Rembrandt van Rijn (Dutch, 1606–1669) Woman with a Pink, early 1660s Oil on canvas; 36 1/4 x 29 3/8 in. (92.1 x 74.6 cm) The Metropolitan Museum of Art, New York, Bequest of Benjamin Altman, 1913 (14.40.622)
レンブラント、ラ・トゥール、フェルメールなど、17世紀絵画のアメリカへの流出問題を追ってみると、さまざまな興味深い事実が見えてくる。その多くは美術館関係者など限られた人々にしか知られていないことだが、いわばアメリカ美術館史の内幕ともいうべき事実が次々と浮上してくる。19世紀末から20世紀にかけてのアメリカ史のさまざまな出来事も反映されて実に面白い。その一齣を記してみよう。
「アメリカの価値」を支えたオランダ絵画
17世紀ヨーロッパ絵画の中でもオランダ絵画は、新大陸アメリカでは特別の意味を持っていた。もちろん、19世紀のイギリス、フランス及びドイツなどの収集家も、競って買い集めた対象でもあった。アメリカでは、新教国であるオランダ共和国の中産階級の暮らし方に、いわば「アメリカの価値」が暗黙裡に想定されていた。そのため、そうした市民生活の情景が描かれたオランダ絵画に特別の人気が生まれたといえる。「アメリカの価値」とは、簡単に云えば民主主義、豊かな自然、家庭生活、そして「プロテスタント倫理」に基づく勤労の精神を意味していた。新教国であるオランダの精神的風土が、新大陸アメリカのそれと重なったのだ。
「ハドソン=フルトン記念展覧会」は大成功を収めたが、その4年後1913年に、メトロポリタン美術館のオランダ絵画の所蔵点数は大きく増加、充実し、美術館の歴史で一つの転機を画した。その背景には、ベンジャミン・アルトマン Benjamin Alteman(1840-1943) 所蔵の作品遺贈があったためである。「アルトマン」という名前については、あれかと思い当たる方もおられるかもしれない。かつて、ニューヨーク市5番街に、アメリカ、そして世界を代表する著名な百貨店 「アルトマン」 B. Altman and Co.があったが、その創業者である。この店で買い物をした記憶はないが、建物のイメージはよみがえって来た。1989年に事業不振で百貨店自体はなくなってしまったが、その華麗な建物は歴史的建造物として認定され、現在も残っており、ニューヨーク市立大学大学院などが使用している。
アルトマンは、19世紀半ばにバヴァリアから移民してきたユダヤ人の息子で、新興の百貨店業界でほとんど一代にして大資産を成した。ニューヨーク5番街に壮大な建物を建設し、1913年に死去する少し前にAltman Foundation を創設し、収集してきた美術品を移管した。
エポックを画したアルトマン・コレクション遺贈
今に残る画商の話では、アルトマンは生前、オランダ絵画に執着している素振りは見せず、なんでもいいから最上のイギリス絵画をみつけてくれといっていたらしい。しかし、内心ではオランダ絵画、とりわけレンブラントの収集にご執心だったようだ。
最初のうちは鑑識眼も十分でなかったのか、真作ではない作品を高額でつかまされたこともあったらしい。画商にとっては金払いのよい客だったようだ。アルトマンの資金力は図抜けており、有名な画商のデュビーンなどを介して、パリのこれも著名なコレクターであったモーリス・カンなどから次々と作品を購入した。ボストンの著名な美術館の創設者として知られるイザベラ・ステュワート・ガーディナー Isabella Stewart Gardiner の許へ、美術品を納入していた同業の画商の妻が、「あの貪欲な老人のアルトマンは、このごろ良いものはなんでもかき集めてしまうようです」という手紙を残しているほどだ。
驚くべき財力
アルトマンは1913年に「バテシバの化粧」The Toilet of Bathsheba (1643)を取得している。1913年7月、アルトマンの代理としてパリの競売で落札したのは画商デュビーンだったが、落札価格は1,000,000 フラン(約200,000ドル)であり、それまでの美術品市場でついた最高値だった。当時のオランダの新聞に、天上から下界のオークションを眺めるレンブラントの漫画が描かれ、その下に「満足かね。百万長者だよ」と記されている。零落の晩年を送った画家への風刺である。他方、地上での富豪アルトマンは、取引の仲介者に “MANY THANKS VERY HAPPY KINDEST REGARDS TO ALL. ALTMAN.” という電報を送っている。よほど嬉しかったのだろう。
アルトマン自身がどれだけ美術品の鑑識眼があったのか、定かではない。作品の歴史的資料などは熱心に読んでいたらしい。画商などにだまされまいという思いもあったのかもしれない。しかし、競争相手がとても対抗ないほどの資金力を持っていたことは事実である。アルトマン生前のニューヨーク5番街626の邸宅の画廊の状況を伝える写真が残っているが、1室の片側壁面に13枚のレンブラントのうち7枚が掲げられ、反対側にはハルズ、ライスデールなどのオランダ絵画、ヴェラスケスなどが並んでおり、並みの美術館ではとても対抗できない豪華なコレクションであったことが分かる。アルトマンに限らず、この時代の富豪たちの美術品収集の動機が、純粋に美術的鑑賞の対象を求めたものであったかは定かではない。多数の富豪が自ら所有する作品を誇示していたようなところもあり、投機的な動機もかなり働いていた。
遺贈で充実したメトロポリタン
それらの点はいずれ探索するとして、世の中をあっと驚かしたことは、アルトマンのコレクションのその後だった。1913年10月にアルトマンは死去するが、遺言に基づいて美術品コレクションのすべてをメトロポリタン美術館へ遺贈すると発表された。その中には13点の由緒あるレンブラント作品(後にレンブラント派の画家による作品と鑑定されたものも含む)、ハルズの作品3点、ルイスデール1点、フェルメール1点、その他多数のオランダ絵画の名品が含まれていた。この百貨店業界での成功者は、メトロポリタンの歴史で空前絶後といわれるオランダ絵画を美術館に残したのだった。この遺贈によって、メトロポリタンの地位は急速に高まり、ルーブル、プラドに肩を並べるとまでいわれるほどになった。
新大陸アメリカの新興の富豪たちが、文字通り金に糸目をつけず争奪競争を行うことについては、ヨーロッパを含めて羨望、そして非難や怨嗟の声も高かった。新大陸へ移った移民がほとんど1代で巨万の富を蓄え、美術品を買いあさったからである。ただ、これを、富裕層の単なる財力の誇示といってしまえばそれまでだが、こうした富豪たちの収集欲によって散逸しかかっていた名作のかなりの部分がアメリカへ移転し、今日多くの人々が鑑賞できる対象となりえたことには積極的な評価も与えられるべきだろう。
アルトマンの死後、1010年代に多くの富裕な収集家たちが世を去った。その中にはJ P モルガン(1913年死去)、P. A.B.ワイドナー(1915年死去)、J.G. ジョンソン(1917年死去)、ヘンリー・フリック(1917年死去)などの著名な富豪のコレクターが含まれていた。彼らの集めた作品の多くは遺贈という形で、美術館など公共的な所有へと移された。その結果、アメリカの美術館の世界は大きく変わった。ある時期は美術館よりも富豪の邸宅の方が立派な作品を所蔵していた。資金的にも対抗できなかった美術館が、確固たる収集方針を打ち出せなかったこともあった。しかし、こうした作品遺贈を受け、寄付金の増加などにも助けられて、財政基盤を確立したメトロポリタンなどの美術館は、次第に独自の収集方針を明示できるようになる。その基盤を提供した富裕層の遺贈の意義はきわめて大きかった。
社会的貢献の文化
もちろん、これらの遺贈の背景には、1913年の連邦所得税の導入、第一次世界大戦の勃発による美術品市場の低迷などが影響したことはいうまでもない。アメリカの富豪たちのパフォーマンスについても毀誉褒貶さまざまであった。しかし、再び戻ることはないと思い、新大陸へ移民した人々にとって、ヨーロッパの作品をアメリカで見ることができることは大きな喜びだったに違いない。富豪たちが、その生涯に蓄積した成果を、社会還元するという文化は、こうした遺贈という行為を通して、新大陸アメリカに根付き大きく花開いた。貧窮の中で生涯を終えたレンブラントと対比して、現世でミリオネアであった富豪たちは、天上でいかなる思いでいるだろうか。
Reference The Age of Rembrandt:Dutch Paintings in The Metropolitan Museum of Art. 2007