時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

外国人労働者政策の破綻

2005年02月28日 | 移民政策を追って
 『朝日新聞』(2005年2月28日夕刊)一面で、坂中英徳法務省東京入国管理局長は、朝日新聞社のインタビューに応じて、入国した外国人女性が実際には資格外のホステスになっている事態について、「政府が問題を放置したほか、業界や政治家などの圧力で入管行政が弱腰になったことが原因」との見解を示して、注目を浴びている。95年に自らが調査に携わった店の9割以上で資格外活動などがあったという事実まで明らかにしている。
 興行ビザが不法就労の隠れ蓑になっていることについては、すでにフィリピン人女性の日本への出稼ぎが多くなった1980年代末頃から、たびたび指摘されてきた。筆者から見ると、当の入管行政の責任者の発言であるだけに、他人事のような感じがする。自ら設定した目的を実行できませんと放棄しているようなものである。入国管理局長があえてこうした「勇気ある発言」?に踏み切った理由には、政治家の圧力など色々事情もあるらしい。
 しかし、少し視点を変えてこの問題を考えてみると、やはりおかしい。日本の外国人労働者(移民)政策の立案、実施の責任は、いったいどこにあるのか。たとえば、筆者は日本の外国人労働者にかかわる「問題」は、出入国管理の段階あるいは就労の場での問題に限定されず、人権、住宅、教育、犯罪など外国人労働者が持つ人間としてのあらゆる属性、活動領域を包含する「社会的次元」にまで拡大していることを早くから指摘してきた(たとえば、花見忠・桑原靖夫編『あなたの隣人外国人労働者』東洋経済新報社、1993年)。そして、現在の縦割り行政を前提とした関係省庁合議システムでは、複雑・多様化した実態に、有効かつ適切な対応はできないとした上で、総合的に政策設定が可能であり、多様化する事態に的確に対応しうる主管官庁の設置を提唱してきた。
 日本の移民(外国人労働者)政策をみると、外国人労働者の入国管理や犯罪対応の次元だけが目につき、その他の社会的活動次元での実態や対応は、ほとんど国民の目に入ってこない。フィリピン人看護師・介護士受け入れの決定にしても、現在のままでは本来ならばフィリピンが必要とする看護師・介護士などが高給に惹かれて国外流出するばかりで、自国の発展のために環流する仕組みは構想されていない。すでにフィリピンの医療・看護水準は劣化がひどいことが判明している。
 日本は少子高齢化に移民の力を借りるべきかという重大な政策についても、現行体制では到底国民の合意が得られるような検討は出来ない。移民受け入れはまさに国家百年の計に立つべき検討課題なのである。検討すべき課題はきわめて多く、なし崩し的に受け入れるような問題ではない。政策の検討・意思決定主体が定まらず、政策の統合度が感じられなくなっている。基本政策の抜本的検討と再設計が必要なことはもはや明らかである(2005年2月28日記)。
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ラ・トゥールを追いかけて(2)

2005年02月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールを追いかけて(2) 

  4月号の美術雑誌は予想したとおりだが、ラ・トゥール特集が目立つ。間もなく開幕の国立西洋美術館「ジョルジュ・デ・ラ・トゥール展」は、さぞかし盛況だろう。17世紀、近世への変わり目、不安と激動の中に生涯を送ったこの画家の作品は、同じ悩みを抱える現代人にとって大きな癒しの源となりうる可能性を秘めている。他方、前回記したが、この画家の作品鑑賞には静謐な時間と空間が欠かせない(難しい悩みだ)。

「再発見された」画家
 ラ・トゥールは、その作品の発見・確認まであまりに長い空白の時期があったこともあり、謎の画家、神秘な画家などといわれてきた。1652年に画家がこの世を去ってから、350年を超える年月の間、ほとんど注目されることなく闇に埋もれていた。

 1915年、ドイツの美術史家ヘルマン・フォスによって、ナント美術館所蔵の夜の光景(「聖ヨセフの夢」、「聖ペテロの否認」)、レンヌ美術館の聖誕図がラ・トゥールの手になるものとする、いわば「再発見」がなされるまでは、美術史の表舞台から消えてしまっていた。これ以前には、ほとんど記述や言及がなかったのだ。しかし、この発見の後、画家およびその作品についての探索、研究は急速に進み、この希有な画家と作品は、現代のわれわれの前に次第にその輪郭を現すようになった。

 1972年のオランジュリー展を契機に私がラ・トゥールに関心を抱くようになってからも、96年のワシントン、97年パリ(グランパレ)など大規模展が開催され、いくつかの新しい作品の発見や文献考証が進んだ。今では17世紀、同世代の画家と並ぶほどの知見が得られるまでになっている。

 X線(auto radiography)や化学分析を駆使してのデッサンや修正の跡あるいは顔料の検討など、科学的手法による作品年次の確定も細密に行われるようになった。 しかし、後にルイXIII時代、「王の画家」とまで名乗った芸術家であれば、しばしば残っている画家としての修業過程、作品についての考え、他の画家との交際、旅行日記など、画家としての中心的部分がうかがえる史料の類は、ほとんど見いだされていない。

 模作、贋作といわれるものも多く、主題の神秘性とあわせて、この画家を長らく謎に包まれた存在としてきた。それでも、近年は新しい作品や資料発掘が進み、画家の人生についての輪郭もかなり明らかになった。これまでのラ・トゥール研究の流れを一人の鑑賞者としてみると、文字通り画家の生涯とその作品双方についての探索・発見の過程が今日まで続いてきた。 

  手元に1巻のビデオ・カセット(*1)があるが、これは美術史家のエドウィン・マリンスがアシストしてラ・トゥール再発見の過程をたどったものである。こうしたビデオが作られるのも、ラ・トゥールの歩んだ人生、作品が多くの人の関心を惹きつける神秘的な部分を残しているからと思われる。ちなみに、このビデオを見た感想はコンパクトにまとまっているが、あまり新味はない。ただ、ラ・トゥールに関するわずかな古文書などがいかなる状態で保存されているかを知るには大変興味を惹く場面が多々ある。研究対象の史料自体がきわめて老朽化しており、これまでのような保存方式でこれから大丈夫だろうかと思わせる光景なども含まれている。美術史研究者が対する多大な困難がいかなるものを目前に見せてくれる。 

  最初ラ・トゥールの作品を見て直感的に感じたのは、ゲルマン的、北方系のつながりを思わせる深みと精神的な沈潜だった。これまで、ラ・トゥールについては、イタリアに修業に出かけたのではないかという推論やカラヴァッジョの影響を受けているなどの指摘がなされてきた。確かにカラヴァッジョ風(カラヴァジェスク)の明暗表現の影響が感じられないわけではないが、カラヴァッジョとラ・トゥールを直線的に同一の流れの中に位置づける見方には、なんとなく違和感を覚えてきた。

  それよりもラ・トゥールの作品には根底にゲルマン的、北方的な脈流がしっかり貫いているような気がしてならなかった。 この点について、近年コニスビー(*2)や田中英道氏(*3)が、ラ・トゥールにはゴシック的、ゲルマン的なヨーロッパの源流が流れていると指摘されているのを読んで、やはりそうかという思いがした。

  このブログでも記したが、70年代初めに、現在はドイツ側のザールブリュッケン郊外の友人宅にしばらく滞在し、ロレーヌの町や古城跡を訪ねた時の印象が未だ残像のように残っている。ロレーヌやアルザスは「外側のフランス」と呼ばれたこともあり、仏独の領地争奪の焦点となってきた。アルフォンス・ドデーの『最後の授業』の舞台である。

実感した闇の存在感
 ロレーヌを訪ねた時に、宿泊や案内役などベース・キャンプの役割をつとめてくれた友人の住んていたザールブリュッケン自体は、ドイツ鉄工業、石炭業を代表する町だったが、郊外はまったく別の世界だった。夜のとばりが下りると、不気味なほど深い森に吸い込まれるような暗闇の世界が展開していた。国境を隔てたフランス側も自然が支配するという意味では、あまり変わりはなかったと考えられる。 

 今ではドイツの食習慣もすっかり変わったようだが、当時は全体的に質素(といっても量や栄養バランスなどは十分)であり、一日の主要な食事(正餐)は昼食である家庭も未だかなりあったようだ。このときに、仕事場の近い父親や家族などは帰宅し、食事の前にはお祈りgraceがあるので、異邦人の私は最初大分面食らったことを記憶している。昼食の重みと比較すると夜食は軽食あるいはお茶を飲むぐらいで、子供は寝室に寝かされ、暗い灯火の下で大人たちだけが話をして、9時頃には就寝、早朝から働くという一日だった。日本と異なり、TV番組も充実していなかったので、ニュースを見るくらいだった。

 居間などの照明は暗く、日本の家庭の明るい照明に慣れていた私には、どうしてもっと明るくしないのかなと思ったほどだ。しかし、その後、フランス、イギリスなどにしばらく暮らす間に、これはドイツに限ったことではなく、ヨーロッパ全般にかなり共通しているのではないかと感じるようになった。日本に戻った時は、光度が高すぎてまぶしい感じがしたほどだった。 

 いうまでもなく、ラ・トゥールの生きた16世紀末から17世紀末の時代においては、闇の存在あるいはその重みは、現代とはおよそ比較にならないものであったろう。とりわけ闇が支配する森は狩りの場でもあり、なにか得体のしれないものが住んでいるかもしれない、底知れぬ恐ろしさを含んだ存在だった。

 その後、1980年代にはいってから、日独学術交流の縁でフランス国境に近いメトラッハにあるVilleroy und Boch社(日本人にも愛好家の多い陶磁器メーカー)の迎賓館に招かれ、宿泊したことがあった(最近は近代的に改築・改装されて同社の本社オフィスになっているようだ。画像は同ホテル・ダイニングルーム)。ザール川を臨むバロックの城館を継承した素晴らしい環境だった。夕刻到着したのだが、厨房の入り口にはその夕、客人たちにふるまうための山鳥、きじなどが無造作に置かれていた。まさに、ほんの少し前に森から猟師がとってきたという光景だった。そして晩餐はかつての獲物であった大鹿や熊などの剥製が壁面を飾った大広間で、蝋燭の光の下で繰り広げられた。

 窓の外は漆黒の闇、森の実在感をこれほど感じたことは、それまでなかった。森はながらく食料や燃料を供給する場でもあったのだが、その奥には神秘と恐怖が潜んでいた。灯火はまさに太古から続く深い闇の前には、わずかに手元を照らす存在にしかすぎなかったのだ。夜のとばりが下りてしまえば、森は魑魅魍魎が跋扈する世界に変わった。ましてや16世紀終わりから17世紀初めは、魔女狩りが荒れ狂った時期であり、時代の災厄や人間の罪悪の原因を、悪魔とその手先に求めようとした狂信的な風潮が現実のものでもあった。魔女裁判が終止符を打ったのは1682年の王令によってであった。 

  こうした時代にあって、森は太古の時代から続く深い闇を育んできた存在であり、その闇の深さに人々は、現代人が計り知れない畏怖の念も抱いていたに違いない。ラ・トゥールがその生涯のほとんどを過ごしたとされるリュネヴィルのあたりも、度重なる戦火で蹂躙されたが、森と漆黒の闇は、そこに生きる人々に畏怖と神秘を与え続けたと思われる。いたる所、煌々たる照明で照らし出される現代の闇とはおよそ異なった存在であったことは間違いない。

  それにもかかわらず、ラ・トゥールの作品は、混迷し先の見えなくなった社会に生きる日本人の多くに、癒しと行く末を考える何物かを与えてくれそうな気がしている。

Reference
*1 Georges de La Tour: Genius Lost and Found, with the participation of Edwin Mullins, written and directed by Adrian Maben, Public Media Inc., 1998.

*2 Philip Conisbee. Georges de La Tour and His World. National Gallery of Art, Washington; New Heaven and London: Yale University Press, 1997.

*3 田中英道「30年戦争の時代に闇を描いたラ・トゥール」『美術の窓』2005年3月。

Photo: Courtesy of Villeroy & Boch

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ライブドア・フジテレビ事件の先にあるもの

2005年02月25日 | グローバル化の断面
 2月になって突如としてマスコミの舞台に登場したライブドアとフジテレビジョンの経営権をめぐる争奪は、第3者としてみると、きわめて興味深い問題を含んでいる。巨大メディアグループと新興メディア、両者の基本的な考え方の相違、旧世代と新世代の対立を象徴するような当事者の対応、服装、話し方など、ある程度は映像化を意図した対応とはいえ、大変面白い。ついに日本も「株主主権論」の本格的洗礼を受けることになったのかという思いもある。両者、虚々実々の策略を尽くしての展開となっているが、私の関心はそれを超えたところにある。
 事態はニッポン放送がフジテレビジョンを割当先とする巨額の新株予約券を発行する事実上の増資を打ち出したことで、新しい局面に入った。ライブドアは2月24日新株予約権発行を差し止めるための仮処分を東京地裁に申請し、抗争の舞台は司法の場へ移りつつある。仮処分申請を受けた東京地裁は、「企業価値」を維持するためなら支配権の維持や争奪を目的とした新株発行が認められるか、同放送にとってフジと親密な状態の方がなぜライブドアと提携するより「企業価値」が上がるのか、といった点について裁定を下すことになる。会社法の専門家などは、どちらに転ぶか分からないと態度を留保しているが、実際にも新たな判例を築くことになる。コーポレートガバナンス(企業統治)上の最大の課題に裁定を下すことを意味しており、起こりうる将来の問題を考えると、司法の判断はきわめて重いものとなろう。
 興味があるのは、裁判所が「企業の価値」をいかなるものと考えるかにある。きわめて簡潔にいえば、「企業の価値」は狭く考えれば、株主の観点からする企業の評価である。長年にわたり蓄積された配当と株式評価の結合したものといえる。
 業績を上げていない役員を敵対的なビッドで取り替えるとか、競争的な脅威を与えることで経営者に圧力を加えることは、産業組織論でいうコンテスタビリティ(新規参入圧力の維持)の観点からはうまい方法であるかもしれない。しかし、日常の経営者の動向を監視するには適当とは思われない。取締役会で監視する方が効果的である。しかし、取締役会もたやすくコンテスタビリティを失ってしまう。というのは、理論上、監視する者と監視される者の目標が同じだからである。
 現代の大企業では、株主以外の利害関係者、ステークホルダーが多数関与している。そうした状況で経営者が株主を最上位に置くことは他のステークホルダーの利害を損なうことにもなる。とりわけ、日本企業のひとつの特徴である経営者層と従業員層が連続的な状況において、ある日突然経営者が入れ替わり、新しい経営指針やシステムが導入されることについて、従業員はいかなる反応を示すだろうか。攻めるライブドアは現在の経営陣より、もっとうまい事業拡大の道があるといい、守る側のフジテレビは社員の大多数は現状を維持することを支持していると主張している。仮に経営陣が入れ替わるような事態が発生するとしたら、従業員はいかなる対応をみせるだろうか。双方、それぞれの思惑があり、本音のところは見えていないが、今後の展開は日本の労使関係に転換をもたらすものとなるかを占う上で十分注目に値する。
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陽の当たる場所:アメリカを考える

2005年02月24日 | 回想のアメリカ

 前回取り上げた「クレイドル・ウィル・ロック」の焦点は、同名のミュージカルが当時の非米活動(反アメリカ的活動)にあたるとされ、非米活動委員会の命令で突如上演禁止となる点にあった。「赤狩り」ともいわれるこの悪名高い委員会は、アメリカの多くの知識人・文化人を窮地に追いつめ、多数の犠牲者を出した。 

記憶に刻まれた映画
  この委員会に関連して、私にとって今に残る一本の映画がある。「陽のあたる場所」(A Place in the Sun)という作品だが、この映画を実際に見た人は今ではきわめて少ないだろう。なにしろ、1951年の作品なのだから。私も実際に見たのは、高校生時代が最初で、その後、銀座の名画座で60年代中頃だったろうか、英語の習得を兼ねて2ー3回は観た記憶がある。

 原作はセオドア・ドライサーの『アメリカの悲劇』であり、この原作は高校時代に英語の担任であったT先生に勧められて『シスター・キャリー』に続いて読んだ。大部な小説でひどく骨折った記憶が残っている。辞書からの訳語の書き込みでページの余白がなくなるほどだった。今思うと、なぜこんな難しい作品を読ませたのかと思うのだが、不思議と苦労したものほど後になって思い出すことになっている。同じ時期に読んだ『オー・ヘンリー短編集』などと併せて、英語そしてアメリカ社会を理解する重要な手引きとなった。 

社会主義的思想の作家
 セオドア・ドライサー(1871-1945)は、インディアナ州の貧困な家庭から身を起こし、新聞記者、フリーライター、編集者などの仕事をしながら、アメリカ社会を鋭く観察した小説を残した。処女作は『シスター・キャリー』(1990)で、その後1925年の『アメリカの悲劇』 によって作家としての地位を不動のものとした。しかし、アメリカ社会のさまざまな運動にも加わり、共産党員であったこともある。

アメリカン・ドリームとその陰影
  映画化は二度目であり、1951年の2作目は円熟したジョージ・スティブンス監督によって制作された。題名に『アメリカの悲劇』を採用し なかったのは、反米映画とみなされることを恐れたからといわれる。

  筋書きは単純である。企業家として成功し、シカゴに大企業を経営する叔父を頼って中西部の田舎から出てきたまじめな青年ジョージ(モンゴメリー・クリフト)が、工場で働くうちに上流階級の娘アンジェラ(エリザベス・テイラー)と恋に落ちる。ところが、ジョージにはすでに工場で知り合った娘アリス(シェリー・ウインタース)がいて、彼女は妊娠していた。しかし、美しいアンジェラを前にして、ジョージのアリスへの愛はさめてしまっていた。ジョージは叔父のおぼえももめでたく、出世の階段をトントン拍子にかけ上っていた。アンジェラ との将来も開けてきた。 ジョージは、ラジオでふと耳にしたことをきっかけにアリスを殺害することを思いつく。そして、ある日アリスを森の中の湖のボート遊びに誘う。湖上で別れ話を持ちだしかけた時に、思いもかけず、ボートが揺れ、アリスは湖中に転落、溺死する。 裁判で、ジョージは事故死を主張するが、神父の一言に「心の中でアリスを殺していた」ことを思う。そして、電気椅子へと向かうのである。(この映画のことを考えると、どういうわけか、1969年7月18日ケネディ大統領の弟、エドワード・ケネディ上院議員が深夜、チャパキディック島に架かる橋で自動車事故を起こし、助手席に乗っていた秘書メアリー・ジョー・コペニクが死亡した事件を思い出してしまう。同上院議員は懲役2ヶ月(執行猶予付き)の判決を受けた。) 

アメリカ資本主義の原風景
 最初に映画を見た頃は、今ほどアメリカについての情報が豊かではなく、映画が提供してくれる情報はとても貴重なものであった。アメリカ資本主義の興隆期ともいうべき時代を背景にしたこの映画は、私にとっては大変影響力があった。田舎出の青年ジョージ(実在のモ デルが存在したといわれる)が野暮ったい身なりで叔父の会社を尋ねる光景、発展の途上であったシカゴのビルの林立、叔父の経営する工場の風景、そこに形成されていた上流階級の隔絶されたような社会、そしてその象徴がアンジェラであった。エリザベス・テイラーは 当時19歳、上流階級の令嬢というのは、こういう人かと思わせる美しさであった(その後、8回も離婚したとは信じられない)。対するジョージは、心理的にも屈折した弱々しいところがある青年だが、モンゴメリー・クリフトは実に巧みに演じていた。まだ、大型車が流行 していた頃、ジョージが乗る大衆車とアンジェラの乗る高級車の対比がいかにもアメリカらしかったのを覚えている。そして、アリスを演じたウインタースという女優の巧さは、後になるほどわかってきた。エリザベス・テイラーの引き立て役だったのに、役柄に徹していた。 


アメリカを考える手がかりに
 原作は社会派ともいうべき内容なのだが、映画は貧困から身を起こした青年が、成功にもう少しというところで、暗転、挫折するというアメリカ的なメロドラマ構成である。しかし、この時代のアメリカの一面が実に生き生きと描かれていた。あのモノクロの写真がなんともいえず、忘れがたい。映画は監督、脚本など6部門でアカデミー賞を受賞、ゴールデン・グローブ賞でも作品賞を受賞した。監督、主演男優、女優ともに絶頂期の作品であったといえる。その後、間もなく、アメリカに行くことになった私にとって、『陽のあたる場所』 はいつの間にか、アメリカ社会を考えるひとつの重要な手がかりとなっていた(2003年8月5日記)。

旧ホームページから一部加筆の上、転載。 

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感動と興奮の壮大なドラマ 「クレイドル・ウィル・ロック」

2005年02月23日 | 回想のアメリカ

 このところ、古くなった話題ばかりで恐縮です。HPを閉鎖してブログに移行すると、これだけは残しておきたいと思うトピックスもないわけではありません。というわけで、「復刻版」?が時々登場しています。もう少しお付き合いください*。 

 今回は、世界大恐慌の時代のアメリカを描いた映画「クレイドル・ウィル・ロック」です。これまで、取り上げた映画と同様に決してメジャーな作品ではありません。

世界大恐慌が背景
  1929年10月29日の「暗黒の火曜日」に始まる世界恐慌については、知らない人はいないでしょう。と思ったのですが、時の流れとともに遠い過去の出来事になりつつあります。時代の経過とともに、緊迫感は薄れてゆきます。タイトルも苦労したとみえて、英語のままです。これも日本では、あまり注目を集めなかった一因かもしれません。   

 「大恐慌」自体について私が最初に知ったのは、中学の世界史か社会科の時間が最初ではなかったかと思います。その後、R.ネイサンの『いまひとたびの春』One More Spring、J.K.ガルブレイスの名著『大恐慌』The Great Crashなどを読む過程で深入りし、その後は興味のおもむくままに当時の状況を描いた著作や写真集など、かなりの数を目にしてきました。

 ちなみに、ガルブレイスの『大恐慌』は、数年前に著者の解説付きの新版が出ました。あとがきに、この本は新版もベストセラーとなったが、空港売店には置いてなかったと書いてあります。  

 1960年代、最初に留学した大学院時代、労使関係学部のファカルティ・ルームでF.D.ルーズヴェルト大統領の政権下、女性で始めて労働長官となり、大学でも教壇に立ったF.パーキンス女史の肖像画に接したこと、指導教授の多くが多かれ少なかれ、ニューディールに賛同し、その活動のさまざまな面に関わった人々であったことなど、1930年代の大恐慌の実態について興味を呼び起こす出来事に出会いました。ニューディールはこの人たちにとっては若い情熱を燃やした大きな出来事だったのです。 

 長年の友人の両親で、私の滞米中、物心両面で親にも等しい心配りをしてくれたB夫妻も典型的中流階級といってよい暮らし振りでしたが、大恐慌期を経験した人々でした。1930年代の不況の間、毎日の食事にも事欠くような経験をしたという夫妻は、アメリカ人は物を大切にせず、浪費してばかりいると、当時の豊かなアメリカを批判していました。ガルブレイスの「豊かな社会」Affluent Society,1958がベストセラーとして一世を風靡していたことも思い起こします。  

『いまひとたびの春』
 「大恐慌」の時代を描いた作品は数多いのですが、度々思い出すことがある『いまひとたびの春』は、岩波現代叢書というシリーズにも入っており、何度も読みました。出版事情も最悪の時期の刊行物であったために、活字が薄れ、ページが黄ばんでしまって読みにくくなってしまい、買いなおしたいと思っていました。しかし、残念ながら絶版で古書店でもなかなか見つからないのです。数年前にやっと一冊入手しました。

 この本に出てくる恐慌で破綻した銀行頭取が自殺しようとする場面など、バブル崩壊後の日本の状況と重なるような気もします。

豪華・絢爛たる登場人物   
 「クレイドル・ウィル・ロック」The Cradle Will Rockは、登場人物がとにかくすごい。1930年代のアメリカ史の壮大な絵巻物という感がします。ロックフェラー財閥の御曹司ネルソン・ロックフェラー、『市民ケーン』のモデルともなり、後には孫娘誘拐事件でも 知られる新聞王ウイリアム・ランドルフ・ハースト、ムッソリーニの宣伝活動家で元愛人のマルゲリータ・サルファッティ、映画監督オーソン・ウエルズ、ミュージカル作家・作曲家のマーク・ブリッツスタインなど、豪華絢爛たる人物が登場します。

 これら一騎当千の強者たちを見事に指揮するのが、監督ティム・ロビンスです。「ボブ・ロバーツ」、「デッドマン・ウォーキング」などの監督をつとめ、現代アメリカ映画界で最も多才で知性あふれる監督といわれており、今回は自ら脚本も書いています。俳優としても、抜群の演技力を発揮してきた彼は、監督として観客を瞬く間に時代の現場へと引き込んでゆきます。 

 ホームレス、娼婦、失業者といった社会の底辺に集まる人々から、大不況などどこ吹く風といった大富豪、上流階級の人々にいたるまでのさまざまな人々を登場させ、見事にそれぞれの世界を再現しています。この時代は、大不況期ではあったが、芸術活動という点では.多くの才能が花開く時代でもありました。原題の「クレイドル」(ゆりかご)はそうした、現代の演劇、映画、絵画などが、この時代に育ちつつあった状況を意味していると思われます。  

ニューディール
 1930年 代の大不況の下、失業者が急増し、労働者のストライキが続発する状況で、当時の政府はF.D.ルーズヴェルト大統領の下、ニューディール政策の一環として、「フェデラル・シアター・プロジェクト」FTPを発令し、失業中の数万人もの演劇人を本業に戻そうとする夢のような計画を企画しました。『クレイドル・ウィル・ロック』を上演する企画は、プロジェクト891と呼ばれました。ストーリーは、この現実的とも理想主義的とも言い切れないプロジェクトをめぐって思いもかけない方向へと展開します。 

マッカシー委員会
 大不況のありさまを寸描した最初のプロットが過ぎると思っていたら、映画は息をもつかせぬ速度で走り出しました。この頃、弱冠22歳のオーソン・ウエルズは、このプロジェクトで採用されたマーク・ブリッツスタインのミュージカル問題作『クレイドル・ウイル・ロック』の演出を担当していました。しかし、この作品は反米的な内容であるとの理由で、政府は突然、初演の前日に上映禁止にしてしまうのです。その背景には1938年5月に、議会の非米活動調査委員会が発足したことが関わっています。悪名高いマッカシー上院議員の赤狩り旋風の舞台となったものです。

 WPA(雇用促進局、後に公共事業促進局となる)の演劇部門の長ハリー・フラナガンは、この非米活動調査委員会に召喚され、懸命に実現のための努力を続けます。 

 他方、この劇作のために、女優を目指す貧しい少女オリーヴ・スタントン(主演女優エミリー・ワトソン)、アル中の腹話術師、多くの芸術家たちが、自分の力を表現する場と生活のために必死の努力を続けていました。実際、この時代は、失業保険もなく、最低賃金も福祉も保証されない時代でした。組合の集会が警官の暴力で解散させられる場面も出てきます。リハーサルの間に頻発する「ユニオン・ストップ」という俳優組合の休憩時間の要求は、アメリカの労働組合が労働者の味方として、社会運動の前衛であったこの時期を目の前に彷彿とさせてくれます。 

生き生きとしていた時代
 1930年代は、労働者は労働者らしく、資本家は資本家らしい活力に充ちたアメリカン・ルネッサンスとも言われる時代だったといえましょう。 架空の人物ですが、カーネギーなどを彷彿とさせる鉄鋼産業のキングともいうべきグレイ・マザーズ、その妻でありながら芸術愛好家として、階級を越えてFTPを援助するラグランジェ伯爵夫人、新聞というメディアを駆使して言論界を支配しようとしていたウイリア ム・ランドルフ・ハーストなども、要所に登場する。

 
とりわけ、ラグランジェ伯爵を演ずるヴァネッサ・レッドグレイヴが好演していました。『ハワーズ・エンド』、『キャメロット』、『ダロウエイ夫人』など、幾多の映画で名女優の令名をほしいままにしてきた彼女はここでも存在感十分の大女優でした。映画で一見したとき、どこかで見た女優と思ったが、すぐに『ダロウエイ夫人』を演じたヴァネッサ・レッドグレイヴと分かりました。その存在感はすばらしい。 

 そして、主演女優として歌手を夢見る若き劇場の掃除女オリーヴ・スタントンを演じたのは、女優としてのデビューでも、オーディションで初演の映画『奇跡の海』の主演女優に抜擢されたというエミリー・ワトソンでした。この映画さながらの幸運なキャリアを歩んだわけです。『クレードル・ウイル・ロック』では、劇場の掃除女から大抜擢される。幼さと笑窪の残る一見すると頼りなさげな容貌をしているが、才能豊かな女優であることを思わせる名演技を見せていました(『アンジェラの灰』にも出ていました)。

 そして、ミュージカル『クレイドル・ウイル・ロック』の作者でもあり、作曲家でもあったマーク・ブリッツスタイン として舞台回しの役を果たしているのが、ハンク・アザリアです。ブリッツスタインは、レナード・バーンスタインの友人でもあったといわれますが、目立ちすぎず、しかし、要所要所でストーリーを引き締める助演俳優としての役割をしっかりと演じていました。

芸術と政治の一騎打ち   
 『クレイドル・ウィル・ロック』の究極のテーマは、芸術と政治の葛藤を描くことにあったと思われます。ネルソン・ロックフェラーが、メキシコの画家ディエゴ・リヴェラにロックフェラー・センターの壁画を依頼するが、自分の気に入らないテーマであると知ると、壁画を打ち壊してしまいます。ロックフェラーにとっては、芸術家なんて金次第でどうにもなる存在なのです。ミュージカル『クレイドル・ウイル・ロック』も、政治家の目から見ると、自分たちの体制批判のとんでもない作品なのでしょう。かくして、突然に上演禁止とされた『クレイド ル・ウイル・ロック』は、行き場を失いますが。思いもかけない形で大団円が訪れます。

 その結末が、予想もしなかった感動的なものとなるこの映画は、それを見る人の背景や思い入れによって評価が異なるでしょう。私には、久しぶりに生命が躍動するような思いがしました。監督ティム・ロビンズの制作に注いだ熱気が伝わってきました。 

 ただ才気と熱気が先走り、多くのことを詰め込みすぎたという感じは否めません。制作者たちの熱意がそうさせたのでしょう。1930年代という時代を今に生き返らせようという思いが、画面から溢れていました。 

 時代背景を良く 知らない日本のとりわけ若い世代の観客には、その点が読みきれなかったかもしれません。紹介した私の学生諸君の反応もいまひとつで、私のひとり騒ぎのようでした。この映画は、さまざまな角度から見ることができます。特に、アメリカ経済、労使関係の歴史的側面に関心を持つ者にとっては必見の作品といえるでしょう。アメリカ資本主義の興隆期における資本家や労働者たちがいかなる動機で活動をしていたかが、見事に描き出されています。大きく揺れ動きながらも、今に続くアメリカ社会のダイナミズムの根源がどこにあるのかを、圧倒されるような迫力で提示しています。今日のアメリカにはほとんど感じられなくなったエネルギーです。

 大恐慌の最中、多くの人々は悲惨な状況から這い上がろうと、それぞれ努力をしていました。決して、住みやすい時代ではありませんでした。しかし、この映画を見ていると、なにかわれわれが失ってしまったものが、そこには生き生きと息づいているような感じがしました。
(2000年12月5日記)

* 旧ホームページから一部加筆の上、再掲載。

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母国とのきずな  移民の情景(3)

2005年02月22日 | 移民の情景
 日本に外国人労働者が来るようになった1980年代中頃から、かなりの数のインタビューを行ってきたが、印象に残る出会いも少なくない。日系人の方々が数の上では多いが、まったく、日本人と異ならない容貌のために、うっかり日本語で話しかけてしまったが、きょとんとした目つきで応じられ、「しまった、ポルトガル語なのだ」と気がついたことも一度、二度ではない。そうかと思うと、インタビューの後で「つたない話を聞いていただいて恐縮至極です」と鄭重に挨拶されて、こちらの方が恐縮してしまったこともあった。さすがに一世はほとんどお会いしなくなったが、戦後移民した日系二世の方々が夫妻ともども、日本人のやらなくなった工場労働を若い日本人管理者の下で、黙々とこなしている姿をみて、言葉がなくなってしまったこともある。
 すでに10年余り前になるが、浜松市での調査の時、インタビューした中小企業経営者の方が、「日本人の若い人を採用したが、半日いなかったよ 」と云われたことを思い出す。フリーターやニートが社会的関心事となって、かなりの時間が経過したが、関係者の対応が遅きに失したことが残念でならない。バブル崩壊後、社会を構成する家庭や企業、学校などにおける教育の基盤が大きく揺らいでしまった。ここまでくると、「ゆとり教育」の修正程度では到底追いつかない。
旧聞になるが、1999年は日本からペルーへの移民開始100周年に当たった。ふだんはあまりTVは見ないのだが、たまたまペルーのリマ市から「NHKのど自慢」の実況中継というキャプションに惹かれて見ることになった。外国人労働者が珍しくなくなった今日の日本では、この国がかつては移民の送り出し国であったことを知る人も少なくなった。南米への最初の移民船「笠戸丸」が神戸港を出港したのは、1908年(明治41年)である。筆者の机上にも一時期、移民船として活躍した「ぶえのすあいれす丸」のガラス製文鎮が置かれていたが、引っ越しの時にどこかに紛れ込んでしまった。
 さて、のど自慢に出演していた人たちは、一世、二世、三世、四世、それに日系以外の人たちも加わり、歌唱のためにふだん使わない日本語を最初から習ったという涙ぐましい光景も紹介された。当然ながら、一世など高齢者になった人々の祖国への思いは熱い。近年のように航空機に乗れば、一日余りで日本にやってこられる時代とは異なり、大戦前で情報も少ない南米の地へ1カ月以上も移民船の船底で過ごし、二度と日本の土を踏むこともないかもしれないと思い定めて渡航していった人々の祖国への感情は、われわれには計り知れない。出演者ばかりでなく、観衆の中にも正装をされている方々が目立った。劇場などの公的な場におけるドレス・コードが生きているのだ。ヨーロッパの劇場などで、日本人がジーンズやミニスカートなどの服装で入場し、周囲の人々との違和感ばかりかひんしゅくを買っているのとは違い、今の日本が失ってしまった良き社会的規範が遠く南米の地に継承されていることに胸を打たれた。

南米への移民

 移民はTVばかりでなく映画や小説の材料にも、しばしば取り上げられる。1976年テレビシリーズ化され「フランダースの犬」とともに、30%近い視聴率を記録し、2002年アニメ映画として復活した「母をたずねて三千里」は、19世紀イタリアからアルゼンチンへの移民の物語を背景としている。母が乗っている船を追って、ジェノヴァの桟橋を駆けて行くマルコの姿を記憶している人々も次第に少なくなった。
 映画のシーンで印象に残る情景のひとつは、スペインの巨匠カルロス・サウラ監督の「タンゴ」(1998年)のフィナーレである。大戦前、アルゼンチン、ブエノスアイレスの港に到着した移民たちのさまざまな姿が、暁の地平線上へ次々と浮かび上がる美しい映像を背 景に、劇中劇としてのミュージカルの結末部分が展開する。タンゴを撮影する映画監督と美しいダンサーとの危険な恋(裏に移民を商売とする暗黒街のボスが存在)が、虚実交錯する物語として官能的なタンゴの調べとともに展開する。ストーリーはややメロドラマ的では あるが、この監督の映画のカメラワークは素晴らしい。このブログでも、時々こうした「移民の情景」を紹介してみたい(2003年8月3日記)。

画像は、2003年に発行された日本アルゼンチン修好100周年記念切手。なかなか渋い色合いですね。

旧ホームページから加筆の上、転載。
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「働くこと」の重み

2005年02月21日 | 仕事の情景
『山の郵便配達』が語る仕事の世界

われわれが失ったもの

 IT革命の時代、筆をとって手紙を書くことが目に見えて少なくなった。自筆の手紙には、単に文章にとどまらず、書く人のさまざまな思いがこめられていて捨てがたい。しかし、Eメールの利便性には逆らえないものがある。葉書や便せんに向かい筆をとるまでに立ちはだかる、見えない壁を、Eメールはかなりの程度取り払ってくれた。今や「メール語」ともいうべき独特の表現やルールが行き交うまでになった。しかし、この変化の過程で、私たちは明らかになにかを失ってしまった。

 数年前、一部の人々の間で大変注目を集めた中国映画『山の郵便配達』(監督:霍建起)は、それがなにであるかを知らせてくれる。全編、清爽感に満ち溢れた佳編である。舞台は1980年代初頭、中国湖南省の山岳地帯である。そこで長年郵便配達を勤めてきた初老の男( 滕汝駿)が、健康上の理由で仕事を息子に譲ることになり、引継のために一緒に2泊3日の旅に出る。突き放していえば、ただそれだけの話で、波瀾万丈の場面があるわけではない。しかし、そこにはこの仕事一筋に勤めてきた男と一人息子のこれまでの人生が凝縮されている。そして、脇役であるが、人間以上の活躍を見せる「次男坊」と名づけられた犬(警察犬だそうだが、映画の舞台には過ぎた名犬)と主人公の男の妻、そして旅の途上に出会う数々の印象深い人々がこの感動深い映画を彩っている。

人生の奥深さ
映画からは、見方によって実にさまざまなことを汲み取ることができる。現代社会で失われた親子の対話の重み、人生における仕事の意味や仕事の尊さ、地味だがかけがえのない仕事をしてくれてきた主人公への人々の信頼、青春の輝き、人生の充足感と寂寞感などが、情 趣豊かな画面から感じ取れる。

 重い郵便物が入った背嚢を担ぎ、一日40キロ近い山道を歩き、点在する山村の家々に手紙や伝言を届け、時には一人暮しの失明した老婆の相談相手などを勤めながらの旅である。山道といっても、大変けわしく、主人公はこれまでに崖から転落し、村人に救われたり、凍るような冷たい川を渡って、足を痛めたりしている。彼が引退を決めたのは、この冷たい川を渡るということで足を痛めたことが原因のようだ。

 長年にわたり、主人公の男は一人黙々とこのつらい仕事を誠実に果たしてきた。男は自分の仕事が持つ意味と責任を十分に理解し、多くの日々を妻や息子と離れて、山中の一人旅に過ごすという人生を送ってきた。この寡黙で責任感の強い男が、自分の人生のほとんどすべてであった郵便配達の仕事を一人息子に引き継ぐ旅は、最初はぎくしゃくしたものであった。息子は父に対する強がりもあってか、道案内はいらない、一人で行くから大丈夫だという。しかし、父とともに旅の労苦を共にしてきた道案内役の犬「次男坊」が、当日朝になる と息子についていかないのだ。結局、行く予定のなかった父が「次男坊」を引き連れ、息子と旅を共にすることで、この映画は始まる。

仕事の尊さ
 一人で心細い旅をしなければと不安顔であった息子も、父と次男坊が同行してくれることになり、にわかに明るくなる。しかし、はじめは父と息子の間にあまり会話はない。しかし、狭い急峻な山道で、出会った村人とうまくすれ違うことのできない息子に父は、そういう ときは山側に寄るのだというルールを教える。郵便物を粗雑に扱うことのないように、厳しく対応する父親、村人の父に対する絶大な信頼感、時折はさまれるこれまでお互いに知らなかった出来事についての回想などを通して、父と息子の間には次第に会話が生まれる。一見平凡な仕事をしていたかに見えた父親の計り知れない労苦、妻や息子への愛情を息子は感じ取る。そして、父親も出かける時ははたして仕事がつとまるだろうかと思った息子が、旅の終わりには立派に成長していることを知り、安堵と幸せな思いにふける。

 峻険な山岳地帯にもバス道路が開かれつつあり、重い背嚢を背負っての郵便配達という仕事がいずれは消えてゆく仕事であることを暗示している。しかし、男は自分が果たしてきたこのつらい仕事に大きな誇りを感じ、誰も引き受けない仕事を息子がひき継いでくれること に喜びを感じている。父親が健康を損なうことになった冷たい川を渡るとき、息子が父を背負い、川を渡る。その時、息子からはじめて「父さん」という言葉が発せられ、当惑とともに喜ぶ父親の表情がなんともいえない。

 原作にはないが、映画では登場し、いつも村の出入り口の橋で夫の帰りを待つ母親役のベテラン女優(趙秀麗)も役柄をしっかりとこなしている。この美しく賢い母親と「次男坊」と呼ばれるシェパードが、目立ちすぎるくらいの立派な脇役なのだ。中国の奥深い山岳地帯にも入り込んでくる近代化と称する変化は、いつまでこうした人間味あふれた世界をとどめることができるのだろうか。映画は、失われて行く牧歌的ともいえる時代の「労働のかたち」を見事に映し出して終わる。(2001年6月8日記)

旧ホームページから転載(一部加筆)
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ラ・トゥールを追いかけて(1)

2005年02月20日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ヴィックに残る城門跡

  ラ・トゥールの絵を見ている間に、次第に画家が生まれ育った場所を訪ねたいという気持ちが高まってきた。幸運が味方をしてくれた。1972年のオランジュリーでの「ラ・トゥール特別展」に感銘を受けた当時、アメリカでの大学院時代以来のつき合いで、いまや生涯の友人となったK教授(経済学、社会経済史)が、当時フランス国境に近いザールブリュッケン大学に勤めていた。週末、パリから移動しては泊まり込み、夫妻と一緒に国境を越え、アルザス・ロレーヌの町や村を訪れる機会に恵まれたのである。

  交通は便利とはいえない地域のため、友人の存在は大きな力となった。この時はお互いに若く、大変エネルギッシュに色々な場所を見に行った。その後も何度も訪れる機会があったが、今でも最初に目にしたブドウ畑や林が広がる起伏のある光景が目に浮かぶ。

画家の生い立ち  
  ラ・トゥールは、1593年3月、フランス北東部のロレーヌ地方、ヴィック=シュル=セイユでパン屋の息子として生まれた(洗礼は3月14日)。祖父は石工であった。パン屋だった父のジャン・ドゥ・ラ・トゥールは、代官や町の参事会員などとも交際があり、ヴィックではそれなりに知られた人物であった。

  城郭で囲まれた小さな町であり、情報もかなり速やかに人々の間に広がったことだろう。彼が、家業とは異なる画家を志した動機、いかなる修業の時代を過ごしたのかについては、記録もなく推測の域を出ない。   

  当時、世代ごとの職業の転換がどの程度一般的なものであったのかも、職業や労働の領域を専門としてきた私としては大変興味があるが、今も不明なままに残されている。画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールや彼の息子エティエンヌのその後などから推測すると、才能や財産に恵まれれば、案外社会的な流動性は高かったのではないかと思われる。加えて、17世紀前半、アルザス・ロレーヌ地方は戦乱を含めて、激動の歴史的舞台でもあった。特に、ラ・トゥールの後半生はしばしば戦乱や悪疫の流行に脅かされた。   

  1972年に私が訪れた時は、ヴィックはモーゼル川の支流としてのセイユ川が流れる人口1500人くらいの小さな町だったが、ラ・トゥールの生まれた16世紀末から17世紀の頃は、人口も今の10倍くらいあり、かなり隆盛をきわめたようである。最初に訪れた時は、ラ・トゥールの生地ということもほとんど知られていなかったこともあり、特徴もない寂れた小さな町という印象だった。しかし、ラ・トゥールの評価が高まるにつれて、町は急速に脚光を浴び、2003年には画家の名をつけた小さな美術館も開館した。新たな資料研究の成果や作品の発見なども加わり、闇に埋もれていた画家としての生涯もおぼろげながら明らかになってきた。   

  さて、当時の社会状況からすれば、パン屋の息子が画家になるためには、当時の技能習得に欠かせなかった徒弟制度を経由することが普通であった。先ず近隣で知られた画家の工房に徒弟として弟子入りし、親方の画家あるいは兄弟子から画家として必要なテーマの選択、技法など基本的なことを学ぶ修業の年月を過ごすことが普通だった。当時の徒弟は、画家に限らず、大体14歳くらいでスタートし、職業や地域で異なるが、4年近い修業が必要とされた。ラ・トゥールがそうであったとすると、1604年からの4年間くらいが徒弟の時期であったと推定される。

  徒弟の記録は残っていないが、当時ヴィックで名をなしていたドゴスという親方画家の工房で修業したのではないかと推定されている。というのも、いずれ記すように、ラ・トゥール家とドゴス家の間には親交があったとみられる記録が残っている。画家の生涯の後半にあたる1647年、ドゴスの姪フリオがジョルジュ・ラ・トゥールの息子エティエンヌと結婚しているからである。   

  ジョルジュ・ラ・トゥール自身はその後、ロレーヌ地方で画家としての名が知られるようになり、1617年、リュネヴィルの下流貴族の娘ディアーヌ・ル・ネールと結婚している。彼はその後、妻の生地であるリュネヴィルで生涯の大部分を過ごしたと推定されている。リュネヴィルはヴィックの南西20キロメートルほどのところに位置している。この地方の中心都市ナンシーも、ヴィックやリュネヴィルから直線距離で20から30キロメートルほどの近さだ。 

  17世紀初め、ヴィックはメスの司教管轄区、リュネヴィルはロレーヌ公爵領に属していた。ヴィックは、17世紀当時の隆盛を偲ばせるシャトーや教会などもある趣のある町だった。ロレーヌ地方は、現在のフランス北東部、アルザスの北に位置し、北はアルデンヌの森、南はヴォージュ山脈に接している。この地方は、ドイツとフランスの中間ともいうべき位置にあり、石炭や鉄の産地として、経済的豊かさにも支えられ、1000年も前から領土争奪の焦点だった。   

  ラ・トゥールの生きた時代、この地域は30年戦争(1618―48年)の舞台となって荒廃し、その後もたびたび戦場となった。第一次大戦、第二次大戦ではヨーロッパ最大の激戦地のひとつとなり、文字通り戦火の絶えない動乱の舞台であったといえる。最初にアルザス、そしてロレーヌ地方を訪れた時は、今に残るマジノ線のトーチカ、塹壕の跡に驚かされた。   

  さらに、第一次世界大戦時にはおよそ13万トンの砲弾が行き交ったといわれるヴェルダンの要塞も近くにある。第一次世界大戦でドイツが敗北し,1919年6月アルザス・ロレーヌはフランス領となった。第二次世界大戦中は一時ドイツに併合されたものの,戦後はフランスの一部として現在にいたっている。欧州共同体(EC)当時から欧州議会(本会議)は、ストラスブールに置かれている。    

  アルザス・ロレーヌでは戦場の跡ばかりでなく、ラ・トゥールにゆかりのある城址(ヴィックに残る城壁、城門)、教会、修道院の跡など、かなり多くの場所を訪れた。フランス側とはいえ、ドイツ語が自由に通じたことも思い出した。  

  ドイツ国境に近いロレーヌの町メッスでは川魚料理が名物な所があり、美しい橋を望むレストランで、勧められるままに注文したわかさぎのフライのような料理が印象に残っている(花より団子!)。

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私にとっての9.11

2005年02月19日 | 回想のアメリカ

在りし日のワールド・トレードセンター遠望  

 2001年9月11日。その日、ニューヨーク、マンハッタン島の上空はよく晴れていた。それだけに、TVを通してリアルタイムで放映されたあの衝撃的な映像は網膜にしっかりと焼きついてしまった。 

  惨劇の舞台となったワールド・トレードセンターには、少なからぬ思い出がある。1960年代後半の最初の留学生時代には、ミノル・ヤマサキ氏によるデザインが示された段階だったが、間もなく、マンハッタン島の南端にその巨大な姿を現した。その後、しばらく多国籍企業で仕事をするようになって、提携企業のあるモントリオール、ニューヨークなどへの度重なる出張の時に、トレードセンターや近くにオフィスを持つ企業を訪問するために、この場所は何度となく訪れた。トレードセンターのビル自体は目立ちすぎるようで好みではなかったが、逆に海側 に向かって、近くのバッテリー・パークから眺める自由の女神像の遠望は、アメリカのひとつの象徴的光景であり、深く脳裏に刻まれている。とりわけ、春の日射しが柔らかく射し込み、木漏れ日が柔らかに照らすパークのベンチに座り、なんとなく一時を過ごしている近くのオフィスワーカーや住人たちの光景は、心の和むものであった。 

  研究者としての生活に入ってからは、テロで破壊されたビルの残骸の置き場となっているスタッテン・アイランド(移民労働研究の研究機関がある)やエリス島移民博物館に行くことが増加し、南端にそびえるセンター・タワーのひときわ目立つ情景をたびたび 目にするようになった。とりわけ、エリス島へ渡るフェリーからのマンハッタンの眺望は忘れがたい。

  留学生としてアメリカに来たばかりの頃は、日本から友人・知人が来ると、マンハッタン島を一周する「サークル・ライン」という観光客向けの遊覧船に誘ったことがよくあった。実は、この遊覧船はニューヨークの地理的状況を最初に直感的に理解するには、大変適した手段なのである。出発の桟橋は西47丁目であったろうか。2時間くらいのハドソン川のクルージングで、マンハッタン島の主要部を一回り外周部から眺望することができる。

  ニューヨークに来た時は、摩天楼の偉容とともに、ハドソン川にかかる多くの橋が大変美しく 、よく見て回った。ニューヨークは大変橋が美しい市街であるという印象は当初から持っていた。とりわけ、フェリーから見た橋は美しかった。ひときわ目立つワールド・トレードセンターは、大きなアトラクションのひとつであった(画像はエリス島行きボートから望んだありし日のワールド・トレードセンター)。

「ソフィーの選択」  
  今回の事件でTVに映し出されたバッテリー・パークの映像を見るうちに、私の脳裏にはそれまでほとんど思い出すことがなかったひとつの映画の光景が浮かんできた。1982年に映画化された作家ウイリアム・スタイロンの問題作「ソフィーの選択」 (Sophie's Choice) である。ちなみに、アメリカ社会派ともいうべきスタイロンの「ナット・ターナーの告白」 (THE CONFESSIONS OF NAT TURNER, 1967)は、私の愛読書の一冊である。 

  ストーリーは、フォローするのが耐え難いほど陰鬱である。主人公のソフィー(映画はメリル・ストリープが熱演、アカデミー主演女優賞)という女性はホロコーストの生存者として、誰にも語ることの出来ない地獄の過去を持っている。今は移民してアメリカにいる ソフィーは、かつてユダヤ人女性として第二次大戦中ポーランドにおけるナチスのユダヤ人収容所にいる間に、生涯癒しがたい精神的傷を負うことになった。自分の子供である男の子と女の子のいずれかをナチス将校の脅迫の下で、アウシュビッツ収容所のガス室に送らね ばならないという選択を迫られたのであった。

  映画では、この回想部分はセピア色の単色で映されていた。この深い傷は、アメリカに来ても絶えず彼女を絶望的な苦しみに追いやる。こうした過去を持つ美貌の女性ソフィー、そして、その恋人であるが精神に異常を来して いるユダヤ人ネイサン(ケヴィン・クライン)がブルックリンで同棲している。そして、同じ下宿に住み、ソフィーを愛するスティンゴという南部出身の小説家志望の青年が奇妙な三角関係を作り出す。ソフィーの父は、当初反ナチの闘士ということであったが、その後反 ユダヤ主義者であったことが分かる。ソフィーの言葉自体もどこまで信用できるのだろうか。 


  ともするうちに、ソフィーは親しくなったスティンゴにすこしずつ心を開き、自らの暗黒面を語りながらも、ある日、狂気の高じたネイサンと衝撃的に自殺してしまう。花々が美しく咲き乱れた朝であった。 

  今回のテロ事件とは何の関係もない筋書きである。なぜ、突然この映画の場面が浮かんできたのかも分からない。ただ、現代の文明社会を深い部分で蝕みつつある狂気のようなもの、それが積もり重なり、ある曇りなく晴れた朝に、ひとつの破断に至るという点なのかも しれない (2001.10.7記)。 


旧大学ホームページから転載

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ラ・トゥールとの出会い

2005年02月18日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

日本で初めての「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展

  まもなく国立西洋美術館で「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展が開催される。この謎に包まれた画家との出会いは、私にとっても少なからぬ因縁がある。思い起こすと、発端は1972年のことであった。当時仕事でパリに滞在していた私は、オランジェリーで開催されていた「ラ・トゥール特別展」の掲示を見て、早速出かけることにした。すぐに分かったことだったが、この特別展は1934年に同じオランジェリーで開催された展示に続く、ラ・トゥールの作品の大部分を集めた画期的なものであった。

 館内に入り、それまで部分的にしか見たことのなかった一連の作品を見ている間に、私は謎が多く、底知れぬ深さを持ったこの画家の作品にすっかり魅了されてしまった。それまでにもラ・トゥールの絵は、ルーブルなどでいくつかの作品に接する機会があり大変好きなものだったが、画家の背景などはまったく知らず、この展示が今日までのめり込むきっかけになるとは思いもかけなかった。
  
 ふりかえってみると、ラ・トゥールの作品の大部分が一堂に会したこの機会に出くわしたのは大変幸運であったと思う。というのも、ラ・トゥールの現存する作品はヨーロッパ、アメリカ、日本などの各地に分散しており、個人の所蔵もあるため、その作品に接することはかなり大変だからだ。ルーブルはさすがに例外だが、それでも数点しか所蔵していない。かくして、その後も機会があれば、なにをおいても見に行くという「追っかけ」になってしまった。この時求めた「大工聖ヨセフ」などのポスターは、長らく私の部屋の壁にかけられ、しばしの憩いを与えてくれた。  
  
深く沈潜した作品群
 ラ・トゥールの絵は、いずれも深い静謐感をたたえた作品が多く、絵の置かれた環境・雰囲気が見る者の印象に大きく影響するように思われる。そのため、作品の所在が世界各地に分散しているというのは、マイナス面ばかりではないといえるかもしれない。確かに、ルーブルのように名作が林立する中、人混み(日本と比べるとはるかに少ないのだが)の間から見たラ・トゥールと、レンヌやナンシーあるいはベルリンの静かな雰囲気で見たラ・トゥールは、印象がかなり違うような感じがする。

オランジュリー展   
 これも幸いであったことは、オランジェリーでの特別展が開催された1972年に、日本におけるラ・トゥール研究の第一人者である田中英道氏(東北大教授)の『ラ・トゥール─夜の画家の作品世界─』(造形社、1972年)、「冬の闇―夜の画家ラ・トゥールとの対話―」(新潮社、1972年)が刊行され、大きな感銘を受けた。これも特別展とはまったく関係なく、偶然手にした書籍であった。その後、内外のラ・トゥール研究はかなり進展をみたが、日本においては、田中英道氏のこの著作に匹敵するものは著されていない。しかも、30年余前に、これだけの内容をもった著作を世に問われた氏の力量には、ひたすら感服するばかりである。  
  
 ラ・トゥールとは、そのほかにも個人的に因縁めいたことが数多く、美術や美術史を専攻したわけでもない私が、今日まで飽きることなく追いかけている理由になっている。作品や私生活を含め、謎に満ちた画家だけに、とりつかれると下手なミステリーを上回る面白さに引き込まれ、しばしば本業を忘れて?のめりこんできた(その断片がこれから時々登場する)。
  
 専門工房が作る立派な複製画を求める余裕はとてもないが、(オランジュリー特別展で求めたポスターもさすがに古くなり)、昨年テート・モダーンのショップで買い求めた「生誕」Newly Born Child, Le Nouuveau-Né の複製ポスターが仕事場の壁にかかっている(テートはラ・トゥールの作品を保有していないが、ポスターの売れ行きは大変良いと聞いた)。


Reference
http://www.nmwa.go.jp/index-j.html

Photo: Courtesy of Musee des Beaux-Arts, Rennes

Georges de La Tour. 1972. Orangerie des Tuileries, 10 mai-23 septembre 1972, Ministère des Affaires Culturelles, Réunion des musées Nationaux.

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「永遠と一日」:映画に見る国境

2005年02月17日 | 移民の情景

  「あなたの人生で残された時間は今日一日です」と宣告されたら、どうしますか。このきわめて重い課題を映画にしてしまったのが、ギリシャの名監督テオ・アンゲロプロスである。『旅芸人の記録』、『霧の中の風景』『ユリシーズの瞳』(1995年カンヌ映画祭審査員大 賞)、そして最近ではこのテーマを取り上げた『永遠と一日』(1998年カンヌ映画祭パルムドール大賞)など重厚な名作で知られる。とはいっても、学生諸君の多くは名前すら聞いたことがないのではないか。

  ストーリーの展開がやや難解で、決して大衆向けのメイジャーな 作品ではないからだ。 このとても一般向けとはいいがたいアンゲロプロスの作品になぜ私が関心を持つのか。理由はいくつかあるのだが、とりわけ「国境と個人としての人間」の関係を、厳しく追い求めている点にある(と思っているのはどうも私だけで、監督の真の意図は別のところにあるの は確かなのだが)。 

  『永遠と一日』は、現代のギリシャの町、テサロニキにおいて死期を悟った老境の作家アレクサンドレが、人生の最後の一日に、街中で偶然に出会ったアルバニア系難民の少年(俳優ではなく本当のアルバニア難民、素晴らしい名演技)と過ごす短いが充実した時間を濃密に 描いている。そして、作家の歩んできた人生を回想の形でその過程に投影し、すでに亡くなっている妻との関係、作家と社会とのかかわりを内省する形で展開している。その映像の美しさ、カメラ回しの巧みさにはいつも魅了されてしまう。とりわけ、深みを持った青色の 美しさは比類がない(これも私の好みでの独断)。 

  語るべき点はあまりにも多いのだが、ここではただひとつ重要なプロットとして使われている国境についてだけ記そう。主人公がふとしたことで危急を救ったくだんの少年は、ギリシャに難民として入りこみ、暴力団によって人身売買され、過酷な状況で働いている少年たちのひとりである。 

  交わす言葉は少ないながらも、お互いに心が通うことになった作家と少年が厳寒のアルバニア国境を訪れるシーンがある。作家がなんとか少年を祖国に送り返してやりたいと考えたからである。少年はその好意に反するわけではないのだが、帰りたいという意思は示さない 。その意味は直ちに分かる。国境に張りめぐらされた金網に多くの人々がしがみつき、良く見ると、凍りついて死んでいるのだ。二人に気がついたナチス・ドイツのような軍服を着た将校が近づいてくる光景は、身も凍るような陰惨さで、現代の国境が持っている冷酷な一 面を一瞬にして観る者に悟らせる。少年が一言も発せずとも、彼の祖国の実態がいかなるものであるかを分からせてしまう。 

  これほどではないが、かつてチャウシェスク政権下のルーマニアを訪れた時の印象が、私には今も強く残っている。何の飾り気もない殺伐としたブカレストの空港で1~2時間も行列させられた後、対面した入国審査官の氷のような眼、町中で行き交う人々が、外国人である私を見る到底同じ人間とは思えない、射るようなまなざしを思い出す。東欧のパリといわれる文化の色を残しながらも、電力不足で暗い街。パリを真似た小さな凱旋門も闇の中に沈んでいた。

  外国人が宿泊できるホテルは指定されている。各階には無表情な人が、客に挨拶することもなくじっと座っている。いつもどこからか監視されているような異様な雰囲気。ただひとつ人間らしさを感じたのは、街角のアイスクリーム屋の長い行列。それも小さな小さなアイスクリームであった。本能的にこの国はどこかおかしいと感じた。政治体制は人間の容貌までも変えてしまうものなのか。 

  「ユリシーズの瞳」も、20世紀初頭に撮影された最初のギリシャ映画の未現像フィルムを求めて、35年ぶりにアメリカから故国ギリシャへ戻った亡命者である映画監督の旅路を描いた名作である(実物に接していない人に映画や絵画の説明をすることほど、難しくて、馬鹿らしいこともないのだが)。バルカン半島の複雑な政治的・民族的分断の中を旅する男の出会うさまざまな苦難は、極東の島国に住むわれわれにはとても理解しがたい怪奇さを反映している。[ちなみに、教室で説明したBalkanization(市場の分断化)という 言葉は、まさに、このバルカン半島の複雑に分断された状況をクラーク・カーが比喩的に使ったものである]。 

  TVの映像で瞬時に世界の変化を知ることのできる今日でも、コソボ紛争の実態を日本人が理解することはきわめて困難といってよいだろう。コソボのアルバニア系住民が亡命している国が、『永遠と一日』の少年の祖国アルバニアなのである。コソボの実態がいかなるもの であるかは、想像を絶する。 

  これまでの人生で、私もずいぶん多くの国境の姿を見てきた。とりわけ、国際労働力移動(外国人労働者)の研究に手を染めてから、国境の実像に接することに一段と興味が深まった。国境は、その歴史的・地政学的相違を背景にして、決して一様ではない。その実態は文字 通り多様である。それまで穏やかな様相を呈していた国境が、一変、厳しく、冷酷な存在となることも稀ではない。最近のコソボ紛争、台湾・中国論争、東ティモール問題などは、いずれも国境が険悪な様相を呈している場合である。 

  映画は、時に見る人に思いもかけない仮体験をさせてしまう。たかが映画、されど映画。(2003年8月5日記)。旧ホームページから転載。

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エリス島物語 (書評)

2005年02月16日 | 書棚の片隅から
エリス島物語 (書評)
 20世紀前半までにアメリカへ移民した多くの人々が、決して忘れることのない場所のひとつがエリス島である。ニューヨーク、ハドソン河口に位置するこの小さな島は、1892年から1924年にかけてアメリカへ移民を志した1600万人近い人々が通過した、いわば新大陸の入り口であった。ここに連邦諸機関が移民の受け入れセンターを設置していたためである。その意味で、アメリカ人の多くを見えない糸でつないできた一点といえるかもしれない。アメリカへの移民の原点ともいえる場所である。
移民たちが新世界に希望を求めて、長い船旅の後にたどり着いたのが、この小さな島であった。一等先客などの恵まれた移住者は、船上で入国許可などの手続きを受けることが多かったので、受け入れセンターを経由した者は、三等船客として不衛生きわまりない船底で過ごした人たちである。彼らは旧大陸であるヨーロッパに絶望し、あるいは見放されて、ようやくアメリカにたどり着き、その後の人生のすべてを新大陸での生活にかけたのである。
 エリス島の果たした役割については、すでに数多くの書籍、写真集などの形で残されている。しかし、ここに紹介するジョルジュ・ペレック(酒詰治男訳)『エリス島物語:移民たちの彷徨と希望』青土社、2000年(原著はフランス語で1994年出版、英語版もある)は、類書とかなり赴きを異にしている。ヨーロッパ大陸での貧困、飢え、迫害などを逃れ、新天地アメリカにたどり着いた移民たちとのインタビューを中心に、史実の記録を織り交ぜた異色のドキュメンタリー小説ともいうべき作品である。もともと、本書は作者が加わった映画の台本を基礎に生まれたものであるだけに、多くの印象的な写真を含め、最初から読者を飽かせることがない。アメリカ移民史に多少なりと関心を抱く者は、たちどころに引き込まれてしまうだろう。
 訳者あとがきによると、著者ペレックの両親はフランスに移民したイディッシュ語を話すポーランド系ユダヤ人であり、第二次大戦で父親は戦死し、母親はアウシュヴィッツの犠牲者となったという重い過去を背負っている。戦争孤児となったペレックは、精神的にも孤独な境遇の中で彷徨する人間となったのである。その思い入れもあってか、本書はエリス島について書かれた他の書籍とは、異なった魅力を持っている。エリス島は、私自身も移民労働に関心を持つようになってからは、ニューヨークに行く機会があると、磁石に引かれるように、この小さな島へ足を運んだ。その時々にさまざまな思い出がある。  
ペレックほどの規模ではないが、私自身もアメリカで友人・知人の両親などに移民当時の思い出についてインタビューを試みたこともあった(その一端は、拙書『国境を越える労働者』岩波書店、1991年にも記した)。こうしたインタビューは原体験として、その後のフィールド調査の際に役立つことが多かった。アメリカ移民史に多少なりと首を突っ込んだ者には、ペレックの著書に掲載されている写真の多くは、大変なじみ深いものである。私自身、掲載されている写真のほとんどは見た記憶がある。それもそのはず、古い写真は、ほとんどが著名な写真家ルイス・ハインによって撮影されたものだからだ。ルイス・ハインについては、このブログでも紹介している(「移民の情景」)。
本書にも記されているように、アメリカへやってきた移住希望者の誰もが入国を許されたわけではなかった。病気の保有者(特に、トラコーマなどの伝染性の病気)、犯罪者、政治的・思想的に問題ありとされた者など、移住者の2パーセント近い人々、数にして25万人は、入国を許されず、送還された。時には識字テストという英語を母国語としない移民にとっては、恐怖そのものともいえる障壁が待ち構えていた。
長い船旅の後に疲れ果ててエリス島に上陸した移住希望者が、いかに不安と恐怖に苛まれ、この島での短い時間を過ごしたことか。20歳の夫婦と1歳の子供が数ヶ月をかけて着の身着のままで、ロシアからやってきて、エリス島の検疫で夫だけがトラコーマの疑い(結果は無事)を受け、隔離された話なども、インタビューに出てくる。彼らが到着したアメリカ大陸は、ヨーロッパとの比較において決して富裕な地ではなかった。多くの移民たちの前には、しばしば過酷な生活が待ち受けていたのだった。アメリカへやってきた人々の多くは、それぞれに重い過去を背負っていた。その後、努力や幸運に恵まれ、アメリカン・ドリームを実現できた人もいないわけでないが、多数の人々は「希望の国」のイメージにはそぐわない厳しい現実と対決しなければならなかった。

移民問題を考える折に
 近年、グローバル化の進行によって国境の存在が次第に希薄化する反面で、民族や人種への関心が高まっている。インターネットに代表されるIT技術の発達は、「国民国家」の基盤を根底で揺るがしている。IT革命は、一人一人の人間を国境の存在を意識させずにむすびつけている。われわれの想像を超えて、国家の枠組みは揺らいでいるのだ。しかし、グローバル化の進展は単純ではない。IT技術の発展などに伴い、経済活動の画一化が進む反面で、国民国家への関心とは異なった次元で、民族や宗教への関心や帰属を強めている。市場主義は直線的には進まない。すでに、グローバル化への反対や警戒はいたるところに表明されている。
 日本では失業率が高水準のままに推移し、顕著な改善の兆しを見せないにもかかわらず、中・長期的には労働力不足が深刻化することが懸念されている。「3K労働」の名で知られる低熟練分野で働く日本人が減少している。他方では、拡大するハイテク産業での技術者・専門家の不足も課題となっている。一部には、日本も定住移民を受け入れるべきだとの提言もある。しかし、この問題は単なる労働力不足あるいは国の活力低下といった観点から安易に選択されるべきものではない。多くの国民的議論が必要だろう。『エリス島物語』は、アメリカという移民大国がたどった歴史の断片を、生き生きと伝えてくれるとともに、移民が抱える問題がいかなるものであるかを現代に生きる人々に語りかけている(2000/11/03記)。
旧ホームページから転載
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アンジェラの灰(書評)

2005年02月15日 | 書棚の片隅から
  このところ世界で移民をテーマとした小説や映画が話題を呼んでいる。そのひとつ、フランク・マコートの『アンジェラの灰』 (Frank McCourt. Angela's Ashes. New York: Scribner, 1999)は、すでに26カ国で翻訳され、600万部という世界的なベストセラーとなった。翻訳ばかりでなく、映画化(アラン・パーカー監督)もされ、日本でも最近公開された。

  この作品は、アメリカの文壇では引退した年代とみられる66歳の元教師の手になる、アイルランド移民の極貧な生活を題材とした自伝的小説あるいは回想録ともいうべきものだが、なぜこれほどまでに人々の心をとらえたのだろうか。 

  自伝や回想録は通常、人生において成功をした人々を対象としたものが多い。成功や名声とはおよそ反対の極にある貧乏というものが、実際にいかなるものなのかということを、赤裸々に描いたこの作品がなぜ、これほどまでに注目されたのか。さまざまな理由が考えられるが、近年のグローバリゼーションの展開が背景にあることは確かなようだ。

グローバル化が生んだ民族への関心
  グローバル化が進み、世界の経済活動の画一化が進む反面で、民族や人種についての再確認や再発見の動きが進んでいる。アイルランドとアメリカを題材としたこの作品も、アイルランドという国あるいはアイリッシュ文化へのさまざまな思いがこめられている。世界的大恐慌の嵐が吹き荒れる1930年代におけるアイルランド人、とりわけアイルランド・カトリックの貧困がいかに惨めなものかをこの作品はひとつの家族を通して、描き尽くしている。ちなみに、アメリカやイギリスの移民史で、アイルランドは貧困度が高く、多数の移民を送り出したが、それが経済発展に結びつかない国の例としてしばしば登場する。もっとも、最近はやや明るさが見えてはいるが。

過ぎし日の移民生活
  アイルランドからアメリカへの移民、そして再びアメリカからアイルランドへの移住が、いかなることを意味したのか。著者のフランク・マコートは、1930年アイルランド移民の長男としてニューヨークに生まれた。その後、4歳でアイルランドへ逆に移住し、家族とともに文字通り極貧の生活を送った。その貧困の程度は、アメリカでの貧困よりもさらにひどいものであった。飲んだくれの父親、愛する子供のために奔走するが、努力もかなわず暖炉の傍らで悲嘆にくれる母親、次々に生まれるが、次々に死んでゆく子供たちなど、貧困のきわみともいうべき生活がこれでもかとばかりに描かれている。しかし、マコートはそれを単に悲惨さの一色で塗りつぶしていない。巧みな筆致によって、悲惨さと滑稽さを織り交ぜて、アメリカそしてアイルランド移民の過ぎし日を描いている。

  友人に勧められた原書は俗語も多く、私の英語力では難渋したが、なんとか読み通すことができたのは、作者のプロット展開のうまさによるところが多い。これから本書を読み、映画を見る人も多いことを考えて、内容についてはこれ以上触れないことにしよう。


旧ホームページから転載
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エリス島物語(1)

2005年02月14日 | 移民の情景


移民・外国人労働を研究テーマのひとつとしてきた者にとって、エリス島は何度訪れても興味尽きない場所である。同じニューヨーク、マンハッタン島の沖合に浮かぶリバティ島の自由の女神は観光客が必ず訪れる場所だが、エリス島は案外知られていない。しかし、アメリカ人のある世代の人々にとっては、この島は特別の感慨を呼び起こす場所なのだ。
 
ヨーロッパを始めとして、世界中から新大陸への希望をかけて移民船で渡航してきた人々の多くが、かつてはここで入国を認められるか、拒否されるかの「審判」を受けたのである。エリス島の移民記念博物館で上映される映画のタイトルは「希望の島、涙の島」だが、文字通り天国と地獄を分ける島であった。医学水準が低い時代には、今ならば直ぐに治療されるトラコーマなどの眼病でも入国を拒否され、送還されることもあった。英語や心理のテストが行われたこともあり、移民にとっては不安の極致であったに違いない。
 
エリス島の博物館には、一筋の光を求めてはるばる新大陸までやってきた人々が、果たして入国できるか否かの不安と恐怖におののきつつも、審査の順番を待っている印象的な写真が数多く展示されている。移民たちが新大陸に持ち込んだ数々の手荷物も見ることができる 。入国管理官から、鈎の手のような一寸怖い器具で、目の検査を受けている移民たちの写真もある(日本人移民の写真も展示されている)。それらを食い入るように見ている人々の姿は、アメリカという国の成り立ちを考えるに、きわめて感動的である。

私もイタリア移民の子である友人の両親から、初めてエリス島に着いた時の様子を聞いたことがある。ほとんど着の身着のままで、貧困の極みにあった南部イタリアからアメリカにやってきた彼らにとっては、エリス島から眺めた高層ビルが並び立つマンハッタンの夜景は、この世のものとは思えなかったそうである。その友人が親から聞いた話では、イタリアでは本当に歯ブラシ一本持っていない貧しさだったという。現在は、移民記念博物館になっている旧入国管理事務所ホールに立つと、さまざまな国から新大陸に来た人々の希望や不安が時空を越えて聞こえてくるような気がする。

(旧HP2003年8月5日掲載記事に加筆掲載)
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出稼ぎ労働者の母親

2005年02月13日 | 移民の情景

 一枚の絵画がしばしば多くの人々に深い印象を刻み込むように、一枚の写真が見る人に大きな衝撃を与え、世界の見方を変えてしまうこともある。世紀の変わり目には、20世紀の回顧がさまざまに行われたが、国際的に著名な雑誌『TIME』も「20世紀の偉大なイメージ:われわれの時代を定めた写真」というタイトルで、20世紀に起きた決定的な出来事を撮影した写真集を出した。仕事の合間にページを繰ってみると、多くの見覚えのある印象深い写真が多数掲載されている。そのには、ありし日のジェームス・ディーンやオードリ・ヘップバーンなどの明るい写真、ベルリンの壁崩壊時の写真なども含まれているが、総じて戦争、犯罪、事故など陰鬱な写真が圧倒的に多い。人類は果たして進歩しているのかと考えさせられてしまう。

大恐慌の底辺で
 写真集には、このブログで以前に紹介したアメリカの写真家ルイス・ハインが撮影した児童労働の一葉(外の世界を見る一瞬)も含まれている。ここでは、もう一枚、「出稼ぎ労働者の母親」(Migrant Mother, 1936)と名付けられたきわめて著名な写真を紹介しよう。この写真はドロシア・ランゲ(Dorothea Lange)というニューディール期の写真家によって撮影され、その後、アメリカの移民史における象徴的な写真となった。時代は1930年代にさかのぼる。この大恐慌期におけるフランクリン・D・ローズヴェルト大統領のニューディール政策は、その展開の過程でニューディーラーと呼ばれる新しい考え方を持った人たちを生み出した。その中には、当時のアメリカ社会の底部において絶望的な貧困生活を送る人々の実態に強い社会的な関心を抱く人たちがあった。彼らは、アメリカの暗部ともいえるこうした貧困層、とりわけ農民の実体を写真という媒体で記録するというプロジェクト(Farm Security Administration photography project)を設定し、アメリカ全土において恐慌という経済的悲劇に苦しむ人たちのさまざまな側面を写真として残した。1935年から43年の間に、このプロジェクトに参加した著名な社会派の写真家によって撮影された枚数は、実に27万枚に達した。

出稼ぎ労働者の母親
 ランゲの撮影した「出稼ぎ労働者の母親」もその一枚である。このショットは、1936年、カリフォルニアにおける出稼ぎ移民の母親の表情を写したものであり、アメリカ社会史における出稼ぎ労働者の一断面を象徴的にとらえている。撮影者のランゲは、特に解説を加えていないが、写真の迫力は圧倒的である。

 写真の背景について少しコメントをしておこう。アメリカのロッキー山脈東麓の大草原地帯に1930年代にダストバウルDust Bowlと言われる大きな砂嵐が発生し、住民を襲った。大不況の最中のこの天災は、貧困層にとっては文字通り神も見捨ててしまわれたのかと思われる過酷な大打撃であった。カリフォルニアに移民したこの母子にとって、それがいかなるものであったかを、この一枚の写真は衝撃的に訴えている。この50歳近くと思われた母親に、ランゲが年齢を尋ねたところ32歳で7人の子供があった。 

 出稼ぎ労働者はアメリカの歴史を根底において形作る重要な役割を果たしてきた。新大陸へ夢と希望を抱いてやってきた移民たち、そしてその後この写真の主人公のように、各地を漂泊する農業季節労働者のような人たちもいた。その中には、夢を実現して社会的上昇を実現した者もいたが、移民先において母国での苦難以上の絶望的貧困の中に生涯を送った人たちもあったことも注意してほしい。今、世界では移民が大きな国民的議論の対象となっている。移民をめぐる環境も大きく変わった。新しい世紀における移民(外国人労働者)は、いかなる映像として記録されるのだろうか。

Photo:
Courtesy of the Time Great Images of the 20th Century: The Photographs that Define Our Times, New York, N.Y. Time Books, 1999.

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