時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

17世紀、ロレーヌの響き

2009年09月29日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 最近のブログに記したオランダのカラヴァジェスキに関する企画展(フランクフルト・シュテーデル美術館、2009年)のカタログを見ていると、いくつか興味深いことに気づいた。この企画展のテーマは、ユトレヒトなどのオランダ・カラヴァジェスキ(17世紀、カラヴァッジョの画風の影響を受けた画家)によって、作品に描かれた「音楽の光景(歌唱、楽器)」の検討に置かれている。そのため、16-17世紀に使われていた楽器がいかなるものであったかを知ることができる。

 歌唱は別として、楽器としてはリュート、ヴァイオリン、パイプオルガン、フルート、リコーダー、ドラム、バグパイプなどが描かれている。リアリズムの画家としてのカラヴァッジョ、そしてその流れを汲む画家たちの特徴で、楽器も細部まで描かれている作品が多く、きわめて興味深い。いくつかの興味深い問題が浮かんでくる。だが、音楽・絵画史のテーマとして、のめり込むと、何年かかるか分からないと思う。あわてて逃げ出して、もっとお手軽なことに目を移した。  

 気がついたひとつの点は、17世紀にジャック・ベランジェ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールなどが題材として好んで描いたハーディ・ガーディ(ヴィエル)が登場していないことだ。ルネサンス期にはハーディ・ガーディは、バグパイプと並んで人気の高い楽器だった。しかし、17世紀末に、ヨーロッパの音楽界には変化が生まれたようだ。音楽についての人々の好みが代わり、ハーデイ・ガーディは人気がなくなり、楽器として下層の位置に低下したようだ。

 ベランジェやラ・トゥールなどのロレーヌの画家たちの作品から推測しうるように、この楽器は諸国の町や村を放浪、遍歴する楽士たちが主として携え、演奏したものであった。ハーディ・ガーディの楽士には目の不自由な人たちが多く、旅の道連れ、案内を求めてのためか、犬を連れている老人もいた。諸国を漂泊する旅の間に、多くの苦難もあったのだろう。疲れ果て、身なりもみすぼらしく、しばしば乞食と見分けがたいほどだった。しかし、彼らは強靱な精神を持ち、旅の苦しさにもじっと耐えていた。こうした社会の下層で、人生の苦難に立ち向かい、生きていた人たちに、これらの画家は強い関心を抱き、同じテーマを何度も描いたのか。画家の精神構造の深みを推測するに貴重な題材だ。

 ハーディ・がーディのような楽器を使った17世紀の音楽自体、なかなか聞くことはないが、少し努力をすればそうした機会に接することも不可能ではない。当時の古楽器を使ってのアンサンブルなどで、バロックの「音の世界」を聞くことも興味深い。ヨーロッパなどでは、時々ハーディ・がーディなども登場する古楽器の演奏会が開催されている。かつて、ケンブリッジのあるコレッジの音楽の夕べで聞いたことがあった。そうした折に、この楽器の音を聞き、人間は実に不思議なものを作りだすものだと思った。楽器の形態も弦楽器のように見えるが、鍵盤もついている。

 もっともハーディ・ガーディは、18世紀には宮廷に持ち込まれ、再び人気楽器として復活する。楽器としても6弦の「ヴィエル・ア・ル」vielle à roueとしてほぼ完成する。6弦のものは、二本の旋律弦と四本のドローン弦を持ち、ドローン弦を鳴らしたり、消したりすることで、異なった調に対応できるようになっている。
世界にはかなり愛好者がいるようだ。しかし、これだけの説明では楽器のイメージが湧きにくいかもしれない。実際に目にする機会は少なく、その音の響きも伝わりがたい。ご関心のある方は、下掲のYouTubeをご覧ください。かすかに、17世紀ロレーヌ*の響きが聞こえてくるかも。

 

 

 

 

<!-- hurdy-gurdy -->


*  17世紀から20世紀にかけて、ロレーヌはヨーロッパでもかなりユニークな地域だった。戦乱・災厄の多い地域であったにもかかわらず、ナンシー、メッツ、ヴェルダン、エピナルなどの古文書館には、かなりの資料も残っているようだ。

MUSIQUE EN LORRAINE, Contribution à l'histoire de la musique à Nancy XVIIe-XXe siècles. Colloque de Nancy, 6 et 7 octobre 1992. Textes recueillis par Yves FERRATON

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アフガニスタンに光の戻る日を

2009年09月26日 | 絵のある部屋

アフガニスタン古宝断片*


ひげのある雄牛を描いた鉢
Bol à décor de taureaux barbus
Tape Fullol, Or, H.14.9cm
ca.2200-1900 B.C.





竜王のペンダント(片方)
Pendeloque dite "le souverain et les dragons"
Tillia tepe
Or, turquoise, grenats et lapiz-lazuli12.5x6.5 cm




魚の形のフラスコ
Flacon ichthyomorphe
Trésor der Bertram
Verre souffle, nageoires et pastillage bleus
8.7x10.7x20 cm




 ニューヨーク、メトロポリタン美術館で開催された『アフガニスタン:カーブル国立博物館の秘宝』Afghanistan: Hidden Treasures from the National Museum, Kabul の展示品は、下記のパリ、ギメ東洋博物館での企画展と、主要部分についてはほとんど同一であったと思われる。個人的な経験だが、中東の博物館関係者の日本人研究者や後援者に対する評価は、一般にきわめて高い。アフガニスタン復興へ向けての日本の貢献の可能性はさまざまに残されている。

Afghanistan les trésors retrouvés: Collections du musée national d'Afghanistan
Musée des arts asiatiques Guimet, 6 décembre 2006 - 30 avril 2007

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臨時休館のお知らせ:幕を下ろさないアフガニスタン

2009年09月23日 | グローバル化の断面


 本日9月23日、ニューヨークのメトロポリタン美術館は臨時休館で、一般への公開は行われない。昨日、22日(現地時間)に急遽発表された。ニューヨークの国連総会などの行事に参加する人々の観覧に供するためという理由である。

 ニューヨークは見所はいたるところにある。なぜ、メトロポリタンなのか。この世界的に著名な美術館を知らない人は少ないはずである。一般公開を行わないというのは、恐らくテロリストなどが観客に混じって入り込むことを防ぐためだろう。あの壮大な美術館を警備することは、きわめて大変なことは説明するまでもない。気候変動サミットなど国連の諸行事へ参加する各国の要人・有名人の中には、いまさら美術館見学でもあるまいと思う人もいるかもしれない。そこには企画者側が深く考えた理由があると思われる。

 去る日曜日、2009年9月20日、メトロポリタン美術館でひとつの企画展が幕を閉じた。『アフガニスタン:カブール国立美術館の秘宝』 Afghanistan: Hidden Treasures from the National Museum, Kabulであった。

 これは、このブログに記した 2006年12月から07年3月まで、パリのギメ東洋美術館で開催された企画展が大西洋を越えて、いくつかの地を転々とした後、ニューヨーク・メトロポリタンで実現したものだ。アフガニスタンが戦火に巻き込まれて以来、カブール(カーブル*)の国立美術館に所蔵されていた貴重な所蔵品の九割近くは、焼失、散逸、窃盗などで失われたといわれていた。その中で同館館員の献身的な努力で、宮殿・中央銀行の地下室深くに密かに移転されていた秘宝があった。それらは25年の間、人の目に触れずにいたが、上述のパリの企画展で初めて公開された。

 この懸命な努力で地下室に隠匿されていたアフガンの名品は、再び人の目に触れられるまでになった。文字通り、東西文明の交差点にあった、この国に残っていた秘蔵品の精髄とも言うべき品々だ。数はないが、見る者の目を奪う素晴らしさだ。ギメ東洋美術館で公開された時の人々の驚嘆を思い起こす。決して多くはないが、息をのむような華麗で優雅な出土品の数々に、声を失い、魅了された。出展された品々は、西暦前2000年から西暦5世紀くらいまでの選り抜かれた名品である。

 主として、ラクダによる隊商に依存した東西交易では、美術品は小さく、精緻を極め、芸術的価値も至高な品だけが交易の対象となった。遠いヘレニズム文化の流れを明瞭に留める品々、東西文化の精髄を凝縮したような装飾品など、その美しさ、文化的価値は計り知れない。このような華麗、珠玉の文化遺産を生んだアフガニスタンが、なぜ今日のような殺戮と破壊の巷に化してしまったのか。

 アフガニスタンが国連の最重要問題のひとつであることは改めていうまでもない。今回の国連行事の参加者のために、メトロポリタン美術館が選定されたというのは、目的が美術館の一般展示を見せるためではないことはもはや明らかだ。幕を下ろしたばかりの『アフガニスタン』展を特別に公開し、栄華をきわめたアフガン、そしてカーブル美術館の在りし日の残光から、そのほとんどを破壊、散逸させてしまった人間の恐るべき愚行と悲惨な結果について、深く思いをめぐらせてもらうことだ。

*
KABULの現地の読み方は、「カーブル」に近いようだ。しかし、日本の新聞、マスコミなどは「カブール」と記すものが圧倒的に多い。表記の難しさを感じさせる。ここでは、過去の記事とのリンクもあって、「カブール」としておくが、今後は表記を改めて行きたい。

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フェルメール貸し出しは米蘭割り勘?

2009年09月21日 | 回想のアメリカ


  日本はフェルメールのファンが多い国だと思う。もしかすると、同じ17世紀オランダの世界的画家、レンブラントよりも知名度が高いかもしれない。しかし、両者の作品は、この国には一枚もない。それでも、フェルメールの作品の持つ集客力は大きく、この画家の作品が展示品に一点しか含まれていなくても、フェルメール展を掲げた企画展もあったほどだ。多分、フェルメールが今日生きていたら、仰天するほど多額な借り出し料が美術館などの作品保有者に支払われてきたことだろう。

 今から遡ること400年前、Halve Maen (Half Moon) という船名の一隻の小さな帆船が、現在のニューヨークの中心部であるマンハッタン島に着いた。大西洋の航海で、帆柱始め船体の損傷はひどく、見る影もなかったようだ。記録によると、時は1609年9月2日頃だったらしい。

 船長はヘンリー・ハドソン Henry Hudson というイギリス人だった。この男はかなりしたたかで、オランダ東インド会社から前金で仕事を請負っての冒険だった。アジアへ通じる航路を探る一攫千金の企てだった。オランダ側にもさまざまな思惑や利権が渦巻いていた。1609年の4月頃にオランダを出航し、新大陸へと向かった。船員は18人くらいで、イギリス人とオランダ人から成り、お互い言葉もよく通じなかったこともあって、きわめて荒んだ船内事情だったらしい。そして、船員たちは船長を大変嫌っていた。

 ヘンリー・ハドソンの前にも、ハドソン河口に到着したヨーロッパ人はいたが、航海の詳細経過を記録していたのはヘンリー・ハドソンだった。そして、今日、ニューヨーク、そしてアメリカを象徴する大河川の発見・探検者として、その名を残すことになった。
ヘンリー・ハドソンのハドソン川探検の概略については、このブログに少しだけ記したこともある。


Halve Maen (Half Moon) のレプリカ


 それから半世紀くらい後、オランダ、デルフトの無名の画家は、決して大きくはないアトリエで、主として室内の光景を細々と描いていた(ちなみにラ・トゥールはロレーヌの大画家としての晩年を過ごしていた時期だ)。フェルメールは作品は数少ないが、買ってくれる愛好家はいたようだ。しかし、画家の晩年は決して豊かなものではなかった。文字通り糊口をしのぐ日々であった。画家の死後も長い間、フェルメールの名も作品もほとんど忘れられていた。

 今月9月10日から11月29日まで、ハドソンの航海を記念して、ニューヨークのメトロポリタン美術館で、フェルメールの特別展が開催されている。オランダからも『牛乳を注ぐ女』(1660年頃)を始め、画家の名品が貸し出されている。

 『牛乳を注ぐ作品』にしても、少し前まで日本の企画展が借りだしていた。まさに東奔西走の人気作品だ。オランダの美術館にしてみれば貴重な外貨の稼ぎ手としてフェルメール様々だろう。今回はメトロポリタンとアムステルダム国立美術館の関係に留まらず、両国の歴史の関係からも、企画に力が入り、フェルメールを含むオランダ画家の作品36点近くが展示されている**

 このブログでもたびたび記してきたように、ニューヨークの美術館にはオランダの美術品が多数所蔵されている。なにしろ、ニューヨークは、ニュー・アムステルダムと呼ばれた時代からの縁で、「オランダ人が発見(建設)し、ユダヤ人が支配し、アメリカ人が住む」とのジョークがあるほど、オランダとのつながりは深い。今回もアムステルダム国立美術館 Rijksmuseum がメトロポリタンに最大限の協力をしている。オランダ皇太子夫妻が開幕式に出席したほどであり、米蘭両国の歴史的緊密さを確認する場ともなった。Dutch treat (割り勘)という言葉があるが、両国ともにそれぞれ元を取ったのでは? 貧乏画家に終わったフェルメールは、天国でいったいどんな思いでいるのだろうか。

 さて、管理人は、フェルメールよりは、ハドソン川の方にはるかに関心があるのだが、それについて書く時間が残されているかどうか。


Vermeer's Masterpiece The Milkmaid
The Metropolitan Museum of Art, New York, N.Y.
September 10, 2009–November 29, 2009

**
実はメトロポリタンでは、フェルメール展と平行して、9月20日まで、もうひとつの注目すべき企画展が開催されていた。本ブログをお読みくださっている慧眼の諸兄姉は、すぐにその意味もお分かりかもしれない(答は次回に)。

Reference
“A Dutch treat” The Economist September 19th 2009

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モノクロのジョン・バエズ(+追悼マリー・トラヴァース)

2009年09月15日 | 午後のティールーム

イメージに残るジョン・バエズ

 聞くとはなしにつけたNHKFMで、ジョン・バエズ Joan Baez『花はどこへいった』Where Have  All the Flowers Gone? をリクエストされている方がいた。折しもビートルズの新盤 digital remaster 発売で沸いている時、ジョン・バエズを聞く機会があるとは思わなかった。

 今は
YouTube などの映像でもカラーが圧倒的に増えたが、この人の特にこの歌の記憶のイメージは、私の中ではモノクロで残っている(記録画像も60年代末にはほとんどカラー化している)。しかも、不思議なことに今でも覚えているのはドイツ語の歌詞 Sagt Mir Wo  die Blumen Sind? だ。彼女の歌唱は、ほとんど英語で聞いているのだが、多分ベルリン・コンサートの録音を聞いた残像が残っているのか。あるいはもしかすると、マレーネ・ディートリッヒ Marlne Dietrichが歌ったイメージとも重なっているのかもしれない(古い!)。さすがに後者のイメージは少しずつセピア色に変わっている。

 

Sag mir, wo die Blumen sind

Sag mir, wo die Blumen sind
Wo sind sie geblieben?
Sag mir, wo die Blumen sind
Was ist geschehn?
Sag mir, wo die Blumen sind
Mädchen pflückten sie geschwind
Wann wird man je verstehn?
Wann wird man je verstehn?
Sag mir, wo die Mädchen sind
Wo sind sie geblieben?
Sag mir, wo die Mädchen sind
Was ist geschehn?
Sag mir, wo die Mädchen sind
Männer nahmen sie geschwind
Wann wird man je verstehn?
Wann wird man je verstehn?

Sag mir, wo die Männer sind
Wo sind sie geblieben?
Sag mir, wo die Männer sind
Was ist geschehn?
Sag mir, wo die Männer sind
Zogen fort, der Krieg beginnt
Wann wird man je verstehn?
Wann wird man je verstehn?

Sag, wo die Soldaten sind
Wo sind sie geblieben?
Sag, wo die Soldaten sind
Was ist geschehn?
Sag, wo die Soldaten sind
Über Gräber weht der Wind
Wann wird man je verstehn?
Wann wird man je verstehn?

Sag mir, wo die Gräber sind
Wo sind sie geblieben?
Sag mir, wo die Gräber sind
Was ist geschehn?
Sag mir, wo die Gräber sind
Blumen wehn im Sommerwind
Wann wird man je verstehn?
Wann wird man je verstehn?

Sag mir, wo die Blumen sind
Wo sind sie geblieben?
Sag mir, wo die Blumen sind
Was ist geschehn?
Sag mir, wo die Blumen sind
Mädchen pflückten sie geschwind
Wann wird man je verstehn?
Wann wird man je verstehn?

 

 

 

追悼 マリー・トラヴァース

  不思議なほどの出来事だが、9月15日にジョン・バエズさんについてのこの記事を掲載した2日後の今日9月17日のニュースが、アメリカの著名なフォーク・シンガーである、マリー・トラヴァース Mary Traverseさんが亡くなったことを伝えていた(9月16日逝去、享年72歳). 1960年代に大きな活躍をしたフォーク・トリオ Peter, Paul and Mary (PPM)の中心メンバーだった。ジョン・バエズさんとほとんど同時代で、同様な反戦歌手だった。歌っていた曲目もほとんど同じ。ボブ・ディランと共演もしていた。親しい友人のご贔屓の歌手で、同じレコード盤を何度聞いたことか。
 
”Where Have All the Flowers Gone?”もマリー・トラヴァースさんお得意のレパトリーだった。 New York Times などのメディアは、ボブ・ディラン、ジョン・バエズと並んでマリー・トラヴァースのトリオがフォークの世界に大きな貢献をしたことを記し、その逝去を悼んだ。この2、3日、時代の舞台が大きく回ったような感じがした。



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ケネディ議員「白鳥の歌」に頼るオバマ演説

2009年09月13日 | 雑記帳の欄外


 オバマ大統領の医療保険制度改革に関する議会演説(9月9日)を聞いた。大統領支持率も大きく下がってきただけに、大統領選の演説を思わせるきわめて力の入ったものだった。もうすっかりおなじみになった「オバマ節」だ。大統領の議会演説は基本的に敬意を持って聞くという慣行のようだが、緊迫した情景があった。

 大統領が「民主党は新医療改革を不法移民にも適用しようとしていると云われているのは正しくない」と述べた時だった。サウス・カロライナ選出のジョー・ウイルソン共和党議員が「貴方は嘘をついている」と叫んだ。大統領に対する尊敬の念を欠いた不適切な発言ということで、ウイルソン議員には非難も集中し、本人も直ちに謝ったようだ。一部の共和党議員の間に存在する、建設的な議論を頭から拒否するという最近の風潮が暴発したようだ。オバマ大統領も今回のことは水に流すとしている*。

 今や1200万人近いといわれる不法移民が、医療、教育などの公共サービスをコストを負担せず使っているとの批判は、以前からある。オバマ大統領はとりわけ新医療改革案が、増税などでこれ以上余分の負担を国民にかけないということを例示する意味で、あえて不法移民にまで言及したのだろう。

 大統領が演説の最後に引用した、亡くなったばかりのテッド・ケネディ上院議員の遺言との関係で感じたことがあった。ケネディ議員は生前共和党マッケイン議員との連携の下に、「新移民法」構想のひとつの原案ともいえる法案を提出した。法案は実現にいたらなかったが、いずれ議論が再開すれば十分土台となりうる内容だ。ケネディ議員はマケイン議員と連携することで、民主党と共和党の架け橋を作り、新移民法案の成立を図ったが果たせなかった。

 ケネディ上院議員の未亡人も列席する中で、大統領はケネディ議員の遺言を引用し、「(医療保険改革は)優れて道徳的問題であり、重要なことは政策の細部ではなく社会的正義とわれわれの国の品位にかかわる基本原理にある」と述べた。民主党きっての良識派ケネディ議員の「白鳥の歌」だ。この言葉に力を借りて、オバマ統領は、自らの政治的命運を左右する医療保険制度改革を乗り切ろうと思ったのだ。これまでFDR(フランクリン・ロースヴェルト)からクリントン大統領まで、歴代大統領が果たし得なかった困難な政治的課題だ。自らつくり出した大不況に足下が揺らいでいるアメリカの国民が、自国のあるべき姿をいかに考えるか、その行方を計る重要な試金石だ。

  アメリカ国民が建国以来の伝統的「アメリカン・ドリーム」の考えを維持し、社会の格差の存在を認めるのか、社会的弱者を積極的に救済し、そのための負担増もやむなしとする方向へ舵を切るのか。大きな潮目だ。この問題はもはや「対岸の火」ではなくなった。間もなく発足する新たな政権の下で、われわれにも形こそ違え同じ問題が突きつけられている。

 

* その後、事態は同議員に辞任を求める動きにまで発展しているようだ。

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オランダのカラヴァッジョ

2009年09月09日 | 絵のある部屋

Dirck van Baburen
Singender junger Mann 1622
Öl auf Leinwand, 71x58.8cm
Bezeichnet auf dem Notenbuch:<T.Baburen fecit/Ano 1622>
Frankfurt, Städel Museum. Inv.-Nr.2242



 17世紀の代表的画家カラヴァッジョが、その劇的な生涯と作品を通して、イタリアのみならずヨーロッパの画壇に大きな衝撃を与えたことはよく知られている。しかし、その画風がヨーロッパの美術界に浸透するについては、いくつかの経路が想定されてきた。この画家は徒弟を受け入れる工房を持った形跡はないので、徒弟修業を経験した弟子・職人を経由して画風が継承され、伝播するという通常の経路はないようだ。それに代わって、ローマやイタリア各地でカラヴァッジョ自身あるいはその作品自体に直接接することで、大きな影響を受けた画家たちの活動を通して伝播した。いわゆるカラヴァッジェスキ caravaggeschi と呼ばれる画家たちがその主体だ。たとえば、ジェンティレスキ父娘、バルトロメオ・マンフレディ、ヴィニョン、ヴーエなどが代表的である。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールもその一人に挙げられることもある。この画家がイタリアへ行ったか否かに関わる論点のひとつで、ブログに記したこともある。

 その点にかかわる別の重要な点は、17世紀オランダ、とりわけユトレヒトにおけるカラヴァッジェスキの活動であった。ユトレヒト近傍の出身であった画家たちが、イタリアでの修業活動を終えて、ほぼ同時期、1620年頃までに帰国し、工房を開設、成果を精力的に作品として具体化してみせた動きである。バビューレン Dirck van Baburen (um 1595-1624), テルブルッヘン Hendrick Terbrugghen (1588-1629), ホントホルスト Gerard van Honthorst (1592-1656)などがその中心人物だ。彼らはそれぞれ数年から10年のイタリアでの研鑽を経て、テルブルッヘンは1614年、ホントホルストとバビューレンは1620年頃に前後してユトレヒトへ戻ってきた。彼らが活動を始めた1620年代のユトレヒトは、これらのカラヴァッジェスキが革新的な画風を実験する工房の様相を呈した。「ユトレヒト・カラヴァジェスキ」と呼ばれる由縁である。 
 
 今年4月から7月にかけて、ドイツ、フランクルトのシュテーデル美術館 Städel Museumで、『オランダのカラヴァッジョ:カラヴァッジョとユトレヒト・カラヴァジストによる音楽とジャンル』Caravaggio in Holland、Musik und Genre bei Caravvagio und den Utrechter Caravaggisternと題する企画展が開催された。

 2007年末、バビューレンの「歌う若者」Singender junger Mann (上掲図)という作品を同美術館が取得したことを契機に企画された。ちなみに、この作品はバビューレンが1620年にユトレヒトへ戻った後の1622年の作品と推定されていて、年記もあるようだ。かねてこの問題に共通の関心を抱いているドイツの友人が現地に赴き、カタログを送ってくれた。

 いうまでもなく、カラヴァッジョ自身はオランダを訪れていない。この企画展は、主としてユトレヒトで活動したカラヴァッジェスキの活動成果の現時点でのひとつの評価が展示されたものと考えられ、大変興味深い。銅板画を含めて、40点を越える作品が展示された。展示作品のかなりのものは、これまでの人生でどこかで目にしてきたが、未見の作品も含まれている。カラヴァッジョ、マンフレディなどの作品も含めて、非常にレベルの高い企画展だ。

 2007年末にシュテーデル美術館が上記バビューレンの作品(それまで個人所蔵)を取得した時点で、美術館として、いずれお披露目があることが予告されていた。大変美しい作品であり、バビューレンのイタリアでの研鑽が結実したような見事な出来映えだ。

 左手に楽譜を持ち、右手で拍子をとりながら歌う若者の半身像が、きわめてリアルに描かれている。背景はカラヴァッジョの作品によく見られるように、特に何も描かれていない。青年の被った帽子には白い羽根が美しく描かれている。市松模様の衣装も美しい。それ以上に掌の筋、肌の色、髭の生えよう、高性能なカメラでもこれだけ撮れるだろうかと思うほどのリアリティだ。

 とりわけ宗教的な含意などは意図されていない。描かれた像の美しさ以上に内面に深く引き込むものは少ない。しかし、ただ見ているだけで時間を忘れる。当時の風俗を推測するだけでも興味深く時間が過ぎて行く。

 同様な主題で、テルブルッヘン による『歌う子供』 Singender Knabe 1627 も出展されている。これはバビューレンより若いモデルだが、画面にはリリックな雰囲気も漂い、きわめて美しく愛着を覚える作品だ。

Hendrick Terbrugghen
Singender Knabe 1627
Öl auf Leinwand, 85.5x71.5cm
Bezeichnet im Bildhintergrund rechts:"HTBrugghen fecit I.6.2.7."
Boston, Museum of Fine Arts, Inv.-Nr.58.975


  今回は美術館取得の作品テーマとの関連で、カラヴァッジョ、そしてユトレヒト・カラヴァッジステルンが作品に取り上げた音楽(楽器)とジャンルが共通テーマとなっている。しかし、それだけにとどまらず、掲載された下記の7本の論文には最新の研究成果の一端も包含されていて、大変興味深い。カタログを読んでいて、新たに気づいたことも数多く出てきた。いずれ記すことにしたい。

 

Caravaggio in Holland
Musik und Genre bei Caravvagio und den Utrechter Caravaggistern 
Städel Museum
Herausgegeben von Jochen Sander,Bastian Eclercy und Gabriel Dette
Eine Ausstellung des Städel Museum,Frankfurt am Main, 1 April bis 26, Juli 2009

目次
Inhalt

Max Hollein
Vorvort

Jochen Sander, Bastian Eclercy
Einleitung

Bastian Eclercy
Erfahrungshorizont Rom.Die Musikantenbilder Caravaggios und der italienischen Caravaggisten

Wayne Franits
Laboratorium Utrecht. Baburen, Honthorst und terbrugghen im Künstlerischen Austausch

Liesbeth M. Helmus
Das früheste werk Hendrick Terbrugghens.
Materialtechnische Untersuchungen im Central Museum in Utrecht

Marcus Dekiert
"Hätte ich nun einen Burschen, der mir die laute spielte"
Vom Lautenschlagen, Saitenstimmen und Flötenblasen

Louis Peter Grijp
Musik in Utrecht zur Zeit der Caravaggisten

Thomas Ketelsen, Everhard Korthals Altes
Die Gem alde von dirck van Baburen, Hendrick Terbrugghen und Gerard van Honthorst auf dem deutschen Kunstmarkt im 18. Jahrhundert. Ein Beitrag zur Geschichte der Kennerschaft

Katalog

Literatur
Impressum
Abbildungsnachweis 

 

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富士山噴火?

2009年09月07日 | 雑記帳の欄外


 イギリスの雑誌 The Economist の表紙が、しばしば奇抜で秀逸なことは、このブログでもすでに記したことがある。今回の日本の民主党への政権交代の反応がこれ(上掲)である。「日本を変えた投票」The vote that changed Japan という表題がつけられている。多くの日本人の受け取り方が、このような衝撃的なものか、すぐには答えられない。

 むしろ、ブログ管理人としては、波高い海上で沈没寸前のボートから別のボートへぎりぎり跳び移ったような印象だ。激変であることはその通りだが、突然の噴火のような衝撃ではない。国民の多くは不安ながらも他に選択肢がなく、選ばされたようなところがあるのではないか。苦難は、厳として目前にある。新しいボートが国民を安全な航海に導いてくれる保障はない。結果は乗組員全員の英知、勇気ある決断と行動にかかっている。ここまで来たからには、しっかりと行方を見つめたい。

 The Economist が指摘する今回の選挙がもたらした変化は、次の3点だ。第一はいうまでもなく民主党の圧倒的な勝利である。308議席。「数は力なり」だが、力が質の改善につながる保証はない。第二は、自民党の敗北は、日本の政治文化の深部における変化の累積が生み出したものという点だ。国民の我慢が耐え難いところまで来たのだろう。そして、第三は、自民党政治をひっくり返すことで、日本の選挙民は自民党という政党を放り出しただけでなく、全体のシステムを放り出したのだという。これらの指摘がすべてその通りか、今はまだ答えられない。

 具体的な次元で最重要な点のひとつは、新設される「国家戦略局」*という新組織だ。すでに注目が集まり、多くの議論が始まっている。日本という沈みかけた船の復元に残された時間はそう多くない。必要なことは、新生日本のイメージと進むべき道筋を国民と世界にはっきりと示すことだ。問題の軽重をしっかり見極め、政治家の真骨頂を示してほしい。

 今はただ、次の表紙が「大山鳴動して鼠一匹」にならないことを望むのみだ。


* 戦略 strategiesという概念が、今日では軍事的意味から脱して、経営や国家のあり方などの領域にまで拡大して使われていることは理解していても、名称としては「国家基本構想局」くらいが良いのではと思う。法案化の過程で検討を望みたい。

追記、このブログ記事の後、『朝日新聞』9月13日「私の視点」(投稿)に、歌人の道浦母都子氏が「国家戦略局」という名称に違和感を覚えると記されている。管理人と異なり、「戦略」はともかく、「国家」なる言葉が「国家総動員法」、「国家非常事態」といった過去の言葉との暗い連想を生むことを指摘されている。管理人の私の方は、世界に「国民国家」 nation state が歴然と存在する以上、「国家」という語は(使わない方がよいが)入っても仕方がないという感想だ。「国民」では意味が異なってしまう。「国家」と「戦略」が結びつく連想は最悪だ。いずれにせよ、両者ともに言葉をもっと大切にしてほしいという点では変わりはない。

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楽園の花々から(4)

2009年09月05日 | 午後のティールーム

Photo 友人ER氏のご好意により掲載。


台風一過、爽秋を楽しむ

 






タカネツメクサ(高嶺爪草)Minuartia arctica

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ラトゥール: リュネヴィルの悩み?

2009年09月03日 | 書棚の片隅から

C.Marchal..Histoire de Lunéville.Paris:Res Univers,1989, pp.188.

 
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、1593年現在のフランス北東部、ロレーヌ地方、ヴィック・シュル・セイユに生まれ、1620年27歳の時、妻となったネールの実家のあるリュネヴィルへ移住した。この画家はこの地で1652年、59歳で世を去った。その生涯で1年以上の期間にわたり、住んでいたと思われるのは、生地ヴィックと画家生活のほとんどを過ごしたと思われるリュネヴィルに過ぎない。パリ、ナンシーなどへ行っていることは判明しているが、長い期間、居住していた確たる証拠はない。

 ほぼ二世紀半の長きにわたり、ほとんど忘れられていたこの画家は、今では17世紀フランス美術を代表する巨匠の一人にまでになった。ラ・トゥールの生地ヴィックには画家の名を冠した美術館もあって、この小さな町の最大の観光資源となっている。

 他方、リュネヴィルは画家が工房を置き、その制作活動の本拠とした地であるにもかかわらず、画家の活動を思わせる跡はなにも残っていない。度重なる戦火で、工房や住居あるいはそこに残っていたであろう作品もすべて消滅してしまったのだ。

 今日、リュネヴィル宮殿にある観光案内所を訪れて尋ねると、ラ・トゥールの工房があったらしい?場所や、この画家そして家族が訪れたであろう教会の場所などを熱心に説明してくれるのだが、残念ながらそれを当時のように目のあたりにすることはできない。ラ・トゥールの時代にもあったリュネヴィル城、宮殿は、現在の宮殿のある場所に最初築かれたと思われるが、これもそれらしき跡はほとんど見いだすことができない。この画家とリュネヴィルに関わる話はかなり多数あるのだが、実に残念なことだ。リュネヴィル市としては、大きな観光の目玉となりうるこの画家を売り出す具体的材料がなく、切歯扼腕しているに違いない。

  リュネヴィルにとって、唯一の観光資源は、ミニ・ヴェルサイユと呼ばれる壮大な宮殿だ、これは18世紀初めに、ルイ14世の賛美者だったロレーヌ公レオポルドがヴェルサイユにならって建造営したたものである。レオポルドはナンシーの宮殿を離れ、しばしばリュネヴィルに滞在していた。さらにその後スタニスラス王の好んだ宮殿となり、王も1776年に死去するまでここに滞在することが多かった。盛時にはヴォルテール、モンテスキュー、サン・ランベールなどの文人、芸術家たちもしばしば滞在した。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの時代にも宮殿はあったのだが、今日なにも残っていない。ミニ・ヴェルサイユも壮大で往事の栄華を思わせるが、2003年の大火災で修復途上であり、集客力がない。


 最近、フランスの町村シリーズの一冊として刊行されている Histoire de Lunéville  (『リュネヴィルの歴史』)を手にした。しかし、この画家の名前は、biographie des hommes marquans de Lunéville 「リュネヴィルの重要人名録」に、この地に関連する著名人のひとりとして、わずか数行記載されているだけである。他方、生地ヴィックについては、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生い立ち、作品について記した、かなり多数の文献が刊行されている。リュネヴィルでは、この時代に市史のたぐいも戦火で焼失しているのだから、やむをえないのかもしれない。

 しかし、少し深読みをすれば、リュネヴィル市民にはこの画家について複雑な感情もあるのかもしれない。
17世紀の戦乱・災禍の時代に、ヴィックでパン屋の息子から身を起こし、妻の実家のあったリュネヴィルでは貴族の妻の家系の縁で貴族となり、ルーヴル宮に部屋を持つフランス王室付きの画家にまでなった。リュネヴィルでは、修道院に並ぶ大地主としてしばしば農民などとの軋轢・怨嗟の的となった。

 とはいってもラ・トゥールは自らの作品以外には、ほとんど人格判断の材料となりうるものを残していない。すべて、断片的に残る公文書などからの後世の類推である。しかし、リュネヴィルには、広大な土地も保有した
強欲な画家というイメージが残っているのだろうか。今日のリュネヴィル市民には、郷土が生んだ大画家に複雑な思いがあるのかもしれない。いずれにせよ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の本質を理解するのは、かなりの努力が必要なことだけは間違いない。

 

コメント
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