時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家になった息子と母親:ジャック・ステラ

2009年02月25日 | 絵のある部屋

Jacques Stella (1596-1657)
Portraits de Jacques Stella et de sa mère, Claudine de Masso
Huile sur toile - 65 x 55 cm
Vic-sur-Seille, Musée départemental Georges de La Tour
Photo : Musée départemental, Vic-sur-Seille


 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生地ヴィック=シュル=セイユに建てられた美術館を訪れた時に、併せて展示されているラ・トゥール以外の画家の作品で、ぜひ見たいと思っていたものがいくつかあった。
   
 そのひとつが、ジャック・ステラ 
Jacques Stella (1596, Lyon-1657, Paris)という画家の作品である。17世紀フランス美術がかなりお好きな方でないとご存じないかもしれない。日本では、プッサン、ラ・トゥールよりも一般に知られていないのではないだろうか。一般向けの西洋美術史の文献などでは、あまりお目にかからない。なぜ、この画家に関心を持ったのか。実は、あることで、この画家が描いた一枚の作品に興味をひかれたからだった。

 その作品とは、画家である自分と母親とを並べて描いた自画像(上掲)であり、現在、ヴィック=シュル=セイユの美術館が所蔵している。詳細に立ち入る前に、日本では専門家以外あまり知られていないジャック・ステラについて、少し記しておこう。

 ジャック・ステラは、1596年、フランス、リヨンで生まれた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1593年生まれであるから、ほとんど同時代人である。彼の父親フランソワ・ステラは、フレミッシュ出身の画家であり、商人でもあったが、息子ジャックに画業を伝える前に世を去った。しかし、ジャックの兄弟など家族には画家や彫刻家などがおり、芸術家の血筋を受け継いだ家系であったようだ。

 ジャックはリヨンで修業をした後、イタリア、フローレンスへ行き、1616年から1621年まで、メディチ家コシモII世の宮殿で主に版画家として雇われ働いた。同じ時、同じ場所に、ロレーヌの銅版画家として著名なジャック・カロもいた。1621年、コシモII世が亡くなった後、ステラはローマへ移り、油彩画、石版画などで名をなし、10年ほど過ごした。

 ローマでは、ジャック・ステラは、教皇ウルバンVIII世のために作品を制作した。当時、ローマにいたニコラ・プッサンの古典主義的画風から大きな影響を受け、終世折に触れ、手紙を交わす親しい友人となった。ステラはプッサンとおそらくリヨンで出会っていたのだろう。ステラが傾倒したこともあって、後年ステラの作品は、しばしばプッサンの作品と混同されることもあったようだ。ステラの作品は、彼の生地であるリヨンの美術館をはじめとして、世界中に分散、所蔵されている。古典的な美しい作品が多いが、プッサンほど重い印象を与えない。フランスにおけるプッサンの国民的画家としての評価を考えると、ステラはもっと評価されていい画家ではないかと思っているほどだ。

 ジャック・ステラはその後、1634年にはリヨンに戻り、1年ほどしてパリへ移った。リシリュー枢機卿の推薦で、ルイXIII世の王室付画家 peintre du roi の称号を授けられ、ルーブル宮殿に作業場をもらっていたと推定されている。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも同じ称号を授与されている。文献にラ・トゥールがこの称号を付して現れるのは、1639年頃からであり、ほとんど同世代の画家であった。

 さらに、ステラは1000ルーヴルの年金も受けていたようだ。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも、同様な年金をもらっていた可能性が指摘されているが、確認されていない。ステラとラ・トゥールは、パリなどで会った可能性もある。少なくとも、お互いの噂などを聞いていたことはほとんど間違いない(この点、ラ・トゥールの専門研究書にも触れられていない)。

 これらの点から明らかなようにい、ジャック・ステラとラ・トゥールの人生には、かなり似通ったものが感じられる。この時代のヨーロッパの画家たちが望ましい画業生活のあり方として描いたイメージのようなものがそこにある。

 そのイメージとは、先ず、生まれ育った地で徒弟などの修業を行い、その後当時の画家、芸術家たちの憧憬の地であったイタリアへ行き、時代の先端とされたローマの空気に触れ、その成果を携えて帰郷するという経路だ。ラ・トゥールについては、イタリアへ行ったか否かの確認はできていない。しかし、カラヴァジョなど当時のイタリアの画壇の風は、しっかりと受け止めている。ステラは、イタリアへ行っていたにもかかわらず、作品を見るかぎり、カラヴァッジョの影響はほとんど感じられない。むしろ、古典的なプッサンの画風に著しく近い。

 ステラは、プッサン、シモン・ヴーエなどと一緒に、パリなどで仕事をしたとみられる。プッサンはよく知られているように、ほとんどイタリアで画家としての生活を送ったが、一時パリへ戻っている。ステラは、1644年頃にはリシリュー枢機卿宮殿の装飾も手がけた。また、ステラは、プッサン、ラファエル、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの作品を収集していたことでも知られている。

 さて、ステラの『画家と母親の自画像』について、記したい。2007年春にヴィック=シュル=セイユのジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館を訪れた時、この作品はあいにく貸し出し中であった。ちょうどその時、画家が生まれ育ったリヨン(そしてトゥルーズ)の美術館で、この画家の企画展*が開催されており、貸し出されていた。

 最近、ロレーヌをベ
ースに、大変楽しく、貴重な情報源でもあるブログ、『キッシュの街角』の記事を拝見している時に、ラ・トゥール美術館内の光景が写真で掲載されており、そこでステラの作品(2番目の写真左)が戻っていることに気づいた。

 ステラは自分ひとりの自画像(下掲)も描いている。こちらの方は黒いローブを着て、免状のようなもの(画家ギルト入会許可書?)を手にしており、見るからにフォーマルに描かれている。画家としての誇りと緊迫感が伝わってくる作品だ。実は、2006-7年のリヨンでの企画展では、2枚の自画像を並べて展示することに大きな意味があった。

Attribué à Jacques Stella (1596-1657)
Portrait de Jacques Stella 
Huile sur toile - 84,5 x 67 cm
Lyon, Musée des Beaux-Arts
Photo : Service de presse 


 母親と並んでの自画像も大変興味深い。こちらは明らかに家族のためを意図して描かれた作品と考えられる。画家自身は、赤い色のチョッキを着て、少しくつろいでいるが、なかなかお洒落な格好で?描かれている。白い襟もしわが寄って、くだけた感じを与える。他方、母親は手袋を持ち、黒い衣服、帽子に白いブラウスで、なんとなく知的だが、緊張したお堅い?イメージだ。リヨンで教会などへ行く晴れ着だったのだろうか。衣装の歴史にはまったく疎いが、いつか調べてみたい。ステラの家系についても興味深い点がいくつかある。いずれにせよ、非常に興味深い作品として気になっている肖像画である。

 

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帰ってこない労働者:中国農民工の春節

2009年02月23日 | グローバル化の断面

 移民問題のウオッチャーとしては、大変興味深い番組を見た。『再訪・上海バスターミナル:不況下の帰省ラッシュ』と題するドキュメンタリーである。上海と中国各地を結ぶ長距離バスの発着点である南駅(正しくは長途汽車客運南站)の一日を追った内容だ。上海という中国きっての大都市と内陸部を結ぶ拠点的存在のバスターミナルだ。実は、この番組では2007年春節(中国の正月)の時に、同様なテーマを取り上げていた。今回は、2年後の追跡番組に相当する。上海は一時かなり頻繁に訪れた所だけに懐かしい。

 前回の上海は好景気に沸いていた。南駅は90万人近い帰省する出稼ぎ労働者や家族で、文字通りごったがえし、大混雑だった。バスに乗れない乗客のために臨時バスが増発され、駅職員にお年玉袋まで出された盛況ぶりだった。

激変した駅の光景
 しかし、2年後の今年は、まるで様変わりだった。
グローバルな大不況の衝撃は、まぎれもなく上海にも及んでいた。春雪前夜、いつもなら立錐の余地もない駅の構内は、ピーク時を除けばガラガラだった。上海から寧波への最終バスは、二人しか乗客がいなかった。
 
 最終バスが出た後に、小学生の息子と父親がベンチに座り込んでいた。店を開くと故郷を出て、上海へ出稼ぎに行った妻を追ってきた。しかし、やっと電話に出た妻は「私を捜さないで」と、居所を明かさない。父親の懐には残金10元しかない。結局、傷心の父親と子供は、駅関係者の好意で一夜の宿を得て、寒風吹く中で過ごすことだけは免れたが ・・・・・・。 
 
中国では外国への出稼ぎよりも、国内農村部から都市部への出稼ぎの方がはるかに多い。北京五輪の施設の建設に当たったのも、ほとんど出稼ぎ労働者だった。しかし、会期中、彼らは会場から遠ざけられた。   
 
  春節が終わっても上海へ帰ってこない人たちもいる。不況で春節後の仕事の見込みがないのだ。彼らの中には、
給料不払い、遅配などで、故郷へ戻りたくとも戻れない人もいる。いつも家族が楽しみにしている故郷へのお土産もなく、身一つで故郷へ帰る寂寞感の漂う農民工の姿(2千万人近くが失業ともいわれる)。でも、帰れるだけよいのかもしれない。故郷へ帰ることをあきらめ、春節の間も上海に留まる人も増えた。警察の取り締まりが始まらない厳冬の早朝、駅の屋台で帰郷客に食べ物を売って過ごす。

避けがたい「一家離散」 
 農村へ家族を残しての出稼ぎは、出稼ぎ者にも残された者にも過大な負担を強いる。多くの出稼ぎ者は2年、3年と都市の下層生活を続ける。故郷へ帰れるのはわずかに春節の時1回だけだ。家族の生活費、このごろは子供の教育費を稼ぐための出稼ぎも多いようだ。「夢を子に託す」人々だ。

 家族が離れて住む間には、多くの悲劇も生まれるのは人間社会の常だ。「一家離散」(ディアスポーラ)の苦難は、国内出稼ぎでもいたるところに起きている。

 中国の都市と農村間に存在する想像を絶する所得格差。それは数十倍ともそれ以上ともいわれる。その格差はすさまじいばかりの光と影の場を作り出す。天災のように襲ってきた金融危機で、農民工と呼ばれる出稼ぎ労働者、そして彼らの家族の姿は、いま大揺れに揺れている。

 ひとりひとりの農民工やその家族が過ごしている日常の実態は、日本の実態よりもさらに過酷に思われる。上海ではやっと農民工を対象とする再就職説明会が3カ所で開催されたようだ。270社、4500人分の求人があったらしい。公共事業でできるだけ吸収する方針と伝えられる。いまは、かろうじて人間としての連帯が支えている。番組編成上の配慮からかもしれないが、かすかながらも人間の温かみが伝わってきた。加油中国!                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             


*
 原題: 再訪・上海バスターミナル ~不況下の帰省ラッシュ~制作: NHK/日本電波ニュース社(日本) 2009年 ★ BS1 2009年2月19日「金融危機」

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スペイン:EU・フロンティアを襲う失業

2009年02月21日 | グローバル化の断面

 このたびのグローバル大不況が及ばない地域は、探すのが難しいくらいになった。市場経済が存在する限り、不況は容赦なく浸透して行く。変化は、しばしば地域の最前線で厳しい。象徴的な例が、EU砦の外壁を構成するスペインやポーランド、チェッコなど東欧・旧ソ連圏諸国だ。母国にまともな仕事の機会がないことを知りながらも、出稼ぎの夢破れ、帰国する労働者が増えている。

 過去10年近く、スペインはEU諸国の中で最大の雇用創出を行った国といわれてきた。ところが、このたびの不況では最も激しく雇用が失われている。現在の失業率は13%、失業者は3百万人を越えている。その数は人口が8割以上多いドイツにほぼ匹敵する。ヨーロッパの失業率平均は7%である。スペイン貯蓄銀行の予測では、同国の失業率は2010年には18%、4百万人を越えるとされる。

 スペインではアメリカ同様住宅ブームも瞬く間に崩壊した。建設現場では農家の若者が高い賃率を求めて多数働いていた。労働力が不足し、農業が立ちゆかなくなった農村は、移民労働者を多数受け入れることで、なんとかEUの農産物需要へ対応してきた。スペインの農業部門は、過去10年間に5百万人近く外国人労働者を受け入れてきた。しかし、不況は彼らに最も厳しい。農業労働者への風当たりが強くなっている。国内の若者が農業へ戻りつつあり、移民労働者が追われている。どこでも、不況は弱者に厳しいのだ。EU加盟国の中でも、砦の外壁を形作る国々から中心へ向かって、危機は強まっている。

 さらにスペインの成長を引っ張ってきた自動車産業も苦境のまっただ中にある。EUの中では相対的に労働コストが低かったスペインは、自動車、電機などの多国籍企業が立地を求める所であった。ところが、今回の不況では、GMが最初に大量のレイオフを行い、日産、ルノーも人員削減を実施している。自動車産業は、スペインが大きな期待をかけてきた産業分野だけに、その崩壊は国民に衝撃を与えた。

 ザパテロ首相は330億ユーロの公共事業を行い、新たなプロジェクトを創出すると発表している。しかし、スペインでは社会保障システムも破綻しており、惨憺たる状態のようだ
 
 スペインの大きな問題は、将来を担う産業基盤が十分確立できていないことだ。今後の成長に大きな鍵となる国民教育の充実、競争力ある研究開発がまったく地に足がついていない段階での大打撃だ。この国は「粘土の足」で歩いているとまでいわれている。

 スペインではこれまで、不況時には伝統的に家族がお互いに頼りあって過ごしてきた。しかし、その家族も小さくなり、高齢化も進んでいる。この点はポルトガル、イタリアなども同様だ。これらの国々がいかなる形で不況に対処するかは、地域開発の今後を測る意味で注目に値する。

 不況の進行とともに、最も深刻な状況に置かれているのが、同国内で働く移民労働者だ。スペインは、かつて移民送り出し国であったが、いまや移民受け入れ国に転換している。しかし、今は多数の移民労働者が仕事を失い路頭に迷っている。EUの他地域へ移動しても、仕事の機会は期待できなくなった。ザパテロ首相は、移民労働者には帰国費用を提供すると言っているが、応募者は少ないようだ。そして、スペインが再生のために必要とする高いスキルを持った労働者から逃げ出してしまう。

 同様な動きは東欧圏諸国でも起きている。フロンティアでの労働力の動きはきわめて激しい。グローバル不況のバロメーターのようだ。大きな潮目の変わり時、移民ウオッチャーも結構忙しい。

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スターの表情:演技と素顔

2009年02月18日 | 雑記帳の欄外

 偶然、ゴールデン・グラブ・アワード(GGA)の授賞式の中継を、ABCニュース*で見た。いつも、この時期に開催されるようだが、特に関心もなく、これまでは見たことがなかった。誰が最終的に受賞するかは、ハリウッド外国人記者クラブ会員の無記名投票で決まるらしい。投票結果は、金庫に厳封されて、授賞式会場で発表の瞬間までは公開されないとのこと。

  華やかな会場で、着飾った多数のスターやその家族、関係者たちが見つめる中、次々と受賞者が発表される。名前を告げられた受賞者はそれぞれに驚きや喜びの表情でステージに上がり、感謝の言葉を述べる。  

 出席している受賞候補者は自分が候補 nominees に上っていることくらいは予期して出席しており、受賞の栄誉を受けた時のスピーチなどをあらかじめ頭に置いているであろうことは十分予期できる。各賞4人の候補がノミネートされた後、最終受賞者の名前が読み上げられる。最終的に受賞者として選ばれた瞬間の表情や、直後のスピーチが大変興味深かった。

 いうまでもなく、TVカメラなどなんとも思っていない業界人であり、演技と実際の感動の境界がどのへんにあるのか、なかなか見極めがたいのだが、それにしても面白い。始めての受賞者の中には感極まって、涙ぐんだりする人もいたり、あらかじめ感謝する人々を書き留めてきて読み上げる人もいる。他方、過去に受賞やノミネーションを経験しているスターたちは受賞慣れ?していて、当然ながら落ち着いている。受賞するのは当たり前という表情すらうかがわれる。  

 いずれもきわめて個性的で、人に訴えるスピーチとはいかなるものであるかが、よくわかる。全体として、感情を率直に表すスピーチが印象的だ。大スターたちは、こうした儀式には慣れていて平然としている。会場を手玉にとっているような感じさえする。しかし、それでも主演女優賞を受けたケイト・ウインズレットの場合は、会場とのやりとりなどが印象的だった。イギリス人とアメリカ人の差なのかもしれないとふと思った。かつて、いまや大女優として圧倒する風格のヴァネッサ・レッドグレイヴについても、同じような印象を受けたことがあったが、ケイト・ウインズレットの場合は、今後どんな変化をみせるのだろうか。 

 印象が強かったのは、「セシル・デミル賞」を受賞したスティーヴン・スピルバーグ監督の受け答えだった。大物監督の話だけに、この時だけは会場は静まりかえっていた。この監督は早撮りで知られるが、そのわけを推測させる答があった。監督は、セットやリハーサルなど映画の伝統を重んじながらも、インスピレーション(ひらめき)を大変大事にしているという。鉄道模型を使った衝突場面などでも、迫真力をもって撮れるか、不安感がつきまとうことが制作の緊張感となるようだ。あまり何度もリハーサルをすると、そうした緊迫が劣化するらしい。インスピレーションが生きている間に撮影するということなのだろう。いまさら賞など、どうでもいいという感じも見せたが、並みいる
関係者が静かに聞き入るほど、大物監督の重みを十分感じさせた。


ABCNews BS2 2009年2月15日

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ロレーヌ魔女物語(5)

2009年02月15日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌ十字といわれるユニークな十字架。


大国の狭間に生きたロレーヌ公国 
 魔女審問が行われた頃のロレーヌ公国の歴史や風土を知る人は少ない。ロレーヌ公国は小国であった。当時の領土は面積にして、日本の九州の6割くらいだった。加えて、16世紀から17世紀前半にかけてのロレーヌは、地政学的観点からみても、きわめて複雑な状況にあった。その実態を理解しないかぎり、このブログのひとつのテーマであるジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の実像は見えてこない。 
 この時代、ロレーヌという小国の置かれた状況は、現代に引き戻して考えれば、ドイツとフランスの間にサンドイッチのハム状態に挟まれた形である。しかも、挟まれた内容がさらに複雑なものだった。神聖ローマ帝国とフランス王国という強大勢力の間に挟まれたこのロレーヌ公国の権威は、国内に存在する司教区(メッス、ツール、ヴェルダン)の教会権力にも脅かされていた。
 17世紀初頭のロレーヌの地図を見ると、海に浮かんだ島々のように、司教区などが領土を分断していた。それぞれの政治領土の間には、法制、関税、言語などの点で微妙な差異が存在した。歴代のロレーヌ公はこうした複雑な政治風土の中で、できる限り戦争などの争いを避け、小国としての安定と繁栄を探し求めた。


1600年頃のロレーヌの地図(詳細はクリック)。領土の中に多数の司教領、王領などが散在していることが分かる。 

フランスとのつながり 
 しかし、小国の悲しさ、神聖ローマ帝国とフランスという二大勢力を中心にヨーロッパ政治が変動すると、たちまち存立を脅かされる不安定な状況になった。
 他方、16世紀、17世紀前半は、フランスの王権も十分確立されたものではなく、当時オーストリアとスペインを統治していたハプスブルグ家に国土を包囲されているとの強迫観念にとりつかれていた。そして、この包囲網を破ろうと、フランス軍は神聖ローマ皇帝軍、スペイン軍と激しく戦った。フランス王は敵の敵は味方と考え、神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯やスエーデンのようなプロテスタント国とも同盟した。 ロレーヌ公の家系的、政治的つながりも、こうした勢力関係を強く反映していた。
 総体として、言語、文化の点では、ロレーヌ公国はフランスとのつながりが強かった。これには16世紀頃から歴代ロレーヌ公が、年少の時期をフランスの宮廷で過ごす慣行が成立していたことが影響していた。 しかし、この小国が宝石のように輝いていた時期もあった。ロレーヌ繁栄の頂点には、公国の歴史で「偉大なシャルル」といわれたシャルルIII世Charles III, duke of Lorraine and Barがいた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた時のロレーヌ公であった。

ロレーヌ公シャルルIII世:繁栄の時代 
 シャルルIII世は1552年からフランスの宮廷で過ごし、その知的・文化的環境を体得していた。在位の間は領土の拡大はできなかったが、公国としての独立を維持し、繁栄を生み出した。16世紀後半、フランスが宗教的、政治的混乱に陥っている間を利して、シャルルIII世は巧みに教会などの世俗的財産を司教区から公国側へ移すことなどに成功した。とりわけロレーヌにとって寄与したのは、マルサルでの岩塩生産の権利を取得したことだった。この塩田はロレーヌ公国の経済的繁栄の基盤となった。 
 ロレーヌ最大の都市として、ナンシーでの新市街開発も1590年代に進んだ。メッスが北の砦として、重きをなしているのに対して、バランスをとることが図られたようだ。絶えず隣国からの脅威の下にあったロレーヌ公国での最大都市としての位置をはじめて確立した。
 こうして、ロレーヌ公国に繁栄をもたらしたシャルルIII世だが、1608年3月14日、世を去った。この時、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは15歳になっていた。画家を目指し、修業の途上であったと思われる。 ロレーヌ公国の存在をヨーロッパ史上で知らしめたひとつの出来事は、皮肉なことにシャルル公の葬儀だった。葬儀は実に2月半以上続いた。その盛大さはフランス王や神聖ローマ帝国の戴冠式にも匹敵するほどだったと言われている。小さな国の大儀式だった。その盛大さは、今日まで伝わっていrる。


LA POMPE FUMÉBRE DE CHARLES III
NANCY MUSÉE LORRAIN 
歴史に残るロレーヌ公シャルルIII世の葬儀


 シャルルIII世が在位中に魔女裁判に直接関わった証拠はなにもない。一時フランス王の座を目指したこともあった公だが、それが叶わないとなった段階で、旧い状態を維持することを前提にフランス王と平和協定を結んだ。

宗教改革の衝撃  
 こうした努力にもかかわらず、ロレーヌ公国は次第に深刻な問題に直面していた。その大きな原因は公国の外にあった。フランスにおける宗教戦争の拡大と新教国としてのオランダの独立だった。宗教改革と対抗宗教改革(カトリック宗教改革)の衝突は、この時代を支配した最大の問題だった。フランスではアンリ4世のナントの王令で、ヨーロッパでは類を見ない一国王2宗教(カトリック、プロテスタント)の体制がしばらくの間だが実現した。 
 宗教改革で防衛側に追い込まれたカトリック教会側は、16世紀中頃、代表がトリエント公会議を開催、教会の改革に精力的に取り組んだ。そして、プロテスタントから批判の的となって諸点を含めて、カトリックとしての基本方針を定めた。その線上に、17世紀には「対抗宗教改革」(カトリック宗教改革)
と呼ばれるカトリック教会の自己改革が進められた。

カトリックの拠点だったロレーヌ 
 ロレーヌ公国の政治を貫いていた糸は、カトリック信仰への忠誠であった。すでに1525年ドイツ農民戦争で、アントワーヌ公はアルザスから進入した農民兵を撃退している。その後も、ロレーヌ公国内のプロテスタンティズムの騒乱を初期に押さえ込むというカトリック側としては、効果的な対応がとられてきた。
 公国内にみられた一部の目立ったプロテスタントのコミュニティは、公国の権力が十分およばないような地域とか縁辺部に限られていた。プロテスタントの最も重要なコミュニティは、メッス、ファルスブルグのような独立性の高い地方、南東部のドイツ移民鉱夫の間などだった。メッスはフランスの駐屯軍が置かれていて、プロテスタントへの暗黙な協力があった。
 ロレーヌはカトリック宗教改革のいわば最前線、拠点であった。そのため新しいカトリック改革の秩序を確立したいという努力が他地域よりも速やかに進んでいた。1572年、ポンタムッソンにはジェスイット大学が設置され、改革の神学的支えを提供した。 
 しかし、カトリック内部にも新旧の摩擦が絶えなかった。トリエント公会議の方針を推進する動きとカトリックの旧来の体制との摩擦も多く、かなり複雑な様相を呈してはいた。新旧の権威と迷信がしばしば一貫せず、混じり合っていた。こうしたロレーヌ・カトリシズムは、この時代の典型でもあった。魔女狩りが多発したのもこうした風土においてであった。当時のロレーヌでは、新旧の権威と迷信がしばしば一貫しないままに存在していた。
 公国として注意深く設定され、統一された強い政策が欠如していたこと、隣国フランスやオランダのような深刻な宗教上の闘争があまりなかったことは、ある意味でロレーヌ公国の大多数を占めた農民などにとっては幸いだった。小国であるがゆえに、軍隊の力や税金に、ほどほどしか依存しえなかった。結果として、公国として統一できない地域文化が存在することを許容していた。地域性に根ざしたさまざまな民間の習俗、信仰、呪術が生き残る地盤があったといえる。魔女審問が多かった背景のひとつである(続く)。

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がんばれ中国!

2009年02月13日 | グローバル化の断面

把握しがたい失業実態
  最近発表されたアメリカの雇用統計によると、本年1月の全米失業率は7.6%(季節調整済)、1992年9月以来、16年4ヶ月ぶりの水準にまで悪化した。ABCのキャスターは「まぎれもなく」crystal clear 最悪の事態だと報じた。オバマ大統領は失業が厳しい事態を生んでいる各地を歴訪、視察しているようだ。
 世界にはきわめて深刻な事態でありながら、その実態が「明らかでない」地域もある。その最たるものは、アジアの大国、中国である。中国の都市失業率は、2008年4.2%(2007年4.0%)とされ、中国政府は今年は4.6%以下に抑制したいとしている。
 実はこうした数値から中国の労働実態を推測することはきわめて難しい。失業率は都市部についてのみ公表されており、膨大な農村部が含まれていない。農村部から都市部へ出稼ぎにくる農民工といわれる出稼ぎ労働者の実態も、この数値からは推測できない。公式発表としては、出稼ぎ労働者の数はおよそ1億3千万人(2億人という推測もある)とされ、その15.3%が職を失っているとされる。なお、この中には帰郷せず沿岸部で職を探している人は含まれないので、実際の失業者はもっと多い。中国政府は、2千万人以上の出稼ぎ労働者が沿岸部工業地帯で職を失い、旧正月時に地方へ帰郷していると発表した。
  農村からの出稼ぎ労働者は毎年600万―700万人ずつ増加している。2009年は失業した農民工と合わせ、約2500万人の就業圧力がかかるという。
  これまでの中国の発展過程において、農村はしばしば衝撃を吸収する緩衝材の役割を果たしてきた。失業に限らず、さまざまな問題をその膨大な人口の中に包み込み、嵐の過ぎるまで耐えてきた。しかし、今回はかなり難しい。アメリカ発の大津波は中国全土を覆いそうだ。

「無給休暇」の実態
  最近、中国の友人、知人や留学生が知らせてくれたことで興味を惹かれたことのひとつに、メディアで「無給休暇」という言葉が目立つようになったということがある。日本でも「有給休暇」という言葉は一般化しているが、「無給休暇」はあまり聞くことがない。 「無給休暇」は、最近の経済不況の過程で、人件費削減のひとつの手段として、企業に静かに広がっているらしい。
 非公式だが総工会の弁護士なども、原則として労働者に休日・休暇を与えることは望ましいとした上で、「無給休暇」は導入プロセスが合法であり、従業員代表と話し合い、現地の組合又は企業の組合が同意すれば実施ができるとの見解のようだ。
  「無給休暇」とは二つの概念を含み、第一に、労働者が自ら休暇を申請、取得した場合、第二に、使用者が積極的に労働者に対して休暇を手配し、かつその休暇の給与を支払わない場合である。前者は、特に説明は不要だが、後者が問題だ。
  昨年1月1日に施行された中国の労働契約法には、「無給休暇」については特段の規定はない。現在の段階では「無給休暇」のケースが発生した場合、直ちに失業とは見なされず、また解雇ともいえない状態におかれる。すでに労働契約を締結している場合、会社の生産、経営が困難あるいは業務・生産停止により会社が従業員を休ませる場合、会社は、従業員に毎月基本生活費を支給しなければならない。その額は該当地の政府と会社が基準を決める。労働者に給与を支給しなければならない。国家の統一規定はなく、上海などの場合は、少なくとも市規定の最低賃金基準を下回ってはならないとされているようだ。
 新労働契約法が施行されたが、現実にはさまざまな違法あるいは法をかいくぐる動きがみられるようだ。なにしろ、「上に政策あれば下に対策あり」の国である。現在の段階では、上海のような都市部で、大量解雇によって大きな紛争などの社会問題に発展しているケースは見られないようだ。しかし、こうした事態が一般に話題となるほど、労働市場でも状況の悪化は急速に進んでいるとみるべきだろう。

深刻な大卒者市場
  農民工の問題と並び、深刻な事態に直面しているのは、大学などの新卒者だ。昨年、中国の大学の新卒者は560万人と前年より65万人増加し、過去最高の増加となった。今年はさらに約61万人が上乗せされると推定されている。しかし、すでに昨年末、約150万人が失業している。中国共産党は、今年は5月4日が五四運動90周年、6月4日は天安門事件20周年にあたり、厳戒体制であたることになろう。温家宝首相は大学へ出かけていって学生に言った。「君たちは心配だろうが、私はもっと心配しているのだ」(The Economist Jan.31 2009)。温家宝首相への信頼は高いようだが、心中大変なストレスがたまっているだろう。
  崖から落ちるようだといわれる急激な輸出の低下は、これまで破竹の勢いで伸びてきた中国輸出関連産業に大打撃を与えている。昨年来、中国メディアに目立つようになったのは、「内需」という言葉だ。海外市場が総崩れの状況では、内需の喚起以外に経済回復の道はない。その道はかつてない苦難に満ちている。家計の貯蓄率は高いとはいえ、社会保障面などが不安な中国では、政府が消費を推奨しても庶民の懐は緩まない。
 世界で一国だけが繁栄できる時代ではなくなったことはいうまでもない。中国の雇用問題はアメリカなどと比較すると、統計上の問題もあり、これまであまり関心を集めなかった。しかし、今やその動向から目が離せなくなってきた。政治、経済共に迷走を続ける日本の今後は、アメリカ、中国の経済に大きく依存している。加油!中国。




References
‘A great migration into the unknown.’ The Economist January 31st
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会えてよかった:『蜂の寓話』

2009年02月10日 | 書棚の片隅から

 かなり頻繁に書籍の「レイオフ」(処分)をしてきた。本意ではまったくないのだが、陋屋の収容限界があって涙ながらの措置だった。古書店などを通して、再びどなたかのお役に立つものと思ってあきらめてきた。大部分はこの20年くらいの間に整理し、身の回りになんとか見苦しくないほどの空間が生まれた。しかし、いずれ別れる時までは手許におきたいものもかなり残っている

 マンドヴィル『蜂の寓話』(上田辰之助著、新紀元社)は、
レイオフしていないはずだと思っていた。先日、「定額給付金」問題との関連で、思いがけず記憶の底からよみがえった一冊である。その後、幸い書庫の片隅に生き残っていたのを発見した。レイオフされなくてよかったなあ!
  
 奥付を見ると、昭和25年20日第一刷、定価380円とあった。父親から引き継いだ蔵書の中の一冊だ。経済学とはとりわけ関係なかった父親がいかなる理由で購入したのか、今となっては確かめることはできない。『百科事典』(平凡社)、『国民大百科事典』(富山房)、ウエルズ『世界文化史大系』、『日本文学全集』、『プルターク英雄伝』、『ロビンソンクルーソー』など、雑多な本の中にあった。

 価格の実感が湧かないかもしれない。この上田氏の著書が刊行された年の前年、東京都の失業対策事業として、職業安定所が定額日給として支払った額が240円であった。今日の「デイ・ワーカー」に近い日雇い労働者は、この日給にかけて、「ニコヨン」と呼ばれていた。この賃金額を考えると、決して安くはない価格だ。別に稀覯書でもないのだが、ネット古書店の価格では定額給付金では買えない価格がついているようだ。しかし、実際にレイオフされる時は、市場価格の数十分の一?以下なのです(涙)。

 半世紀以上の歳月を経ているため、さすがに表紙もかなり黄ばみ、変色している。紙質も今のように良くなかったことも影響しているようだ。

 本書はマンドヴィルの詩篇の訳書というよりは、この希有な思想家とその作品(詩篇)『蜂の寓話』の学術的研究書だ。本書の終わりの部分に、現著者序文(譯文)、『ブンブン不平を鳴らす蜂の巣』(上田氏譯文)、詩篇(英文)、原著書序文が付いている体裁で、総ページ数(346ページ)の内、250ページ余は上田氏の解説を含めた研究成果である。

 『蜂の寓話』は、再び読み出したら止められない奇妙な魅力をもった作品である。経済活動の根源的意味を考えるには、格好な材料を提供してくれる。いまや政治家の発言の枕詞になった「100年に一回の」大不況のさなか、個人の消費が全体としては美徳になると政治家が説いても、財布のひもは緩むことはあるまい。


悪の根という貪慾こそは
かの呪われた邪曲有害の悪徳。
それが貴い罪悪「濫費」に仕え、
奢侈は百萬の貧者に仕事を與え、
忌まわしい鼻持ちならぬ傲慢が
もう百萬人を雇うとき、
羨望さえも、そして虚栄心もまた、
みな産業の奉仕者である。
かれらご寵愛の人間愚(オロカサ)、それは移り気、
食物、家具、着物の移り気、
ほんとうに不思議な馬鹿気た悪徳だ。
それでも商賣動かす肝腎の車輪となる。

『蜂の寓話』(上田 7ぺージ)
からの一節。

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ロレーヌ魔女物語(4)

2009年02月05日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌの草原を流れるセイユ川

グアンタナモへつながる魔女狩り 
  オバマ新大統領は就任早々の22日、キューバ・グアンタナモ米軍基地にブッシュ前政権が設置した対テロ戦収容所を、1年以内に閉鎖することを命ずる大統領令に署名した。ブッシュ路線との決別を意味する象徴的な決断だった。アメリカ史上の汚点といわれる1692年に始まったセイラム魔女審問の延長上にあるとされてきたテロ容疑犯の収容施設である。現代の名にふさわしくないおぞましい状況が露見、摘発されてきた。遠くたどれば魔女狩りの時代へとつながっている。  

  魔女の問題が為政者の大きな関心事となることは、17世紀においてもかなりあった。宗教と政治の境界が定かでなかった時代であった。魔女狩りはカトリック教会の力が強かった中世よりも、近世に入ってからの方がはるかに増加している。宗教改革によって教会の力が弱まり、呪術や魔術が再び力を得て、隙間へ入りこんできたといえようか。そればかりでなく、魔術や魔女狩りは、しばしばカトリック世界の中心部に近い修道院の中から生まれてきた。

魔女狩りの原型
 1609年、フランス、エクサン・プロヴァンスのウルスラ会の修道院で、貴族出身の若い修道女が幻覚と夜驚症状にとらわれた。この修道女に悪魔が憑いていると考えたドミニコ会の修道士が公開の惡魔祓いの儀式を行う場で、修道女はルイ・ゴーフリディ神父というマルセイユでアクール聖堂区の主任司祭を務める高名な人物を名指しで非難し始めた。彼女はマルセイユに住んで、神父の指導を受けていた頃、自分に魔法をかけたと述べたのだ。神父は最初のうちは、司教の支持をとりつけたりして、身の証を立てることができたが、うわさは拡大し、事態を放置できなくなったエクスの高等法院は神父を捕らえた。1611年2月、拷問の末、神父は自供し、惡魔と契約したこと、信仰を捨てたこと、サバトに行ったこと、呪いをかけたことを認めた。修道女を誘惑し、魔女にしようとたらし込んだと告白した。1611年2月、ゴーフリディは火刑台へ上った。 

 
ルーダンの憑依
 このエクスの惡魔憑きのうわさは、あっという間にフランス中に広まった。もちろん、ロレーヌでも大きな話題となっただろう。エクスの事件は、その後、この時代の魔女審問のいわば原型になった。その後、1632年にはルーダンの惡魔憑きとして、これも大変よく知られている惡魔祓い裁判が、同じようなプロセスで起きた。その経緯は後世さまざまな学問的研究、小説、演劇、映画などの題材となった。ルイXIII、宰相リシリューまでが深く関与した政治的にも大事件だった*



1634年ルーダンで火刑に処せられるサン・ピエール・デュ・マルシェ教会主任司祭、サント・クロワ教会聖事会員ユルバン・グランディエ師。当時流布した銅版画の一枚。(このグランディエ司祭、なんとなく明るい容貌に描かれていますが。その謎を解く秘密は、下記セルトーの力作をご覧ください。)  

  魔女狩りや魔女審問はヨーロッパの諸地域に、平均して見られたわけではない。時代や地域によって、かなりばらつきが見られる。しかし、そうした差異を生み出した要因については、十分解明ができていない。17世紀のフランスあるいはロレーヌ公国においても、今日に残る記録でみるかぎりでも、さまざまな審問事例があることが分かる。この時代はヨーロッパにとって宗教改革の嵐が襲い、対立と混迷をきわめた「宗教の時代」から近代への移行の時期であった。  

  ロレーヌを含めて、フランス語圏では魔女審問が他地域よりも多かった。ロレーヌ(ドイツ語:Lothringen)の名は、現在のフランス20地域のひとつとして受け継がれている。しかし、17世紀ロレーヌ公国の領土は、現在のロレーヌより小さかった。ロレーヌは、古く遡れば6世紀には、オーストリア・メロヴィンガ朝は、この地域のほとんどを領有し、ブルーネヒルト(Brunehild,ワーグナーの悲劇的ヒロインの遠い原型)はメッスを都としていた。

忠誠の二面性 
  しかし、17世紀のロレーヌは、地域としては統一がとれていない存在だった。ロレーヌ公国の名を掲げながら中央集権の力は及ばず、国境近辺は、フランスや神聖ローマ帝国との争いによって漠としていた。ロレーヌは公式には神聖ローマ帝国の版図に含まれていたが、住民にとってはあまり関係のないものだった。他方、バロア朝を支持する勢力があって、伝統的にフランス側につき、ロレーヌ公はフランスに忠誠を誓っていた。この神聖ローマとフランスに関わる二面性は、ロレーヌに複雑な中世的状況を生み出してきた。 

  魔女狩りは中央集権が行き届いた地域よりは、辺境、周辺の領邦など、政治的統一性の緩やかな地域で多発したようだ。ロレーヌも公国としての集権力は弱く、内外の敵に脅かされていた。公国は、メッス、ツール、ヴェルダンの司教区の教会権力からも脅かされる状況にあった。そうした中で、歴代のロレーヌ公は、強国の狭間で懸命に均衡をとりながらも、できうるかぎり戦争を回避し、懸命に領土を維持してきた。  

  しかし、ヨーロッパ政治が大きく動くと、この小さな公国はたちまち揺らいでしまい、独り立ちが困難になっていた。公国の領土は狭小であり、政治、文化の中心ナンシーは、隣接するどの国の国境からも90キロ程度しか離れていたにすぎなかった。美術史のテキストなどでは、当時ロレーヌを旅した旅行者の目には、この国は天然資源も豊かで大変繁栄しているように映ったと描かれていることが多い。しかし、経済史などの観点からは、人口密度が低く、税収吏の力も弱く、税率が低かったので、税収基盤が小さかったにすぎないからとされている。歴代のロレーヌ公は、支配権力が十分でなく、フランスのように農民から税金を搾り取ることはできなかった。ロレーヌの住民の大部分を占めた農民は、相次ぐ戦乱、悪疫などの襲来で、見かけの豊かさとは程遠い状況に置かれていた。物質的にも精神的にも不安な時代が長く続いたロレーヌは、魔術や呪術、さまざまな世俗的信仰、民間療法などが忍び込みやすい風土だった。
  




References
* 
Michel de Certeau. La possession de Loudun. édition revue par Luce Giard. Paris: Gallimard/Julliard, coll. Folio histoire, 2005 (1970) 

Michel de Certeau. The Possession a Loudun, translated by Michael B. Smith, with a Forward by Stephen Greenblatt. Chicago: University of Chicago Press, 1996l.

ミシェル・ド・セルトー(矢橋透訳)『ルーダンの憑依』みずず書房、2008年。  
 
 本書は、17世紀フランスの魔女狩り、魔女審問の典型を深く、鋭くえぐった見事な一冊だ。すでにオルダス・ハックスリーの『ルーダンの悪魔』 The Devils of Loudun や映画化などでも、よく知られているが、セルトーのこの著作はきわめてよく考えられた組み立てと周到な史料調査に基づき、当時のフランス全土を揺るがせた事件の深層に迫っている。ロレーヌ公国における魔女狩りに関する史料的な Briggs(2007)の最近作などと併せて読むと、フランス、ロレーヌというフランス語圏における精神的・文化的風土の深奥へ少し入り込めた感じがする。

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激変する移民労働市場

2009年02月03日 | 移民の情景

広がる移民労働者の帰国
 移民(外国人)労働者がグローバル大不況の浸透に伴い、出稼ぎ先で仕事を失い、自国へ帰国する動き(1月3日) が顕著になってきた。不況が到来すると、最初に解雇されるカテゴリーの労働者なので、この動きは予想されたことではある。言い換えると、移民労働者の動向は労働市場の最先端の動きを知るに欠かせない。
 今回は世界のほとんどの地域で一斉に逆流現象が起きている。ドバイ、アブタビなど湾岸諸国のように、8割近くを出稼ぎ外国人労働者に頼こる国では、衝撃はことのほか大きい。これらの国々は彼らに定住を認めず、市民権取得の道も閉ざしているため、工事などの契約が終了したら即時帰国しなければならない。
 帰国する労働者のほとんどは、自費で帰国費用を調達しなければならない。日本に来ている日系ブラジル人などの中にも、仕事の機会がなく帰国しようと考えても帰国費用も払えず、寒い冬空に苦難の日々を過ごしている人たちも多い。航空機の発達で、『蒼茫』の時代とは大きく様変わりしたとはいえ、簡単には帰れない。
 しかし、移民労働者の帰国促進を目指した制度を導入した国もある。スペインでは移民が増え、総人口の1割を越えるまでになった。建設業を中心に、近年ヨーロッパ全体で生まれた新規雇用の3分の1近くを生み出したといわれた。2000年から2007年の間に、EU加盟国のブルガリア、ルーマニア、そしてエクアドルなどから4百万人近くを受け入れてきた。しかし、アメリカの住宅不況とほぼ同時にバブルが崩壊し、着工件数は急速に減少し、失業率はすでに12%を越えた。そのため、この分野で働いていた多くの移民労働者が仕事を失った。

効果少ない帰国促進策
 スペイン政府はエクアドル、モロッコなどEU非加盟国の中で、スペインと二国間の社会保障協定を結ぶ19カ国からの移民で、失業している労働者を対象に、母国への帰国を促す帰国補助制度「自発的帰国プラン」を昨年末に新設した。母国への帰国費用を補助し、およそ8万7千人がこの制度で帰国することを期待している。スペインでの居住・労働許可証を持っている者には、3年間はスペインへは入国してこないことを条件に、将来の失業給付を一部先払いするなどの優遇措置が含まれている。
 興味深いのは1970年代、第一次石油危機後、フランスなどで働いていたスペイン、ポルトガルなどの労働者に対して、帰国費用補助が行われたことがあった。しかし、その効果は期待を大きく下回った。母国へ戻っても、仕事の機会がなく、出稼ぎ先へ留まろうとした労働者が多かったのだ。いまや移民受入国側に回ったスペイン政府は、この経験を今度はなんとかうまく機能させたいと思ったようだ。一人当たり最大40,000ドルが支払われることになっているが、移民労働者はほとんど興味を示さないらしい。

高まる外国人嫌い 
 他方、世界各地で移民労働者への風当たりが強くなっている。ロシアは今回の危機以前は、経済成長率が6%を越える高成長を誇っていたが、不況の浸透で2%近くへ急減した。好況期には旧ソビエト諸国からの移民が多く、人口の10%近く、2500万人が外国人労働者になっていた。しかし、不況の到来とともに職を失う者、賃金未払いなどが目立つようになった。こうした状況を反映して、ゼノフォビア(外国人嫌い)が力を得て、「ロシアはロシア人の国だ」などと主張する過激な若者などによる襲撃、暴力行為などが増加した。すでに85人近くが死亡するなど、憂慮すべき人道問題が発生するまでになっている。
 ロシアの人口一人当たりの総国民所得はUS$換算5780ドルであるのに対して、移民労働者の母国であるキルギスは490ドル、タジキスタン390ドルなど、きわめて大きな格差がある。そのために、ロシアはきわめて魅力的な出稼ぎ先であった。ロシア側も深刻な人で不足を補うために査証免除などの優遇措置を講じて、受け入れを促進してきた。移民労働者は主として建設、工場などの現場で働いていた。 
 しかし、不況の到来でロシア人の失業率も急上昇し、昨年の6%から今年上半期は25%近くへ急上昇するなどの予測もあり、国民の不満も高まっている。メドベージェフ大統領も対応を迫られ、プーチン首相も移民労働者の受け入れ制限強化を約し、今年は受け入れを半減させると発言している。「ロシア人は一番」とする過激なナショナリズムも高まっており、保護主義化への傾斜が急速にすすんでいる。

懸念される保護主義への動き
 世界全体ではおよそ2億人が母国を離れ、他国で働いている。全世界の人口の約3%にあたる。しかし、ヨーロッパではギリシア、アイルランドなどかつての移民送り出し国でも、移民労働者の比率は10%を越えている。ILOの予測によると、今年2009年の世界の失業者は2億人を超えるのではないかとされ、ほぼ移民労働者の数に相当する。しかし、これはマクロ水準での状況に過ぎず、地域や国の水準へ下りると、きわめて複雑な実態が展開している。
 すでに記したが、アメリカでも労働需給の悪化は移民労働者に大きな影響を与えている。一般の失業率はすでに7%を越えた。16年来の高さである。メキシコ側から流入する不法越境者の数は大きく減少している。帰国する移民労働者の多くは、自主的な判断で出稼ぎ先に残るか、帰国するかの決断をしている。その意味では、労働市場の自律的な需給調整の動きではある。
 ILOは2009年だけで2千万人分の雇用が失われると推定している。そして、こうした厳しい不況期にありがちな保護主義への動きを警告している。歴史的に見ても。この危険性は明らかだ。
 1920年代、1930年代の世界恐慌期にも、恐慌突入前は多数の移民を受け入れていた新大陸アメリカは、その後扉を閉ざし、受け入れ移民の数は長らく低位にとどまっていた。国内労働者の雇用機会が奪われるとして、国境開放に反対した。移民労働者は農業や看護・介護分野などで、国内労働者より低い賃金で長時間働くことを辞さないなどの特徴があり、結果として国内労働者の失業率が悪化することもある。 

急激な需要(プル要因)の減退
 海外で働く移民労働者から母国への送金も大きな影響を受けている。
2008年、インドは在外インド人から約300億ドル、中国は華僑を含めて270億ドル近い送金を受けている。(世界銀行推定)。フィリピンの場合、およそ800万人が海外で働いている。その本国送金は国内総生産の1割近くに達する。2008年はかなりの伸びを示したが、2009年については大幅に減少すると推定されている。グローバルな不況の影響はさまざまだ。中国では海外への出稼ぎよりも国内での出稼ぎが圧倒的に多い。その数はおよそ1億4千万人といわれるが、このたびの不況でかなりの数が仕事を失うとみられる(この問題はいずれ取り上げたい)。  
 移民労働者の帰国、逆流減少は、部分的には過去にも常に起きていた現象である。しかし、今回は文字通り、グローバル・マイグレーションの象徴的な動きが各所に見られる。全体としてみれば、帰国する移民労働者は全体の中では周辺的な部分に留まろう。多くの移民労働者は、出稼ぎ先国で可能な限り働き
、その多くは家族とともに必死に目前の現実に耐え、劣化する仕事の機会にすがっている。アメリカに居住し、働いている不法滞在者約1200万人のほとんどは、母国へ戻ることはないだろう。 
 問題は、彼らのかつての母国も大不況の影響を深刻に受けていることだ。いまやグローバル恐慌の様相をあらわにしてきた今回の不況だが、厳しい崩壊の局面を乗り越えての回復・反転に向けて、いかなる世界的協力が行われるか。しばらく目が離せなくなった。
 現段階では不況の急速な拡大による需要(プル要因)急減による余剰発生とみることができるが、彼らの母国である開発途上国もさらに厳しい経済状況にあり、再び海外出稼ぎへの供給(プル圧力)が高まる可能性もある。
 IT上で瞬く間に国境を越えて移動する資本と比較して、流動性に制約があるとみられた労働力だが、高まる国境障壁にもかかわらず移動するグローバルな労働力の全容が次第に見えてきた。移民労働者がどこで踏みとどまるかは、各国の労働市場の今後を判定する大きなバロメーターともなる。しばらく崩壊のプロセスが進む労働市場で、来るべき時代への修復、再編がいかに行われるか、注目して行きたい。




References
「活況ドバイ急降下:開発中断・・・職失う外国人」『朝日新聞』2009年2月1日
'The people crunch.’ The Economist January 17th 2009

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光と闇の狭間に

2009年02月01日 | 雑記帳の欄外

Nancy, Musee des Beaux-Arts
Photo:YK



 ブログというメディアは、アトランダムなメモや簡単な意思伝達の手段としては優れているが、ひとつのまとまった思考やストーリーを整理したり、伝達するには適当でないことが分かってきた。プロヴァイダーによって違うのかもしれないが、一回の字数も上限があって、たちまちオーバーしてしまう。多くの興味深い問題が行間に落ちてしまうのだ。面白いことは、細部に入るほど増えるのだが、細切れにすると、思考の糸が途切れてしまうことがしばしばだ。

 このブログに記しているようなことは、数式のように簡潔に意図を伝えることはほとんど不可能だ。もともと限界は承知の上で始めでしまったのだが、ここまで来ると、対応も一苦労になってきた。ある程度の断片を積み重ねて、その熟成に委ねるしか道はなさそうだ。果たして熟成するのかも分からないのだが。

 戦争、疫病、呪術、貧困、荒廃が支配した17世紀の世界を生きたひとりの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、なにを頼りとして、したたかに生きたか。彼の作品と世俗の振る舞いは、あまりにもかけ離れていた。その舞台であったロレーヌ、フランスあるいはより広いヨーロッパ世界は、簡単には理解できない。美術館で作品だけを見ていたのでは、およそ分からない広大な世界が背後に広がっている。

 この時代のロレーヌというヨーロッパの小国の風土は、グローバル不況に恐れ,慌てる現代の日本と比較したら格段に過酷なものであった。頼りにすべき世界像もほとんど見えていない時代だ。人々は次々と押し寄せる苦難の中で必死に生き、あるいはそこから脱却しようと、神を求め、魔術・呪術にすがり、占星術や錬金術に期待し、富、栄誉、権力を追い求めた。そのしたたかさは、現代人のひ弱さとは比較にならない。彼らは、不安と絶望に打ちひしがれた日々を過ごすなかで、時折雲間から射し込む一筋の光が生み出す平穏な時を楽しんでいた。

 この不安に満ちた時代、どうしたら前方にかすかな光を見ながら、時々は生まれてきてよかったと思い、日々を過ごすことができるだろうか。とりわけ若い世代の人たちに、少しでも伝えられることがあるだろうか。こんなことを考えながら、「変なブログ」はここまできたのだが。  

   

コメント (2)
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