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動的平衡という生き方

2010年05月03日 | 読書
 知ったかぶりをして「動的平衡」という言葉を職場で話したのは去年の4月年度初めだった。
 毎年職員が替わる学校という場にあってもそういう働きがあるのではないかと、思いつきのように語っただけだったが、結構その言葉の意味するイメージは心の中に残ったままだった。

 『動的平衡~生命はなぜそこに宿るのか』(福岡伸一著 木楽舎)という単行本があることは知らなかった。書店で見つけてすぐ購入した。
 科学モノは不得手なのだが、結構面白く読めた。特に4章(全8章)あたりまでの脳や食品のことなどは実に興味深く、大学の講堂で楽しい講義を受けている感覚のようだった。

 「時間どろぼうの正体」として記されたことはなるほどであった。
 年齢が増すにつれて一年の重みが相対的に小さくなるので一年が短く感じられる、といった説を私自身もなるほどと思うことがあったが、著者は体内時計との関係でその理由を語ってみせた。

 「人間は考える管である」とは言いえて妙である。
 脳がすべてをコントロールしていることは実証されたものではないそうである。
 言葉的な興味でもあるが、ガッツという英語がガッド(消化管)の複数形だということがとても気になった。

 その他、ミトコンドリアのこと、豚の思考のこと…思わず人に語ってみたくなるような、しかも単なる雑学ではなく、生命の奥深さを感じさせるものに溢れている書物だった。

 自分があまり読まないジャンルだっただけに、実に栄養になったように感じる。

 さて「動的平衡」である。
 結局、自分は何かを入れ何かを出して生きているわけだが、食物に限らず、情報という点でもそれは同じであろう。
 毎日そんなことをしながら、生命を維持している。外見は変わらなくてもそこにナニモノかが消費、生産されていることなんだなあ、と思う。そのナニモノこそが価値なのだ。