時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

桜の季節:3人の恩師プラス?

2018年03月28日 | 午後のティールーム

野川の桜(YK) 


これがこの国の最高議決機関なのかと思うと情けなくなる案件で、国会が紛糾している。近隣諸国の間には対応を誤れば破滅的戦争になりかねない危機的状況も生まれている。この国の近未来のあり方についての議論は少なく、行方はほとんど見えていない。現政権への国民感情は急速に冷めてきているが、野党も決め手に欠け、出口が見出せずにいる。

それでも、自然の摂理は正しく働いており、季節がめぐると桜は次々と開花し、つかの間の癒しの時を与えてくれる。とりわけ、4月は多くの若者が学業や就職で新しいステージの入り口に立つ。入学式を9月に移すという議論も最近はあまり聞かれない。桜の花はこの国を律するに欠かせない舞台装置なのだと思う。

この時期、不思議とこれまでの人生に大きな影響を与えてくれた恩師のことが脳裏に浮かぶ。自分の人生でさまざまな力を与えてくれた人々の数は限りないが、真に恩師と思う先生が、少なくも3人はいる。それらの人々の出会いと薫陶を受けることなくして今の自分はなかったと思うと、感謝の念と感慨は一段と深まる。

大学の時の恩師2人、アメリでカの大学院時代の指導教授1人が脳裏に浮かぶ。教養課程当時のNY先生、ドイツ語、文学がご専門だった。学生とあまり年の差がなく、教室外での喫茶店、ビアホールなどでの生き生きとした話題が脳細胞に今でも残る。「できるかぎり多くの経験をする人生を送りたい。自分もファウスト的衝動で生きたい」とおっしゃっていた。ブログ筆者が17世紀、30年戦争をテーマとした小説などに関心を抱いたのは、先生のご専門からの影響以外の何ものでもない。その後、先生ご自身は縦横にご活躍になったが、疾く生き、逝かれた。出来うるかぎり多くの経験をする人生を送りたいという思いは、筆者のその後いくつかの転機に大きな支えとなった。

専門課程時代のFK先生からは、その後の筆者の方向に決定的な影響を受けた。マルクス経済学一辺倒だった労働研究の分野で、ご自身新しい専門領域を切り開かれた一方、今では想像できない激しい労働争議が相次いだ時期に大きな役割を果たされた。もはや「(資本と労働の)戦争」とまでいわれた大争議の最前線で事態の解決に当たられていた。しかし、授業を休講にされたことは一度もなかった。傍目にも大変な激務の日々で、いつも短い会話の積み重ねだったが、相談に行けば適切なアドヴァイスをいただいた。

卒業後の職業選択に迷っていた筆者に、あまりこだわらない方がいい、柔軟に考えなさいと示唆していただいた。結局、直ちに研究生活に入ることにためらいを感じていた筆者は、現実の経済活動を体験したいと考え、企業へ就職することを選択した。しかし、先生は筆者が新しい仕事にようやく慣れ始めた頃、過労が重圧となられたのか、病に侵され間もなく世を去られた。

就職後1年くらいした折だったか、先生ご自身が筆者の使用者であった役員のもとへ立ち寄られ、勤務の様子を尋ねられ、よろしく指導してやってほしいと言われていたことを知り、大変驚くとともにそこまでかつての学生のことを考えていただいていたのかと、感謝の念に圧倒された。後年、学生の指導の任に当たることになった筆者には、教育・社会環境も大きく変わっていたが、このことが頭に浮かぶたびに、多くのことを考えさせられた。

その後間もなく、筆者は日本の置かれた状況に閉塞感が強まり、アメリカへ渡る。そこでも多くの人々の善意にも支えられたが、指導教授としてMFN教授に出会う。当初、日米の比較研究を想定していた筆者に、教授はせっかくアメリカに来たのだから、アメリカに専念して研究テーマを決定したらどうかとのアドヴァイスを受けた。なるほどと思い、ニューイングランドから南部への産業と労働者の地理的移動の問題に焦点を定めた。J.F. ケネディ大統領が不慮の死を遂げる前、大きな関心を抱いていた問題でもあった。近年、アメリカで大きな問題となってきた産業の盛衰と労働者の雇用のあり方に繋がってもいる。教授は筆者の選んだ過大な目標の達成のために、多くの示唆、そのために会うべき人々などを紹介する労をとってくださった。このテーマは今日に至るまで「人の移動」のメカニズムという形をとって、筆者の研究課題の柱のひとつになってきた。一人しかいなかった日本人の院生のために、公私にわたり心のこもった配慮もいただいた。帰国後10年以上にわたり、筆者の新しい職場での論文まで目を通してくださっていたMFN教授も世を去られている。

その後筆者の人生経路はかなり変転し、海外と日本を行き来することも著しく増え、結果としてみると、今日では通常の光景となった複数の異業種転職の先駆けのようになった。こうした人生を過ごして来たことは結果であり、最初から目指したことではないが、日本に有り勝ちな”しがらみ”のような束縛からはきわめて自由であり、大きな充足感があった。近年はほとんど話題となることがなくなった「日本的(終身)雇用」論に筆者が疑問を呈していたのは、こうした自らの体験もひとつの背景にあった。

人生は人それぞれに意義と重みを持つものだが、そのあり方は日々出会う人々との精神的交流に大きく関わっていることを感じる。桜の季節、新しいステージを迎える人たちに、多くの「一期一会」の機会を大切に実りある人生を祈りたい。

 

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逆転する赤色のイメージ

2018年03月18日 | 午後のティールーム

赤色 RED というと、何を思い浮かべるでしょう。折しも、3月19日ロシアのプーチン大統領の4期目、圧勝が決まり、自ら勝利宣言をしている光景をメディアが報じている。「赤の広場」(クレムリン広場)といえば、あの特徴ある建物とともに、「革命」、「熱狂」など世界を大きく揺るがした時代を思い起こす。「赤い」旗が広場を埋め尽くしていた。しかし、今そこに見る光景はきわめて異なったものだ。さらに、プーチン大統領の個人資産は秘密だが、推定2000億ドル、世界一かもしれないなどというニュースを聞くと、ロシア国民ならずとも複雑な感じがする。

中国全人代(全国人民代表会議)の人民大会堂の光景でも「赤」色は画面を圧倒する支配的な色だ。習近平氏について一票の反対票もないという情景には、新しい皇帝の誕生のような印象を受ける。「色」についての受け取り方は時代とともに移り変わることを改めて思い知らされる。文化大革命を含めて、かつては「破壊」、「革新」の色であったはずの赤色が、今は「保守」、「支配」、「安定」の色になっている。

これまでブログでも触れた「青」と「黒」に加えて、ミシェル・パストロウの『赤:色の歴史』を読みながら、考えさせられた。「赤」色の受け取り方も歴史の推移とともに大きく変化してきた。「青」や「黒」色と比較すると、「赤」色は「危険な」色と考えられてきた。少なくも心をかき乱される色だ。そのイメージは「過激」、「激情」、「革命」、「火炎」、「官能」、「高貴」、「神秘」など、かなり激しく振幅がある。様々な思いが頭をよぎる。

パストロウの指摘を読みながら、2、3の例で考えてみた。 

ヤン・ファン・エイク『ジョヴァンニ・アモルフィーニの肖像』
Jan Van Eyck, Portrait of Giovanni Amolfini,
c.1440, Berlin, Gemalde Galerie

画面クリックで拡大

赤色のターバンが異様なほど目立つこの男は何者だろう。15世紀半ば、ブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルッへで活動していた富裕な商人の肖像画である。自分が売っていた外衣と同じ素材で織られた赤色 scarlet のターバンを頭にまとっている。よくみると、きわめて、複雑で、繊細な色合いだ。ターバンの形状自体が絶妙だ。画家の力量がいかんなく発揮されている。


この色のターバンは当時としては富裕さの誇示であり、今日ほど衝撃的な印象を与えなかったのかもしれない。仮にそうだとしても、男の容貌を際立って特異なものに感じさせる。フレミッシユ絵画の中でも、突出した肖像画の一枚とされている。画家は時代を席巻したヤン・ファン・アイクであり、その卓越した才能が生んだきわめて異色の作品だ。この画家の作品には『ターバンの男の肖像』というタイトルで知られる近似した作品がある。こちらも大変刺激的な容貌であり、一説には画家の自画像ともいわれる。

ヤン・ファン・エイク『赤いターバンの男の肖像」

そして、時代は下り17世紀、もはやこのブログ読者には、お馴染みのラ・トゥールの『ヨブを嘲りにきた?』妻が身にまとう赤色の衣装だ。サタンの想像を絶する邪悪な結果、子供たちから家畜を含む財産まで全てを奪われたはずのヨブの妻にしては、なにかそぐわない感じがする。これは、エピナルで最初にこの作品に対した時からの印象だ。ヨブの妻は何かの聖職についていたのだろうか。詳細は以前の記事(連載継続中)と重複するので繰り返さない。


Georges de La Tour, Jobs Mocked by His Wife, ca.1650, Epinal France, Musee Departmental d'Art Ancien et Contemporain.

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『妻に嘲笑されるヨブ』

 

Source:Michel Pastoureau, p.86 (Original:Bartholomaeus Anglicus and jean Corbechon, Le Livres des Preprietes des Choses, manuscript copied and painted in Brussels, 1482. London British Library, Royal Manuscript 15 E. Ill, folio 269.)

赤色にも様々な絵具用顔料、染織剤があるが、その多くは媒染剤とともに大桶で、高温で煮るという過程が必要とされた。そのための素材や煮沸温度などの条件は、重要な秘密だった。この図はその製作状況を描いたもので、色彩に関する文献でしばしばみかける。作業をする徒弟や職人の傍に、過程を監視する親方が立っている。赤色ばかりでなく、画面に描かれたような多くの色が同様なプロセスで作られたのだろう。

よく知られた「赤」色でも、スカーレット、コチニール、ヴァーミリオン、ロッソ・コルサ、ヘマタイト、マッダー、ドラゴンズ・ブラッドなど、多くのものがある。それぞれに見る者に与える印象は微妙に異なる。しかし、概して「赤」色が内在している刺激的で時に破壊的でもある特徴は、歴史とともに失われてきたようだ。そればかりか、冒頭に例示したように、「赤」色の歴史にも逆転が感じられる。老化する脳細胞を新陳代謝する効果も減少しているようだ。


ミシェル・パストロウ『赤:ひとつの色の歴史』(英語版)表紙Michel Pastoureau, RED, The History of a Color , Translated by Jody Gladding, Princeton University Press, 2017, cover

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追悼:スティーブン・ホーキング博士とシジウイック・アヴェニュー

2018年03月15日 | 午後のティールーム

 

シジウイック・アヴェニューの光景
写真では綺麗に舗装されているかに見えるが、路面はかなり凸凹していた。


3月14日、イギリスの宇宙物理学者スティーブン・ホーキング博士が自宅で逝去されたとのニュースがメディアに大きく報道された。筆者は同博士とは全く関係のない社会科学領域の一研究者にすぎないのだが、不思議な親近感がある。

1995-96年、ケンブリッジ大学に滞在していた頃のことである。当時借りていた住居が市街地から遠く離れた郊外のガートン・コレッジの近くにあり、街中などへの交通が大変不便なので、車を運転して大学などへ行っていた。町の中心部は車を停車する適当な場所が少なかったので、しばしばコレッジと自宅の中間にあり、駐車が認められていたシジウイック・アヴェニューに駐車し、そこから歩いて町中やコレッジなど必要な所まで歩いていた。

シジウイックの名前の由来は、必ずしも明らかではないが、トリニティ・コレッジの哲学の教授であったヘンリー・シジウイック Professor Henry SIDGWICK(1838-1900) にあるようだ。教授は大学への女子の入学にきわめて熱心だったことで知られており、その活動もあっていくつかの女子のためのコレッジが生まれた。今は一部を除き男子学生の入学が認められている。うシジウイック・アヴェニュー Sidgwick Avenueは、一応 Trinity College の管理下にあるようだったが、交通が少ないので空いている時は指定されている場所へ駐車して差し支えないとの許可は得ていた。実際、朝の通学時以外は人通りも少なく、舗装も十分でない道路だった。晴れた日の午後など、車を停めていると、講義棟の方から電動椅子に乗り、ほとんどの場合、助手も付けずにひとりで道路を横断している博士の姿を目にした。時間帯が合っていたためか、比較的よくお会いした。小さな通りでもあり、人通りも少なく、路面もかなり凸凹していたが、一人で行動されていることに深く感動した。近くを通られた時に身振りでご挨拶したが、笑顔で軽く会釈をしてくれたことを覚えている。筆者にとっては、この地の原風景のひとつになっている。

記念講演や世界的に知られる著書『ホーキング 宇宙を語る」(1988年 )などの一般向け著作を通してだけしか知らないのだが、一般人には想像もつかない厳しい身体と生活状況で、大宇宙の成り立ちなどを構想する知的活動には、ただ感動するばかりだった。

今は広大な宇宙の世界で、その成り立ちや地球の営みを考えておられるのだろう。謹んで哀悼の意を表したい。


追記

ケンブリッジの道路の所有・管理はほとんど大学の手中にあるようだ。とりわけ、TRUMPINGTON Road, COLERIDGE Road, GRANGE Road, MILL Road, QUEEN EDITH’S Way, BARTON Road, NEWNHAM and off HUNTINGDON Road などでは各コレッジが土地の所有権を持っていたり、時には19世紀の囲い込み運動で獲得した土地なども含まれているらしい。かなり複雑で外部者にはよく分からない。ケンブリッジとオックスフォードの間は、大学所有の土地上を歩いて行けるとの記事を読んだことがあるが、真偽のほどは定かではない。

ガートン・コレッジ (Girton College) は、1869年創立でケンブリッジ大学を構成するコレッジのひとつだが、当初はイギリスで初めて女性のためにヒッチン Hitchin に作られた全寮制のコレッジだった。当時は女性の教育への偏見は強く、その後、1873年に現在の場所に移った。筆者はその近くに住んでいたが、コレッジは大学の中心から遠く3キロ近く離れたガートン・ヴィレッジ(村)の入り口に建てられている。他のコレッジからは遠く離れており、当時いかに女子教育への偏見が強かったことを身をもって実感した。1948 年に大学に正式に所属するコレッジとなった。1972年以降は男女共学になっている。

 

 

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黒衣の賢人たち: ルター、エラスムス、トーマス・モア

2018年03月14日 | 午後のティールーム

 


デジデリウス・エラスムス (1466-1536) 

世界が新たな危機的時期を迎えていることは改めて説明するまでもないだろう。2020年東京五輪までの世界は何色に見えるだろうか。これまで何度か記してきた色彩に関わる探索の過程で、「黒」という色の与える効果についても考えてきた。「黒」という色から人々は何を思うだろうか。暗黒、闇、恐怖、死、尊厳、権威、厳しさ、威厳、規律、フォーマル、厳正、端正など、さまざまだろう。人類の歴史においても、「黒」には長い間、深い恐怖、闇などのネガティヴな感覚がつきまとっていた。しかし、時代を追って「黒」の与える印象も異なってきた。しかし、この色にはそれ自体を気づかせる要素が何もない。他の色彩との関係で初めてその存在が認識される。以前に記した下記の著作を思い起こして欲しい。
Michel Pastoureau, BLACK: The History of a Color, Princeton University Press, 2008.

このブログのひとつの柱としてきた15-16世紀絵画についての文化的背景を探索する過程で、本書を含め、いくつかの文献を眺めている時、エラスムス、トマス・モア、ルターの黒衣姿に目が止まった。近世初期といわれる時代を形作った人文学者、思想家であり、宗教家である。


デジデリウス・エラスムス (1466-1536)は、ネーデルラント出身の人文学者であり、カトリック司祭、神学者、哲学者だった。しばしば初期人文学者の最高峰とされてきた。普通、「ロッテルダムのエラスムス」として知られてきた。

 1500-1515年頃、エラスムスは来るべき未来についての輪郭を構想していた。当時、古いヨーロッパはローマ教会によって支配されていた。教皇を頂点とする厳格な階層的体系、権威、伝統、告白と聖餐拝領などの形式が支配していた。しかし、当時すでに権威の体系は揺らいでおり、人文知識や識字率の拡大、貿易の拡大、都市の成長、印刷技術の発展、さらに知的水準の高い、豊かな中間階級が拡大しつつあった。彼らは富と知識を求めていた。

エラスムスは多くの都市をめぐり、その考えを披瀝しながら、1515年にはエッセイ Dulce vellum inexpert (“War is seen only to those who have not experienced it”) 。彼は横暴な君主たちなどが引き起こす絶え間のない争い、戦いに反対した。主権者たちに自分たちの目的を追求するばかりではなく、他の人々の考えも尊重されねばならないと諭した。1511年、有名な『痴愚神礼讃』で当時の王侯、教皇を含め、神学者、知識人の驕りや幻想を嘲笑し、新たな刷新の形を示唆していた。

エラスムスの考えの根底には新約聖書の改定があった。彼の考えの一部には、支配階級の不道徳を批判し、改革の道を示唆するものがあった。キリスト教世界の改革のためには、キリスト教の基盤が清くならねばならないと述べた。当時広く使われていたウルガタ Vulgate (ラテン版聖書だが、古代のギリシャ語版から翻訳されていた)がその対象であった。この聖書はすでに数千年の間使われ、時代と内容がかなり離反していた。ローマン・カトリックの柱を形作り、長い時を経過した聖書だが、多くの誤訳や曖昧な表現も含んでいた。

1500年にはエラスムスはギリシャ語を学び始め、福音書や書簡をそれが書かれた当時のように読むことができた。ローマが没落した後、ラテン世界からギリシャ語に関わる知識は社会からかなり消えていた。

その後、エラスムスは1506年には念願のイタリア行きを果たした。聖書翻訳の作業は進捗し、新訳は聖書研究の里程標となった。1516年の春にはエラスムスのギリシャ、ラテン語学での名声は全ヨーロッパ的なものとなった。Erasmianという言葉まで生まれた。エラスムスの『改定版新約聖書」は世界へ普及し、後のマルティン・ルターのドイツ語訳聖書の原版になった。

徹底したエリート教育を受け、一般的人文主義のチャンピオンとなったエラスムスは世界クラスのスノッブでもあった。エラスムスの思想は、宗教改革、カトリック宗教改革の双方に大きな影響力を持った。エラスムスはカトリック教会を批判した人文主義者と言われたが、彼自身は生涯を通してカトリック教会に忠実であった。1536年、69歳、バーセルで没した。

- エラスムスは生前、1499年にイングランドへ渡り、同地の上流社会に多くの知己を得た。なかでも、終生の共にとなった政治家トマス・モア Thomas Moreとの交友は深く、よく知られている。

- エラスムスの新たな啓蒙運動が展開している時に、全く別の形での運動がマルティン・ルターによって始められていた。エラスムスはカトリック教会内部で古代から議論が続いてきた自由意志の問題についての『自由意志論」を展開したが、それはルターの思想的骨子でもあり、ルターはそれに対する形で「奴隷意志論」を著した。エラスムスはそれに対する反論を企てたが、それを最後に混迷した議論から手を引いた。

-マルティン・ルター(1483-1546)


ルターはエラスムスが活躍していた頃、別の啓蒙の試みを行っていた。ルターはよく知られているように、神の恩寵は、ローマ教会が教えるような良い行いをしたことよりは、キリストへの信仰の深さにかかっているとした。ルターがウィッテンベルグの教会の扉に伝えられる95ヶ条の論題を掲げたのは、1517年10月31日のことであった(この点についての細部には異論がある)。その後の経緯は改めて記すまでもなくよく知られている。

はじめのうちはエラスムスはルターの教会改革を賛辞した。しかし、その後信仰に関わる自由な意志を巡るやり取りで、対立は決定的となり、二人はお互いに敵視する間柄となった。

二人の対立はさらに、宗教世界のルネサンスと改革という点での対立であった。エラスムスのスノビズムとエリート意識にもかかわらず、エラスムスの人文主義は黙示録との選択肢となっていた。

ルターにも試練が待ち受けていた。1524-1525年にかけてドイツの農民がルターの言説に一部影響を受けて、世俗と宗教界の支配へ反乱を起こした。ルターはアナーキズムを恐れ、彼らの言動を強く批判した。農民たちは必然的にルターに反対した。ルターとスイスのカルヴァン派との間でも聖餐の意味をめぐり、分裂が生まれ、両者の非妥協的な対応もあって、プロテスタントの統合もならなかった。

トマス・モア( Thomas More、1478年-1535)は、最後に取り上げる賢人である。イングランドの法律家、思想家。カトリック教会と聖公会で聖人とされた。政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。

トマス・モア( Thomas More、1478年 - 1535)

 

「わが命つきるとも」A Man for All Seasons

モアは、大司教・大法官Lord Chancellor のジョン・モートンの家で従僕として教育を受け、オクスフォード大学、リンカーン法曹院で学び、法律家となった。1504年、下院議員。1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。

しかし、自らの節度を曲げることなく、悲劇的な最後をたどった。ヘンリー8世が離婚問題からローマ教皇クレメンス7世と反目すると、大法官を辞任。ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年の国王至上法(国王をイングランド国教会の長とする)にカトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、1534年ロンドン塔へ幽閉され、1535年斬首、断罪された。人間の生きる価値と権力をめぐる陰謀に、信仰に命を懸けるトマス・モアの生き様には強い感銘を受ける。ここにたりあげた三人の黒衣の人たちは、近世初期といわれる時代にあって、政治と信仰という領域に関わる根源的な課題にそれぞれの思想と個性をもって対峙し、生き抜いた賢人であった。その結果は、現代のヨーロッパ世界に複雑な遺産 legacy を残した。

 

宗教改革の遺産:現代ヨーロッパのキリスト教宗派別分布(概略) クリックで拡大


Carlos M.N. Eire, Reformations: The Early Modern World, 1450-1650, Yale University Press, p.755

追記

今回とり上げた三人は同時代人として、宗教上、政治上の立場は異なるが、それぞれに強靭な個性を持った人たちであった。互いに交友や対立の関係にあったが、とりわけ、エラスムスとモアについては、下記の形で往復書簡の一部が残されている。大変丁寧な翻訳、解題、解説が附せられ、当代屈指の知識人の思想・見解の詳細を知ることができる。今回、論及する余裕はないが、改めて取り上げる機会を待ちたい。

『エラスムス=トマス・モア往復書簡』(沓掛良彦・高田康成訳) 岩波文庫、2015年

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江戸の女性弦楽三重奏

2018年03月11日 | 午後のティールーム


葛飾応為
『三曲合奏図』”Pictorial evidence for sankyoku gassou”
ca.1844-1856絹本著色、1幅、46.5x67.5cm, Museum of Fine Arts, Boston, William Sturgis Bidelow collection.

3人の女性が三味線、胡弓(尺八の代わり)を合奏する画題で、女性の配置の構図、色彩ともに素晴らしく、応為の画家としての力量を思わせる。


映画は別として、TVで連続物や長編ドラマを見ることは、ほとんどないのだが、『眩〜北斎の娘〜』(くらら〜 ほくさいのむすめ〜)は、葛飾北斎への関心とのつながりで、なんとなく見てしまった。女流作家、朝井まかてによる歴史小説が元になり葛飾北斎の娘で天才女絵師・葛飾応為の知られざる生涯を描いた作品のテレビドラマ化であるとのこと。

筆者の古いTV画面でも画像は大変美しく、ストーリーを楽しむことができた。葛飾北斎の娘で「江戸のレンブラント」とも称される天才女絵師・葛飾応為の知られざる生涯を描いた佳作である。

実は、ラ・トゥールほどのフリークではないが、北斎については、比較的以前から機会があれば追いかけてきた。番組は葛飾北斎の娘(異論もあるが三女と推定)で、天才女絵師・葛飾応為(お栄、応為)の知られざる生涯を描いた作品だ

応為は北斎と後妻の間に生まれた子供たちの三女であった。北斎と後妻(こと)との間に出来た子供たちについて判明していることがいくつかある。次男・多吉郎(崎十郎)は本郷竹町の商人勘助に養わせている。その後、多吉郎は御家人の加瀬家に養子に入り、多知という女子が誕生、この多知は臼井家に嫁いで二人の男子を産み、次男の昶次郎は加瀬家の養子に入り家督を継いでいる。

四女のお猶は早世、三女のお阿栄がよく知られる葛飾応為(生没年不明、応為は画号)で、阿栄は堤派の絵師・南沢等明と結婚するも、夫の絵が自分より下手だといつも馬鹿にし、これが原因で夫婦仲も良くなく、離別して父のもとに帰り一緒に暮らし、再婚もせず晩年およそ20年近くにわたり父の世話をしながら代筆もやり、美人画については北斎を超える腕前とされ、江戸後期を代表する女絵師の一人に数えられている。

阿栄は父の死にショックを受け、その後は門人や親戚縁者のもとを転々とするものの、突然消息を絶ってしまった。加賀前田家に扶持されて、金沢で没したとの説もあるが、今の段階では真偽不明になっている。慶応年間に没したとの推定もある。現存する作品も10点前後と少ない。北斎の作品とされていながら、実際は応為あるいは父親との共同制作がかなり含まれるとの推定もある。

応為の手になると確定しうる作品数が少ないのが残念だが、継承された作品から見る限り、父北斎の血筋を引き、画才の点でも構図、色彩の選択など、この時代の画家として突出していた女流画家であることが伝わってくる。

 

葛飾北斎の先妻との関係:北斎には先妻に一男二女、後妻(こと)にも一男二女いたといわれる。ただ北斎は自由奔放な生涯を送っているので、家族についても不明なことが多い。先妻との子供の内、長女の美与は、門人の柳川重信と結婚、男子を産むが、離婚して父のもとに戻って若くして死亡。残された孫(名は不詳)は手に負えぬ放蕩者となり、祖父である北斎を悩ませることになるが、その後は不明。長男の富之助は、北斎の実父と考えられる公儀御用鏡師・中島伊勢(北斎の叔父とも、父方は川村氏という)家を継がせるも早世し、次女のお鉄も早世した。

 

葛飾応為は、「江戸のレンブラント」と言われることもあるようだが、実はレンブランドの娘も画家として放逸、貧窮の生活を過ごした晩年の父を助けて画家となった娘があったことが小説化されている。このブログで小説化された『バタヴィアへ行った画家の娘 』を紹介している。画家であった父親の死後、画業を継承した娘の事例は他にもあり、いずれ紹介してみたい

 

Reference:

HOKUSAI: BEYOND THE GREAT WAVE, EDITED BY TIMOTHY CLARK, Thames & Hudson, The British museum, Reprinted 2017.

HOKUSAI AND JAPONISME: 北斎とジャポニズム、国立西洋美術館、2017.

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祭りの後、激動の時へ:トランプの関税引き上げ

2018年03月06日 | アメリカ政治経済トピックス

C.J. ウオルター『ピッツバーグの製鉄所』

Chrustuab Jacob Walter(1877-1938), Dredging on Monongahela River, n.d. oil on canvas,
Earth & Mineral Sciences Museum & Art Gallery.
 

平昌オリンピックの後には、やはり激動が待ち受けていた。震源地の一つは中国だ。全人代で習近平国家主席の任期制限を撤廃、国家指導部に絶大な権力を認める国家を目指している。その戦略の中心としての軍事力増大は、驚くべき規模で動き出した。軍事力支配の確立で、世界の新たな支配基準を作り出そうと拍車をかけている。アメリカのトランプ政権が右往左往している時に、大きく布石を打ってしまおうという方向性がはっきりわかる。

「一帯一路」の構想もEUやアメリカが混迷し、自らを立て直せず、新たな方向性を打ち出せない間に、西方への陸路、海路の支配権を確立してしまうという政策だ。


トランプ政権には「アメリカ・ファースト」で、世界をリードできる大きな構想がない。アメリカは世界きっての経済大国でありながら、’Made in USA’ として誇るべき産品を次第に失ってきた。それでも1960年代くらいは8気筒の大型乗用車やハーレ・ダヴィッドソンなど、アメリカらしい工業製品を製造していた。良質の製品を大量に製造できる鉄鋼のU.S.Steel やアルミニウムのAloca などは、その技術力の高さで、日本人技術者にとって憧れの存在であった。しかし、時の経過とともに、ハイウエイのかなりの部分を日本の中・小型車が席巻する光景が生まれていた。逆に日本がアメリカ企業を支援する動きも生まれた。


筆者もかつてOECDの工業委員会などに参加、産業の生き残る道を模索した経験がある。しかし、1973年、78年のオイル・ショックの発生で、日本のエネルギー・コストは急騰し、その産業基盤を崩壊に追い詰めた。鉄鋼、アルミニウムなど重厚長大エネルギー、多消費型と言われたこれらの産業は急速に競争力を失い、代わって中東産油国、ロシア、中国などの新興国が、急速に追い上げ、先進諸国の市場を侵食、席巻した。かつては世界に生産量を誇ったアメリカも、今や完全な輸入国となっている。

トランプは大統領就任前後から、貿易相手国、とりわけ中国がアメリカ市場でダンピングしていると主張してきた。彼らはアメリカ市場をダンピング市場として標的化し、産業を破壊している。もう何十年もやってきたと主張し、今度はそれをやめさせるという。そこで槍玉に上がったのが、鉄鋼とアルミニウムだ。’Rust Belt’ (産業が衰退し、錆びついた地帯)と呼ばれる中西部産業衰退地帯にこれらの産業の主要な部分は立地してきた。


しかし、はるか以前からこの地の重化学工業は競争力を失い、荒廃してきた。その一端はブログにも記したことがある。「ラスト・ベルト」の労働者は実はトランプ政権の支持層なのだ。以前からこの地の調査に携わった筆者の目からすれば、国際競争力を失い、古びて、錆びついた巨大な工場設備が地平線の彼方まで続く、この地の巨大伝統産業を復活させることは至難に思われる。アメリカの生きるべき道は、シリコンヴァレーに代表されるIT関連、AI産業、宇宙産業、電気自動車、生化学など少しでも国際的競争力で他に抜きん出た産業分野ではないだろうか。


アメリカの多くのエコノミストや産業関係者も中国などの商行為をダンピングとしているが、関税引き上げをその対抗措置とすることには反対してきた。彼らは関税引き上げではRust Beltの再生はできない。老朽化した設備をスクラップ化し、効率の高い新鋭製鉄所をRust Belt に建設することは莫大な投資を必要とする上に、良質な労働力を必要とする。AI化を最大限導入しても、この地の労働者の質的水準を早急に改善、引き上げることはほとんど不可能だ。実際、多少、地域は違うが、映画『デトロイト』や、著者の自伝的小説「ヒルビリー・エレジー」の深層を読んでいただきたいと思う。アメリカが背負っている傷がいかに深いかを知ることになる。

トランプは大統領選挙中からアメリカ中西部 heartlandの活性化を目指すと主張してきた。ここで働く労働者たちはトランプの支持層だ。

トランプのこの関税引き上げ案については、国内でも反対が多い。確かに関税引き上げがなされる鉄鋼・アルミニウムなどの産業は短期的には製品価格が上がり救われるかもしれないが、これらを原材料として使用する自動車、建築などの産業は一挙にコストアップを強いられ、最終製品にまで波及することになる。高くなった製品を使用する企業が衰退し、消費者が犠牲者となる。

プロセスがこれだけわかっているのに、トランプ大統領はなぜこうした動きに出たのだろう。貿易関係者はトランプがやりたいからやるだけのことと、お手上げのようだ。すべて「選挙民ファースト!」なのだろうか。

すでに中国、ヨーロッパ、日本などが対抗措置や例外措置を求めて動き出している。貿易戦争の再来とならなければと願うばかりだ。

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