この国の国民にとって、花といえば桜である。誰もが愛し、様々な思いを重ねる桜、その開花の時を迎えた今年の春は、例年と異なり特別な感慨を与えるものだろう。ブログ筆者にとっても、いつになくこころぜわしい。ひとつの時代が終わり、新たな時代が始まるということにとどまらない。この国の未来、そして世界のあり方に様々な思いが心をよぎる。とは言っても到底、ここに書き尽くせる様なものではない。
チューリップの来し方
ここでふと、もうひとつの花のことを思い出した。以前にはしばらく記していたチューリップのことだ。年々、秋に球根を植え、春に開花するのを楽しみにしてきた。今でも相変わらず、秋には球根を植えている。植える時期、植え方、種類などによって開花のあり方が微妙に異なる。しかし、期待を裏切ることなく、春ともに地上に芽を出し花を開く。その自然の摂理にさまざまなことを考えてきた。今年は今、開花の時を迎えている。桜の開花とほとんど時を同じくしている。
「チューリップ・バブル」の真実は
チューリップというと、思い出すのはオランダであり、その黄金時代の光と陰だ。数年前に読んだいわゆる「チューリップ・バブル」に関する一冊の本*のことを思い出した。このテーマに関する書籍の数はおびただしく、一般向けのタイトルだけでもどれだけあるか、チューリップに囲まれるように住んでいる友人のオランダ人に尋ねてもよく分からないという。
「チューリップ・バブル」というと、通説では1930年代半ば、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の黄金時代に、当時のオスマン帝国からもたらされたチューリップの球根が異常に高騰し、そして、1637年には突如として急激に下落し、社会的な混乱と国家財政的破綻を引き起こし、世界史上初めての投機的バブルとされてきた。ある種類の球根は1932年当時の10倍くらいに高騰したとされる。この急騰・下落によって数千の投資家が破産したといわれる。結果として、オランダの商業を中心に、経済も大打撃を受けたとされ、資産価値がその内在価値を大幅に逸脱して下落し、関係筋に大きな損失を与える現象という意味で、後年比喩的にも使われるようになった。
フィクションの支配からの脱却
他方、結果としてもっともらしいが、「チューリップ・バブル」として、必ずしも実証的裏付けがない群集心理的フィクションが多数出回り、リスクが見えない愚かな騒ぎという、事実とは離れたバブル観が作り上げられてきた。このチューリップ・バブルも信頼しうる統計・資料などで理論的に論証されたものではなかった。誇張も多く実態ともかけ離れていたイメージが形成されてきた。その経緯が次第に明らかになり、出来うる限り事実に即した理解への修正がなされるようになった。ここで取り上げるアン・ゴルガーの著作*1もその方向に沿っての大変優れた作品と言える。この著作は以前にも取り上げ近い将来補足をしたいと考えていた。今回改めて読み直してみた。
ロンドン、キングズ・コレッジの初期近代史の研究者アン・ゴルガーは当時の取引資料などを広範かつ詳細に検討し、一般に伝えられる内容とは異なり、当時のチューリップの球根1株の価格は、まずまず穏当なものであり、破産に追い込まれた取引業者や投資家などの数は今日伝えられるほど多数のものではなかったようだ。こうした調査に基づき、彼女はこのチューリップの球根価格の変動はオランダの経済というよりは、当時興隆していた市民階層の生活態度、文化的価値観、彼らが熱狂したチューリップという花の美しさなど、従来通説となっていた狂乱した経済という見方を大きく書き換えて見せた。顧客が好む花の美的・芸術的側面、それを生み出すための科学的努力と模索など当時の関係者が抱いていたチューリップという花について抱いていたイメージ、市場で歓迎される花の球根の育成、市場化、取引の仕組みなどが、当時の史料に立ち返り、再構成されている。
歴史家の目
大変精緻に書き込まれ、それまで流布していたオランダ経済の大きな栄光と狂乱的破滅というイメージとは、きわめて異なったオランダ社会の文化的側面を提示している。これは、フェルメールについての作品だけに重点を置いた見方を改め、画家とその家族をめぐる制作の裏側により着実な光を当てた経済史家モンティアス*2の分析に通じるものがある。
17世紀のヨーロッパは、その先端にあったオランダのような近代的市民層の勃興によって全てが支えられていたのではなく、現代世界のように、絶えざる戦争、気象変動、飢饉、悪疫、貿易などの国際的関係、政治、宗教的衝突など、多くの要因によって揺れ動いていた。
桜と同様にチューリップの開花期間は短い。二つの花が咲き誇る様を眺めながら、しばし花と人間の関わりを考えていた。
References
*1 Anne Goldgar, TULIPMANIA: Money, Honor and Knowledge in the Dutch Golden Age, Chicago: The university of Chicago Press, 2007.
*2 John Michael Montias. Vermeer and His Milieu: A Web of Social History. Princeton: Princeton University Press, 1989.