩、本、絵画、歌などで讃えられた。

蒸気が櫂(かい)に取って代わる:エネルギー革命
この戦いのひとつの特徴はそれまでの帆船・櫂主体の艦船から蒸気船へと移行する転機であった。テメレールが解体されスクラップになった年は、ブリストルからニューヨークへの汽船が初めて就航した年であった。

このことはエネルギーの主力が風や人力から次の主力の石炭へと移行したことを意味している。ターナーの作品で真っ黒な煙突から煙を上げて、帆船の戦艦を牽引するタグボートは、産業革命のシンボルといえる。タグボートの黒い煙突は、このブログで取り上げてきた
L.S.ラウリーの作品に描かれた大煙突とも重なる。タグボートの煙突から立ち上る黒煙は、プロレタリアートの台頭を暗示するかにみえる。背後に見える美しい船体と重なり、進歩がもたらす悲劇を象徴するかのようだ。新しいものが容赦なく古さに取って代わった時代である。


大きく変わったターナーの画風
ターナーの画風も大きく変わった。《戦艦テメレール》の作品を受け取って版画として出版しようとした出版業者は線と色の区分が明瞭であったそれまでの画風が一変し、何を描いたのか、どこが対象を区分する線なのか、色の境界も判然としなくなった作品に、呆然としたようだ。それまでの風景画のように銅版画などの作成がまったくできなくなってしまった。


《戦艦テメレール》の一部(背景)

《戦艦テメレール》を曳航するタグボートも実際には2隻だったが、ターナーは自らの目的に沿って1隻しか描いていない。タグボートの後方に漠然と描かれたテメレールに、批評家や版画家たちがこの絵は現実に合わない、誤りだと評しても意に介さなかった。タグボートにもマストがあり、煙突はその後方にあったことも知りながら、あえてこのような構図を追求した。従来の画風に固執していた画商や顧客はさまざまに不満や批評を展開したが、ターナーは撤回しなかった。ターナーは最前列に醜悪なタグボートを描き、それに粗暴で非人間的なイメージを持たせたのだ。資本主義が蹂躙する時代の到来を感じていたようだ。煙突の煙で存在が薄れるテレメールは、彼女の時代が終わりつつあることを暗示していた。

さらにターナーは、沈みゆく夕日の中に薄れゆく船体を描き、美しく、高貴に、そして崇高なイメージを作り上げた。そしてタグボートを除くあらゆる俗物、テーマに関係ないものは総て捨象した。

この作品が1839年、ロイヤル・アカデミーに初めて出展された時、人々は感嘆、絶賛した。
小説『虚栄の市』Vanity Fair で著名な作家ウイリアム・M・サッカレー (William M.)は、1839 年のロイヤル・アカデミーの展覧会に出展されたターナーの作品を見て、「これほど荘厳な作品は世界のどのアカデミーでも見られなかった。どの画家のイーゼル上に描かれたことはなかった」と絶賛した。「勇敢な年老いたテメレール」という歌唱曲は、1世紀以上の年月にわたり歌い継がれたほどの人気であった。

ターナーのこの新しい画風は、さらに後年大きな絶賛を得た《雨、蒸気そしてスピード》などの作品にも受け継がれていった。



William Turner, Rain, Steam and Speed--The Great Western Railway, 1844, London: The National Gallery
W.ターナー《雨、蒸気そしてスピードーグレート・ウエスタン鉄道》1844年


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​大英帝国の盛衰を感じる一枚:ターナーの傑作(1)

2020年09月06日 | 絵のある部屋

J. M. W.ターナー《最後の解体に向けてタグボートに牽引される戦艦テメレール》キャンバス、油彩、1838年 91x122cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー
J. M. William Turner (1775-1851) The Fighting Temeraire tugged to her Last Berth to be broken up, oil on canvas,91x122cm,1838,1839, National Gallery, London



イギリスを代表する国民的画家ターナーについて記しだすと、とめどなくなりそうだ。それだけこの画家は多彩な画風の持ち主であり、若くして名声を手中にしていたが、美を追求するに絶えず研鑽、努力を惜しまなかった。天賦の才に恵まれたとはいえ、この画家の作品制作に当たっての準備と努力の傾注は並々ならぬものがあったようだ。

前回記した《平和ー海での水葬》にしても、ターナーが若い頃に「風景画」の理想として深く傾倒していたフランス出身の画家クロード・ロランやオランダ画家のことが思い浮かぶ。当時の画壇におけるジャンルとして「風景画」は「歴史画」よりも低い評価ではあったが、ターナーは意に介さず綿密な検討と思索の上に制作に当たった。《平和ー海での水葬》を見ていると、直ちに思い浮かぶ作品がある。この作品、1838年に制作され、1839年アカデミーに展示されるや、たちまちイギリスの”最重要な絵画”との評価に輝き、2005年に行われたBBCの一般国民投票でも最上位にランクされた。

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N.B.
この画家の「海景画」と呼ばれるジャンルでの研鑽が思い浮かぶ。ターナーはヤーコブ・ファン・ライスデールやアルベルト・カイブなどのオランダの風景画家、サルヴァトール・ローザ、ズッカレッリ、カナレットなどのイタリアの風景画家も、深く研究している。特にオランダ画家については、ロイヤル・アカデミー初代院長レノルズの考えに従ったといわれている。
風景画を得意としたターナーは、精力的に大家の作品を研究していたが、17世紀にローマで活動していたフランス出身の画家クロード・ロランに深く傾倒した。クロードは自分の生まれたフランスよりもイギリスにおいて大きな影響力を持っていた。クロードの風景画はイギリスにおいて熱狂的な支持者を獲得していた。

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栄光と衰退の象徴として
この作品、20年近く続いたナポレオン戦争で活躍したイギリスの戦艦テメレール号がその任務を終えて、解体のため最後の停泊地へ向けてタグボートで曳航されてゆく光景をテムズ川の日没を背景に描いたものである。テメレールは、ネルソン提督の旗艦ヴィクトリーの戦列で2番艦として位置づけられ、大きな戦果を上げた。1836年まで戦線後方で使用されていたが、解体のため1838年に売却され、解体ドックへ向かう途上だった。
イギリス国民が誇りとしてきた栄光の象徴的存在がその役割を果たし、力尽き、最後を迎えつつあるという場面が描かれている。この作品に接した人々はイギリス帝国が築いた栄光にかつての日々を偲びつつ、今その時代が終わりつつあることを深く感じたことだろう。

海洋国家の誇り
イギリス国民にとって海軍の存在は特別な意味を持っている。イギリスは産業革命の発祥の地であり、その繁栄を背景に世界と貿易や人の交流でつながっているという思いがこの国を支えてきた。海洋国家として輝いた時代である。その活動を支えていたのが、英国海軍だった。
筆者がかつて過ごしたケンブリッジでの隣家は、退役した海軍の将校夫妻が住んでいた。大変親切で色々お世話になったが、家屋、庭、自動車の整備など、購入したならばその後のメンテナンス、修理はほとんど自分で行うことなど、日頃の努力とそれを支える強い自立心に感銘した。10年以上が過ぎた自動車のエンジンも、ほとんど新品のように見えた。海軍の規律のようなものが、日々の生活を支えているようだった。

閑話休題
ターナーがこの作品を制作した当時は、画家は64歳、画業の真髄を達成し、円熟の域に達した感があった最高の時期だった。描かれる対象となった戦艦は、トラファルガー沖での海戦での英雄的な働きで国民によく知られた存在だった。ターナーは、廃船になる前、自ら最終解体地も訪れている。さらに作業場をテムズ川のほとりに設け、川や行き交う船の有様を観察していたようだ。
この時にいたる過程を簡単に見てみよう。1805年、ネルソン提督率いるイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー沖に撃滅したが、提督みずからも戦死した。大英帝国の栄誉とその終幕ともいうべき出来事だった。

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N.B.

この戦艦テメレールには歴史があり、元来フランスの軍艦名Charles le l’emeraire だったが、1759年ラゴスの海戦でイギリス海軍によって捕獲された。イギリス海軍は大規模な補修を行い、1798年 HMS Teneraire (ネプチューン級戦列艦)として進水式が行われた。船体の長さはおよそ185 ft(約56m), キールから上甲板までは51ft(約16m)あり、3本マストで帆走、大小98の砲身を装備していた。
1805 年10月21日、「テメレール」は26隻の艦船とともにネルソン提督率いる艦隊の旗艦Victoryに続く戦艦として栄光の日を迎えた。ナショナル・ヒロインとして祝賀を受けた。その後トラファルガー沖での海戦でスペイン・フランス連合艦隊を破り、ナポレオンのイギリス侵攻を防いだ。記録によると、戦闘は4時間半に及び、「テメレール」も47人の船員の命を失い、76人が負傷した。この海戦で提督ネルソンも戦死した。船体の損傷も甚だしく航行不能となった。


テメレールは勝利の栄誉は獲得したが、多くの乗組員とともに、自らの航行能力も失い、現地での修理後落札されて解体に向けてテムズ川を曳航された。人々は提督の戦死を悼み半旗を掲げた。かくして英国民は多くの悲しみとともに戦勝を祝賀した。

作品の制作と解釈
この作品の構図は極めて異例だ。最も重要な主役である古い戦艦は画面の左側に寄せられて描かれている。青い空と立ち上る霧に隠れている。3本マストの軍艦の船体は、煙突から高く黒煙を吹き上げる汚れたタグボートの背後に隠れるように描かれている。よく見ると壮麗な船容だが、別の世界に存在するかのようだ。さらに後方には任務を終え同様の運命をたどる船が続いている。
戦艦とは反対の右側にはまさに沈もうとしている夕日が描かれている。大英帝国海軍の歴史の一幕を見るようだ。画面全体に見事な光の描写が見られ、詩的でファンタジックなイメージである。


Turner, details
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N.B.

画家はこの作品を制作するに際して、かなりの下準備を行ったことが判明している。
ターナーがこの戦艦が曳航されるのを見たのは、1838年9月5日正午頃といわれている。画家はわざわざ Rotherhitheの解体工事現場まで足を運び、さらにスケッチなどをしたようだ。油彩の画面は画家が最初に目撃した時の天候とは異なるようだ。画家は最もふさわしい状況を描いたのだろう。また、実際にはテメレールは2隻のタグボートで曳行されたようだが、画家は1隻にしている。画家は事実を踏まえた上で、美術作品としての観点からさまざまな創意工夫をこらしている。

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解体が終わって8ヶ月の後、1838年ターナーはロイヤル・アカデミーに作品を出展した。作品を見た人々は、輝かしかった自国の日々に精神の高揚を感じるとともに、大英帝国の衰退の始まりも噛み締めていた。
この作品に限ったことではないが、ターナーはしばしば作品のタイトルにこだわり、長い画題を好む傾向があったといわれる。アカデミー展図録にはトマス・キャンベル(1777~1844)の詩をベースに「戦いにも、吹く風にも立ち向かってきた旗も/もはやその姿をとどめず」の説明を付けた。作品に接した人々はその意味を理解し、作品を併せて鑑賞した。当時の知的観客の美術の楽しみ方だった。


この作品については色彩学あるいは資本主義の歴史の点からも、記したいことが多々ある。次回にまわしたい。


Reference
Egerton Hudy, Turner, Fighting Temeraire, London, 1995

続く
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