時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

AM STADEN :大きな驚き、そして感謝

2008年09月29日 | 午後のティールーム
AM STADEN 18
(かつてのホテル HOTEL AM STADEN) 

左側2本の柱があるところが入り口だった。


  以前に、このブログでフランス国境に近いドイツの都市ザールブリュッケンの小さなホテルについて記したことがあった。17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ、活動したロレーヌの地を、最初に探訪した時に拠点とした場所だった。1970年代のことであり、30年余りの年月が過ぎていた。当時、ザールブリュッケン大学で教壇に立っていた友人夫妻が、この地に住んでおり、共にロレーヌの町や村々を訪ね歩いた。

  その後、ふとしたことで、ホテルの現在の様子を知りたいと思ったことがあった。インターネット上で調べてみると、残念ながらすでに廃業しているということが分かった。しかし、あの静かで家庭的なホテルの跡は、その後どうなっているのだろうかという思いは頭の片隅にあり、いつか訪ねる機会でもあればと思っていた。

  驚いたことに、このブログ記事をザールブリュッケンに近いフランス側の都市メッスに在住される日本人の主婦の方が読んでくださっていた。ご自身も大変心温まる、ほのぼのとしたユーモアが漂うブログ「棚からぼた餅(現在は「キッシュの街角」)を運営されている。そして、ザールブリュッケンに行かれた折に、わざわざこのホテルのあった場所までご足労いただき、撮影した写真を送ってくださった。

    ホテルの建物は昔と変わりなく、住宅街の一角に残っていた。写真に添えられたご説明によると、1階には半地下のなかなか素敵なレストランがあり、上の階は事務所などになっているらしい。しかし、建物の外壁は色も当時のまま、ほとんど変わっていなかった。辺りの環境も当時の面影を残している。

  文字通り、時空を越えて、タイムスリップしたようだ。驚きは一瞬にして大きな感謝に変わった。世の中のブログの主流とはほど遠いIT世界の片隅で、何度か店じまいにしようと思ったこの「変なブログ」だが、また新しいエネルギーをいただいた。もう少しがんばってみよう。

    下記に、ご好意の写真を転載させていただいた。HOTEL AM STADEN (かつてのホテル)、ザール川近傍の静かな雰囲気が伝わってくる。
Photo credits: (c) momoko, 2008
 












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恐怖の都市ボストン:ノン・フィクション

2008年09月28日 | 書棚の片隅から

Francis Russell. A City in Terror.: The 1919 Boston Police Strike. Penguin Books Ltd.Harmondsworth,Middlesex, 1977.pp.256.

  デニス・ルヘインの「運命の日」The Given Day は、ボストン市警ストの勃発に向けてのプロセスをキーノートとするフィクション(歴史小説)として描かれた。かなり忠実に歴史的事実を踏まえているとはいえ、現実と虚構(フィクション)の間には、当然差異がある。フィクションが持つ面白さもある(発刊以来、すでにいくつかの紹介、書評が行われている)。他方、現実に起きたことは、概略次のような展開であった。

  1919年9月9日、ボストン市の警察官のほとんどが突如職場を放棄した。動機は劣悪な労働条件の改善要求であった。続く2日間、70万人以上のボストン市民は暴徒たちのなすがままに放置される事態が生まれた。白昼、商店が略奪され、婦女子が襲われ、歩行者が殴打されるという蛮行も頻発した。その反面で市民たちがただ事態を傍観したり、警官たちに拍手を送るという光景も見られた。州兵が動員され、ほとんど無名のマサチュセッツ州知事カルヴァン・クーリッジが事態の収束のために動き、ほとんど一夜にして国民的ヒーローとなった(クーリッジは、後に1923-29年にかけて、アメリカ合衆国第29代副大統領、30代大統領に選ばれた)。

  この歴史的事件のリアリティの方に関心を持つ方は、ここに紹介するフランシス・ラッセルのノン・フィクション『恐怖の都市:1919年ボストン警官スト』(A City in Terror; The 1919 Boston Police Strike、残念ながら翻訳はない)をお勧めする。デニス・ルヘインが『運命の日』を執筆するに際して最も頼りにした文献である。

  フランシス・ラッセルはこの時期を子供として過ごし、ボストンにも居住するなど、この出来事の一部始終を克明に描き出した。大戦間期のひとつの歴史的事件を軸として、激動する時代の空気を伝える貴重な資料となった。

  ルヘインの『運命の日』は、サム・ライミ監督による映画化が決まっているといわれる。映像化されれば、文字ではイメージしにくい臨場感、時代の雰囲気がもっと明瞭に伝わってくるだろう。いわば舞台回し役として登場する往年の名選手ベーブルースの雄姿?もイメージしやすいだろう。小説では、ボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースへ移籍する段階までが描かれている。根強く存在した白人、黒人の間の偏見、人種差別の側面も、生き生きと描かれている。

  他方、フランシス・ラッセルのノンフィクションは、事件の忠実な再現であり、実際にいかなることが起きたのかを生き生きと伝えている。当時の歴史的文書、関係者のヒアリングなどに基づき、学術的文献としてもきわめて貴重な作品に仕上がっている。多数の写真が収録されており、臨場感を深めてくれる。写真の中には、職場放棄する警官たち、暴徒が蹂躙する街中、自衛のためにピストルを携行する従業員ガードマン、交通整理に乗り出す市民ヴォランティア、鎮圧にあたる騎馬警官や州兵、視察にあたるクーリッジ知事など、興味深いショットが多数掲載されている。

  ところで、ブログ読者の中には、なぜこの本を読んだのかと疑問を呈される方がおられるかもしれない。実際に本書を手にしたのは、ペンギン・ブックスとして刊行された1977年(ハードカヴァー版は75年)、イギリスにおいてであった。すでに30年近い前のことである。当時、警官、消防夫などの市民の安全を守る公務員の団結権、団体交渉権、争議権などが、大きな問題となっていた。半ば職業上の関心の延長?として手に取った。しかし、「事実は小説より奇なり」で読み出すと、たちまち引き込まれた。しかし、30年後に再びこんな形で思い出すことになるとは、考えもしなかった。

  警察官という公共部門の労働者が、争議行為に入るという出来事がいかなる対応と結果を生んだかという興味深い事例である(ちなみに、日本では警察官、消防士、刑務官、自衛官などの団結権、団体交渉権は認められていない)。彼らの労働条件はいかにして維持・改善されるのか。人手不足が深刻化する今後、問題が新たな形で再燃する可能性は高い。事件はおよそ90年前のこととはいえ、今日との距離はきわめて近い。

目次
Contents:

A Personal Recollection
The Year of Disillusion
The Bosteon Police Department
Overture to a Strike
Summer's End in Boston
On a Tuesday in September
The Riots
Law and Order
After the Strike
The Ghost of Ccollay Square
Postscript in baltimore

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ロッテルダムの灯:東京の灯

2008年09月25日 | 書棚の片隅から

 
  インターネット世界から離れた日を過ごしている間、束縛されていた思考の活動が解き放たれるのか、普段なら予想もしていないようなことが浮かび上がってきた。思考の世界はいつの間にか北方ヨーロッパへ移り、17世紀オランダの画家の軌跡を追っていた。アムステルダム、ハールレム、レイデン、ロッテルダム、ハーグ、デルフトなど、懐かしい地名が去来する。
  
  ロッテルダムという地名が、一人の作家の作品を思い出させた。庄野英二「ロッテルダムの灯」という短いエッセイである。

  この児童文学作家の作品は、いつとはなしに好んで読むもののひとつとなっていた。作家の経歴については、あまり関心を抱いていなかったが、その後ふとした折に、作品に添えられた著者自筆の年譜を見て、いくつか驚いたことがあった。時代は異なるが、なんとなく心の遍歴を共有するような部分を見いだしたためである。

  
庄野英二は1915年(大正4年)、山口県萩町に生まれ、戦時中は俘虜収容所員として、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、マレーシアなどを転々と移動し、戦後は大学教員をしながら創作活動を続けた。1993年没。芥川賞作家の庄野潤三氏は弟。

  「ロッテルダムの灯」(1959年)は、作家の小さな旅の一齣を描いた小品である。サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たした年、この作家はヨーロッパへの旅に出た。当時のBOAC機の機内で、朝鮮戦争で負傷し、入院していた東京のアメリカ陸軍病院からイギリスへ戻る兵士に出会う。この兵士は朝鮮における戦闘のことも、又どのようにして朝鮮へ行ったかも全然記憶を失っていて思い出せない。そして、わずかに「私が最後にたったひとつだけ覚えていることは、軍用船の甲板の上からロッテルダムの港の灯を眺めたことです」と答えている。

  作品には、「ロッテルダムの灯」が、実際にいかなる光景であるかも、まったく出てこない。それどころか、エッセイはこの帰還兵士の言葉の後、トルコの山々を機内から望むところで短く終わっている。

  ロッテルダムへは何度か旅したことがある。港近くのホテルへ泊まり、大きな貨物船やタンカーが出入りする光景を眺めた時もあった。EU最大の貿易港としてユーロ・ポートとも呼ばれたこの港は、昼夜を分かたず、繁忙をきわめていた。しかし、庄野の作品は、読んでいたにもかかわらず、ロッテルダムの港の灯という場面を特に意識したことはなかった。多分、目前の仕事に追われて、回想する余裕がなかったのだろう。

  しかし、今回は新たな回想の連鎖が生まれた。かつて、アメリカで学業生活を送っていた頃、寄宿舎の隣室に朝鮮戦争から帰還し、ヴェテラン(退役軍人)
に準備された奨学制度で、大学院へ来ていた学生 J がいた。このことは以前に少し記したことがある。生物学を専攻する学生だった。除隊後、帰国し、中西部の実家でしばらく休養の年月を過ごした後、大学へ入り直したという。

  30代も半ば近く、落ち着いていて、時々、日本の思い出などを話し合った。日本からの留学生は少なく、珍しかった時代でもあり、Jはアメリカ人学生よりも、私に親しみを感じたようだった。彼にとっては、生まれて初めて見た外国が戦場の朝鮮半島であり、後方兵站基地の日本だった。殺伐とした戦場からしばらく休暇をもらって東京などで過ごす時間は、天国のように思えたという。J は、
陽気なアメリカ人学生とは異なり、寡黙で、どことなく心に影を背負っているような印象を受けていた。時々、キャンパスの芝生に、ぽつねんと座っているのを見かけたことがあった。

  Jは、やはり大きな悩みを持っていた。多感な青年期に徴兵され、陸軍兵士として朝鮮に派遣された彼は、生まれて初めて銃を手にし、敵と対峙したという。その経験はトラウマとして残り、時々、夜中に自ら気づくことなく目覚め、夢と現実が区分できなくなり徘徊するという。ヴェトナム戦争はアメリカの敗色濃く、反戦運動が急速に高まっていた。

  Jの目に東京の灯はどんなに映ったのだろう。聞くこともなく、年月だけが過ぎた。
     

 

庄野英二『ロッテルダムの灯』講談社文庫、昭和49(1974)年(私家判、レグホン社、1960年

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スポーツは政治不安のバロメーター?

2008年09月22日 | 回想のアメリカ

  




  スポーツに人気が集まるのは、国民が政治に失望し、関心を失っていることのバロメーターではないかと、半ば本気で考えてしまう。北京五輪まではと、国内のさまざまな不満を抑圧してきた中国政府も、いまや環境、食品問題を始めとして、国内外の不満・不信の高まりに防戦一方だ。為政者が国民の批判をそらすために、スポーツを政治的に利用した例は枚挙にいとまがない。

  こうした関係が明白ではないにしても、政治や社会が不安定で、激動しているにもかかわらず、さまざまなスポーツが人気を集め、活発に興隆していた時代もある。人々が生活の苦しさ、鬱積した不満などを、ささやかな楽しみにまぎらわしていたともいえる。 アメリカの大リーグの草創期がそのひとつだ。国民的英雄となったベーブルースが活躍していた時期、1910年代、大恐慌前の時代である。

  この時代のひとつのモニュメンタルな事件を扱った歴史小説*を読んだ。 1919年、ボストン市警の警官たちが、劣悪な労働条件、低賃金に耐えかねて、組合を組織し、AFL(American Federation of Labor、アメリカ労働総同盟)に加盟し、ストライキに突入する事件を主題としている。アメリカ労働運動史上、よく知られた出来事だが、しばらく忘れていた。

  この年、ボストン市民の安全を守る警官が、突如として一斉争議に入った。きっかけは、当時のボストン市警本部長エドウィン・カーティスが、警官の組合がAFLからの指示で活動するようになると思いこみ、命令を聞かない警部を解雇したことから、警官たちはストへ突入する。市側の対応もできていなかったため、市民生活は大混乱となり、暴動、略奪などが横行し、恐怖が溢れた不穏な状況を生み出した。

  当時のマサチュセッツ州知事カルヴァン・クーリッジは、「誰にも、どこに於いても、いついかなるときも、公の安全に対するストライキの権利はない」と、AFLのサミュエル・ゴンパースに電報を送った#と伝えられ、一躍大衆的人気を集め、1923年、アメリカ合衆国大統領となった。ストを行った警部たちは解雇され、アメリカ労働運動史上、公益性を持つ分野で働く労働者にとっては最初の弔鐘となった。

  20世紀初頭から大恐慌突入までの時期は、アメリカ国民ばかりでなく、世界にかなりよく知られている、きわめてドラマティックな時代であった。今回のアメリカ発の金融危機は、グリーンスパン前FRB委員長が「1世紀に一回あるかないかの危機」と評したと言われるが、この大恐慌を念頭に置いていることはいうまでもない。

  金融関係者ならずとも誰もが思い浮かべる世界的大恐慌、1929年10月の「暗黒の金曜日」に始まり、第二次大戦突入にいたる恐慌前後の時期は、波瀾万丈、手に汗握るような時代であった。

  恐慌前のアメリカ、ふたつの世界大戦に挟まれた時期が興味深い。とりわけ、労働運動の分野で歴史に残る労働災害事件、労使対立の激化が見られた。1911年ニューヨークで、トライアングル・ファイア事件、1912年にはタイタニックが処女航海の途上で沈没、1918年、第一次世界大戦終結、1919年には第3インターナショナル(コミンテルン)が成立、ロシアではボルシェヴィキ政権の成功が、アメリカの政治家たちを不安にさせていた。1919年にはボストンで米国産業アルコール社の糖蜜タンク爆発、市警スト勃発、禁酒法が施行された。社会的不安が鬱屈、醸成されていたようだ。


  さて、この小説にはアメリカの国民的英雄ベーブルースが、いわば舞台回しのような役割を担って登場してくる。大リーグの野球というものが、当時どの程度のものであったのかを知ることもでき、大変興味深い。偶然とはいえ、本日でニューヨークのヤンキースタディアムは、老朽化に抗しがたく、86年の歴史を閉じる。球場は閉鎖されるため、最後の記念試合(ヤンキーズ対オリオールズ)が行われている。ちなみに、この球場での第一号ホームランは、ベーブルースが打った。

  この時代に起きたさまざまな出来事は、後に振り返ってみると小説以上に面白い。アメリカが生き生きと躍動していた時代であった。日本では、その題名も分かりにくく人気も盛り上がりを欠いたが、ニュー・ディール期を扱った映画「クレイドル・ウイル・ロック」とも通じるところがある。他方、デニス・ルヘインの手になる本書は歴史小説ではあるが、この映画と同様に多くの実在した人物が登場してくる。草創期アメリカ資本主義の息吹きを感じるには、格好な読み物かもしれない(この時代の輪郭を抑えていないと、読みにくく、抵抗を感じる読者もいるかもしれない)。

  ボストン市警ストが警官側の敗北に終わった後、人気が出て共和党政権で副大統領であったカルヴァン・クーリッジが、突然のハーディング大統領の死去で大統領職務代行者としての宣誓をした家は、電気、電話もなかったという。当時と比較して、今日まで確かに生活条件は大幅に改善・向上したとはいえ、人間社会として進歩しているのか、考え込んでしまう。少なくとも、この時代、人々は真正面から現実に対し真剣に生きていた。その行動は今からみれば粗野、粗暴に感じられる点も多いが、少なくも今日の世相に見るような「正気でない」時代ではなかった。

  次に起こることはなにか。アメリカ資本主義の生成期に立ち戻り、時代の先を考える材料を与えてくれる興味深い一冊だ。




#
 "There is no right to strike against the public safety by anyone, anywhere, any time.
 " 
 Telegram from Governor Calvin Coolidge to Samuel Gompers September 15, 1919.  


References

Russell, francis. A City in Terror: The 1919 Boston Police Strike. New York: Viking, 1975.
この事件の全容を知ることができる格好な一冊。

Fogelson, Robert M. ed. The Boston Police Strike: Two Reports. New York: Arno, 1971.

Harrison, Leonard V. Police Administration in Boston. Cambridge, M.A.: Harvard University Press, 1934.

 Dennis Lehane. The Given Day. 2008
.(デニス・ルヘイン、加賀山卓朗訳『運命の日』上、下、早川書房、2008年)
なお、この作品は現在、映画化が進行中。

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遠くインターネットを離れて

2008年09月20日 | 午後のティールーム

  インターネット環境のない場所で数日を過ごす。終日、ケータイも使わず、キーボードにも触れずにいる時間というのは、不思議な感じがする。最初は多少の不安もあったが、しばらくすると脳細胞に酸素が注入されているような気持ちになってきた。頭脳に清爽感が戻ってきたような感覚だ。大げさに言えば、ITという見えない「ビッグ・ブラザー」にどこかで支配されていたような世界からすっきりと抜け出たような感じかもしれない。今まですっかり忘れていたようなことを次々と思い出した。きっかけは新聞という文字情報からだが、そのひとつ。

  マリナーズのイチロー外野手が、大リーグ8年連続200安打達成という快挙を知る。この記録が生まれたのはなんと1901年、イチローがシアトル・マリナーズでデビューするちょうど100年前だそうだ。大リーグはまだ創生期の頃だったと知って改めて驚く。ナショナル・リーグにいたウイリー・キーラー外野手が達成したとのこと。たまたま、手元にあって読んでいた新刊の一冊が、1910年代末、アメリカ連邦禁酒法施行前の時代のある大きな社会的出来事をとりあげ、その過程でベーブルースを主要な人物として登場させていたので、色々な連鎖反応が働いた(さて、何の本でしょう。答はいずれブログに登場させますが。)

  アメリカの野球について多少でも関心を持つ人は、ベーブルースはご存知だろう。さすがに映像や写真などでしか見たことがないが、少し時代は下るが、往年のニューヨーク・ヤンキースの名捕手ヨギ・ベラと握手したことを思い出した。不思議なことに、今回のアメリカのサブプライム問題にかかわる金融危機と重なって記憶が戻ってきたのだが、かつてニューヨークにマニュファクチャラーズ・ハノーヴァー・トラスト Manufacturers Hanover Trust という銀行(後にケミカル・バンクとなる)があった。この銀行は、当時アメリカ3大自動車メーカーであったクライスラー社の主力銀行としても知られていた。

  ある縁で当時の会長Mc氏の新年パーティに招いてもらったことがあった。ニュージャージーの邸宅であった。何百人お客が来ても収容できそうな大邸宅であったのを記憶している。事実、パーティは新年の賀詞を交わす人たちで列をなしていた。アメリカでも当時は、有名人は私邸でこうした新年パーティを開催していたのだ。(いかなる人たちが来ていたか、その光景もアメリカ社会史の一齣として大変興味深かったのだが、とりあえず先を急ぐ。)

  たまたまヨギ・ベラ選手も来ておられ、スポーツマンの友人は大喜びで握手を求め、ついでに便乗したにすぎないのだが。当時はニューヨーク・ヤンキースで活躍中だった。とにかくすごい腕の太さと手のひらであったことだけが印象に残っていた。ヨギ・ベラさんは現在83歳でお元気でおられるようだ。

  Mc氏は1981年に亡くなられたが、対米中にかなり詳しく経歴についての話をお聞きしたことがあった。南部の小さな町の銀行窓口係りとして、銀行員生活に入り、当時アメリカを代表した大銀行の頭取・会長まで昇進した同氏の経歴は、当時日本で「常識化」して流布されていた日本の労働市場は「終身雇用」、アメリカは「横断的」という話がいかに虚構に満ちたものであるかを迫力をもって示してくれた。インタビューに応じてくれた同氏のスタッフのほとんどが内部昇進で長年同行に勤務していた。この事実は、その後の他企業の調査でさまざまに確認された。

  話は飛ぶが、ワーキング・プアを初めとする近年の日本の議論を見ていると、日本はまた大きな誤りを犯したという思いがする。市場メカニズムの限界を正しく見ることなく信奉し、労働市場の健全な部分まで破壊してしまったのだ。一度、壊れた仕組みをあるべき姿に戻すのは至難なことだ。

    Mc氏はアメリカの銀行合併と連邦反トラスト法の関係においても、その第一線で活躍した人物だった。今回の危機でのリーマン・ブラザースのあっけない破綻に象徴されるように、いとも容易にアメリカを代表する大金融機関が破綻、合併、買収されてゆく金融危機の淵源を見たような思いもした。

  ひとつの新聞記事が次々と埋もれていた記憶を呼び起こしてくれることには、少なからず驚かされた。いずれ、その一部を記すこともあるだろう。IT環境を離れることも、時には見えない糸でがんじがらめのような現代人の頭脳を解放し、別の思索を引き出す上で、重要なことを十二分に知らせてくれた。

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レンブラントのユダヤ人

2008年09月10日 | レンブラントの部屋

  

 
レンブラントに関する書籍は、この画家だけを直接に対象としたものに限っても優に数百冊を越えるといわれる。17世紀ヨーロッパ美術界に傑出する偉大な画家だから、当然だろう。その中で近年出版された作品で、暇が出来たらぜひ読みたいと思っていた数冊があった。例のごとく片隅に積んでおいたのだが、実際に読むとなるとそれなりの覚悟がいる作品だけに、レンブラント関連だけでも手つかずに残っていたものが10冊近くあった。時々開いてはまとまった時間ができたらと、自分に言い訳をしていた。しかし、月日は待ってくれない。そろそろと思っていたところ、翻訳書が刊行されたものも出てきた。

    そのひとつが、Steven Nadler. Rembrandt's Jews. University of Chicago Press, 2004.*である。最初に、今後の読者のために、この翻訳書に付された有木宏二氏の「訳者まえがき」は、通常の書籍のまえがきの域をはるかに超え、レンブラントならびに本書を理解するに、要を得て、きわめて適切な手引きとなっていることを付け加えておきたい。訳文もこなれていて読みやすい。

  本書は、2004年ピュリツァー賞ノンフィクション部門の最終候補にまで残った作品なので、レヴェルも高い。それだけに、安易に読める作品ではない。しかし、読み始めたらたちまちにして深く引き込まれた。中身の濃い充実した作品なので、一部分だけをメモ代わりに記す。

「ユダヤ人問題」
  レンブラントの作品の中には、ユダヤ人を描いたり、題材としたものが多く、それをめぐって、俗に「ユダヤ人問題」The Jewish Connection という固有の問題群が設定されてきた。ユダヤ人は、レンブラント がさまざまな折に画題として断続的に取り上げてきた対象であったし、画家は当時のオランダ社会に生きるユダヤ人と多くの交友もあった。本書はその問題に正面から対峙した本格書である。

  レンブラントに関心を抱いて以来、17世紀のオランダ黄金時代において、カルヴィニズムを基本とするプロテスタント教国として独立し、意気軒昂なこの国にあって、カトリック、ユダヤ教徒などの異教徒はいかなる状況に置かれていたのかという疑問は常にあった。オランダ人の友人などとの会話から、少しずつイメージは蓄積されてきたのだが、深部において不明な点が残っていた。カトリック教徒の問題は、今回は触れないが、これもきわめて興味深いテーマである。

  レンブラントは愛妻サスキアとの結婚後、一時期の仮住まいの後、1639-1658年の約20年間を念願のシント=アントニス・ブレーストラート(ユダヤ人大通り)4番地の豪華で美しい家に住んだ。しかし、画家はこの時に借り入れた負債を、ついに生涯返済することはできなかった。隣家はアイレンブルフ(サスキアの叔父、画商)邸であった。

  画家の前半生は仕事と名声に満ちていた。しかし、大作「夜警」の制作後、画家の運命は急速に逆境への道を転がり始めた。この著名な画家は、次々と不幸な出来事を経験する。作品も売れなくなり、1656年にはついに破産し、思い出多い豪邸を競売に付すまでに追い詰められた。そして、これもユダヤ人の多いローゼンフラフト通りの家へ転居することになった。この顛末については、ブログで少し記したこともあった。(蛇足ながら、本書の読者はできれば、アムステルダムの地図を傍らに本書をひもどかれると、臨場感が高まるだろう。本書にも簡単な地図は収録されている。この都市に普通の旅行者よりはながらく滞在した筆者にとっても、追憶の旅をたどるような懐かしさがそこにあった。)

オランダ共和国の成立
  オランダ史をたどると、スペインとの激しい戦いに明け暮れた16世紀、ネーデルランド独立の気運は急速に高まり、1579年、南部のフランドルとブラバンド両州、ならびに北部7州は、「ユトレヒト同盟」を結び合い、2年後の1581年、北部7州のみが一方的にスペインから独立を宣言した。北部7州と南部はここに決定的な分裂をし、北部7州はオランダ共和国としてひとつの国家となった。

  こうした苦難な道は、敵対したスペイン側も例外ではなかった。ここでは、とりわけユダヤ人問題に焦点を当てる。1492年のコロンブスの新大陸発見後のスペインにおいて、ユダヤ教徒に対するカトリックへの強制的な改宗が行われた。その過程で多くのユダヤ人の間に表面的なカトリックを装うだけの改宗ユダヤ人「マラーノ」を生むことになった。

  この政策は、形だけのカトリック教徒への改宗ではないかとの猜疑心を生み、大審問官トルケマーダの指揮による異端審判所が恐怖の活動を展開する。まさに異端者を焼き尽くす恐怖のきわみである。異端審問所は実に1834年まで続いた。ゴヤの描いた不気味な作品群を想起されたい。そして、この恐怖は隣国ポルトガルへも波及し、イベリア半島を覆い尽くした。

「セファルディ」と「アシュケナージ」
  かくして、ここにおいても安住の地を失ったユダヤ人は、イベリア半島から交戦の相手国であるオランダへと逃避をはかる。彼らは「セファルディ」(ポルトガル系ユダヤ人)と呼ばれ、オランダ人のような身なりをして、オランダ風の名前をつけ、オランダ社会に定着・浸透を図った。1620年代半ばまでは、アムステルダムのユダヤ人といえば、このポルトガル系ユダヤ人であった。

  他方、「セファルディ」とは別の範疇に含められる「ユダヤ人」が。主として東欧やイタリアなどからオランダへ流入する。彼らは「アシュケナージ」(ゲルマン地方を意味するヘブライ語「アシュケナズ」Ashkenaz に由来するが、より一般的に、東ヨーロッパ全土のユダヤ人を指す)と呼ばれていた。17世紀前半のオランダは黄金時代を迎え、一定の社会的寛容さも醸成されていたのだろう。彼らユダヤ人はその経済力を背景に次第に発言力を増し、ユダヤ教の信仰の自由をオランダ政府に要求し、遂にはそれを認めさせるにいたる。

  アムステルダムには、「セファルディ」そして「アシュケナージ」のシナゴーグ(ユダヤ教の教会)が多数建設される。レンブラントがアムステルダムへ移住し、活動を開始したのはまさにこの頃であった。その光景は、ピーター・サーンレダムやエマニュエル・ド・ウイッテによって、描き出されている。

  1620年代までは安定していた社会風土は、1630年代に入ると、にわかに急変する。あの「
30年戦争」(1618~1648年)が中央ヨーロッパを荒廃させ、多くのユダヤ人がほとんど唯一の逃避地となっていたオランダに難を避けるようになっていた。

ナチスにつながる問題
  レンブラントは、17世紀だけの著名画家ではない。とりわけ、そのユダヤ人とのかかわりは、今日まで続く時代のさまざまな折に、画家の意思を超越した問題の核となってきた。なかでも、ナチスとの関連は無視できない。レンブラントはドイツ人でもなく、オランダの生んだ最高の画家であったが、さらにユダヤ人と深く関わっていた。それだけに、レンブラントの「ユダヤ人」問題は、淵源が深い。「アンネ・フランクの日記」にも関わる問題である。

  レンブラントとユダヤ人は実際にいかなる関係に立っていたのか。当時、オランダ人は、ユダヤ人と関わり合うことを避ける傾向にあった。しかし、ユダヤ人の経済力その他の点で強制排除することもしなかった。オランダ人の実利的な国民性の反映でもあろう。

  レンブラントがアムステルダムで定めた住居は、いずれもユダヤ人が多い地域であった。しかし、レンブラントは自らの意思で、ことさらユダヤ人が多い地域を選んだわけではなかったようだ。レンブラントの初期の師匠ラストマンも、愛妻サスキアの叔父の画商アイレンブルフもユダヤ人ではないが、ここに住んでいた。レンブラントは特にユダヤ人居住区というよりも、自らの画業に最も適した場所を選んだのだ。豊かな富に恵まれたパトロンに不足しない地域でもあった。

  しかし、画家はそれらの事情を超えて、他の画家よりもユダヤ人にはるかに強く関心を抱いていた。他方、レンブラントの関心の対象であったユダヤ人などの異民族は、この時代のオランダ社会においてはきわめて不安定な状況の中で過ごしていた。その具体的な事情は、本書にこと細かく描かれている。

「永遠の魂」にかかわる問題
  プロテスタント宗教改革は、厳しくユダヤ教に対した。とりわけ、ルター派がそうであった。しかし、プロテスタント学者は、基本的に聖書原典の詳細な研究を強調した。彼らにはユダヤ教を排除することはできない背景があった。17世紀アムステルダムでは、ユダヤ人とキリスト教徒の間には密接なつながりがあった。
 
  17世紀オランダでは、ラビ(ユダヤ教の教師にして共同体の助言者)によって「永遠の魂」に関する著作が多数書かれた。たとえば、有名なラビ、メナッセ・ベン・イスラエル Menasseh ben Israel は、26冊の書籍を6ヶ国語で著し、最初のヘブライ語の出版社をアムステルダムに設立している。そして、イングランドへのユダヤ人受け入れの支援者でもあり、アムステルダムのユダヤ人コミュニティの主導者の一人だった。彼もレンブラント邸の近くに住んでいた。二人の交友は深く、後に記すように、特記すべきものがあった。

  とりわけイベリア半島において、強圧の下とはいえユダヤ教を棄て、罪を背負ったユダヤ人とその末裔たちにとって、彼らの魂が肉体の死後救われるのかという問題は、なによりも重要な問題であった。あの哲学者スピノザは、改宗ユダヤ人の末裔であったが、その思想によって、ユダヤ人共同体から永久に追放された。スピノザもレンブラント邸に近いブロックに住んでいた。

  この「永遠の魂」にかかわる動きは、1665年、サバタイ・ツェヴィという名の偽のメシアの到来が、ヨーロッパならびに中東地域におけるユダヤ人をかつてない熱狂の渦に巻き込んだことで過熱した。改宗ユダヤ人は、メシアの到来による魂の救済を真に渇望していた。

  そして、このメシアへの渇望は、キリスト教世界にも広がった。キリスト教の改宗主義者は、ユダヤ人がその信仰の過ちを悔い改め、キリスト教に改宗すれ
ば、救世主キリストの復活が早期に実現するという千年王国待望論を抱いていた。そこにはキリスト教徒としての千年王国への期待と、他方でのユダヤ教ととしてのメシアへの渇望のふたつが存在していたとみられる。同時代の画家でも、レンブラントとフェルメールを分け隔てる精神的根源は、ここに求められる。

  この時期に生きた画家レンブラントは、ユダヤ教のラビメナッセ・ベン・イスラエルと親交を結び、名作『ベルシャツァルの宴』Belshazaar's Feast (ca.1635)、『書斎の学者』などを制作することができた。レンブラントの作品は時にかなり粗放に描かれたように見えるものがある。実際、そうした作品もある。

  しかし、レンブラントの作品に対する時、見る者はそれがいかなる情景を描いたものであるかについて深く考えさせられる。とりわけ、多くの日本人のように異教の徒にとっては、描かれたテーマの真意を推測することに著しい努力を必要とさせられるものがかなりある。画家がいかなる発想の下に、時に必要な文献を読み、なにを考えて描いたかという点について、安易な姿勢では到底理解できない深みがある(この問題については、いずれ記すこともあろう)。別に、フェルメールを批判しているわけではないのだが、波風少ない、平和な市民生活の一瞬の美しさを描いたフェルメールの作品とは、根本的に異なっている。

  終章近く、1657年11月、メナッセ・ベン・イスラエルが世を去り、アムステルダムに運ばれた亡骸が、アウデルケルクに埋葬されるくだりがある。アムステルダムのユダヤ人共同体のほとんどの人々が、この高い学識と異教間の相互理解を支えてきた志し高き人物を悼み、最後の尊敬を示すべく姿を見せていた。しかし、さまざまな理由でその場に姿を見せることが出来なかった者もいた。バルーフ・デ・スピノザは、亡きラビの生徒であったが、臨席できなかったと思われる。

  そして、レンブラント。この偉大な画家の姿は墓地には見られなかったのではないか。あるいは密かに片隅に立っていたのかもしれないが。画家は貧窮のどん底にあり、残っていた財産の売却がその月の後半に行われることになっていた。心身ともに打ちのめされた時を過ごしていたに違いない。メナッセはレンブラントの芸術活動において深く心を通わせた旧き友であった。レンブラントはその時、どこにいて、なにを思っていたのだろうか。

  本書は決して軽く読める書籍ではない。川の流れに急流、淀みがあるように、本書にはさまざまな緩急がある。緩やかな流れに来ると、読者はあのアムステルダムの光景の中に、一人の歩行者としているような錯覚にとらわれる。しかし、激流では必死に流されまいと居住まいを正し、著者、そしてレンブラントと対峙することを迫られる。久しぶりに充実感を覚えた一冊であった。


目次(翻訳書)
訳者まえがきーーレンブラントの影の中でーー17世紀オランダ絵画とユダヤ人ーー

一章 「ブレーストラート」で
二章 破戒の図像
三章 悲運のラビ
四章 「エスノガ」
五章 来るべき世界

訳者 あとがき
参考文献 


*

Steven Nadler. Rembrandt's Jews. University of Chicago Press, 2004.
スティーヴン・ナドラー(有木宏二訳)『レンブラントのユダヤ人 物語・形象・魂』人文書館、2008年。

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子供の声が聞こえる空間

2008年09月07日 | 雑記帳の欄外

    週末の夕刻、健康維持の意味も兼ねて、近くをサイクリングする。この数年、明らかに変わってきた光景がある。散歩やエクササイズをする人たちの数が増えてきたことである。健康志向の生活スタイルは歓迎すべきだが、圧倒的に高齢者だ。杖をついてゆっくり歩いている人も多い。孤独な影が濃く、斜陽の道を下る日本の姿が見え隠れする。

    他方、公園などで子供たちが元気に遊ぶ空間は、生き生きとしている。ボールを蹴り、走り回る。にぎやかな笑い声が響き、見ている方も楽しくなる。子供たちはこれからの社会にとって宝物的存在だ。

  高齢者と同時に、目につくようになったのは、ペット、とりわけ犬に散歩をさせている人々の姿だ。犬に連れられて歩いているようなお年寄りの姿も目立つ。かつてのように犬が元気に人を引っ張ってゆく光景は少なくなった。犬も飼い主に合わせてゆっくりと歩いている。犬も人間も活力が乏しい。

  日本の2006年時点での推計飼育数犬は、6245万頭、他方、猫は55万匹だそうだが、全人口のほぼ18%に相当する。空前のペットブームといわれるが、動物に癒しを求め、孤独に老後を生きる姿はさびしい。

  子供の育て方を知っている高齢者の力を借りて、元気な赤ちゃんや子供の声が聞こえる地域再生ができないものか。高齢者も子供も一緒に過ごせる新しいタイプのデイケア・センターなどが増やせないものだろうか。心豊かに日々を過ごせる社会の実現。身近なところから考えたい。

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EU第一の人口大国は

2008年09月06日 | 移民政策を追って

  
  落日の色濃い日本の姿を見ながら、この国の将来を考える。といっても、自分は存在しない先きの時代のことなのだが、なんとなく気になる。そんな時に、EUの人口の今後を推定した小さな記事に出会った*。人口は国力を定める大きな要因のひとつだ。とりわけ、イギリスの今後に焦点が置かれている。同じ島国として似ている部分もあるので、これを材料に少し考えてみた。

  2060年、ほぼ50年先のEU諸国の中で、最大の人口を擁する国はどこだろう。人口の大きさが国のステイタスを定める重要な一因になるとなれば、政治家たちも関心を抱かざるを得ない。最近発表されたEurostatの予測では、どうやらイギリスらしい。現在の人口6100万人が7700万人くらいまで増加すると予想されている。現在、最大の人口を擁しているドイツは、8200万人の人口だが、今後減少し7100万人くらいになると推定されている。日本はこのままでは、ドイツよりも小さくなるかもしれない。
 
  イギリスの人口が増加する背景は、主として移民の増加と出生率の増加(その多くは移民の経済力が支え)が要因とされている。人口の増加ばかりでなく、人口の若さという点でもイギリスはEU平均よりも突出するようだ。65歳以上の人口は16%から25%へ増加するが、それでも若年者比率は、EU内部ではルクセンブルグに次ぐ低い率とのこと。したがって、他のEU加盟国よりも社会保障負担も少なくてすむと考えられている。イギリスは活力が生まれ、住みやすくなりそうだが、海外への人口流出も大きくなっている。北欧、フランス、スイスなども、適度な人口増加が期待され、全般にイタリア、中・東欧諸国が停滞気味だ。

2008-2060年のEU諸国の人口変化


Source: Eurostat, quoted by The Economist

  イギリスのメディアで最近、話題となっていたことは、中・東欧からの移民の増加であった。2004年に中・東欧8カ国が拡大EUへ加盟して以来、100万人を越える移民労働者がイギリスへ入国した。これまで長短あわせて何回かイギリスに滞在したが、いたるところで外国人が増えたことを感じたし、彼らの出身国も変わってきていることに強い印象を受けた。

    移民問題専門家のジョン・サルト(ロンドン、ユニヴァシティ・カレッジ)教授によると、その規模はイギリスの歴史上最大とされる(もっとも、人口比では17世紀のユグノーの流入の方が大きかったかもしれない)。とりわけ、ポーランド人は移民入国者の3分の2に達している。そして、その数においても、イギリスの外国人数としても、第一位になっている。5年前は13位だった。スーパーマーケットのTESCOの広告に、ポーランド語が出るようになった。

    しかし、看護,建築など従来ポーランド人が多かった職業分野は次第に空きがなくなっており、他方母国ポーランドの経済発展によって本国で、人手が足りなくなってきた。こうした事情を背景に、2008年になって、ポーランドからの入国者数も顕著に減少を見せ始めた。他方、公式の統計は得られないが、イギリスからの出国者数は増えているとみられる。年間の出入国数ではすでに出国者が入国者を上回っていると推定される。ポーランドは、自国の経済力がつくまでの移行期間を巧みに海外出稼ぎで補填した。

    1950年代以降イギリスへの移民流入はアフリカ、カリブ海、南アジアが主だったので、最近の移民の状況は大きく変わった。白人の比率が増加し、それも貧困者が増え、イギリスへ来る移民労働者の動機は経済的なものへと変わった。

    航空機運賃の低下などもあって、イギリスへの移民は以前より容易になった。そのため、イギリスとポーランドを行ったり来たりする者も増えた。東欧からの労働者はいずれ帰国する者が多いが、その他の国からの労働者は移民として定住する可能性が高くなった。

  彼らが働く地域や職業も次第に特定地域へ集中するようになってきた。東欧諸国からの労働者は湖水地方の看護施設、イースト・イングランドの農場、スコットランドの魚介類加工工場、チャンネル・アイランドのゲスト・ハウスなどで働くことになった。ロンドンに住むのは21%。他の国からの労働者は41%がロンドンに住む。集住の態様がかなり異なっている。

  帰国していくポーランド人に代わりうるのは、2003年からイギリスで自由に働けるルーマニア、ブルガリア人などだが、すでにイタリア、スペインなどで多数が働いており、イギリスへ方向転換してくる可能性はさほど高くない。さらに、他のEU諸国も2004年よりも開放的な入管政策を採用している。

  統計上の予測は、イギリスの人口増を告げているが、現実にイギリスが移民に魅力ある国として留まりうるかは、答えが出ていない。ひとつの特徴は、入国者も多いが出国者も多いという流動型社会だ。イギリス人が出て行って、外国人がはいってくるとも言われる。それも、中国、スリランカ、フィリピンなど、遠い諸国からの流入が増えよう。確かに、ロンドンなどの大都市をみるかぎり、30年ほど前と比較すると、町は見違えるように活性化している。ロンドン5輪に向けて、イギリスの変わり方は注目を呼ぶだろう。

  将来を考えることをあきらめたような日本だが、このままでは人口減少は避けがたく、国力の衰退は必至だ。中国大陸に張り付いたような、特色のない小国へとじりじりと追い込まれていきそうだ。国民が希望を持てるような政策構想とその具体的提案が、新政権がなすべき最重要課題だ。



References
'Poles depart' The Economist August 30th 2008
'Multiplying and arrivingThe Economist August 30th 2008'

 

コメント (2)
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アメリカ・メキシコ国境の裏側

2008年09月04日 | 移民政策を追って

  アメリカの民主・共和両党の大会を見て、アメリカの活力をうらやましく思った。民主・共和両党ともに副大統領候補は、予想外の選択となった。バランス感覚と決断は素晴らしい。民主党大会でのケネディ上院議員の演説には感銘した。脳腫瘍に罹患していながらも、次代に灯を託す仕事をしっかりとなしとげた。マッケイン共和党大統領候補との連携による包括的移民法への努力は実を結ばなかったが、ケネディ議員はこれまでの議会活動においても、アメリカの将来を見据えた構想の大きな、立派な業績を残してきた(私は「客観的にものが見える」と、投げ出した方とは大違いだ)。ケネディ議員にとっては、この大会が最後なのだろうか。

    あらゆることが新大統領の決定待ちになっているアメリカだが、ひとつだけ進行していることがある。アメリカ・メキシコ国境の障壁強化という措置である。両国を隔てるおよそ700マイル(1,100km)の国境に障壁を設置、強化するという大工事をなんとか完成させねばならない。

  しかし、ワシントンの官僚や議員たちが考えるイメージと現実の姿は、大きく異なっている。 メキシコとアメリカの関係は、長い歴史的経過の中で、複雑な様相を呈してきた。国境に近接する地域の中には、国境は実質無いに等しい状況もある。地域によっては、両国の人々は国境の存在などをほとんど意識することなく、日常生活で自由に行き来している。環境保護団体が障壁は、動植物の移動などを制約し、生態系を毀損するとして法的対抗手段をとっている所もある。こうしたところへ障壁を建てれば、当然新たな問題が生まれる。

  メキシコ側からの越境者については、国境を越えるだけで彼らの生活が改善されることの魅力はいかんともしがたい。他方、アメリカ側には農業、商業サービスなど移民労働者(多くは入国必要書類不保持の越境者)に頼らざるをえない産業がすっかり根を下ろしている。この需給双方に強い圧力がある状況を物理的障壁だけで遮断することは、ほとんど不可能に近い。日本のような島国と違って、アメリカ・メキシコのような長い国境線を持っている国にとっての宿命である。

  特に、関係者の間でも十分実態が掌握されていないが、両国にとって重要な問題となっているのは、人の移動に伴う麻薬などの密貿易、犯罪の横行だ。南部諸州の国境近接地域を訪れると、単なる出入国管理という次元を超えた複雑怪奇な実態を聞かされる。かつて10年ほど前、日米比較調査を実施した頃から大きな問題となっていた。これらの点は、これまでにもしばしば指摘されながらも、議会など政治レベルでは十分に理解されてこなかった。テキサスなどの一部には国境自体の存在を無用とする考えの持ち主も多い。歴史的経緯からアメリカ・メキシコ戦争でアメリカが獲得した地域をメキシコに返還せよとの主張すらある。

  麻薬密貿易は、メキシコの密売グループに600億ドル近い利益をもたらすとの推定もある。しかし、レームダック化したブッシュ政権は認識が浅く、実行力を失っている。メキシコ政府は、アメリカ側の国境近接の都市などでマフィアが強大な勢力をふるい、ほとんど無政府状態になっていることについて、取締り強化を要請してきた。しかし、ほとんど実効が上がっていない。

  ブッシュ政権は、700マイルの障壁が不法越境者の阻止、犯罪防止に効果を発揮するとしているが、関係者の間には麻薬の80%近くは、国境の正規のチェックポイントを偽装した貨物などの形で通過しており、取り締まりの重点強化で、かなり実効が期待できるとの主張も強い。麻薬貿易、国境犯罪の横行など、移民政策は単なる国境管理を越える次元を包括することになる。

  テキサス州の場合、実際の両国間国境は1,200マイルあるが、今回の政策で実際に垣根が設置されるのは70マイルだけとされている。西部劇で知られたあのリオ・グランデの存在のためだ。急峻な渓谷部分は200マイルもある。ある地域では仮に障壁を設置しても、国境を越えようとする人にとっては、ほとんど意味を持たない。真剣に越境を考えるならば、障壁部分を迂回しても目的を達成できるという。とりわけ、都市の周辺部は彼らが目指す有力地点だ。越境して都市に潜り込めば、探索して見つけ出すことはきわめて難しくなる。抜け穴だらけの国境だが、EUのように消滅するのは、かなり遠い先のことだ。

  それまでの間、抜け穴からの入国者をいかに取り扱うかは、アメリカ・メキシコ両国の移民政策の大きな課題として残ることになる。とりわけ、北米自由貿易協定(NAFTA)の根本的見直しが議論されており、移民政策はその重要な一部を構成することになることはいうまでもない。新大統領の手腕が試される。


  

References 
Immigration in California: Escape from LA, The Economist March 31st 2007
"Fighting the fence." The Economist June 14th 2008. David J. Danelo. The Border: Exploring the US-Mexican Divide, Stackpole Books, 2008
S.Rotella. Twilighton the Line: Underworlds and Politics at the US-Mexico Border, New York, Norton, 1998.

桑原靖夫編.『グローバル時代の外国人労働者 日米比較』東洋経済新報社

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迷宮美術館のラ・トゥール

2008年09月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

George de La Tour. The Denial of St Peter, 1650, oil on canvas, 120 x 161 cm. Musee de Beaux-Arts, Nantes

9月1日午後7時のBS「迷宮博物館」に、「発掘された名画」として、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが取り上げられていた。1915年、17世紀以来、歴史の闇の中に埋もれていた、この画家を「発見」したヘルマン・フォスに言及がなされ、日本のラ・トゥール研究の先駆者でもある田中英道氏が短時間ながら出演した。あの名著『冬の闇』でラ・トゥールを日本に初めて本格的に紹介した世界的な研究者である。折角、この大家にご出演いただくのならば、もっと時間をとってお話をうかがいたかった。

番組で紹介された作品は「生誕」、「悔悛するマグダラのマリア」、「否認するペテロ」の3点だった。


聖ペテロの否認」は、前回記事にした「悔悛する聖ペテロ」と同じジャンルに属する作品だが、ペテロのモデルは異なっている。ラ・トゥールの作品の中では、年譜が記載されている例外的なもので、1650年というのは画家が死去する2年前であった。

この作品「聖ペテロの否認」については、すでにブログに記したこともあるが、画面左側で召使の問いを受けるペテロの姿と、画面右側のダイスの賭けに興じる兵士たちの姿の2つの場面が、画面を分けていて一見散漫な印象を与えるかもしれない。しかし、そこにはこの画家の深い思慮が働いている。

蝋燭を掲げる召使の問いに、ペテロはキリストとの関係を否認した。この意味で、左の対話の場面は、きわめて深刻な精神的な緊張感をはらんでいる。他方、右の画面は俗界の争いの情景である。しかし、よく見ると、右端の兵士はいぶかしげな視線をペテロの方に向けており、作品を見る者は再びペテロと召使の場に引き戻される。ペテロの心は大きく揺れ動いている。

この構図の設定には、ラ・トゥールが生涯にわたって検討してきた「カードプレイヤー」や「女占い師」などの蓄積が生かされているといえよう。画家の晩年の作ということを考えると、さまざまなことを考えさせる作品である。

「迷宮博物館」が終了した後、臨時ニュースは福田首相の突然の辞任表明を伝えていた。日本はついに先が見えない「迷宮」入り、長い闇の時代へ入りそうだ。

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氾濫するフェルメール

2008年09月01日 | 絵のある部屋

   
Girl Reading a Letter at an Open Window. c.1657. Oil on canvas. Alte Meister Gallerie, Dresden, Germany


     日本人のフェルメール好きは、世界でも突出している。始まったばかりの東京都美術館のフェルメール展*は、かなりの人気を呼びそうだ。『芸術新潮』『ユリイカ』などいくつかの雑誌も特集を組んでいる。フェルメールはどちらかといえば好きな画家だが、最近の〈氾濫〉ぶりにはいささかへきえきしている。

  美術館などの興行側も、フェルメールを展示すれば多数の観客が期待できるので、高額の賃借料を支払っても、採算が合うのだろう。最近では国立新美術館の『フェルメールとオランダ風俗画展』では、いわば目玉商品
一点で、約50万人を集めたといわれている。今回は会期も異例に長く、主催者は入場者100万人を目指すという(詳細は『芸術新潮』9月号をご参照あれ。) 

  フェルメールの作品は、現代の日本人に受ける条件をそなえている。宗教色が弱く、色彩がきれいで、よく描きこまれており、大作ではないため重たくなく、画題もなんとなく分かったような気になる。このように一般受けする作品となると、フェルメールやモネなのだろう。画題もほどほどに分散していて、ちょっとした話題にするに適当だ。深刻な題材ではないので、なんとなく癒される感じもするのかもしれない。現在の日本人が求める文化的水準?にほぼ合致するのだろう。

  
しかし、便乗した安易な企画も多い。例のANA機内誌『翼の王国』に連載されていた、福岡伸一氏の「アメリカの夢 フェルメールの旅」も、3回の連載で、野口英世とフェルメールの関連を訪ねることを目指したようだが、完全に的が外れてしまっていた。元来、野口英世がフェルメールを見たかという仮説自体が思いつきにすぎず、仮に見たとしても、それがどうしたということにすぎない。結局、なにも検証できず、単にアメリカへフェルメールを見に行ったエッセイに終始してしまった。いくら機内誌の連載といっても、企画を疑ってしまう。

  このブログでも少し記したが、19世紀末から20世紀初頭にかけての富豪たちと画商の駆け引きは、虚々実々で子細に立ち入ると、それだけできわめて興味深い。しかも、富豪の所有物が美術館へ寄贈・遺贈され、公有財に移行してゆく過程も、複雑なやりとりを含むものだった。大規模な企画展があれば、少しずつでもそれまでの研究成果の一部がスピルオーバーする。日本のこうした企画展では集客数など興行効果が全面に出て、新しい研究などの普及は少ない。研究者の間では知られているが、フェルメール作品が生まれた環境については、今回『芸術新潮』で朽木ゆり子氏が紹介されている、かつてモンティアス(エール大学教授、経済史家)が実施した地道な調査の成果が大きな突破口となった。新たな光は、思いがけないところから入ってくる。

  歴史の中では長らく忘れられていたこの画家。まもなく4世紀近くなる時間が経過した今日、極東の島国での思わぬ人気をどう見つめているのだろうか。今回のブームが、観客動員数だけを競う、またひとつの仇花に終わらないことを祈るのみ。



*  東京都美術館『フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち』8月2日ー12月14日


References
『芸術新潮』2008年9月
『ユリイカ』2008年9月
 福岡伸一「アメリカの夢 フェルメールの旅」『翼の王国』2008年6-8月
John Michael Montias. Vermeer and His Milleu. Princeton:Princeton University Press, 1989.

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