時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

怪獣ビヒモスを追いかけて(9): 資本主義崩壊前夜?

2018年11月30日 | 怪獣ヒモスを追って

 

L.S. Lowry, Street Scene
L.S.ラウリー《街の光景》 

 

この短いシリーズで取り上げてきたテーマは、改めて述べれば、我々の生活が企業、とりわけ大工場で生産された製品に大きく依存してきたことをいくつかの例示を上げながら回顧し、素描してみようということを目指してきた。それ自体、とてつもなく大きなテーマであることは承知の上でのことである*1。思いついたのは、3世紀近い年月の断片が、ふと見た夢をよぎったからであった。どこかで「タイムマシン」が動いたのだろう。

産業革命がイギリスに生まれてから、すでに3世紀を経過した。思えば、現代に生きる人間は、生産者、消費者としての一翼を担い、多かれ少なかれ工場とともに生きてきた。

この過程を描くことは、それ自体壮大なテーマであり、ブログなどでは到底扱いきれない。一大長編映画でも不可能だろう。しかし、このたびのルノー・日産・三菱自動車の驚愕すべき事件などを目の当たりにして、製造業、とりわけ「大工場の時代」は、今や終わりを告げようとしているのだということを改めて実感した。製造業で働く労働者は、アメリカの例で見ると全雇用者のわずか8%にまで低下している。今後残りうる工場のイメージも大きく変容しつつある。一例をああげれば、ロボットがロボットを作る工場のように、人間は工場の表舞台にはあまり顔を出さない。

次の世代を支える産業は、いかなるものだろうか。AIの将来構想を含めていくつかの輪郭は提示されているが、十分信頼できるものには未だ出会っていない。できることはせいぜいこれまでの人生で見知ったことの断片を、記してみることぐらいだろう。このブログ自体がそうした思いから始まったものでもある。

イギリスが端緒となった繊維工業、蒸気機関などを軸とした第一次産業革命。当時の工場はウイリアム・ブレークが「暗黒の悪魔的工場」’dark satanic mills’ と形容したように、巨大な煙突、黒煙で真っ黒な工場、劣悪な労働環境が思い浮かぶ。チャールズ・ディケンズの描いた世界でもある。ディケンズの小説が今でも人気を失わないのは、彼の生きた時代の様々な場面が、失われることなく今日にも生きているからだろう*2

こうした工場システムは、綿工業を例にとると、イギリスから海を渡り、アメリカ北東部へ移行し、当初は地域によっては、多くの親たちが自分の娘を働かせたいと思うほどの「叙情的」’lyric’な宿舎、設備と環境を維持していた。その後は移民の流入などもあり、企業間の競争は激化の度を加える。それとともに、労働環境は悪化の一途をたどる。

次の段階では、労働組合が未組織で、生産費の安い原綿産出州の南部へと移る。工場は外観は美しく内部の機械体系も整然としているが、そこで働く労働者は工場町へと隔離され、低賃金、劣悪な条件で働くことになる。巨大な綿工場にとどまらず、それを支える石炭工業などの発展もあった。トランプ大統領などが主張する衰退してしまった石炭産業の再開発などはいかなる意味を持つのか。こうした大きな歴史の流れの一こまとして見る必要がある。

過去2世紀についてみれば、Homestead, River Rouge, そして最近ではFoxconnなどの著名大工場が作り出した大争議、劣悪な労働、環境汚染など様々な問題が思い浮かぶ。労働組合、児童労働、労働法制の展開などへ視野は拡大する。

日本の台頭、中国や東南アジアなどへの移転の過程は未だに進行中ではある。しかし、インターネットの驚異的な発展に見るように、世界を動かす産業は全く新しい様相を呈している。直近のカルロス・ゴーンの強欲な事件などを見ると、資本主義自体が崩壊の淵にあるようにも思える。

「第4次産業革命」と言われる技術革新の世界がいかなる姿を呈するか、若い世代の目には何が見えつつあるのだろうか。


続く

 

*1 幸い、いくつかの力作が出ている。例えば、下掲の研究書は主としてアメリカを舞台とした大工場を例にしているが、よくまとめられた良書である。

Joshua B. Freeman, BEHEMOTH: A HISTORY OF THE FACTORY AND THE MAKING OF THE MODERN WORLD, New York: H.B. Norton, 2018.

*2 シネマ『Merry Christmas !  ロンドンに奇跡を起こした男』上映中


哀悼:

K.K.先生のご逝去を心からお悔やみ申し上げます。

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問われる日本の見識:移民制度改革へのスタンス

2018年11月17日 | 移民政策を追って

 

多文化主義の花は咲くだろうか


出入国管理法 (入管法)の審議が国会で始まっている。しかし、新聞、TVなどで議論を見ていると、この半世紀近く形は変わっても議論の内容は実質的にほとんど前に進んでいないといわざるを得ない。同じ議論が繰り返されている。この国はこれまで、その場その場で綻びをつくろうような、成り行き任せの対応をしてきた。その流れは今も変わっていない。

安倍首相が「移民政策はとらない」といかに強弁しようとも、日本はすでにれっきとした移民受け入れ國になっている。日本で働く外国人の数は、すでに130万人近い(特別永住者を除く)。とりわけ、単純労働(低熟練)の分野では、技能実習生、留学生(アルバイト)などで対応するという姑息な手段(「バックドア」からの受け入れ)で事態を繕ってきたが、2020年の五輪、各地の自然災害などへ対応する建設労働力、高齢化への看護・介護などの需要増もあって、人手不足はどうにもならなくなってきた。

1988年以降、「専門的・技術的分野では受け入れるが、単純労働者は受け入れない」とする閣議決定の方針はこれまで表向きは踏襲されてきたが、ついに単純労働者を正面から受け入れざるをえなくなり、大転換を迫られている。しかし、安倍首相は「移民」という表現を避け、「外国人材」などというあまり聞きなれない表現で、日本への外国人労働者の「定住」、「永住」を原則認めないという答弁を繰り返している。言い換えると、外国人労働者は受け入れるが、あくまで「労働力」としてであり、仕事が終われば本国へ帰ってもらうという考えのようだ。労働力の部分だけが必要で、それ以外の人間としての側面は必要ないとしているようなものだ。しかし、こうした考えはおよそ非現実的であることは、各国あるいは日本においてもすでに立証されている。期間限定の条件下に受け入れた労働者が時の経過とともに、受け入れ国に滞留し、定住、永住化への道をたどることも否定し難い事実である。

包括的差別禁止・人道的配慮
受け入れた外国人を水流のように循環(rotate)する「労働力」としてしか見ない考えは、主として非熟練労働分野へ就労する新しい在留資格「特定技能1号」の対象者には家族の帯同を認めないという考えにも反映している。他方、専門性、技能の高い「特定技能2号」の対象者は家族帯同を許容するという。こうした差別的措置は人道上、国際的にも問題となるだろう。再考すべき点である。

これまで国際的にも批判されてきた「技能実習制度」を存続させることは、制度の正当性、透明性を著しく損なう。国際貢献という目的とは著しく離反した、歪んだ制度は廃止し、誤解や批判を生むことのない新たな制度設計を行うべきだろう。移民制度設計において、制度と運用の「透明性」の維持・確保は人権侵害などを防ぐ上でも必須の条件である。

必要性の確認
さらに、政府は「外国人材」の受け入れに上限を設定するとしているが、その算出根拠も不透明である。人手不足の業種については、国内労働者の応募がないことを判定する「需給テスト」などで制度的に検証し、その上で不足する部分についての外国人労働者の受け入れを認めるという手続きが図られるべきであり、単なる業界ヒアリングなどで積算されるべきではない。その過程では賃金引き上げなど労働条件改善を行っても国内労働者の応募がないことも検討されねばならないだろう。

人手不足で外国人受け入れを要望している業界で、受け入れた外国人が働く場所は大方、日本人が就労を放棄した職場である。いかに政府が日本人と同等の労働条件を確保するといっても、これまでの経験が示すように実態は空虚であり、労働環境が劣位な職場となることは自明のことだ。不足が深刻な分野は、日本人が応募しないほど、労働環境が劣悪なことが多い。それを安易に外国人労働者で充当するという考え自体、大きな誤りだ。国内労働者の労働条件を劣化させる可能性も高い。

言葉での表現その他で不利な立場にある外国人は、失業するよりは、あるいは本国よりは高い賃金が得られると、就労に同意せざるをえない。一度祖国を離れてしまうと、そう簡単には帰国できない。かくして国内労働者の下に、さらに低い下層市場が生まれる。技能j実習生などの失踪者が多いのは、外国人労働者が配置された現実の職場が彼らが聞かされてきたイメージとは異なり、劣悪で期待を裏切ることが多いことが最大の要因となっている。

国としての魅力の不足
他方、高い専門性を求める「特定技能2号」の分野については、大学、研究所などを含め、西欧諸国などとの比較で、国として魅力に乏しいことが指摘されている。今後の高い技能を保持する潜在移民の目指す行先としては、いくつかの調査で、アメリカ、ドイツ、カナダ、UK、フランス、オーストラリア、サウジアラビア、スペイン、イタリア、スイスなどが挙げられているが、日本は国名すら挙げられず、ほとんど注目されていない。この分野では受け入れ側の環境改善が欠かせない。しかし、日本の大学の実態を見ても、留学生が限度いっぱいアルバイトしているような状況で、高度な潜在力を持つ外国人を惹きつけるような学術・研究水準の改善が見込めるだろうか。不熟練労働者と違って、こちらは優れた外国人が魅力を感じて来てくれないのだ。

今回、「移民制度改革」に政府が着手したのは、一部の産業界が労働力不足で機能しなくなったこくyとが最大の理由である。時すでに遅しの感が強いが、改革するからには世界の移民・難民の変化に配慮し、真の意味での「包括的制度改革」を構想・設計すべきである。遅れてスタートしたからには、(ブログ筆者は悲観的だが)、世界のモデルとなるような制度改革を試みるべきだろう。改革の範囲も、不熟練労働と高度な専門性や技能の保持者という熟練スケールの両極端にとどまらず、入国後の職場の移動などを考慮すると、中程度熟練を含むすべての熟練・技能段階を検討の範囲に包含するべきだろう。中程度の熟練度職種についても需給が逼迫する可能性もある。

近年、移民は西欧、北米、ECA(非EU)、MENA(高所得地域)で集中的に問題化し、受け入れ国側が制限強化へ向かっている中で、日本だけが受け入れを拡大するという今回の政策は、従来の政策失敗の補修という点とともに、評価すべき点もあるが、それだけに慎重な配慮が必要とされる。移民・難民は少しでも受け入れの可能性のある国へ殺到する。五輪開催を契機に多くの問題が急激に噴出する可能性はきわめて高い。

包括的な共生プランへ向けて
さらに、法案の名の通り、現在の議論は重点が外国人の入国と出国の2点だけに集中していて、入国した後の外国人の人間としての広い活動領域への対応が手薄で、断片的にしか取り上げられていない。人間としての行動の全域について、日本人に準じた対応が求められることに十分な認識が欠かせない。政府案では法務省の外局として「出入国在留管理庁」(仮称)を新設すると伝えられるが、独立した省庁の構想が検討されるべきだろう。アメリカ、ヨーロッパなどで問題となっているような人身売買ブローカー、テロリスト、犯罪者などの遮断など、受け入れ拡大の負の側面についても、配慮が欠かせない。日本は単なる人手不足への対応をはるかに超えた次元で、大きな決断の時を迎えているという認識が必要だ。多文化主義の開花への道は、苦難に満ちている。


References

日本弁護士連合会「出入国管理及び難民認定法および法務省設置法の一部を改正する法律案に対する意見書」2018(平成 30年) 11月13日
*「失踪実習生調査に「誤り」」『朝日新聞』2018年11月17日
失踪の理由について法務大臣の答弁では「より高い賃金を求めて」が86.9%とあるが、これは以前の職場が「低賃金」であったことを示すことに他ならないのではないか。

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絵の裏が面白いラ・トゥール(4):秘めたる才能を見出した人

2018年11月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールが洗礼を受けたサン・マリアン教会内陣
ヴィック=シュル=セイユ 

16世紀末、ロレーヌの小さな町ヴィック=シュル=セイユのパン屋の次男として生まれた息子ジョルジュは図抜けた画才を秘めていた。とはいっても、父親として10歳くらいの子供の才能を見きわめ、家業のパン屋を継がずに画家の道を選ぶことに同意することは、並大抵のことではない。パン屋の父親にその眼力があったとは到底考えがたい。当時の時代環境からすれば、父親の跡を継いでパン屋の修業をする方がはるかに確実だった。顧客がつくか全く不明な画家を志すことは大変リスクがあった。加えて、3〜4年の徒弟修業をするには、多額の投資も必要だった。

それでは、誰が幼い子供の画業の才を見出したのだろうか。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた町ヴィックには、当時ドゴス親方とブラウン親方の二つの工房があった。2人はそれぞれローカルな次元で、教会の祭壇画などの需要に対応して、活動していた。しかし、特に著名な画家というわけではなかったようだ。彼らの作品は今日まで1点も発見されていない。

そこで、浮上するのは、町の代官アルフォンス・ド・ランヴェルヴィエールという人物である。代官は17世紀の教養人のいわば象徴的存在であった。自らは神学の研究に努めるとともに細密画の才に長け、自著の挿絵なども描いていた。リュートの演奏も行い、時々は若い世代を集め、詩の朗読会なども開いていた。有望な若者の才能発掘に大きな関心を抱いていたようだ。

ランヴェルヴィリエール肖像

代官の息子はジョルジュと小学校が同級であり、ジョルジュの絵の才能は息子を通して知ったらしい。ジョルジュのデッサンも見たのではないかと思われる。そして、父親を説得し、画業の指導をドゴス親方に頼んだのだろう。代官は後にラ・トゥールの結婚に際して、リュネヴィルの貴族の娘ネールとの仲介も図ったと考えられる。社会的身分の違う2人を引き合わせたのもこの人あってのことだった。その後もジョルジュの才能に高い評価を与えていた。この人あって、ラ・トゥールの画才は花開き、その後多くの人々の心を動かす作品を生み出させた。

こうした若い人たちの隠れた才能を見出し、陰に陽に励まし、力づける人の存在は、今日の世界においても極めて重要である。今の世の中でいえば、就活における良きアドヴァイザーといえるかもしれない。新しい時代における教養人とはいかなるものだろうか。あまり注目されないテーマだが、先の見えない時代、一考してみたい。

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現代人はナチの負の遺産にいかに対するのか

2018年11月11日 | 書棚の片隅から


偶然だが、続けてナチ体制の宣伝に深く関わったヨーゼフ・ゲッベルスを扱った作品に出会った。ナチの宣伝相ゲッベルスの元秘書の回想録『ゲッベルスと私:ナチ宣伝相秘書の告白』と映画である。そして、BSドキュメンタリー「帝国のファーストレディ」(2018年11 月8日)を見た。新聞の番組見出しでは、「ナチの美魔女」とあった。後者で主人公のマグダはゲッベルスの妻として、ナチの狂気と恐怖の中に生き、そして自ら命を絶った妖しい雰囲気を持った女性であった。

ヨハンナ・マリア・マクダレナ・ゲッベルス、通称(マクダ・ゲッベルス、1901年 - 1945年)はナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの妻であり、第三帝国の理想を具現した母親像を具現して生きた。自決したため、44歳という短い人生ではあった。平穏な時代であれば、ブログ筆者と一部は重なるかもしれないほとんど同時代人であることに気づき改めて戦慄する。

ブログ筆者の父親の書斎の片隅にゲッベルス『宣伝の威力』の翻訳があったことを思い起こす。戦後の混乱の中、ほとんど読むこともなく禁書のように処分してしまったことを残念に思うこともある。

ゲッベルスについては多少の予備知識もあり、その後の知識の蓄積で、かなり関心度は高かった。かつて見た映画で、どうしてこの貧相とも言える細身の男にドイツ国民が意のままに翻弄されていたのか、不思議に思った。幼少時の小児麻痺によって発育に問題があったゲッベルスは、小柄で足を引き摺り歩く、見栄えのしない風貌であった。それにもかかわらず、人を扇動する鋭い弁舌をもって大衆を思うがままに扇動し、ヒトラーとともに狂気の時代を築いたナチス最高幹部の1人であった。

マクダとゲッベルスの秘書であったブルンヒルデ・ポムゼルという2人の女性については、ほとんど知識がなかった。2人ともヒトラーおよびゲッベルスというナチの中枢に最も近いところにいた。

かつて見た映画で妻マクダはゲルマン系の金髪の美女、そしてたくさんの子供を産み育てる、ナチのプロパガンダ通りの模範的な女性像を誇っていた。

マクダはヒトラーがご執心だったようだが、ゲッベルスとの結婚に賛成し、立会人を務めていた。ゲッベルスはナチ体制の広告塔であったが、マグダはそれを支える最大の柱だった。妻子のいなかったヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンが、最後まで大衆の前に姿を現さなかったのに対して、マグダの動向は、大衆の注目するところだった。

1945年4月20日、ソヴェート赤軍がベルリンに到達し、『ベルリンの戦い』が始まる。22日、マクダは6人の子供を伴って、総統地下壕に避難してきた。子供達は着弾の音に怯えながらも耐えていたようだ。まもなく訪れる最後の日を知っているマクダは子供たちにことさら明るく振る舞い、歌を歌わせる。他方、自らは急速に鬱屈した表情に陥っていく。

1945年4月20日、ソヴェート赤軍がベルリンに到達、『ベルリンの戦い』が始まる。ゲッベルスはひたすら自分の書類や日記の整理をするだけだった。29日、ゲッベルス立会いのもと、ヒトラーはエヴァと結婚し、その後間もなく2人は自殺する。

ヒトラーの遺言により首相に任命されたゲッベルスは、ソ連に条件付き降伏を願い出たが拒否され、無条件降伏を迫られて交渉を断念した。ゲッベルスは地下壕で家族と自決する覚悟だった。

5月1日、医師の助けを借りながら、マクダは6人の子供たちにモルヒネ入りのココアを飲ませて眠らせ、青酸カリを投与して殺した。映像が残っているだけに、不憫で衝撃的だ。マクダは生きながらえても、ナチの重荷、ゲッベルスの子供という負の遺産が、一生子供たちを苦しめるだろうと考えていたようだ。そしてゲッベルスとマクダは戸外に行き、服毒あるいは銃殺により心中、遺体には隊員にガソリンをかけさせ焼失させたが、不完全なままに残った。夫妻の黒焦げの遺体と子供達の遺体も道路上に並べて放置されている写真が残っている。これが第三帝国の最後を象徴するものとはいえ、慄然とする。

他方、ポムゼルはゲッベルスの秘書として働き、昨年2017年2月に死去するまで、103歳の人生を生きた。ゲッベルス夫妻や子供たちとは異なり、絶頂と破滅・弾劾の二つの時代を生きたのだ。「なにも知らなかった私に罪はない」という彼女の言葉は、ゲッベルスの秘書であったという役割の重みからすれば、自己弁護としてはあまりに卑屈、卑怯にも聞こえる。全てを知っていたのではないかという声が聞こえてくる。マクダとは異なり、生きることで針の筵の時間を長引かせたともいえる。彼女の生き方を非難・指弾することはたやすい。しかし、それは自ら責任をとることを避けることが多い現代の我々の生き方に重なってくる。折しも2020年の東京オリンピック開催に無批判に突き進んでいる時流に何か恐ろしいものを感じている。メルケル首相は、反ユダヤ人の動きが目立っていると警告している。


ブルンヒルデ・ポムゼル+トーレ・D..ハンゼン『ゲッべルスと私』(監修:石田勇治、翻訳:森内薫+赤坂桃子、紀伊国屋書店、2018年)

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絵の裏が面白いラ・トゥール(3):才能を発掘した人々

2018年11月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

今日のヴィック=シュル=セイユ遠望


才能を誰が見出したのか
ラ・トゥールの父親ジャンはヴィックのパン屋だった。当時の状況からすれば、長男あるいは次男が家業を継ぐものと思われていた。パン屋は決して裕福な収入のある職業ではないが、誰にとっても必要な職業だった。ジャンはかなり商才にもたけ、ヴィックの町でも良く知られた人物だった。しかし、息子のジョルジュが画家になりたいと言い出した時には、困惑したはずである。彼は息子の画家としての才能を評価することはできなかった。それでは誰が未だ少年であったジョルジュの天賦の才に気づいたのだろうか。

その点に関する史料の類は何も発見されていない。わずかに、ジャックの手になるものではないかと考えられるデッサンが3枚残っている。しかし、サインも年記もなく、年とった男や若い女性を描いたデッサンの髭や髪の毛の描写が、後年のラ・トゥールの油彩画に示される繊細な筆致に似ていること、使われている紙の産地がヴィックに近い所であること、などから同じ画家の作品ではないかと推定されることだけである。

ジョルジュがヴィックに生まれたことを示す洗礼記録がある。1593年3月14日、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの洗礼記録が残っている。その後、長い史料上の空白があり、次に現れるのは1616年10月20日、ヴィックで友人の娘の洗礼代父を務めたという記録が残っている。ジョルジュは23歳であった。それまでの23年間、この若者はどこで何をしていたのだろうか。美術史家、研究者たちはエキサイトし、未発見の記録を求めて、ロレーヌの文書館や教会に残る埃にまみれた古文書の探索に没入した。いくつかの新しい発見もあった。その状況はこうした人々のエッセイやヴィデオに残っている。1613年、パリで親方になっていたとの短い記録も発見されているが、それを立証する記録は未発見である。ブログ筆者はこれまで世界の美術史家が未だ指摘していないひとつの推理を提示している。少なくもこの遍歴時代には、ジョルジュは短期のイタリア旅行を試みたかもしれないが、工房に入るなどの画業修業はしていないという推理である。その要点はブログにも簡単に記したことがある。

この空白期における興味ふかい問題のひとつは、ジョルジュの秘めたる才能を誰が最初に見出したのだろうかという点である。ロレーヌの小さな町のパン屋の息子の画才の芽生えに気づき、それを育てる上で力となったのは誰だろうか。父親である息子の隠れた画才に気づくだけの能力があったとは到底思えない。この点もブログ筆者はひとつの仮説を持っているが、今日はこのくらいにしておきたい。


続く

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絵の裏が面白いラ・トゥール(2): ロレーヌを愛した画家

2018年11月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

絵の裏が面白いら・トゥール(2)


ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、史実として判明している限り、ほとんど終生ロレーヌ(現在のフランス北東部)で過ごした。画家はロレーヌ公国のみならずフランス王国ルイ13、14世の王室付き画家であったから、パリへ移住し、戦火に追われることもなく恵まれた生涯を過ごすこともできたろう。しかし、ラ・トゥールは自らが生まれ育ったロレーヌの地へ戻り、終生をロレーヌという地方の画家として過ごした。

画家の生まれた町ヴィック=シュル=セイユは、今の時代に訪れると、時の流れから取り残されたような思いがする。17世紀の古い町並みが残り、当時の城壁の一部や修復された城門を見ることができる。ロレーヌの歴史に刻まれるこの著名画家は、出自を辿れば、この地のパン屋の次男であった。今でもその後を継いでいるというパン屋もある。

戦火の絶えなかったロレーヌの町では、住民が交代で城門の見張り番に立った。ラ・トゥールがこの当番を怠り、罰金を請求された記録が残っている。パン屋の次男に生まれ、画家として天賦の才に恵まれたこの画家は、貴族で大地主となってからは、ひとたび確保した貴族特権を振りかざし、税金支払いの拒否など、剛直、粗暴な行動があったようだ。画家のこうした行動については、一部住民からそれを非難する文書も残っている。しかし、ラ・トゥールにしてみれば、ロレーヌ公から付与された貴族特権を放棄することでもあり、それを固守することに懸命だった。事実、多くの下級貴族たちはひとたび得た特権を子孫の代まで継承することに最大限の努力を払った。

 ラ・トゥールの息子エティエンヌは父親が活動していた間は、画家として父親の工房を助けて、自らも画家として活動していた。父親の名声で貴族にもなっていた。しかし、画業を継ぐだけの才能はなく、父親の没後は貴族として生きる道を選び、ロレーヌ公から領主に取り立てられている。父親の画風は子孫には継承されなかった。しかし、3世紀余りの時空を超えて20世紀初めに、再発見されたラ・トゥールの名はロレーヌ、そしてヴィックの歴史に燦然と輝いている。

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