時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

人種差別の源流を探る:大統領も感銘したピュリツアー賞受賞作品

2017年10月30日 | 書棚の片隅から

Colson Whitehead, The Underground Railroad, Fleet, 2017, cover

コルソン・ホワイトヘッド「地下鉄道」表紙

画像はクリックで拡大


2017年のピュリッツァー賞(フィクション部門)の受賞作のリストが先日書店から送られてきた。見ていると、アメリカ奴隷制度廃止前、南部プランテーションから自由な北部諸州へ逃亡を図る奴隷(逃亡奴隷)をテーマとした作品であることが分かった。筆者の関心領域でもあり、直ちに入手、早速、最初の部分を読み始めたが、その圧倒的魅力に引き込まれ、止められず一気に読んでしまった。

大統領も読みたかった本
オバマ前大統領も直ちに読み、 ’Terrific’ (素晴らしい)と絶賛したと言われる。トランプ大統領も夏の休暇に読みたい本のリストに入れたとホワイトハウスが公表したが、メディアは好みと違うのではと、からかったようだ。

アメリカの奴隷制度とその廃止に至る過程は、今日まで根強く国民の心にさまざまな影を落としている。アメリカという国の精神構造の奥深くに入り込み、刻み込まれて消え去ることはない。とりわけ、アメリカの北部と南部には、さまざまなレガシー(歴史的遺産)が根強く残っている。トランプ大統領の”白人至上主義”と言われる考えや発言はメディアの大きな話題となってきた。これもアメリカの建国過程における歴史的出来事の現代における反映の一面と言える。南北戦争をめぐる傷跡は今でも北部人と南部人との間に深く、広く残っている。


筆者は子供の時、ストウ夫人の「アンクルトムの小屋」を読み、大きな感銘を受けた。影響は消えることなく、その後、関連してフォークナー、スタイロンなど南部小説と言われるカテゴリーの作家にも強い関心を抱いてきた。

地下鉄道」の深い含意
The Underground Railroad 「地下鉄道」という題名を見て、これがアメリカの奴隷制度に関わる小説と分かった方は、かなり奴隷制度の歴史に通じた方である。The underground  (地下鉄道)とは、19世紀アメリカにおいて、奴隷制度が認められていた南部諸州から、奴隷制度が廃止されていた北部諸州、時にはカナダまで逃走する奴隷を支援した奴隷制度廃止論者 abolishonists や北部の市民たちの組織、そしてそれらに支えられた逃亡経路のことを意味している。逃亡奴隷の逃亡経路を確保し、隠れ家や食事などを支給するため、一種の秘密組織も形成されていた。自由を賞賛し、高揚する思想の具体的姿として、アメリカの黒人の歴史においても、特別な意味を持っている。

ストーリーは南部奴隷州ジョージアの過酷なプランテーション主の横暴・被虐から逃げ出した奴隷(逃亡奴隷)がたどる物語である。

コルソン・ホワイトヘッドはすでに文壇で名声が確立された作家であり、本作はアメリカ南部作品史上にその名を残す重要な著作となるだろう。作品の内容と意義についてはいずれ改めて記すことがあるかもしれない。現代のメキシコなど中南米諸国からの不法移民の運命に通じるものもある。

オバマ大統領がアメリカの知性と讃えた人

ホワイトヘッドの「地下鉄道」は小説である。しかし、最近の南部諸州における独立戦争当時の南軍将軍の銅像撤去騒動などを思い浮かべながら読むと、迫力に満ち、最後まで一挙に読み通したい素晴らしい小説だ。

この作品を読みながら筆者の念頭に浮かんだのは、アメリカの優れた歴史家 David Brian Davis(1927- ) デイヴィッド・B・デイヴィス教授のことであった。教授は1967年のピュリツアー賞(歴史部門)の受賞者である。



David Brion Davis, The Problem of Slavery in Western Culture, Penguin Books, 1966.
, 2017

 

アメリカ屈指の歴史・思想家であり、とりわけアリカの奴隷制度撤廃の歴史とそれがアメリカ及び西欧文明に与えた影響を深く追求した。ピュリツアー賞を始めとする数多くの賞を受賞している。最近では、2014年にホワイトハウスにおいてオバマ大統領から極めて名誉ある国家人文メダル the National Humanities Medal を授与された。

メダル授与の式典で、オバマ大統領は「我々アメリカ人の誤った歴史観を正し、現在でも半分はほとんど奴隷制、半分は自由制度を抱え、十分に統合できぬままにいるにもかかわらず、自由の理念の上に築かれたこの連邦(アメリカ合衆国)の矛盾に見事に光を当てた」として、同教授のこれまでの功績に最大限の賞賛の言葉を述べた。さらに「同教授のアメリカという国の奴隷制度とその廃止に関する研究は、我々の時代における道徳上の進歩を継続するについて大きく貢献した」と絶賛した。オバマ大統領は、特にその背景からしても、デイヴィス教授の著作や思想から強い影響を受けたものと思われる。

実は以前にブログにも記したが、筆者はデイヴィス教授と対面で親しくお話を伺う機会があった。今となってはほとんど奇縁とも言えるが、半世紀前の1967年のことであった。デイヴィス教授はこの年から遡る14年間、コーネル大学院の歴史学部教授であった。

1967年、教授がピュリツアー賞を受賞してまもなく、筆者の指導教授であったMFN教授がデイヴィス教授夫妻と未だ大学院生であった私を自宅のディナーに招いてくださった。アメリカの北東部から南部への繊維産業の地理的移転を研究課題として調査し始めた私に、アメリカの奴隷制度廃止の歴史とその後の精神的レガシーについて、今や時の人となったデイヴィス教授から直接話を聴くという機会を準備してくれたのだった。教授はその後イェール大学に移られたが、筆者にとっては終生忘れがたい時となった。デイヴィス教授は今年90歳を迎えられたが、改めて深い感謝の念を持って、さらなるご長寿をお祈り申し上げたい。


References

David Brion Davis, The Problem of Slavery in Western Culture, Penguin Books, 1966,1967
Colson Whitehead, Underground Railroad, Fleet, 2017

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「開かれた都市」の重みと苦しみ

2017年10月22日 | 移民の情景

 

Teju Cole, Open City, New  York: Random House, 2011, cover
画面をクリックすると拡大 

  去る10月14日のETVで短いドキュメンタリーを見た。東京、新宿区大久保にある図書館の館長が、同地域で急速に増加した外国人家族が少しでも出身母国との絆を維持できるよう地道な活動をする傍ら、日本へ永住を希望する人のための支援・努力をしている感動の物語である。とりわけ印象的であったのは、小さな図書館の館長が、外国人の子供たちのために母国語の本を少しでも確保し、読書会を開いたりして、ともすれば孤立しがちな彼らのために図書館を活用、交流の場とする努力である。その対象となっていたのは、図書館に本がほとんど置いてなかったネパール、スリランカなど、日本在留者が少なくこれまで注目されなかった国が多い。

日本に生まれ環境にも慣れて来て、ネパール語の本など読みたくもないと駄々をこねる子供をなだめて、親と協力していずれ帰国できた時のため、ネパール語を教えようとする努力は、心が痛む。館長はそのためにつてを頼って、子供の絵本を取り寄せている。日本語だけでもできれば良いではないかというのはたやすい。しかし、彼らが日本に永住できる可能性は限られている。祖国のことも知らずに育つ子供の心はいずれ引き裂かれる。


祖国と日本の間で
いずれ祖国への帰国を期待して生きている親たちは当惑する。祖国のことを全く知らない移民が生まれ育っている。東京は一体どうなっていくのだろうか。

筆者もかつて1990年代初めに、この新大久保地域に居住する外国人について調査を行なったことがあった。当時は圧倒的に韓国人の街になりつつあった。その後実態は大きく変化した。今は韓国、中国、ベトナム、スリランカ、フィリピン、ネパールなどのアジアや中東の諸国など、住む人たちの出身国は実に多様だ。世界有数の巨大都市東京がこうなるのは当然の結果だ。しかし、東京は「オープン・シティ」と言えるだろうか。

ひところ喧伝された多文化主義の構想はほとんど議論されなくなった。ヨーロッパやアメリカで移民・難民の排斥の動きが強まっている。東京オリンピックの開催国として日毎に深刻な労働力不足を経験しつつある日本にとって、十分検討すべき課題だ。これまでの日本の政策はかなりご都合主義であった。

全国的に外国人旅行者の数が顕著に増えたことを実感する。地方都市などでも、大きなスーツケースを引っ張って歩き回っている外国人をよく見かける。オリンピック後の状況はどうなることか。自国へ戻らない外国人も大きな数になるだろう。観光客増加ということだけで、喜んでばかりはいられない。日本にいかなる状況が生まれるか、今回の選挙でほとんど議論にもならなかった。

都市が「開かれている」ことの意味
番組を見ながら、少し前に一冊の小説
を読んだことを思い出した。最近、日本語訳も刊行されたようだ。原著はPen/ヘミングウエイ賞、ローゼンタール賞などいくつかの重要な賞を受賞したり、受賞候補作となった。

小説の題名は"Open City"、小説の主人公ジュリウスはナイジェリア系アメリカ人でナイジェリア人の父とドイツ人の祖母と母の血を引いており、一時は祖母を探して、ブリュッセルにも住んだ。ニューヨーク、ブリュッセル、ラゴスは主人公の頭に常に去来する大都市だ。

話は、主人公がナイジェリアを後に、1992年以来精神科医としてニューヨークで暮らすほぼ一年の経験を描いたとも言える構成になっている。セントラル・パークの北西、モーニングサイト・ハイツというところに住み、そこを舞台に多数の複雑な背景を持つ人々が行き交うマンハッタンの街中を、一人彷徨する。読者はこの世界的な大都市の構成にかなり通暁していないと、方向を見失うだろう。しかし、この年に住んだことのある人、長い滞在などを通して、町のありように興味のある人にとっては、手元において何度か読み返してみたい魅力を内包する。 

ストーリーがどこへ進むか、当てどもない描写の中に、ニューヨークという大都市の日常を、手探りのような手法で描き出している。主人公は生活に苦労しているわけでではない。地球上で取り立てて住みたい場所があるわけでもないようだ。

主人公はマンハッタンという街中を、特に目的があるとも思えない形で歩き回り、出会う人々のルーツや体験を様々に描き出してみせる。散文体で何か方向性を予想させるわけでもない。散策の過程で出会った人たちを中心に、ニューヨークに住む人々の人生の複雑さ、そこにたどり着くまでの入り組んだ過程を、微妙な陰影を持って描き出す。

ニューヨークで出会った人ばかりではなく、これまでの人生であった様々な人々、ナイジェリアの大都市ラゴスで会った女性、兵学校での生活、ブリュッセルであった女性などの思い出が、各所に顔を出す。その手法は「W.G. ゼーバルトの再来」とも評されている。しかし、ゼーバルトのような鬱屈したような印象もない。 

「オープン・シティ」の未来

 筆者が本書を読んでみようと思った動機は、「オープン・シティ」とは、外国人作家の目からどのように映る都市なのかという点にあった。その実態を知りたい。最近のトランプ大統領の「壁」論争に先立って、アメリカには外国からの移住者が集中・集積し、大きな活動源になっている都市が生まれている。ロサンジェルス、サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークなど数多い。”サンクチュアリィ・シティ”とも言われ、移民の権益保護の意識が他より強い。

主人公ジュリアスはアメリカで教育を受けた精神科医である。彼が街を歩き回り出会う人々の多くは、様々な移民であり、実に多彩だ。そして、この都市は彼らの活動によって存在している。彼ら移民なしには成立しない。この都市には目に見える壁はなく、その意味で「オープン」(開かれている)だが。他方、不安や問題を抱えながら、多くの移民・難民が住んでいる。開放されているが故に、多くの危険や災害も取り込んでいる。2001年の9.11はその例である。ジュリアスは当然ここも訪れている。「オープン・シティ」は「クローズド・シティ」よりは、概して評価される。しかし、そのためには苦しみも伴う。


 いずれにせよ、本著はニューヨーク市という「オープン・シティ」に住んだ主人公が、多彩な、しかしどこへ向かうのかも定かでない姿を一人の外国人作家の目で確認しつつ、最終的に一つの交響曲のごとく描き出している。ニューヨークを訪れたことのある人、そしてこの市を愛する人にとっては、この巨大都市の知られざる次元を斬新な視角で体験するこができるだろう。読み物としても旧知の場所が浮かんできたりして、なかなか楽しい。ゼーバルトのように、多くのことが記憶の霧の中から浮かんでくるが、読後感はかなり異なる。

最後の部分で、主人公ジュリアスが前日、カーネギーホールで、サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルによるマーラーの第九交響曲を聴いた印象が語られる。「第九交響曲」は主人公を含め、それを聴く人々に、ある終焉感を伴う大きな感動を与える(マーラーの生涯については、筆者も多少考えてきたことはあるが、長くなるので、ここには記さない)。本書は小説ではありながら、現代の移民問題について、様々な含意、暗喩を含んでいて、それを汲み取ることで多くの示唆を得ることができる。

巧みな描写で描き出されたんニューヨークのストーリーの最後は、自由の女神像へのクルーズを通して「オープン・シティ」の行方を暗示するかのごとく、なんとも表現しがたい影を落とす。これまで女神像は移民の未来を象徴してきた。しかし、女神像の冠部分には2001年末から上ることが禁止された。今はただ下から見上げるしかない。ミソサザイなどの鳥が女神像や灯台の下で沢山死んでいることがある。鳥類学者たちは天候と風向きが影響しているという。しかし、本書の主人公ジュリアスは、「もっと厄介な何かが作用している気がしてならない」と感じている。


Teju Cole, Open City, New  York: Random House, 2011
テジュ・コール(小磯洋光訳)「オープン・シティ」新潮クレスト・ブックス、2017年。

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猫・アムステルダム・リシュリュー

2017年10月18日 | 午後のティールーム

 

Albert Anker(1831-1910)
Little Girl Playing with Cat
Privately owned

アルバート・アンカー
「猫と遊ぶ少女」

 

3題話のようだが、眠気覚ましにBS3を見ていると、画面に猫が大写しで出てきた。例の写真家岩合光昭さんの猫シリーズかと思ったら、アムステルダムの「猫博物館」の光景であった。本ブログでも取り上げた「隠れカトリック教会」のような珍しい映像もあった。「2度目のアムステルダム」という「2度目シリーズ?」の一つだった。時々ブログの記事入力などをしながら、見るともなしに見ている番組だ。かつて訪れたところが出てくることもあるので、その後の現地の変化に驚くこともある。いつの間にか入力を忘れて見ていることがあるので、何か魅力があるらしい。

アムステルダムはこれまでに何度か訪れている。しかし、住んだことはない。(ただ、かつてイギリス・ケンブリッジ滞在中に、招かれてアムステルダム大学で講演したり、最初のノーベル経済学賞受賞者のヤン・ティンバーゲン教授(ちなみに、1969年の同時受賞者はラグナー・フリッシュ教授)を記念して設置された研究所から、オランダ短期研究助成を受けたことがあり、お礼の挨拶に行ったことはある。マウリッツハイス国立美術館は改修中のことが多かったが、ご贔屓の17世紀美術を見るために度々出かけた。今はその後の時の経過の早さにただ驚くばかりだ。

この猫博物館は個人の所蔵品の展示らしく、うっかり見落としていた。というか、そうした博物館があることを知らなかった。猫は嫌いではないのだが、子供の頃、時々アレルギー喘息症状を起こしたことがあったので、距離を置いて付き合っている。この猫博物館にはミケランジェロの猫のデッサンもあるようで、知っていれば訪れたと思うので一寸残念な思いがした。

猫のデッサンといえば、パリ滞在当時、知人のT氏が経営するギャラリーのパリ支店へ出かけたことがあった。その時、ちょうどT氏が壁に無造作に立てかけた猫の作品を見ていたので、一緒に見せてもらった。なんと藤田嗣治の「猫のデッサン」だった。当時は絵画バブルの最中で、「一枚どうですか」と冗談混じりで言われたが、筆者などにはとても手が出ないものだった。しかし、本物の猫ではないので、ゆっくり楽しませてもらった。

猫を描いた画家は非常に多いようだ。マネも猫好きであったらしく、三菱一号館美術館で見たことがある。

このブログでも、あの宰相リシリューが激務の合間に、猫と遊ぶ情景を描いた作品を掲げたこともあった。作者は後代の画家だが、リシュリューは猫好きとの逸話でも伝わっていたのかもしれない。リシュリューという政治家は有名なわりには謎の多い人物で、王に代わってフランスを治めていたと言われる。現代であったら、誰に当たるだろうか。ちょっと思い当たらない。本ブログでも一部は触れたが、改めてその生涯を振り返って見たい興味を惹かれる人物である。








 

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ヨブとその妻:ラ・トゥールの革新(8)

2017年10月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ジョルジュ・ド・ラトゥール
「妻に嘲笑されるヨブ」部分
エピナル(フランス)県立古代・現代美術館
クリックで拡大 


不透明なヨブの妻の位置
「ヨブ記」にはヨブの妻のことは、ほとんど記されていない。筆者は、初めてこの ラ・トゥールの作品に接して以来、美術史家などがつけた画題「妻に嘲笑されるヨブ」に疑問を感じて何度かヨブ記を読んでみた。「ヨブ記」に残る短い記述だけが、ヨブの妻についてその輪郭を推定させるわずかな材料となっている。しかし、聖書の翻訳と解釈は文語訳、口語訳、あるいは言語の違いもあって、かなり混沌としているところがある。ラ・トゥールのヨブの妻が描かれた作品についても内外のカトリックの友人に画像の印象を尋ねてみても、納得できる答えはほとんど何も戻ってこなかった。これまで考えたこともないという答え、あるいはなぜそんな質問をするのかという反応がほとんどだった。しかし、踏み込んでさらに議論すると、なるほどと答える人もいる。

結局、自分で調べ、考えるしかない。「ヨブ記」はよく知られている割には、現代人が読むと疑問が次々と生まれてくる。元来、「神こそ全て万能、正しい」という弁神論(悪の存在が神の本来性、特にその聖性と正義に矛盾しないことを主張する説)で書かれているので、多少の矛盾は目をつぶるとしても、目前の絵画イメージから生まれた疑問は解決しない。

通説では、ヨブの妻は自分の身の上に降りかかった想像を超える災厄・苦難に耐え忍ぶヨブに「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったという。もうひとつは、「神を祝福して、死んでしまったら」という解釈だ。後者は前者のeuphonies(耳障りの良い表現)との説もある。「ヨブ記」は歴史上最初に、無垢な者の苦しみに正義の神が苦難を与えうるのかという問題に集中した作品であるとされる。誰がいつ頃書いたかについても、諸説ある。

 * "are you still holding on to your integrity?" 
       "curse God and die" 
       Job 2:9
       邦訳は、「ヨブ記」2-9、新共同訳「聖書」日本聖書協会

 

 さらに、ヨブの妻自身の感情は、ヨブへの短い嘲り?の言葉以外、何も示されず、ヨブのように神から試練や苦難を受けることもない。しかし、現実的に考えると、10人の子供を失い、家や家畜などの財産を全てヨブが失った以上、妻も大きな苦難の中にあったはずだ。彼女がヨブを見捨てているならば、炎熱と皮膚病に苦しむヨブに水をかけてやったり、見舞いにくるだろうか。

解けない謎
本ブログ筆者が注目するのは、ヨブの妻の衣装である。全ての財産を失ったヨブの姿とは対照的に美しい。しかも、聖職者などに近いイメージである。もし、妻が神に仕える身であれば、この作品に込めた画家の含意も異なってくる。

信仰の本質的問題を歴然とさせる作り話だとする宗教学者もいる。あるいはアイロニーだとも言われる。現世的な利益が全て失われても、人は神を信じることができるのか。「苦しいときの神頼み」という表現もある。

ラ・トゥール作品の謎は未だ解けない。

ちなみに、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール夫妻が共に死去した1652年1月の時点で、夫妻の間に生まれた子供8人のうち、生存していたのはエティエンヌ、クロード、クリスティーヌの3人だった。

 


 Albrecht Dürer, Hiob von seiner Frau verhöhnt, Städtische Galerie, Frankfurt am Main 





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ヨブとその妻:ラ・トゥールの革新(7)

2017年10月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

ジョルジュ・ド・ラトゥール
「妻に嘲笑されるヨブ」
油彩・カンヴァス
145x97cm
油彩・カンヴァス
エピナル(フランス)県立古代・現代美術館 

 

しばらくラ・トゥールについて書くことがなかった。記したいことは多いのだが、他のテーマの記事に時間を取られてしまった。記憶を新たにする意味で、これまでの記事と少し重複するかもしれないが、続けてみたい。今回の話も、ヨブ記にまつわる問題である。日本人でこのラ・トゥールの作品を目にした人は多分、数少ないだろう。画家自身についても知名度はそれほど高くはない。筆者が最初に接したのは、半世紀くらい前の話だ。ラ・トゥールの名を知る人も少なかったころだった。1972年パリで開催されたラ・トゥールの総合企画展でこの画家の作品に初めて接した時は、大げさではなく、ほとんどすべての出展作品の前で立ちすくむほど感動した。

その後、滞仏時にザールブリュッケンに住んでいた友人夫妻とロレーヌの各地を巡った時、エピナルで再び対面した。その時の感動は、今でも鮮明に残っている。特に、構図、色彩すべてが美しい。広い意味での宗教上の主題を扱いながらも、現代の画家が描いたような斬新さを感じる。その後、何度か対面したが、そのつど目を奪われてきた。この画家の現存する作品は数少ないが、それぞれが様々な謎を含んでいる。制作に当たっての画家の深い思索の跡が感じられる。この時代、特に17世紀の宗教画にはテーマをめぐる社会の受け取り方、多くの伝承、教会の美術への規制(例えばトレント公会議)へのなど、配慮すべきことが多い。

さて、上掲の作品に少し深入りする。ヨブ記の重要な論点の一つは、なぜ真に良き(神にいささかも疑うことない畏敬の念を抱いている)人に最悪なことが起きるのかという命題にある。髪を疑うことのないヨブがまるでホロコーストのような悲劇的惨状に陥ることを、神はサタンに認めたのか。話は連綿として展開する。

事の起こり
 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊7千匹、らくだ3千頭、牛500くびき、雌ろば5百頭の財産 があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった(ヨブ記1.1-15)。

 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。(ヨブ記:1-16-2-7)。
 

結果として、サタンはヨブと妻を残して、ヨブの子供と財産を全て地上から抹消してしまった。神はそうした行為をサタンに許すのか。ヨブ記は、多くの疑問を内包している。しかし、ここではラ・トゥールの作品主題に限定する。

以前に記したが、ラ・トゥールのこの作品の主題がなんであるか、しばらく定まらなかった。しかし、ルーブルでの修復の際にヨブと思われる老人の足元に、欠けた土器のようなものが描かれていることが分かり、ヨブ記にあるように、神をサタンがそそのかした結果、ヨブはすべての子供や家屋、財産を失い、自らもひどい皮膚病におかされて、それに耐えている情景を描いたものではないかという主題が明らかになってきた。主題におけるヨブの位置はほぼ明らかになった。それでは、その傍らにろうそくを手にヨブの顔を覗き込むように立つ女性は誰で、何をしにきたのか。実はこの点が難題であった。

作品に主題が記されているわけではない。しかし、美術史家や画商たちは深く考えることなく、この作品に「妻に嘲笑されるヨブ」Job Mocked by his Wifeという作品名をつけてしまった。例えば、ラ・トゥール研究の大家テュイリュエ、(Thuillier 1972, p.226)でさえも、その点を疑わなかったようだ。それほど、当時流布していたヨブ記のストーリーが疑問を抱かせることなく、継承されていたのだろう。

素朴な疑問
しかし、筆者はこの作品に接して以来、この伝統的解釈?に疑念を抱いてきた。そのことはこれまでのブログで概略を記してある。この作品に最初に接し、疑問を抱いてきたのは、とりわけヨブの妻の表情、そしてその衣装であった。ヨブについては、ヨブ記に記されたような悲惨な状況であり、ほとんど疑問はない。謎は次の点から生まれる。

1)ヨブは洞窟とみられる場所で暑さを避け、じっと苦難に耐えている。そうした場所に現れたヨブの妻は、彼の言動を嘲笑うために来たのだろうか。しかし、妻の表情を拡大してみても、そこに嘲笑と思われる表情は感じられない。

彼女はヨブの苦衷を慰めにやってきたのではないか、ヨブ記が伝えるような両者の間に険悪な空気は感じられない。何よりもヨブが子供や家財、家畜など全てを失ったことは、ヨブの妻にとっても劣らず衝撃的なことであったはずだ。

2)ヨブの妻の特別な衣装にも注目したい。デューラーの同じテーマでも描かれているように、ヨブの妻は聖職か祭事に関わっていたのではないかと思われる。ヨブの妻も夫のヨブと同様に愛する子供たちすべてを失い、家屋を含めて財産の全てを失ったはずである。

ヨブの一点の曇りなき神への畏敬は、妻もかなりの程度、共にするものではないのか。ヨブ記では、ヨブの妻についてはあまり記されてはいない。ヨブの妻は一点の疑いもなく、神を畏怖し、サタンのなすがままに全てを失い、さらに苦しんでいるヨブの純粋さに、妻としての深い愛と若干の危惧を抱いて、見舞いに来たのではないか。しかし、謎はまだ解けていない。


続く

カズオ・イシグロ氏 ノーベル文学賞受賞をお祝いいたします。ちなみにこのブログで取り上げた数少ない文学者の中でオルハン・パムク氏に次ぐ受賞者です。

 

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