時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「夜警」の暗闇

2008年02月27日 | 雑記帳の欄外

Florian Henckel von donnersmarck. Das Leben der anderen: filmbbuch. Suhrkamp: Frankfurt am Main, 2006.  

  以前に記事として紹介したことのあるカーレド・ホッセイニのThe Kite Runner が映画化され、日本でも公開されている。邦訳された書籍も出まわっているようだ。ただ、昨年邦訳書が刊行された時、書店でみかけた折は、確かB5版の体裁で原題通りに「カイト・ランナー」だった。しかし、いつの間にか「君のためなら千回でも」という映画の邦題名に合わせて、文庫判(上下)に変更されていた(ハヤカワepi文庫)。英語の表題をそのままカタカナ表示しただけでは、アッピールする力に欠けると考えたのだろうか。しかし、新しい邦訳表題「君のためなら千回でも」は、原著を先に読んだ者にとってみると、かなり違和感がある。映画はまだ観ていないのだが、映画の英語タイトルは原著通りに、The Kite Runner である。

  実際、アフガニスタン、カブールでの凧揚げという行事からストーリーは展開するし、アメリカ西海岸へ移住した主人公が、凧揚げをするフィナーレになっている。凧揚げは原作を貫く象徴的な意味を持っている。ちなみに、The Kite Runner を紹介した時には、映画も公開されていなかったので、仮に「凧を追いかけて」としておいた。原作に忠実であるという意味では、この方がまだましではないかと思うのだが。

飛んでいってしまった凧
  映画で、
「君のためなら千回でも」 (公式ブログ)という邦訳表題が採用された背景は推測にすぎないが、「千の風になって」ブームに影響されたのではと思ってしまう(読みすぎかな?)。いずれにしても、映画のタイトルを見て、原作がThe Kite Runner であるとの連想は生まれなかった。

  もっとも最近では「凧」という漢字を読めない人もかなり増えたようだ。ある小さな会合で、このことを話題としたところ、2割くらいの人は戸惑っていた(客観的なテストをしたわけではないので単なる推定にすぎない)。タイトルで、凧に振り仮名をつけるのは可笑しいし、といって、仮名文字ではなんとなく締りがない。

The Nightwatch と Nightwatching
  洋画の邦題が原題と異なることは、しばしばあることでそれ自体は驚くことではない。興行上の効果なども当然考えられているはずだ。しかし、それが原作の微妙なニュアンス、時には重要な含意を消してしまうことはしばしばある。最近の『レンブラントの夜警』もそうだった。 「夜警」を注意して観るという映画原題のNightwatchingに籠められた監督の深謀も、邦訳ではあとかたなく消されてしまっている。失礼ながら、『レンブラントの夜警』ではタイトルになっていませんね。グリーナウエイ監督は、この映画が「夜警」The Nightwatchという絵画作品のひとつの解釈であることを示しているのだ。「夜景」の暗闇はただものではないのだ。

  極端な場合には、作品の内容と邦題をできるかぎりすり合わせるという努力を、ほとんど放棄してしまっているような場合もある。旧聞となるが、かつてこのブログにも記した「クレイドル・ウイル・ロック」がその一例である。この邦題名?で、作品内容を違和感なく想像できる日本の観客はどれだけいるだろうか。素晴らしい作品であっただけに、大変残念な思いがした。

メロドラマではない
  
「善き人のためのソナタ」には、すっかり惑わされてしまった。映画を観た後、邦訳タイトルとストーリーの距離に、しばらく納得できないなにかを感じた。とりわけ、「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」というキャッチコピーも違和感があった。

  映画の詳細な脚本ともいうべき filmbuch が出版されている。それによると、原題(映画タイトル)
は、Das Leben der anderenである。直訳すれば「他人の人生」とでもいうべきか。東独国家安全省シュタージの大尉である主人公(GERD WIESLER*)が、著名劇作家(GERRG DREYMAN)と恋人(CHRISTA-MARIA)の女優の私生活まで盗聴することで、自分の人生とはまったく異なるものがそこにあることを気づかされる。厳しい思想、行動への束縛と監視の中に、ひそやかに生きる自由の心である。しかし、専制的な社会主義体制の組織に深く関わってしまっている主人公には、それから脱却することなどできない。権力による報復措置にも抵抗できなかった。

  「善き人のためのソナタ」は、壁崩壊後も、カートを引いて新聞などを配達する地味な仕事をしている主人公が、偶然カール・マルクス通りの書店で見かけた書籍の表題であった。劇作家ドライマンの新著の形をとり、ヴィスラーと思しき人への献辞(HGWXX/7 gewidmet, in Dankbarkeit)が記されていた。一見、表題に惹かれてしまうが、映画のドイツ語原タイトルからすれば、この映画監督の意図は、主人公を単に善人視することではなかったはずだ。盗聴という卑しむべき業務を通して、かすかな自由という別の世界の生活があることを知って、その行為を放棄したからといって、監督は主人公を救ったわけではない。数え切れない人々に悲惨な人生を強制した国家の歴史の冷酷な一齣を描き切ることに、若き監督・脚本家、フロリアン・ヘンケルス・フォン・ドナースマルクの意図はあったはずだ。Das Leben der anderen の意味は深い。表題ひとつが持つ重さと怖さを感じた。


*
 この役を演じたウルリッヒ・ミューエさんは昨年7月に癌で亡くなった。ご冥福を祈るのみ。


 

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郊外へ移り住む人々:中国中間層の行方

2008年02月25日 | グローバル化の断面

  過去半世紀近く、さまざまなことで中国を訪れる機会があった。色々と思い浮かぶことが多い。最近の雑誌TIMEの記事*に関連して思い起こしたことを記してみたい。

  30年くらい前だったろうか。上海を訪れた時、道路わきに雑多な空き瓶が20本くらい置いてあった。そして、傍らに人が所在なげに座り込んでいる。同様な光景を何度か見かけた。不思議に思って、友人に聞いてみると、瓶を売って生計を立てているのだという。当時の日本では道端に捨てられていたような空き瓶である。およそ商品とは思えない代物だった。しかし、ここでは売る人もいれば、買う人もいるのだ。

  その頃、今では巨大なコンテナー埠頭や金融、IT関連企業の高層ビルが林立する浦東新区は、葦が群生する広大な原野のようだった。しかし、上海の中心近い地域で、こうした光景とはかなり違和感を覚えるような場所ヘも案内された。そこには外見は欧米風の高級住宅を思わせる大きな家が数十戸並んでいた。それぞれの家の庭は芝が植えられ、こぎれいなプールがある家もあった。日本でもあまり見ないような豪華な邸宅もあった。3階建て、5寝室もある大きな家である。

  他方、江蘇省、浙江省などの豊かな地域の農村部へ行くと、当時万元戸といわれた3階建て、4階建ての大きな家も建てられていた。今、考えると、中国における格差拡大の始まりだったのかと思う。小平の南巡講話から始まった「豊かになれるところから豊かになる」という改革・開放路線、そして格差容認の象徴的光景だった。

  最近のTIME誌*が、 「短征」 (The Short March)と題して、上海など大都市の郊外に多数の中産階級が移動し、豪華な住宅を購入して、定着しつつあると伝えている。上海は人口が2千万に達し、今後20年間で倍増すると推定されている。中国で最も人口密度が高く、一人当たり8平方メートルしかない。高層ビルが林立し、その数はすでに10年くらい前に東京を追い抜いたといわれていた。大気などの環境汚染もひどい。そのためもあって、少しでもきれいな空気を求めて、郊外に今後10年間に5百万人が移住すると推測されている。ひところのアメリカでの「郊外化」現象を思い起こさせる。


  
    彼ら中間層
が競って求めるのが、一戸建ての豪壮な邸宅である。こうした豪邸が立ち並ぶ地域は、特に高い壁などがあるわけではないが、他の地域とは歴然と区分されている。格差は生活水準ばかりでなく、あらゆる面に及んでいる。ここに住む富裕層の子弟は地元の公立学校へは行かず、「貴族学校」といわれる私立学校へ通学している。周辺との落差は隔絶ともいうべき大きさだ。蛇足ながら、TIMEの表紙を飾る人々が手にしているのは「毛沢東語録」ではない。高級住宅の鍵であり、豊かな中間層への入り口を開ける鍵でもある。  

  格差という点で、とりわけ目立つのが、こうした豪華な住宅の建設工事に当たる労働者だ。彼らは中国各地の農村部からの出稼ぎ労働者である。建設現場近くの粗末なアパートに住み、一日12時間近く煉瓦を積み上げるようなきつい仕事をしている。上海は、夏は蒸し暑く、冬も寒さが厳しい。苛酷な労働環境だ。労働の対価は月1500人民元(約200ドル)にすぎない。結婚していれば、妻もクリーニング店などで働き、故郷に残してきた両親や子供へ仕送りをする。彼らは自分たちが建てているような家に住める可能性はほとんどありえない。

  中国には8-9億人の貧困層が農村地帯に住んでいる。グローバル化の進展に伴って、1億1800万人近くが仕事を求めて国内を「漂流」している。彼らは「郊外族」とは違った意味で、各地をさまよう移動労働者である。  

  中国政府も格差の拡大は、最大の関心事だと認めている。中国に富裕な階層が増えていることは明らかだが、それが中間階層といわれる安定的な多数になるかは分からない。「長征」**はその後、さまざまな波乱を経て、中国の大発展へとつながった。しかし、大都市郊外へ向かう中間層の「短い行進」がいかなる結果を生むか。到着点はまったく見えていない。

  折りしも、日本の経済力は急速に低下を見せ、「2流国」へと移行しつつある。かつては「一億中流」と誇らしげに語られていた国だが、急激な「格差」拡大が進行している。グローバル化の下での中国と日本。格差の現実も異なっているが、似ているところもある。その行方をもう少し見つめたい。



*
”China’s Short March.” TIME, February 25, 2008.

**
「長征」Long March :1934年10月、中国共産党は、国民党軍の包囲攻撃下、江西省瑞金の根拠地を放棄し、翌年峡西省北部まで約15200キロメートルの大行軍をした。

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なぜ17世紀なのか(2)

2008年02月22日 | 雑記帳の欄外

    このブログで話題としてきた美術や文学は、17世紀に関わるものが多い。その点を尋ねられた。なぜ、17世紀なのか。前回記したように、この問いは大きすぎて、とてもすぐには答えられない。気づいてみるといつの間にか、この時代へのめりこんでいた。多くの点で、現代と重なり合い共鳴する部分が多いと感じた。それらの断片をこれまで記してきたにすぎない。

  ブログで話題としてきた画家たち、カラヴァッジォ、ラ・トゥール、フェルメール、カロ、レンブラントなど、気づいてみると、いずれも17世紀の画家たちである。どうして、そんなことになったのか、分からない。結果として、そうなったに過ぎない。

「不安な時代」に生きた人々
  400年という時空は、ワープして理解するに程よい「距離」だ。少し努力して手を伸ばせば、なんとか分かる距離のような気がする。17世紀ヨーロッパは、さまざまな点で「危機の時代」であった。戦争が絶えることなく、悪疫が蔓延し、不安が世の中を覆い、先が見えない時代だった。不安な世の中だけに、宗教の重みは大きかった。しかし、唯一の頼りであるはずの宗教界も分裂していた。

    もちろん平和で豊かな時期もあった。17世紀初めのロレーヌの町や村では10年一日のごとく、平和な日々が続いていた。しかし、突如として襲ってくる外国の軍隊や悪疫の蔓延に、逃げ惑い、恐怖の渦中に投げ込まれることもあった。魔女裁判が残っていた時代である。

  16世紀から精神世界では宗教改革の衝撃が、ヨーロッパ世界に浸透し、人々の心は大きく揺れ動いていた。一見、日々平穏な生活を過ごしているかにみえて、人々の心から不安が消えることはなかった。せつな的生活に身をゆだねる人々もいた。明日はどうなるだろうか。人々は不安の中に、心のよりどころを求めてさまよっていた。 

  宗教は当時のヨーロッパを動かす源流でもあった。宗教と政治の世界は重なり合っていた。その後、時は流れ、宗教は緩やかではあるが公的な次元から離れ、独自の世界を形作っていった。

存在感を増す宗教
  20世紀になると、宗教はさらにその影響力が薄れ、とりわけ公的な次元では、限界的、周辺的なものになると考えられていた。ところが、21世紀になると、宗教は再び存在感を取り戻したかにみえる。政治の世界でも無視できない役割を演じるまでになった。しかも、それが人々の心の支えでもあり、対立、そして「神の名において」の殺戮の根源にまでなっている。

  17世紀、ヨーロッパ世界での宗教の争いはカトリック対プロテスタントという構図であった。その後、激しい抗争の時を経て、キリスト教内部の対立も収まった。今日、次元は変わり、キリスト教対イスラム教の対立、さらにイスラム教内のスンニ派対シーア派という宗派対立に一部移行もしている。
 
  コソボ独立、トルコEU加盟、オランダでのイスラム信仰、アメリカ大統領選挙などきわめて多くの問題が、宗教を考えることなくして、ことの本質を理解できなくなっている。人種問題と結ぶとさらに難しくなる。今まであまり考えたことがなかった宗教が、大変興味深い対象に見えてきた。これも歳を加えたことの現れなのだろう。

  時をワープし、17世紀の画家たちの精神世界がどんなものであったか。彼らの心の中をなんとか覗き込んでみたいというのが、こんなブログを続けているひとつの動機でもある。

 

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北方への旅終着:フェルメール

2008年02月18日 | 絵のある部屋
The Little Street (detail) 1657-58 Oil on canvas Rijksmuseum, Amsterdam  

  「光の旅」第4回(2月18日「日本経済新聞」日曜日連載)は、やはりフェルメール Johannes Vermeer(1632-75)だった。今は大人気のこの画家も、不思議なことに20世紀初めまで長らく歴史の闇に埋もれて忘れられていた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやル・ナン兄弟と同じように「再発見」された画家の一人である。  

  ラ・トゥールの作品に最初に魅せられた頃、フェルメールも未だあまり知られていなかった。オランダでもニューヨークでも、美術館のフェルメール作品の前は、特に人が多かったわけではなく、きわめて楽に観ることができたことを思い出す。

  しかし、その後の人気の上昇ぶりは目を見張るばかりだった。今では大変集客力のある画家になっているだけに、美術館なども企画展を計画しやすいのだろう。今年も、東京都美術館などがすでに予定しているようだ。  

  1875年7月、オランダの美術紀行を著した、フロマンタン*も、フェルメール(ファン・デル・メール)については、次のように、きわめて短くしか記していない: 「「ファン・デル・メール」[フェルメール]はフランスではまだほとんど知られていない。そして、彼のものの見方にはオランダの画家の間でさえ非常に風変わりなところが多々あるので、オランダ美術の中のこの特異な存在についてぜひ詳しく知りたいと思う人にとっては、かの地へ旅行してみるのも無駄ではあるまい。」(邦訳p286)。  

  訳者によると、フロマンタンはルーブルなどが所有する作品に加えて、このオランダ旅行で他のフェルメール作品を見ており、「牛乳を注ぐ女」、「デルフトの小道」などの感想を本書の覚え書に、「ボンヴァン風、ミレー風、現代の素朴派風。抑制された雰囲気」[牛乳を注ぐ女の]手の色調――これこそ、今この画家がたいへんな人気を呼んでいる理由であることは間違いない」(邦訳 p286注)と記している。しかし、訳者注(上巻pp346-347)によると、フロマンタンは完成稿では、フェルメールについての論評部分を残していない。

  今の人々には不思議に思えるかもしれないが、1875年の段階ではフェルメールについての評価は、今日とはかなり異なったものであることを推測させる。この点は、ラ・トゥールについてもいえる。  

  他方、フロマンタンはライスダール、カイプ、フランス・ハルス、レンブラントなどには多大な紙数を割いている。画家の評価が時代によって大きく揺れ動くことが分かる。  

  フェルメールについての評価は、20世紀に入って急速に拡大する。しかし、その評価は必ずしも手放しに高いというわけではない。美術史家エリー・フォール**は次のように評している:
 
  デルフトのフェルメールはオランダを要約する。彼はオランダ人のあらゆる平均的な性質を持つが、それらをひとつに集中させて一回の筆さばきを最高の力までに高める。この男は、絵の具のもっとも偉大な巨匠だが、なんら想像力を有していない。自分の手の触れるものも彼方に行こうという欲求を彼は持たない。彼は人生を全面的に受け入れている。彼はその人生を確認する。彼は自分と人生の間に何も割り込ませず、熱烈な注意深い研究によって発見されたその輝き、強度、密度の最大限をそれに返すことに集中する。まさにレンブラントの対極である。レンブラントは、その時代にあって、彼を取り巻く市民階級の壮麗な物質的な流れをただ一人さかのぼり、それを通して、その力を全身に浴びながら、瞑想の無限の国々に到達しえたからである。 (エリー・フォール邦訳p113)

   受け取り方によっては、フェルメールにかなり厳しい評ともいえる。この画家についてはもう少し時間をとって考えてみたい。   


* フロマンタン(高橋裕子訳)『オランダ・ベルギー絵画紀行』上、下(岩波文庫、1992)

** エリー・フォール(谷川渥、水野千依訳)『美術史:近代美術[I]』(国書刊行会、2007)
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名画再見:「陽のあたる場所」

2008年02月13日 | 回想のアメリカ

 この映画については前に記したことがあった。今日では、実際に観た人も少なくなった。半世紀前、まだ白黒時代の映画である。しかし、その残像は、長く網膜に残っていた。たまたま衛星TV*で放映されることを知り、懐かしさも手伝って観てしまう。

 20世紀半ば、アメリカの「良き時代」がまだそこにあった。懐かしいモノクロの映像が流れていた。カラーになっていたら観なかっただろう。モノクロの美しさを改めて感じる。

 モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラー、「だれ、それ」といわれてしまいそうだ。半世紀近く経っているのだから無理もない。エリザベス・テイラーはこれでスターの座を確保した。当時18歳、なんとも表現しがたい美しさだが、映像で見ると宇宙人のよう。別世界、上流階級の令嬢。ただいるだけでよい存在。   

 それに引き換え、田舎から出てきたジョージは、世慣れず、ぎこちない、ただ美貌であるだけの若者だ。叔父ジョージ・イーストマンが経営する水着工場で働くことになるが、特技もなく、包装部門で箱の整理係。しかし、イーストマン家の甥であるというつながりだけで、幹部への将来が約束される。

  ジョージは、まもなく同じ職場のアリス・トリップと映画館で偶然隣り合わせる。「世の中狭いわね」 "small world" という表現は、この時覚えた。エルム通4433が彼女のアパート。どこにでもいるような孤独でひたむきで、いじましいような女性、アリス役のシェリー・ウインターズは、役柄に徹した名演だった。

 その後、まもなくイーストマン家のパーティで、ジョージは名家の令嬢アンジェラ・ヴィッカーズ(エリザベス・テイラー)に出会う。輝かしい上流階級への道が目の前に開ける。アリスの存在が急に重荷となってくる。アリスは妊娠している。

 人気のない湖のボートでの事故死にみえるアリスの溺死。そして、裁判へ。殺意を否定するジョージ。状況証拠は明らかにジョージに不利。陪審員は被告を第1級の有罪と認める。

 電気椅子へ向かう直前。「心で殺人を犯した」という牧師の言葉を否定しないジョージ。そして、アンジェラの言葉、「私たちはお別れをいうために出会ったのね。」

*「陽のあたる場所」 衛星第2 2008年2月12日

コメント (6)
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名画への道

2008年02月11日 | レンブラントの部屋

Jan Six (1618-1700)
Ca.1654
Oil on canvas
112 x 102 cm, Bredius 276
Six Collection, Amsterdam
  


    ラ・トゥールの関連から、レンブラントについて予想外にのめりこんで記している。話題の映画の影響もある。ところが『日本経済新聞』が毎日曜に連載を始めた「光の旅」シリーズも、前回のラ・トゥールに続き、今週(2月10日)はレンブラントを取り上げている。平行して走っているような不思議な感じがしてくる。カラバッジョ→ラ・トゥール→レンブラント(ローマ→ナンシー→アムステルダム)と北方への道を旅してくると、なんとなく企画の概略が見えてくるような感じになる。この次は、もちろんお決まりですね。

 今回の新聞紙面で取り上げられているレンブラントの作品には、「ヤン・シックスの肖像」、「夜警」、「愚かな金持ちの譬え」などがある。とりわけ、最初の作品は、外部の展覧会などで公開されることがほとんどない大変貴重な作品だ。シックスは裕福で教養も深く、詩も書き、レンブラントの長年にわたるパトロンの一人であり、後にアムステルダムの市長にもなった人物である。レンブラントが財政的に破綻する最後まで物心両面の支援をしていたといわれる。シックスがくつろいだ姿で窓辺で書類を読んでいる立ち姿の銅版画も、その面影を伝えるよく知られている一枚である。

レンブラント《ヤン・シックスの肖像》
The Portrait of Jan Six
1647
342 x 194 mm, etching
.

    それと比較すると、今回とりあげられている「シックスの肖像」は、油彩ではるかにフォーマルな作品である。肖像画としても赤、白、金色などが使われ、地味な背景にコントラストが大変美しい。そして、この作品で目を引くのは、シックスの手袋である。場所はレンブラントの工房の入り口近くか。彼は工房へ入ろうとして手袋を脱ごうとしているのか、工房を出て手袋を付けようとしているのか。私にはなんとなく後者に見える。

 この作品は、1642年の「夜警」の完成、サスキアの死去の後、画家の人気が下り坂に入った1654年頃に制作された。その前年、レンブラントの財政的破綻は決定的になり、自分の作品を担保に、シックスを含む友人数人に援助を求めている。最後まで自分を支えてきてくれた友人に、借金を依頼するという局面に追い込まれたレンブラントの精神的な「別れ」の心情を手袋に感じてしまう。後にシックスも債権者の側に立たざるをえなかった。

  そういえば、「夜警」でも、バニング・コック隊長の手袋は、作品を読むひとつの鍵でしたね。いまや映画の題材にまでなったこの大作「夜警」は、その後、毀誉褒貶ただならぬ過程を歩み、世界的名画としての座を確保してきた。この「名画」への道の紆余曲折は、それなりに大変興味深い。

 1875年7月に、フランスの風景画家でアカデミー審査員でもあるフロマンタンがオランダ、ベルギーの美術館などを訪ね歩き、「夜警」についてきわめて長い印象を記している*。お読みいただくと分かるが、やや冗長であり、画像などのイメージの助けなく、この作品を批評することがいかに大変であるかということの見本のようでもある。しかし、一人の画家、美術評論家の目に、この大作がいかに映ったかを知るに、きわめて興味深い論評である。その中に次のような一節がある:

 《夜警》はほとんど理解しがたい作品と見做されている。そして、この見方の是非はともかくとして、《夜警》の絶大な名声の一部はまさにこのことに由来する。ここ2世紀というもの、この作品の長所を吟味するのではなく意味を解明しようとするのが人々の習慣になっており、これをことさらに難解な絵と思いたがるのが人々の癖になっているが、もしそういうことがなければ、たぶんこの絵はこれほど世間を騒がせはしなかったであろう。 (フロマンタン、邦訳 pp.120-121)

フロマンタンはさらに次のようにも記している。
  光は彼を虜にし、支配した。彼に霊感を与えて崇高の域にまで到達させ、不可能事をすらなさしめた。が、ときに彼を裏切りもしたのである。 (邦訳 p.156)

  フロマンタンの観察は、「夜警」についての現代的関心からは離れているが、19世紀末におけるレンブラントについての評価という意味で大変興味深い。

  「夜警」はさまざまな議論の材料を提供することで、自らの存在を主張し、「名画」への道をたどってきたといえるかもしれない。謎を含んだその道はまだ終わったわけではないのだが。
   


「光の旅 (3)レンブラント」『日本経済新聞』2008年2月10日

* フロマンタン著(高橋裕子訳)『オランダ・ベルギー絵画旅行』(下)岩波文庫、1992年

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硝煙の匂い感じますか

2008年02月09日 | レンブラントの部屋

  レンブラントの「夜警」には51の謎が含まれていると、グリーナウエイ監督は言う。しかし、今回の映画「レンブラントの「夜警」」を知るまで、絵画「夜警」に描かれた登場人物の相互関係がどんなことになっているのか、詰めて考えたことはなかった。  

  
 しかし、この世界3大名画のひとつともいわれる「夜警」を最初に見た時のなんとなく落ち着かない感じは、その後もつきまとっていた。どうしてこうした人物が描かれているのか。あるいはなぜ、隊員でもない人物まで描かれているのか。隊員でも明瞭に描かれている人物と同定できないほど漠然としか描かれていない人物がいるのか。この課題について、レンブラントの研究者、とりわけ美術史家は、必ずしも十分取り上げてこなかったように思われる。そこに、この映画が生まれる端緒があった。映画に触発されて、監督の言う「疑惑」を解く鍵のひとつを少し考えてみた。マスケット銃(マスケットだけで銃の意味を含む)操作にかかわる推理の適否である。 
  
  依頼者が「火縄銃手(マスケット)組合」だけに、火縄銃の射手が描かれているのは、理解できる。映画では、最初の段階で、当初の依頼者であるハッセルブルフ隊長とレンブラントが公園で会う場面がある。そこで、レンブラントはマスケット銃の試射を行うが、操作に失敗して倒れる。右目の辺りを硝煙が覆い、あわやと思わせる場面がある。  

  なぜ、わざわざこんな場面を出してきたのかは、映画ではすぐに分かる。ハッセルブルフ隊長がパレードの練習中に、マスケット銃の「誤射」を装って発射された弾丸で右目を射抜かれて「事故死」したことになっているからだ。   

  絵画「夜警」には、こうした疑惑を暗に示すなにかが描かれているのだろうか。マスケット銃を持った隊員は3名描かれているのだが、一見したかぎりではよく分からない。一人はあの謎の少女の左側で、赤い衣装が目立つ隊員であり、マスケットに銃口から弾丸を詰めようとしているかに見える。当時の先詰め方式の銃では、不思議ではない操作だ。二人目は隊長と副官の間に見える銃を横に構えた男である。細部は人の背後に隠れて分からない。三人目は副官の右後方に描かれた男で、銃を構えて火薬を発火させ、引金を引こうとしているかに見える。しかし、これも特に疑惑を持たせるようなところは感じられない。  

  しかし、マスケット(銃)の操作はかなり難しいという話を図らずも思い出した。その時はそんなものかと聞き流していたが、いくつかの文献を見てみると、興味ある指摘に出会った。確かに当時のマスケットは武具としては改良すべき点が多々あり、操作に際して多くの注意が必要であったようだ。たとえば、銃の発射に際しては、必ず銃身を固定する支持台を使うこと、安全のために火薬の着火口から顔を離すこと、銃弾装填の際には銃座を地面につけ、しっかりと抑えて行うことなどが操作に際しての最重要項目になっていた。

  この観点からすれば、「夜警」に描かれた射手はこれらの注意を守っていないかに見える。たとえば、赤い衣服の射手は、銃座を地面から離したまま銃弾を装填しているかに見える。着火しようとしている射手は、銃身にかなり顔を近づけている。レンブラントは制作に際して周到な準備をする画家であり、浪費とされた膨大なコレクションも彼にとっては作品の質を高めるための糧でもあった。当然、依頼者「火縄銃手組合」の職業上の根幹であるマスケットについての情報は、最大限収集したと考えられる。  

  映画でレンブラントがあわやの事故になりかけたのも、余った黒色火薬を吹き払おうとしたとたんに、発火し暴発した状況を再現している。当時、マスケット銃の暴発事故はかなりあったようだ。レンブラントが操作指示に違反をしているかに見える射手を描いているのは、判定が微妙なところである。   

  グリーンナウエイ監督は、「夜警」はレンブラントの「告発」だと設定しての映画化だが、果たしてそうした意図が籠められていたのか。この虚実皮膜の間を探るのはなかなか興味深い。   

  300年以上の年月が経過すると、作品ばかりか資料も散逸し、同時代感も薄れてゆく。うっかりすると、フィクションを現実と取り違えかねない。美術史研究も大きな見直しを迫られているようだ。研究の深化と見る側のしっかりとした教養基盤の強化が必要になってくる。この映画、一枚の絵画がいかに大きな影響力を持っているかを考えさせる。   

  レンブラントはベラスケスなども行っているように、自分を作品の中に描きこんでいる。彼は集団の後ろの方に立って、死んだ隊長ハッセルブルフの副官エグレモント(本来は失踪しているはず)を登場させ、その背後からあたかも市警団全体を見渡しているようだ。レンブラントは多くの肖像画の観察から言われていることだが、右目が弱視 amblyopia であったといわれる。その目は時に内向の目、自己反省の目ともいわれている。彼の目はなにを見ていたのだろう。

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やはり観てしまった: 「レンブラントの夜警」

2008年02月05日 | レンブラントの部屋

レンブラントは何を見ていたか  


  
レンブラントの「夜警」を主題とした映画が上映されると聞いた時は、さほど観たいとは思わなかった。しかし、その後本ブログへのアクセスが急に増加したことなどもあって、少し考えが変わった(感謝、でもこちらが観ていないので当惑)。映画館に電話してみると、空席があるという。用事にかこつけて出かけることにした。  

  映画全体としての仕上がりは大変良くできていると思った。グリーナウエイ監督がロンドンからアムステルダムに住居を移し、レンブラントが通ったカフェにも行き、関連書籍を300冊以上渉猟したというだけあって、最新の研究成果も反映されていた。色彩も美しく、時代考証にもかなりのこだわりが感じられた。とりわけ、ディテールが凝っていて見ごたえがある。ただ、それを十分楽しむにはやや詰め込みすぎ、テンポが速すぎる感じがした。ひとつの場面をもう少し良く見てみたい部分がかなりあった。監督の言う「夜警」に籠められた51の謎がなんであるかは別として、レンブラントがいかなる意図をもって、人物を配置し、なにを暗示しようとしたかが知りたい。

  「夜警」をめぐって、この映画のような推理が生まれる契機になったのは、1967年にKLM ロイヤル・ダッチ航空がオランダへの観光客誘致のために、「レンブラントの目を疑うような人気低落のきっかけとなり、画家をついには破産に追い込むまでになった問題作の「夜警」を見に、アムステルダムへ来ませんか」という刺激的な宣伝をしたのが、始まりといわれている。このキャッチフレーズは予想以上のインパクトがあり、人口に膾炙することになったらしい。しかし、こうした作品解釈は、その後専門家の間では大方否定されてきた。確かに、レンブラントは「夜警」の報酬として1600ギルダーという大金を受け取っており、4年後にはオレンジ公が2つの作品に2400ギルダーも支払っているなどの事実もある。数は少なくなったとはいえ、国内外からの発注も続いていた。

  それでも、一度植えつけられた画家と作品をめぐる「神話」は、その後も根強く生き残ってきた。そして、今日でも「夜警」の作品解釈をめぐる議論は依然として続いている。定説が確立したわけではない。こうした謎を含んだ状況が、今回の映画化への背景になったと考えられる。

  確かに「夜警」には、単なるグループ肖像画の域を超えた、さまざまな解釈を許すドラマ性の要因が含まれている。アムステルダムで初めて作品を見た時、画面からなにか落ち着かない、怪しい雰囲気が伝わってきた。ありきたりの肖像画でないことは、すぐに分かった。   

  かくして、映画はかなり凝った作りになっている。ところが、それだけに観る側にとっては、問題含みでもあったようだ。終わって、出口に向かう階段を上っていると、「難しくて良く分からなかった」と感想を話す声が聞こえてきた。せっかく観にきたのに眠ってしまった人もいたようだ。  

  その理由は分からないでもない。「夜警」に描かれた人物の多く、そして犬まで満遍なく登場させているので、かなり忙しい。たとえば、最初の依頼者とされる元隊長のピールス・ハッセルブルフが「事故死」という形で抹殺されてしまうあたりまでの経緯も、理解しにくいかもしれない。17世紀オランダを取り囲むイギリス、フランスなどの歴史知識が必要とされているからだ。もちろん、簡単な説明はあるのだが、新興国オランダの豊かな資金を狙うイギリス王室、フランス皇太后などの関係に、追いついてゆくのはこの時代の予備知識がないと分かりにくい。 

  「夜警」が描かれた頃には、この民兵組織の市警隊は、アムステルダムの警備や市民のための自衛組織といった役割はなくなっており、式典などでのパレードなどの役しか果たしていなかった。なぜ、依頼者たちがこの作品にこだわったかも興味ある点だ。  

  ストーリー展開には、このようないくつかの問題も感じられたが、楽しめる作品ではあった。ただ、これがレンブラントの実像あるいは画家が抱いた作品イメージという先入観を与えてしまう危険性には注意しておかねばと思う。グリーナウエイ監督がつけたタイトルは、「夜警」The Night Watch ではなく、「「夜警」を注意深く観察する」Nightwatching なのだから。



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思いがけないラ・トゥール

2008年02月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ナンシーの街角


  日曜日の『日本経済新聞』「美の美:光の旅」シリーズの第2回目にジョルジュ・ド・ラ・トゥールがとりあげられていた。第1回目がカラヴァッジョであったから、その連想からだろうか。ラ・トゥールがカラヴァジェスキと看做されることには抵抗があるが、日本でもようやくこの画家の存在が認められるようになったかという思いがする。ラ・トゥール・フリーク?の一人としては、とにかくうれしいことだ。

  新聞見開き2面を使っての記事なので、作品のカラー図版も大きく、かなり迫力がある(残念ながらネット上には掲載されていない)。取材にヴィック=シュル=セイユの「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館」まで行かれたようだ。ディス館長の背後に作品が写っている。昨年の今頃、同じ場所に立っていたことを思い出し、偶然とはいえ不思議な感じがする。



  解説の内容は、よくまとまってはいるがやや平板な感じがする。この画家についての日本の認知度からすれば仕方がないかもしれない。しかし、過去半世紀、この画家についての研究もかなり進んだ。その点からすると、物足りないこともある。

  そのひとつは見出しである。「揺らぐ炎に託した瞑想性 リアリズムに背、抽象志向」とある。前半は納得するとして、後半の「リアリズムに背」というのは、必ずしもこの画家の正しい理解ではない。このブログでも再三記したが、ラ・トゥールのひとつの特徴は、リアリズムの飽くなき追求にあった。生涯の後半では、マニエリスムの影響、抽象に傾斜した作品もあるが、少なくも前半の作品は、ここまで描きこんだかと感嘆するほどの迫真性があるリアリズムそのものである。1934年、そして昨年再現されたパリ、オランジュリー美術館の特別展のタイトルは、「現実の画家」LES "PEINTRES DE LA RÉALITÉ"であった。どちらをこの画家の本質とするかは議論があるが、驚くほど多彩な技能を持っていた画家であることは間違いない。

  苦言ついでにもうひとつ。ラ・トゥールばかりでなく、フェルメール、レンブラントなどについても言えることだが、ヨーロッパからアメリカに移った作品についての評価が低いことだ。たとえば、ラ・トゥールの場合、40点程度しかない真作のうち、10点近くはアメリカの美術館や個人が所蔵している。新大陸へ流出してしまったこれらの作品についての旧大陸側美術館関係者などの悔しさや日本の研究者の留学先などの関係で、ともすれば忘れられがちだが、いまやアメリカにある作品を評価することなくして、これらの画家の理解や研究は成立しなくなっている。アメリカに「移住した」ラ・トゥールも素晴らしいことをお忘れなく。

 

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日本の苺は誰が摘むのか(2)

2008年02月02日 | 移民の情景

苺(いちご)の高設栽培の例


  苺摘み取りの例を記事にしたところ、タイミングよく関連して、日本農業賞の発表が行われた。個人大賞には長野県小諸の農家による科学的管理に基づく苺栽培が選ばれていた。TVが伝えるところによると、この農家は苺栽培に関する気象条件、気温や湿度を計測・管理し、計画的に栽培する努力をしてきた。その結果、苺の収穫を計画的に1ヶ月早めることに成功したとのこと。従来の苺作りは、天候まかせの栽培だった。それがこの新方式では、あたかも工場生産のように、計画的に栽培、管理されている。

  それとともに、大変感心したことのひとつは、従来は土耕栽培、石垣栽培などで、地面に接して栽培されていた苺が高設栽培といわれる方式で、あたかも葡萄の木のように棚作りにされていたことである。苺を人の胸の高さくらいの中空で立ったまま採取することができるように工夫されていた。設備費は当然高くなるが、深刻な人手不足の到来を考えると、将来に希望が持てる方向である。

  これまでの苺摘み取り作業は、どこの国でも腰が痛くなるような無理な作業を長時間続けねばならなかった。著しく高齢化が進行した日本の栽培農家にとって、きわめてきつい作業であり、外国人研修・実習生などが働く分野になりつつあった。日本ばかりでなく、アメリカ、カリフォルニア州などでの苺や果実栽培も、メキシコなどからの農業労働者に完全に依存している。苺ばかりでなく、ドイツのアスパラガス採取なども似たところがあり、ドイツ人労働者が次第に働けなくなり、ポーランドなどの外国人季節労働者の手に頼るようになっていた。

  苺の品種改良ばかりか、栽培方法についても、日本の農家が地道に努力していることを知らされ、少し前途に光が見えてきたような気がした。この例など、外国人労働者に採取を委ねるような方向では決して思いつかない、素晴らしい発想だ。農家が日々の努力の過程で、自ら考え、苦労を重ね、工夫した結果が実ったものといえる。

  次のステップで、採取もロボット化することが可能になるかもしれない。そうすれば、外国人労働者に頼ることによる様々な摩擦や紛争もかなり回避することができ、生産性の向上などの好結果につながるだろう。もちろん、すべてがこうした方式に代替しうるわけではないが、日本の農業が目指すひとつの方向を示したものとして評価できる。折りしも、食の安全性が大きな問題となっている。こうした先進技術が普及するような環境が整備、促進されることを望みたい。

 

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