Lowry sketching in Salford
サルフォードの町中でスケッチするラウリー (画像クリックで拡大)
この画家は、いつもこうしたスーツ姿で不動産会社の社員として、労働者の住宅街などでの地代・家賃の集金をしていた。労働者ばかりの地元の他の人々と身なりは違っていたが、顔見知りなどとはその都度世間話などをしていた。その傍ら、目に付いた光景に出会うと、こうしてスケッチしていた(Lever and others 1987)。
長い孤独に耐えて
人生80年時代といわれる昨今、どうすれば生きていて良かったと思う時間を長く保って、最後まで歩くことができるだろうか。書店を覗くと、多数の人生訓、生き方指南のようなタイトルの本が枚挙にいとまないほどある。それだけ、現代社会に生きる人々の心のうちは不安に充ちていることを思わせる。しかし、そうした人生指南などの多くは、功成り名遂げた人たちの教訓めいたところもあったり、押しつけがましい感もある。大体、従来の常識とみられたことを否定するようなひと目を惹くタイトルがつけられている。
そうしたものを読みたくない人も多いだろう。それも賢明な選択と思う。できうるかぎり他人に頼らないで生きる。これは高齢化社会に生きるひとつのあり方なのだ。実はL.S.ラウリー(1887-1976)の人生は、孤独との戦いでもあった。ラウリーの伝記を書いたT.G. ローゼンタール(2010)は、「孤独であることは天才の学校である」 Solitude is the school of genius.(Edward Gibbon)との言葉で、この画家を評している。
実はラウリーには多数の友人・知人がいたのだが、彼の人生の多くを支配した心境は、この評に近いものだった。L.S.ラウリーという画家の生き方は、それを追体験することを通して、厳しく不安な時代に身を置く人たちにさまざまな知恵や元気を与えてくれる。画家自身は、なにも教訓めいたことは一切口にしない。イギリス人らしいユーモアやアイロニーで、さまざまな事態に対応し、結果としてしなやかだが強く生きていた。
この画家については、すでに多くの評伝があり、それぞれ特色を持っている。それらに共通して興味深い点は、この画家が複雑・多難な境遇と時代を経験しながらも、自分のしたいことを人生の軸としてしっかりと貫いたことだ。そして、素晴らしいと思うことは、そのあくなき努力が実り、晩年になるほど、ラウリーの精神的環境は豊かになったのではないかと感じられることだ。この画家を理解するには、単に作品を見るだけではなく、画家がいかに難しい時代環境を生きたかについて知ることがどうしても必要になる。ラウリーは、現代イギリス画壇で最も誤解されてきた画家(とりわけエスタブリシュメントから)であった。しかし、彼にはその作品に共感する多数のファンがいた。その力がやがて古いエスタブリシュメントを打ち砕いていった。
家庭も孤独に
ラウリーの人生は、家庭的にも孤独な戦いを迫るものだった。父親の経済力も次第に低下し、環境の良くない工場などに囲まれた土地に移転を余儀なくされてもいる。しかし、この画家は工場やそこで働く労働者の生活など、従来の絵画ではほとんど美的対象とされなかったものを、積極的に画題に選んだ。
さらに若いころ、両親、とりわけ母親エリザベスから、「趣味としてなら、絵を描くのも仕方ない」と、厳しい生き方を迫られた。要するに画家として修業に専念、身を立てる道を断たれていた。ラウリーは母親を愛していたがゆえに、無理矢理自分の意志を押し通すことをしなかった。そして選んだ道は、下積みの会社勤めをしながら、夜間には美術学校に通い、わずかな時間に制作するという二足のわらじを履いての人生を最後まで曲げずに貫いた。これまでに記したように、母親は神経質で自ら問題を抱え、かなり難しい人であった。母親は自らがピアニストとして成功することを望んでいたようだが、それもかなわず、鬱屈した日々を過ごした。そのこともあってか、息子をしばしばうとましく思い、生きている間はラウリーの作品を評価しなかった。しかし、ラウリーはそうした母親の態度にもじっと耐えていた。
遅れてきた春だったが
1938年11月、ラウリーは51歳になっていた。すでに35年以上、厳しい環境に耐えて、ずっと絵筆を握ってきた。そのころ、思いがけなくロンドンの権威ある有名画廊「リード・アンド・ルフェーヴル」 Reid and Lefevre *から個展を開かないかとのオファーがあった。当時から多くの画家にとって、この画廊で個展が開けるということは、やっと自分の作品が世に出て、画家として認知される舞台のひとつだった。人々に作品を見てもらい、成果について評価を受ける機会が与えられるという意味で、喜びと緊張が混じり合う機会だった。ここでの個展を機に、著名な画家として巣立っていった人たちは多い。
しかし、当時のラウリーの心情はそうした高揚感とは、遠く離れたものだった。普通ならば、これでこれまでの苦労がやっと報いられると思ったはずだった。しかし、ラウリーが1938年に制作した「ある男の肖像」Head of a Manは、画家の自画像ではないかと推定されているが、異様な容貌として描かれている。表現主義の影響は感じられるが、作品に画家の精神状態が反映している。頭髪は乱れ、両目まぶたは赤く、頬は痩せこけ、緊張とストレスで心ここにあらずという印象を与える。両目は虚ろな感じだが、なにか突き刺すような視線を感じる。若いころのハンサムな自画像とは、別人のようだ。ラウリーはこの作品について、母親の看病に疲れ果てた翌朝、洗面所で鏡に映った自分が、このように見えたと語った。
Head of a Man. 1938. City of Salford Art Gallery, Cat.278
当時、画家の母親は長い病の床にあった。 彼女は以前から病気がちで、夫が死去する少し前から、6年以上病床にあった。ラウリーは唯一の家族として彼女を看護し続けてきた。そして、息子の作品がようやくロンドンの画壇で日の目を見る輝かしい時が来たことを知らされても、息子の努力を讃えることはなかった。エリザベスは1939年10月12日に亡くなった。生前、母親は息子の成功を喜んではくれなかったようだ。ラウリーには他に家族はいなかったが、彼の家族をよく知るドラ・ホルムズは後に彼らのことを尋ねられ、こう話していた:「彼(ラウリー)は彼女[母親)のために生き、(作品を見て)微笑んでくれ、一言でも褒めてくれることを望んで生きていた」。この頃、ラウリーは「すべてが遅すぎた」All come too lateと繰り返し言っていたらしい。ロンドンの有名画廊からの個展開催オファーという「遅れてきた春」を喜ぶような心境ではなかったようだ。
ストイックな人生と画家を支えたファン
母親ばかりでなく、ロンドンの画壇の主流も、長らくこの画家を、伝統とは離れた妙な絵を描く、下手な地方の画家と見下してきた。それにもかかわらず、ラウリーの作品には多くのファンがいた。ロンドンの有名オークションでも、人々の注目するところになり、高値がついた。晩年の家計の維持にはなにも困難はなかったようだ。しかし、ラウリーは生涯、煙草も酒もたしなまず、独身で、質素で節倹な日々を過ごし、ひたすら画家として生きた。
Piccadilly Circus, 1959
oil on canvas
『ピカデリー・サーカス』ラウリーはマンチェスター、サルフォードなど、北西部の都市に住んでいたが、画壇の主流が陣取るロンドンの情勢にも通じていた。
典型的な「マッチ棒のような人々」だが、当時のピカデリー・サーカス」の雑踏の雰囲気が
伝わってくるような作品。
拡大は画面クリック
さて、ラウリーに個展の機会をオファーした「リード・アンド・ルフェーヴル画廊」は、この画家のどこに注目したのだろうか。この画廊は下に記すように、当時、フランス印象派の画家の作品を多数扱っていた。実はラウリーの作風には、印象派の影響が感じられる。それはどこに由来するのだろうか。これも大変興味深いのだが、その点を書き出すと長くなるので、またの機会にしたい。
Reference
Michael Leber and others. L.S. Lowry. New York: Phaidon, 1987
T.G.Rosenthal. L.S.Lowry: The Art and the Artist. Unicorn Press, 2010
* 「リード・アンド・ルフェーヴル画廊」Reid and Lefevre Gallery は、1926年4月にフランス印象派絵画と現代イギリス絵画の最も卓越したディーラーであったMr Alex Reid and Monsieur Earnest Lefevre がロンドンに開設したギャラリーだった。そして、2002年の閉店まで存続した。その盛時には、スーラ (George Seurat) の個展を1926年、アンリ・マティス(Henri Matisse) 1927年、ドガ(Degas)1928年、モジリアーニ(Modigliani) 1929年、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso1931年)、ダリ 1936年、フランシス・ベーコン、1945年、カルダー(Calder) 1951、バルテュス 1952年、カンディンスキー、1972年、ドガ、1976年、ピカソ・スケッチ 1994年その他、多数の有名画家の個展を企画・開催してきた。
イギリス絵画界で一流画家として認知されるには、The Royal Arts, the Tate, the Haywood, the Barbican galleries などでの 個展が企画されることが必要とされていた。Reid and Lefevreも上記のように、20世紀を代表する画家たちを世に送り出した画廊のひとつだった。