ノートル・ダムのガーゴイル
去る4月15日から16日(現地時間)にかけて突如として起きた、パリのノートルダム教会Notre-Dame de Parisの火災の実況をTVで見た。世界にその名を知られた大聖堂の尖塔がもろくも崩れ落ちるという予想もしない衝撃的光景である。瞬時に脳裏に浮かんだのは、どういうわけか、あの9.11の光景であった。考えてもいなかったことが起きると、思いもかけない連想が脳裏で働くようだ。
12世紀に建築が始められ、幾多の風雪を経て今日まで人々の信仰の象徴となってきたあの高い塔(地上高約32m)が、2時間くらいの間にもろくも崩れ落ちた。カトリック信徒でなくとも、驚く出来事だった。何か恐るべきことが起きる予兆ではないかと思った人もいたようだ。実際、9.11後、世界は明らかに変わった。そして今、新たな戦争*の可能性が語られている。
*A new kind of cold war, The Economist, May 18th-24th, 2019
Collision course, The Economist May 11th-17th,2019
この度の尖塔火災崩落の原因の究明は進められているが、未だ正式には発表されていないようだ。少し意外だったのは、木造部分が燃え、石造りの壁が支え切れなかったとのことだ。何度か訪れたことがある場所だが、壮大な石積み、石像、ステンドグラスの美しさなどに圧倒されて、木造部分がどこであるかは全く気づかなかった。
大聖堂の建設は12世紀、1163年に始まり、1225年に完成したとされている。その後の長い歴史においても、今回のような火災焼失は初めてのこととされる。火災発生後、今日までのわずかな間に世界から邦貨換算1000億円を超える、修復に十分な寄付が集まっていると伝えられる。フランス国民のみならず、この聖堂に対する愛と信仰がいかに大きいかがわかる。他方では、それだけの寄付をする財力がどこかにあるならば、もっと直接に貧困層などのために役立てるべきだとの批判もあるようだ。
ブログ筆者はこれまでの人生でかなりの数の寺院、教会などを見る機会があったいt。フランスではとりわけロレーヌの旅をしている間に、多くの教会、修道院などを訪れた。そのほとんどがノートルダム大聖堂と同じゴシック建築である。
聖堂を築いた人たちの熟練養成
ブログ筆者が専門としてきた領域のひとつは、社会における熟練の形成過程であった。長い信仰の歴史を支えてきた教会の石組みを見ながら考えたことは、それを作った当時の職人たちのことであった。こうした大教会・聖堂などの着工から完成までには、通常の民家などと違って、はるかに長い年月を要すると想定されている。確かにサグラダ・ファミリアのように着工後、数世紀という年月を経ても完成に至っていないというような例もある。しかし、多くの建築は数十年くらいの年月で竣工している。これは建築の依頼者や寄進者などのことを考えて計画、工事を進めるからであろう。今回焼失・倒壊したノートルダムの場合も早ければ数年で復元できるのではないかという推定もあるようだ。実際にはほとんど不可能な予感はするが。
教会建築の現場で仕事をするのは、建築設計家の指示に従って作業にあたる石切工、石工などの肉体労働者である。当時は今日と違って、コンピューターも防塵マスク、眼鏡などもなかった。最大の職業病は珪肺であり、きびしい労働環境であった。粉塵と危険に溢れた職場で、切り出された石を成形し、プランに従い積み上げ、モルタルなどで固定するというきつい仕事である。しかし、人々の信仰の場を生み出す石工には、社会の評価、レスペクトもあったようだ。ギルドの成立も早くからあった。
石工だったラ・トゥールの祖父
ブログに記したこともあるが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの父親ジャンはパン屋であったが、ジャンの父親は石工だった。石工になるためには、親方の家に住み込みの徒弟として入り、親方の仕事を助けながら見よう見まねで技能を体得し、数年の修業を経て、職人として独立することが認められ、さらに経験を積めば、親方職人への道があった。
息子のジャンは毎日の過酷な労働を酒で紛らわす父親の生活を見ながら過ごし、自分はパン屋で生きようと決めたのだろう。しかし、パン職人も見かけによらず、厳しい労働を要求されていた。そうした環境から、画家というきわめて先の見えない職業へと移ったジョルジュの生涯は、職業選択・技能伝達という現代的観点からもきわめて興味ふかい。この点はブログにも度々記している。
Theodore Rieger, Chapelles de Lorraine, Est Libris, Metz, 2003
ロレーヌの残像
石工の労働、教会大聖堂の建築の実際の過程は、それ自体大変興味ふかいのだが、記す余裕がない。
今回はかつて辿ったロレーヌの町巡りで、気づいたことを少しだけ記したい。ロレーヌの町や村には今日でも数多くのゴシック建築による教会が残っている。メッスやナンシーのような大きな都市には多数の宗派の異なる壮麗な教会聖堂がある。ゴシック式の建築はその高く聳え立つ先端の尖ったアーチで、直ちに認識できることが多い。
ゴシックは、ロマネスク様式に続き、12世紀頃からフランスを中心に発達した。筆者にとって興味深かったことは、今日に残る教会のすべてが大聖堂のような威容を誇るものではなく、小さな村や町にはひっそりと祠のような姿で残っているものも多いことだった。そして、どんなに小さな教会であっても、いと高き天に向けての希求を示す突出した屋根と十字架で、直ちにそれと知ることができる。その背景には、地域ごとの宗派の分布なども影響しているのだろう。この点に立ち入る余裕はもはや筆者にはなくなったが、宗教改革、カトリック宗教改革の激動の過程では、ロレーヌという地は、カトリック布教の最前線であり、ローマ教会の主導の下で多くの教会、修道院が建造された。
ラ・トゥールが生きた17世紀、30年戦争を含め、この地は数多くの戦乱を経験してきた。17世紀は史上初めての「危機の世紀」として知られる。21世紀、残る時代がいかなるものとなるか。すでに国家間衝突の動きはいたるところに現れている。その行方がいかなるものとなるか、ブログ筆者は知る由もないが、戦争のない平和な世紀であることを祈るのみである。