時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

新しい年へ力をもらう

2007年12月30日 | 雑記帳の欄外

  かつては送る方もひと仕事であったが、大きな楽しみでもあったクリスマスカードの数が激減してから10年近く経つだろうか。電子メールの普及が大きな理由だが、そればかりではない。世界中がそうしたことに時間を割く余裕を失ってしまったのだ。季節の賀詞からアドレスまですべて印刷されたカードに、せいぜいサインだけあるカードではダイレクト・メールとあまり変わらない。なんとか特別の感情を伝えようとすれば、一枚に要する時間もかなりのものになる。  

  こうした世の中の変化にもかかわらず、友人によっては、家族の動向などを「クリスマス・レター」などの名の下に知らせてくれることもある。これならば、同じ文章を印刷してカードに同封すればよいので、作業としては比較的楽ではある。最近は写真なども含めて、詳細な近況を知らせてくれる友人もある。手書きの温かみはないにしても、電子メールよりは印象も深く、はるかに親しみが伝わってくる。  

  今年のクリスマス・カードの中に、もう30年以上の付き合いになるカナダの友人からのものがあった。このブログでも記したことがある。この友人夫妻はすでに大学や病院などの職を退いて引退の身なのだが、まったく異なった分野ですばらしい仕事を続けている。夫は腰部に障害があり、すでに3回も大手術を受けて、歩行がほとんど困難だが、自宅そして地域の庭園や街路樹の充実に活躍している。今年は不自由な身体ながら、空路ロンドンへ行き、キューガーデンで1週間を過ごし、その成果を地域の美化のために活用したいと考えたようだ。手始めに町の公園の通りに、20年後に30メートル近くに成長するユリノキ(Liriondendron, tulip tree)の苗木を植樹したという。  

  さらに、驚いたことは、オンタリオの自宅から車で40分くらい離れた草原の中に建てられ、昨年まで祖母が住んでいた1世紀以上経った家屋をなんとか再生し、家族と地域の歴史的遺産として継承しようとの努力をしている。はるか遠くに美しい山並みが見えるだけで、360度、周囲には人家は見えない。どこが隣接地との区切りか分からないとのこと。「大草原の小さな家」である。草原の中の広大な林には、鹿、兎、穴熊、野生の七面鳥などもすんでいるという。この家族は今までこうした難事業をしっかりとこなしてきた。二人の息子と一人の娘は遠く離れた地に住んでいるが、休日などに戻ってきた時に、両親を助けて遠大な仕事を黙々とこなしているようだ。素晴らしいと思うのは、そこにいささかも気負った点がないことだ。さすがに父親は人力の限界を感じ、最近イタリア製のトラクターを購入したという。理想は、林の一部を花々と動物が楽しく共生する場
(フローラとファウナ)にしたいとのこと。

  すっかりひ弱になってしまったわれわれには想像がつかない仕事だ。ちなみにこの父親の祖父は、ロシアからの移民であった。厳しい開拓生活の中に育まれた強靭な精神力が彼らを支えているのだろうか。先が見えなくなったこの国の新年に向けて、少しばかり力を分けてもらった思いがした。 

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前面に出てきた移民問題

2007年12月27日 | 移民政策を追って

  予想通り、アメリカ大統領選の大きな論点として「移民政策」が前面に出てきた。しかし、各候補ともできれば自分の側からは触れたくないというところがポイントであり、これからの選挙戦での見所である。  

  今回の大統領選で、これほど対応が難しい問題はないと密かにいわれてきた。ヒラリー・クリントンの支持率が最近、急に伸び悩んだ原因のひとつも、不法移民に自動車運転免許を付与するか否かの質問に、直裁な答ができなかったことにあったとされる。選挙戦という異様な雰囲気では、分かりにくい論理は通用しないのだ。  

  共和党候補の間でも微妙な差異があることは以前に記したこともある。とりわけ、不法移民問題をめぐるミット・ロムニーとルディ・ギウリアーニの間での議論が象徴的である。  

  ギウリアーニはニューヨーク市長の時、同市を不法移民を認めない「聖域(サンクチュアリー)都市」とするとしていたが、ロムニーはこれを批判してきた。他方、ギウリアーニはロムニーが自分の邸宅の庭を整備する会社の庭園師に不法移民を雇っていたことを問題とした。ロムニーは「変なアクセント」の労働者がいたとしても、ひとりひとり移民としての合法性を確かめるわけには行かないと反論した。これだけ見ると、まったく子供じみた議論だが、選挙民の動向にかなり直接にリンクしているので、軽率に扱うと命取りになりかねない危ない要素を含んでいる。選挙対策上は細心の注意が必要なテーマとなり、どの選挙参謀も頭を痛めているようだ。

初めて浮上した問題
  これまで移民問題が大統領選挙の問題となったことはない。ブッシュ対ゴア、ブッシュ対ケリーの時もほとんど議論にならなかった。最後まで両者共にこの点に触れるのを避けていたようだ。しかし、いまや1200万人近い不法滞在者と年間50万人くらいの不法入国者のフローがあり、その動向はいずれの候補者にとっても到底無視できない問題となった。最初の選挙区となるアイオワ、ニューハンプシャー、サウス・カロライナなどにもヒスパニック系住民が増加している。  

  それと共に、グローバリゼーションの展開がもたらす結果についての不安が拡大し始めた。気がついてみると、アメリカ国民の買っている商品の多くが「メイド・イン・チャイナ」になっている。こうした中で、移民の急増と「壊れた国境」へのポピュリスト的反発が高まってきた。

アンビヴァレントな移民への感情
  移民で国家を形成してきた歴史を背景に、多くのアメリカ人は、不法移民にアンビヴァレントな感情を抱いている。移民に友好的な国としての母国への誇りがある反面で、法治国家の維持と(低賃金でも働く)移民の経済への影響を憂慮している。  

  現在の段階で、各候補が移民政策にいかなる考えでいるか、メディア*の報じるところにしたがって、簡単に整理しておきたい。いわば、現時点のスナップショットである:  

  民主党候補は、ブッシュ政権下では成立しなかったが、「包括的移民改革」の路線を支持することで一応首尾一貫している。どの候補もその原型となったマッケイン=ケネディ法案を支持する姿勢は維持しているようだ。しかし、各論に入ってくると、微妙に異なる。各候補とも、答え方いかんでは、この問題が大きな「ネズミ捕り」となりかねないことを感じている。

  候補の中では、オバマとリチャードソンだけが不法移民に自動車運転免許を与えることに賛成を表明している。クリントンは一時は口ごもった内心の葛藤を、免許を与えないという線で整理したようだ。  

  共和党候補の主流も、一応は「包括的」移民改革を支持しているかのようだが、これも候補ごとに微妙な差異を見せている。その中で、ジョン・マッケインだけは民主党のジョン・ケネディ議員と共同で改革法案を支持した立場から、方向ははっきりしている。  

  これに対してロムニーは、法案に含まれる1200万人の不法移民を本国送還できるとの考えを非現実的と嘲った。ニューヨーク市長をつとめたギウリアーニは、現行連邦移民法は厳しすぎ、公正を欠くと批判している。  

  人種別にみると、ヒスパニック系(ラティーノ)はアメリカで最も増加している選挙民のブロックだ。彼らの支持を失うと、共和党は2004年、ブッシュが獲得したフロリダ、アリゾナ、ニューメキシコ、ネヴァダ、コロラドという5つのラティーノ優位の州を失い、敗退することになりかねない。  

  急速に支持率を高めているアーカンソ知事、マイク・ハッカビーは不法移民の子供たちには安い授業料で州の教育を行えとの要求を支持し、ラティーノと他の住民からの批判の矛先をかわそうとしている。テネシー州の上院議員は、農業労働者向けのヴィザ発行数を増やすことを要求している。これらは、それぞれ地元選挙区対策であることはいうまでもない。  

強い制限指向
  最もはっきりと「制限主義者」の立場を標榜しているのは、知名度のないコロラド州の共和党下院議員トム・タンクレドで、不法滞在者1200万人を送還する移民改革案を提示している。彼は移民政策を選挙キャンペーンの中心に置き、テロリズム、ギャング・暴力と不法移民とをリンクさせる単純な論理を展開している。大分無理なな発想だが、タンクレドは共和党支持者が内心考えているが口にできないことを代弁しているともいえる。自分が大統領候補になる可能性はほとんどないことを読んでいるから言えるのだろう。

  彼はマッケイン議員の包括的移民改革法案をもっと厳しい内容に転換させるべきだと主張している。それは700マイル(約1300キロ)の障壁を国境に構築しようとするもので、共和党員の間には密かに支持する者も多いらしい。

  ロムニーの立場はあいまいだ。彼はタンクレドの考えに一部同調し、自分のライヴァル候補、とりわけギウリーニとハッカビーは移民にソフトだと攻撃している。ギウリーニは国境の安全保障を強調し、ハッカビーは「安全なアメリカ・プラン」を提唱しているが、内容が伴わず説得力は弱い。

  従来の移民政策のつながりでは、トンプソン議員のように不法移民を雇用する使用者を罰する政策をさらに強化すべきだと主張する者もいる。マッケインでさえも、移民に対する対応を以前よりは硬化させている。しかし、彼は党員には、ラティーの選挙民を意識して、移民を悪しきものと表現しないよう警告している。

地域にかかる大きな負担
  不法移民は、アメリカの病院、学校、監獄などに大きな負担となっている。たとえば、カリフォルニアの監獄には約1万人が収容されている。 グローバリゼーションへの懸念も民主党のコアであるブルーカラーと黒人の間に強い。国内労働者のある部分は、不法滞在者と雇用や賃金面で競合するところもある。

  カリフォルニアでは、子供の70%以上がヒスパニック系となった都市の学校から逃げ出して、英語で授業が行われる私立学校か、郊外の学校へと転校する者も現れている。

  自動車運転免許問題はとりわけ民主党にとって危険だ。最近行われたある世論調査(Los Angeles Times/Bloomberg poll)では、回答者の22%しか不法移民に運転免許を付与することに賛成していない。ニューヨーク州知事のエリオット・スピッアは免許付与に支持を表明したとたん人気低落、退却した。

  不法移民問題は、大統領選の過程で今後頻繁に登場し続けるだろう。いかに寛容といっても、1200万人もの不法な滞在者を放置してはおけないからだ。しかし、現在の候補者の対応からみるかぎり、抜本的解決は示されていない。政策の実現可能性まで踏み込むと、泥沼に落ち込みかねない。メディア*が指摘するように、「問題をそっとしておくという政治家たちの対応は別に驚くべきことではない。しかし、選挙民がそうさせてはおかないというのも当然」のことだ。

* No wonder:Cooking up a row.” The economist December 15th 2007
CBS TV、December 20、2007.

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Season's Greetings

2007年12月24日 | 午後のティールーム

 

 

SEASON'S GREETINGS

 

Georges de La Tour, Saint Joseph Carpenter, Christ with St.Joseph in the Carptenter’s Shop, Musée du Louvre, Paris.(Details)

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天才を見出した人々

2007年12月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Alphonse de Rambervillers, gravure de Van Loy, Bibliothèque nationale Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991

    美術史の世界を眺めてみると、今日では天才といわれる画家でも在世中はその才能が認められることがなく、後世になって初めて発見・再評価された人々もかなりある。さらに、名前は記録にあっても、作品が今日まったく残っていないという画家は星の数ほどある。

  いかに天賦の才があっても、同時代人がそれを発見し、育成・支援する環境に恵まれなければ、その才能は埋もれたままに終わってしまう。少なくも在世の間に認められ、花が開くことがあれば、大変な幸せというべきなのだろう。天才は異能の才であり、同時代の人とは大きく距離を隔てた才能の持ち主である。そのため、時には同時代人には理解できないこともある。

  このブログで話題にすることの多い17世紀の画家たちを見ると、それぞれに喜怒哀楽、栄枯盛衰の人間ドラマがある。とりわけ、子供や若者の頃に隠れた才能を見出し、その育成のために精神的、物質的支援をしてくれるパトロンといわれる人物に出会えるか否かが、その後の人生を大きく左右する。当時の芸術家にとって大変重要なことは、彼らを支えてくれる庇護者、パトロンの確保であった。いかに才能があっても、それを開花させる基盤がなければ生活することさえ難しく、庇護者の存在が欠かせなかった時代である。

  今日判明しているいくつかの例を見ると、隠れた才能を最初に見出すのは、しばしば時代の「教養人」とみられた人たちであった。たとえば、レンブラントの場合は、オラニエ公の秘書官ホイヘンスだろうか。1625年頃から総督の秘書官を勤め、ラテン語の詩の翻訳を手がけたり、デカルトと3ヶ国語で文通もしており、法学、天文学、神学も修めていた。あのリーフェンスとレンブラントにイタリア行きを勧めたが、二人とも断ったという逸話の人物でもある。当代きっての文人の勧めを断った二人も素晴らしかった。内心に秘めたる自信があったのだろう。しかし、ホイヘンスも立派で彼ら若者の才を認め、支え続けた。

  ラ・トゥールの場合は、すでにこのブログに記したこともあるが、生地ヴィックの代官アルフォンス・ド・ランベルヴィリエール Alphonse de Rambervilliersがその人であった。若い隠れた才能を見出すことをひとつの生きがいとしていた、この高い精神性を持った貴族は、ロレーヌきっての美術と骨董品の収集家であった。そればかりでなく自らが詩人で画家でもあり、反宗教改革の流れの中で著名なキリスト教哲学者でもあった。  

  彼はジョルジュと結婚したネールの両親とも姻戚関係にあり、1617年の結婚式にも新婦側の来賓として出席している。背景は不明だが、ラ・トゥールの父親とも知人の関係でもであった。若いジョルジュの天賦の才能を見出し積極的に庇護してきたのは、このラムベルヴィリエールその人であったのではないか。

  ジョルジュとネールの結婚を仲介したかもしれない。その可能性はきわめて高い。ラ・トゥールの妻となったネールの従姉妹と結婚していたこと、リュネヴィルとヴィックという離れた町の双方に通じていたこと、などからラムベルヴィリエールが若い二人の間を取り持ったのかもしれない。

  ラ・トゥールの画家としての実力が次第に認められてゆくにつれて、パトロンの数も増えたことはほぼ明らかだが、最初の才能の発掘者であり、パトロンでもあったこの人物の役割はきわめて大きい。パン屋や粉屋の息子であろうと、そこに優れた才能の萌芽を見出せば、それをなんとか開花させてやろうとする志に敬服する。

  アルフォンス・ド・ランベルヴィレールといえば、12世紀末までさかのぼる貴族の家系で育ち、ヴィックばかりかロレーヌきっての文化人であった。トゥールの検事で市議会委員をしていた父親の息子で、ヴィックに置かれたメッス男爵領の代官の甥でもあった。トウルーズで学んだ後、1587年ヴィックで検事になるつもりだったようだ。しかし、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた年でもある1593年7月24日、叔父の後を継ぎ、代(理)
官に就任することになった。

  ヴィックの町を治める指導的な人物であり、その識見、篤実な人柄で市民の尊敬の的であった。代官という政治的役割を担いながらも、詩人、学者、美術品収集家でもあった。その名はロレーヌばかりでなくパリの貴族階級の間でも知られていた。

  ランベルヴィリエールは16世紀文化人の典型とも言える人物だった。学問、学芸のあらゆることに関心を持っていた。その範囲は、地理学から神学から地域の法律・慣習、築城術から楽器、ガラス彫刻、古代のメダル収集などあらゆる分野に及んでいた。美術品についてもロレーヌきっての収集家として知られていたが、自ら絵筆をとって細密画などを描いている。リュートを弾き、詩を朗詠することもあったようだ。

  1600年の祭典に際してフランス王アンリ4世に献呈された『キリスト教徒の詩人による敬虔な願い』 the pious learnings of the Christian Poetは、彼自身の詩作であるばかりか、彼の細密画挿絵付きの写本であった。当時の文化水準を繁栄する最も優れた作品のひとつと評価された。ランベルヴィリエールはヴィックのコルドリエ会に、神学護教譜研究の蔵書を送ってもいる。 

  代官は天文学者、骨董品収集家などで、この時代の代表的教養人の一人、友人のニコラ・ド・ペイレスク Nicolas de Peirescと所蔵する骨董品の交換などもしていた。ある時、ペイレスクがジャック・カロの作品を入手したことを知って、作品を見た代官は「ペイレスクは生来の鑑識眼があるな」と誉めたという。そして、ラ・トゥールの作品も、買ったらどうかと薦めていた。

  さらに、ルイ13世がラ・トゥールに、アンリIV世が与えたような恩典を付与しなかったのを知って、晩年(1621年3月27日)王の配慮の足りなさを非難する長い文書を残している。そこには、「不毛の土地を耕す教養ある人間が少ない環境を嘆いている」と記されている。

  多数の美術作品を収集、所蔵しており、遺言書においても、それらが自邸の装飾の一部として構成されるよう、そして彼の美術への愛のしるしとして、自らの疲れた心を癒すために、彼が展示したままに保蔵されるよう厳しく書き記している。残念なことに、そのすべては失われた。

  

Reference 

aulette Choné, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996

Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991

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日本入国と指紋、撮影

2007年12月20日 | 移民政策を追って

  外国人の日本への入国に際して、指紋採取と写真撮影の措置*が導入されたことがひとしきり話題となった。日本人もアメリカへ入国する時には、同様な措置の対象となる。  

    ところで、日本の外国人(移民)政策はどこで決まるのか。そのプロセスは国民にはほとんど見えてこない。アメリカのような議員提出法案も少ないので、国民の目に触れることも少なく、ほとんど議論もないままに、いつの間にか法案が提出されて施行される。国会の審議能力などを見ていて、かなり不安な部分も多い。国民も、外国人が対象であって自分たちには関係ないと思っているのだろうか。  

  ひとつ、はっきりしているのは、外国人受け入れに関わる政策の領域で、入国管理に関わる政策だけは、かなり迅速に導入されることである。要するに旧来の出入国管理=外国人政策という色彩が強く表出している。それに対して、一度入国した外国人やその家族と地域や社会との「共生」に関わる「社会的次元」の政策は、導入がきわめて遅い。入り口だけ管理しておけば、後はなんとか対応できると考えているのだろうか。

  イギリスなどヨーロッパの諸国でも、同様な対応が来年以降導入されることが検討されている。日本の対応については、いくつかの外国メディアに感想が述べられている。ただでさえ「鎖国」のイメージが強い日本がいち早く導入することは、やはりそうかという印象を強めているようだ。 しかし、「国民国家」の権力は衰えることなく強力だ。うっかり逆らって入国拒否にでもなれば、仕事ができなくなると思う人たちも多い。アメリカは、2004年1月から導入された当時は両手の指1本の指紋であったが、ついに本年12月21日までに、両手の指5本の指紋を採取することになり、すでにワシントン郊外のダラス空港などで実施に入った。   

  文脈はまったく違うのだが、過日ルターの肖像画を描いたルーカス・クラーナハについての作品**を読んでいた時、「現代のドイツでは身分証明書を携帯するように義務づけられているので、ドイツ国民は少なくとも一枚の肖像写真を持っている。つまり理論的にはすべてのドイツ人の人相が、国家に知られているという状況にある」というくだりで考えさせられたことがあった。要するにドイツ人は身分証明書として自分の写真(肖像)を提出しているので、ある意味で写真を国家に預けているのと同じことだという。ドイツの継承している歴史的問題などを考えると、この話は尽きなくなるので、ここでは扱わない。  

  ただ、ひとつだけ挙げてみたいことがある。写真を「撮られる」ということは、現実には強制されてのことであっても、その行為において、多少は受動的な感じもする。ところが、指紋となるとかなり印象が異なる気がする。まさに「指を差し出す」Giving you the finger という主体性が強い行為となるように思われる。これは私だけの感じなのだろうか。 ジャーナリストはこうした点に敏感でもある。しかし、立ちはだかる城壁を前にしては、多少嫌みをいうくらいしかできないのかもしれない。9.11対策を持ち出されれば、異論も出しにくいのだろうか。   

  日本については、メディア#が指摘するように、別の気になることもある。最近でも、年金記録の大量行方不明、医療機関の情報流出など個人情報の扱いには多くの問題があり、不安の種には事欠かない国である。導入するからには、前車の轍を踏まないよう十全な管理を願うばかりだ。



Reference # "Giving you the finger." The Economist November 24th 2007.

** マルティン・ヴァルンケ(岡部由紀子訳)『クラーナハ:ルター』三元社、pp.122

*日本では一部の免除者を除き、すでに日本に滞在している外国人が再入国する場合も含め、日本に入国する外国人全員が対象となる。免除される者は、1)特別永住者、2)16歳未満の者、3)「外交」及び「公用」の在留資格に該当する活動を行おうとする者、4)行政機関の長が招聘する者、5)(3)又は(4)に順ずる者として法務省令で定める者。免除者でない外国人が指紋又は顔写真の提供を拒否した場合は、日本への入国は許可されず、退去を命じられる。

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もうひとつのアフガニスタン

2007年12月16日 | 書棚の片隅から

    今週のNewsweek Dec.17, 2007 のトップ記事に、かつてこのブログに記したことのあるThe Kite Runner 『凧を追いかけて(仮題)』(邦訳「カイト・ランナー」佐藤耕士訳)が取り上げられていた。カーレド・ホセイニの小説(2003)が映画化され、今週からアメリカ、そしていずれ世界中で上映されることを前にしての紹介記事である。

  小説の舞台であるアフガニスタンについては、ある個人的体験も重なって関心を持ってきた。カブールに関わる小説もいくつか読んできた。ホセイニの小説は、1979年のソヴィエット侵攻、オサマビン・ラディン、アメリカの武力攻勢以前のアフガニスタンを描いている。アフガニスタンは国家離散(ディアスポーラ)、今に続くタリバンの台頭と荒廃の時を迎える。かつて貧しくも心豊かで平和な時期をカブールに過ごした二人の少年の友情とその破綻、そしてほぼ30年後の姿を、戦争の悲惨と悲哀の中に描いている。ファルシー語(現代ペルシャ語)などの海賊版を除いて、すでに8百万部以上が読まれたという。

  最初読んだとき、アフガニスタンの惨状を舞台としながらも、ややメロドラマ的な印象も受けたのだが、この焦土と化した国に生きる人々の人間性にあふれた姿には強い感動を受けた。深く心の底に残る一冊である。アフガニスタン。かつては輝かしい文化の栄光に溢れていた国であった。舞台に光の当たっていた時代のカブールと、暗転、瓦礫の地と化したカブールを時代を隔てて描く2都物語の趣きもある。晴れた日、カブールの大空に舞う色とりどりの凧。それにはこの国に住む人々のさまざまな思いがこめられている。

  書籍としての文学作品を読んで、さらに映画化された作品まで見るということは、これまであまりない。ただ、今回の映画化について、製作者側が強調している点に多少関心を惹かれた。それは、原作著者であるホセイニがアフガン人であり、今はアメリカに住んでいること、監督のマーク・フォレスターはスイス人でやはりアメリカにいる。主演男優はエジプト人でイギリスに住んでいる。映画での俳優間の会話の多くはダーリ語(現代ペルシア語のひとつ)で行われ、英語のサブタイトルがつけられるという。興行上は英語の方が通りやすいのではないかとの見方もあったらしいが、やはり違和感をがあり、臨場感がないと判断されたらしい。

  大変衝撃的なことは、この映画はアフガンでは撮影できなかったことだ。30年近い戦争で、撮影に使える場所はすべて破壊され、カブールにも当時を思い起こす建物はほとんどないという。そのため、すべてが中国で撮影された。今や、アフガニスタンの映画館はすべて破壊され、存在しない。したがって、今回、映画化されてもアフガン人はDVDの海賊版で観るしかないのだ。

 制作者たちは、こうした制約はかえってアフガンに思考の次元を拘束されることなく開放し、アフガニスタンにおけるロシア、イラクにおけるアメリカ、そして他の同様な地域へと移転しうる普遍性を主張できるという。映画を観るか否かは別にして、ホセイニのこの作品は、戦争、狂信といった視点から描かれることが多いアフガニスタンに、人間という内側から迫り、もうひとつのアフガン像を提示していることだけは確かなようだ

"The Other Afghanistan" Newsweek Dec.17, 2007.

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祈りたい「連帯経済」の未来に

2007年12月10日 | グローバル化の断面

  グローバリゼーションの展開は、厳しい優勝劣敗、淘汰の過程を伴う。競争に敗れた企業には再生、回復の道はないのだろうか。倒産企業の従業員やその家族にとっては、悲惨な生活しか選択の可能性は残っていないのか。日本の実態を考えながら、少し元気づけられるTV番組を見た。*

  「“回復工場”の挑戦」と題したアルゼンチン、ブエノスアイレスの倒産企業の“回復”の努力の姿である。 2007年2月、同市でも有数なクリーニング工場が競争に敗れ、倒産する。経営者は失踪し、日本円で4000万円近い負債と30人の労働者が残される。最盛期には150人近い従業員を擁していた。路頭に迷った従業員たちは、最後の救いの手がかりを従業員による自主再建に求める。企業倒産で貧困に追われ、家も失い、工場内に住み込んで働く家族もいる。  

  2001年のアルゼンチン経済危機の苦い経験が、“回復工場”という道を構想するきっかけになる。当時、このプランを考えつき、100以上の具体的経験を持つルイス・カーロ弁護士の力を借りて、従業員が連帯組合を組織する。一人一人は経営のなんたるかも知らない労働者だが、弁護士の指導を受け、自主経営の計画を立てて公的認可の申請をする。工場再建計画を裁判所へ提出し、認可が得られれば、自治体の管理の下で倒産企業経営の経営権を公開入札するプロセスをたどる。通常は連帯組合が落札する。その後、工場が所在する自治体が負債を立て替えて、長期に組合が返済する仕組みである。  

  ”回復工場”の経営は、再建プランに参加する旧従業員が平等な権利を持って行う。利益が出れば、賃金も労働時間だけの差だけですべて平等に支払われる。これまでは、協同組合方式による倒産企業の再建の仕組みであり、日本にも労働者自主管理企業を含めていくつかの例があり、とりたてて珍しいというわけではない。  

  注目させられたのは、こうした“回復工場”がお互いに「連帯」して相互に助け合い、「連帯経済」ともいうべきユニークなシステムを作り上げていることだ。これまでは自主管理企業は、多くの場合孤立無援であり、資本主義的、効率重視の企業と真っ向から競争を迫られていた。そのため、再建を図っても経営効率の劣る自主管理企業が再び苦杯をなめるという例が多かった。

  この新たなシステムでは、たとえば同じグループで再建途上にある病院の従業員組合が、仲間の“回復企業”へ医療サービスの無償提供を行う。足りない人材を相互に融通しあう、などの連帯が進められている。連帯グループの企業が毎月集まって、相互になにができるかを話し合う。素人集団のような“回復工場”の真摯な努力の姿を見て、顧客が製品価格の値上げに応じて、救済の手を差し伸べるなど、人間味のある情景が映し出される。「連帯経済」の環の外にも市場は次第に広がって行く。文脈は異なるが、フォルカー・ブラウンが期待した「人民所有と民主主義」のアイディアの具体化につながっているようなところもある。   

  倒産閉鎖してしまったガソリンスタンドが“回復工場”システムで再建しようとするが、壊れた設備を修理する技術者がいない。すると、連帯経済グループの電気屋さんが手助けにかけつけ、再建裁定の時間切れ寸前のところで修理に成功する。復元し始めた企業を見て、失踪したもとの経営者の息子が戻ってきて、会社は自分たちのものだと主張する動きにも、従業員は懸命に対抗する。  

  倒産した企業は、どれも設備も老朽化し、労働条件も悪く、経営ノウハウもなく、見るからに再建は難しそうである。”回復企業”のそれぞれの実態はいかにも頼りなく、グローバル化の荒涼たる強風の前には、吹き飛ばされそうなはかなげな存在に見える。それでも、利益追求だけが企業としての目標ではないという人間の相互愛のようなものがひしひしと伝わってくる。「会社は資本家のもの」という近年の流行に、厳しいながらも別の道もありうるのだということを示してくれた。冷酷なグローバル経済に翻弄される南半球の小さな”回復工場”、”連帯経済”の成功を祈りたい気持ちになった。

Reference
2007年12月8日、BS1ドキュメンタリー「“回復工場”の挑戦」

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進展のない議論:外国人研修実習制度

2007年12月06日 | 移民政策を追って

  外国人研修実習制度がまたメディアに取り上げられていた。案の定、なにも新味のない議論の繰り返しである。ほとんどこの制度が導入された直後から出ていた問題の提示であり、相変わらずの議論である。各省の対応も「省益」とかいう歪んだ思想から脱却できない。立案過程で「省益」を擁護するような研究会しか作られないので、各省滑稽なほど予想した通りの結論が出てくる。

  問題点はいくつかに分かれるが、決定的な問題は制度の「透明性」が最初から欠けていたことにある。

  今になって罰則を強化してみたり、「研修」の段階から(最低)賃金を支払うとしてみても、根幹となる方向設定がねじれたままだから解決にはならない。悪用につながりかねない仕組みが制度に組み込まれてしまっている。

  これまでも使われてきた「実習」という用語も悪用を招く原因になる。「実習」という用語は、しばしば教室での「座学」ではなく、工場など生産現場での熟練技能の習得という語感もあるため、(実際には就労であっても)使用者は技能を実習生に教える過程であり、労働者としての賃金を支払う必要がないとしたり、それを悪用する者が出てくる。違反事例は全体からみれば少数といっても、表に出ない例は数多い。この制度を利用したい企業は、低賃金指向型なので制度のわずかな欠陥も悪用されかねない。この制度に応募する研修生も制度の複雑さや日本の職場についての知識不足に翻弄され、母国の悪徳派遣業者などの犠牲になる。

  ここまでくれば、制度改革の方向は、「研修」と「就労(雇用)」の次元を別の制度として切り離すことで、制度の透明性を確保する以外にない。それぞれの次元をいかに構想、具体化するかは、廃止を含めて当然検討の課題となる。

  「研修」を制度として独立、存続させるならば、「研修」期間中は少なくも日本での人間としての適切な生活が可能な水準を保証しなければならない。それが先進国としての責任である。そして、重要なことは日本で研修、習得した
技能が、帰国後の母国で活用される道を確立することである。

  他方、「就労(雇用)」の次元についても、廃止の可能性を含めて十分な検討が必要である。廃止をしないとなれば、不熟練分野に一定の正規受け入れの道を設けることになる。

  やや先を見て簡約して言えば、特定の産業領域に限定した外国人労働者「特定領域雇用」制度(仮称)のような形での受け入れの道が検討されてもよいのではないか。アメリカなどで検討されてきた季節農業労働者制度のようなシステムである(現状では導入されていない)。ただし、その数は当初は試験的に少なく、せいぜい年間数万人以下、2-3年くらいの雇用期間でテストしてみることだろう。さらに、就労期間終了後、使用者責任の下に全員必ず帰国してもらう。再度の来日は認めるとしても、1-2年の空白期間を設定して、他の労働者にも機会を与えるなど、いくつかの配慮が必要だ。

  在日中は、すべて国内労働者に準じた待遇を保証する。日本人が就労しない分野を担ってもらうのだから当然である。もちろん、この受け入れ枠からあふれる労働者は多い。彼らが従来のようにさまざまな不法就労の道を選択する可能性は高い。その意味で不法就労問題の解決にはならない。しかし、外国人登録制度などの改善と併せれば、問題山積、不評な現行制度よりは透明性の高いものとなりうるだろう。

「クローズアップ現代:国境を越える研修生トラブル」NHK 12月5日

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ラ・トゥールにみる作品の真贋(1)

2007年12月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

The Choirboy (A Young Singer) Oil on canvass, 66.7 x 50.2cm New Walk Museum and Art Gallery, Leicester Arts and Museum Service  

  この作品については、ブログのコメントで少し話題としたことがあった。一部ではジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作とする者もあったが、今日では、ラ・トゥールの作品のコピーあるいは工房の作品とみるのが大勢となっている。しかし、完全に決着しているわけではない。かなり議論を呼んだ作品だ。

  作品自体は大変落ち着いた色調で、美しく仕上がっている。ラ・トゥールの多くの作品に見られる宗教性や深い含意はあまり感じられない。中流階級の居間などに飾るには適当で穏やかな主題と言えよう。こういう絵が家に一枚あったら、目も心も休まるなあと思うのではないだろうか。

  一見して、もしかするとラ・トゥールの手になるものではないかと思わせるのは、やはり光の使い方である。手のひらによって隠された蝋燭の光源と少年の顔を映し出している光の明るさである。少年はその光で楽譜を見ながら、目を細めて聖歌を歌っている。 かなり修復の手が入っているらしいが、衣服のひだや襟の模様の美しさなど、並大抵の画家ではないことが伝わってくる。 

  作品の来歴も謎が多い。この作品が専門家の目の前に現れたのは、1980年代と比較的近年であった。個人の所蔵するものだったが、所有者は名前を秘匿することを強く希望していた。そして、これまでその点は守られているらしい。わすかに聞こえてくるのは、ブラウン家といわれる家族が1890年代、ハンプトン・コートで王室絵画の管理者であったという伝聞である。いかなる経緯で作品が家族の所有になったかも分からないが、元をたどれば王室の所有になるものであったという言い伝えがあったということである。他方、この作品について王室の記録はなにも見出されていない。 イギリス王室の美術品管理も決して万全でないことは、これまでに思いがけない作品が突然倉庫から出てきたりしており、記録が欠落してることも十分ありうる。 

  この絵の所有者は通常、美術作品が経由する手続きを経て、レスター美術館へ持ち込まれた。そして、修復と鑑定が行われた後、作品保有者が直接に美術館へ売却する場合の租税特例が適用されて、美術館へ所有権が移転した。  

  ラ・トゥールの専門家であるルーブル美術館のピエール・ローゼンベールが推薦したのだが、同美術館の評価委員会の一人(匿名)がラ・トゥールの作品とは考えられないと述べたことが同美術館のジャーナルに記載され、美術館の認定申請が却下されてしまった。  

  その後、この作品の画家の確定については不名誉なことが続いた。ある著名な権威者がこの作品の真作は、さるドイツの城にあったと発表した。こうして、思わぬけちがついてしまったこの作品は、専門家の間でその正統性が公認されずに今日にいたっている。

  ラ・トゥールの作品を多数見てきた者には、真作か非真作(コピー)、贋作かを別にして、ラ・トゥールと多くの点でつながっていることを思わせる作品であることは間違いない。

  ちなみに、この作品を含む5点のラ・トゥール関連の作品を展示した企画展がイギリスのコンプトン・ヴァーニー*で本年6月30日から9月9日まで開催された。規模は小さいが、イギリスで始めての統一された構想でのラ・トゥール展と評価された**

  この作品に限ったことではないが、美術品の真贋鑑定は虚虚実実であり、作品の美しさからは想像もつかない複雑怪奇な世界であることが伝わってくる。

 

Compton Verney, Warwickshire CV35 9HZ

** Christopher Wright. Georges de La Tour: Master of Candlelight. Compton Verney. 2007.
この特別展の企画者であるクリストファー・ライトも、ラ・トゥールをめぐる真贋論争の主要人物である。

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火がついてきたアメリカ移民問題

2007年12月01日 | 移民の情景

  アメリカの大統領選挙戦もいよいよ本格化し、これまではほとんど議論されなかった移民問題がいよいよ論点として浮上してきたことをABC・News が伝えている。

  共和党有力候補の一人、ジュリアーニ前ニューヨーク市長の個人的問題のあら捜しから火がついたようだ。ジュリアーニ氏のメイトン夫人がかつて市長の秘書であった頃、旅行の際に支出した費用負担が不明と、政敵の前マサチューセッツ州知事ロムニー候補が指摘。これに対して、ジュリアーニ氏はロムニー候補がハンガリーからの不法移民を家庭で使っていたとやり返した。ロムニー候補は、自分の家の壁や屋根の修理などのサービスを外部の会社に委託し、その会社から派遣されてきた労働者が不法移民だったという状況は、どこにもあることだと述べている。

  これ自体は、今や日本の政界でも見慣れた光景になってしまった候補者個人の欠点探しの断片にしかすぎない。しかし、時にこうした一見些細なことから政治家の運命が決まるような展開になることも少なくない。政治家ご本人にとっては、怖いのだろう。とりわけ、投票日が近くなった段階では致命傷となることもある。

  同じABCによると、ニュージャージー州で、中米ホンデュラス出身の不法滞在者リベラさんが、犬に咬まれて大怪我をし、その補償と犬の処分をめぐって世論が沸くという事件が注目を集めている。これもたまたま被害者が不法滞在者であったということが、問題を大きくすることになっている。

  大統領選序盤の行方を決定するといわれるアイオワ州では、移民問題が選挙民の関心の第一位にランクされるまでになった。全体に保守党候補は移民に厳しくなっている。7年前、ブッシュ大統領が「思いやりある保守主義」を唱えて人気を得た状況とはすっかり様変わりしている。民主党候補の間では、まだ正面から取り上げられていない移民問題だが、選挙民に直接的に影響するテーマだけに各候補とも、慎重にならざるをえないのだろう。日本ではほとんど関心を集めないトピックスだけに、今後もウオッチを続けたい

  

 ”Giuliani, Romney Spar on Immigration” ABC News: November 28, 2007

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