時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

美術館を救った富豪たち

2008年03月31日 | レンブラントの部屋

Rembrandt van Rijn (Dutch, 1606–1669) Woman with a Pink, early 1660s Oil on canvas; 36 1/4 x 29 3/8 in. (92.1 x 74.6 cm) The Metropolitan Museum of Art, New York, Bequest of Benjamin Altman, 1913 (14.40.622)

  レンブラント、ラ・トゥール、フェルメールなど、17世紀絵画のアメリカへの流出問題を追ってみると、さまざまな興味深い事実が見えてくる。その多くは美術館関係者など限られた人々にしか知られていないことだが、いわばアメリカ美術館史の内幕ともいうべき事実が次々と浮上してくる。19世紀末から20世紀にかけてのアメリカ史のさまざまな出来事も反映されて実に面白い。その一齣を記してみよう。

「アメリカの価値」を支えたオランダ絵画
  17世紀ヨーロッパ絵画の中でもオランダ絵画は、新大陸アメリカでは特別の意味を持っていた。もちろん、19世紀のイギリス、フランス及びドイツなどの収集家も、競って買い集めた対象でもあった。アメリカでは、新教国であるオランダ共和国の中産階級の暮らし方に、いわば「アメリカの価値」が暗黙裡に想定されていた。そのため、そうした市民生活の情景が描かれたオランダ絵画に特別の人気が生まれたといえる。「アメリカの価値」とは、簡単に云えば民主主義、豊かな自然、家庭生活、そして「プロテスタント倫理」に基づく勤労の精神を意味していた。新教国であるオランダの精神的風土が、新大陸アメリカのそれと重なったのだ。

  「ハドソン=フルトン記念展覧会」は大成功を収めたが、その4年後1913年に、メトロポリタン美術館のオランダ絵画の所蔵点数は大きく増加、充実し、美術館の歴史で一つの転機を画した。その背景には、ベンジャミン・アルトマン Benjamin Alteman(1840-1943) 所蔵の作品遺贈があったためである。「アルトマン」という名前については、あれかと思い当たる方もおられるかもしれない。かつて、ニューヨーク市5番街に、アメリカ、そして世界を代表する著名な百貨店 「アルトマン」 B. Altman and Co.があったが、その創業者である。この店で買い物をした記憶はないが、建物のイメージはよみがえって来た。1989年に事業不振で百貨店自体はなくなってしまったが、その華麗な建物は歴史的建造物として認定され、現在も残っており、ニューヨーク市立大学大学院などが使用している。

  アルトマンは、19世紀半ばにバヴァリアから移民してきたユダヤ人の息子で、新興の百貨店業界でほとんど一代にして大資産を成した。ニューヨーク5番街に壮大な建物を建設し、1913年に死去する少し前にAltman Foundation を創設し、収集してきた美術品を移管した。

エポックを画したアルトマン・コレクション遺贈
  今に残る画商の話では、アルトマンは生前、オランダ絵画に執着している素振りは見せず、なんでもいいから最上のイギリス絵画をみつけてくれといっていたらしい。しかし、内心ではオランダ絵画、とりわけレンブラントの収集にご執心だったようだ。

  最初のうちは鑑識眼も十分でなかったのか、真作ではない作品を高額でつかまされたこともあったらしい。画商にとっては金払いのよい客だったようだ。アルトマンの資金力は図抜けており、有名な画商のデュビーンなどを介して、パリのこれも著名なコレクターであったモーリス・カンなどから次々と作品を購入した。ボストンの著名な美術館の創設者として知られるイザベラ・ステュワート・ガーディナー Isabella Stewart Gardiner の許へ、美術品を納入していた同業の画商の妻が、「あの貪欲な老人のアルトマンは、このごろ良いものはなんでもかき集めてしまうようです」という手紙を残しているほどだ。

驚くべき財力
  アルトマンは1913年に「バテシバの化粧」The Toilet of Bathsheba (1643)を取得している。1913年7月、アルトマンの代理としてパリの競売で落札したのは画商デュビーンだったが、落札価格は1,000,000 フラン(約200,000ドル)であり、それまでの美術品市場でついた最高値だった。当時のオランダの新聞に、天上から下界のオークションを眺めるレンブラントの漫画が描かれ、その下に「満足かね。百万長者だよ」と記されている。零落の晩年を送った画家への風刺である。他方、地上での富豪アルトマンは、取引の仲介者に “MANY THANKS VERY HAPPY KINDEST REGARDS TO ALL. ALTMAN.” という電報を送っている。よほど嬉しかったのだろう。

  アルトマン自身がどれだけ美術品の鑑識眼があったのか、定かではない。作品の歴史的資料などは熱心に読んでいたらしい。画商などにだまされまいという思いもあったのかもしれない。しかし、競争相手がとても対抗ないほどの資金力を持っていたことは事実である。アルトマン生前のニューヨーク5番街626の邸宅の画廊の状況を伝える写真が残っているが、1室の片側壁面に13枚のレンブラントのうち7枚が掲げられ、反対側にはハルズ、ライスデールなどのオランダ絵画、ヴェラスケスなどが並んでおり、並みの美術館ではとても対抗できない豪華なコレクションであったことが分かる。アルトマンに限らず、この時代の富豪たちの美術品収集の動機が、純粋に美術的鑑賞の対象を求めたものであったかは定かではない。多数の富豪が自ら所有する作品を誇示していたようなところもあり、投機的な動機もかなり働いていた。 

遺贈で充実したメトロポリタン
  それらの点はいずれ探索するとして、世の中をあっと驚かしたことは、アルトマンのコレクションのその後だった。1913年10月にアルトマンは死去するが、遺言に基づいて美術品コレクションのすべてをメトロポリタン美術館へ遺贈すると発表された。その中には13点の由緒あるレンブラント作品(後にレンブラント派の画家による作品と鑑定されたものも含む)、ハルズの作品3点、ルイスデール1点、フェルメール1点、その他多数のオランダ絵画の名品が含まれていた。この百貨店業界での成功者は、メトロポリタンの歴史で空前絶後といわれるオランダ絵画を美術館に残したのだった。この遺贈によって、メトロポリタンの地位は急速に高まり、ルーブル、プラドに肩を並べるとまでいわれるほどになった。 

  新大陸アメリカの新興の富豪たちが、文字通り金に糸目をつけず争奪競争を行うことについては、ヨーロッパを含めて羨望、そして非難や怨嗟の声も高かった。新大陸へ移った移民がほとんど1代で巨万の富を蓄え、美術品を買いあさったからである。ただ、これを、富裕層の単なる財力の誇示といってしまえばそれまでだが、こうした富豪たちの収集欲によって散逸しかかっていた名作のかなりの部分がアメリカへ移転し、今日多くの人々が鑑賞できる対象となりえたことには積極的な評価も与えられるべきだろう。

  アルトマンの死後、1010年代に多くの富裕な収集家たちが世を去った。その中にはJ P モルガン(1913年死去)、P. A.B.ワイドナー(1915年死去)、J.G. ジョンソン(1917年死去)、ヘンリー・フリック(1917年死去)などの著名な富豪のコレクターが含まれていた。彼らの集めた作品の多くは遺贈という形で、美術館など公共的な所有へと移された。その結果、アメリカの美術館の世界は大きく変わった。ある時期は美術館よりも富豪の邸宅の方が立派な作品を所蔵していた。資金的にも対抗できなかった美術館が、確固たる収集方針を打ち出せなかったこともあった。しかし、こうした作品遺贈を受け、寄付金の増加などにも助けられて、財政基盤を確立したメトロポリタンなどの美術館は、次第に独自の収集方針を明示できるようになる。その基盤を提供した富裕層の遺贈の意義はきわめて大きかった。

社会的貢献の文化
  もちろん、これらの遺贈の背景には、1913年の連邦所得税の導入、第一次世界大戦の勃発による美術品市場の低迷などが影響したことはいうまでもない。アメリカの富豪たちのパフォーマンスについても
毀誉褒貶さまざまであった。しかし、再び戻ることはないと思い、新大陸へ移民した人々にとって、ヨーロッパの作品をアメリカで見ることができることは大きな喜びだったに違いない。富豪たちが、その生涯に蓄積した成果を、社会還元するという文化は、こうした遺贈という行為を通して、新大陸アメリカに根付き大きく花開いた。貧窮の中で生涯を終えたレンブラントと対比して、現世でミリオネアであった富豪たちは、天上でいかなる思いでいるだろうか。

 

Reference The Age of Rembrandt:Dutch Paintings in The Metropolitan Museum of Art. 2007

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壊れ始めた北京への路(1)

2008年03月27日 | 雑記帳の欄外

  このたびのチベット暴動が、中国政府にとっては予想外の展開であったことを示す一端を、西欧のジャーナリストが伝えていた。英誌 The Economist のグループが、「北京路を破壊する」 Trashing the Beijing Road と題して報道している。長らく許されなかったラサの取材が、やっと認められた最初の日に暴動が勃発したらしい。暴動の兆しはすでに3月10日頃からあったようだが、ラサの政府筋はたいしたことはないと思っていたようだ。そして、このジャーナリスト・グループが取材を開始したその日に暴動は起きた。取材予定の各所で予想もしない事態に出会ったようだ。厳重な報道規制が始まった中で、最も生々しい実態を伝えていた。

  暴動は、ダライ・ラマが亡命を余儀なくされた1959年以来最悪のものとなった。中国政府はダライ・ラマのグループが周到な計画の下に準備したものだと非難している。他方、ダライ・ラマはなんら彼自身関与していないし、平和的解決を希望している。暴動は甘粛省、四川省などチベット族の多い周辺地帯にも波及しているが、中国政府はダライ・ラマとの対話を拒否し、ひたすら武力による鎮圧をはかっているようだ。

  確かに中国政府は、チベットを含む少数民族の居住地域の経済状態改善を重要課題としてきた。多大な投資などによって、一定の効果は生まれ、彼らの経済水準は顕著な改善を見た。しかし、チベット民族と人口の9割近い漢民族との軋轢は、緩和されるどころか強まっていたようだ。TVで見る限りだが、あの光景はこれまで鬱積していた中央政府、そして漢民族への反感のすさまじさを推測させる。皮肉なことに、ラサ市内の目抜き通り「北京路」周辺に最も破壊が集中した。

  「見たくない白昼夢」を次々と見ているのは、中国首脳部かもしれない。北京オリンピックまでの日程は、きわめて緊迫したものになった。第二の天安門とならないよう、中南海には想像以上の危機感が張り詰めているに違いない。

  聖火リレーの行程でも何が起こるかわからない。すでに最初からつまずいている。政治とスポーツは切り離して考えるというアメリカなどの対応には危うさが感じられる。中国報道官はラサでも整然とした聖火リレーを見せると強がりを言っているが、戒厳令下のリレーでは話にならない。対話を拒否し、ひたすら力での鎮圧を図る中国政府の対応は相変わらずだ。暴動を起こした側、起こされる側双方に言い分はあるとはいえ、ひとたび燃え始めた火は冷静な「対話」以外に消す策はない。

  天安門事件の衝撃が風化しているとは思えないが、こういうところに、これまで辺境、少数民族に対してきた「中華帝国」の悪い面が出てくる。中国は友人も多く、複雑な気持ちだが、この点だけは受け入れられない。このままでは北京が「熱い夏」となることは避けられない。


  

 

 

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リズ・テイラー:断片を寄せ集めて

2008年03月25日 | 回想のアメリカ

  「文藝春秋」4月号で、たまたま評論家・翻訳家の芝山幹郎氏が、エリザベス・テイラーを「スターは楽し」の23回目として取り上げていた。一時期、「世界一の美女」と呼ばれていたようだ。柴山氏は「匂いがよくて甘美な生クリーム」と表現されているが、なんとも表現しがたいイメージの女優だった。美人であることは言を待たないが、人気ランキングの上位にはランクされないような、取り付きがたいようなイメージも残っている。

  以前記した
「陽のあたる場所」のようなアメリカ資本主義の盛期を象徴的に描くコントラストの強い作品には、合っていたのだろう。この作品、当時の上流階級の令嬢を演じるにはぴったりの適役であった。世代的にも遠近感のつかみにくい女優だ。クリント・イーストウッドより2歳年下というから、団塊の世代より一回り上だった。子役でデビューしていたので、女優人生が長く見えたのだろう。「ハリウッド黄金期を体験した最後の女優」といわれる。

  とりたてて、エリザベス・テイラーのファンというわけではないのだが、彼女の出演した映画が2、3本、記憶に残っている。アメリカという国を理解するに、かなり豊富な情報を注入してくれた。柴山氏は「陽のあたる場所」、「ジャイアント」、「バターフィールド8」をベスト3に選んでいるが、残念ながら「バターフィールド8」は見ていない。

  子役時代の「緑園の天使」(1944)なども見たような記憶はあるが、これもほとんどかすかな残像しかない。「ジャイアンツ」(1956)は、牧童役を演じたジェームズ・ディーンの遺作となった大河ドラマで、テーマ音楽は割合よく覚えていた。これも「陽のあたる場所」のように、アメリカ資本主義の盛衰の舞台が印象的だった。牧童がかつての雇い主を上回って見返すまでの大石油王にのしあがるストーリーだった。地平線の彼方まで続く原油井戸には驚かされた。アメリカが産油国であることを認識させる衝撃的なイメージだった。

  柴山氏は挙げていないが、「バージニア・ウルフなんかこわくない」が記憶に残っている。 この映画、実はよく分からなかった。60年代末に友人夫妻に誘われて、ニュージャージー、イースト・オレンジという小さな町の映画館で見た。英語が難しくて半分も分からなかった。観客が盛んに笑うのだが、理解できず、大変落胆したことを覚えている。後で友人に聞いたところ、きわどいスラングなどが多くて、分からなくて当然と云われ、それならなぜ誘ったのと恨めしく思ったほどだった。中年大学教授夫妻の凄まじいばかりのやり取りだったのだ。題名のバージニア・ウルフの意味するところがいまひとつ分からず、作品を読み始めるきっかけになったから、分からない映画も無駄ではなかったか。

  その時、主演女優がエリザベス・テイラーで、男優が当時の夫リチャード・バートンということを知ったのだが、エリザベスの容貌が「陽のあたる場所」で見ていたイメージとまったく違ったので驚いた。これも、引き受けた彼女が大変張り切って役柄に合わせ、わざわざ容貌まですっかり変えたとのこと。スター稼業も大変なのだという印象が残った。

  映画は大変好評を博し、エリザベス・テイラーは2度目の主演女優賞を受けた。後になってストーリーの細部を知る機会があり、誘ってくれた友人が分からなくてもいいと云っていたのは、なるほどこういう意味だったのかと思い当たる部分もあった。



Who's Afraid of Virginia Wolf? (1966)

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見たくない白昼夢(2)

2008年03月22日 | 雑記帳の欄外

 

    バブル崩壊前の80年代半ばのことである。東京へ来たイギリス人の友人が、道端に多数駐められた自転車を見て、しきにに感心していた。自転車などイギリスでも珍しくないのにと思って、理由を尋ねたところ、簡単な鍵しかいないし、無造作に乗り捨てられているのに驚いたという。イギリスだったら鍵をかけた上で、柱や柵など固定したものにチェーンなどで縛り付けておかないとすぐに盗まれてしまうという。時々辛辣なコメントをする友人から、日本は安全な国だということが分かったよと云われ、率直に嬉しく思った。

  それまで、あまり気をつけて観察していなかったので、その後イギリスに滞在した折に、街中に止められている自転車を見てみると、確かに鎖で柱などにしっかりと固定されている場合が多かった。それでも、在外研修に来ていた友人が、一寸した隙に自転車を盗まれたという話も聞いた。

  その後、日本では放置自転車がさまざまな問題を引き起こしていることを知る。時々、トラックなどで違法な駐輪をしている自転車を積み込んで撤去するという自治体も増えた。放置されて、引き取り手がない自転車を修理して、アジア諸国へ寄贈するというNPOを設置した知人もいる。

  他方、駅舎や市役所など、人が多数集まる場所に駐輪場が設置されるなどの動きもあって、トラックに山積みにされる自転車の光景を見ることも少なくなったようにも思っていた。

  しばらく、忘れていたところ、昨日ふと聞いたラジオのニュースは、ショッキングだった。東京、足立区では、あまりに自転車の盗難が多いので、鍵を一台に二つつけるよう、区がキャンペーンを始めたという。

  日本の公徳心やモラルが90年代以降、急速に低下していることは、さまざまに指摘されてきたが、ついにここまできたかという思いがした。自転車という日常目にする、それ自体は小さな光景だけに、かえって衝撃が大きい。
あの友人が、今度日本へ来たらなんというだろうか。

 このところ、まさかと思うことが次々と現実化し、眼を瞑りたくなることが増えてきた。ラ・トゥールの世界へ戻る時かもしれない。

 

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「失われた地平線」その後

2008年03月20日 | 書棚の片隅から

  Lost Horizon: 原作は1937年に映画化されたが、1967年にはオリジナルは損傷が激しく再生不能となった。その後1973年に世界に残存するフィルムを集め、制作時のスチール写真とフィルムなどを加えて再生を図る試みがなされた。イメージはそのDVD版。


    目前に迫った北京オリンピック。もしその開催を損なうことが起こる都市があるとすれば、それはチベットのラサと、中国政府首脳部は思っていたといわれる*。真偽のほどは別として、最も恐れていたことのひとつだろう。それだけに対策も練られていたに違いない。徹底的な武力による制圧と厳重な情報規制。それが、現在展開している実態だ。このIT時代にもかかわらず、西側のメディアの現地報道はきわめて少ない。  

  しかし、この時期に暴動が発生するとは中国政府当局が思っていなかったのではないかと思われる記事を目にした*。これまで西側ジャーナリストがラサで取材活動を行うことには、厳しい管制体制が布かれていた。ところが、予想しなかったことに、英誌 The Economist のジャーナリストが突如1週間の取材を許され、その最初の日が3月12日であったと記されている。当局にとっては不意をつかれた暴動だったのだろうか。今のところ真偽のほどは分からない。

  チベットと聞くと、反射的に思い出すひとつの小説がある。今ではほとんど読まれることはないだろう。ジェームズ・ヒルトン「失われた地平線」(1933年)が、そのタイトルである。1937年には映画化もされた。「チップス先生さようなら」の作者と云えば、うなずかれる方もいよう。この小説で描かれるチベットの秘境「シャングリラ」の名は、その後さまざまな場面に登場するようになった。  

  小説のストーリーは、暴動などという血なまぐさい話とはまったく無縁の世界である。1931年5月、第一次大戦後の革命騒動に揺れるインド北部の地から、ペシャワール(現パキスタン北西部)へ白人の居住者たちを移動させる飛行機が、ハイジャックされ不時着する。そして、まもなく一人のラマ僧が現れ、その導きで秘境への旅が始まる。

  この飛行機には、英国の外交官二人、石油関係の仕事をしていたというアメリカ人男性と宣教師の白人女性の計4人が乗客として乗っていた。彼らはカラコルム山系を越えて、ラマ教寺院が聳えるチベットの秘境シャングリラへと導かれる。そこは空がかぎりなく青く、花々が咲き乱れる文字通り秘境の地であった。チベット人と中国人が住んでいた。原作では、この地は「連絡できない場所」とされている。  

  この桃源郷とも見える土地。それに対して、外の世界である西洋世界は発展はしているが、なにか汚れて腐敗しているとイギリス人である主人公コンウエイは感じている。人はなにかに追われるようにせわしなく暮らしている。しかし、シャングリラは「時」を感じないような不思議な世界である。そこでなにがあったかはここでの話題ではない。(小説後半では、この秘境にも暗い影が忍び寄っていたのだが。)  

  実は、この小説にはプロローグがある。行方不明になった乗客コンウエイを探していた、学生時代の古い友人で作家のラザフォードが、事件のはるか後に思わぬ形で再会を果たす。コンウエイは中国で記憶を喪失したままで発見された。その後、ラザフォードが日本郵船の客船に友人を乗せ、サンフランシスコへ連れ帰る途上の追想として、ストーリーは展開する(エピローグにもかなり驚かされるが)。

   ちなみに、この小説は Pocket Book の第一号となり、ペーパーバックの世界でも一世を風靡した。フランクリン・D.ルーズヴェルトは、メリーランドの隠れ家(大統領別荘)をシャングリラと名づけていた。その後、1978年にキャンプ・デイヴィッドに変えられた。

  地球上に理想郷も秘境も無くなった今、チベットが平穏な地に戻ることを祈るのみ。 


Reference
James Hilton. Lost Horizon, Pocket, 1934.
(ジェームズ・ヒルトン、増野正衛訳「失われた地平線」新潮文庫、1959年)

 'Monks on the march' The Economist, March 15th 2008.

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豪邸を出て「フローラ」は

2008年03月17日 | レンブラントの部屋

Rembrandt
Self-Portrait,1660, Oil on canvas, 80,5 x 67,5 cm
Metropolitan Museum of Art, New York
 
 

  19世紀後半以降、ヨーロッパ大陸から新大陸アメリカへ滔々として流出した美術品について、ともするとヨーロッパ側の美術関係者の評価が低いことがあると前回も記した。19世紀末以降、「エクソダス」とも評されたヨーロッパの名作の数々が、大西洋を渡ってしまったことへの悔しさが、時にこうした形でにじみ出ることは十分理解できる。しかし、客観的な評価とはいえない。  

  実際、アメリカに渡った美術品には、当時のヨーロッパの第一級作品が多数含まれていた。今日まで時代が下れば作品の評価もあらかた定まり、より公平な評価が可能になっている。しかし、次々と名品の流出が続く最中では、冷静な評価も難しかったことは想像に難くない。   

  ここではアメリカを代表する美術館のひとつ、メトロポリタン美術館が20世紀初頭までに入手した美術品が、いかに質の高いものであったかを少し記しておこう。前回との関連から、範囲はオランダ美術に限っている。

絢爛豪華な特別展  
  レンブラントの名作「アリストテレス」をメトロポリタン美術館が取得したのは、1961年になってからだった。しかし、この作品がアメリカ市民の目に触れたのは、それよりかなり前の1909年のことである。この年、新大陸アメリカが所有するにいたったオランダの主要美術品を、初めて公開展示する豪華な展覧会が開催された。この催しは、「ハドソン=フルトン記念行事」 Hudson-Fulton Celebration の名の下に、そのひとつの重要行事として一般公開された。その名から推測できるように、この記念事業は、アメリカ史の二つのモニュメンタルな出来事を記念しての一大催事であった。   

  そのひとつは、今日その名がニューヨークの中心部を流れるハドソン河に残る、著名な探検家ヘンリー・ハドソンの探検活動からほぼ300年が経過したことを記念し、その業績を後世に伝えるためであった。この探検は、オランダ東インド会社の支援で実現した。オランダ美術の作品展示を行うことになったのは、そのためである。* アメリカ最初のオランダ美術の「豪華ショウケース」と云われた。


  もうひとつは、建国以来のアメリカの絵画、家具、装飾類を展示することにあった。これは発明家として著名なロバート・フルトンの業績を記念するものとして企画された。フルトンは、1807年にハドソン河の航行を可能とした蒸気船の発明に成功した。   

  かくして、大西洋を渡り、オランダからもたらされた絵画作品と新大陸アメリカの風土で生まれた美術品が「ニューアムステルダム」の地で、併せて展示されるという企画となり、アメリカの美術史上でも画期的なイヴェントとになった。

若き学芸員の活躍  
  この「ハドソン・フルトン記念展覧会」を企画したのは、ドイツ人でオランダ美術研究者だった、当時メトロポリタン美術館の29歳、若き学芸員ウイルヘルム・ヴァレンタイナー Wilhelm Valentiner (1880-1958)だった。彼はアメリカのコレクターに大きな影響を与えたウイルヘルム・ボーデ Wilhelm Bode の個人的助手であり、被後見人だった。それにしても、これだけの仕事を29歳の若者が中心になって、企画、実行したということは、アメリカが「若い国」であることを物語っている。ヴァレンタイナーは、企画の実現のために、両大陸の研究者、画商、鑑定家、美術品を所蔵する富豪たち、さらには有名人などを訪ねて東奔西走、出品を依頼する。   

  この展示が画期的であったことは、J.P.モルガン、ヘンリー・フリックなどの大富豪たちが、自らの所有作品を初めて展覧会のために貸し出したことにもあった。この時代の主要美術品は美術館ではなく、こうした大富豪たちが資産として所有していた。そのため、富豪の家族や友人などは目にすることがあっても、一般市民からは遠ざけられていた。それらの多くは、純粋な美術愛好者あるいはコレクターという動機にとどまらず、富豪の莫大な利益の一部を有形資産化するという目的でも所有されていた。彼らは、「金ぴか時代」(Gilded Age: 1865-1900年頃)に象徴されるような大好況期などに、事業を通して莫大な利益を上げ、多くの美術品を競って買い入れていた。

富豪の屋敷を出た名作  
  「ハドソン=フルトン記念展覧会」は明らかにひとつの時代を画した。一人の若い学芸員の企画と依頼に動かされて、当時のアメリカにおけるオランダ絵画の所蔵者のほとんどが、なんらかの形で彼らの私有していた作品を展覧会へ貸与することに応じた。これらの美術品が富豪の私邸を出て、多くのアメリカ市民の目に触れた意義はきわめて大きい。   

  J.P.モルガンはメトロポリタンの理事長だったこともあり、最多の15点を提供した。ハンティントン夫人はレンブラントの「アリストテレス」を含む8点、ヘンリー・フリックは、レンブラントの「自画像」(1658年)を含む8点、そしてハヴマイヤー夫人はレンブラント2点、ピーテル・デ・ホーホ1点を貸し出した。   

  この展覧会は構想も壮大だったが、成果も大きかった。2ヶ月半の期間に、288,103人という当時としてはきわめて多数の観客を動員し、大成功を収めた。出展されたオランダ絵画作品149点のうち、少なくも37点はレンブラントの手になるものとされた。当時、アメリカにあるレンブラント作品は約70点余とされていたから、半分強が出展されたことになる。すでにその名声が新大陸でも広がっていたレンブラントを見たい市民は数多く、この展覧会の最大の吸引力となった。ちなみにフェルメールは当時アメリカにあった7点のうち6点が出展され、これも注目すべきことだった。

  私的財として富豪の邸宅奥深く私蔵されていた美術品が、展覧会という形で市民に公開されることで公共財へと転化することになった意義は大変大きい。この後、しばらくして最初の所有者であった富豪の死去に伴って、所蔵美術品を遺言によって美術館へ遺贈 bequeath することが次々と行われた。時には篤志家の寄付によって、競売に出された作品を美術館が取得するという動きも見られるようになった。

  レンブラントの美しい「フローラ」(1919年ハンティントン夫人が取得、所蔵)も、ニューヨークのハンティントン邸**を出る日が来た。アラベラは1924年に世を去り、1926年、「父、コリス・ポッター・ハンティントンの追憶のために」として、子息のアーチャー・M.ハンティントン氏からメトロポリタン美術館へ「フローラ」は遺贈された。


*
余談ながら、このハドソン河探検の歴史は実に面白い。以前から気になっているセント・ローレンス河の探検史とともに、いつかメモを整理してみたいと思っているが、実現するか?

** 「フローラ」、「アリストテレス」、「ヘンドリッケ・ストッフェルス」のレンブラント作品3枚は、ニューヨーク、(2 East 57th St.)のハンティントン家の書斎の壁にしばらく並んで掲げられていた。


Reference The Age of Rembrandt:Dutch Paintings in The Metropolitan Museum of Art. 2007

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「フローラ」は大西洋を越えた

2008年03月11日 | レンブラントの部屋

Rembrandt van Rijn(Dutch, 1606-1669), Flora, probably ca.1654, Oil on canvas, 39.2/8x 36.1/8 in.(100 x 91.8 cm). Gift of Archer M. Huntington, in memory of his father, Collis Potter Huntington, 1926 (26.101.10).


    かなり寒い日もあった今年の冬だが、一雨ごとに暖かくなっている。花と春の女神フローラのお出ましも近い。フローラで思い出すのは、やはりレンブラントだ。「フローラ」(上掲作品)が、波風高い大西洋を越えてニューヨーク、メトロポリタン美術館に落ち着くまでの来歴を見ていると、実にドラマティックで思わず引き込まれてしまう。これだけで一編の物語が十分書けるほどの面白さがある。メモ代わりに触りだけ記してみた。

  レンブラントは、サスキアをモデルとしたかもしれないと思われる「フローラ」を2点描いている。1点は、ロンドン、ナショナル・ギャラリーが所蔵しており、もう1点はニューヨーク、メトロポリタン美術館が所蔵している。

  ナショナル・ギャラリーの「フローラ」(下掲作品)は、サスキアの肖像画を兼ねていたようでもあり、しっかり描き込まれている。他方、メトロポリタンの「フローラ」(上掲)のモデルは、もしかするとヘンドリッキェかもしれないが、あまり似ていない。画家の想像上のイメージのようにも思える。花を差し出す女性の横顔が、のびのびと描かれており、花と春の女神のイメージによりふさわしい感じがする。

  17世紀の画家の中でもレンブラントの作品は、幸いかなり多数残っており、情報量もかなり豊富だ。画家の活動の中心が17世紀、隆盛を極めたアムステルダムであり、画家の名声が生前からヨーロッパ全域に広く伝わっていたことが大きな原因だろう。


Flora
1635, oil on canvas
123.5 x 97.5 cm.
National Gallery, London

 


ニューアムステルダムの栄光
  今日残るレンブラント作品は世界中に分散してはいるが、真作とみなされる作品は600点余とされている。そのうち70余点がアメリカにある。もちろん、すべてが傑作というわけではない。それでも、ニュー・アムステルダムといわれたニューヨーク、メトロポリタン美術館には名品が多く所蔵されている。

  昨年から今年にかけて、「レンブラントの時代:メトロポリタン美術館のオランダ絵画」 "The Age of Rembrandt: Dutch Paintings in The Metropolitan Museum of Art" と題して、かなり大きな企画展が開催された。この展示については、別に記すことにしたい。

   レンブラントの「フローラ」がメトロポリタンに収まるまでは、かなり多くの波風を経験している。あの「クレードル・ウイル・ロック」の時代を挟む時期が、とりわけ大きな意味を持つ。 アメリカ史の最も面白い時代のひとつであり、アメリカ社会は発展への躍動感に満ち溢れていた。美術との関係では、この時期に驚くほどの財を成した実業家たちの遺産が、格別の意味を持っている。

鉄道王のコレクション
  20世紀初め、アメリカ西部開拓に大きな役割を果たした鉄道事業の立役者の一人コリス・ハンティントン Collis Potter Huntington(1821 – August 13, 1900) から話を始めよう。

  鉄道事業で巨額の富を蓄積したハンティントンは、有り余る富の一部で美術品コレクションを始めていた。その妻アラベラ・ハンチントンArabella Huntington は、夫コリスが1900年に亡くなった後、その遺産を継承し、アメリカで最も富裕な女性の一人となった。

  1910年代に、アラベラは、自ら素晴らしい美術品コレクションを創ろうとした。1908年頃から、夫の甥で同様に鉄道事業で財をなしたヘンリー・ハンチントンHenry E..Huntington(1850-1927)とともに、後のヘンリー・E.ハンチントン美術画廊 Henry E. Huntington Library and Art Gallery in San Marino, Californiaの創設に力を尽くした。ちなみに、二人は1913年に結婚している。

大画商の力
    そして 1907年に、アラベラ
はおよそ250万ドルという巨額を、パリの一大コレクターであったロドルフ・カンRodolphe Kann(1844-1905)のコレクションである家具と絵画作品の購入に投じた。カンはドイツ・フランス系の鉱山主であった。彼は、後のベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館の創設者でもあったウイルヘルム・ボーデ Wilhelm Bode の力を借りて、自らのコレクションを充実してきた。

  実はボーデは、カンの収集したオランダ絵画を自分の美術館のために購入したいと思っていた。しかし、カンの遺言にはコレクションについての指示はなく、資力のある画商のデュヴィーン兄弟会社 Duveen Brothersが、この17世紀オランダの最も素晴らしいコレクションを購入することになる。彼らはコレクションを新大陸アメリカへ移転することを図る。

  このコレクションには、愛好家たちが新大陸への流出は、ヨーロッパ美術界にとって一大災難と悲嘆するほどの名品が多数含まれていた。コレクションの購入については450万ドルというとてつもない額が支払われたが、画商のジョセフ・デュヴィーン(1869-1939)にとっては、最初の大勝利ともいえるものになった。この取引に成功を収めたことで、彼は瞬く間に新旧大陸を通して、20世紀初頭の最有力画商のひとつとして台頭する。

  ヨーロッパの美術愛好者たちは、その後次々と海を渡る名品に切歯扼腕する。彼らにとって、アメリカは金に糸目をつけず、貪欲に芸術品を買いあさるマンモン(財神)の権化みたいに見えたのだろう。こうしたうらみは今も続くのか、ヨーロッパの美術評論家の中には、アメリカに流れてしまった作品には一切言及しないか、低くしか評価しないというバイアスすら感じられる。

  この成功に続いて、デュヴィーンは多数の作品を新大陸に移し替えた。少なくとも24点のオランダの名作が彼を介して大西洋を越え、アメリカの美術館に収まった。デュヴィーンは、美術界におけるビジネスマンとして、図抜けた才能とエネルギッシュな活動で知られたが、彼の伝記作家ベアーマンは、デュヴィーンは若い頃から
常々「ヨーロッパは多数の美術作品を持っており、他方、アメリカには多額の金がある」と言っていたが、彼の成功はこの単純な観察を実行に移した結果だと記している。 文字通り、マンモンが今日の膨大な文化遺産を生んだのだ。

レンブラントはアラベラへ
 さて、アラベラ・ハンティントンの所有した絵画の中には、彼女がデュヴィーンを通して入手したカンのコレクショにあった2点のレンブラント作品が含まれていた。そのひとつは、サスキア亡き後、画家の内縁の妻となったヘンドリッケ・ストフェルズ Hendrickje Stoffels を描いた1660年の作品であり、アラベラはこれに135千ドルを支払った。

  もうひとつは「ホメロスの胸像に手を置くアリストテレス」 Aristotle with a Bust of Homerとして知られる1653年の作品(下掲)である。これにいくら彼女が支払ったかはわからない。いずれにせよ、この2点はカンのコレクションの中でも白眉といえる世界的な名作であった。レンブラントの唯一の外国のパトロンであったシシリアの収集家ドン・アントニオ・ルッフォDon Antonio Ruffo (1610/11-1678)の依頼による作品だった。彼は画家の提示した500フローリンという大金を値切らず支払っている(その後、ひと悶着あったのだが)。

  1660年代初め、ルッフォはレンブラントに「アレキサンダー大王」(その後逸失)と「ホーマー」(ハーグ、Mauritshuis所蔵)を依頼している。

  「アリストテレス」は、18世紀後半まではルッフォ家が相続、継承してきた。その後、1810年、この作品はロンドンの競売市場に現れ、レンブラントの作品として79.16ポンドの値がついた。そして、ブラウンロウ伯爵 Earls Brownlowの著名なコレクションに入り、さらに1894年にはロドルフ・カンに売却された。

  その中から、ハルの「ポウルズ・ベルシュミュール」、 レンブラントの「ヘンドリッケ・ストッフェルス」、そして、「フローラ」は1919年にハンティントン夫人の手中に入った。

安住の場を見いだした「フローラ」
  そして、アラベラの死後、息子のアーチャー・ハンチントン Archer M. Huntington(1870-1955) によって、1926年にその他の作品とともにメトロポリタンに寄贈された。大西洋を越えてきた「フローラ」も、やっと安住の地を見出した。


Rembrandt van Rijn (1606-1669), Aristotle with a Bust of Homer, 1653. Oil on canvas, 56 1/2 x 53 3/4. Purchase, special contributions and funds given or bequeathed by friends of the Museum, 1961(61.198).

  ただ、「アリストテレス」だけは、メトロポリタンのコレクションに入るまで、さらに35年ほどかかった。母親の死後、息子のアーチャーは、レンブラントの作品を自宅に掲げていた。2年後、彼はデュヴィーン・ブラザースに作品を売り戻した。そして、まもなく1928年11月、ニューヨークの新たな世代の画商となる広告王のアルフレッド・エリクソンAlfred Erickson (1876-1936)が、75万ドルで「アリストテレス」を取得した。 しかし、1929年の大恐慌のために、エリクソンはレンブラントをデュヴィーンに50万ドルで売り戻すことを余儀なくされる。その後、デュヴィーンが死ぬ直前、エリクソンは今度は、59万ドルでこの作品を買い戻した。そしてエリクソンの没後、寡婦となったアンナが1961年まで保有していたが、メトロポリタンは数人の篤志家の寄付によって、この作品を落札・入手することができた。「アリストテレス」もやっとしかるべき場所に落ち着くことになった (この経緯はいずれ記したい)。

~続く~

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アメリカのヴィザ政策:翻弄される東欧諸国

2008年03月10日 | 移民政策を追って

  カナダとメキシコに向けては、国境管理を厳しくしているアメリカだが、ヨーロッパに対しては、相手国がアメリカに対してどの程度「忠誠心」があり、協力的かで区別する政策を打ち出そうとしているようだ。9.11以降、アメリカは出入国管理を厳しくし、入国に際してのヴィザを要求してきた。これにはかなり高いヴィザ申請料が付随している。とりわけ、旧東欧諸国からの訪米者には高い壁となってきた。申請のためにアメリカ領事館に長蛇の列をなし、一人当たり130ドル近いコストを負担しなければならない。

    アメリカはヨーロッパ大陸の中心的国々(経済水準が高い国)に対しては、ヴィザを免除してきた。わずかにギリシアだけがその例外とされてきた。ヴィザを要求しない国の中には、アメリカの外交政策に批判的で、多数のイスラム教徒をマイノリティとして包含する国も含めてきた。アメリカにとってはリスクがあるが、別の政治的配慮が加わるのだろう。

  こうした中で、多くの旧共産圏諸国が、イラク、アフガニスタンでアメリカの政策を支持することを表明してきた。とりわけ、ポーランドとチェッコは、ロシアの怒りにもかかわらず、アメリカのミサイル基地の設置を認めている。これらの国々の中では、わずかにスロヴェニアだけがアメリカへのヴィザなし渡航が認められている。スロヴェニアは旧共産圏諸国の中ではきわめて小さく、豊かであり、政治的に安定はしている。

  最近の動きとして、ポーランドとチェッコがアメリカ側への情報提供などを条件にヴィザ要件を撤廃するよう働きかけている。チェコからの航空機に、アメリカの武装係官が搭乗するなどの提案も検討されている。エストニアについても、同様な取引がなされそうだ。これについて、ミサイル防衛とヴィザ発給の双方について、より有利な条件をアメリカからとりつけたいと交渉してきたポーランドは、チェコの「出すぎた」動きに憤慨しているらしい。東欧諸国もそれぞれにお家の事情があり、足並みがそろわない。

  他方、旧共産圏諸国がこうした政治的動きをすることに、ヨーロッパ委員会は自分たちのアメリカとの交渉権が侵害されると怒っているらしい。アメリカは、ロシアからのエネルギー供給については、2カ国間で取引することを避けて、ヨーロッパがもっと団結してより強力にロシアと交渉すべきだと働きかけている。しかし、ヴィザ政策については、ロシアと同様に「分離して統治する」政策をとっている。ここにも大国の身勝手さが強く現れているといわざるをえない。小国の生きる道は厳しい。「団結して当たれ」が唯一の選択肢だろうか。



Reference
'Stand in line.' The Economist March8th 2008.

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北米不自由貿易協定?

2008年03月07日 | 移民政策を追って

  アメリカ・カナダ国境は、移民政策の議論ではあまり注目を集めることがなかった。全長8900キロメートルという長大な国境線であるにもかかわらず、アメリカ・メキシコ国境に比較すると、双方が先進国であり、問題が少なかったからだ。この国境、かつて何度となく行き来したことがあった。確かに出入国管理のわずらわしさを感じたことはなかった。しかし、最近は急速に変貌しつある。その兆候は、かつてこのブログに記したこともある。

  国境管理が一段と厳しくなっている。そのきっかけは、やはり 9.11の同時多発テロである。カナダからアメリカへ入国する車の数は、年間トラック7百万台、乗用車3千万台といわれる。今年1月31日以降、これらの車は、テロリストのチェックリストとの照合、積荷検査、市民権証明書の提示の対象とされる。国境通過は、以前よりはるかに時間と手間を要するものになった。

  影響は多方面にわたるが、とりわけアメリカ、カナダ両国にわたって企業活動を展開する自動車企業などの組み立て産業への影響が大きい。こうした産業では、これまでは国境をかなり自由に往来して、部品や完成品を移送していた。しかし、国境管理が厳しくなるにつれて、工場や倉庫などの配置を再検討せざるをえなくなっている。万一、国境閉鎖などの事態が起きると、生産活動は致命的な打撃を受ける。そのため、組み立て企業はできるかぎり、同一の国に関連工場を集めたいと考える。「ジャスト・イン・タイムよりもジャスト・イン・ケースに対応せざるをえない」と状況を調査したコンファレンス・ボードの報告書は記している。

  国境強化の契機となったテロ対策の観点からは、アメリカにとってメキシコ国境よりはカナダ国境の方がテロリスト侵入のリスクが高いとされている。来年になると、アメリカ側はカナダ側から戻ってくるアメリカ人にパスポートを提示することを求める予定だ。テロリズムの脅威が早急に解消される見通しはない。

    最終段階に入ったアメリカ大統領選で、NAFTA(北米自由貿易協定)はひとつの大きな論争点になっている。この協定の締結で、関係国の間の適切な資源配分がなされ、雇用創出につながると想定されてきた。しかし、期待されるような効果は生まれていない。

  NAFTA成立当時は、低賃金志向型の産業はメキシコに移り、資本集約的な産業はアメリカ、カナダへ立地を重点移行し、それぞれに新たな雇用機会が生まれるだろうと期待された。しかし、現実は構想通りに展開していない。メキシコからの低賃金で働くことも辞さない多数の不法移民の流入、アメリカからの製造業の流出などは、その一端である。

  そして、見通しを難しくしているのは、テロリズムの行方がほとんど見えないことにある。こうした要因が存在するかぎり、国境の壁は高くなるばかりだ。状況はNAFTA締結以前より悪化し、閉鎖的方向へと向かっている。アメリカの大統領選で民主、共和両党のいずれの候補が当選しても、国境線の管理を緩めることは現実的にきわめて難しい。アメリカの抱えこんだ問題の根は深い。



Reference
"A fence in the north, too". The Economist March 1st 2008.

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平壌に響いた「新世界」

2008年03月05日 | 雑記帳の欄外

  旧聞になってしまうが、2月26日、ニューヨーク・フィルハーモニックが平壌で公演した際の番組を見ることができた。指揮者ローリン・マーゼル。会場は東平壌大劇場だった。会場には北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とアメリカ合衆国の国旗が飾られていた。開演に当たって両国国歌も演奏された。1950-53年の朝鮮戦争以来、実に55年間、北朝鮮人民の前に公然と星条旗が掲げられ、アメリカ国歌(Star-Spangled Banner)が演奏されたことはないそうだ。 

  北朝鮮側は未曾有の経済危機の最中に、会場の音響効果を改善するために大規模な改修工事まで行った。会場も当初予定した場所ではなく、1500人近くを収容するこの大劇場に変更されたらしい。弱みを見せたくなかったのだろう。

  ニューヨーク・フィルの団員やプレス関係者は、滞在期間中、お仕着せの見学コースだけが認められ、市内を見物するなどの自由行動は実質的に制限されたらしい。

  結局、公演会場に金正日総書記はお出ましにはならなかったようだ。TVで観ていたことは間違いないが。興味あることに、アメリカの前国防長官ウイリアム・ペリー氏も、観客の中に入っていた。日本ではほとんど報じられなかったが、この公演に際しては、日本人でイタリア在住の富裕なヨーコ・ナガエ・チェスキーナ(チェスキーナ・永江洋子)さんが資金面で支援の手を差し伸べられた。普通の日本人の発想の域を超えている。

  劇場でこの世紀の生演奏を聴くことができた北朝鮮側の観客が、いかなる基準で選ばれたのか分からないが、西欧の音楽など公然とは聞いたことがない人たちであった。演奏された曲目は、ワグナーの「ローエングリーン」序曲、ドヴォルザーク「交響曲第9番:新世界より」、ガーシュインの「パリのアメリカ人」、ビゼー:組曲「アルルの女」、ファランドール「キャンディード」序曲などであり、最後に南北朝鮮の暗黙の国歌ともいうべき「アリラン」が演奏された。これに聴き入る人たちの表情は印象的だった。

  この公演が純然たる文化活動でないことは言うまでもない。さまざまな思惑が背後で働き、実行されたことは間違いない。これまでもこうした「オーケストラ外交」が行われた例はいくつかあるが、政治・外交上の雪解け、融和につながった例はほとんどないらしい。しかし、少なくも演奏中は歪んで醜い政治の次元を離れることができたのだろう。観客は、スタンディング・オヴェーションで熱烈歓迎の意を表した。アメリカ帝国主義は嫌いだが、内心はアメリカ好きが多いらしい。彼らにとって、「新世界」はどのように響いたのだろう。

  

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疲れた「サラリーマン」

2008年03月03日 | 仕事の情景

  ある辞典編纂のお手伝いをしている過程で、気がついたことがあった。変化が激しいご時世、使われる言葉にも盛衰があり、辞典に採用すべき用語の取捨選択がひとつの仕事となる。採択候補の用語の中に、「サラリーマン」があった。いつの頃からか、見聞きすることが少なくなったと思ってはいた。とはいっても、まだ死語になったとはいえまい。しかし、なんとなく過去の響きがある。もともと「サラリードマン」salaried man が日本語化したものであり、俸給生活者、給料生活者、月給取りという意味である。そういえば、「ホワイトカラー」、「ブルーカラー」も色褪せた感じがする。  

  折りしも、新年の英誌The Economistが、「さようなら、サラリーマン」 'Sayonara, salaryman' という短い記事を掲載していた。雑誌記事だけにそれなりの誇張はあるが、日本社会の問題を鋭く突いている。読みながら、改めて考えさせられてしまった。そこで、少しばかり思い浮かぶことをメモしてみた。

  サラリーマンは、戦後日本の発展を支えてきた主柱の一本だった。敗戦の灰燼の中からたくましく立ち上がった日本経済の担い手になってきた。  

  「サラリーマン」という言葉には、長らく誇らしげな響きがあった。彼ら一人一人が会社を背負っているように見えた。その組織のメンバーとなることは、それ自体が将来の成功を約することであり、堅実な中産階級の一員である証だった。

  彼らはキャリアよりも会社を選んできた。坂の上に光が見えていた時代、会社の成長は、彼ら自身の社会的上昇とも重なっていた。しかし、そうしたイメージは1990年代、バブルの崩壊とともに急速に後退した。

  日本のサラリーマンは、しばらく世界もうらやむ存在であった。彼らはひとたび職を得た会社に強い忠誠心を抱いていた。特に問題がないかぎり定年にいたるまで献身的に勤続することを当然と考えていた。しばしば家庭を犠牲にしてまで長時間働き、会社に貢献してきた。家族もそれを当然のこととしてきた。日本の労働者はどうしてそれほどまでに働くのか。なにが彼らをそうさせているのか。日本経済が世界をリードしていた1990年代初めまで、彼らと企業との関係には、多大な関心が寄せられた。西欧の人々が思い浮かべるパターナリズムの一言で片付けられないものが、明らかにそこにあった。

  強い共同体意識が組織を長らく支えていた。しかし、1990年代バブル崩壊後の長い経済停滞は、企業の風土を大きく変えてしまった。厳しい競争原理の風が組織に吹き込まれ、サラリーマン社会の牧歌的イメージは急速に荒涼たるものへと変化してゆく。パートタイム労働者、派遣労働者、契約社員など、さまざまな非正規雇用と呼ばれる雇用形態が市場に溢れ、「格差社会」の議論がメディアを賑わすようになった。企業社会の荒廃のすさまじさと労働条件の劣化。そこに起こった激しい変化の諸相は、労働者ばかりか使用者の想像をも上回るものであった。  

  The Economist誌は、日本は変化しているが、その速度は大変遅いとしている。最近の政治の膠着、混迷の状況を見ていると、確かにこんなことをしていたら日本はどうなるのだろうかという思いも強い。他方で、現実は政治の遅滞を置き去りにして、急速に変化もしている。

  同誌が風刺を込めて記しているように、長時間労働、実質賃金の停滞など、劣化が著しい仕事と生活の関係に対しての処方箋として、「ワーク・ライフ・バランス」という外国の概念が使われている。「外国に学ぶものはなくなった」という傲慢な言葉が聞こえたのも、そう古いことではない。同誌は、一人の若いサラリーマンの言葉を借りて、「(過去はともあれ)この組織は機能しなくなった。それはあまりにも長く続き過ぎたのだ。システムは錆びてしまった」と結んでいる。

  現実はともかく、「サラリーマン」を廃語にするのは忍びない。過ぎし日の記憶を留めるためにも、用語としては残すことになった。

 'Sayonara, salaryman' The Economist January 5th 2008.

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