時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

キルヒナーとベルリン時代 (1)

2005年11月30日 | 絵のある部屋

Ernst Ludwig Kirchner, Friedrichstrasse, 1914, Staatsgalerie Stuttgart #

  ヨアヒム・フェストの『ヒトラー最後の12日間』を読んだ友人と感想を話す機会があった。ゲッべルスについての話から、たまたま20世紀前期の画家エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner, 1880-1938)に話が及んだ。実はこの退廃的印象を与える画家は、かなり私の脳裏に深く食い込んでいた。そして、ヒトラーと画家のつながりにも改めて気づかされることになった。

  ゲッべルスについての記憶は、おそらく最初は父親の書斎の一隅にあった『宣伝の威力』を覚えていたことくらいから生まれたのだろう (残念なことに処分してしまって、現物が手元にない)。とはいっても表紙のデザイン(お定まりのハーケンクロイツがあったと思う)以外に内容はほとんど記憶がない。その後、ヒトラー、第三帝国などに関する書籍を読む間にかなり知識が蓄積されてきた。 (映画「ヒトラー最後の12日間」のゲッべルスのイメージは、少し違った。もっと雄弁ではないかという先入観があった。)

ヒトラーと退廃芸術展
  当時、ドイツ第3帝国宣伝相であったヨゼフ・ゲッべルスはヒトラーの意を受けてか、1937(昭和12)年6月、プロイセン美術院総裁アドルフ・ツィーグラーに《退廃美術(堕落した美術)》を美術館から没収し、それらをまとめて公衆の目に曝すための展覧会を開催するよう委嘱した


  これに先立って強行された1933年5月10日ベルリンをはじめとする大学都市で反ドイツ的とナチスが看做した書物を燃やした悪名高い《焚書事件》が、いよいよ美術作品にも及んできたのだ。ナチスによって《退廃美術》の烙印を捺された美術はキュビスム、ダダイズム、表現主義、抽象、シュルレアリスムなど近代美術全般に及んだ。ゴッホの自画像やピカソ、クレー、エルンスト、カンディンスキーなど近代美術の先駆者たちの多くの作品が含まれていた。

キルヒナーの生涯
  年譜によると、キルヒナーは1880年、ドイツのアシャッフェンブルクに生まれた。1901年、ドレスデン工科大学で建築を学んだ後、1903年から1904年にかけてミュンヘンで美術を学んでいる。1905年、ドレスデンにてヘッケル、シュミット=ロットルフらと画家グループ「ブリュッケ」(「橋」の意)を結成した。「ブリュッケ」の画家たちは、共通の表現様式や主義をもっていたわけなく、従来のアカデミックな芸術に反抗する若手画家の集団であった。


  キルヒナーは1911年、他の「ブリュッケ」の仲間らとともにベルリンに移住し、1912年には、カンディンスキー、マルクらの結成した「青騎士」グループの展覧会にも出品している。「ブリュッケ」には後にエミール・ノルデらも誘われて参加するが、1913年には解散した。(カンディンスキーとのつながりもここで分かった。)

  キルヒナーは第一次世界大戦に参加するが、神経衰弱がひどく除隊になり、フランクフルト近郊のサナトリウムで療養生活を送った。大戦後も制作活動を続けるが、1930年代半ばからは心身の衰弱がさらに激しくなった。自分の作品が「退廃芸術」とされたことにもショックを受け、1938年に自ら命を絶った。

作品との出会い
  キルヒナーの絵と最初に出会ったのは、記憶が定かではないが、1970年代初めのニューヨーク現代美術館かベルリン(現在のNeue Nationalgalerie)ではなかったかと思う。好きな絵画ではないが、第一印象は大変強くかなり後まで残っていた。比較的足繁く通ったグッゲンハイム美術館でよく見たカンディンスキーと似たところがあるという印象もあった。 強烈な原色が使われ、その独特なイメージとともに、当時のドイツ社会の不安と退廃を象徴的に示していた。一見して時代の不安が伝わってくるような感じを受けた。(キルヒナーの若い頃の写真をみると、神経質そうでニヒルな感じもする。)

  その後、特に意図したわけではないが、キルヒナーの作品とはさまざまな機会に出会った。最近かなりまとまった形で作品を見たのは、お気に入りのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで 「キルヒナー:表現主義とドレスデン、ベルリン 1905-1918」 Kirchner: Expressionism and the City Dresden and Berlin 1905-1918 と題して、2003年6月から9月にかけて、イギリスで最初となる大きな展覧会 Exhibition が開催された時であった。この展覧会については、長くなったので別に記すことにしたい。


Reference

関楠生『ヒトラーと退廃芸術---〈退廃芸術展〉と〈大ドイツ芸術展〉』(河出書房新社、1992).

Jill Lloyd (Editor), Magdalena M. Moeller (Editor) Ernst Ludwig Kirchner: The Dresden and Berlin Years , The Royal Academy, 2003.

Norbert Wolf. Ernst Ludwig Kirchner 1880-1938, On the Edge of the Abyss of Time, Koln:Taschen, 2003.

#
エーバーハルト ロータース (編集), Eberhard Roters (原著), 多木 浩二 (翻訳), 梅本 洋一 (翻訳), 持田 季未子 (翻訳) 『ベルリン―芸術と社会 1910‐1933』
ちなみに本書の表紙には、キルヒナーのこの作品が使われている。

Exhibition
Kirchner: Expressionism and the City Dresden and Berlin 1905-1918
http://www.royalacademy.org.uk/?lid=933



 

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ラ・トゥールを追いかけて(49)

2005年11月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  ジョルジュ・ラ・トゥールの晩年の生活は、動乱の時代にもかかわらず、かなり恵まれたものであったことは、これまで紹介した一連の出来事からも推察される。 ここでは、ジョルジュの子供でただ一人画家として父親の職業を継承したエティエンヌの結婚について、少し記してみたい。この結婚には、当時の父親ジョルジュの立場、社会的ステイタスや地縁の関係などがさまざまに反映されており、興味深い点がある。

エティエンヌの結婚  
  1647年2月23日、ラ・トゥールの息子エティエンヌは商人の娘アンヌ・カトリーヌ・フリオAnne-Catharine Friot と結婚している。エティンヌが26歳の時である。新婦はヴィックの富裕な商人ジャン・フリオ Jean Friot の娘であった。フリオ家は戦乱で荒廃が進んだにもかかわらず、この地方では大変豊かな家として知られていた。父親ジョルジュは結婚を機にヴィックを離れ、妻の実家のあるリュネヴィルへ移っていたが、ヴィクとの関係は途絶えていなかった(Tuillier 184-185)。ジョルジュとしては息子の配偶者を選ぶについて、戦乱で荒廃したリュネヴィルよりは、自分の出身地であるヴィックに愛着を持ち、つながりを保っていたのかもしれない。

  ジョルジュの場合は、パン屋の息子と貴族の娘との結婚であったが、エティエンヌの場合は画家と富豪の商人の娘との結婚であった。2月23日の結婚契約書に記されたところでは、新婦の側の出席者にはヴィックの市長、著名な画家のジャン・ドゴス Jean Dogoz(新婦のいとこ)、そして多数の富裕な商人たちが含まれていた。他方、新郎側の出席者としては、メス司教区の区長・司法官を始め、多数の著名な貴族が参列した。ジャン・ドゴスは、記録にはないがジョルジュが徒弟として修業した可能性、リュネヴィルへ移った(画家が少なかった)背景などとの関連でも名前が出る画家でもある。

  ジョルジュの結婚の時の参加者を裏返したような印象がないでもない。そして、祝宴は当時の状況としては、かなり盛大であったようである。

祝宴費用は父親が負担
  この結婚に際して、新婦は新郎からの慣習 dowry として2,000フラン、400フラン相当の家具などを贈られている。この他に、新婦は嫁入り道具、亡くなっていた母親から相続した土地などを所有していた。

  ラ・トゥールは新夫妻の結婚式の祝宴の費用を負担したり、当時の習わしであったらしいが、向こう2年間若夫婦を扶養すること、将来の息子の嫁に対して「100エキュ相当の宝飾品」を贈ることなどを約束している。この厳しい時代環境で、エティエンヌ夫妻はきわめて恵まれた条件で新家庭のスタートを切ったと思われる。

  エティエンヌは結婚後しばらくは、父親の住居の一隅あるいは別屋に住み工房に通い、その仕事を助けていたと思われる。しかし、どこまで彼が父親の制作過程に関与したかは分かっていない。エティエンヌの署名のある作品も未だ発見されていない。また、工房にいた徒弟の役割について推定する手がかりもない。エティエンヌ夫妻は2年後の1649年にリュネヴィルのサン・ジャック教会に近い所に6年間の契約で家屋を借りている。父親ジョルジュの工房・邸宅に近い場所である。

  エティエンヌの結婚契約書の中で、ラ・トゥールは「国王の画家にして年金受領者」と記されている。しかし、画家が若いルイ14世から年金を受けていたことを証明する資料はまったく発見されていない。

禍福はあざなえる縄の如し  
  若い息子夫婦の新世帯を扶養しうるほど、豊かになったラ・トゥールには万事順風が吹いているようにみえた。しかし、人生は一寸先は闇であった。息子の結婚という慶事を祝ったラ・トゥールであったが、その翌年1648年8月24日には、「天然痘」によって、末娘でまだ12歳であったマリーの命が奪われるという悲劇に出会っている。記録で知りうるかぎり、エティエンヌ、クロード、クリスティーヌ以外のラ・トゥール夫妻の子供は、この時までに、みな死去していたとみられる。

  これまでのラ・トゥールについて発見された記録から、天賦の才に恵まれた画家がいかに世俗の世界を巧みに生き抜き、社会的栄達をとげたこと、そして息子を貴族の階級にまで引き上げてきた過程を跡付けることができた。当時のロレーヌの社会的流動性は、歴史の教科書に描かれたような階層ピラミッド型の固定的なものではかならずしもなく、かなり流動性があったらしいことは、これまで見てきたいくつかの例からもうかがえる。度重なる戦乱、悪疫などが社会的基盤を根底から揺るがしたことも、関係があるのだろうか。


Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

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ひとつの世界の滅亡:「ヒトラー最後の12日間」を読んで、観て

2005年11月25日 | 書棚の片隅から

ヨアヒム・フェスト(鈴木直訳)『ヒトラー 最後の12日間』岩波書店、2005年, 244ページ+5
(Joachim Fest. Der Untergang, Hitler und das Ende des Dritten Reiches, Berlin: Alexander Fest Verlag, 2002)

読むに覚悟がいるテーマ
  第二次大戦後60周年ということもあってか、昨年から今年にかけてナチス・ドイツ、ヒトラーに関する書籍が出版された。これまでも、ヒトラー、第三帝国をテーマとした出版物は比較的多く読んできたつもりだが、近年は膨大な考証、注などが付された大著が増え始め、しばしば読んでいて辟易とするようなことも多くなった。起きた事実を可能な限り客観的に記し、後世に伝えるという役割を背負った歴史家などには当然のプロセスであっても、その結果を手にした読者には、かなりの圧迫感を与える。

  特に対象とするテーマ自体がきわめて重く、陰鬱であるだけに、受け取る側にも相当な覚悟が必要となる。読む側の精神的状態が整っていないと、打ちのめされそうな思いがする。そんなことを2-3度経験した後、しばらく書棚に置かれていた本書を手にした。著者のこれまでの大著と比較すると、膨大な考証資料も付されていないのでなんとか読めそうだと思った。久しぶりに「第三帝国」崩壊後、60年近くの年月が経過した今、新たな視点や発見があるならば、もう一度探索してみたいという気分が生まれていた。

書籍と映像から見たヒトラー
  折りしも、『ヒトラー 最後の12日間』が映画化されており、書籍と映像というふたつのメディアから、改めてこの人類の経験した最も暗い時代を追体験した。 フェストの「ヒトラー」は、ベルリン陥落、第三帝国崩壊、ヒトラー自殺の最後の12日間に焦点を集中し、「地下要塞」における狂気が支配した世界を克明に描いている(書籍と映画の間には、さまざまな印象の違いがあるが、その点は別の機会にしたい)。

  フェストの今回の著作は脚注、文献考証などを意図的に含まず、読者を一気にベルリン「地下要塞」の異様な終末空間へと導く。第三帝国という奇怪かつ非人道的な存在をつくり上げた一人の男とそれに加担した人物たちが、強い迫真力を持って描き出される。もはや誰の目にも狂人としか思われない精神状態の男によって、支配される醜悪かつ異様な空間は、どうしてこんなところまで行ってしまったのかという恐ろしさを改めて痛感させる。人類はこの時期、こうした世界の存在とおぞましい暴力の蹂躙を許容したのだ。

言葉を失う怪奇な状景
  この狂気で満たされた空間に登場する人物は、それぞれが精神的に救いがたいまでに苛まれている。ソ連赤軍の戦車が地下要塞数百メートルの距離に迫り、砲弾が降り注ぐ状況においても、もはや存在しない援軍や奇蹟的事態の発生を信じるヒトラーや将軍たちの心理状態には言葉がない。そして、文字通り破滅的状況にありながら、後継者争いに執念を燃やす将軍たちの異様な姿もそこにある。

  フェストによれば、ヒトラーを最後の瞬間まで支えていたのは、途切れることなく堅持された、破滅への意志であった。「人間は、人が良すぎたことを、後になってから悔やむものだ」とのヒトラーの言葉は、この文脈に置かれると実に恐ろしい。

ひとつの世界の破滅とその後
  1945年4月30日午後、ヒトラーの自殺によって、焦土作戦と滅亡スペクタクルは恐ろしい破滅へと向かう。文字通り人類を敵とした第三帝国の崩壊は、ひとつの壮大な世界の大崩落であった。しかし、なぜこれだけの舞台装置と犠牲を必要としなければならなかったのか。このとてつもない経験を、その後の世界はどう受け止めたのか。

  このひとつの世界の破滅の後も、世界には戦火やテロリズムの惨禍が絶え間なく続いてきた。その実態を見るとき、再び恐るべきあの狂気が人々の心に忍び入る可能性を否定できない。なにも知らず眠り薬と青酸カリを飲まされたゲッペルスの子供たちは、なにを象徴しているといえるだろうか。 「戦争を知らない大人たち」が過半数を占める今日の世界でも、新たな狂気は決して死に絶えず、さまざまにその進入口を求め、拡大の場を探していることを思わざるをえない。

  「目を開いていれば、分かったのだが・・・・・・」 (エピローグから)


映画公式ブログ
http://ameblo.jp/hitler/

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豊かな地への決死行: アフリカからヨーロッパへ

2005年11月23日 | 移民の情景

*スペインの海岸に着いた密航者(AP)

  TV映像などがいくらフランスの郊外の惨状を報じたとしても、アフリカなど開発途上国の人々にとっては、ヨーロッパなどの先進国は別世界のように豊かな地に見える。スペイン、ポルトガル、フランスなどのヨーロッパ諸国が不法移民に閉鎖的な政策をとった後でも、密入国を企てる人々の流れは絶えない。

  BS101が、2005年11月22日に放映した「決死の密航者たち~アフリカからヨーロッパへ」は、アフリカ、モロッコからスペインへの密航者の実態を生々しく伝えている。 イベリア半島から1800キロ離れた北大西洋に浮かぶスペイン領のカナリア諸島に向かう密航者である。

不明な実態
  カナリア諸島の西端フエルテベントゥラ島には、毎日のようにアフリカ北部からの密航者をのせた木造船がたどりつく。 このブログでも度々とりあげているが、実際にどれだけの人が密航に成功したかはまったく不明である。他方、航海中に高波にさらわれり、ボートが沈没したりで目的を果たせず海岸に打ち上げられ、共同墓地などに埋葬される例も多い。

  密航を企てた人たちは強制送還を恐れて、身元を確認できないようにしているため、ほとんど出身国などが不明なままである。 密航の途中で沿岸パトロールなどに発見され、送還される場合も多い。

  この番組は、フランス公共放送の撮影チームがモロッコからのある密航者の一団に同行し、故郷から砂漠を経て、見知らぬ海岸から小さなボートでカナリア諸島につくまでの一部始終を撮影した貴重な記録である。

ヒューマン・トラフィッカーの暗躍  
  この映像を見て明らかなことは、密航を商売にする業者Human Trafficker が暗躍し、暴利をむさぼっていることだ。この場合は、アラブ人の密航業者が希望者を集め、トラックに非人間的な状態ですし詰めにし砂漠地帯を海岸まで搬送する。途上の警察を買収し、密航希望者からは1000ユーロ(14万円)を徴収する。その後も、途中で身の回り品を略奪し、砂漠を何日も走った上で、ぼろ舟を与えて放り出し、後は密航者の運にまかせている。   

  国際的には、こうしたトラフィッカーと呼ぶ人身売買の仲介業者には、厳しい対応をすべきであるとの合意があるが、現実にはとても対応できていない。 密航業者は事情を知っていて密航者に最後まで同行することはない。というのも、国際的に密航業者への罰則が強化されており、彼らも捕まれば10年の服役が課せられるめである。 モロッコ政府は、国外へのこうした流出阻止に最大限努力するとしているが、現実にどれだけのことをしているのかも不明である。概して、移民の送り出し国が出国規制をする例は少ない。  

  この映像が伝える場合も、最初は36人が同じ船で密航を企てるが、ボートが転覆し、残った者のうち10人は警察へ出頭し、モロッコからの強制退去の道を選んだ。そのため、実際にボートで密航を企てたのは25人であった。 モロッコからカナリア諸島まで、海上の距離で100キロ以上はある。岸から10キロのところで船外モーターが動かなくなり、スペイン沿岸パトロールに発見され、つかまっている。   

  密航者たちは、出身国が判明すれば強制送還される。密航者は収容キャンプでもアフリカより良い生活を送ることができるため、拘束状態でも極力、滞在を望む。スペインで1年間拘束された後、どこへ送られるのか。彼らの運命がどうなるのか、映像はなにも語っていない。

Reference
2005年 バンフテレビ映像祭  2005 モンテカルロテレビ映像祭 ゴールデンニンフ受賞
[原題] Clandestine Crossing of the Seas
[制作] France2/フランス/2004年


モロッコの状況を伝えるBBCニュース 

http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/1327945.stm

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グローバル化に取り残された子供たち

2005年11月22日 | グローバル化の断面

  フランスの「郊外」暴動はようやく沈静化したようだ。フランス政府も事の重大さに気づき、いくつかの対策を打ち出した。しかし、これらの対応がなんらかの目に見えた効果を生むまでには相当な時間がかかるだろう。他方、極東の国日本ではマスコミなどの受け取り方も、文字通り「対岸の火事」としか見ていないようだ。日本の若者や地域荒廃の問題と、決して無関係とは思えないのだが、メディアはほとんど通り一遍の言及しかしていない。

映画の伝える若者像
  NHKの「クローズアップ現代」(2005年10月21日)は、この点に応えようとしたのか、今年のカンヌ映画祭で(1999年の「ロゼッタ」Rosetta に続き)作品「ある子供」 L'Enfantで、二回目の「黄金の樹」賞 European Palme d'Or を受賞したベルギー人映画監督ジャン・ピエール、リュック・ダルデンヌ兄弟 Jean-Pierre and Luc Dardenne とキャスターの国谷裕子さんのインタビューを構成していた。

    フランスの暴動の根底にあるものは、若者の仕事の機会がないことにあるという視角である。短い時間に編集したのだから、そうした理解についてあえて異論はとなえない。番組では、この兄弟監督の二つの映画から、社会から排除された若者、将来に希望が見出せない若者の姿を映し出す。ひとつは教育や資格のない者は雇用しないというグローバル・資本主義的競争にさらされ、見捨てられたように、ほとんどなすすべのない若者の姿である。監督が生まれ育ったベルギー南部、鉄工業
の町、スランを舞台としている。

社会の底辺に生きる若者
    スランの失業率は26%という高率である。仕事にありつけない若者は、アルコールや麻薬に依存して過ごす。映画はこうした社会の底辺に生きる若者の姿を映し出す。ベルギー・ワッフルの下ごしらえという仕事をしながら、他人を裏切っても仕事をとるという希望のない若者を描く。

    他方、カンヌ映画祭で受賞した「ある子供」では、仕事がなく、20歳の青年が引ったくりを繰り返している姿、カップルだが生活に困り、自分の子供を売りに出す若い夫のイメージが映し出される。 監督は倫理的規範が失われ、荒廃した社会の底辺で漂っている子供たち、かろうじて毎日をしのいでいる子供たちを映像化したいようだ。

迫力に欠ける結論
  住む家さえなく、人間らしい感情さえ失っていた子供が、わずかな希望を見出し、再起する姿には救われるものがあるが、結論としてははなはだ弱い。こうした状況を生み出す問題の根源にもう一段踏み込むべきだった(番組の構成も焦点が定まらず、迫力に欠けた)。

    確かに、友達ができることで、自立できる若者もいるだろうが、それで現代社会が抱えているこの難題を解決できるとはとても思えない。より体系的・組織的取り組みが必要なことは、ほとんど明らかではないか。そこには家庭基盤、教育、地域、社会倫理など、多くの次元が包括されねばならないだろう。

  フランスの暴動を見ても、放火され、炎上した車の数は9千台強に達したが、幸い死傷者の数はこの規模の暴動にしては少なかった。暴動の対象が見えざる「社会の壁」に向けられ、政治家や警察などに直接向けられたものではなかったからだろう。この「社会の壁」の破壊のために、いかなることがなしうるかが、暴動が提起した課題である。

下北沢の若者との対話
    番組では、若者の街といわれる東京、下北沢を訪れた両監督と若者や親たちとの対話などから、孤独な若者に必要なのは出会いであり、人間は価値のある存在であり、ひとりぼっちではないことを説く。そして、今の若者には反逆心が足りない。不満を持っているだけでは駄目、世の中を変えねばならないとする。 別に反対するわけではないが、かなり短絡的な結論と感じないわけには行かない。

  世の中はそれほど簡単に変えられるわけではない。「こんな世の中変えなければ」という熱い思いは必要であるし、若者にかぎらず大人にも必要なものでもある。

  監督が思い浮かべる荒廃したベルギー、スランの若者と下北沢の若者では、かなり異なった次元もあるし、短時間の訪問では見えない部分もあるはずだ。
 
  ひとつの大切な点は、遠回りではあるが、大人たちが次の世代へしっかりと、熟練・技能、そしてモラルや芸術、人間としての行き方を確実に伝承させてゆくことだろう。そのために、家庭、学校、そして映画も大きな役割を果たすことを信じたい。

Reference
映画の背景については次のブログ参照
http://www.cineuropa.org/ffocusarticle.aspx?lang=en&treeID=1060&documentID=54683

http://cinema.translocal.jp/2005-09.html#2005-09-01_1

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ラ・トゥールを追いかけて(47)

2005年11月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

充実する画家としての生活 
    いまやロレーヌを代表する有名画家となったラ・トゥールは、努力が実り、収入や資産も大きく増えた。しかし、戦乱が続き、時代環境が大変厳しかったために、その維持・保全のためには多くの努力が必要だったようだ。前回のブログにも一端を記したように、徴税吏との衝突を初め、訴訟などにかかわる記録もこの時期に多い。

    画家としての職業生活を円滑に維持するためには、画業を支える工房の充実も必要だった。すでに記したように1636年には悪疫が流行し、その年5月26日には、受け入れたばかりの幼い徒弟ナルドワイヤンの命が奪われてしまった。その後、ラ・トゥールはおそらく息子のエティエンヌに頼って仕事を続けてきたものと思われる。しかし、画家としての名声が高まるとともに、エティエンヌだけでは工房での仕事も大変になってきたのだろう。1643年に入って、新しい徒弟を受け入れた記録が残っている。

新しい徒弟の受け入れ
    1643年11月10日*
リュネヴィルでラ・トゥールは、新しい徒弟クレティア・クレティアン・ジョルジュChretien Georgesと契約を交わしている。クレティアンはヴィックの出身で、ラ・トゥールは結婚によってその家族とつながりが生まれたらしい。徒弟契約には次のような内容が含まれている:

「当事者たるラ・トゥール殿は、当事者のクレティアンを3年の期間、その家に受け入れて住まわせ、養育するものとする・・・・・・今後、条件や状況・変化に応じて、この期間彼に対して隠匿することなしに率直かつ熱心に絵画の技や知識を教え、また学ばせるものとする・・・・・クレティアンに対し、その師匠に仕えるのにふさわしい品位ある、しかるべき衣服を遅れずにまた欠かさずに支給し、また彼が必要とする肌着類や身の回りの品々についても同様にするものとする。クレティアンは、市内および市外において、要求されるかれの仕事に従事し、またその仕事が必要な場合は畑に行き、食事の給付をし、また朝夕熱心によくその乗用馬の世話をするものとする。これらすべてのことを、善き献身的な召使として忠実かつ熱心に勤めること」。  

    この内容から推測されるとおり、この時代には徒弟は親方である画家の家に住み込み、食事の準備や乗馬の世話まで、親方の身の回りの世話をする召使としての役割が求められており、その反面で親方は技能を秘匿することなく、伝達することが条件とされていた。親方は徒弟がそれにふさわしい衣服などを着用できるよう心がけることが求められていた。ラ・トゥールは馬を乗用に使っていたことが分かる。リュネヴィルの近郊やパリなどへの旅行は馬に頼っていたとみられる。当時の貴族がそうであったように、 ラ・トゥールはかなりの乗り手であったと見られる。

徒弟制度の役割
    徒弟制度は画家にかぎらず、社会的に必要とされる職種を独立して営業するために、必要な技術を習得するための制度であった。それに加えて、ある職種を営む上での絶対条件ともいえる同業者組合加入のための通過儀礼的な制度でもあった。そして、徒弟は親方の家に住み込み、仕事を手伝い、同時にさまざまな家の用事をこなす使用人でもあった。 徒弟期間は徒弟契約時に徒弟が親方に払う金額により増減した。

  息子などを徒弟に出す家庭としても、厳しい政治・経済環境の下では、時に思わぬ変動に見舞われたりで、費用の支払いも大変だったようだ。現に、1643年にラ・トゥールは新たに採用した徒弟クレティアンの保護者が支払いを滞らせていた費用200フランについての請求訴訟を起こしている(Thuillier 182)。
   
  親方には技術だけでなく同業者組合に加入が許される新たな親方、同僚を育てるための教育を徒弟に施す必要性がある。徒弟制度はその意味で単なる技術取得の教育ではなく、同業者組合という精神のゲマインシャフト加入のための教育も含まれている。こうした要件を備えていない職人を送り出すことは、その親方の資質を疑われることになる。そのため、工房での徒弟の教育は全人的なものとなる。徒弟制度においては徒弟の質の維持・向上を理由に一人の親方が受け入れる徒弟数が制限されていた。たいていは1人で、多くても3人程度であった。  

  18世紀には徒弟制度に代わり技能伝達の場となったアカデミーや学校と異なり、徒弟制度の下では徒弟は親方の工房で仕事も行う。仕事を行うことがそのまま教育になり、教育と仕事の境界線は明確ではない。そして、学校教育では作業効率の面が無視されてもさしつかえないが、徒弟制度では教育とはそのまま仕事でもあるので作業効率に無駄が出ることはそう許されることではない。

最後の徒弟
  1648年このクレティアン・ジョルジュの徒弟年期が終了した後、ラ・トゥールは1648年には、その生涯で最後となった5番目の徒弟ジャン・ニコラ・ディドロを受け入れている。ラ・トゥールによって教育されたことが判明している弟子のうち、エティエンヌを別とすれば、1620年のクロード・バカラ、その6年後のシャルル・ロワネ、1636年のフランソワ・ナルドワイヤン、1643年のクレティアン・ジョルジュに続き、ジャン・ニコラ・ディドロがという順番となった。

  9月10日の徒弟契約書では期間は4年間とされ、師匠の馬の世話を引き受けたほか、手紙を届けること、食事の給仕をすることなどが定められており、ディドロは「顔料を砕くこと、画布の地塗りをすること、絵画にかかわるすべてのことを行い、配慮すること、必要が生じた場合、人物を描き、またデッサンする際のモデルを務めることが求められる」とされている。もしかすると、ディドロはラ・トゥールの作品に描かれているのかもしれない。

  その上、契約書の次のくだりは、エティエンヌが父とともに描いていただけでなく、父が死去した場合はその工房を引き継ぐ可能性をも示唆している:

「この職務の性質上、同じ原則やおきてに従って続けられることが求められるので、当該のジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の息子で同じく臨席のエティエンヌ・ド・ラ・トゥール殿が、その父君が死去した場合、当該のニコラ・ディドロを引き取り、残りの年月、前述の条件で徒弟修業を継続することを承認し、約束するものとする。」

生まれなかった後継者
   ラ・トゥールも晩年に近づき、これまでは徒弟契約書に記載されなかったような条項が登場したとも考えられる。 ラ・トゥールの工房で徒弟修業を終えた職人が画家として独立し、作品を残したという記録はない。わずかに息子のエティエンヌが父親の後を継いだが、彼自身も画家としての才能がないと認識したのか、貴族の称号を得た後、画業に精を出した形跡はない。親方画家ラ・トゥールと自らの才能の大きな格差に気づき、画家として身を立てることをあきらめたのだろうか。あるいは、わずかな記録からの推察に過ぎないが、ラ・トゥールの厳しい指導に耐えられなかったのだろうか。父親と比較すれば、画家として身を立てるにはきわめて恵まれた条件が準備されていたはずなのだが。一人の天才的画家の誕生には、実に複雑な要素がかかわっていることを改めて認識する。



*Thuillier p.108 では16 September 1643と記載されているが、ここではより新しい文献であるサルモンによっている。

Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

Personal Note: 国立博物館へ「北斎展」を見に行く。質量ともに圧倒的な作品に改めて驚かされた。こうした驚異的な画業活動が、徒弟もつかわずに社会的にいかなる仕組みで支えられていたかについては知りたいことも多い

 


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The Kite Runner (凧を追いかけて)

2005年11月18日 | 書棚の片隅から


The Kite Runner by Khaled Hosseini (London: Bloomsbury, 2003)
カーレド・ホッセイニ 『凧を追いかけて』(仮題)
  
  気づいてみると、オルハン・パムクに続いて、これもイスラム圏の作者であった。小説:The Kite Runner 『凧を追いかけて』 は、ストーリーの展開が大変巧みでいつの間にか引き込まれ、読まされてしまった。大きな感動を与える作品である。もとはといえば、友人のハリー・カッツ教授に、場所もベルリンのトルコ人移民の多いクロイツベルグのレストランで雑談の折、読後感を聞かされて手にとった一冊である。

  著者カーレド・ホッセイニは1980年、政治的な難民としてアフガニスタンからアメリカに移り住み、以来アメリカ西海岸に医師として暮らしているアフガン人である。ちなみに、これは彼の作家としての処女作となる。そしてアメリカで最近までながらくベストセラーの首位を保った。

  9.11、イラク戦争、その後に続く同時多発テロなどの過程で明らかになったことは、西欧諸国にとってイスラームの世界は、さまざまな意味で依然として遠い存在であるということであった。そして、多くの日本人にとってもそうであろう。 TVで世界のどこでも実体験できるような感覚になった今日の世界だが、映像と現実の間には、やはり大きな断絶がある。話は著者ホセイニの分身、自画像ともいえる主人公アミールの人生回顧という形で展開する。

  1970年代、カブールの町で恵まれた家庭の一人息子として生まれた主人公は、ひとつ年下で忠実な召使いであるハッサンと主従の関係を超えた深い信頼関係を持っていた。だが、古くからの年中行事である凧揚げ競技(日本にもある凧糸にガラスの粉をつけて、相手の凧の糸を切ることで勝敗を競う)で、予想もしないことが二人の関係を断ち切ってしまう。ちなみにkite runnerとは、切り落とされた相手の凧を追いかけて勝利品として手に入れる勝利者のパートナーのことを意味している。

  アミールの父親バーバはパシュトン族の成功者として、物心ともに息子が超えがたいと思う大きな存在である。同胞が尊敬する勇気と誠実さを備えている。ともすれば、通俗な郷土の偉人像化しかねないイメージだが、作者はストーリーの展開の巧みさでそれを見事に回避している。話の展開とともに、バーバ自身がかなり複雑な生い立ち、性格を背負っていることも分かってくる。イスラームの世界には、こうした父子の関係が存在するのかと思い、感動する。

  父親バーバとポリオにかかり足の不自由な召使いアリ、そしてアリの息子ハッサン、そしてアミールは強い信頼関係で結ばれている。バーバとアリの関係は単なる主従のものではなかった。双方ともに妻を失い、二人の息子であるアミールとハッサンも友情とも異なる強いきずなで心の底で強くつながっている。しかし、アミールは主人と従者、そしてハッサンに対する劣等感のようなものも手伝って、表面的にはハッサンにつとめて冷淡に接してきた。 他方、バーバは従者であるアリ、そして息子のハッサンにも大変人間味あふれる愛情をもって接してきた。時に実の息子アミールにも分からないほどのきずなで結ばれているようだった。そして、どういうわけか、アミールにはあるときまでかなり厳しい対応をした。その理由はかなり後に判明する。

  アミールが13歳の時、大きな転機が訪れる。伝統の凧揚げコンテストで、思いもかけないことが二人の関係を冷酷に断ち切る。アミールはハッサンにもはや修復できない精神的な傷を与えてしまう。アミールは父親の勇気を受け継いでいない。父親のような誰をもおそれないような強さがない。そして自らの責任で癒しがたい傷を負い、それはトラウマとしてその後の人生につきまとう。

  そして、この時を境に二人の関係、人生も完全に断絶した世界に移ってしまう。アミールとその父親バーバは、ある日ひそかにアメリカへの難民として故国アフガニスタンを捨てる。物語の背景には79年末のソ連のアフガン軍事侵攻、ムジャハディーンとタリバンの対立などの政治的変動が存在する。その状況は、後年アミールがカブールを訪れる後半の部分で生々しく語られる。前半の懐古的な描写と比較して、後半は格段に現実味を帯びる(図らずも、戦乱に明け暮れた時代のロレーヌを思い出してしまう。)

  カブールでの豊かな生活とはまったく異なり、アメリカでガソリンスタンドで働き、その後オープンマーケットの露天商となった父の死後、アミールはある電話を機にカブールへ戻る。そこに展開していた状況はなにであったか。 ストーリーはそこから思いもかけない過去を明らかにする。生々流転ともいうべき人々の姿といえようか。

  このしっかりと書き込まれた小説(そのかなりの部分は著者の原体験でもあると思われるが)を通して、読者はイスラームの社会や人々の考えの一端に触れる。そこにはわれわれと全く違わない人間としての生き方、考え方が流れている。そのある部分は、日本人がすでに失ってしまったような生き方でもある。読者として、多くのことを考えさせられる。

  アフガン人であることは、いかなることであるか。その美しい国は無惨にも破壊され、恐怖の中に生きている人々がいる。 著者はこの複雑な有り様を淡々と、見事に描いている。小説としての洗練さ、技法などの観点からすれば不十分な部分もないわけではない。移民を題材とした特別な小説ジャンルといえるかもしれない。しかし、いずれにせよ読者は間違いなくひとつの大きな感動と満足感を持って読み終えることができる。小説の世界でも、主人公アミールは子供の頃から小説家を目指してきた。ホセイニはアミールに代わってしっかりとその一歩を踏み出した。


Khaled Hosseiniのホームページ
http://www.khaledhosseini.com/

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フランス移民政策の行方(II)

2005年11月16日 | 移民政策を追って

郊外 banlieu 

  前回11月14日のブログで今回のフランスでの暴動について記し、シラク大統領の発言が少ないことに触れた。ド・ヴィルパン首相やサルコジ内相の発言がさまざまに伝えられる中で、これだけの事態に大統領がなぜ自らの見解を示さないのかという疑問があった。ブログに記したように、今から10年前、シラク氏が大統領就任直前に述べた内容からすれば、今回の危機についてもう少し踏み込んでの発言があってしかるべきだと思っていた。

  国民に向けて大統領はやっと深部に触れる演説を行った。11月14日夜のテレビ演説で、シラク大統領は「どれだけの履歴書が名前や住所を理由にゴミ箱行きになっていることか」と述べ、はじめて郊外に住む移民の若者が直面する雇用差別の実態についてまで触れた。大統領はやはり問題のありかを知っていたのだ。 フランスはしばしば言葉の咲き栄える国である。大統領の演説には、印象に残る
フレーズがちりばめられている。大統領就任前、「郊外」banlieuの荒廃について述べた時の言葉もそうであった。しかし、10年が経過する間に、状況は「非常事態」を告げるまでに悪化していた。

  大統領演説では、暴動の背景にある問題に理解を示し、就職支援を約束する一方で、子供の監督を怠る親に対する制裁や不法移民対策への取り組みなど、硬軟双方の対応を提示した。

広く深く張りめぐらされた「雇用差別」の根
  労働市場における「雇用差別」の根は深い。今後いかなる具体策が打ち出されるか明らかにされていないが、応募書類の段階で名前や住所によって、差別をすることを禁止する条例が出されたとしても、いかほどの効果を生むか定かではない。長年にわたって社会に浸透した差別の程度を減少させることがどれだけ難しいことかはすでに多くの実例が示している。いかにすれば企業や官公庁などの組織風土を平等が支配する場へと変化させることができるか。しかし、傍観することなく実施することは政治家の使命である。

  大統領は具体的には、2007年に若者5万人を対象とした就職支援に着手することや、雇用差別の解消に向けて経済界や労働組合と協議することを約束した。 履歴書に移民と分かる名前や、郊外に住んでいることを示す住所が書かれているだけで就職面接に呼ばれないという差別の実態については、かねてから人権団体などが問題視していた。 アメリカのように、書類選考の段階で先入観にとらわれた差別が行われないように、応募書類に写真や住所などの記載を禁じた例もある(これは、これでまた別の問題を生むのだが)。

「見えない壁」「見えない国境」は
  この「見えない壁」「見えない国境」の問題は、フランスばかりではなく、日本でもすでに存在する。派遣業者が仕立てた通勤バスでアパートから職場へ通い、ひたすら仕事をした後、再びアパートへ戻るだけの毎日という外国人労働者の実態は、すでに日本でいたるところに展開している。地域社会にいつの間にか、そこに長く居住する住民と外国人を隔てる「見えない壁」が生まれている。かつてインタビューの際に出会った日系1世の方が、母国へデカセギに来たが、「日本人の友達も少なく、東京へ行ったこともなく、社会生活ゼロの毎日です」と語ったことが、今でも思い出される。

  いまや多くの人が口にするようになった「フリーター」や「ニート」の問題も、彼らに冷たく、受け入れを拒む社会に対する「マイナスの反乱」、「冷えた反抗」ともいえる部分がある。ヨーロッパ諸国ではながらく「若年失業」といわれてきた問題だが、日本はもっと早く対応していたら、これほどまでにはならなかったはずだ。フランスの暴動については他人事のような日本だが、実は底流にはかなり同じものが流れている。

Reference
http://news.yahoo.com/fc/world/france

『「フリーター」「ニート」から見えるもの』『朝日現代用語 知恵蔵2006』」

*非常事態法は2006年1月3日になって解除された。

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フランス移民政策の行方(I)

2005年11月14日 | 移民政策を追って

アンダークラスの反乱
  フランス全土に拡大した暴動は、夜間外出禁止令の発動など予想もしなかった事態へと展開した。短期的に強権で押さえ込むことができたとしても、長期的にいかなる結果につながるか、予想がつかない。唯一、はっきりしたことはフランスの移民統合政策が完全に失敗に帰したということである。フランス政府は、早急に根本的な政策見直しに迫られた。

  11月13日、EUのバローゾ欧州委員長も、最大10億ユーロ(約1400億円)を支援するとの声明を出した。問題の広がりという点で、もはやフランス一国の問題ではないとの認識が広がったのだろう。フランスの危機はEUの危機につながる。 一時はジャーナリスティックにとりあげられていた「
国境なきヨーロッパ市民」といった概念が、いかに空虚で現実と遊離しているものかを知らされたといってもよい。

 
バンリューの惨状
  問題の根は深い。The Economist の最近号November 12th-18th 2005が、巻頭で次のごとき衝撃的な事実を記している:

   「人並みの生活をしていない郊外では、一種のソフトな恐怖のルールが支配している。多くの若者が学校を出た後、仕事もなく将来になすすべもないとなると、社会への反抗に走るという状況が生まれる。しばらくの間政府が秩序を強制し、福祉給付で悪化をしのいだとしても、どれだけ持ちこたえるだろうか。」

  この発言の主は誰か。ほぼ10年前、1995年1月、中道右派の政治家ジャック・シラクが記した言葉である。シラク氏はまもなく同年5月、フランス大統領に就任しているのだ。大統領として今日までこの荒廃した「郊外」banlieuには、それなりの施策を講じてきた。しかし、10年近い彼の任期においてフランスの失業率は、ほとんど10%近辺を右往左往してきた。若年者の失業率は近年は、その倍近くの20%で、ヨーロッパ諸国の中でも最も高い部類である*。さらに「郊外」における若いモスレムの失業率はさらにその倍近い。

  今回の暴動について、シラク大統領の発言はあまり聞こえてこない。ただ法と秩序の回復を述べているだけである。 短期的にはそれしかないことは確かではある。言葉が少ないのは、警察力など強権を持って暴動を抑え込んだとしても、為政者としてはそれが問題の解決にはならないことを無残な形で知らされたからであろうか。

複雑な原因
  今回の暴動がひとつの原因から発生したものでないことは、今後の対応を非常に困難にしている。若者の暴動の対象は、フランス社会が生み出した「見えない壁」に向けられている。いわば「見えざる敵」への反乱ともいえる。

  すでにメディアでも指摘されているように
最も重みを持つのは、ほとんど2世代にわたり、パリその他の都市の「郊外」において、社会的、経済的に、疎外、隔離されてきた主として北・西アフリカからのモスレムの人々の問題である。貧しい住宅環境、荒れた学校、交通手段の不整備、周辺からの蔑視、そしてこれらが重なりあった結果としての若者の雇用機会のなさが、根本的かつ総合的に再検討されねばならない。しかし、その修復には、いつまでかかるか分からないのだ。

  フランス国内に居住するモスレムは約5-6百万人、人口の一割近い。暴動参加者にモスレムは多いが、モスレムでない若者も多く、イスラーム急進派などによる政治的扇動などはないようである。これは、わずかな救いかもしれない。

最重要課題は雇用
  政策再構築の上で重要度が高いのは、若者のための仕事の創出である。この点について、今年5月に就任したド・ヴィルパン現首相も強調してきた。アメリカやイギリスは成長を維持し、新たな雇用機会を生み出してきたが、フランスは成功を収めていない。仕事のない若者にやり場のない憤懣が鬱積していたことはいうまでもない。 他国と比較して、週35時間労働、高い最低賃金、厳しい採用・解雇規制などが再検討の俎上に上ろう。

  シラク大統領は最近もアングロサクソン型の市場経済およびリベラリズムを批判し、「新たな共産主義」と評した。暴動に油を注いだといわれるサルコジ内相も、評価はさまざまだが、右派、左派を問わずほとんど無視してきた「郊外」への政策を実施してきた数少ない政治家であった。 競争原理をさらに導入するアングロサクソン型の流れへの傾斜が、事態を救う保証はない。市場原理は、「アンダークラス」と呼ばれる階層へ厳しく当たる。 こうした人々が市場資本主義の一層の展開の中で救われるか、はなはだ危うい。

  フランスは基軸としてフランス語を話し、フランス文化を受け入れ、フランス人となる「同化」(アンテグラシオン)といわれる政策を設定、推進してきた。そのひとつの結果として、国家にも自分の生い立ちにもアイデンティティを見出せない若者も生まれた。

移民政策の見直し
  いずれにせよ、フランス政府は、移民政策を見直し、全体の人数を管理する方向へ舵を切りなおす方向らしい。 1)熟練労働者、
2)企業家、3)研究者、4)大学教授など の分野ごとに受け入れ人数枠を設定するようである。 いわゆる単純労働者の受け入れについては、結果的に移民の貧困や失業の定着につながるとの発想が改めて認識されたようだ。EUの共通移民政策も、これまでのような路線では進めないかもしれない。

  ドビルパン首相は、教育、雇用、住宅の3分野での政策強化を表明している。これは、政策対象としては正しいと思われる。しかし、短期的な即効性は期待できない。そして難題は効果測定がきわめて難しいことである。政策が不十分ならば、いつ同様な事件が勃発するかもしれない。フランス、そして近隣諸国は今まで以上に細心な配慮をもっての政治運営を迫られるだろう。

フランス国立統計経済研究所(INSEE)によると、25-39歳で、移民の失業率は2004年で21.0%。世帯収入も1万ユーロ(約140万円)強とフランス大都市平均の約6割。
フランスの総人口約6000万人。国勢調査(1999)では「移民」(外国で外国人として生まれたフランス居住者(フランス国籍取得者も含む)は約431万人で7%強を占める。フランスでフランス人して生まれた移民の2世、3世を含めると1348万人。移民1世の内訳は、アルジェリア、モロッコ、チュニジアなどマブレブ3国出身者が約130万人。南欧出身者127万人。
Reference
"An underclass rebellion",  The Economist November 12th-2005
http://www.economist.com/index.html

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ラ・トゥールを追いかけて(46)

2005年11月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

リュネヴィルの豪族となった画家

引く手あまたのラ・トゥールの作品
 1640年代、この頃までにラ・トゥールの画家としての名声は、疑いもなく確立されていた( たとえば、1644年11月16日、エティエンヌが代父をつとめた洗礼式の記録の中に、ラ・トゥールが「名高い画家」と記されている)。いまや「フランス王室付き画家」の称号を得るまでになった画家の作品は、ロレーヌばかりでなくパリにおいても貴族階級や商人などの富裕層を中心に人気の的となっていた。その結果、作品につけられる価格も急速に上昇していった。(近年、ラ・トゥールの作品についての人気が高まるにつれて、この謎に包まれた画家についての歴史的記録も少しずつ発掘されるようになった。)
 

今に残る記録から
  いくつかの歴史的記録が、画家の人気のほどを示している。それによると、1643年1月29日、宰相リシリューの死後作成された財産目録の中で、このロレーヌの大家の作品は、ほぼ同時代の画家ヴーエやラ・イールによって、250リーヴルという高い金額に見積もられている。この作品の説明は「ラ・トゥールによる聖ヒエロニムスの絵画、縦5から6ピエ、横4ピエの大きさ、つや消しした金の額付き」というもので、その当時パリのリシリュー枢機卿の宮殿の「枢機卿の部屋」の衣裳部屋にあったものである。

  この作品についての記述を検討すると、現在、ストックホルム国立美術館に所蔵されている「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」とも寸法が一致する。ラ・トゥールが1638-39年頃にこの「聖ヒエロニムス」を描き、「国王付き画家」の称号を得るためにリシリューに贈ったことは十分ありうることである。

  同じ頃のナンシーのある財産目録の中に、「夜の情景マグダラのマリアの絵、額縁なし、見積もり額25フラン」という絵画が記載されているが、その作者の名については述べられていない・・・・・しかし、この絵は改めて、約20年後の1661年1月22日、商人セザール・ミルゴダンの遺産目録に「ラ・トゥール風に描かれた絵画、金の葉飾りつきの黒い木製の額縁入り」と記載されている。そしてこのミルゴダンの最初の妻は、1643年に死去している。時はほぼラ・トゥールの名声が確立された頃である。 富裕な商人であったミルゴダンがなんらかの理由で入手、所蔵していたものと思われる。

貴族階級がパトロンに
  この1643年から死ぬまでの時期に、ラ・トゥールはリュネヴィル市から、アンリ・ド・ラ・フェルテ・セルテールへ贈るための絵画の注文を受けている。ラフェルテは1643年にマザランによってロレーヌの地方総督に任命されたが、教養ある芸術愛好家でもあった。彼は年始に贈り物として地方総督に贈られる大金よりも、ロレーヌの画家の作品を好んだ。こうして1645年、「われらの主の生誕を描いた絵」(ルーブル所蔵の「羊飼いの礼拝」か)を、ラ・トゥールは700フランという巨額の代金と引き換えに渡している。ラ・フェルテはいわばラ・トゥールのパトロンの一人だった。

  ラ・トゥールの手になるものらしいと思われる別の絵画についての記録もある。リシリューの所有となっていた絵画とは別の「ロレーヌのラ・トゥールによる聖ヒエロニムス、額縁なし」という記述が、1644年8月23日のシモン・コルニュの遺産目録にある。今回は25ルーブルの値がつけられている。コルニュは国王付きの画家であり、婚姻を通じて画家ジャック・ブランシャールとも従兄弟の関係であった。

大地主となったラ・トゥール
  ラ・トゥールは、画業を通して得た収入によって、リュネヴィルにおいて大地主となっていた。その点にかかわるひとつの資料が残されている。それは次のような内容である。
  1646年、7月18日、その頃一時的にルクセンブルグに身を寄せていたものの、未だ権勢を保っていたロレーヌ公に宛てて、リュネヴィルの住人から嘆願書が出されている。内容は、特権を享受するラ・トゥールを含めた何人かのリュネヴィル市民を非難するもので、そのうちの何人かが、戦争や軍隊の宿営にかかわる負担への協力を拒否したと告発している。問題の嘆願書は、こうした公共の費用を負担しようしない人たちに対して次のように抗議する内容となっている:

  「これらの修道僧、修道女はあたりいったいの耕地を所有しており、フールとシャルジェーの貴婦人たち、画家のラ・トゥール殿は、彼らだけで合わせて当該のリュネヴィルで見られる3分の1の家畜を所有しております。その人たちは、残りのリュネヴィルのすべての住人たちより多く、そこで耕し、種をまいております。・・・・・前述のシャルジェーの貴婦人とラ・トゥール(スパニエル犬とグレーハウンド犬を同じくらい多く飼い、まるでこの土地の領主であるかのように、種まきした畑の中で野うさぎを狩らせ、踏み荒らしだめにしてしまうので、人々にとって憎むべき人物です)はナンシーの総督殿下により、兵隊の宿舎の提供義務から免除されており、同様にすべての負担金の免除を得ています。」

  リュネヴィルの大地主となったラ・トゥールや貴族の生活のイメージを彷彿とさせるものだが、抗議文であることもあって画家には大変厳しい内容である。広大な土地を所有し、あたかも領主であるかのごとく振舞う画家というイメージである。これが客観的な描写であるか否かは、分からない。告訴した農民はフランス国王とロレーヌ公という二重政治の狭間で高い税金を徴収され、困窮していた存在であった。他方、非難の対象となったラ・トゥールや貴族階級の婦人たちは、そうした状況においては、社会の上層部を占める存在であった。不安な環境での重い租税負担など、苛酷な生活状況に置かれていた農民にとっては、それらをよそ目に課税対象から除外されるなど特権を享受する貴族階級への反感はきわめて強かったのだろう。

Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年
 

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ラ・トゥールを追いかけて(45)

2005年11月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


リュネヴィルに戻った画家:世俗の生き方を垣間見る
  
 長らく戦争や
悪疫に覆われていたロレーヌにも1640年代に入ると、つかの間の平穏が戻ってきた。パリなどに避難していた画家ラ・トゥール一家も、リュネヴィルに戻ってきたようだ。

 しかし、ロレーヌの環境は到底明るいものではなかった。ジョルジュが時代から取り残されたような小さな町ヴィック・シュル・セイユに生まれた頃のような平和な生活はすっかり失われてしまった。いつ、外国の軍隊や悪疫が襲ってくるかもわからない不安な時代に変わっていた。住民は見えない恐怖や不安に脅えながらも、その日その日を過ごしていた。先が見えないロレーヌだったが、ラ・トゥールは世俗の世界でもしたたかに生きていたようだ。

  この頃にはロレーヌのみならず、国王付き画家としての地位を確保し、パリでも知られる有名画家となっていたラ・トゥールである。土地などの資産も増え、恵まれた貴族階級としての地位を占めていた。その地位保全のために、ラ・トゥールは妻の実家のあるリュネヴィル移住の時からしかるべき手を打っていた。画家というと、世俗の世界から超越し、芸術の世界に沈潜してもいられる職業と思いがちだが、この時代に画家として生きるのは並大抵の努力ではなかった。

 画家はフランス国王付き画家としての権利を保持しながら、他方でリュネヴィル移住以来ロレーヌ公から与えられた特権を維持するためにも可能な限りを尽くし、法的な手段についても精通していた。そのしたたかさを推定しうるような記録資料が残っている。美術史研究者の間で画家の直情、粗暴さを思わせる証拠として、よく知られている記録である。

  ラ・トゥールが、リュネヴィルに再び落ち着いてからしばらくして、彼の所有する家畜に対して請求された税金の支払いを断固として拒否する事件が、ナンシー市の記録として残っている。市の税金を支払わせるために、ラ・トゥールの自宅に赴いた執達吏による1642年4月19日付の報告書である。これを読むと、ラ・トゥールの性格がある程度推測できる。記録は次のごとく記している:

  「私(執達吏)はリュネヴィル市の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の自宅に赴いた。そして邸の小道において彼と話しをし、丁寧に何度も彼の家畜に対して定められた総額16フラン6グロを支払うよう促しました。彼は自分は払うつもりはないと答えました。そして、私が支払いを求めた後、さもないと強制的に徴税するだろうと言いますと、彼は徴税しろと答えました。そして、そのために私が邸のさらに先へ入ろうとすると、私を激しく足でけり、扉を閉め、それより先に進んだら最初のやつをピストルで撃つと,怒っていいました。このようなわけで、私はそれ以上徴税を執行できませんでした。」(Thillier, 1997)

  この出来事があった後、ラ・トゥールはメスの高等法院にリュネヴィル市を提訴している。法院は1643年1月16日の判決では、最終的にその税金免除の特権は「戦争の荒廃のあいだ」は有効ではないとして、ラ・トゥールの訴えを退けたものの、ラ・トゥールの特権的な地位については承認した。

  こうした画家の生き方や行動についての記録から、そのままラ・トゥールの性格が傲慢あるいは横暴であったと結びつけることは、やや短絡かもしれない。この記録が税の執達吏の証言に基づくものであることにも留意しなければならない。ラ・トゥールとしては、租税免除の権利は、すでにロレーヌ公から確保していると思っていただろう。そして、彼は再三にわたり、その権利を主張してきた。

  作品から想像されるような世界とは、程遠い世俗の世界で生きてゆく処世の術ともいうべきものを、ラ・トゥールはいつの間にか身につけていたようだ。それが彼の出自と関係あるのかどうかはまったく分からない。しかし、記録などから類推される彼の息子エティエンヌなどの貴族的な生き方と比べて、父親であるジョルジュは別のものを持っていたようである。
  
  ラ・トゥールが残した作品と、こうした記録から推定される画家の人格との間には直ちに理解しがたいような大きな間隙が存在する。画家のこうした性格が、かなりの程度まで記録から推定されるものであったとしても、それが先天的なものか後天的なものかも分からない。だが、当時のロレーヌに生きる人々にとっては日々の生活で選択の余地はきわめて少なかった。

  社会的な階級などの差異はあったとはいえ、誰もが現実的にならなければ生きられなかった。才能に恵まれ、努力も実って社会の上層に近いところまでたどり着いていたとはいえ、ラ・トゥールは世俗の世界と作品の世界を意識して区分していたのではないか。世俗を超越して生きるということは、きわめて難しい時代ではあった。しかし、そうした苦難な過程を通して生み出される作品は、当時の人々が心密かに願っていた思いに応えたものであった。

  
 ラ・トゥールが獲得した特権とは、1620年、27歳でヴィック・シュル・セイユから妻の実家のあるリュネヴィルに移住した時に、ロレーヌ公アンリ4世に宛てて嘆願の手紙を書き、「貴族の身分の女性」と結婚したことや、画家という職業が「それ自体高貴であること」などを理由に、すべての税金の免除や社会的特権を得ようとし、7月10日にロレーヌ公から許可された内容を示している。

Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

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「対岸の火事」ではないフランス暴動

2005年11月09日 | 書棚の片隅から

ミュリエル・ジョリヴェ(鳥取絹子訳)『移民と現代フランスーフランスは住めば都か』集英社、2003年

  10月27日、二人のアフリカ系の若者が、警官によって変電所に追い詰められて感電、死亡したことに端を発するといわれる暴動は、フランス政府を足元から揺るがす大問題となった。警察は事実関係を否定しており、真相は調査中だが、その後の展開は文字通り共和国の危機となった。

  フランス全域に拡大した暴動は、11月7日になっても収まらず、8日フランス政府は臨時閣議で各地の知事が夜間外出禁止令を出せるようにした。半世紀ぶりという強権発動である。このままでは統治能力への国際的な信頼が揺るぎかねず、国内経済への打撃も大きくなるため、短期解決を意図したのだろう。

  しかし、移民・外国人労働者問題の研究者としてみると、いつかこうしたことが起きるのではないかという予感のようなものは常にあった。現在展開している事態は、実はかなり前から予期されていたのだ。ミュリエル・ジョリヴェのこの本は、きわめて的確に問題の所在、展開の方向を指摘していた。

ピエ・ノワールと呼ばれた人々
  1970年代初め、パリの街路で箒でごみを下水道に流し込む仕事をしているのは、すべてアフリカ系の人たちであるのを見て、「自由・平等・博愛」を標榜している国で、どうしてこういうことが許されているのかとふと思ったことがある。彼らは、ピエ・ノワール(pied noir 黒い足の意味)と呼ばれていた。アルジェリア生まれのフランス(ヨーロッパ)系移民の子孫をフランス本土で呼ぶ蔑称だった。パリ郊外のサン・ドゥニを訪れた時も、地域社会の荒廃ぶりに、これもフランスなのかと思ったことも度々であった。

  その後、外国人労働者・移民問題に関心を持つようになってから、フランスにおける外国人、移民の実態や政策は頭の片隅から消えたことはなかった。というよりは、フランスがこの問題にいかに対応しているかということは、移民問題の行方を測る重要な試金石であり、目が離せなかった。

形骸であった「統合」政策
  1970年代後半の第一次石油危機の後、外国人労働者の帰国促進策がほとんど効果がないということが判明して以来、先進国のほとんどが不熟練労働者の受け入れ制限、帰国しない、あるいは長期に滞在している外国人の自国への統合政策を掲げた。「正規化」、「統合」、「共生」などさまざまなスローガンが掲げられてきた。しかし、それがいかなる内容であり、どれだけ実現しているかという点については、決して満足できる答は得られなかった。移民で国家を形成してきたアメリカ合衆国でさえも、もはや統合社会の構図は示すことができなくなった。「メルティング・ポット」社会は「モザイク」そして「サラダボウル」社会となった。

すでに指摘されていた背景
  ミュリエル・ジョリヴェの本書は、一見小著に見えるが、きわめて密度の濃い作品である。訳語や構成の点で散漫な部分もあるが、現在、展開している実態とその背景は、ほとんど描きつくされている。もし本書で扱われていない新たな要因を付け加えるとしたら、グローバル化に伴う映像文化の影響、インターネット、携帯電話の世界的普及による情報の急速な伝達が、事態の展開に明らかに影響を与えていることである。

  たとえば、フランスの27才の新鋭マチュー・カソヴィッツが監督した話題作『憎しみ』Le Haine (1995年)は、今回の舞台となった“バンリュー”と呼ばれるパリ郊外にある殺伐とした低家賃住宅=団地を選んでいる。主人公は、そこに暮らす移民の労働者階級の若者たちで、彼らの24時間のドラマが、非情な眼差しと緊張をはらむモノクロの映像で浮き彫りにされていく。衝動的な放火などの出来事は、すでにかなり前から多数起きていたのだ。こうした若者は家庭においてもしばしば孤立した存在であり、やり場のない鬱積した感情は臨界点に達していた。かつて、イギリスの階級社会批判でしばしば指摘された「俺たち」と「やつら」"we" and "them"の関係は、ここではさらに対象が拡大し、あらゆる権威的存在への反発となる。そこには、かつてのような政治的リーダーすらいない。

  ドビルパン首相は各地で放火を繰り返している若者に対しては「両親の責任」を指摘する一方、イスラム組織の関与は「無視すべきではないが重要ではない」と語った。

  政府は暴動の背景とされる移民社会の困窮を和らげるため、1)貧困地域で社会活動に携わる団体への財政支援増、2)学業不振者に対する職業訓練の前倒し(16歳→14歳)と、優秀な生徒への奨学金の3倍増、3)6月に発足させた国の反差別機関に懲罰権限を与える、などの方針も表明した。

「見えない国境」は消滅するだろうか

  しかし、これらの措置が事態の本質的解決に大きな効果を持つとは考えにくい。貧困地域においては、格差縮小に多少は効果があるかもしれないが、問題はフランス国内に存在するさまざまな差別の壁である。こうした壁は「見えない国境」として、長年にわたりフランス人の心の中に作り出されたものである。すでにずっと前から「壁」は存在したのである。そうした壁がこうした措置で短時日の間に軽減あるいは消滅するとはとても思えない。たとえ、強権で押さえ込んだとしても、なにかの機会に再び火がつくだろう。

  フランスの統合政策は無残にも破綻した。アフリカ系の若者にとっては、仕事も得られないのに、教育を受けてなんの役に立つのかという思いがするのだろう。サルコジ内務大臣の発言は事態に火に油をそそいだ。フランスの移民社会が生み出してきた「見えない閉塞感」は壁となって、彼らを包み込んできたのだ。その圧迫感に耐え切れず、ある日爆発する。そのきっかけはいたるところにあった。

「対岸の火事」ではない問題
  現代の福祉国家は、こうした問題に対応するに十分な術を持たない。世界のある地域に起きた出来事は、瞬時に他の地域に伝わる。今回の出来事が単にフランス国内のみならず、周辺諸国にとっても無関心ではいられないのは、そのためである。

  そして、アジアで遠く離れているかに見えるこの国、日本にとっても決して「対岸の火事」ではないはずである。日本では合法・不法を含めて、すでに90万人を越えるといわれる外国人労働者・移民労働者が働いている。その前にはさまざまな「見える壁」、そして「見えない壁」が立ちはだかっている。彼らの将来について、今もって明確な指針を示していない日本は、傍観しているかぎり結果として大きな重荷を背負うことになる。

目次
第一章 背景を数字で見ると
第二章 フランス人は人種差別主義者か
第三章 ブールのアイデンティティ
第四章 フランスにおける巧妙な差別の実態ー二つの速度
第五章 女性は同化の原動力?ーブールの女性たち
第六章 フランスの一夫多妻制
第七章 デリケートな問題ーサン・パピエ


References
下記サイトは、きわめて的確にこの注目された映画の意味する内容を語っている。
http://c-cross.cside2.com/html/a00hu001.htm

フランスの外国人労働者・移民問題に関する邦語文献から:

林瑞枝『フランスの異邦人』中央公論社、1984年。

フランソワーズ・ギャスパール/クロード・セルヴァン=シュレーベル(林信弘監訳)『外国人労働者のフランス――排除と参加――』法律文化社刊、1989/02年

ジャン・ヴォートラン(高野優訳)『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』
草思社、1995-07年
 
タハール・ベン・ジェルーン(高橋治男/相磯佳正訳)『歓迎されない人々 フランスのアラブ人』晶文社1994-03年、

本間圭一『パリの移民・外国人:欧州統合時代の共生社会』高文研、2001年

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台湾でも起きた外国人労働者の暴動

2005年11月07日 | 移民政策を追って

 高雄駅全景

  フランスで移民労働者の暴動が発生する少し前に、台湾でも外国人労働者の暴動が大きな政治的事件となっていた。なぜ、こうした暴動が発生したのか。そこにはある共通の原因が存在していた。今回は台湾の出来事を追ってみよう。

辞任に追い込まれた閣僚
  10月のの台北訪問の時に、ひとつの事件が展開していた。国際会議で基調講演者として予定されていた陳菊労工委員会主任委員(閣僚)が急に出席できなくなってしまった(台湾の人権問題の推移と評価についての講演が予定されており、楽しみにしていたのだが)。

  8月末に高雄で発生した外国籍労働者の暴動発生の責任を取って、謝長廷行政院長、陳菊労工委員会主任委員と陳其邁高雄市代理市長が9月に入って辞任したためである。その後、高雄のMRT工事をめぐるタイ人労働者雇用に関する責任者の贈収賄の疑いなどへも展開し、事態は輻輳した。

  李応元行政院秘書長が労工委員会主任委員に、卓栄泰行政院スポークスマンが行政院秘書長に、行政院スポークスマンは卓栄泰と姚文智新聞局長が兼務するというあわただしい人事異動が行われた。 (余談だが、新労工委員会主任委員は大変若い閣僚で、驚くほど活動的な人である。)

  事態の収拾には、高雄市長の謝長廷,副総統の呂秀蓮などが現場に出向き対応するという異例な事件となった。

事件の経緯 
  8月21日未明、台湾南部の高雄市において、出稼ぎ労働者として滞在していたタイ人労働者約300人が、労働条件と生活水準への不満から暴動を起こした。給与の支払い方法などに不満があったとみられる。 暴動が起こったのは高雄市内でMRT建設にあたる高雄高速交通社であった。21日深夜にタイ人労働者が飲酒、騒音を立てながら賭け事を行っていたことに対して、同社の警備員が注意をしたところ、労働者が警備員に襲いかかったことをきっかけに暴動が起き、社内の設備が破壊された。

  この事件で現地警察および消防署が出動、さらに台北と高雄のタイ労働局の担当者が駆けつけ、経営者と労働者の仲介を行った。この結果、22日の昼には混乱は収まった。タイ人労働者らは、経営者側が定めた規則―特に飲酒・喫煙・賭け事・携帯電話の禁止に対して強い不満を持っていた。給与の支払い方式に関しても、経営側が給与の半額現金支給、残りはクーポンでの支給をしていたことに改善を求めていた。

使用者はなにをしていたか
  今回の交渉によって経営側は、労働者から没収していた携帯電話の返却と、給与の全額現金支給、住宅から現場までのシャトルバスの運行などを約束したという。同社には現在タイ人労働者が2025名勤務しており、主に台湾南部の地下鉄建設工事に従事していた。日本と同様に台湾でも、1980年代後半から不熟練労働者の不足が深刻な課題となっていた。そのため、特定の国家的事業などについては、一定の規制の下に外国人不熟練労働者を受け入れていた。しかし、使用者の専権によるきわめて劣悪な労働条件で働かせられていることも多かった。 出入が厳しく規制されたキャンプのような飯場を見たこともあった。 

  タイから台湾への出稼ぎは1980年代頃から始まった。現在海外で働くタイ人は登録済み労働者で約55万人、不法就労者を含めると約100万人程度とみられている。海外出稼ぎが始まった当初の1980年代は中東のサウジアラビアへの渡航者が多く見られたが、1991年の湾岸戦争以後は、中東行きを忌避した労働者にとって台湾が人気渡航先となっていた。現在台湾で働く外国人労働者は約30万人、そのうちタイ人労働者は3分1を占める約10万人とされている。

  当地ではこれまで外国人労働者に関しての大きな事件がなかったため、現地住民およびタイ・台湾の労働関係者はこの事態を深刻に受け止めている。

台湾側が謝罪 
  台湾の呂秀蓮副総統は24日、TTEOに対して、今回の騒動に関して経営者側がタイ人労働者に対して不当な扱いをしていたことに謝罪の意を表した。呂秀蓮副総統は、現地を視察し、多くの労働者が不適切に狭い部屋に押し込められ、トイレや衛生設備などが極端に不足している状況や、労働者が時折、現場監督から虐待を受けていたという報告を受けたという。

  呂秀蓮副総統は「外国人労働者人権専案小組」と「高雄MRTタイ人労働者事件国選弁護団」を設立し、高雄市市長も今回の事件に対して、謝罪するとともに、市長の任期中に外国人労働者の待遇の改善を全力で取り組むと述べている。

出稼ぎ労働がはらむ危険 
  タイのタクシン首相はこの暴動に関連して、海外出稼ぎ非熟練労働者に対するコメントを発表した。首相は、海外出稼ぎに伴う経営者側の不当な条件や、労働者の脆弱性を指摘、出稼ぎブローカーが謳う高い給与は、高い技能を持ったものに限られていると警告している。一方、タイ経済が好調なことを背景に、国内の労働需要も増加しており、特に東部工業地域(イースタン・シーボード)では3万人以上の求人があることから、「非熟練労働者は外国へ出稼ぎするよりも国内で就業した方が有利である」と述べた。 また、タイの総検察長は官員を台湾に派遣するなどの措置をとった。

  フランスの場合も、台湾の場合も外国人労働者が抱える問題について、う受け入れ側が適切な手を打つことなく放置してきたことが、ある問題を契機に爆発するという展開になっている。フランスの場合は、事態ははるかに深刻であり、長年にわたるアフリカ、イスラム系の外国人労働者の受け入れが、真の「統合」とは程遠いものであったことを示している。

「見えない壁」を作らないために
  問題の根源は、深く根ざした社会的差別の壁への移民や外国人労働者の反抗である。 国境の開放度を広げ、外国人の受け入れを緩やかにしても、国境の内側に「見えない国境」が幾重にも存在している。

  日本も合法・不法を併せて100万人近い外国人労働者を抱えている。しかし、外国人労働者について長期的にいかなる対応をするのか、不透明なままである。現在のような状況を放置しておけば、同様な事態が発生しないという保証はない。この事件を教訓として、外国人労働者の社会的統合のあり方について、徹底した検討と長期的視点に立った方向性を明示すべきである。

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ロボットは人間を超えるか

2005年11月06日 | 仕事の情景

トヨタのロボット(ヒュマノロイド)

ロボットは人間を超えるか


高いロボットの出生率  
  最近の国際ロボット協会と国連の統計によると、世界で「働いている」ロボットの数は急速に増加しつつあるようだ。多目的型の産業用ロボットの販売(価額)は、昨年世界全体で17%伸びた。そのうち日本は稼動台数で35万台以上を占めている。世界最大のロボット王国だ。生産性を考えると、100万人を超える数のロボット労働者が働いているともいえる。ドイツなどいくつかのヨーロッパ諸国でもロボットは増え始めた。ロボットの出生率(?)はきわめて高いのだ。

人間の嫌がる仕事をするロボット 
  なぜロボットは増えているのか。この背景にはいくつかのことが考えられる。ロボットが多数働いている国は、日本、ドイツ、アメリカなど先進国が多い。イタリア、韓国、台湾、フランスなどがこれに続く。これらの国では、とりわけ製造業での人件費が高く、人手不足が進行している。ロボットはその不足を埋めているのだ。
  
  この点については、いずれの国でも失業者が多いではないかという疑問があるかもしれない。確かに若者、中高年者などの失業者は多い。しかし、彼らは仕事の空きがあっても、必ずしも仕事に就くというわけではない。自分のやりたい仕事がなければ、働かない。

  1980年代後半に、日本のマスコミが使い、その後世界に知られるようになった「3K労働」という領域がある。若者が就労しないので、使用者は不況下にもかかわらず人集めに苦労する。外国人労働者など不安定な供給源に頼ることにもなる。しかし、安定した操業のためには、安定した労働力の供給が望ましい。

人間のできないことをするロボット 
  このような状況では、ロボットはきわめて頼りがいのある働き手である。ロボットは「誕生」すると、その日から直ちに働くことができる。教育や訓練の期間も必要ない。不満もいわず、ストライキをすることもない。工場の照明が消えていても、黙々として働く。 もちろん、今日の段階では、ロボットが活躍する領域には一定の限度がある。

  ロボット労働者は、今のところ臨機応変な対応が常に要求されるような仕事は苦手だが、仕事の内容が定型化できるような職場は人間以上に得意である。自動車工場の溶接、塗装など、労働条件がきびしい職場は、最初にロボットが導入された職域である。

  ロボットの生産はしばしばロボットが担っている。ロボットがロボットを作っているのだ。人間の労働者がほとんど見えない工場で、ロボットが黙々と?動いているのは、その意味を考えると衝撃的である。  

  こうして誕生したロボットの生産性は高い。人間の労働者の何倍もの仕事をしてくれる。先進国では人間の労働者の賃金は高い。人口も多い開発途上国の賃金と比較すると、他のコストが同じならば、太刀打ちできない。しかし、トータルな生産性を考えると、ロボットが活躍する余地は大きい。中国、ヴェトナムなど賃金コストの低い海外への仕事の移転が懸念される産業でも、再び生産の場が日本へ戻ってくる可能性も高い。 日本の出生率の反転上昇がほとんど見込めない以上、ロボットに期待する部分は大きい。

ロボットに税金をかける日? 
  対人サービスなど、複雑な対応が要求されるサービス業では、ロボットの「職域」はおのずと限度がある。しかし、これからのサイボーグ技術の発展を考えると、数十年後には人間とほとんど変わらないロボットが生まれる可能性はきわめて高い。もしかすると、アンドロイド(人造人間)として、日本のように働き手が少なくなる一方の人間労働者に代わって、ロボットが課税対象になる時が来るかもしれない**。 

  台湾で開催された国際会議で、「新しい仕事の世界の次元」Emerging Dimensions of a New World of Workというテーマで、こうした内容を一部に含めた話をした。時間が短いこともあってか、聞いている人たちは半信半疑、冗談を聞かされているのではないかと思ったようだ。遠い未来の話と思ったのかもしれない。 

  しかし、たまたま目にしたNHKスペシャル番組「立花隆:サイボーグ技術が人類を変える」を通して、技術の最前線は私の想像以上に進んでいるのを知って衝撃を受けた。ジストニア(身体が意思とは関係なく動いてしまう病気)、パーキンソン病などが、脳コンピューター技術で日常生活に支障ないまでに改善されるのだ。人工内耳の発達で、難聴の子供がヴァイオリンを弾けるまでになる光景が示される。その光景は感動的ですらある。


ロボットが人間を支配する時
  そればかりか、脳コンピューター・インターフェイスの発達は、脳を操作することまで可能になっている。遺伝子操作とともに、人類が科学技術をコントロールする力を失うと恐ろしい事態も生まれかねない側面もある。この分野の先端にいる科学者の話では、数年後にはこれらの技術は実用化段階に入るとしている。遺伝子工学も科学技術の進歩の名の下に、次第に規制が緩められている。科学技術の社会的コントロールは可能なのだろうか。TVを見ながら、あまり長生きをしない方が良さそうな気がしてきた。



Reference
NHKスペシャル番組「立花隆:サイボーグ技術が人類を変える」
 2005年11月5日
http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/soukyoku/2005/10/005.pdf

**「ロボットから税金を取る日は来るか」
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/eb3831765220f8a5d38b7aff405cb0a0

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高学歴社会の断面:台湾に見る光と影

2005年11月05日 | 会議の合間に
広大な台湾大学キャンパス

「超学歴社会」の台湾


  10月末から再び台北へ出張する。1ヶ月に2度同じ国へ行くことは、過去には何度かあったが、最近では珍しい。前回と同様、今回も国際会議(国際労働法・社会保障法会議)での報告のためだが、立て続けに英語・中国語だけの会議が続くと、かなり疲れる。しかし、この国は幸いなことに日本語が堪能な人も多く、ほっとすることも多い。朝から夕方まで会議の後は、さまざまにもてなしてくれる。その暖かい歓待ぶりには感謝の言葉もない。しかし、翌日の準備などもあり、夜11時過ぎに、ホテルに戻るとブログを書く余裕もなくなってしまう。

  会議の合間のティータイムや宴会の折に、この国について色々なことを教えてもらう。そのひとつに、初対面の人と交換する名刺のことがある。前から気づいていたことだが、台湾や韓国では名刺に自分が卒業した大学、大学院、学位、肩書きなどを記しているいる人が非常に多い。中には過去の職位や兼職、名誉職など、表裏にわたって白地の部分がなくなるほど記載している人もある。これだけ自己顕示しないといけないのだろうかという思いがする。他方、日本でも政治家などに、「--議員」という肩書きと氏名だけを特大の活字で記載している人が多い。事務所の住所さえ記されていない。これも別の意味での強い自己顕示の表れである。

「高学歴病」のもたらすもの
  この点を隣に座った台湾の友人に話したところ、彼は競争が激しい社会での生存競争の一面という解釈を示してくれた。台湾はいまや世界一の超学歴社会であり、国民中学から高級中学及び高級職業学校等への進学率は約95%、高級中学から大学(含専科学校)への進学率は約70%に達しているとのこと。

  結果は歓迎すべきことばかりではない。就職市場は大学卒業者で溢れかえり、大学院、それも外国の大学などの学位がないと、就職試験の時も優位に立てないと、「高学歴病」の弊害を冗談まじりに話してくれた。うんざりするほど自己顕示しないと、目だたないのだ。

  かなり以前に閣僚を経験したある友人から、台湾の閣僚は、世界一の高学歴だという話を聞いたことがあった。そこで閣僚名簿を見てみるとほとんどが国立台湾大学を始めとする有名な大学卒、かなりの閣僚が修士・博士号の保持者ばかりであるのに驚いたことがある。現与党の民進党内閣でも陳水扁総統を始め、高学歴、弁護士などの資格保持者が圧倒的に多い。台湾では博士号がないと、大臣にはなれないと冗談もある。

高い進学率の先に見えてくるもの
  進学率が高まり、ほとんどの若者が大学へ行く時代になっても、有名大学を目指す動きは変わらないようである。以前より少し減ったような印象もあるが、街中には中高生を対象とした「補習班」と呼ばれる塾の看板が目立つ。このままではタクシー運転手に応募するにも大卒の学歴が必要になるかもと、冗談のようで現実味を帯びた話になる。

  さらに、学歴の高さだけでは差がつかなくなり、男だとハンサム、女だと美人でないと目だないという風潮が生まれているとのこと。個人の真の実力ではなく、学歴、容貌など形式的な面で人間を判別することに向かっていることが話題となる。 こうした社会的風潮を意識して、台湾でも入試制度の改革や大学の特色を生み出す努力が行われている。そして、受験生が自らの責任で理想の大学を選択できるようにと新たな方向設定が始まった。しかし、人間の評価ということの難しさを改めて感じさせられる。

  話題はたまたま台湾の変化についてであったが、日本も無縁ではない。名刺の表記から始まった話題が教育制度、人間の評価ととめどなく広がってしまった。
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