時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

聖イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス:イタリア、オランダ、ロレーヌの空気を感じ取る

2015年05月25日 | 絵のある部屋



グエルチーノ『聖イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス』
油彩・カンヴァス、179 x 255cm、1619、ボローニャ国立絵画館蔵


  イタリアン・バロックの画家の一人『グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家』(国立西洋美術館、5月30日まで)に『聖イレネに介抱される聖セバスティアヌス』が展示されている(展示番号17)。日本ではあまり知名度が高くはないがイタリアン・バロックの名手のひとりである。この作品、以前にボローニアで国際会議があった折に見た記憶が甦ってきた。

  グエルチーノは「やぶにらみ」という意味で、こどもの時の事故により「斜視」となった彼の身体的特徴からつけられたあだ名であり、本名はジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ( Giovanni Francesco Barbieri, 1591ー1666)である。大変興味深いことは、この画家はイタリア、エミリア(ボローニア近くのチェント)で生まれ、その後の人生をローマ、ボローニヤで過ごした。

 その生い立ちで注目されるひとつの点は、徒弟修業をする機会がなく、ほとんど自らの努力で油彩画の技法を習得したことにある。とりたてて親方の下で修業したわけではないが、北方イタリアの画家たち、とりわけボローニャの画家ルドヴィコ・カラッチとヴェネツィアの画家たちから多くを吸収し、大胆な構図、力強いブラッシュワーク、強い色彩などの特徴をもった作品を制作した。作品を制作する時間が大変早かったことでも知られている。発想したら、一気に描き上げるタイプの画家だったようだ。この特徴は、今回の展示からも感じられる。作品数も多く、パトロンもかなりいたが、そのひとり枢機卿アレッサンドロ・ルドヴィッシが教皇XV世となったため、ローマへ招聘された。


 当時のヨーロッパにおける文化の中心にいるかぎり、外国へ出かける必要もなかったのだろう。興味深いことは、このブログの柱である17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラトゥール(1593-1652)、そして、ラトゥールが影響を受けた画家のひとりと推定される北方オランダの画家ヘンドリック・テルブルッヘン(1588?-1629)とほぼ同時代人であることだ。ラトゥールはイタリアでの修業を希望しながらも、恐らくその生涯においてイタリアで本格的に画業を追求する機会はなかったと思われる。他方、テルブルッヘンはオランダ・ユトレヒトの生まれだが、ローマで修業する機会を得て、その後、故郷ユトレヒトへ戻り、イタリアでの修業成果を作品として結実させた。3人の中では唯1人イタリアとオランダ(ユトレヒト)という二つの風土を経験している。ラ・トゥールのイタリア修業説は今でもかなり根強いのだが、管理人は否定的だ。もし、ラトゥールがイタリア修業を果たしていたら、その成果にいかなる影響が生まれただろうか。

そこで、ひとつの問題が提示できる。画家が修業した各地の風土が、この同一のテーマに対して、いかなある影響を与えているだろうか。この3人の画家はいずれも同じ主題で作品を制作している。ラトゥールとテルブルッヘンの作品については、すでにこのブログでもとりあげた。

 グエルチーノの作品について見てみよう。横長の作品でみると、説明を受けるまでもなく、主題が聖イレーヌに介抱される聖セバスティアヌスであることは直ちに分かる。この主題は、非常に人気があり、他の画家もそれぞれに描いている。

 グエルチーノの作品では、傷を負った聖セバスティアヌスの身体から矢を抜き、治療に当たっているのは男性の医師のように見える。聖イレヌは画面左側からその様子を覗き込んでいる。手にはおそらく水が入っていると思われるボウルと布ぎれのようなものを持っている。右側には聖セバスティアヌスの友人と思われる青年が横たわった友を支えながら、心配げに見つめている。かなり明暗のはっきりしたイタリアの風土を思わせる色彩感覚だ。背後には石柱や青い空、雲なども描かれている。

 改めて同じ主題を描いた3点の作品を見ると、イタリア、オランダ、ロレーヌの風の違いが画面から明らかに伝わってくるようだ。さて、皆さんの印象は?

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明治ニッポンの美を見に行く:「ダブルインパクト」 ボストン美術館・東京藝術大学 

2015年05月16日 | 絵のある部屋

 


画面クリック拡大
小林永濯『菅原道真天拝山祈祷の図』
1860-90年頃、綿布墨画着彩 一幅
181.1 x 98.2cm
ボストン美術館



 閉展間近かとなった『ダブル・インパクト:明治ニッポンの美』展に出かける。ボストン美術館・東京藝術大学の所蔵する明治ニッポンの美術・工芸の名品の同時展示である。このところ、内外で見てみたい美術展が多く、かなり忙しい。東京藝術大学美術館のある上野公園・根津権現地域は数多くの由緒ある社寺、名所旧跡が多く、目的地に到着するまでに寄り道をしたい誘惑にかられる。今回はできるかぎり一直線に藝大美術館に向かった。

 藝大美術館は深い緑に覆われていた。前回訪れた時は明るい新緑だったが、時間の過ぎる速さに驚かされる。同じ所がまるで違ってみえる。キャンパスは美術学部と音楽学部が道を隔てて対している。美術学部の門付近には昔懐かしい教員の出講名札(小さな木板に墨で名前が書かれている)が残されていたりで、気持ちのなごむ場所だ。学生食堂、カフェテリア・レストランをのぞいたりして、展示室に入る。

 展示品は適度な数だが、その内容、とりわけ質の高さに驚かされる。特に、明治期に日本からアメリカへ流出した美術工芸品は、初めて見てどうしてこうした作品が流出してしまったのだろうといまさらながら考えさせられる。アメリカのメトロポリタン美術館、ナショナル・ギャラリーなどの基礎ともなった作品にも、同様なことがあった。フランス画家の秀作が流出してしまい、責任を問われたフランス政府が答弁に困惑したこともあった。今改めて、ボストン側から出展された作品を見ると、それが日本にないという残念な思いとともに、作品の保存状態の良さに安心する。

 開国から明治にかけての時代、西欧などの先進国に追いつこうと、日本には清新なエネルギーが溢れていたようだった。1867(慶応3)年、開成所画学局のメンバーのほぼ全員が、パリで開催された万国博覧会に油彩画を出品している。フランス人を初めとする西洋の目の肥えた鑑賞者の水準には到底及ばない水準であったが、その物怖じしないチャレンジの意気込みは今では到底考えられないものだ。



高橋由一
花魁(美人)
1872(明治5年)
重要文化財
東京藝術大学

 

 パリ万国博から5年、1872(明治5)年、高橋由一は、当時次第に廃れ行く花魁という存在を記録に留めたいとの依頼で、稲本楼の花魁「小稲」を描いた。上掲の作品だ。高橋由一は、1861(文久元)年,来日したイギリス生まれの「イラストレイティッド・ロンドン・ニュース」の特派員・報道画家として来日したチャールズ・ワーグマンから油彩画・水彩画の技術を学んだ。

 洋画を専門としたわけではなかったワーグマンだが、西洋の画法を学びたいと訪れた多くに日本人に、惜しみなく持てるものを伝授した。彼に画法を学んだ画家たちのその後の活躍を考えると、その功績はきわめて大きい。

 さて、高橋由一のその後の日本の風土でこなれた作品と比較して、この作品は、油彩の技法で描かれてはいるが、ひと目見て日本画でもなく油彩画でもない生硬さを感じる一方で、画家が取得した技法を最大限駆使してみようとの意志が伝わってくる。やや異様な感じさえ与えるこの作品は、日本が過ごした過去へのオマージュのようだ。

 その後、画家高橋由一がいかに西洋の油彩技術を日本の風土を描くに際して駆使したかは、今回出品はされていなかったが、後年の名作『鮭』(東京藝術大学蔵、重要文化財)などに明瞭に表れている。ちなみに高橋由一の手になる『鮭』は、この他に2点余りあるようだ。


  

黒田清輝
『婦人像』(厨房)
東京藝術大学 

 明治ニッポンのエネルギーはとてつもなく大きかった。「和魂洋才」のスローガンの下に、日本で画法を学ぶことに充たさされなかった多くの日本人画家が、ヨーロッパへ渡った。上掲の作品、最初見た時はフランス人の作品かと思ったほどだった。近代洋画の父とされる黒田清輝の作品である。1890年パリ郊外グレー村に住み着いた黒田清輝は、ビヨー家の離れ家を借り、暮らした。同家の娘マリアをモデルに描いた作品とされる。和やかな色彩をもって、静かな光景が描き出されている。西洋油彩画の技法でモデルもフランス人ではあるが、当時フランス人画家の描いた雰囲気とは異なった、和洋折衷的ともいわれる外光派として、日本の洋画教育に大きな役割を果たした。

 最近では美術家や美術品の国境を越えての移動についても、migration (移動、移転)という表現が使われるようになったいるが、この展覧会は日本が開国(1854年)してから日露戦争(1904年)にかけて、大きなエネルギーを発散させていた時代の美術・工芸界の一端を、ボストン美術館、東京藝術大学という2大拠点が所蔵する作品を移転することをもって、構成したものだった。

 幕末・明治における日本の清新なエネルギーをもらって、満ち足りた気分で、昔の面影をそこここに留める根津、不忍界隈を楽しみながら帰路についた。

 



 

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知られざる移民・難民問題の深奥:移民を餌食とする犯罪・ビジネス組織

2015年05月11日 | 移民の情景

 

悪をなすものの故をもて心をなやめ、
不義をおこなふ者にむかひて嫉(ねたみ)を
おこすなかれ。かれらはやがて草のごとく
かりとられ青菜(あおきな)のごとく
打萎(うちしを)るべければなり。
新約 詩篇  第37篇

 

 EUやアメリカでは移民・難民問題は、時に一国の命運を制するまでの重みを持ったトピックスであり、政策課題である。間もなく行われる総選挙に反映するイギリスのEU離脱論議や、移民に強く反対するフランスの右翼政党「国民戦線」の急速な台頭なども、移民受け入れの是非に直接的に関連している。

 最近ではアフリカからヨーロッパを目指した難民を乗せた船が地中海で再三にわたり転覆し、多数の犠牲者を出し、急遽EU首脳会議を開催するごとき切迫した状況が生まれている。今回は犠牲者数が多いことでメディアの注目を集めたが、同様な事故はすでに1990年代から頻発してきた。密航者を餌食にするビジネスが生まれた。今日では、たとえばセネガルからイタリアを目指す渡航者は、密航業者にひとり当たり裁定1500ドルを支払うという。幸いにもイタリアに上陸しえた時には、ほとんど着の身着のままの姿になる。業者はしばしば漁船や老朽船などに定員を大幅に上回る密航者を満載し、自分は海上などで巧みに逃げてしまうなどの例が多いといわれる。

遠く険しい道
 目をアメリカに転じると、これもかなり以前からだが、未成年の子供が親など保護者に伴われず、ひとりあるいは複数で中米諸国からアメリカ・メキシコ国境を横断、不法越境を試み、その過程でブローカーや犯罪組織の犠牲となることが明らかにされてきた。彼らが単独で中米諸国からメキシコを通り、アメリカ国境にたどりつくことは考えられない。2千数百キロの遠路を彼らが旅することなど不可能に近い。ほとんどすべてがコヨーテなどのブローカーの手を借りての旅になる。
 
 さらに、中国やインドでも児童の誘拐・人身売買が注目を集めている。これらもきわめて悲惨な状況を生んでおり、人道的観点から到底無視できない。中国では一人っ子政策の弊害が顕在化し、近い将来の労働力確保のために、他地域から乳幼児を誘拐、売買するビジネスが闇社会で横行している。

 出来事の背景はそれぞれ異なり、複雑をきわめ、ブログではその一端しか扱えない。しかし、日本の新聞・TVなどのメディアがほとんど報じていない問題について少しだけ記してみようj。メディアの多くは、これらの事件の結果については報じているが、こうした悲惨な出来事が次々と起きる根源については、切り込みがきわめて浅い。

忘れられた根源的対策
 EU首脳会議のレベルでも、かつては、こうした難民を生みだしている国々に、政治的安定、そして雇用機会を創出することが最重要の課題であるとの正当な問題提起があった。しかし、最近のEUの首脳会議の対応は紛争や迫害を逃れた難民の保護や密航者の取り締まり強化などの再発防止策などを打ち出しているが、他方で経済目的の移民の受け入れについては反対の考えだ。最近では難民が地中海を渡るに使用した密航用船舶の破壊、ブローカーの取り締まりなど、制限的措置を強化する対症療法的な対応が多くなっている。EU諸国も余裕がなくなり、長期的視点からの政策実施ができなくなっている。その場限りの対応に終始している。今回は中米諸国、メキシコ、アメリカに関わる最近の事例を観察してみた要点を記してみたい。 

越境者の長い旅路
 最近のアメリカのメディアが伝える一例をみよう。グアテマラ・シティの富裕層が利用するスーパーマーケットで守衛として働いていたアルフレドは、同じスーパーでキャッシャーをしていたメリーダと結婚し、息子2人、娘2人の子供がいる。2000年頃に夫妻はメキシコ・アメリカ国境を越え、ニュージャージ州トレントンで建設労働者として働き、本国の親族などに送金をしてきた。典型的出稼ぎ労働のひとつの形態である。その努力が実を結び、自分の顧客を持つ小さな工務店を経営するまでになった。彼らは本国グアテマラに残してきた息子2人の祖母に託し、送金で地元の私立学校に通わせるまでになった。アメリカでは娘2人と生活している。
 しかし、不運なことに、近年グアテマラの経済そして生活環境が急激に悪化し、犯罪の多発など息子たちが普通の生活を維持することが難しい状況になってきた。この中米の治安悪化はギャングなどの暴力組織の横行による身の危険、子供と親が別れて住むことの不安、そして絶対的な貧困の存在が、これまでの出稼ぎ移民型をきわめて難しくするようになった。アルフレドの場合、事態を憂慮した両親は「コヨーテ」(北米の草原に住む貪欲な肉食動物、転じて主にアメリカ・メキシコ国境における密航斡旋業者)として知られる密航斡旋ブローカーのネットワークに頼り、息子二人をグアテマラから両親の住むアメリカ、ニュージャージー州トレントンへ呼び寄せようとした。

 ニカラグアからアメリカへの道はいたるところ危険に充ちている。鉄道と徒歩での長い旅。とりわけ乾燥地帯は、昼間はキルンの中のような灼熱状態、夜は冷凍庫といわれるように気温の変化が激しい。熱中症、脱水状態となり死亡したり、ガラガラ蛇のような毒蛇に咬まれたり、オオカミのような野生動物に襲われて命を落とす者も多い。それでもアルフレドなどがアメリカへ旅してきた2000年頃までは、アメリカ国境の体制は未整備で、密航者にとっては抜け穴だらけとも言うべき状況だった。

国境を変えた同時多発テロ
 しかし、9.11を境に国境の状況は大きく変わり、アメリカ、メキシコ両国ともに管理体制が格段に厳しくなった。そして、ドラッグ、不法入国者、テロリストへの対応が大きな課題となった。とりわけアメリカではブッシュ大統領政権末期以来、600マイルにわたる国境フェンスの増強、ドローン(無人飛行機)による空中偵察、レーダーその他の科学的探索装置が増強され、正規の入国に必要な書類を持てない越境者たちが不法入国を試みる地域は大幅に限定された。

 国境管理が厳しくなり、越境の困難さが増したことで、暴利をむさぼることになったのは、コヨーテなどのブローカーだった。彼らは越境希望者あるいはその家族を身代金の強請、強要、強奪などの手段で、横暴のかぎりを尽くすようになった。すでにアメリカなどで働いている者の故郷の家族などから、金品を強奪するなどの犯罪が増加し、国境をめぐる犯罪は拡大、組織化された。従来の越境の手助けをしていたコヨーテなどのブローカーは、麻薬貿易や人身売買を手がける、さらに大規模な国際的犯罪組織の傘下に組み込まれてしまった。子供の密輸を狙ったスクールバス・ハイジャックまで起きている。

 危険な道程を予見したアルフレド、メリーダ夫妻は、息子2人を故郷グアテマラからアメリカ国境をなんとか越境させるため、多額の金を支払い、コヨーテに手助けを依頼した。コヨーテは最初は親切な対応を装っていたが、間もなく正体を露見し、少年の旅の途上で、さらに多額の身代金を要求するようになった。息子たちのグアテマラからアメリカ国境への旅にしても、長距離移動は貨物列車の貨車の屋根で過ごしたり、地域の支援施設のサービスで飢えをしのぐなど、決して安全なものではなかった。

 グアテマラ・シティの祖母の家から車でピックアップされ、他の子供たちと集団でバスでメキシコを縦断し、アメリカ国境、リオ・グランデを渡河し、テキサスに近い場所までは、コヨーテは何度か代わったが、まずまず順調な旅のように見えたをちょうちょうはhじっさ。。しかし、コヨーテはその正体を現した。彼らは息子から夫妻の家の電話番号を聞き出し、グアテマラで両親が依頼したコヨーテとは自分たちはまったく関係の無いコヨーテであるとして、息子2人の身代金として5000ドルを直ちに送金するよう脅迫した。夫妻はなけなしの貯金すべて2000ドルを送金した。しかし、電話の主は当のコヨーテは逮捕され、金も届いていない。自分とそのコヨーテは関係ないが、息子の安全を望むならさらに5600ドルを送金せよと脅した。金策尽きた両親は、官憲に息子たちの捜索・保護を依頼した。ここも、金の支配する社会だった。とりわけメキシコ側の腐敗は遙か以前から問題となってきた。

 2人の息子はアメリカ国境で発見、拘束され、両親の手に引き渡された。しかし、彼らのアメリカ滞在が認められたわけではない。息子たちをグアテマラに強制送還するか否かの簡易判決を受けることになる。移民法の裁判では弁護士が自動的につくわけではない。弁護士の出席が工面できないと、強制送還になる確率は極めて高い。これもアルフレドがやっと工面した金でやっと弁護士費用を支払い、なんとか強制送還を免れた。


 昨年11月20日、オバマ大統領はおよそ500万人の入国審査用書類を保持しないで入国、アメリカに居住している者の本国強制送還を延期する一連の大統領令を発表した。その中には400万人近いアメリカ市民および永住者の親たちも含まれている。アメリカで出生した子供たちがアメリカ市民権を持っていても、親や保護者が所持していない、不法滞在者である場合は多い。

 ここではグアテマラからアメリカへの長い怖ろしい道をなんとか歩んだ移民の子供の例をとりあげたが、アフリカから地中海をわたるまでの過程でも、いまや悪質きわまりない強請(ゆすり),脅迫の組織ネットワークが中南米、中東・アフリカに張り巡らされ、その経路に頼る以外に、密航すらできない。恐怖の密航犯罪組織 extortion network の撲滅は、移民・難民問題に対処するための最重要課題となりつつある。


 上掲の新約「詩篇」の一節は、2人の兄弟がかろうじて救助された後、両親が設定した集会で唱えられた。しかし、その通りに事態が進む可能性は少ない。



追記 2015/05/11
 BS1が『地中海”密航”の実態:救助でジレンマ』 と題して、この問題をとりあげていた。救助されることを見越しての密航者とそれを介在して暴利をむさぼる業者が存在するかぎり、ヨーロッパへの難民・移民の流れは耐えることがない。EUが難民の国別受け入れ割り当てを設定することは、各国の実情を考えるときわめて難しい。密航者を餌食にしている犯罪組織を根源で撲滅し、送り出し国の政治の安定化、経済の向上を目指すことが重要だが、短期的に実効があがる対策はない。

Reference
"Briefing Europe's boat people" the Economist April 25th 2015. 
UNHCR. Children on the Run, 2014
”Where are the children? ” The New Yorker, April.

★しばらくお休みしました。すこしずつ再開する予定です。

 

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