時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

時代の空気を伝える画家(11): 海を愛した画家

2023年12月24日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

L.S. Lawry,  On the Promenade, Sunderland also called Man Looking out to Sea (1964) oil, on canvas, 34 x 24 cm
L. S. ラウリー《海辺の遊歩道、サンダーランド》(海を眺める男)

老人と海
波風立つ海は、あたかも人生の戦いのようだ。私は生涯を通して海が好きだった。海はなんと素晴らしいことか。そしてまた、なんと厳しいことか。しかし、しばしば思うことがある。もし海が心変わりし、波風も立つことなく、潮の流れも変わることがないとしたら。とどまることなく、ただひたすら流れ去っていくだけであったら ・・・・それは全ての終わりなのだろう。

ひと時も留まることなく移り変わる海。どれだけの人たちが独り、こうして立ち止まり海の尊厳さに対したことだろう
Howard, p.225


画家ラウリーの画業生活にここまで付き合ってこられた方は、この画家の画題の対象が単に「産業風景」indusstrial landscapes に留まることなく、時代のあらゆる領域に及んでいたことに気づかれただろう。

実際、この稀有な画家が描いた対象は、枚挙にいとまがない。産業革命がもたらした暗鬱な工場群の描写に始まり、そこに住み、生活する人々の日常の細々とした情景をあたかもスナップショットのように描いている。その多くは通常の画家ならば、一顧だにしない光景である。画家は地域に溶け込み、目に止まった光景を厭わず描き続けた。半世紀以上を隔てた今日、写真では感じられない、時代の空気が伝わってくる。そこにはほとんど生涯を通して住み続けた地域と人々への深い愛が感じられる。

ラウリーは晩年には制作の対象を風景画の領域にまで広げ、多くの作品を残した。とりわけ、人物が登場していない山や海を描いた作品には、画家の心象風景が映し込まれている。

ラウリーの画業生活をよく知らない人たちが、これらの風景画に接すると、同一人物とは気づかないほどだ。多くの作品には人物などが描かれていない。


ラウリーは1976年2月23日、グロソップのウッズ病院(Woods Hospital in Glossop)で死去。死因は肺炎、88歳。9月、ラウリー最大の展覧会がロンドンのロイヤル・アカデミー・オヴ・アーツで開催された。

ラウリーの海の作品から



L.S.Lawry, Stormy Seascape (1968),  oil on board, 21.6 x 55.9cm, part
L.S.ラウリー《荒波立つ海》部分

ラウリーの小さな海のスケッチだが、画家の海との情熱的な関係ばかりでなく、小さな画面に波立つ海面のリズミカルな動きを巧みに描写している。





L.S. Lawry, Yachts, Lytham St. Anne’s, 1920, pastel on paper, 27.9 x 35.6cm
L.S.ラウリー《ヨット》
どことなく、ターナーの作品を思い浮かべる雲と海。



L.S. Lawry, The Sea, oil on canvas, 76.6 x 102.3cm
L.S.ラウリー
《海》
ただただ、平穏な海


References
Howard, Michael, LOWRY A Visionary Artist, Lowry Press, 2000.
Rosenthal, T.G., L.S.LOWRY: THE ART AND ARTIST, Unicorn Press, 2010.

Wishing you a Merry Christmas !




続く
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時代の空気を伝える画家(10): ラファエル前派への思い

2023年12月15日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

L.S. ラウリー 《アンの肖像》
L.S. Lowry, Portrait of Ann 1957, oil on board, 35.5 x 30.5cm,  The Lowry Collection, Salford


L.S.ラウリーは、アンという女性の肖像を多く残している。画家をよく知る人たちは、描かれた女性アンが実在したことをほぼ疑わないが、それが誰であったかははっきりしていない。アンの様式化された容姿は、明らかに抽象的で理想化されている。実際のところ、ラウリーの心の内はよく分からないところがあるラファエル前派(後段NB参照)のような画面の華やかさは感じられないが、ラウリーが傾倒したロセッティの女性像への彼なりの回答なのかもしれない。実際、ラウリーが収集したラファエル前派の作品は、ロセッティを主とする画家の手になる女性像が多かった。

しかし、ラウリーは収集家である Monty Bloomに次のように語っていた。「ロセッティの描いた女性は、本当(real)の女性ではない。彼女たちは夢の産物だ。彼は多分妻の死によって頭の中に生まれた何かを絵にしただけだ。」(Rosenthal 2010, p.261)。

それにしても、華麗な作風のラファエル前派の作品と、ラウリーの画風は一見結びつき難いように思えるが、ラウリーにとっては「印象派」と並び、「ラファエル前派」が時代を革新する先駆者であるとの思いが強かったのだろう。その一つの代表例が、ラウリーの作品にたびたび描かれている謎めいたアン Ann という女性の描き方であった。ここに掲げたのは、アンを描いたラウリーの作品からの一枚である(上掲)。


画家の複雑な心理
L.S.ラウリーという画家は、作品を数点を見ただけでは、この画家の全容はよく分からないところがある。作品の数も多い上に、画家の関心もきわめて多岐にわたっているからだ。しかし、次々と作品を見ているうちに、いつとはなく引き込まれ、フリークになっていく。

ラウリーの話をイギリス人に話題にすると、自分の家にもプリントが掛かっているよと応じてくれる人は多い。それだけ、家庭にも浸透して国民との距離が近く親しみやすい画家なのだ。

印象派とラファエル前派への強い関心
ラウリーは、ともすると印象派についての理解、習得が浅いのではと批判されることもあったが、その点は前回記したように大きな誤解であることが判明した。さらに、19世紀中頃に勃興したラファエル前派にも多大な関心を抱いていた。なかでもダンテ・ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828-1882)の作品に深く傾倒していたようだ。そして、生涯の後半から1970年代までは同派の作品を余裕がある限り、熱心に購入、収集していた。最も多く作品を保蔵していた頃は、ロセッティの作品だけで17点もあったといわれる。「印象派」と並び「ラファエル前派」が果たした時代における創造性、革新性に気づいていたのだろう。

ラウリーは、同派の作品、とりわけロセッティ作品を「夜寝る前に」そして「朝目覚めた時に第一番に目にしたい」と言い、自分の寝室に掲げていたらしい。昼間は不動産会社の集金人として働き、夜だけの画業しかできず、晩年まで決して裕福とはいえなかった。しかし、贅沢な生活をすることもなく、自宅には後年、画家の死後、ラウリー自身の作品と彼が所蔵していたラファエル前派の作品を併せ展示する特別展が開催されるほどになっていた。

『ラウリーとラファエル前派』LOWRY & THE PRE-RAPHAELITES: MAJOR EXHIBITION SET TO CELEBRATE LS LOWRY’S LOVE OF 19TH CENTURY ARTIST MOVEMENT
3 September 2018〜24 February 2019.


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N.B.
ラファエル前派(ラファエル前派、Pre-Raphaelite Brotherhood)は、1848年のイギリスにおいて3人の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ(英語読みではミレース)を中心に、数人の画家を加え結成されたグループ。「ラファエル前派兄弟(同盟)団(Pre-Raphaelite Brotherhood)」という名前は、彼らがラファエロ(1483-1520)以前の初期ルネサンスやフランドル芸術を規範としたことに由来している。

ラファエル前派によると、彼らは初期ルネサンスやフランドル絵画に見られる豊かな色彩と精密な自然描写に理想を見出す一方で、アカデミーの規範となっているラファエル以降の16、17世紀のルネサンスおよびそれ以降の芸術を、構図、色彩など表現方法が全てにおいて規制された抑圧的で不十分なものと考えた。ラファエル前派は、ルネサンス以降のアカデミーの伝統を拒否したため厳しい非難を浴びたが、ラスキンのように擁護者もいた。彼らはラファエルの画法がアカデミックな美術の教え方に悪影響を与えたという考えの持ち主だった。彼らが自らの考えに「ラファエル前派」という旗印を掲げたのはこのためだった。
次第に彼らは社会に受け入れられるようになったが、グループ自体は長続きしなかった。それにもかかわらず、ラファエル前派がその後の世界に与えた影響は計り知れず、特に絵画においては象徴主義の最初の一派として評価されている。19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった。
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ラウリーとラファエル前派
ラウリーはラファエル前派の画家たちの作品を積極的に収集していた。購入先は主にニューカッスルのストーン・ギャラリー Stone Gallery が多かった。彼はしばしば訪れ、その地のロセッティ協会の会長でもあった。

ラウリーのごひいきの作品をひとつ:



ダンテ・ガヴリエル・ロセッティ
《東屋のある牧草地で》油彩、カンヴァス, 1872年
マンチェスター市立美術館
 Dante Gabriel Rossetti, The Bower Meadow
1850–1872s,oil on canvas,
86.3 x 68 cm
Art Renewal Center 
Public Domain

ラファエル前派というと、下掲の作品を思い浮かべる方もおられるかも:


ダンテ・ガヴリエル・ロセッティ
《プロセルビナ》
Tate London 2014
「ラファエル前派展」2014年

REFERENCE
T.G.ROSENTHAL, L.S.LOWRY: THE ART AND THE ARTIST, Unicorn Press, 2010
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ガザに光が射す日は

2023年12月07日 | 特別記事

ガザの夜間照明時系列推移(2012~2023)




人口衛星によるガザの夜間照明画像(2023年10月22日)
Source: NASA, The Economist November 11th 2023


ハマスのイスラエル攻撃が開始された直後から、本ブログの小さな記事(2012年11月23日)にアクセスが急増しているのに気づいて驚いた。記事はオルダス・ハクスリーの小説『ガザに盲いて』Eyless in Gaza (1936)を題材とした小文に過ぎないのだが。偶々冒頭部分が今回の戦争の実情にほとんど当てはまってしまうことに我ながら驚かされた。人類はなんと愚かなことを反省もなく繰り返しているのだろうか。しかも、事態は悪化の一途をたどっている。


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ハクスリーは1911年に角膜炎に罹患し、ほとんど失明状態となったが、その後拡大鏡を使えば文字が読めるほどには回復したが、視力の弱さは彼の生涯を通して、記憶、思考などの思索的活動に決定的な影響を及ぼし、1937年には治療のためにアメリカに移住するまでになる。
ハクスリーはガザに住んだわけではない。表題はジョン・ミルトンのサムソンの苦悩, Milton's Samson Agonistesからとられている。

『ガザに盲いて』は、ハクスリーの作家としての活動において、決定的な思想的転換を形成した作品とされている。作家個人としては神秘主義への傾斜、そしてそれに基づく社会活動としての平和主義への道であった。本書は全54章から成るが、時系列の叙述ではなく、断片化された上で1902年から1935年までのいずれかの時点を行き来し、最終的には各断片が再集合され、見事な自伝的小説の世界を築き上げている。
世界を良くするためには個人の改良が必要で、その第一歩が自己改良だと認識した平和運動家としての主人公アントニーを描く作者の言葉には改めて胸を打たれる。
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暗黒のガザ
ガザをめぐる惨憺たる状況について、偶然にも The Economist 誌上の一つの記事*が目に止まった。ガザにおける夜間の照明光度に関する記述である。NASAの人工衛星(1時間に地球1回転)による地域の照明度の状態が材料になっている。この衛星の力を借りて、2012年から今日まで、ガザ地域が発するさまざまな照明光度の時系列的変化を追うことができる(写真上掲)。

従来、ガザでは電力のおよそ3分の2は、イスラエルの電力網から直接供給されてきた。残りの燃料のほとんどはガザの発電所で使われる輸入原油であった。通常の時でも供給は不足気味であった。資金に余裕のある家庭などは、ディーゼル発電や太陽光発電で不足分をまかなっていた。

‘Darkening Days’ The Economist November 4th 2023, pp.39-40
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今回ハマスがイスラエルを攻撃し、1400人以上のイスラエル人を殺害したことから始まった戦争では、イスラエルは2008年以来初めて、ガザへの電力と重油の供給を遮断した。これによって、ガザは過去10年間には経験したことのない「暗黒の夜」を過ごすまで追い込まれた。この闇の暗さはその背後に展開する悲惨な殺戮の実態と表裏の関係になっている。

上掲の時系列推移で見ると、戦争以外の要因でガザの光度が増減している部分もある。例えば、2017年には発電所の資金調達をめぐってハマスと競争相手のパレスティナ電力当局との間の紛争で18ヶ月の電力不足が起きている。

しかし、この度の戦争ほど電力不足が危機になったことはない。10月11日までにイスラエルは電力供給を遮断、ガザの発電所は重油燃料の途絶を経験した。私有の発電設備がしばらく稼働したが、まもなくそれも途絶し、多くの病院、医療機関などが深刻な電力不足を伝えている。

イスラエル・ハマス・パレスティナ:解き難い難問
イスラエルとハマスの戦いは、とりわけイスラエルの強硬な姿勢で戦慄、目を覆う状況に至っている。イスラエルは標的をハマスに設定しているといっているが、いまやほとんどパレスティナの全市民が無差別殺戮の対象になっている。一般の民間人が平静に日常生活を過ごせる場所は、無くなっている。イスラエルとハマスは長年にわたり、市民を巻き込む憎悪と殺戮という「悪魔の罠」から抜け出られない。一般市民が無残に犠牲になる残酷な光景は見るにたえない。人間はなぜこのように残酷に争うのか。この地域の紛争は日本人ばかりでなく、西欧の多くの人々にとっても寛容と忍耐の限界を超えたようだ。イスラエル、ハマス両者共に人間としての良識、道徳心を喪失しているとしか言いようがない。

ガザにおける戦争に現段階では決着はついていない。ハマスが守勢に回っていることはほぼ明らかだが、16年間も政権を掌握してきたハマスは、ガザに深く根を下ろしている。イスラエルがこの地でハマスに勝利を収めたとしても、その反動も決して小さくはないだろう。イスラエルがガザに残した殺傷、破壊の結果は、IT上で遠い日本の地で見ても明らかだ。

何人かいるユダヤ系友人に今後の見通しを尋ねても、口数は少ない。パレスティナ問題は、彼らにとっても答えが出ないほどの難題なのだろう。ましてや日本人には並大抵の知識では理解し難い難問だ。

それでもガザにおける戦争は、いずれは終息を迎える。殺伐、荒涼たる光景が残されるだろう。しかし、そこにハマスが見えなくなっても戦いが終わることはない。真の終わりはほとんど見えていない。

漸くその後のあり方についての構想が議論されるようになっている。しかし、その多くは希望が感じられない。イスラエル人とパレスティナ人の間で、構想されるのは再び「2国家解決」案  two-state solution なのだろうか。しかし、有効な解決案となりうるだろうか。

新たな争いの始まりへ
パレスティナ人からすれば、目前の殺伐たる国土、無惨に殺戮された同国人が瞼に浮かぶ限り、イスラエルの海に浮かぶ小さな断片のような自国  ’Gaza Strip’ を再生することは、不安と恐怖そして新たな復讐の再現そのものではないだろうか。プルーストと異なり、アンソニー(『ガザに盲いて』の主人公)にとっては、記憶は過去の破滅的殺戮、嫌悪と復讐の引き金になるばかりではないか。

ガザに光が戻る日は


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N.B.
「川から海へ」“From the river to the sea’; 「パレスティナは自由になる」’’Palestine will be free!”
最近のパレスティナ人の若者たちのデモに掲げられたこれらのスローガンは、いずれも完全な独立国家としてのパレスティナの確立、そしてイスラエルの排除を求める暗喩といわれる。「川から海へ」は、ヨルダン川から地中海、そして自由を意味し、その地域からのイスラエルの排除が想定されている。そして後者の「パレスティナは自由になる」はイスラエルの破壊を暗に意味しているとされる。パレスティナ人でこれらのスローガンを見る者は、その意味を知っている。来るべき戦い、「文化の戦争」はすでに始まっている。

’The culture war over the Gaza war’ The Economist November 4th, pp.52-54
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REFERENCES
‘Dread, disagreement and delay’ The Economist October 28th 2023, pp.18-20
’No place for a war’ The Economist October 21st 2023, pp. 15-18
‘When the shooting stops’ The Economist, do, pp.19-20
‘Darkening Days’ The Economist November 4th 2023, pp.39-40
’The culture war over the Gaza war’ The Economist November 4th, pp.52-54
‘Truce and saved lives’ The Economist November 25th 2023, pp.41-42
’The end of the beginning’ The Economist November 28th 2023, pp.37-38
Aldous Huxley, Eyeless in Gaza, Vintage, Penguin Random House, UK, (1936) 2004

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