時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

良い年となりますように:時代が背負う新たな課題

2014年12月23日 | 特別記事

 

 2014年はさまざまな意味で多難な年であった。とりわけ日本にとっては、3.11の苦難が未だいたる所に感じられる過程で、悲惨な土砂災害、火山噴火などの自然災害が相次いで発生した。世界的にも、異常気象、大気汚染、戦争、テロリズム、財政破綻など、枚挙にいとまがないほど多くの問題が発生し、それらはほとんど未解決のままである。

 21世紀はまだ始まったばかりである。20世紀の後半の50年と比較しても、その異常さは注目される。世紀の区分は歴史上の人為的な設定に過ぎないといっても、世紀の始まりには、人々は将来への希望や期待の広がりを感じるし、世紀の終わりには、「世紀末」的といわれる厭世的、末期的あるいは退廃的とみられる現象も生まれる。

 このブログでは、美術との関連で、しばしば17世紀に立ち戻っていた。30年戦争に代表される戦争、異常気象による飢饉、疫病、魔女裁判など、複数の危機が重層的に発生する
事態が、当時の世界には見られた。しかし、17世紀は、ヨーロッパだけを見ても、バロック美術の栄光を誇ったローマ、ルイ14世のフランス、市民社会が発達したオランダ、フェリペ4世のスペインの繁栄など、 輝きの感じられる場面が同時に存在した。


 人類は進歩したのだろうか。21世紀の行方には明るさや光はあまり感じられない。 そればかりか、人口、地球温暖化問題を始めとして、地球の危機を予感させるような不安材料に充ちている。「イスラム国」問題に見られるように、宗教的対立は、狂信的な様相を呈し、宗教の問題は近世初期のように急速に人々の関心事に浮上している。

 これからの時代は、単に経済的危機の次元ばかりにとらわれていては理解できない。経済学は急速にその古典的正統である政治経済学の方向へと傾斜している。政治家、そして政治家を支える人たちは、これまで以上に広い視野を持つ必要に迫られるだろう。政治家ばかりの問題ではない。この地球に住む者は誰もがそれぞれに問題を真摯にかんがえることから避けがたい。その広がりは遠く深く、新たな道につながっている。マララさんの言葉を借りるまでもなく、その基盤となる教育のはたすべき課題も
、これまでになく大きな転機にさしかかっている。

 新しい年が平穏であることを祈りながら。

 

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画きたくないものも画いた画家:L.S.ラウリーの世界(16)

2014年12月17日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

  この写真はなにを撮ったものでしょう。少し古いイギリスの写真ですが、すぐにお分かりの方は、社会の日常、細部についての観察眼のおありの方と自負されて間違いないでしょう。(以下画像はワンクリック)

 最近、日本でもこれと似たような風景に接する機会が多くなってきました。いままではとりたてて変哲も無い光景と思っていましたが、自分自身がその場に身を置くと、かなり違ったものに見えてきました。

 この短いシリーズで記してきた現代イギリスを代表する画家のひとりであるL.S.ラウリーは、自分が人生のほとんどの時間を費やしたイギリス北部マンチェスターの地域を愛し、そこに生きる人々に与える産業の変化、そしてその中で暮らす住民の日常の生活をさまざまに画いてきました。この画家の素晴らしいところは、普通の画家が美的感情を抱かないような対象にも、観察の眼を向け、その日々の情景を画き抜いたことにあります。その一端はこれまでも[L.S.ラウリーとその世界」のタイトルで、このブログで紹介してきたとおりです。


アンコーツ病院待合室の情景
 少しずつ、種明かしに入りましょう。上記の写真は20世紀末時点で、マンチェスターにあるアンコーツ病院の外来風景を撮影した一齣です。この病院は当初1828年に地域の貧困者のために開設された診療所でしたが、1874年に拡張し、その後アンコーツ病院として拡大・充実されました。現在は、近代的設備を備えた地域の拠点病院となっています。

 1950年代初期、ラウリーは地域の産業盛衰、多くは衰退する光景を画くことから、次第にその影響の下に生きる人々の日々を細部にわたって画くようになりました。そうしたときに、この病院の活動に大きな功績のあった外科医 Peter McEvedy を追悼、記念するための作品を、病院の理事会がラウリーに依頼し、画家はその仕事を引き受けました。病院理事会は、長くこの地域に住み、その来し方を細々と画いてきたラウリーを好んだようでした。

 画家はいつもの手順でまず、外来待合室の光景をスケッチしました。ラウリーは自らのスケッチに基づき、油彩画に仕上げることを通常の制作のステップとしていました。この時のスケッチが残っています。ご参考までに掲載しておきましょう。

 その後、たまたま、病院側が制作の参考までにと画家に渡したのが上段に掲げたモノクロ写真です。カラー写真ばかり見慣れていると、薄暗く感じられますが、実際には蛍光灯が備えられ、長いベンチが置かれた普通の中規模病院の外来風景でした。ラウリーは自分のスケッチを基に、渡された写真も参考にしながら、それに縛られることなく、自らが重要と考えた画家の目で、外来待合室という刻々変化する一場の情景をユニークに描き出しています。ちなみに、この待合室はその後の改築され、現在は病院のX-ray撮影部門になっています。

ラウリーのスケッチ
作成時点不明、黒チョーク、鉛筆および水彩、画用紙、
27.2x38.1cm

 最後に作品の油彩画イメージを掲載しておきます。スケッチや写真と比較してみると、すべての人物や位置の細部は書き換えられていますが、病院外来待合室の雰囲気はそのままに、画家がとらえた当時のアンコーツ病院の外来の情景が巧みにとらえられています。


L.S. Lowry
Ancoats Hospital Outpatients Hall,
1952,, oil on canvas, 59.3x90 cm

『アンコーツ病院外来待合室』 


 ラウリーはマンチェスター地域の産業の盛衰、とくにそhの衰退過程が地域の人々の日常生活にいかなる影を落とすかについて、画家として鋭い目で観察してきました。以前に記したように、地域の不動産会社の集金掛として勤務し、その仕事に努める傍らで、地域の時々の変化を多数の作品にしてきました。

作品に描かれた待合室が意味するもの
 油彩の作品(中段の画像)を見ると、一見して古くなった室で天井からは簡単な蛍光灯が下がり、左上方には明かり取りの窓がついています。ここが病院の待合室らしいと分かるのは、右側に医師らしい白衣の若い男が立っていること、その後ろに車いすの人がいること、さらに頭に白い包帯をした人が画かれていることなどから推測ができるでしょう。

 病院側が参考にと手渡した写真とほとんど同じアングルです。油彩に画かれた人々に、笑顔はなく、皆それぞれ身体や心に問題を抱え、おしなべて不安げに無表情に画かれています。画家は地域の産業の衰退過程が、住民の社会的、経済的面に暗い影  'down and outs' を落とし、それが病院で診察を待つ人々に反映していることに注目しました。画家はその人たちにある脆弱性を感じたようです(Sandling & Leber, 73)。地域の衰退・崩壊がそこに住む人々の健康状態、精神状態に影響を及ぼしてしていることを読み取っていたのです。ラウリーの描写は、病院外来待合室というともすれば陰鬱になりかねない情景に対して、ある明るさを維持しながら、そこに集まった人たちの精神的光景を的確に写し取り、見る人に伝えています。


 この病院待合室という、およそ普通の画家であったなら最初から考えもしないような情景を描こうと思ったL.S. ラウリーの作品には、地域とそこに住む人々への深い愛情がこもっています。画家自身、せいぜいロンドンへ行ったくらいで、外国にも行かず、マンチェスター地域で生涯を送りました。一見、稚拙に見える画風でありながら、十分に画作の技能修得を積み、当時の写真を超える練達した手法で病院外来待合室の雰囲気を今日に伝えています。


現在のアンコーツ病院風景 

 

続く


追記(2014/12/20) 

 クリスマス・シーズンにちなんで最近はクリスマス・カードを書いたり、送ったりすることが少なくなってしまいました。それでも、この季節に届く友人たちからの手書きの近況や挨拶が入ったカードにはいつも心がなごみます。ちなみに、イギリスの首相を務めたハロルド・ウイルソン(Harold willson, 1916-1995, Labour)は、私が注目する戦後のイギリスの政治家のひとりですが、故郷が北イングランドのHuddersfield であったこともあってL.S. Lowryの作品を好み、クリスマス・カードに使っていました。そのウイルソンと画家の作品に関わる記事をリンクしておきます。以下のアドレスをコピーし、アクセスしてください。
http://www.dailymail.co.uk/home/event/article-2345087/LS-Lowry-Northern-Soul-He-genius-joker-The-real-Lowry-oldest-friend.html

 

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キンドルもなかった時代の老舗名書店:残っていたトートバッグ

2014年12月09日 | 午後のティールーム



ニューヨーク市5番街にあった名門書店スクリブナーの
トートバッグ(1960年代末)


 このブログを開設するにあたって、「午後のティールーム」というきざな名前のコーナー(笑)をつくりました。ブログ記事の多くが、初めての読者の皆さんにとって、少し硬い、とりつきにくい内容になることをあらかじめ予想したからでした。最近はその傾向が一段と強まっています(笑)。

 ブログを始めたころは若い世代の人たちが主な対象だったこともあって、ソフトなトピックスを話題とするコーナーも置きたいと思っていました。実際は日常の諸雑事に追われて、なかなか考えた通りにはなりませんでした。しかし、折に触れ出会う友人・知人たちから知らないことばかりで面白い(?)などの感想を聞くと、少し複雑な気分ですが、なんとか閉店せずに続いてきました。

ゆとりのなくなった時代
 また1年が終わろうとしています。多事多難な時代、のんびりとカフェでお茶を楽しむ余裕がなくなってきました。町中のカフェもスターバックスやドトールなど、チェーン店が目立つようになりました。こうした店では
人々がせわしなく出入りし、なんとなく落ち着きません。雑事を忘れ、静かな一時を楽しめる店は少なくなりました。若いころはなにかと忙しかったけれど、心にゆとりがあったと感じています。

 いつの間にか12月になっている身辺を見回すと、今年もさまざまな本、書類、未開の段ボールの箱などがあたりを埋め尽くしています。少しは風景も変えねばと思い、長年放置してあった箱を開いてみました。そのひとつから、ここに掲げたトートバックが出てきました。私以外にはなんの感慨も引き起こさない代物です。見たとたんに脳細胞が急速に活性化し、これは認知症の新薬?より効果がありそうと実感したほどです。その一端を記すことにしましょう。

風格のあった書店
 皆さんのなかで、「チャールズ・スクリブナー」 Charrles Scribner's Sons という書店(出版社)のことをご存じの方がおられれば、かなりの読書家、書店の専門家か記憶力抜群の方でしょう。19世紀中ごろに生まれ、かつては、アメリカを中心に世界に知られた老舗書店でした。この書店のことは、少しばかり、「午後のティールーム」の開設のお知らせに書いたことがありました。それからすでに10年近い年月が過ぎていました。

 このトートバック、処分してしまった記憶もなかったのですが、まったく忘れていました。バッグには、 THE SCRIBNER BOOK STORES と書店名が記され、 New York、Williamsburg と書店(本店、支店)の所在地を示しています。Amazon などまだなかった時代、かなりの本をこの店から買いました。当時、書籍を買った時に、店でこれに入れてくれたのでしょう。懐かしいこの書店のファサードが印刷されています。Williamsburg の店にも思い出があるのですが、今回はニューヨークの店に限ることにします。


在りし日のスクリブナー書店入口

 この書店 Charles Scribner's Sons は、1846年に創設され、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ヴォネガット、トーマス・ウルフ、ジョージ・サンタヤナなど数々の大作家の作品を出版してきました。当時は世界的な有名書店・出版社でした。この書店が手掛けた作品の多くは、ピュリツアー賞、ナショナル・ブック・アワードなど数々の賞を受賞した作家だったり、後に大作家となった人たちのものでした。ヘミングウエイやトルーマン・カポーティなどは頻繁にこの店に来ていたようです。ニューヨーク・マンハッタンの5番街(Fifth Avenue)597にあった、この建物自体は、1912-13年に、同社のフロントとなる書店のために建てられました。


 開業していた当時から、店に置かれていた書籍も厳選され、その後急速に拡大した大型安売り書店とは店内の雰囲気がかなり異なりました。
(ちなみに、設立時の1893年からチャールス・スクリブナー社の本社が置かれていたFifth Aveue 153-157には、建築家アーネスト・フラッグによってボザール様式で設計された、古いスクリブナー社のビルがあり、これは1980年にNational Register の史的記念対象建造物として保存されています)。ここで話題とする5番街597の建物も同じ建築家に依頼され、同社のフロント店舗として設計されました。こちらも、建築家フラッグの理想とした様式が設計に最大限発揮されているとみられています。

 フラッグの設計で、高級書店のモデルとして構想されたこの店舗の5番街に面した入口は、きわめて特徴ある鋳鉄の柱とガラスが使われ、2階までの大きなガラスのファサードが豊富に日光を店内にとり入れ、明るい店内をつくりだしていました。筆者が関心を持った分野は主として2階にありました。ここには立派な木製で可動式の梯子が置かれ、それを書棚に沿って移動させ、高い棚にある書籍を取り出していました。大変頑丈に作られていて、今日の書店に多い踏み台の比ではありません。

  有名な店舗であったために、多数の逸話も伝えられています。ヘミングウエイは自分のことを侮辱した論評を書いたある編集者を呼び出し、一発お見舞いしたとか、フィリピンのイメルダ・マルコス大統領夫人が店に展示してある皮装の書籍を表題、著者にかかわらず、同じタイトルでも皮革の色さえ違えば、すべてお買い上げになったなど、興味深い話があります(エメルダ夫人亡命時に残されたおびただしい数の靴の話はよく知られていますが、この時の本はどこにいったのでしょう)。

閉店した老舗のその後
 栄枯盛衰は避けがたく、時が過ぎて、1978年にこの歴史ある出版社はアテネウム社と合併し、スクリブナー・ブック社となりました。さらに1984年にはマクミランの傘下に入りました。そして、1994年サイモン・アンド・シュスターがマクミランを併合しました。創業者の曾孫にあたるチャールス・スクリブナーIV世も引退し、この著名な書店も幕を閉じました。ニューヨークその他にあった書店店舗の多くはバーンズ&ノーブルの店舗になったようです。そして、スクリブナーの方は、 サイモン&シュスター(書籍部門)とゲイル(資料部門)の両社が親会社になっています。

 スクリブナー書店が入っていた5番街の建物は、1990年代にベネトン・グループが買い取り、書店は賃貸料の安い地域へ移り、その後ブレンターノ書店、ベネトンの衣料店、化粧品の店などに変わりました。建物自体は所有主が転々として、今はさる不動産会社の所有になっているようです。

 スクリブナー書店の店舗であった時代は、上に掲げたトートバッグのように美しいファサードを持っていました。有名な建築家アーネスト・フラッグがデザインしたボザール Beaux Arts 様式です。日射しを避けるために赤や緑のラインが入った日よけが印象的でした。冬季などは、入口にドアマンがいて、重厚なガラス扉を開閉してくれました。

 1970年代に入ると、割引した書籍を大量販売するバーンズ・アンド・ノーブルのような大型書店が出現し、こうした風格のある落ち着いた書店は急速に姿を消しました。

 

 

 Charles Scribner&s Sonsの歴史を
記した銘板 

 建築家フラッグが自分の人生をかけた作品と述べたこの歴史ある建物は、かつての書店店舗時代を知る人にとっては、歴史記念物であることを示す銘板などで、当時の面影をしのぶことができるとはいえ、店の内容が変わってしまうと、創業者たちが描いた静かで格調高い書店の雰囲気はもはや感じられません。電子書籍が急速に増加している時代、未来の書店の姿はいったいどう変わるのでしょう。

 



 12月10日の『クローズアップ現代』 で本を読まない学生の問題が取り上げられていました。どうして今頃になってという感はぬぐえないのですが、取材スタッフもIT時代の流れに取り込まれたのか、切り込み方も平凡、現場に遠く、新鮮な問題意識が欠けている印象でした。

 

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「印刷と美術のあいだ」展: 真摯に学び、教えた人たちの群像

2014年12月01日 | 午後のティールーム

 

グーテンベルグ聖書ルカ伝の1ページ
印刷博物館の展示では、この聖書の精巧な
模造モデルも見ることができる。この聖書
をめぐっての最近の話題については、
別途記したい。 



 このところ、一回の記事が長くなっている。ある程度意図した結果で、管理人の記憶力衰退を補う覚え書きの面が強くなっているためである。iPhone, iPodなどの小さな画面では読みにくい。PCなど大きな画面でお読みいただくことをお勧めするしかない。 

 


 異なった地域や国の間で、美術や工芸の技術がどのように伝達されてゆくかという問題(技術移転)にかなり関心を持ってきた。その一端は最近のブログにも記したことがある。たまたま『印刷と美術のあいだ:キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本』(印刷博物館)という展示が行われていることを知り、出かけてみた。地味なテーマということもあるのか、上野の博物館・美術館界隈の混雑とは打って変わった静けさの中で、ゆっくりと見ることができた。かねてから興味を持っていることもあるが、大変充実した時間を過ごすことができた。水準の高い展示内容で、ご関心の向きにはお勧めである。

 新しく発見したり、確認できたことは、あまりに多くてブログにはとても書き切れない。ひとつだけ記してみたい。キヨッソーネ Edoardo Chiossone (1832-1898、昔の教科書などにはキヨソーネ、キヨソネなどと表記されていたように記憶)とフォンタネージ Antonio Fontanesi (1818-1882)の2人のイタリア人のことは、概略知っていたが、記憶を新たにするため、簡単におさらい?すると、次のようなことである。

 エドアルド・キヨッソーネは、1875年(明治8年)、明治政府が紙幣を国内で製造するための技術者として、さらにその技術を継承する者を育成・教育するために、イタリアから招聘された。日本の風土が合ったのか,その後16年間にわたり,印刷局に勤め、退職後も帰国することなく日本で生涯を終えた。版画家として、凹版を中心とした銅版彫刻の技法を職人に伝授し、さらに偽造防止を目的とした石版印刷の研究なども行った。展示を見ると、その功績がいかに大きなものであったかが伝わってくる。

 ちなみに、日本はそれまでドイツのドンドルフ・ナウマン社に紙幣(ゲルマン紙幣)の製造を発注していた。キョッソーネは、当初未だ国家的統一がなされていなかったイタリアで最有力であったイタリア王国銀行で嘱託職員として採用され、ドンドルフ・ナウマン社へ派遣され、凹版彫刻、凸版などの製版技術を習得中であった。しかし、雇用条件などをめぐり紛争があったようで、キヨッソーネは世界的な紙幣印刷会社・デラルー社へ就職し、ロンドンに移っていたらしい。

 明治政府は破格の雇用条件を提示して、お雇い外国人技術者として日本へ迎えたようだ。「破格」の内容が実際にどのくらいのものであったかは明らかにされていなかったが、明治24年の退職時の待遇(退職慰労金3000円、終身恩給年額1000円)、明治31年日本で死去した際には築地の天主堂から青山霊園まで,儀仗兵が守って埋葬したなどの記録を見ると、明治政府や日本の関係者が彼に払った尊敬の念も多大であったことが推測できる。

 キヨッソーネは欧米からの最新技術・機械の調達などに持てる知識を十分に提供し、日本側の努力もあって、東洋一の技術者と機械設備を持つ大蔵省の大紙幣工場を東京、大手町にわずか数年で建設するにいたった。

  この人物はお雇い外国人技術者としては、当初の日本側の想像以上に優れた凹版彫刻画家・技術者としての能力を持っていたようだ。日本人技術者の養成、教育にも大変熱心だったようで、彼の退職後は印刷局も技術者不足に悩まされたようだ。

 このブログでも、ジャック・ベランジェ、ジャック・カロなどの17世紀銅版画家の生涯と作品について多少記しているが、展示されているキヨッソーネの作品を見ると、徹底したリアリズムに驚かされる。紙幣にはその国の著名な人物の肖像画が使用されることが多いこともあって、写真と見誤るくらいの精密な作品が残されている。

   他方、アントニオ・フォンタネージは1876年イタリアから来日し、工部美術学校で西洋画を担当する画学教師に着任したが、病気を理由に契約の4年よりもはるかに短い2年で帰国した。しかし、フォンタネージに学んだ生徒たちは、日本を代表する画家へと育っていった。1898年には彼らが中心となり、日本で初めての洋画家の団体、明治美術会が結成され、これには石版画工も参加し、その後の印刷に大きな影響を与えた。

 フォンタネージは滞日期間は短かったが、工部美術学校などでの教育面で、学生、画壇などに大きな影響を及ぼしたことが、展示されている作品などから十分にみてとれる。とりわけ、リトグラフ(石版画)は得意であったようだ。見事な教材もも制作、提供している。

 さらに、当時フランスから帰国した浅井忠を始めとして、小山正太郎、五姓田義松、岡村政子、亀井至一、亀井竹二郎、福富源治郎、中村不折などの画家たちの作品も展示されていて、当時の画家や書家たちの水準の高さを知ることができる。これらの画家の作品を見るのは久しぶりのことで、浅井忠、中村不折などの書画は、一時期よく見ていたので大変懐かしい思いがした。

 また、印象に残ったのは、工部美術学校での教師となったフォンタネージが描いた教材(たとえば、『風景』)を美術学校の生徒が鉛筆などで模写した作品が保存され、展示されていたことだった。きわめて正確に模写されており、当時の生徒たちの研鑽ぶりを偲ばせるものがあった。教師としてのフォンタネージは生徒の尊敬する対象でもあったようで、フォンタネージが帰国のため退職すると、後任のイタリア人教師がいたにもかかわらず退校してしまっている者がいたことからも分かる。教師のあり方を考えさせる。明治という時代、教える者も学ぶ者もまっすぐに生きていた。

 富岡製糸場を見学した際にも、思ったことだが、明治の人たちの技術習得に際しての強い向上心と努力、それに応えたお雇い外国人たちの異国での技術伝授の真摯な対応に改めて頭が下がった1日だった。


 
Reference
カタログ『印刷と美術のあいだ:キヨッソーネ
とフォンタネージと明治の日本』 2014年

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