時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

アメリカ内戦化への懸念と移民政策(5)

2024年04月27日 | 移民政策を追って



足元揺らぐ自由の女神
アメリカの大統領が現職のバイデン氏になるか、前大統領のトランプ氏になるか、専門家でも決定的な発言はためらうほど大統領選の見通しは不安定、不透明だ。いずれの候補が当選しても、アメリカ社会は政治的・社会的激動、分断などの重大な変化を避け難いだろう。すでに過去20年の間、アメリカは高まる政治的激浪に翻弄され、分断されてきた。地球上の暴力化と不安定は顕著に増加し、アメリカはそれに加担するが、抜け出ることができない。そして、その波は世界をも揺るがすことになっている。しかし、アメリカ人を含め、多くの人々はその事実を十分認識できないでいる

Evan Osnos, WILDLAND:The Making of America Fury, 2021 (『ワイルドランド:アメリカを分断する「怒り」の源流』エヴァン・オズノス、笠井亮平訳、白水社、2024年、邦訳は現時点では上巻のみ)
「2024年の全米動乱」Newsweek 2024年1月25日

バイデン大統領が企図したウクライナ、イスラエルへの軍事支援と移民政策の抱き合わせは失敗に終わったが、大統領選と併せアメリカという大国の動向が重大な意味を持つウクライナ戦争とイスラエル・ハマス戦争は、貸与条件付きのウクライナへの戦費支援法案が、4月上下院で可決、さらにイスラエルへの巨額な戦費の支援などの形で、当面なんとか方向が定まった。他方、アメリカ・メキシコ国境の移民激増に対する政策は、バイデン政権は対応の不手際もあって、ほとんどトランプ前政権の政策手中に呑み込まれた形だ。

違法な越境者の増加と変化
さらに、新しい要因が次々と加わっている。前回記したように、バイデン政権に移行してからアメリカ・メキシコ国境からの越境入国を企図する者の急増が、政権の足元を揺るがしている。その流れの中で、ひとつの注目すべき動きがある。2023年から中国人の越境入国者が大きく増加し、24,000人を越えたとみられる。この数字は、2023年に先立つ10年間の合計より多い。

中国人の移民としての入国はアメリカの移民史上、それ自体珍しいことではない。1965年の「移民・国籍法」Immigration and Nationality Actの制定以降、中国人は大学などへの教育プログラムあるいはH1-B 労働ヴィザで合法に入国していた。しかし、最近の動きは、過去とは異なった形態と背景で進行している。アメリカ・メキシコ国境から不法に越境し、その後直ちに政治的避難を求める難民申請をして、アメリカに入国を企てる人々の急増だ。

確立した経路?
こうした中国人移民の間では、すでにひとつの経路が形成されている。すでに様々に報じられているように、彼らは先ずヨーロッパなどを経由し、入国ヴィザを求められない南米のエクアドルに飛ぶ。その後、中央・南アメリカその他からの移民たちと合流し、ひたすら北のメキシコ・アメリカ国境を目指す。

その道はコロンビアとパナマの間の危険な熱帯雨林を経過しなければならず、移民たちは多額の金を道案内などの情報や移動手段に関わる経費をブローカー(smugglers 蛇頭)に支払い、苦難な旅を続ける。

彼らの多くは、中国国内におけるコロナウイルス・パンデミックに伴う厳しい行動制限、習近平政権の専制主義的政治の締めつけなどに耐え難く、絶望し、移民を決心したという。彼らはブローカーの手引きで、南米コロンビアと中米パナマを結ぶ陸続きでは唯一の経路である危険なダリエン・ギャップ Darién Gapという熱帯雨林からなる隘路を通って、メキシコを経由し、アメリカ国境にたどりつく。多くの移民は50日以上、10カ国を越える国々を経由してここに至る

==========
N.B.
この間の状況については、下記の記事などを参考にした。
Growing Numbers of Chinese Migrants Are Crossing the Southern Border, The New York Times, 2024/04/21
For some Chinese Migrants, Few Options in Xi’s China, https:,, www.voanews.com/a/for-some-chinese-migrants-in-xi-s-china-/7508948.html
==========

小さくなった地球
中国からアメリカ国境にまで旅するに当たって、彼らが最も頼りにしたのは、TikTokの中国版Douyinを含むオンライン上の情報であった。それにしても、中国からアメリカに到る長く危険な旅をインターネット上で細々と伝えられる情報だけに頼って、実行するという変化には驚くばかりだ。

未知な土地への人生を賭けた危険な旅である。しかしながら、通信や交通手段の進歩で、彼らが長い旅路のどの地点にいるかなどの情報も得られるようになり、地球が小さくなったことを実感させる。

これまで中国人の不法移民は、中南米からの移民と比較すると数も少なく、本土でも社会的なは下層の労働者が中心であったが、最近は中層の自営層が中心になっているといわれる。富裕層でもなく、教育志向でもないが、アメリカまでの航空機運賃くらいは負担できる階層になっている。「ゼロ・コロナ」政策で大きな打撃を受け、現政権の言論統制などの厳しい締め付けに耐えかねた自営層などを中心に、一家を挙げて移民を決意した人々が多いといわれる。

自由を求めて
VOAがインタヴューしたある中国人の場合、「中国を離れる時、旅の途上で死ぬようなことがあっても、試みる意義がある」と思い、決断したという。彼らのある者は、何にもまして「自由」が欲しかったという。習近平政権になってから、SNSも厳しく監視され、自分の言いたいことも言えない社会となってしまった。UNHCRによると、2013年から2021年の間に70万人以上の中国人が海外で庇護を求めたという。

幸運にもアメリカ・メキシコ国境にたどり着くと、彼らの多くは自主的に国境警備の係官の前に出頭し、難民申請をする。中国人の場合、移民裁判所で申請が認められる比率はかなり高い。中南米諸国からの移民とは異なり、本国送還されることはまずない。中国は彼らの送還にも応じないため、多くの場合、アメリカに滞留する。この措置はアメリカの移民政策の次元では、突き詰めて検討されていないが、外交上のやりとりが面倒で大変なためとみられる。特に中国は悪名高い交渉相手となっている。他方、アメリカとしては、習近平政権下で増加しているスパイが越境者の中に紛れ込んでいないかに神経を尖らせている。

国境の関門をなんとか通過することに成功すると、多くの中国人は大都市、とりわけニューヨーク、シカゴなどの大都市を目指す。これらの大都市は中国人移民にとって、ほとんど必要なサービス、言語(中国語が通じるが、英語ができることが最善)、移民弁護士、住宅その他、移住に必要な基礎的ニーズが備わっている。ニューヨークの場合、市が運営するシェルターは200近く存在するが、彼らはすでに形成されているチャイナ・コミュニティの存在に頼ることが多いようだ。こうして、長い歴史の過程で生まれた中国人コミュニティは、次第にその規模を拡大し新たな移民を受け入れてゆく。

難民申請をする移民は、合法的に働く許可を求める文書を提出後、約6ヶ月は待たねばならない。最近入国を試みた難民の場合は、しばしば何年も待つことになる。その間はレストランでの皿洗いに象徴されるような仕事をしてでも、アメリカに移住したいと思っているようだ。これまではほとんどの人たちが亡命に成功している。移民裁判所で中国籍の人々は他の国の人々よりも亡命申請に成功する比率が高い。そして、申請が却下された場合でも結局、非合法ながら米国に滞在することになる。なぜなら中国政府がこうした人々の送還を引き受けないからだ。

将来に問題を残して
アメリカの世論を二分する移民問題の論争において、この問題は米国の移民制度上の落とし穴ともいうべき存在で、ほとんど突き詰めて議論されていない。米政府は移民の出身国の政府に不法入国者、滞在者の引き取りを必ずしも強制できない。ほとんどの国は協力的だが、いくつかの国は極端に非協力的で、とりわけ中国の非協力ぶりは最悪だという。

建国以来、自由を一つの旗印に掲げてきたアメリカにとって、それを望む難民受け入れを否定することも、容易にはできない。送還や勾留が少なければ、移民・難民は増加する。アメリカの労働力不足も増加をもたらす圧力となり、国民的議論の場でも難題となる。

世界の国々の為政者は、国民が自らの国に希望を抱けなくなり、他国へ居住の場を求めることに様々な感情を抱いている。その程度は一様ではない。自国民が他国へ避難・保護を求めることには、屈辱感があるかもしれない。さらにかつての自国民が強制送還されることにも、直ちに受け入れ難い感情も生まれるだろう。

自由の女神の台座にも刻まれているように、望む者は誰でも受け入れることを掲げてきたアメリカだが、米中、米ロ対立、民主党対共和党などに代表される国内外の対立は、かつてなかった移民政策についても分裂・分断の兆候を歴然としたものにしている。

かつては中南米諸国からひたすら北を目指した移民の流れは、今では東西・南北あらゆる方向から受け入れ先を目指すものに変化した。グローバル・マイグレーションの新たな様相だが、そこには国家間及び国内における深刻な断裂・分断の様相が見てとれる。

半世紀以上前に初めてアメリカの土地を踏んで以来、自由の女神の足元を通り抜ける人々の流れに関心を抱き、それを受け入れている国の考えに注目してきた。本ブログの一部にはその覚書の如き場を与えてきた。今、自由の女神の足元は明らかに揺らいでいる。メモを閉じる日も近いが、もう少しその行方を見届けたい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美術館の将来:入館料は何で決まる?

2024年04月19日 | 午後のティールーム

Photo: YK


The Economist 誌に興味深い記事が掲載されていた。美術館の入館料はいかにあるべきかというテーマである。子供の頃から大の美術好きだったので、これまの人生でかなりの数の内外の美術館に出入りし、およそ想像し難い額を入館料やカタログなどに支払ってきた。時には海外にまで出かけたこともあった。圧倒的に持ち出しかなと思っていたが、今になってみると人生の楽しみのひとつとなり、コスト・ベネフィット比ではかなり取り戻した感がある(笑)。

’A different sort of art heist’  The Economist March 30th 2024
海外美術館の入館料については、同上記事を参照した。

最近、世界の主要美術館は次々に入館料を引き上げている。個々の美術館の常設展入館料は、映画館などと比較してみると、高いとは思わないのだが、しばらく前から企画展などは随分高くなったなあと感じる時も増えてきた。

どこまで上がる入館料?
ニューヨークの近代美術館の例が取り上げられている。この美術館の入館料については、「美術館は無料であるというのは、ほとんど道徳的義務である」Glenn Lowry, director of the Museum of Modern Art (MOMA)という考えがこれまではかなり有力だった。2002年時点では、MOMAの入館料は$12(今日の価格ではほとんど$19)であったが、その後引き上げられ、最新時点では昨年10月に$30に引き上げられた。今後はどこまで上がるのだろうか。

ニューヨークのメトロポリタン美術館 Metropolitan  Museum of New York は長年にわたる「払いたいと思うだけ払う」”pay what you will” policy を2018年に廃止、2022年に市外からの訪問者の入館料を$30に引き上げた。美術館側からは「推奨料金」とされ、ほとんど義務化されている。

昨年夏には、サンフランシスコ近代美術館、フィラデルフィア美術館、ウィットニー美術館、グッゲンハイム美術館などもこの流れにに従い、標準入館料を$25から$30にした。アメリカ大都市にある有名美術館の入館料は、当面$30がひとつの基準値であるようだ。

コスト上昇が背景に
美術館側はコスト上昇と、長引いた”コロナ禍”が財政面を圧迫していると、値上げを弁護している。確かに、アメリカでは3分の1の美術館だけが、コロナ前の入館者数を確保あるいは上回っている。

アメリカではおよそ30%の美術館は無料だ。さらにスミソニアンや民営でもロサンジェルスのゲッティ美術館などは無料だ。寄付などで十分に支援を受けている美術館は、入館料を無料にすべきだとの考えが有力なようだ。

状況はヨーロッパでもほぼ同じらしい。エネルギー価格の上昇、労務費の上昇はヨーロッパでも入館料引き上げを生んでいる。アメリカ同様、2024年1月、ベルリン国立美術館、ルーヴル、システィン礼拝堂を含むヴァチカン美術館は、入館料をそれぞれ20%、29%、17%引き上げた。

入館料が引き上げられていないのは、アジア、中東の美術館だけらしい。歴史が短く、国家などの財政支援が寛容なためと推定されている。

============
N.B. 常設展の例
国立西洋美術館 常設展
常設展観覧料

個人
団体 (20名以上)
一般
500円
400円
大学生
250円
200円

高校生以下及び18歳未満、65歳以上、心身に障害のある方及び付添者1名は無料。 
文化の日その他、美術館が特別に指定した日 [常設展無料観覧日は、Kawasaki Free Sunday(原則毎月第2日曜日)、国際博物館の日(5月18日)、文化の日(11月3日)]は無料。
出所:同館HP

国立新美術館(六本木)は入館は無料だが、観覧料は展覧会によって異なる。
日本の美術館の入館料の平均は、大体1000円前後〜2000円前後と推定される。
==========

しかし、美術館協会 The Association of Art Museum が主張するように、美術館がいかに料金設定しようと、運営費をカヴァーできないとの見解もある。アメリカの美術館において、入館料は2018年時点で全収入の7%程度に過ぎないとの調査もある。会員制度がある場合は、さらに7%程度の追加の寄与になる。予算の残りの部分は、美術館によって異なるが、通常は、endowments 基金、寄付金、charitable donations 慈善的献金、grants 贈与、ショップなどの小売事業によって賄われている。

ヨーロッパの美術館は、入館料への依存はアメリカよりは少ない。というのは政府の助成金で手厚く保護されているからだ。そのため、入館料を高くして納税者にさらに負担を強いるのは気まずいし、実際に二重課税となる。多くの美術館は若者、年金生活者及び当該地方居住者には割引を適用している、

イギリスの全ての国家機関は入館料は無料だ。中国でも国家が運営する美術館は無料だ(但し、特別展示などは例外)。

減少する観客と適正な入館料
諸物価が風船のように嵩んでゆくにつれ、美術館がより広範な観客に美術を鑑賞する機会を与えるべきだとの考えに対応できなくなってくる。今でも多くのアメリカ人が美術館やギャラリーを訪れる機会を減少させている。しばらく美術館には行ったことがないという人が増えているようだ。2017年と2022年の間に観客数は26%も減少した。コロナ禍の厳しさを痛感する。

未だ10代の頃、当時かなりのめり込んでいた正倉院展などにはしばしば2〜3時間も並んだことを思い出した。娯楽や知的関心を喚起する対象が少なかった時代だったので、どこも大変な行列だったが、あまり苦痛に感じなかった。

近年、一般の美術館への関心低下、とりわけ若年層の減少は、公的支援に大きく依存する美術館にはとって厳しい挑戦となっている。こうした傾向は、美術館へ行かない人たちは、将来、政府支援のない美術館や入館料が高い美術館へ行かない人たちを増加させることになるかもしれない。他方、高額な入館料支払いを厭わない美術好きは、美術館の中のギャラリーに彼らだけの場所を設けることも予想されている。いわば同好者サークルのようになるかもしれない

しかし、美術館へ行くコストを大幅に切り下げることが解決につながるとも考え難い。西欧の美術館が今後どんな価格設定が良いか議論するとしても、入館料をゼロにするというのは最もありえない答だろう。美術館の将来には、これまでとは異なった新しいヴィジョンが必要に思われる。

とりわけ日本の美術館は規模の差異などは別として、国際的にみても全体に常勤職員の数も少なく、労働条件も非常勤職員での補充など、低下傾向がみられる。今後加速化が予想される人口減少を含め、いかなる形で充実を図るか、将来像が判然としない。財政面での弱体化への対応も不安を残している。

博物館学 museum studies や経済政策の領域では、かなり興味深いテーマになりうるかもしれない。残念ながら、筆者にはこれ以上検討する時間が残っていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真作と工房作の間で

2024年04月07日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


前回、取り上げたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの工房作とされる作品《書物の前の聖ヤコブ》(仮題)は、オークションの段階では、ラ・トゥールの工房につながる作品であるとすることには、異論がなかったようだ。しかし、すべてが親方画家ラ・トゥールの手になる「真作」と、工房において、親方の指示を受けながら、職人あるいは徒弟が制作の大部分あるいは一部を担当したという「工房作」との間で、美術史家や鑑定者などの専門家の間では見解が一致せず、現段階ではラ・トゥールの「工房」での作品との位置付けになっているようだ。

「真作」か「工房作」かでは、オークションでの評価、落札価格は大きく異なる。ラ・トゥール・フリークとしては、「真作」と認定しても良いのではと思うが、残念至極! 鑑定家はラ・トゥールには厳しいのだ。

========
N.B.
本ブログでも度々取り上げている17世紀フランス、ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、1934年に再発見され、注目を集めるようになった。パン屋の次男から画家を志し、貴族の娘と結婚し、フランス王室付きの画家にまでなった異色の経歴もあって、その作品には多大な関心が寄せられてきた。今日に残る作品数が少ない上に、署名のない作品もあるだけに、美術史上でも作品の真贋論争、あるいは工房作、模作などの論争には事欠かなかった。

1960年ニューヨークのメトロポリタン美術館は《女占い師》を、72年にはルーヴル美術館が《いかさま師》をそれぞれ購入した。今日ではいずれもラ・トゥールの代表作と考えられている、こrれらの作品に、イギリスの美術史家クリストファー・ライトは贋作説を突きつけた。そのきっかけは、これら2点の作品がそれまで「夜の画家」として知られてきたこの画家の作品とは、大きく異なる華麗な色彩が目を惹く昼の作品であることにあった。それまでの作品には見られなかった装飾的な署名が付されていたこと、衣裳に描かれた模様などをめぐり、異論が提示されたが、決定的な反論とは認められず、今日ではラ・トゥールの代表的作品として人気を集めている。それほど、ライトにとっては「夜の画家」と思われていたこの画家が、「昼の画家」でもあったということは、信じ難いショックであったようだ。そして、これらの名作が次々と新大陸へ流れてしまうということへの苛立ちもあったようだ。今では、これらの作品は、ラ・トゥールの代表作として確たる地位を占めている。




Christopher Wright, The Art of the Forger, New York, Dodd, Mead & Co., 1985, cover.
=========

こうした美術史上の論争などもあってか、この度オークションにかけられた《書物の前の聖ヤコブ》(仮題)のように、ラ・トゥールの手になったと推定される新たな作品が発見、提示されると、他の画家の作品以上に議論が白熱することがある。

それでは、「真作」と「工房作」の違いを定めるものは、なになのだろう。筆者なりにその要因を整理してみると、次のような点が挙げられる:

1)作品の持つオーラ
2)他の作品との比較、連想
3)画材(カンヴァス、枠、絵具、顔料など)
4)修復などの際の加筆具合
5)推定制作当時の工房の実態(職人、徒弟の力量)
6)史料(所有者、売買による移転など)

ラ・トゥールの作品を長らく観ていると、この画家に特有な画風があたかもオーラ aura のように画面から感じられる。今回の作品についても、そうであった。作品に接した瞬間に、あっと思う特異な雰囲気のようなものがある。筆者の場合、前回記した同じ画家の作品《マグダラのマリア》シリーズが直ちに思い浮かんだ。ラ・トゥールという画家の画題の選び方、独特な構図、画面の明暗などが、渾然一体となって特異な雰囲気を醸し出している。この点について、鑑定に関わった美術史家やオークション・ハウスの鑑定者の間にはほぼ一致した受け取り方が生まれているようだ。

これまで知られてきたラ・トゥールの夜の光景 nocturne のジャンルでは、聖ヤコブをこうした構図で取り上げた作品は、他には発見されていない。しかし、作品を観た人々はほとんど誰もが、《マグダラのマリア》シリーズや《大工ヨセフ》の構図や色彩と強い類似があることを認めているようだ。制作年次は画家の制作意欲が高い時期であった1640-45年くらいと推定する人々もいる。 

作品の細部に接することのできる所有者、鑑定者などは、この段階で画家の署名の有無、カンヴァスの状態、絵具・顔料などの化学的分析などを実施することもあるだろう。今日までの時間的経過の過程で発生した老化、損傷などに対して行われたかもしれない修復作業の点検なども実施される。すでに帰属が確立されている同じ画家の作品との比較も行われている。作品の保存状態も良く、丁寧な仕事の成果が見てとれる。疑問を提示されているのは、ラ・トゥール特有の奔放な筆使いが薄れたり、絵具の表面が平滑に過ぎる部分などがあり、親方の指示の下に、工房の職人、徒弟などがその通り丁寧に仕事をしたのではないかと推測する専門家がいることである。しかし、これも鑑定に関わった全ての人々の見解でもないようだ。結果として、全員一致に至らず、現時点では優れた工房作ということになっている。いずれ、他の作品同様、時間が解決するのかもしれない。

ラ・トゥール工房の場合、親方と意思疎通がかなりあったと思われるのは、息子のエティエンヌである。結果としては画家としての人生を選ばなかったエティエンヌだが、父親の工房で、直接に指導を受け、当時の普通の画家としての技量は十分持ち合わせていたことは推察できる。宗教色の薄い世俗画のジャンルに入る作品については、工房あるいはエティエンヌ作とされているものもある。

こうしてみると、この作品についての最終的評価は、ラ・トゥール工房につながる優れた作品として、今後の研究、時代の評価に委ねられることになりそうだ。


Christopher Wright, Georges de La tour: Master of Candlelight, Compton Verney, 2007.(On the occasion of the exhibition), cover.

ラ・トゥールの「夜の光景」は素晴らしく、感動的だ。しかし、「昼の光景」も劣らず絶妙なのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする