時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

怪獣ビヒモスを追って(3): 新しい工場の世界

2018年05月25日 | 怪獣ヒモスを追って

 

クライド河畔に生まれたニュー・ラナークの工場と工場町
Anthony Burton p.44, 1984 

 

ディケンズなどの小説を読んでいると、時々文字を離れて、当時の社会のイメージを画像などでより具体的に思い浮かべて確かめてみたいと思うことがある。もちろん、ディケンズの作品で映画化されたものもある。しかし、いつでも見られるという訳ではない。例えば、作家の後期の小説『ハード・タイムズ』Hard Times (1836)には、当時勃興しつつあった工場の雑音、騒音、振動、蒸気機関が生み出す蒸気、煙突の煙などの描写が次々と現れる。ディケンズ自身、これらの新しい変化にはかなり関心を持っていたようだ。それまでの社会では経験したことのない音や空気などの雰囲気に文豪は関心を持ったのだ。社会に何か新しいことが起きている!

イギリスの産業革命の過程で次々と生み出された大工場は、それまでの時代とは異なるいくつかの特徴を持っていた。とりわけ毛織や木綿の紡織工場は、当時存在した伝統的な中小の企業とは全く異なっていた。建造物の大きさ、規模という点でみると、イギリスには中世から続く大寺院や修道院などがあり、規模でもはるかに巨大であった。そのほか17-18世紀頃からは病院、倉庫、事務所など、新興の大工場よりも規模が大きい建造物はすでに多数あった。

しかし、産業革命で生まれた工場は、全く新しいタイプの建造物だった。内部には水力や蒸気で動く重量のある機械類があたりを圧倒し、その間を縫うように多数の労働者が働いていた。見たことのない複雑な動きをする機械が轟音を発し、人の目を奪うような速度で動いていた。19世紀の前半には力織機 power loom が次第に増加した。これまで見慣れてきた手織りの織機とはまったく違っている。工場内に光を取り入れる必要もあって、独特の3角形をした屋根も考案、導入された。強力な鉄鋼を使った鉄骨の開発もあって、5階建の工場なども現われた。冬の寒さを和らげるよう、各階へ暖風を送る仕組みも生まれていた。文字通り、新たな「工場の体系」が根をおろしつつあった。

イギリス社会が何か新しい力で動かされていると感じた人もいた。産業革命は怪獣ビヒモスの単なる一歩か、それとも大きな一歩だったのか。産業革命の人類史的意義が問われ続けてきた。最近、この時代に新たなスポットライトが当てられている。長く続いた「工場制の時代は」21世紀で終わりを告げるのだろうか。

産業革命初期、大工場はしばしば人里離れた地域に建設されたが、人手の確保のために労働者のための宿舎、学校、病院など、小さな町のような光景を生み出すこともあった。他方、新たに生まれた工場には多くの見方が生まれた。その中で注目すべきは、「時間」のもたらした衝撃だった。これらの工場は、「時間」という新たな監視人で見守られる「監獄」のようになったとも形容された(Landes)。仕事の量や速度、多くのことが時間で決められる。しかし、多くの労働者は時計を持っていなかった時代であった。それまではせいぜい日の出と日没さえ大体わかれば仕事や家庭での生活には支障がなかった。

工場がツーリズムの対象に
こうして生まれた工場町には、イギリス国内のみならず、ヨーロッパ大陸、さらに新大陸アメリカからも様々な目的で旅行者が増えた。「工場ツーリズム」”Factory Tourism”と呼ばれた人の動きが始まった。あたかも近年の日本観光ブームの先駆のようなものだった。19世紀前半、1835年にマンチェスターを訪れたトクヴィル Alexis de Tocqueville は、それまでの建物と比較して、巨大な宮殿のようだと形容したといわれる。当時、人々が競って訪れた工場町のひとつに著名なニュー・ラナーク New Lanark があったが、現代人の目で画像を見ても、巨大で斬新な感じを受ける。外観ばかりでなく、工場の内部で目にした機械の力強さ、斬新さ、絶え間ない動き、生産性などには、当時の人々は、文字通り耳目を奪われたようだった。急増したツーリストを相手とする新しい店やアミューズメントも生まれた。ビヒモスの走り出しは好調のようだった。。 



ロバート・オウエンの革新

*ニュー・ラナークは今日では世界遺産に登録され、18世紀の紡績工場を復元したモデル・ヴィレッジとなっている。ここは、空想的社会主義者として知られるロバート・オウエンが構想し、築いた工場町でもあった。理想が感じられない現代の社会主義に対して、オウエンの構想はアイディアに溢れていた。その多くは現代的視点で見ても極めて新鮮である。折よく『オーウエン自叙伝』(五島茂訳、岩波書店、1961, 2018)が復刊された。若い世代の人たちにお勧めしたい本の一冊である。原著は、The Life of Robert Owen, Written by himself, 1857-58.いまになっても人類が実現できないでいる、驚くほど新しい考えに満ちている。


イギリス産業革命のその後を描き続けた画家 L.S.ラウリー

美術家が描きたいと考える対象は、多くの場合、なんらかの美的感覚に基づいて選ばれている。しかし、この画家は同時代の多くの画家たちは描こうと思わなかった工場やそこで働く人々の日常を好んで描いた。その結果は、今日時代とともに崩れ去ってゆく工場など産業革命が生み出した多くの足跡を今日に伝える貴重な資料として伝承されている。

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理不尽な世界に生きる:映画『女は2度決断する』

2018年05月19日 | 午後のティールーム

 

人間はどこへ向かっているのか


移民・難民問題の探索には図らずも、長い年月を費やしてきた。基本的な点については政策面でも国家間に共通の理解ができているように思ったときもあったが、現実は全く異なっている。年を追うごとに混迷の度を増しているようだ。国境は開放されるどころか、いたるところで分断化が進んでいる。ベルリンの壁がなくなったかと思うと、突如としてイギリスのEU離脱が起きる。朝鮮半島の統一も、専横な国家指導者の意のままに翻弄されているようだ。平静化するかに見えたイスラエルとパレスチナ暫定自治区の関係も激しい対立の渦中に戻ってしまった。

そうした中で、一つの映画を見た。移民・難民を主題とした映画は、数多く見てきたが、難問が解けたような明るい気持ちで映画館を後にできたことは少ない。何か気がかりなものが残った作品が多い。すぐには答が出てこない問題をまた突きつけられたという思いが残る。

今回の作品は別の意味で、衝撃的だ。所はドイツ、ハンブルグ。カティヤはトルコ系移民であるヌーリと結婚する。かつて、ヌーリは麻薬の売買をしていたが、足を洗い、カティヤとともに真面目に働き、かわいい息子ロッコも生まれ、幸せな家庭を築いていた。しかし、現代社会はそうした日々を長続きさせてくれない。

ある日、ヌーリの事務所の前で爆弾が炸裂し、ヌーリとロッコが犠牲になる。警察の捜査の結果、犯人は国内に在住する外国人をねらった人種差別主義のドイツ人によるテロ行為であることが判明する。

容疑者は逮捕され、裁判が始まるが、被害者の人種や前科などが弁論の対象とされ、何の裁判か分からないほど、イライラさせられる。問題を取り違えているのではないか。観る者を含めて不満が鬱積する。いうまでもなく、一瞬にして幸せな家族の生活を微塵に砕かれてしまったカティアにとっては言いようのない苦悩の日々が続く。

戦後最悪のドイツ警察のネオナチ・テロ事件の捜査の記憶。映画はこうした実態を背景に制作されたという。思いもかけない事件の無残な犠牲となった家族への想いは、難を逃れたかに見えるカティヤにとっては、残酷な時を増すばかりで消えることはない。

次第に精神的に追い詰められてゆくカティヤの心理状態は、ついに極限状態になる。当事者だけにしか分かり得ない窮迫し、破滅的な状況だ。そして、カティアというひとりの女の下した決断! そしてその結果は・・・。その衝撃には誰もが言葉を失う。

問題は解決したのだろうか。答えはいうまでもなく「否」だ。人間はどこへ向かっているのか。



映画原題
AUS DEM NICHTS (IN THE FADE) by Faith Akin
独・英・日の原題それぞれに微妙なニュアンスの差を感じるが、画面はそれらも一瞬にして吹き飛ばしてしまう。

主演女優:Diane Kruger (ダイアン・クルーガー)
第75回ゴールデングローブ賞 外国語映画賞(ダイアン・クルーガー)
第70回カンヌ国際映画祭主演女優賞
第90回アカデミー賞外国語映画賞ショートリスト(ドイツ代表)

お問い合わせがありましたが、上掲のシンボルマークはベルリンの交通信号です。

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トリーアのマルクス像は何を考えているのだろうか

2018年05月13日 | 午後のティールーム

 

ポルタネグラの内庭 

やや旧聞になるが、去る5月5日、ドイツ連邦共和国西部ラインラント=プファルツ州のトーリアで、カール・マルクスの銅像の除幕式が行われた。除幕式には欧州委員会のジャン=クロード・ユンケル委員長やドイツ社会民主党のアンドレア・ナーレス党首などが出席した。銅像は5.5メートルもあり、寄贈者は中国政府であった。

この町には世界的思想家、哲学者、革命家のカール・マルクスの生家Karl-Marx-Haus があり、今は小さな博物館になっている。しかし、ここは主として観光の場に過ぎず、マルクスの生家を尋ねても、落ち着いて彼の生涯や思想について考えたり、広い思考基盤が得られる場ではなかった。今は中国人観光客の「赤いツーリズム」が押し寄せる場所だ。1966年に始まる文化大革命によって、世界史などの歴史教育をかなり削減されてきた多くの現代中国人にとっては、この地が誇る古代ローマの遺跡よりもはるかに親しめる場所なのだろう。

それにしてもマルクスの銅像を中国政府が寄贈した意図はなんなのだろう。中華人民共和国は依然マルクス=レーニンの政治思想の忠実な追随者とでもいうのだろうか。過去はともかく現代中国は新たな皇帝ともいうべき習近平国家主席が支配する一大帝国だ。トーリアを「一帯一路」のショーウインドウの一つとするつもりでもないだろうが、やや出すぎた思いがする。「赤いツーリズム」の増加は、日本で起きた「爆買い現象」を想起させ、地元経済には寄与するだろうが、違和感も少なからずある。

この地は、筆者も日独交流の仕事などで2度ほど訪れたが、何と言ってもこの町のアトラクションはポルタネグラに象徴される古代ローマ時代からの圧倒的な遺跡群だ。世界遺産に登録されている。

最近、短い旅の途上で、マルクス晩年の旅についての好著を読んだ。マルクスがトーリアにいたのは、生まれてから青年時代だけであった。それからのマルクスの広範な活動は、パリ、ロンドン、などへ移行してる。個人的にはマルクス像はロンドン、カジノ資本主義の関連でモンテカルロあるいはヴェヴェイ(オードリ・ヘプバーンやチャップリンが最い後を迎えた所)などが設置するにふさわしいと思う。ちなみにマルクスのお墓はロンドン郊外ハイゲート墓地にある。

 Hans Jurgen Krysmanski, DIE LETZTE REISE DES KARL MARX (ハンス・ユルゲン・クリマンスキー著、猪俣和夫訳『マルクス最後の旅』太田出版、2016年)
カール・マルクスが晩年の1982年から1983年までロンドンからパリ、マルセイユ、アルジェ、カンヌ、モンテカルロ、アルジャントゥイエ、レマン湖畔ヴェヴェイ、ワイト島ヴェントナーを経て、ロンドンの自宅で逝去するまでの旅におけるマルクスの思索を追ったユニークな作品だ。翻訳書だが、大変丁寧な翻訳と構成で好感を抱いたが、翻訳者の猪俣和夫氏は新調社校閲部におられた本づくりのプロフェッショナルであった。この作品には筆者も訪れた地が多数含まれ、極めて興味深かった。映像化のための素材集めから始まったと言われる本書は、一瞬、
あの『パンディモニアム 』を思い起こさせたほどだ。

閑話休題。

トリーアといえば、やはりポルタ・ニグラ Porta Nigra 『黒い門』であることはいうまでもない。古代ローマ時代の建築物群でユネスコ世界遺産に登録されている。当初、186-200年頃にローマ市壁の北門として建造されたが、その後の歴史でさまざまに改変された。今日では城門跡としてトーリアを象徴する観光スポットになっている。最初訪れた時は、その異様な黒さに圧倒されたが、2千年近い時の流れの生み出したものに次第に深く引き寄せられていった。



公衆浴場跡


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怪獣ビヒモスを追って(2):「工場制」システムの展開

2018年05月05日 | 怪獣ヒモスを追って

 

産業革命が生んだ煙突の山 

クリックで拡大

「工場制」という怪獣ビヒモスが世界を蹂躙、支配し始めてから、ほとんど200年が経過した。Information Technology(IT)やAIの発展で、近未来の工場制がどのような姿になるか、現時点ではほとんど明らかではない。これからの「工場制」がいかなる様相を呈するかは、日本の「働き方改革」にも関わることだ。来るべき仕事の世界の本質について、輪郭やイメージが納得できるほどには明確に提示されていない。多くの人々が共有できるような「仕事の世界」の全体的イメージが構想されてはじめて、真の「働き方改革」の方向も見えてくるはずだ。「働き方改革」は、さしずめ第4次産業革命の下での「工場法」にも相当する役割を負うはずだが、関係者の間にそうした認識は薄いようだ。

過去200年近く「工場制」の主流を占めてきた重厚長大型の生産様式も、かなり比重を落としたが、世界的視野でみると簡単には変われない。サービス化の進展に伴い、在宅勤務など、労働の形態が大きく変化するとされながらも、「工場制」がそのまま衰亡して行くとはにわかに考え難い。現に、現代中国などでは、見渡すかぎり労働者で埋め尽くされたような「人海戦術」的大工場も乱立している。18世紀産業革命期の新たな再現かと錯覚しかねない光景もある。

「工場制」が生まれ辿った歴史には、多くの興味ふかい点がある。その歴史のいくつかを見なおしてみて、今後の「仕事の世界」を展望する一助としたい。サービス化、IT化が進んだことで、労働市場の実態は大きく変化したが、これまでの主流であった「工場制」が消滅したわけではない。今日も産業革命の主流を占めてきた綿工業の変革にその一端を見てみよう。

 

操業中のミュール紡織機

産業革命と綿工業の重要性
前回、記したように世界最初の「産業革命」はイギリスに生まれ、世界へ拡大した。1721年に設立されたダービー・シルク・ミルは社名通り、絹を原材料として製品を製造することを目的としていた。しかし、イギリスで絹工業を大規模展開することは、原材料の質、入手難、消費者の好みなどで、競争力がなく、結局毛織物、木綿工業にシフトする。とりわけ、木綿工業は産業革命史において中心となる重要性を持つ。この意味で、筆者も綿工業の歴史には格別関心を寄せてきた。18世紀末のイギリスは綿花をエジプトや新大陸の奴隷により採取された綿花を含めて、世界中から輸入するほどになる。カール・マルクスが誇張はあるが「奴隷制なくして綿なし:綿なくしで近代産業はない」という言葉を残している。

紡錘から織布へ
イギリスの産業革命については膨大な資料が残るが、とりわけその中心となった木綿工業は驚くべき数に上る。その展開は、紡錘から織布へと次第に下流へ重点を移してゆく。1764年のハーグリーヴスのジェニー紡織機、18世紀後半のアークライトの水力紡織機、1779年のクロンプトンのミュール紡績機、1785年のカートライトの力織機など、画期的な発明が相次いだ。アークライトは大きな富をパテント収入から得ていた。

リチャード・アークライト()1732-1792)の肖像、背景に自ら開発した紡織機
Public domain 

動力も馬力から水力、そして1769年のワットの蒸気機関改良へと移行していった。綿工業はイギリスの産業革命を特徴づけたが、エイブラハム・ダービー2世のコークスを燃料とする製鉄法(1709)、ヘンリー・コートのパドル式錬鉄法(1784)の開発などもあって、幅広い分野での発展があった。


アークライトのノッティンガム工場は、300人近くを雇用しており、多くの子供が働いていた。のちにロバート・オウエンなどが取得したニュー・ラナークの工場は、1816年には1700人近くを雇用していた。その時までに、マンチェスターの蒸気機関による木綿工場には1000人以上雇用していた。当時としてはまさに巨大工場の誕生だった。工業機械の拡散という点でも、イギリスで作られた工業機械は1774 年に海外への輸出が禁じられたものの、1825 年には禁止が解除され、海外へ広く輸出されるようになる。大陸ヨーロッパ、アメリカへとビヒモスの足が伸びてゆく。


いうまでもないが、工場制は単に大きな建屋に機械設備を設置し、労働者をかき集めるだけでは、能率も上がらなければ、円滑な運営もできない。工場制は並行して開発・導入される経営管理のシステムと相まって、あるべき制度として機能し始める。そのためには、長い歴史の経過に伴う熟成が必要である。


煙突が林立するアルザスの産業革命  

 2014年には世界の綿工業をテーマとしたスヴェン・ベッカート『綿の帝国:グローバルな歴史』という大著が刊行され、高い評価を得た。今日では地味な印象を与える木綿工業がいかに長い歴史を持ち、複雑に入り組み、世界に巨大な足跡を残してきたかを再認識させられる。

Reference
* Sven Beckert, Empire of Cotton: A Global History: New York : Alfred A.Knopf, 2014

 追記(2018年5月6日) NHKBS 『三和人材市場:中国、使い捨てられる若者たち』
TV番組で、日給1500円で働く若者たちのドキュメンタリーを観た。1日働き、そこで得た賃金で3日遊ぶという繰り返しの日々を過ごしている。ネットとカフェ と安宿が彼らの世界だ。工場は11時間拘束され、簡単にはやめられないから、8時間のカフェで働らく方がよいという。彼らの多くは両親が都会に出稼ぎに行った後の「留守児童」が、家庭が壊れて農村にもいられなくなり、深圳などの都会へ出てきた若者だ。これも資本主義と「工場制」が結びついた「ビヒモス」の足跡と言えるだろう。

 
 続く

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