時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​今では考えられない旅のひとコマ

2020年07月31日 | 午後のティールーム


アンジェ城城門          Photo:yk
(端末入力不具合のため、2020/07/31修正加筆)

アンジェ城城壁          Photo:yk


発行されたばかりの美術誌を見ていると、巻頭に「いつか行ける日のためにとてつもない絵」という特集があり、その最初に「超巨大タピストリー《アンジェの黙示録》という記事が掲載されているのが目に止まった。実はこの作品があるフランス西部の城郭都市アンジェ Angers は2度も訪れていた。

「いつか行ける日のために:とてつもない絵」『芸術新潮』2020年8月



〜〜〜〜〜〜〜

NB.
この驚くべきタピストリーは、1373年から10年をかけて制作され、完成当時オリジナルは7枚、高さ6m、長さ133m(107.5mが現存)もあったとされる。アンジェはフランス屈指の城郭都市としてのイメージが強い。中心となるアンジェ城は3世紀の終わり、ガロ・ロマン時代から城塞都市として存在したが、1232~1240年頃にSaint Louis (聖王ルイ9世)が大規模な工事を実施、3m の壁の厚みを持つ17の円筒形で、延長952m、面積25,000平方メートル を占める城郭として整備された。見るからにとりつくところがなく、難攻不落の要塞風に見える。16世紀終わり頃、ヘンリ3世の時にさらに強固な城郭に改築された。堅固な城塞の中身は、見事な庭園もあり、美しく整備されていた。
城内には15-16世紀時代のタピストリーのコレクションが多数あり、とりわけ『黙示録のギャラリー』は中世期最大の作品として今日まで継承されている。
『黙示録のタペストリー』(フランス語”Tenture de l’Apocalypse ”あるいは英語の” Apocalypse Tapestry ”)は、アンジュー公ルイ1世の命で描かれたヨハネの黙示録をテーマにしたタペストリーで、1370年代、フランドルの画家ヤン・ボンドル(”Jan Bondol”)が描いた絵を、織師ニコラス・バタイユ(”Nicolas Bataille”)が多数の織工を使って1373年から1377年、そして1382年までかけてタペストリーに編まれたと推定されている。
タペストリーは幅約6メートル、高さ約24メートル。六つの部分に分けられ、90の異なる場面から成っていた。1480年、最後のアンジュー公となったルネが死の直前アンジェ大聖堂に寄贈し、以後同聖堂で保管されていたが、18世紀末、フランス革命によって略奪、破壊され、タペストリーも切り刻まれて多くが失われた。その後1848年、散逸していたタペストリーが集められ、1870年、大聖堂に戻される。1954年には城内に移され、1910年にはかつての司教館はタペストリー・ミュージアムに改築され、大幅な修復作業を経て、現在は城内で展示されている。2016年より劣化修復作業が進められてきた。

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筆者の記憶に新しいのは、1997年3月、この地に所在する歴史の長い西部カトリック大学 Université Catholique de l’Ouestと、ブログ筆者が勤務していた大学との学術交流の締結のために、代表者として赴いた時であった。協定の調印や地元紙記者などのインタビューが滞りなく終わった翌日、大学の関係者が案内してくれたのが、アンジェ城内のタピストリー博物館に展示されている『黙示録のタピストリー』であった。すべてが損傷されることなく展示されれば、高さ6m近く、全長140m近い驚嘆すべき一大作品である。14世紀アンジュ公のルイ1世がスポンサーとなり、パリで制作されたといわれている。

2度目の対面であったが、改めてその巨大さと費やされた労力、年月に目を奪われた。長年風雪に耐え、革命期にはオレンジの木の保護などに使われたらしい。今日では保存のために展示室内の気温、照明、湿度などが適切に維持されるように配慮されている(一部は金庫などに保存されている)。さすがに一部には年月の経過による退色、歴史の過程における粗雑な取り扱いによる劣化などは避けがたいものの、全体としてその偉容を十分とどめている。最初に接した時、その巨大さと迫力に唖然とし、圧倒された。

乗り違えた飛行機
実はアンジェへたどり着くまでの旅が通常ではなかった。協定の調印式の日程に合わせて、航空券などの手配を大学出入りの旅行代理店に依頼していたのだが、それまでの仕事が山積して極めて忙しく、出発当日に旅券、航空券など一式を秘書から受け取って文字通り飛行機に飛び乗った。それまでかなり頻繁に空の旅をしていたので、空港で航空券を受け取ることなどもあり、あまり考えることなくそのまま機内に入り着席していた。

飛行機が離陸してしばらくして、ふと妙なことに気づいた。目にする客室乗務員 CAの多くは日本人だったが、しばらくして、赤い制服の乗務員がいるのに気がついた。そればかりでなく機内アナウンスが日本語、ドイツ語、英語で行われていた。離陸後どうも変だと気づき、手元の航空券を見ると、なんと全日空とオーストリア航空の共同運行便だった。しかも成田、パリの直行便を依頼してあったとすっかり思い込んでいたのが誤りで、成田→ウイーン→パリという便だった。今さら乗り換えるわけにも行かず、そのままウイーンの空港で3~4時間を過ごし、パリに行き、翌朝急行列車でアンジェに向かい、滞りなく学術協定調印式などの仕事を済ませた。帰国後判明したのだが、旅行代理店の手違いによる発券ミスだった。その後は航空券の記載にかなり注意するようになった。


アンジェには不思議な縁があり、1970年代パリに滞在していた頃、現地に赴任していた友人と今はほとんど見ることはないシトロエン2CV(「ドゥ・シ・ヴォ」と呼ばれていた)を駆って出かけたことがあった。日本に赴任しているカトリック司祭の家族を訪ねることがひとつの目的だった。仕事を終わってから空いていると思った夜中に運転し、朝方にアンジェに着く予定だった。しかし、混雑するハイウエイを避けたこともあって、照明の薄暗い田舎道を走っているうちに二人とも眠くなり、ついに路肩に車を止めて3~4時間仮眠をとり、朝方にやっとアンジュに到着したことがあった。あの筒状の黒々とした異様な城塞が朝靄の中に浮かび出てきたことを思い出す。タピストリーにも圧倒されたが、作品の詳細についての知識が十分整っていなかった。

おおらかだった時代
航空券にまつわる出来事は、これまで数々経験してきた。時に想像外のことも起きる。そのひとつ、1967年ニューヨークからパリへ飛んだ時であった。パリ到着後、判明したことはその後ロンドン経由で羽田(成田は開港していなかった)へ向かう便が、なんと羽田→ロンドンと逆向きに発券されていたのだった。およそ考えられないミスであった。PC処理が十分に発達していない時代であったとはいえ、お粗末な事務処理であった。大変恐縮した航空会社は、ロンドンでの高級ホテルと上限の記載なしの食事券を手配してくれ、貧乏学生だった筆者は思いがけずロンドン滞在のボーナスをもらい、大変得をしたような思いをしたことがあった。

この頃は航空機の旅をする人は、未だ比較的稀であったこともあり、航空機のスケジュールが規定を超えて遅れたりすると、適切な便も少なかったこともあり、次の便までのホテル宿泊、食事の手配などを準備してくれた。航空会社の小型バックなどのアメニティ・グッズや免税の酒・たばこ類をお土産に頼まれたことはしばしばだった。

当時はロンドン、東京間は直行便がなく、モスクワ(シェレメチェボ空港)経由か南回りであった。東京・ニューヨーク間もアンカレッジかホノルル経由であった。今昔の感ひとしおである。

さて、『アンジェの黙示録』についても、さらに書くべきことはあるのだが、すでに冗文が長くなってしまった。時が許せば、記すことにしたい。






台湾李登輝元総統のご逝去を知った。人生とは不思議なもので、筆者とは一世代以上離れているが、若き日同じキャンパスの上で偶然出会い、短い時間ながらもお話を伺ったことがあった。謹んで心からの哀悼の意を表したい。

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「永遠と一日」に戻る

2020年07月21日 | 午後のティールーム
 

ギリシアの名映画監督テオ・アングロブロスの作品『永遠と一日』は、何度も観たくなる名画中の名画だ。日本ではフランスでの公開の翌年1999年に公開された。すでに20年近い年月が経過している。どれだけこの作品を観た人がいるだろうか。実はブログ筆者がブログなるものに関心を持つようになった一因にこの映画があった。詩人アレクサンドロスの最後の一日とアルバニアから密入国してきた難民の少年との出会いで「人生の旅の一日」の中で、現在と過去と未来を行き交う姿を描いている。



歌人で情報科学者の坂井修一氏が「苦痛と欲望のはざまで」と題して、エッセイ欄「うたごころは科学する」『日本経済新聞」(2020年7月14日)に寄稿されている。そこに引用されている詩人アレクサンドロスの言葉が再び重く響く。「なぜ我々は希望もなく腐ってゆくのかーー苦痛と欲望に引き裂かれて。なぜ私は一生よそ者なのか。ここが我が家と思えるのは、まれに自分の言葉が話せたときだけ」
すでに功なり遂げた詩人の言葉であるだけに、重く響く。

うたごころや詩のこころとは程遠い人生を送り、まさに最後の一日を生きているにすぎない私には、この詩人の言葉をどれだけ理解しているか甚だ心もとない。専門家という言葉はあまり好きではないが、ふと巡り合わせた経済学を職業生活の柱としてきた。しかし、振り返ると、別の道を歩んでいたかもしれない。そうした岐路はいくつかあった。欲望と苦痛に苛まれる日々もあった。

最後の一日になって、もしかすると歩んでいたかもしれない世界を少しでも覗き込んでみたいという思いがつのってきた。そこで生まれたのが、このなんともつかないブログというIT上の代物である。

激動の日々を過ごしたことも、リアリストとしてのくびきから逃れられないものとしたのかもしれない。別の道を選んでも、付いて回ったことだろう。年々厳しくなる世界の姿を見るにつけ、次の世代の人たちに未来は明るいと手放しに告げることはできない。唯一考えられるのは、視野を広げ多くのことを見ることで、人生での免疫力を強めることかもしれない。「できるだけ多くの人生を生きる」、これは若い頃に強い影響を受け、ご自身、「駛けゆく」人生を送られた恩師の言葉でもあった。
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1929年大恐慌のイメージ断片

2020年07月18日 | 特別トピックス


John Kenneth Galbraith, The Great Crash 1929, Boston & New York, Houghton Mifflin, 1997

今世紀に入っても世界はリーマンショック、そして今回の新型コロナウイルスが生み出した世界的不況など、相次ぐ衝撃的な経済・社会的破綻に相当する状況を経験している。小さな動揺はさらに多い。こうした場合に、ひとつのメルクマール(判断指標)として想起されるのは、1929年のニューヨーク株式市場で起きた株価暴落に端を発した「大恐慌 」the Great Depressionとして知られる深刻な危機的事態だ。1929年10月24日、ニューヨーク株式取引所での株価大暴落で始まり、同年10月29日までにダウ・ジョーンズ工業平均株価は24.8%下落し、アメリカ史上最悪の低落となった。そして、ウオール・ストリートの信頼を失わせ、「大恐慌 」として知られる世界的不況につながった。


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N.B.
経済的危機、恐慌、不況、停滞、不振、後退などを表現する言葉には、crisis, depression, panic, crash, recession, stagnation など多くの表現かある。1929年の経済危機については、the Great Depression, Crash, などが使われることが多い。時代の経過と共に経済専門家の間では、depressionとrecessionの区分など、一定の合意が成立しているが、しばしば恣意的に使われる。
通常、depression(不況、恐慌) は経済活動の縮小が、recession (景気後退)よりも長期にわたり、より破壊的である。前者は年単位、後者は4半期単位で計測されることが普通である。ちなみに、「1929年大恐慌」では、GDPが10年の内6年がマイナス成長だった。1932年には、12.9%という記録的減少だった。
失業率は25%に達した。国際貿易は3分の2以上減少し、価格も25%を越えて下落した。大恐慌が経済社会にもたらした荒廃は大変大きく、それが終わった後でも長らく続いた。
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ウオールストリートの崩壊
この恐慌に関わる3つのウオールストリートの株式市場での主な取引日は、通称Black Thursday, Black Monday, and Black Tuesday の3日である。最後の2日はダウの歴史記録に残る最悪の4日に含まれる。その後とめどない株価の暴落が始まった。一夜にして、多くの人々が事業の破たんを経験したり、資産を失い、大恐慌と言われる段階へ突入した。

「今現在の生産力と生活水準を即座に引き上げるために、将来を担保に自由に信用に頼るという戦時の慣習が戦後も続いた。途方もない大量の信用が使われ、乱用されることもしばしばだった。乱用自体は目新しくないが、創造される信用の規模はかつてないものとなった。紙の上での利益を人々が現実にお金に換えだすと、肥大化した信用が収縮しだし、多くの投資家が浮かれた夢から目を覚まし、我を取り戻した。そしてパニックが起きた」 エドウイン・F・ゲイ 
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N.B. 大激動の1週間 
最初の大下落は10月24日、暗黒の木曜日だった。ダウは305.85から始まったが、直ちに11%の下落となった。株式の売りは通常の3倍以上となり、ウオール・ストリートの銀行家、投資家たちは下支えに必死になった。その効果は現れ、10月25日金曜日、ダウは0.6%戻し、301.22となった。
暗黒の月曜日、10月28日、ダウは13.47%下落し、260.24となった。そして、暗黒の火曜日、10月29日、ダウは11.7%下落し、230.07となった。パニックとなった投資家は16,410,030株を売却した。
暗黒の月曜日、火曜日はダウの歴史で最も悪い日だった。2日共に大きな衝撃の日となった。株式大暴落の初期には、新聞などのメディアが生み出した扇情的な記事は、投資家たちの間に投機とパニックをもたらした。

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株価に翻弄された投資家たち
株価の上下動に伴う利鞘の獲得をめぐって、多くの人が投資に走った。そのかなりの人たちはブローカーから融資を受け投資した。彼らは10%の利益が見込めれば売買に走り、市場は投機化した。こうした投資行動は、大恐慌に先立つ「活況の1920年代」soaring 1920’s に進行していた不合理な動きを助長した。株式市場が下降局面に至ると、人々は争ってわずかな利鞘稼ぎに狂奔した。そしてウオール・ストリートを信頼しなくなった。

大恐慌はアメリカ経済を荒廃させた。1929年から1933年にかけて賃金は42%減少し、失業は25%上昇した。アメリカの経済成長は54.7% 減少、世界貿易は65%減となった。デフレの結果、価格はこの間10%以上低下した。
この不況の影響は長く後を引き、1930年代末まで続いた。失業率は1933年まで25%近く、5,000以上の銀行が破産した。
フーヴァー大統領は、産業再生金融会社 Reconstruction Finance Corporationのような手段で経済の再生を図ったが、著効は得られなかった。

ニューディールへ
は1932年に大統領に選出されたフランクリン・ローズヴェルトは、1933年3月に就任、ニューディールの名で知られる新たなアプローチで大恐慌に対処しようとした。



フォートペックダム工事で働く労働者
(by Margaret Bourke-WhIte)

大恐慌の最悪期には、アメリカ人のおよそ4人に1人が失職していた。ローズヴェルト大統領はNational industrial Recovery Actに署名し、経済の再建を図った。多くの連邦機関を通して公共事業を実施し、ビジネスの活性化を実施した。およそ60億ドルを投じ、34,000のダム、橋梁、飛行場、学校、病院などを建設した。その中でも巨大な建造物の一つ、モンタナ州、バッドランドのフォート・ペックダムは1934年から1940年にかけてミスリー川の制御のために工事が行われた。湖岸の長さはカリフォルニアの沿岸を超える巨大なフォート・ペック人造湖が造られた。ダムの建設のためにおよそ11,000の雇用機会が創出され、デラノ・ハイツ、ニューディールなどの名のついた新たな町が生まれた。このダムはロースヴェルトのニューディールの最大の成果のひとつとして今日まで継承されている。

しかし、この時代の政策評価は功罪相半ばするところがあった。恐慌の初期は、株価の上下動に投資家たちが翻弄されたが、まもなく実体経済の悪化が拡大した。
大恐慌の間、その進行を阻止しようと、連邦準備局は利子率を低下すべき時に引き上げることも行った。金準備制を維持しようと試みたためだった。今日、世界は金準備制を放棄している。
連邦準備局はデフレに抗するためとして、貨幣供給を増加しなかった。銀行の破綻にも有効な手段を導入できなかった。時系列に添って見直すと、そうした対応がいかに誤りだったかが分かる。
実体経済の回復にはかなりの時間を要し、その決着は日本の真珠湾攻撃に始まる世界大戦へと繋がっていった。

「1929年大恐慌」も年月の経過とともに、理解や解釈が大きく変化した。このたびの「新型ウイルス大不況」は、後世いかに評価されるだろうか。激変の渦中にいる若い世代の人たちの分析に期待したい。

Reference
John Kenneth Galbraith, The Great Crash 1929, Boston & New York, Houghton Mifflin, (1954) 1997

エドウイン・F・ゲイ、Classic Selection 1932, 大恐慌 The Great Depression
FOREIGN AFFAIRS & CFR PAPERS, 2008 n0.12
この論文は1932年に掲載されたが、今日読んでも多くの示唆に富んでいる。












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車はいくらで売れただろうか:大恐慌の一コマ

2020年07月13日 | 特別トピックス


For sale, after the crash
New York City, 1929
Source:A Story of AMERICA in 100 Photographs, LIFE, New York, vol. 18, no.13, June 20, 2018

この写真はいかなる状況を写したものでしょうか。

1929年10月16日、イエール大学の経済学者アーヴィング・フィッシャー は、New York Times の論説で次のように述べた。 「株価は長く続く高い水準の高原状態に達したようにみえる」しかし、その後1週間もしない10月24日、暗黒の木曜日、株価は急落し始め、金融市場の崩壊は広範に及び、復元し難いものとなった。ウオール・ストリートは壊滅した。
 
これに先立つ10月半ば、投資家のウオルター・ソーントン氏は、彼のピカピカのクライスラー・シリーズ75、ロードスターを誇らしげに運転していた。
10月30日、水曜日、彼はニューヨークのダウンタウンの街角で、自暴自棄になって愛車を100ドルで買うものがいないか、探し求めていた。この写真は、「大活況の1920年代」の突然の終幕と1930年代の大恐慌の幕開けを示すシンボル的な一コマといえる。

自動車産業はアメリカ最大の産業であり、1929年までは売り上げは上昇一辺倒で、そこまで5,358,420台を販売していた。しかし、市場は一挙に破綻し、デトロイトはその後長く荒廃した。

ソーントン氏が彼の車をいくらで売ることができたかは分からない。しかし、デトロイトが1929年に生産した台数に達するまでには20年ちかくを要した。

これは、資本主義社会が初めて経験した古典的ともいえる恐慌、大不況の象徴的光景であった。しかし、世界はその後同じような破滅的事態を大小含めて何度か繰り返すことになる。

この「1929年大恐慌」については、今日まで多くの研究成果が蓄積されてきた。世界を大きな不況が襲うごとに、この時の経験がさまざまに論じられてきた。いわば一つの判断基準(ベンチマーク)の役割を果たしてきた。リーマンショック、さらに今回の新型コロナウイルスがもたらした世界的不況においても、論及されることが多い。ブログ筆者はこれまでの人生で、「1929年大恐慌」を経験した人々の体験を聞き、多くの知見を得ることができた。その断片をここに記しているが、もう少しだけ続けてみたい。
続く



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大恐慌の前:人物群像を通して見たアメリカ社会

2020年07月06日 | 書棚の片隅から

1927(昭和2)年という年について、どんな印象をお持ちでしょうか。このブログを訪れてくださる方々のほとんどは、まだ生まれていない時代ですね。したがって、答もそれぞれの人の人生経験、教育や学習の結果次第ということになります。ほとんど何も印象らしきものは持っていないと答えられる方もかなりおられるのではないか。

世界史を振り返ると、この年は大変興味深い年でした。このブログで最近話題としている1929年の「大恐慌」(1929年10月24日、暗黒の木曜日)の少し前、直前と言ってもよい時期に当たります。

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NB
新型コロナウイルスに席巻されている現代の世界は、カタストロフ(大破局)的な状態にあり、その終息のあり方を求めて、人類が経験した過去の類似の事態との比較がさまざまに行われています。例えば、新着のThe Economist誌(June 27th-July 2nd 2020)の表題は「次なる大破局、そしていかに生き残るか) The next catastrophe (and how to survive it) という恐ろしげなもので、いつから世界はこんなことになってしまったのかと思ってしまうほどです。
わずか1年ほと前、東京オリンピック・パラリンピック招致で、熱狂していたこの国の実態を思うと、すっかり熱が冷め、代わって「コロナ熱」が蔓延してしまった今の状況はなんというべきでしょう。そして日本列島は九州地方を中心に記録的大雨によって、さながら災害列島の様相を呈しています。
こうした状況で、世界的に現代社会の病状を推し量るひとつのベンチマーク(目安)となってきたのが、1929年の「大恐慌」the Great Depressionです。大恐慌の実態や原因については既に多数の研究蓄積があります。ブログ筆者は「大恐慌」の前後の時期を一貫し、総合的に見直す必要があると考えています。

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1927年の夏
それでは大恐慌の直前のアメリカはどんな状況だったのでしょう。ほぼ2年前の1927年の夏(大体5月から9月)に焦点を当てたドキュメンタリー・ストーリーがあったことをを思い出し、書棚の片隅から引っ張り出しました。以前入手時に読んだ記憶を頼りにページを繰っていると、思わず引きずりこまれ読み耽っていることに気づきました。書き手のビル・ブライソンは稀代のストーリー・テラーであり、膨大な資料の渉猟の上に巧みに読者を虜にしてしまう図抜けた才能の持ち主です。

Bill Bryson, One Summer: America 1927, Black Swan, 2013 (ビル・ブライソン、伊藤真訳、白水社、2013年)

1927年の夏、アメリカは株式市場もブーム状態で、活気を呈していました。平均すると1日4時間しか仕事をしないで(他の大統領よりも長い時間寝ていた)と揶揄された大統領カルヴァン・クーリッジ Calvin Coolidge(1923~1929年)の時代でした。この大統領は自由市場に介入することを一切拒否していた最後の大統領として知られており、さらに現代の右翼政治家のモデルともいえる人物でした。

「大恐慌」前とはいえ、時代は決して平穏に過ぎていたわけではなく、今日の基準からしても極端な振幅で揺れ動いていました。自然災害という観点からみると、1927年にはアメリカ合衆国の歴史上最大と言われるミシシッピ川の大氾濫が起きている。ミシシッピ川の堤防は145ヶ所で決壊し、7万 km2が洪水に襲われた。一帯は10mの深さで浸水しました。

政治社会面では、極右の秘密結社Ku Klux Klanへの加入者も多く、さまざまな差別が社会的弱者に向けられ、「嫌悪の時代」”the Age of Loathing”ともいわれているほどでした。

ちなみに同じ時の日本を見ると、ジュネーヴ軍縮会議が始まっていたが、軍部が台頭し戦争の予兆が急速に浸透しつつありました。暗い時代の始まりでした。芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」という言葉を残し、服毒自殺したのもこの年7月24日未明だった。.

NB
6.1 憲政会。政友本党合同して立憲民政党を結成(総裁浜口雄幸)。政友会とともに2大政党時代始まる。
6:20 日・英。米の3か国海軍軍縮会議,ジュネーブで開催(8.4失敗に終る)。
6.27 在中国外交官・陸海軍当局者,東方会議を開催。権益擁護を目的とした軍事干渉政策と満蒙分離政策を骨子とする対中国政策を決定。
7.7 兼任外相田中義一,対支政策綱領を発表。権益自衛の方針を打ち出す。
8.4 奉天総領事吉田茂,奉天省長に反日的姿勢の放棄を要求して京奉線軍用列車の満鉄付属地通過停止を警告。
8.15 外務政務次官森烙。関東軍司令官武藤信義・奉天総領事吉田茂ら,旅順で満州問題を協議(大連会議)。
8.30 政府,山東派遣軍の撤兵を声明(9.8撤兵完了)。
11.5 蒋介石,田中首相と会談。国民政府への援助を要請。
11.12 満鉄社長山本条太郎,満蒙5鉄道建設に関する了解を張作霧より獲得。


チャールズ・リンドバーグとベーブ・ルースの快挙
ブライソンが最初に取り上げたのは、この夏最大の注目の的であった、チャールズ・リンドバーグという無名の若者の快挙だった。5月20日から21日、ニューヨーク・パリ間を単独で無着陸飛行に成功した。単葉機「セントルイスの魂」Spirit of St. Louis で5898kmを33時間39分をかけて飛行した。パリでは大歓迎され、帰国後の6月13日ニューヨーク・ブロードウエイでの祝賀パレードには400万人が見物に集まった。リンドバーグは後に水上飛行機を駆って太平洋を飛び、日本にも来ている。リンドバークが搭乗した単葉機はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。彼はここに愛機が置かれることに強く固執した。
リンドバーグの人生の前半は冒険心に溢れ、華やかなものであったが、後半は愛児の長男ジュニアが1歳8ヶ月で誘拐されるなど、多くのトラブルを生んだ。

この夏、アメリカを驚かせたもうひとりの若者がいた。ベーブ・ルースである。9月27日、ニューヨーク・ヤンキーズのベーブ・ルースは年間60本のホームランを打った。この記録は1961年にロジャー・マリスが61本を打つまで破られなかった。
ベーブ・ルース(George Herman “Babe” Ruth, Jr., (1895年-1948年)は、メリーランド州] ボルチモア 出身の プロ野球選手であり、愛称はバンビーノであった。ルースの人生は、放埒、傍若無人なところがあるが、その無類な明るさと相待って、アメリカ人の心を捉えた。

折しも1920年代、ラジオは時代の脅威と言われ、全米の家具販売額の3分の1を占めた。ベーブ・ルースの活躍と人気は、1922年当時ロンドンを抜いたニューヨークを舞台に、新しいメディアの展開によって創り出されてところがある。大谷翔平選手がルースの記録に追いついた時、アメリカ社会にいかなる衝撃が走るか興味深い。

見事に描かれた人物像
ブライソンは人物の活写が絶妙である。この作品でも、アナーキストとされたサコおよびヴァンゼッティの処刑(8月23日)、自動車王ヘンリー・フォードのモデルAへの転換の始まり、闇の世界の帝王アル・カポネ、ボクシングのジャック・デンプシー、銀幕のアイドル女優クララ・ボウなど数多くの人物が取り上げられている。この作家の特徴は、ひとりひとりの人物像の列挙ではなく、それらをいわば結び目として社会的背景や相互の関係を巧みに描き出したことにある。中間選挙を目前に控えたトランプ大統領が、訪れたラシュモア山壁の大統領の肖像彫刻も、1927夏にスタートし、1941年10月31日の完成まで14年間を要した。

アメリカ合衆国建国から150年間の歴史に名を残す4人の 大統領 ジョージ・ワシントン 、 トーマス・ジェファーソン 、 セオドア・ルーズベルトと エイブラハム・リンカーンの肖像が岸壁に刻まれている。トランプ大統領がここに刻まれることはないだろう。

著者は、1927年の夏を駆け抜けた有名無名の人々の生きざまを、ウィットとユーモアを織り交ぜ色彩豊かに描き出し、見事な群像を描き出している。しばしば株価の暴落をもって、恐慌の原因とする見方が有力だが、近年はその背後にある人間行動を中心とする実体経済により重点を置く見方が台頭している。

本書は、アメリカという大国が初めて世界の表舞台に存在感を示した5カ月間の、情感豊かな歴史物語である。「ひと夏」という小さな窓から激動の二十世紀の胎動を展望するという、名手ブライソンがストーリーテラーとしての真骨頂を発揮した読み応えのある作品だ。図らずも自粛の夏を強いられることになった人たちが、20世紀から今日までを振り返るに当たって、取り上げるにふさわしい一冊だろう。





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