時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

あれ! 三銃士? 

2017年07月27日 | 午後のティールーム

Alexandre Dumas, The Three Musketeers, Penguin Classics, 2008, cover



あれ? このお兄さんたち、どこかでお目にかかりましたね。「三銃士」のイケメンでしたか。それにしては、時代が合わない? アレクサンドル・デュマ・ペールの名作「三銃士』が新聞紙上で活字になったのは、1844年のことであった。

ル・ナン兄弟(長兄アントワーヌ ca.1588-1648、次兄ルイ ca/1593-1648、末弟マティュー 1607-1677)が活躍したのは、それより200年くらい前ではなかったの? 実際、この歴史的事実に誤りはない。この作品や画家については、ジョルジュ・ド・ラトゥールと同時代の画家として、概略を本ブログで紹介している。ル・ナンも長い間忘れられた画家であった。

ちょっと不思議な因縁話。今日、ある書店で英文学のクラシックスの棚を見ていると、この表紙に惹きつけられた。先日、このブログで取り上げたル・ナン『三人の男と一人の少年』は、Penguin Classics series の1冊に入っている『三銃士』の英語版の表紙に採用されていたのだ。実は、『三銃士』は最初、フランスの新聞紙上に掲載された後、大変な人気作となったため、書籍として刊行されるようになってからも、フランス語から翻訳された言語の違いもあって、その表紙は何種類あるかわからないほど、様々なものがある。そのため、この表紙に出会ったことには、偶然とはいえ大変驚いた。

もちろん、この世界的な出版社がこの絵を表紙に採用するに際して、上記のような事実を知らなかったわけではない。当然承知の上で採用しているのだ。

しかし、この絵画作品には未解決の多くの謎が含まれている。そのひとつ、制作者とこれまで想定されていた画家末弟マティユーは、真ん中に描かれ、ただ一人、こちらを見ている若者ではない可能性が出てきた。確かに、当時の集団肖像画の慣行ならば、真ん中に描かれている若者が中心的制作者であることが多い。しかし、ル・ナン兄弟の他の作品について検討が進むうちに、どうもこの想定は必ずしも当たっていない可能性が指摘されるようになった。もしかすると、画家が描かれている人物が誰であるかを詮索の目で見る人を、からかっての作品かもしれないとの考えまで提示されるようになった。要するに、長兄、次弟、末弟が描かれた肖像のどれに当たるかが分からないよう、工夫されているという推測だ。

この作品、発見された当時、大変汚れていた。1968年ロンドンのNational Galleryが洗浄、修復を引き受けて、今日のような状態まで復元された。信頼に足る署名が残されていることも確認された。実は右側に男の子の顔が描かれているのだが、ル・ナン兄弟と思われる三人組と関係があるのかも判然としない。もしかすると、工房で習作のために画架に置かれていて、適宜筆が加えられていたのかもしれない。何れにしても、多くの興味ふかい未解決の謎を含む作品である。


 

 

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壁が生み出すもの

2017年07月25日 | 移民政策を追って



NHKBS1・TVがアメリカ・メキシコ国境をめぐるドキュメンタリー番組*1を放映していた。期待してみたが観光旅行番組のようで新味がない。この番組に限ったことではないが、制作の基本視点が不明確で、いかなる方向、結論を目指しているのか、判然としない番組が増えている。番組の意図が伝わってこない。ただ現場へいってみましたでは、今の時代ほとんど意味がない。

単なる国境壁撤廃、人の移動の自由化で、問題が解決するわけでもない。何故に国境に壁が必要なのか、あるいは必要でないのか。

実はアメリカとメキシコ両国が抱える問題は、筆者たちも今回NHKが主たる訪問地とした場所を調査地点に選んだことがある。2世代近い前のことであった。浜松市とサン・ディエゴ市(メキシコ側ティファナに対応)を例に日米比較を実施した。企画から調査までだけでも数年を要した。当時は日本をとりあげることはともかく、なぜアメリカと対比させるのかとの質問が相次いだ。日本とアメリカは全然違うではないかと。しかし、アメリカとメキシコ間の国境問題は、複雑な移民問題を理解する上で、最も適した例なのだ。あらゆる問題がそこにある。仮に日本が中国本土と陸地で接していたら、人の移動はどんなことになっているか。考えてみてほしい。この問題はこれ以上ここでは触れない。

前回に続いて、少し記してみたい。アメリカ・メキシコ間国境の問題は、2011年9月11日、移民史上、例のない大きな衝撃に直面する。今日に続く大転換が始まった。

国境は人の移動に伴う「人間の安全性」(砂漠での死、国境での拘束、家族の離反など)に加えて、国家の「安全保障」の観点が大きな注目の的となった。テロリストの国境侵入、麻薬などの密貿易を防ぐ壁の役割が付け加えられた。国境が国家の安全保障に関わりかねない問題については、1986年、ニカラグア内乱時にも、ロナルド・レーガン大統領が国境の重要性を議会の指導者たちに力説したことがあった。しかし、問題の衝撃度において、9/11とはおよそ比較にならなかった。 

9/11という衝撃的な出来事で、アメリカ・メキシコ国境は、アメリカを他の世界と遮断する象徴となったという考えも提示された。国境は安全保障上きわめて重要な役割が負わされることになった。単に国境線を挟んで人の移動の管理を行う役割から一挙に最重要な問題領域へと浮上した。

それでも移民に関わる人道的問題、移動途上の死亡、虐待、不法な拘束などもその重みを失ったわけではない。1998年から2015年の期間にアメリカ南西部の国境地帯でおよそ6570人の移民が死亡したとアメリカ税関・国境管理局(CBP)は発表している。統計に乗らない死者の数はおそらくかなりの数に上るだろう。2011年までは国境に到着するまでに、飢餓、貧困、虐待、人身売買などで、旅の途上で死亡する人たちを「人道上の危機」と認識する動きが台頭し、展開しつつあった✴︎2

かつてはアメリカへの移民を志し、砂漠を歩いている人影が、国境のイメージであり、彼らが目指す自由な国アメリカを連想させた。しかし、9/11以降、一転してアメリカを大混乱に陥れかねないテロリストのグループというイメージへ取って代わった。客観的に見れば、9/11以降の国境の意味は、メキシコの貿易戦争なども関連して、格段に複雑化した。大別すれば「人道上の危機」と「国家安全保障」の双方が複雑に関わるきわめて重要な問題領域と化した。 

さらにスタインベックの「怒りの葡萄」以来、長い話となるが、アメリカ側では農業、建設業など、メキシコなど中南米系労働者なくしては存立が危ぶまれる産業が拡大した。それをアメリカ人の労働者の仕事を奪っていると攻撃するトランプ大統領のような保守派の立場がある一方、賃金が安すぎて働きたくないというアメリカ人労働者、アメリカへ行けば賃金が高く、仕事があるからと移民を志す中南米労働者など、さまざまな見方、思惑が入り交じって、「国境問題」の理解と政策立案を著しく困難にしてきた。国境は単に地図上の一線を越えて、見通しがたい壁に変化している。


✴︎1「大越健介 激動の世界を行く:メキシコ」 2018年7月23日BS1

*2 7月23日のCBSが、サン・アントニオのウオールマートの前に駐車していたトラック・トレーラーの中から、少なくとも九人の遺体が発見されたと報じていた。さらに荷台に隠れていた20人近くが脱水症状、心臓疾患で、救急病院に搬送された。ドライバーの話では、人身売買業者が不法移民を輸送中の出来事であったようだ。トレーラーの荷台の中は人間には耐えがたい蒸し暑さになっていたと報じられている。

テキサス州では警官が巡回中に交差点などで、運転手や乗客の入国許可証などの提示を求める州法が成立、連邦最高裁で抗争中(詳細略)。

CBS/AP July 23, 2017 updated 9:25pm

 


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壁の中の聖域?

2017年07月21日 | 移民政策を追って

 

アメリカ国内に増加する「不法移民」の聖域 sanctuaries

 

 

ランプ大統領、最近はなんとなく声が小さくなった。お得意の「アメリカを再び偉大にする」Make America Great Again もあまり聞かれなくなった。当選後の政策として、選挙戦中から大言壮語していたアメリカ・メキシコ国境に壁を作り、国境を越えて入国してくる「不法移民」を断固阻止する、さらに壁の増築の費用はメキシコに払わせるという考えも、最近はほとんど聞かれない。代わって国内に滞在する不法移民の拘束が増加しているという。昨年比で40%プラスともいわれる。

壁をアメリカ、メキシコ間の国境に構築、張り巡らすことは、単純明快で効果がありそうに聞こえる。しかし、アメリカへの不法移民流入に対する最も有効な対策と言えるのだろうか。こうした大規模な壁を建設する考え自体は、すでに2005年カリフォルニア州議会で共和党議員ダンカン・ハンター氏が提案したことに始まるとされる。その後、何度か同様な構想が浮上した。しかし、国境の壁建造を大統領選の最大の公約としたのは、ドナルド・トランプ氏だった。ブッシュ大統領も壁の構築を提案したが、政権末期で実現しなかった。

移民問題について、ほとんど実質的に大きな成果を残すことのできなかったオバマ大統領に対して、トランプ候補は選挙キャンペーンの段階から、不法移民の越境の映像などを最大限に使った。そして、国境壁の構築費用はメキシコに支払わせるとして大きな論議を呼んだ。大統領選挙では38%が壁の構築に賛成し、トランプ支持者の83%が壁構築を指示した(Pew Research Center, 2016)。国境壁構築に賛成をする者は多いが、冷静に事態を観察する者の多くは、構築のコスト、実現可能性、国境地帯への経済的影響などの観点から構築に反対の立場を表明している。

実際には壁がすでに存在する場所でも、はしごなどを使って越境を企てるなどの例が報告されており、トランプが考えるような万全の手段とはならない。「壁」は総合的な移民政策のひとつを構成するにすぎない。ある推計ではアメリカに滞在する不法移民の約40%は、正式に出入国管理を経て入国し、規定の期限を越えても帰国しないいわゆるoverstayersといわれており、移民政策の難しさを示している。

さらに、最近ではアメリカ国内に「聖域」 sanctuaries といわれる地域が増えている。こうした地域では行政側も本人が不法移民であっても市民権を持った子供がいれば両親の国外送還はしないという対応を取っている。ロスアンゼルスのように、移民の孫が現市長であるような地域が多い。こうした「聖域都市」は全米で300を越えたともいわれ、推定1100万人の不法移民のうち37万人近くがこうした「聖域」内に居住していると推定されている。

国境に壁が構築されている場所を含めて、実際に国境という壁を乗り越えて越境する不法移民は、不法移民全体の40%程度といわれる。多くは入国管理を旅行者、ビジネスなどの資格で合法的に入国しているが、規定の年月を越えて国内に滞在しているいわゆる oversayers である。

こうした不法滞在者は、次第に「聖域」などの名で呼ばれる彼らにとって比較的安全な地域に集中・集積している。新たなコロニーの形成といっても良いだろう。彼らはお互いに助け合い、政治的にも団結力を増している。そう簡単に排除することはできない。以前に本ブログで記したような「数は力なり」という状況が実現し、展開している。

国境の壁を高めるほど、それを越えようとする人たちが増えるとの推定もある。壁が高くなるほど、壁の向こうの世界がすばらしいものに見えてくる。「楽園は花盛り」とは程遠いのだが、壁の外から見ると羨望の地に見えるのだ。

移民の行動様式とその落ち着き方は、長い年月の間にそれぞれに固有のパターンを生み出し、定着させてきた。それを定めるのは主として受け入れ側のあり方だった。時代は移り、その姿は今再び大きく揺れ動いている。しかもこの半世紀近くの間に、問題の内容も拡散、変化した。

筆者が1970年代に見ていたパリ、シャンゼリゼでも、裸足のアフリカ系黒人*が箒で落ち葉や塵芥を側溝に掃き込んでいた。今日「不法移民の町」として知られるようになり、数々の事件の現場となった、パリ郊外サン・ドニは有名な聖堂を見に来る観光客も多く、落ち着いて小ぎれいな住宅が並ぶ静かな「郊外」だった。ニューヨークやシカゴなど、アメリカ大都市における黒人などのスラム街も、近隣との間に見えない秩序が感じられた。そして、その後かなり長く見つめてきた日本の「太田」、「浜松」、「保見」などの日系人集住地域では、目の前の現実も大きく変わった。それぞれに背景は異なるが、いずれも破綻と変容の時を迎えている。

 

 

* 当時はしばしばピエ・ノワール(Pieds-noirs、"黒い足"の意)呼ばれ、1830年6月18日のフランス侵攻から、1962年のアルジェリア戦争終結に伴うアルジェリア独立までのフランス領アルジェリアに居たヨーロッパ系(フランス、スペイン、イタリア、マルタ、ユダヤ系)植民者のことを意味した。軽蔑的な意味があり、今では使われない。

 
 
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この女性は?:興味深い事実へ

2017年07月15日 | 絵のある部屋

 

 


 この画面全体を圧倒するような女性は誰でしょうか。17世紀美術に多少なりと立ち入った人は、その神に祈るような姿態、頭蓋骨などのアトリビュートなどから直ちに分かるでしょう。しかし、画家を特定することはかなり難しい。

描いた画家は、今日ではル・ナン兄弟とりわけ3男のマティユーと推定されています。すでにパリに工房があったので、その支援もあったかもしれません。しかし、この作品は、これまでル・ナン兄弟の作品を取り上げた企画展などにはほとんど出展されたことがありませんでした。その意味で、今回のキンベル美術館、サンフランシスコ美術館の巡回展に本作品が出展されたことは、大きな注目を集めました。ル・ナン兄弟の代表的な作品とされてきた『農民の家族』のような独特な沈んだようなやや単調に感じられる色彩で描かれた作品に慣れた人々には別人の作品のように見えるかもしれません。しかし、制作した画家はかなりの力量の持ち主であり、傑作であることは間違いありません。

この画面を女性がほぼ一人占めしたような、斬新な構図と姿態は、動的で衝撃的な印象を与えます。主題の関係もあって、色彩も暗色系に抑えられているが、作品が高いレヴェルの質を維持していることは、直ちに伝わってきます。最近、他にもル・ナン兄弟の手になると考えられる作品が発見され、それらとの比較研究も進み、本作がル・ナン兄弟の作品であることは、今日ほぼ確定しています。それにもかかわらず、この作品がル・ナン兄弟の多数の作品の中では、やや異色の位置にあることが、暗黙裡にも認められていることが注目点といえる。その点は、ル・ナン兄弟の現存する作品全体を展望してみないと、分からないかもしれない。

カタログ・レゾネを読みながら、驚いたこともあった(p.144)。ル・ナン兄弟がそれぞれどこで徒弟あるいは画業の修業をしたかは、未だに判然としないが、この作品、一時は、ユトレヒト・カラヴァジェスキの影響を受けた作品と考えられてきた。
しかし、最近では17世紀フランスの大家、そしてあのロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品からインスピレーションを得たのではないかとの説が有力になっている。改めて、ラ・トゥールの作品群と対比して見る。マグダラのマリアを描いたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品は数多いが、概してきわめて静的であり、闇に沈んだような中で悔悛し、ひたすら神に祈る女性のイメージが伝わってくる。全体像が描かれていても、一本のろうそくの光に映し出される女性の容貌もしばしば確認できない。

他方、このル・ナン作では、女性の容貌はほぼ前面からはっきりと描き出されている。彼女の精神的あるいは信仰の状態が、いかなる次元にあるか、定かではない。しかし、ラ・トゥールのような段階的区分をしてみれば、おそらく世俗の官能の世界に身を置いていた次元から、悔悛と信仰の過程へと移りゆく変化の姿が想定されているのではないかと思われる。作品右側に上から釣り下げられた燭台が小さな光を発しているが、全体を映し出す光の源がなんであるかはわからない。女性の足元の木材は、十字架の一部のようだ。

この作品が制作されたのは、1930年とされる。ラ・トゥールがルイ13世の求めに応じてパリに旅したのは、1929年であった。両者の間になんらかの直接的関係があったかは今の時点では不明である。しかし、当時すでに著名な画家として知られていたラ・トゥールのことを、ル・ナン兄弟、あるいはパリの工房が知らなかったとは考えられない。今後の研究が進むにつれて、さらに興味深い事実が見いだされるかもしれない。




上掲作品:
ル・ナン『悔悛するマグダラのマリア』 

Le Nain, The Penitent Magdalene
ca.1640
143 x 121cm
Private collection, Courtesy of Galerie Canesso, Paris 


 


 

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真っ直ぐに見つめる人たち

2017年07月08日 | 絵のある部屋

 

「農民の家族」

The Peasant Family
ca. 1642
oil on canvas
113x159cm
Musee xu Louvre, Paris

 

  17世紀、フランス。様々な仕事で働いている人たちを描いた作品を見ていると、描かれた人たちがじっとこちらを見つめているような一連の作品が印象に残った。もっとも、作品の中には、全く無関心、迷惑のように、横を向いたり、後ろを向いた人も描かれている。描かれることが嫌いな人でも、画家は家族の一員として描いておきたいと思ったのだろうか。これまでも記したことのあるル・ナン兄弟の筆になるとされる農民や職人たちを描いた作品である。いずれも大変生真面目な雰囲気で、描かれている。使われている色彩も地味で、なんとなくセピア色の世界に迷い込んだ感じがする。農民や職人を描いた作品は、3人の兄弟の中で長兄に当たるルイが、最も得意としたと考えられる。しかし、こうした主題での作品を依頼したのは誰なのか、ほとんど不明のままである。パリに移住する前に制作した可能性も十分にある。

この時代の画家にしばしば見られることだが、作品に署名や画題が記されていないことがある。ル・ナン兄弟の場合は、さらに難問がある。以前に記したように、ルーカス、アントワーヌ、マティユー Louis, Antoine, Mathieu の3兄弟の誰が描いたか、あるいは共同で制作したかが今となっては判別し難い。いわゆる作品の帰属 attributonの判定が難しい問題が、美術史家やコレクターを悩ましてきた。

その後、作品についての研究が進み、作品の特性、モデルなどから、兄弟間の作品の微妙な差異が次第に推定できるようになった。2016年のキンベル、サンフランシスコ美術館巡回展のカタログ・レゾネではかなり新しい事実が発見されている。半世紀近く各地で見てきた作品でも、少しでも新たな事実が付け加えられているのを見ることは楽しい。

例えば、今回は展示物全てをルイ、アントワーヌ、マティユーの3兄弟のいずれに近いかを分類する試みも行われている(pp..96-97)。それによると、農民や職人を描いた作品は長兄ルイが主として制作したと考えられる。おそらく小さな田舎の町 Laon からパリへ出てきた当時は、故郷の田園的光景が彼らにとって最も身近な画題だったのだろう。もしかすると、故郷にいる間に制作していたのかもしれない。次兄アントワーヌは「カードプレイヤー」、近年発見された「聖ペテロの否認」など3人から数人を対象に描いた集団肖像画に近い作品が特徴のようだ。比較的数は少ない。しかし、他の兄弟と共同で制作したことは十分に考えられる。今日、最も作品数が多数残されているのはマティユーであり、主題も宗教画への傾斜が認められる。こうした区分は今日でもある程度可能とはいえ、個別の作品の水準では謎が残る。

 
「3人の若い音楽家」 
ca.1460-1645
oil on canvas, 27.3x34.3cm
Los Angeles County Museum


 

「バッカスとアリアンネ」
ca.1635
oil on canvas
102x152cm
Musee des Beaux-Arts, Orleans, France 

ル・ナン兄弟の作品には神話 mythology に関する作品が少ないことが知られている。この「バッカスとアリアンネ」はその数少ない神話を描いた作品であり、現存しないが、ル・ナン兄弟の時代にフォンテンブローに置かれていた石像をモデルにした作品と推定されている。こうしたテーマの作品を制作するには、多くの知識が要求され、兄弟は間違いなく、パリ市内のこうした場所を訪れ、スケッチなどを行なったと思われる。

ルイと比較して、アントワーヌとマティユーは、かなり主題が重なる作品を制作したと推定され、しばしば共作に近い形で制作した作品が多いことも明かになってきた。それでも、この二人の兄弟の作品区分をすることは困難を感じることが多い。結果として、Le Nain という曖昧さを残した表記は今後もかなりの作品に残ることだろう。今回取り上げた作品については、記すことは大変多いのだが、今回はこれで終わり。





Reference

THE BROTHERS LE NAIN: PAINTERS OF SEVENTEENTH-CENTURY FRANCE, BY C.D.DICKERSON III AND ESTHER BELL, NEW HEAVEN AND LONDON: YALE UNIVERSIRY PRESS, 2016.

 

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