時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

暑中お見舞い申し上げます

2012年07月25日 | 午後のティールーム

 

夏やせのお勧め

 現代人にとって「肥満」は大きな関心事だ。ちなみに「肥満」は英語では obesity といい、ラテン語の obesitas (太っている)が語源のようだ。この言葉、現代では単に少し太っているというのではなく、病的に太っているという含意があるようだ。英語で使われるようになったのは17世紀初めらしい。

 中世ならびにルネサンス期においては、肥満はしばしば富裕さの象徴とみられ、とりわけ役人や王侯貴族の間に多くみられた。

 典型的な例としてよく登場するのが、イタリア、トスカナ地方長官アレッサンドロ・デル・ボッロ The Tuscan General Alessandro del Borro なる人物の絵画であり、説明するまでもなく、見事な?体型である。実は、この画像を描いた画家が、前回忘れられていた画家として紹介したシャルル・メランなのだ。1645年の制作とされている。当時は恐らくこの体型が、富裕と権力のシンボルとみられていたのだろう。そういえば、ブルボン王朝の王たちも総じて立派な?体型の方が多い。

Portrait d'homme, autrefois dit Alessandro del Bprro
dit Giovanni Paolo Schor
Berlin gemäldegalerie Alte Meister, inv.413A
Huile sur toile; H: 2.03; L.1.21

 


 この問題、書き始めるときりがないので終わりにするが、実は、前回宿題?にしておいた、シャルル・メランの作品 La Charité romaine「ローマの慈愛」のテーマについては、最初作品を見てその由来を知った時
、一瞬言葉を失ってしまった。「ローマの慈愛」あるいは「キモンとペラ」とも名付けられている作品だ。この題材は、ローマの歴史家ヴァレリウス・マキシム Valerius Maximusによって語られた逸話から派生したらしい。キモン(Cimon)は牢獄で餓死の刑に処せられたが、彼の娘ペラ(Pera)は毎日牢屋を訪れ、看守の目を盗み、彼に母乳を施すことによって餓死を免れさせた。看守は気づいたが、その慈善的行為に深く打たれ、キモンを釈放した。獄中での餓死を余儀なくさせられた老父を訪れて授乳し,その献身的行為によって父の命を救った娘の孝行物語なのです。

 画題としては、ちょっと引いてしまうテーマなのだが、17-18世紀の画家たちはことのほかお好みのようで、ルーベンス、カラヴァッジョ、マンフレディ、バビュレンなど、名だたる大画家たちがとりあげてきた。


 今回は、先日まで東京に来ていたルーベンスの作品を掲げてみます。こちらは「痩せすぎ」のはずなのですが。

 

 

Cimon et Péro, P. Rubens, 1612
Huile sur toile 140.5 x 180.5cm
Saint-Pétersbourg, Musée national de l'Ermitage

 

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シャルル・メラン;再発見される画家

2012年07月19日 | 絵のある部屋

 

 
La Charité romaine
Paris, musée du Louvre, department des Peintures
Huile sur toile; 0.97 x 0.73 (partie)

この絵をめぐる
話には、ただただ驚くばかり(いずれ種明かしを)



   前回まで記したディケンズについては、興味深い点、語るべき点は山ほどあるが、このブログの柱ではないので、ひとまず離れることにしたい。ただ、『アメリカ紀行』と並んで、ディケンズが書き残したもうひとつの紀行文『イタリアのおもかげ』Pictures from Italy (1846)からの連想で、このブログの中心的関心領域である17世紀美術をめぐるイタリア(とりわけ、ローマ)とフランス(パリ)の関係について少し記してみたい(ディケンズのPictures from Italyについては、改めて記したい)。

すべての道はローマへ

 美術などの交流という視点からすれば、古くから世界の文化の中心であったローマは、中世以来多くの文人、芸術家が訪れる光輝く憧れの地であった。そして、16世紀頃から始まったグランド・ツアーなどの影響もあって、貴族など上流階級などにとってのイタリアは、自らの教養を高める上でも一度は訪れるべき聖地のようになっていた。文人ばかりでなく、画家、彫刻家、建築家なども、しばしば徒弟修業の段階からイタリアへ向かった。

 17世紀初めジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ、育った頃は、ロレーヌを含め、フランスやオランダなど北方諸国から多数の芸術家あるいは芸術家を志す者が、イタリアを修業の地と定め、旅をした。そのうち、かなりの者は彼の地で修業の時を過ごした後、故郷に戻り、そこで斬新なアイディアの下に画業活動を始めた。しかし、プッサン、クロード・ロランのように、一時はさまざまな理由でフランスに戻っても、再びイタリアへ行き、彼の地を生涯の活動の場とする者も少なくなかった、生まれ育った故国を離れた後、イタリアに住み着き帰国することのなかった者も多い。

北と南の文化交流の道
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのように、少なくとも記録としては、イタリアへの旅が確認されていない画家でも、ユトレヒト・カラヴァジェスキなどの影響を受け、イタリアの風を感じ取った画家もいる。実はこの時代に限っても、美術などの情報は、たとえば、フランスからイタリアに向かう一方通行ではなく、逆に北方フランドルなどからイタリアへの情報が流れるなど、双方向の文化交流があった。それも、単に人の流れにとどまらず、作品の売買、寄贈などによる移動、有形無形の情報の伝達などさまざまであった。この事実は、ユトレヒト・カラヴァジェスキが生まれた流れをみると明らかだ。この間の絵画マーケットの形成も注目すべきジャンルだ。

 興味深い問題は数多いのだが、今回は日本ではほとんど知られていない画家の例として、シャルル・メラン(Charles Mellin, 1597-1649)について少し記したい。ロレーヌ生まれの画家だが、イタリアへ修業に赴き、彼の地に落ち着いて再び帰ることがなかった。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとほとんど同時代、バロック期の画家である。生まれたのは、ロレーヌのナンシーであったが、画家としての修業はイタリアで行った。あのクロード・ロランのように、メランはカルロ・ロレネーゼ Carlo Lorenese (ロレーヌのカルロ)とあだ名を付けられていた。

完全に忘却されていた画家たち
 シャルル・メランは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同様に、ロレーヌの生まれでありながら、フランス美術史の上では、20世紀初めまでほとんど完全に忘れ去られていたという共通点がある。今回、取り上げるシャルル・メランにいたっては、最近漸く作品や生涯のほぼ全貌が判明し、再評価されつつ画家なのだ

 実は、最近マスコミなどの力で、ブームが作られている感じが強いフェルメールなども、しばらく前までは、ほとんど注目されない画家だった。管理人がオランダを最初に訪れた1960年代では、フェルメールの作品の前は、ほとんどがら空きだった。最近の日本では、17世紀ヨーロッパ美術の世界は、フェルメールとレンブラントくらいしか注目すべき画家がいないような、妙な雰囲気が作り出されている。相当の美術好きな人でも、ニコラ・プッサン、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを知らない人は多い。かなり歪んだ美術観が浸透している。しかし、実際には17世紀美術の世界は、はるかに豊かで広がりがあるのだ。シャルル・メランやラ・トゥール、カロなどが生まれたロレーヌでは、後期マネリスムの時代、1580-1635年の間に限っても、ナンシーだけでおよそ260人の画家と20人の版画家たちが活動していたといわれる。しかし、そのほとんどはいまや名前も作品も分からない。この埋もれ隠された世界に多少でも入り込んでみたい。

 美術に限ったことでは必ずしもないが、もっと広いスコープで17世紀という
時代を見直したいというのが、このようなささやかなブログを続けている原点にある。そのため、多くの美術史家からすると、奇妙に思われるかもしれないことを記している。

 閑話休題。さて、メランが得意としたのは、主として壁画だった。ローマのサン・ルイギ・デイ・フランセシ教会などの壁画を描いている。メランはニコラ・プッサン、ジョヴァンニ・ランフランコなどとこの仕事を競い合った。その水準は当時、第一級の水準に達していた。プッサンのような飛び抜けた才能には恵まれていなかったが、その力量は十分に当時の先端に位置づけられる。シャルル・メランが「再発見」された2007年ナンシーでの企画展カタログでは、巻頭でピエール・ローゼンベールが、シャルル・メランとニコラ・プッサンの比較・評価を行っている。

 画家の力量、作品は、しばしば後世の美術史家、鑑識家などによって不当な評価を受ける。メランやジャック・ステラは、その点でかなり割を食ったようだ(この点は、忘れられていたメランの全体像を紹介した2007年の企画展カタログにも記されている)。

 メランは画業生活の初期の頃は、ローマにいたシモン・ヴーエの影響を受けたり、共に仕事をしたことがあった。この点は、この時期のメランの作品にはっきりと現れている。上記、カタログにも詳細な記述がある。しかし、その後ヴーエがパリに去ると、作風も変わる。ドメニチーノ Domenichino の影響も受けたようだ。

 ヴーエがローマを離れた後、メランは貴族で公爵のムティ・パッパズーリ家の専属画家となった。そして、1628年から31年にかけて、ムティ宮殿(概略は現存、下掲)の装飾を担当した、その一部は今日まで残っている。さらに、かれはムティ家の二人の息子(アマチュア画家)に絵画制作の技法を教えた。今日までムティの名で残る作品は、実際にはメランがほとんど制作したとの推測もある。

le palais Muti Papazurri, puis Balestra, Rome
クリックすると大きなイメージに 

 ローマではトリニータ・デイ・モンティ教会のフレスコ画なども制作した。1643-47年にかけては、ナポリに滞在し、教会関係でいくつかの仕事をしている。作品には壁画やフレスコ画が多いため、戦火などで滅失した作品が多い。今日残る作品を見ると、きわめて美しく、多くの点で画家の力量をうかがわせる。

 下に例示的に掲載した『聖エティエンヌ』、『ガリレオ・ガリレイ』、『若い男の肖像』などの作品を見ても、この画家の生きた世界の一端が伝わってくる。作品にはきわめて興味深いものが多い。今後、研究が進めば、17世紀の美術世界についての理解は一段と深まるだろう。


Saint Étienne
Nantes, musée-des Beaux-Arts
Huile sur toile, 0.61 x 0.485




Galileo Galilei, dit Galilée (1564-1642)
Rome, collection particuliére
Huile sur toile, 0.67 x 0.505

  

Portrait de jeune homme
Paris, musée du Louvre
Huile sur toile, 0.635 x 0.49

作品の帰属に大いに議論があった。画家の自画像である可能性も
ないわけではない。

Exhibition Catalogue

Charles Mellin, un Lorrain entre Rome et Naples, Commissioned by Philippe Malgouyres, 21 septembre – 31 decembre, 2007, Musée des Beaux-Arts de Cae Musée des Beaux-Arts de Nancy. Pp.327

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産業革命の父?、産業スパイ?:サミュエル・スレーターの人生

2012年07月12日 | 書棚の片隅から

 

田園的環境の中に建設されたマサチュセッツ州ウオルサムのローウェル設計の繊維工場

左手工場建屋の前にはチャールズ川が流れる。従業員宿舎は林間に点在。
1814年当時の絵画
Source:The 100 events that shaped America, LIFE Special Report

ちなみに、この絵は、1975年刊行の写真雑誌 LiFE 「アメリカを創った100の出来事」に掲載されている。
この歴史を飾った著名雑誌も、2000年5月をもって最終号となった。


 




 ディケンズ・シンドロームは、なかなか抜けてくれない。まだかなりのめり込んでいる。作品を読んでいる間に、さまざまなキーワードが思い浮かんで、あれもこれもと確かめたくなる。ディケンズはまだ手にしていない作品も多く、生きている間にあと何冊読めるだろうかと思う。前回話題とした『アメリカ紀行』は日本の読者の間では、あまり面白くないとの感想もあるようだが、読む人の関心の深さによっても異なるようだ。管理人は数回目なのだが、読むたびに新しい発見がある。


 前回とりあげたローウエル訪問についても、日本の多くの人々にはその意義がつかみにくいかもしれない。しかし、当時(19世紀初め)のイギリス、アメリカ双方の国民にとって、この地はさまざまな意味で大きな注目の的だったのだ。この点を少し書き足してみよう。

 ディケンズ自身がその作品で、さまざまに描いているように、当時のイギリスの産業の労働条件は、繊維工業にとどまらず多くの分野で、児童労働を含めて苛酷、劣悪なものであった。それでも、産業革命の覇者イギリスは、世界の最先進国だった。ディケンズを含めて、イギリスの読者は、新大陸アメリカではかなり理想に近い工場システムが実現しているとの報道に多大な関心を抱いていた。当然、その実態を知りたくなるだろう。ディケンズがわざわざローウエルを訪れた最大の理由はそこにあった。


戦略的重みを持った繊維産業
 19世紀初期のイギリス、アメリカ両国にとって、繊維産業はいわば今日のIT産業に相当するような最重要な戦略産業であった。産業革命以来、世界の先進国であったイギリスは、繊維産業の技術が新大陸に流出することを極力警戒し、繊維関連機械の輸出禁止、関連印刷物の国外持ち出しを厳禁していた。繊維技術は、当時の最先端技術だったのだ。イギリスは世界をリードする繊維産業を擁していた。

 そこにサミュエル・スレーター Samuel Slater(1768ー1835)なる人物が登場する。スレ-ターは、イギリス生まれのアメリカ人企業家だった。スレ-ターは、イングランド、ダービーシャー、ベルパーの農家の8人兄弟の5番目として生まれた。家庭は貧しく、ほとんど小学校程度の教育しか受けられなかった。10歳の時、近くのクロムフォードに作られたアークライトが発明した水力による木綿製糸工場に働きに出た。しかし、1782年父親が世を去ると、彼は工場主ストラットのところへ徒弟奉公に出された。スレ-ターはここで最新の繊維生産技術について、十分な修業を受けた。そして21歳までに、木綿紡績の工場運営についての知識を完全に体得した。

 当時、スレ-ターは、新大陸アメリカで同種の機械の開発に関心が生まれていることを聞き及んだ。他方、イギリスの法律が機械のデザインを国外へ持ち出すことを厳禁していることも知った。スレ-ターは覚えられることをすべて記憶にとどめ、1789年にニューヨークへ向けて旅立った。

驚くべきスレーターの記憶力
 その後の展開を見ると、スレーターが厳重な警戒体制の下で、どこまで膨大な技術知識を文字通り「体得」して、いかなる形で実際の場で生かしたかという点については、きわめて興味深い問題が多々ある。たとえば、複雑な繊維機械の構造、工場建屋、宿舎などの付属施設、さらには労働者の雇用条件まで、ありとあらゆる側面に、彼の考えや知識が生かされているからだ。


 スレーターがアメリカへ到着したこの年、アメリカ、ロードアイランド州ポタケット(これも繊維産業史では大変著名な場所)に水力を利用して、繊維工場を建設しようとしていた企業家ブラウンがいた。技術はイギリスのアークライト方式に倣ったスピンドル・フレームをなんとか設計、設置したが、実用にならず頓挫していた。
 
 このことを知ったスレ-ターは、当の企業家ブラウンに、「イギリスで生産される木綿糸の品質に匹敵する製品が生産できなかったら、自分が提供するサーヴィスへの対価は一切いらない。その代わり、そこでなしとげたことはすべて川へ放り込む」と豪語して、工場建設への技術サービスの提供を申し出た。そのために要する投資の資金、得られた利益は折半の約束で、1790年両者は契約した。そして、途中いくつかの不備、欠陥はあったが、1791年にスレ-ターは工場が操業できるまでにこぎつけた。そして、1793年スレ-ターとブラウンは、ポタケットの工場を正式に開設した。

 スレ-ターは、当時のイギリスの工場で実用化されていたアークライト方式の機械の問題を知り尽くしており、アメリカでの実用化過程で、いくつかの独自の改良も加えた。ちなみにスレ-ターの妻ハンナ・ウイルキンソン・スレ-ターも綿糸の改良で、アメリカ女性として最初の特許取得者となった。



ロードアイランドでサミュエル・スレーターによって設計、製造された水力紡機。
1790年代にイギリスで使われた48スピンドルモデルに近い。
ワシントン・スミソニアン・インスティチューション
大きなイメージを見るには、画面をダブルクリック



評価が二分したスレーター
 大西洋を隔てて、サミュエル・スレーターのアメリカ、イギリス両国での評価は、大きく分かれることになった。アメリカではアンドリュー・ジャクソン第七代大統領が「アメリカ産業革命の父」と称えたが、イギリスでは「裏切り者のスレ-ター」にされてしまった。実は、この間のサミュエル・スレターとさまざまな関係者の動きは、十分に小説になるほど波乱万丈の面白さなのだが、とてもここには書きつくせない。


   
 スレーターのシステムでは、当初は繊維工場に雇用されたのは主として女性と子供(7-12歳)であった。しかし、その後は男性も含み家族のメンバーを対象とするようになった。要するに家族のメンバー全員を雇用する仕組みである。今でいえば会社城下町だが、工場の近くに宿舎、日用品店舗などを作り、教会の日曜学校を支援して子供たちに読み書きを教えたりした。

 スレーターはその後、多くの工場を建設するなどして、1829年にはSamuel Slater and Sonsと称する自分と息子が経営する企業に編成替えし、アメリカを代表する企業のひとつにまで育てあげた。特に、1807年にイギリスがアメリカへの繊維品の全面輸出禁止に踏み切ったこともあって、ニューイングランドの繊維産業は隆盛の時を迎える。


競争力を誇示したウオルサム・システム
 1800年代には、前回記したフランシス・キャボット・ローウエルが大変効率の良い木綿糸・織布の一体工場をマサチュセッツ州ウオルサムに建設。ローウエルの死去した後、「ウオルサム・システム」はきわめて成功し、技術的効率と高い株式配当で注目を集めた。その後、ローウエルの志を継いで、大規模にウオルサム・システムを採用したローウエルの町は、世界に知られるようになった。工場は当時としては画期的な同じ建屋の中での連続生産工程が採用されていた。新大陸では労働力は希少であったため、近隣の農家の若い女性を主力に雇用した。工場で働く労働者の七五%は女性だった。彼女たちは会社が建設した瀟洒な寄宿舎に住み、そこにはハウスマザーズといわれる舎監役の女性がいた。そして、工場では経験やスピードに応じて、毎週$2.50から$3.00が支払われた。これは現代の人には低いように思えるかもしれないが、当時のアメリカの産業では図抜けて良い報酬だった。そして、当時の先進国イギリスをはるかに凌いだ。ちなみに、男性は女性の2倍以上支払われたが、彼らは主として熟練工や監督者だった。こうした労働力構成のため、ローウエルの労働コストは強い競争力を持っていた。



Factory Girls と呼ばれた繊維工場で働く女性たち
Philip S. Foner ed The Factory Girls, University of Illinois Press, 1977, cover


 ディケンスがローウエルをわざわざ訪れたのは、イギリスのシステムをはるかにしのぐ隆盛ぶりが世界に聞こえていたこの企業を自分の目で見たいと思ったからだった。当時のヨーロッパの繊維工場の労働はイギリスを含め、「人間以下」Untermenschenと呼ばれた劣悪な状態であった。児童労働を含む低廉、劣悪な労働条件で経営が行われていた。

 

Sir Samuel Luke Filds,

"Houseless and Hungry"
1869, woods curving
Museum of London, details

ディケンズの時代、家なく、飢餓に苦しむ人々を描いた著名な木版画
 
 
  しかし、こうした牧歌的雰囲気を残したローウエル・タイプの企業は、1850年代になると激化した市場競争と新大陸への大量の移民流入によって、急速に競争力を失い、経営が立ちゆかなくなる。良き時代は急速に失われて行く。

 資本主義がすさまじい展開を始める時代の到来である。



* この記事を書き終えた時、ロンドン・オリンピック参加のアメリカ選手団のユニフォームが、帽子から靴まですべて中国製ということが判明、議論を呼んでいる。全部作り直せという強硬論もあるらしい。自分の着るユニフォームが、Made in China と分かった選手たちの心境は? ニュースのタイトルは、「いったい、どうなってるの」というような意味だが、どうなるでしょう。

"The US uniforms are made in China. How can it be?" ABC News, July 12th 2012.

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ディケンズのアメリカ: ローウエルへの旅

2012年07月03日 | 書棚の片隅から

 


チャールズ/ディケンズ『アメリカ覚え書き』ペンギン・クラシックス、
カヴァーの図柄は複数ある。
Charles Dickens, American Notes,edited by Benita Eisler, 
Penguin Classics, 1842, 2004, cover(various)

 

 『ローウエルだより』 表紙
The Lowell Offering: Writings by New England Mill Women (1840-45),
Harper Colophone books, 1977. cover





  「ディケンズ・シンドローム」にかかると、なかなか抜け出せない。なにしろ世界に文豪の名をほしいままにしてきたディケンズだけに、いずれの作品も読み出すと、手放せなくなる面白さがあって、結局それまで続けていた仕事を放り出して、読んでしまうことになる。今回も『大いなる遺産』を読んでいる間に、いくつかの気になる「キーワード」を思い出し
、『アメリカ紀行』などを読むことになった。実はこの作品、興味深い点が多々あって、これまでに数回は読んでいるのだが。

 ディケンズは生涯に二度(1842、1867年)、新大陸となったアメリカへ旅している。アメリカは、1783年に独立を達成したが、その後、ヨーロッパから多くの文化人が訪れた。チャールズ・ディケンズ(1812-1870)もそのひとりだった。

ディケンズ最初のアメリカ
 ディケンズ、最初の旅は、1842年1月から約半年間、アメリカの主として北東部から中西部の一部を旅している。ディケンズ29歳の時であった。しかし、文筆家として彼の名はすでに新大陸で広く知られていた。

 ディケンズが旅したこの地域は、個人的にも印象深い地が多く、読む度に数々のことが思い浮かんで、とてもブログなど書いていられないほどになる。
ちなみに、この旅でディケンズは、今日ニューイングランドといわれる北東部(ボストン、ニューヨークなどを含む)、セントローレンス川の流域カナダ側、ケベック、モントリオール、トロントから5大湖をナイアガラを経由、エリー湖から大草原地帯のシンシナティ、ルイヴィルなどオハイオ川をセントルイスまで行っている。 さらにニューヨークから南下し、フィラデルフィア、ボルティモア、ワシントン、リッチモンドまで旅した。

ディケンズが旅した地域、邦訳 6-7。 英語版にも簡単な地図がある。

 南部や西部、太平洋岸などへは行っていないので、アメリカ全域を知るということにはならないが、ディケンズという大作家が、当時のアメリカの社会のディテールをいかに感じたかが、生き生きと伝わってくる。

邦訳に出会う
 
これまでは、Penguin Classics の英語版で読んでいたが、たまたま書店で本邦初訳と銘打った文庫二冊(ディケンズ著『アメリカ紀行』、伊藤弘之・下笠徳次・隈元貞広訳、岩波文庫、2005年、原作1842年)が目に入ったので、今回はこれを読んでみた。英語版テキストは、アメリカとイタリアへの旅行記を同一書籍に含めたものも多いが、この文庫では別になっている。イタリア紀行も大変興味深く、これについても、記す機会があるかもしれない。




 
 この旅行記で、ディケンズは訪れた新大陸のさまざまな光景について、母国イングランドと比較しながら、賞賛やアイロニーを含めて生き生きと記している。
なかでも、大変興味深いのはアメリカと比較して、イングランドにおける社会福祉の遅れが指摘されていることだ。ディケンズがさまざまな作品で描いているヴィクトリア朝時代の労働や社会福祉の実態とアメリカのそれが比較されている。とりわけ個人的に興味深いのは、この作家がボストンから当時著名な繊維工業の町であったマサチュセッツ州ローウエル Lowell, Massachusettsまで脚を伸ばしていることだ。ローウエルは、ディケンズなどの著名人の訪問で、さらに有名になった。

 この町ローウエルは、知る人ぞ知るアメリカの繊維産業にとって記念すべき地である。起業家フランシス・カボット・ローウエル(1775-1817)によって、1813年、ウオルサム Waltham にアメリカ最初の木綿繊維工場が建設された。ローウエルの死後、1826年にコンコード川とメリマック川の岸辺に、ローウエルの同僚であったボストン・アソシエイツの設計によって、アメリカ最初の木綿繊維工業の都市として建設された。世界的に有名になり、チャールズ・ディケンス、デイヴィ・クロケットなど、世界中から著名人が訪れた。工場の発達とともに、ヤンキー・ミル・ガールズ(アメリカ人で繊維工場で働いた若い女性たち)に始まり、アイリッシュ、ドイツ、フレンチ・カナディアン、ジューイッシュ、ポルトガル、ポーランド、ヒスパニック、中国などアジア系移民が働くところとなった。

 ディケンズの訪問の目的は、当時すでに世界的に知られるようになっていたこの新しい工場の仕組みを、自分の目で確かめることにあった。実際に現地を見たディケンズには、母国イギリスの劣悪な労働条件の工場とは比較にならない、規律のとれた清潔な職場に見えたようだ。とりわけ、ディケンズはそこで働く若い女性たちの健全さに強い感銘を受けたようだ。彼は次のように記している:

 「私はここで厳かに明言するが、私がその日いろいろと異なる工場で見たすべての人の群れの中で、私に痛ましい印象を与えた若い人の顔は一つとして思い出すことも取り上げることもできないし、また、自分自身の手による労働によってその日の糧を得るのは当然のことであると考えたとして、私にその力があればそこでの労働から解放してやったであろうにという思いを抱かせるような若い娘も、一人としていなかった。」(邦訳 pp.150-151).

 さらに、ディケンズは次のようにも記している:

 「 ここで三つの事実を申し上げようと思うが、それは大西洋のこちら側の大多数の読者をびっくり仰天させるだろう。
   第一に、非常に多くの寄宿舎に共同出資によるピアノがある。第二に、ほとんどすべての若い女性たちは貸し出し図書館に出資している。第三に、彼女たちは『ローウエルだより』という名の定期刊行物─「工場で活発に働く女性たちによってのみ書かれた、独創的な記事の宝庫」 ─を自分たちで作成している。そして、それは、それ相応に印刷され、刊行され、売られる。私はそのうちの中身の濃い400ページをローウエルからはるばる持ち帰り、始めからおしまいまで読んだ。」(邦訳 p.153)。

 さらに、彼はこうも述べている:

 両国を比較したらその対照は強烈なものとなるだろう。というのも、それは「善」と「悪」、清明の光と暗黒の影という対照になるであろうから。それゆえ、そのような比較はしないことにする。そのほうが公正だと思うから。そこで、それだけにいっそう、これらのページに目を向けてくれるすべての人々に切に懇願するしかないのだ。しばしば立ち止まってこの町とわが国のどうしようもない犯罪の巣窟との違いをよく考えていただきたい。〔中略〕そしてまた、最後に、これが最も重要なことだが、貴重な「時間」がいかに猛スピードで過ぎ去っているかを思い出していただきたい。」(邦訳 pp157ー158)。



 ディケンズがイギリスの工場労働の苛酷・劣悪な状況と比較した時、このローウエルの工場の斬新さ、清潔さ、人間らしい労働環境はまさに新大陸が生んだ素晴らしい産物に見えたようだ。そして、母国の現実の早急な改善の必要を力説している。ローウエルの女性労働者たちは、それでも1日12時間は騒音に充ちた工場で働いていたのだが。

 この大作家が感銘して持ち帰って読んだ、働く女性たちの手で書かれた『ローウエルだより』 The Lowell Offering は、実はディケンズの後を追ったわけではないが、管理人も若い頃に夢中になって読んだ一冊であった(これは、いわば現代のホームページに相当するかもしれない。読んでいると、当時のローウエルで働いていた女性たちの話し声やざわめきなどが聞こえてくるような気がする)。そればかりでなく、ローウエルやメリマックなどの図書館、資料館まで出かけ、膨大な史料に圧倒されながらも、あるテーマの探索を続けたことがある。

 ローウエルに代表される工場制労働のユートピア的状況は、長くは続かなかった。厳しい資本主義の大波は、この静かな森の中に作られた牧歌的工場も呑み込んでしまう。



紙幣の図版にまで使われたローウエルの女性労働者
Source: "Lowell Girls" banknote, engraved by the American Banknote Company
ca. 1858. Prints Division, the New York Public Library, Astor, Lenax, and Tilden
Foundation.

 19世紀半ば、世界が注目した工場で働いた女性たちが残した文集 The Lowell Offering も、間もなく中止のやむなきにいたる。後年、記録の整理/編集に当たった編者 Benita Eislerは「あとがき」で次のように記している。

「『ローウエルだより』は、現実と神話の間に挟まれた時間を生きた女性たちの手になる、われわれの最も貴重な記録である。彼女たちが発行を中止のやむなきにいたった時に示した強い復活への願望に、われわれが応えられなかったことを恥ずかしく思う。」
(The Lowell Offering, p.217)



「シャトル・ボビンを巻く女性」
Woman winding shutle bobbins, after a drawing by Winslow Homer
in W. C. Bryant's Song of the Sower, 1871, Merrimack Valley Textile Museum.




The Lowell Offering, Writings by New England Mill Women (1840-1845),
edited with introduction and commentary by Benita Eisler. Harper Colophon Books, 1977, pp217.
 

 

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