コリン・ファース(ピアニストのサム)とスタンリー・トゥッチ(作家のタスカー)がゲイのカップルを演じる。イギリス北部の湖北地方のロードムービーといった雰囲気。タスカーは次第に記憶が失われていく不治の病に侵されていて、パートナーの顔もわからなくなるより前に(作家の彼ではあるが、すでに、かけなくなっていた)自殺しようと、二人で最後のドライブ旅行にでる。サムの実家でサムの姉の一家を訪ね、タスカーはサムに内緒で、友人たち一家を呼んだパーティを企画している。そのパーティはタスカーにとって、友人たちへの別れを告げるものであり、同時にパートナーのサムへの感謝と別れを告げるものだった。タスカーはサムに演奏会に出るようにしむけ(サムは、タスカーの企図をそれとなく気がついていたので、演奏活動もやめいつも一緒にするようにしていた)、サムの留守の間にタスカーは命を断つつもりで致死性の高い睡眠剤を用意し、遺書も録音していたが、サムは、最後まで一緒にいると自死を断念するように言う。物語の最後はサムの演奏会での演奏のシーンなのだが、このシーンがタスカーの自死を意味するのか、あるいは、タスカーがを一人にしても大丈夫と思ったからサムが演奏会に出向いたのか、作品では結論は描かれない。
タイトルは、サムの姪にタスカーが話す、私達の身体は超新星(Super Nova)のかけらでできているという言葉から来ている。タスカーは星に詳しく、物語の中で何度か星座を観察したり、天体望遠鏡で星空を眺めるシーンがある。
人間誰でも一人で死んでいくことになるのだが、パートナーがいれば、同時に死ぬ場合もなくはないかもしれないが、おそらく、誰かが残されることになるだろう。誰かが誰かの死を看取ることになるわけだ。不慮の死はともかくも、現代社会の多くの死は、誰かが誰かを送る結果となるはずだ。その際に、タスカーのようにパートナーのサムと自ら別れを告げる(目の前から姿を消すというやり方もあれば、自ら死を選ぶということもあるだろう)という選択に際して、悩み苦しむことになるかもしれない。愛の終わりについての普遍的な、同時に、解決のない物語が胸を打った。