時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

自然への畏怖を新たに:御岳山噴火

2014年09月28日 | 特別トピックス

 





  このところ、ブログのやや脇道で取り上げたテーマがほどなく現実化したり、メディアの対象になったりして、いささか驚いている。(たとえば、数年前に書いた短い記事が、朝の連続TV番組テーマと関連するなど思いもしなかった)。最近では旅の途上のつれづれに、偶然目にした雑誌記事を紹介かたがた解説したばかりだが、その内容をいわば裏打ちするような出来事が日本で起きた。

 紹介した雑誌記事自体は短いもので、要旨は、これまでアメリカで起きた自然災害の発生頻度を基礎にして、ハワイ、アラスカを除く全土の州・郡別の色分けを行い、いわば地域別安全度を推定したものだ。判定の基準とされた災害は、「竜巻」、「土砂洪水」、「森林火災」、「ハリケーン」、「地震」がとりあげられていた。


 そのことを記して日が浅い昨日9月27日、ふと見たTVが思いもかけなかった御嶽山噴火の様子を放映していた。浅間山、桜島など比較的近くで火山噴火を目にすることがある国だが、列島のほぼ中央部で突如こうした予期せぬ光景が展開することは稀であり、きわめて衝撃的である。アイスランドなどを除けば、あまりみられない。火山国の特徴ともいえる。

 アメリカの場合は、火山噴火は西海岸ワシントン州のセントへレンズ山、レーニア山などが大規模な噴火を起こした例と知られている。アメリカ地質調査所によると全米では、およそ169の火山が確認されている。昨日来、この調査所の情報提供サイトは、アクセス数が多かったのか、一時的に閉鎖状態であった。

 大西洋でも今年8月3日、アイスランドのバルダルブンガ火山が噴火し、有毒ガスの発生、航空機の飛行障害の可能性などが注目を集めている。1970年代初め、エネルギー問題の調査旅行の途上で短時日訪れたことがあったが、氷河と火山の島であった。

 御嶽山は古くから山岳信仰の山として知られ、かつては山伏装束の人たちで山道が埋まるほどだったらしい。時が経過し、いまは登山ブームで軽装で出かける人も多いようだ。別の山だが、山道を救急車が苦労して負傷者を搬出している光景に出会ったことがある。自然に対する畏怖の念、常にどこかに抱いていなければと思う。そのためには、各地域で起こりうる災害の性質と可能性をできうるかぎり国民が共有できるよう、これまで以上に努力が必要だろう。

 しばしば例示されるように、日本の国土面積はアメリカのカリフォルニア州に相当する。国土は海に囲まれ、そこにひしめくように火山が活動している。台風、都市火災など、その他の災害を考慮すると、危険性はいたるところに潜在している。自然への畏怖を持ち続けること、これはこの国に住む者が常に心にとめていなければならないことなのだ。

 
今回の噴火で犠牲になられた方々はすでに数多く、胸が詰まる。不幸にしてお亡くなりになった方々にはひたすらご冥福をお祈りしたい。

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大いなる沈黙の中に

2014年09月22日 | 午後のティールーム

 
 


 かなり前から評判は聞いていたが機会のなかった映画を観た。『大いなる沈黙へ』 Die Große Stille (フィリップ・グレーニング監督、フランス、スイス、ドイツ)
と題されたフランスの男子修道院の生活を徹底して再現しようとした作品である。2005年の制作だから、すでに9年近く経過しているのだが、どういうわけか今年になって観る機会があった。ヨーロッパ映画祭2006年ベスト・ドキュメンタリー賞など多くの賞を受けている。

 フランス・アルプス山脈の山深くに建てられたグランド・シャルトルーズ修道院が舞台である。この修道院を運営するのは、カトリック教会の中では厳しい戒律で知られるカルトジオ会である。

 現実の修道院については、これまで内外のいくつかの場所を見学したり、多少調べたことがあった。この修道会が位置する場所は、グルノーブルとシャンベリの間にあるフランス・アルプス山脈のかなり深い山中である。カルトジオ修道会はケルンの聖ブルーノ(1030-1101)により1084年に設立され、その後1132年には雪崩で埋もれてしまったり、8回にわたる火事でほとんど崩壊の危機に直面した。現在の壮大な建物は1688年に建てられた。カトリック宗教改革が一定の成功を収め、勢いを取り戻した時代だ。

 このブログに時々登場してくるロレーヌ地方の修道院が、カトリック宗教改革当時、布教の最前線として、さまざまな世俗的な役割を担っていたのと違って、ほとんど世を捨てた修道士たちの居住する30余りの房(個室)が集合した巨大な修道院である。修道士たちは一日の大半をひとり、この房で過ごす。なんとなく独房を思わせてしまうのだが、長い経験の中から生まれた形なのだろう。礼拝堂は集団行動のための場所であり、毎日礼拝がある。すべての楽器は禁止されており、グレゴリオ聖歌と聖書朗読のみが認められている。アルプス山中深く位置し、人里とは遠く離れている。しかし、現代文明とまったく切断されているわけでもない。小さなブリキの箱に入る程度の私物の所持は認められている。修道士の髪を切る電気バリカン(コード付き)、パソコン、靴の修理用の接着剤など、映し出されるいくつかのものが、一寸した違和感と外の社会とをつなぐ糸を感じさせる。こうした情景をカメラはひたすら映し出す。ちなみに監督のグレーニング氏自身カトリックであり、制作のためにほとんど半年、修道院で過ごしたという。

 カルトジオ会はヨーロッパ、アメリカ合衆国、中南米、さらに韓国に19の修道院を持っている。
どの修道院も経済的に独立し、自給自足のようだ。そのため修道士は農夫や職人のような仕事も担当する。途中で修道士が韓国(カルトジオ会の修道院がある)へ出張する話が出て、現実世界とのつながりを感じさせる。

 ナレーションのない作品である。ストーリー性もない。しかし、それはかえって心地よい。 現代の日本は、映画館の外は雑踏と「スマホ」の情報が乱れ飛ぶ雑然とした世界だ。そこから、しばしの時間、静寂が支配する映像の世界へ入り込むことを求められる。2時間49分という時間、映画館でじっと耐えているのは、多くの人にとってかなり苦痛を伴う。しかし、修道院内部の生活を仮想体験させるにどうしても必要と監督が考えたのだろう。

 内容については、すでにネット上でも語られているなので、これ以上記さない。ただ、多少気になったのは、礼拝堂のミサで、真っ暗な画面の上に時々見える赤い小さな光だ。聖体の存在を知らせる灯なのだろうか。なんとなく人工的な印象を受ける。ラ・トゥールの風に揺らぐ蝋燭の焔ではない。

 そして、フランス語、ドイツ語、日本語で示される字幕の文字:

 「主よ、あなたは私を誘惑し
 私は身を委ねました

 主よ あなたは私を誘惑し
 私は身を委ねました

 一切を退け私に従わぬ者は
 弟子にはなれぬ

 静けさ 
─ その中で主が
 我らの内に語る声を聞け」 

 訳文、特に前半部に少なからず違和感を感じた。信仰とは神に誘われ自分を捨てることなのか。同じ映画を観た日本語のよく分かるフランス人(カトリックではない)に尋ねてみた。フランス語では感じなかったが、言われてみると確かに考えさせられるとの答。グランド・シャルトルーズ修道院で日々を送る修道士はいかにして神に出会うのだろうか。

 修道院。現代においては、きわめて特別な世界である。観てみようと思う人だけにお勧めする。 




この修道院に関するより詳細な情報は、次のHPより得ることができる。

http://www.chartreux.org/en/  

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日本で安住できる所とはどこなのだろう: 地域再生の視点

2014年09月12日 | 午後のティールーム








旅の風景から



 広島の土砂災害を始めとして、このところ日本各地で気象異変による災害が増えている。大雨、突風などその原因はさまざまだが。旅先でふと目にした雑誌で「(アメリカで)安全に住める所はあるか」" Are there any safe places left to live?" TIME. September 8-15, 2014 という記事に出会った。

 記事の内容は、アメリカ合衆国本土で、州、郡(county) 別に自然災害の少ない土地を順位づけたものだ。自然災害は竜巻、洪水、山火事、ハリケーン、地震を対象としており、その被害の頻度によってアメリカ全土を順位付けしている。たとえば、最近は日本でも発生する竜巻についてみると、発生頻度の高い地域はテキサス州北部からネブラスカ州まで、アメリカの国土のほぼ東半分に多数発生している1950年以来の死者5,304人)。ハリケーンは北大西洋西部に発生する熱帯性低気圧で、風速32.7m/秒 以上のものとされる。大体6月から11月に発生するが、メキシコ湾岸諸州から東部の大西洋岸沿岸に被害をもたらす(1996年以来の死者1,954人)。地震は北米地殻プレートの重なり合うカリフォルニア州と東部大西洋岸諸州に集中して発生する(1950年来の死者273人)。ちなみに山林火災の死者は1996年以来99人。洪水による死者は1998年以来、280人。

  これらの自然災害の頻度が最も少ない土地として選ばれた上位3位をみると、1)モンタナ州スウィートグラス郡、2)アイダホ州ワシントン郡、3)モンタナ州ウイートランド郡となっている。たとえば、全米第一位に選ばれたモンタナ州スウィートグラス郡は中西部カナダ国境に近い景色の良い山岳地帯で、太平洋岸の山火事が頻発する地帯からは遠く、東部の洪水などが頻発する地域からも遠く離れている。

 逆にワースト3位になっているのは、1)ニュージャージー州オーシャン郡、2)カリフォルニア州オレンジ郡、3)ニュージャージー州ケープ・メイ郡である。たとえば、リスクの多いニュージャージー州オーシャン郡は大西洋に面し、高潮、ハリケーン・サンディなどの被害を受けた地域である。同じ州のケープ・メイ郡も高潮、ハリケーンなどの被害を受けている。2位のカリフォルニア州オレンジ郡は山火事や洪水の被害を受けたことが多く、日本でも時々メディアに登場するのでご存知の方もあると思う。全体として、竜巻、ハリケーンなどの被害が比較的少ない西部地域が比較的安全と位置づけられている。ただし、カリフォルニアは例外的にリスクが極めて高い。

 総じて、人口が多く、密度が高い地域は、安全度は低い。逆に人口の少ない地域は、一見自然条件などは厳しく思われるが、居住場所としての安全性は高い。ここに取り上げられている自然災害などの観点に加えて、大気汚染、犯罪の発生率、原発の所在
などを加えると、どうなるだろうか。


 この記事を読みながら考えた。北から南まで、見方によればいまや災害列島のような感もある日本で、同様な基準で各地の安全性を評価すると、どういうことになるだろうか。人口減少下で地域の再生・創生を目指す日本にとっても、新たな視点からの地域評価基準と政策導入はきわめて重要な課題となる。この国で安心して住める所はどこなのだろう。
 


 
 


 

 


追記(2014/09/16)
 午前0時28分ころ、最大震度5弱の地震が関東地方に発生。東京も今後安心して住める地域とはいいがいたいことを図らずも証明した。 

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孤独に耐えた人生:L.S.ラウリーの作品世界(12)

2014年09月06日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



Lowry sketching in Salford 
サルフォードの町中でスケッチするラウリー (画像クリックで拡大)


この画家は、いつもこうしたスーツ姿で不動産会社の社員として、労働者の住宅街などでの地代・家賃の集金をしていた。労働者ばかりの地元の他の人々と身なりは違っていたが、顔見知りなどとはその都度世間話などをしていた。その傍ら、目に付いた光景に出会うと、こうしてスケッチしていた(Lever and others 1987)。 


長い孤独に耐えて
 
人生80年時代といわれる昨今、どうすれば生きていて良かったと思う時間を長く保って、最後まで歩くことができるだろうか。書店を覗くと、多数の人生訓、生き方指南のようなタイトルの本が枚挙にいとまないほどある。それだけ、現代社会に生きる人々の心のうちは不安に充ちていることを思わせる。しかし、そうした人生指南などの多くは、功成り名遂げた人たちの教訓めいたところもあったり、押しつけがましい感もある。大体、従来の常識とみられたことを否定するようなひと目を惹くタイトルがつけられている。

 そうしたものを読みたくない人も多いだろう。それも賢明な選択と思う。できうるかぎり他人に頼らないで生きる。これは高齢化社会に生きるひとつのあり方なのだ。実はL.S.ラウリー(1887-1976)の人生は、孤独との戦いでもあった。ラウリーの伝記を書いたT.G. ローゼンタール(2010)は、「孤独であることは天才の学校である」 Solitude is the school of genius.(Edward Gibbon)との言葉で、この画家を評している。

 実はラウリーには多数の友人・知人がいたのだが、彼の人生の多くを支配した心境は、この評に近いものだった。L.S.ラウリーという画家の生き方は、それを追体験することを通して、厳しく不安な時代に身を置く人たちにさまざまな知恵や元気を与えてくれる。画家自身は、なにも教訓めいたことは一切口にしない。イギリス人らしいユーモアやアイロニーで、さまざまな事態に対応し、結果としてしなやかだが強く生きていた。

 この画家については、すでに多くの評伝があり、それぞれ特色を持っている。それらに共通して興味深い点は、この画家が複雑・多難な境遇と時代を経験しながらも、自分のしたいことを人生の軸としてしっかりと貫いたことだ。そして、素晴らしいと思うことは、そのあくなき努力が実り、晩年になるほど、ラウリーの精神的環境は豊かになったのではないかと感じられることだ。この画家を理解するには、単に作品を見るだけではなく、画家がいかに難しい時代環境を生きたかについて知ることがどうしても必要になる。ラウリーは、現代イギリス画壇で最も誤解されてきた画家(とりわけエスタブリシュメントから)であった。しかし、彼にはその作品に共感する多数のファンがいた。その力がやがて古いエスタブリシュメントを打ち砕いていった。

家庭も孤独に
 ラウリーの人生は、家庭的にも孤独な戦いを迫るものだった。父親の経済力も次第に低下し、環境の良くない工場などに囲まれた土地に移転を余儀なくされてもいる。しかし、この画家は工場やそこで働く労働者の生活など、従来の絵画ではほとんど美的対象とされなかったものを、積極的に画題に選んだ。

 さらに若いころ、両親、とりわけ母親エリザベスから、「趣味としてなら、絵を描くのも仕方ない」と、厳しい生き方を迫られた。要するに画家として修業に専念、身を立てる道を断たれていた。ラウリーは母親を愛していたがゆえに、無理矢理自分の意志を押し通すことをしなかった。そして選んだ道は、下積みの会社勤めをしながら、夜間には美術学校に通い、わずかな時間に制作するという二足のわらじを履いての人生を最後まで曲げずに貫いた。これまでに記したように、母親は神経質で自ら問題を抱え、かなり難しい人であった。母親は自らがピアニストとして成功することを望んでいたようだが、それもかなわず、鬱屈した日々を過ごした。そのこともあってか、息子をしばしばうとましく思い、生きている間はラウリーの作品を評価しなかった。しかし、ラウリーはそうした母親の態度にもじっと耐えていた。

遅れてきた春だったが
 1938年11月、ラウリーは51歳になっていた。すでに35年以上、厳しい環境に耐えて、ずっと絵筆を握ってきた。そのころ、思いがけなくロンドンの権威ある有名画廊「リード・アンド・ルフェーヴル」 Reid and Lefevre から個展を開かないかとのオファーがあった。当時から多くの画家にとって、この画廊で個展が開けるということは、やっと自分の作品が世に出て、画家として認知される舞台のひとつだった。人々に作品を見てもらい、成果について評価を受ける機会が与えられるという意味で、喜びと緊張が混じり合う機会だった。ここでの個展を機に、著名な画家として巣立っていった人たちは多い。

 しかし、当時のラウリーの心情はそうした高揚感とは、遠く離れたものだった。普通ならば、これでこれまでの苦労がやっと報いられると思ったはずだった。しかし、ラウリーが1938年に制作した「ある男の肖像」Head of a Manは、画家の自画像ではないかと推定されているが、異様な容貌として描かれている。表現主義の影響は感じられるが、作品に画家の精神状態が反映している。頭髪は乱れ、両目まぶたは赤く、頬は痩せこけ、緊張とストレスで心ここにあらずという印象を与える。両目は虚ろな感じだが、なにか突き刺すような視線を感じる。若いころのハンサムな自画像とは、別人のようだ。ラウリーはこの作品について、母親の看病に疲れ果てた翌朝、洗面所で鏡に映った自分が、このように見えたと語った。



Head of a Man. 1938. City of Salford Art Gallery, Cat.278

 当時、画家の母親は長い病の床にあった。 彼女は以前から病気がちで、夫が死去する少し前から、6年以上病床にあった。ラウリーは唯一の家族として彼女を看護し続けてきた。そして、息子の作品がようやくロンドンの画壇で日の目を見る輝かしい時が来たことを知らされても、息子の努力を讃えることはなかった。エリザベスは1939年10月12日に亡くなった。生前、母親は息子の成功を喜んではくれなかったようだ。ラウリーには他に家族はいなかったが、彼の家族をよく知るドラ・ホルムズは後に彼らのことを尋ねられ、こう話していた:「彼(ラウリー)は彼女[母親)のために生き、(作品を見て)微笑んでくれ、一言でも褒めてくれることを望んで生きていた」。この頃、ラウリーは「すべてが遅すぎた」All come too lateと繰り返し言っていたらしい。ロンドンの有名画廊からの個展開催オファーという「遅れてきた春」を喜ぶような心境ではなかったようだ。

ストイックな人生と画家を支えたファン
  母親ばかりでなく、ロンドンの画壇の主流も、長らくこの画家を、伝統とは離れた妙な絵を描く、下手な地方の画家と見下してきた。それにもかかわらず、ラウリーの作品には多くのファンがいた。ロンドンの有名オークションでも、人々の注目するところになり、高値がついた。晩年の家計の維持にはなにも困難はなかったようだ。しかし、ラウリーは生涯、煙草も酒もたしなまず、独身で、質素で節倹な日々を過ごし、ひたすら画家として生きた。





Piccadilly Circus, 1959
oil on canvas
『ピカデリー・サーカス』
ラウリーはマンチェスター、サルフォードなど、北西部の都市に住んでいたが、画壇の主流が陣取るロンドンの情勢にも通じていた。

典型的な「マッチ棒のような人々」だが、当時のピカデリー・サーカス」の雑踏の雰囲気が
伝わってくるような作品。 

拡大は画面クリック


 さて、ラウリーに個展の機会をオファーした「リード・アンド・ルフェーヴル画廊」は、この画家のどこに注目したのだろうか。この画廊は下に記すように、当時、フランス印象派の画家の作品を多数扱っていた。実はラウリーの作風には、印象派の影響が感じられる。それはどこに由来するのだろうか。これも大変興味深いのだが、その点を書き出すと長くなるので、またの機会にしたい。
  


Reference
Michael Leber and others. L.S. Lowry. New York: Phaidon, 1987
T.G.Rosenthal. L.S.Lowry: The  Art and the Artist. Unicorn Press, 
2010


 「リード・アンド・ルフェーヴル画廊」Reid and Lefevre Gallery は、1926年4月にフランス印象派絵画と現代イギリス絵画の最も卓越したディーラーであったMr Alex Reid and Monsieur Earnest Lefevre がロンドンに開設したギャラリーだった。そして、2002年の閉店まで存続した。その盛時には、スーラ (George Seurat) の個展を1926年、アンリ・マティス(Henri Matisse) 1927年、ドガ(Degas)1928年、モジリアーニ(Modigliani) 1929年、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso1931年)、ダリ 1936年、フランシス・ベーコン、1945年、カルダー(Calder) 1951、バルテュス 1952年、カンディンスキー、1972年、ドガ、1976年、ピカソ・スケッチ 1994年その他、多数の有名画家の個展を企画・開催してきた。
 イギリス絵画界で一流画家として認知されるには、The Royal Arts, the Tate, the Haywood, the Barbican galleries などでの 個展が企画されることが必要とされていた。Reid and Lefevreも上記のように、20世紀を代表する画家たちを世に送り出した画廊のひとつだった。


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