すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

群像劇的手法ってどうなの

2010年05月06日 | 読書
 連休中に計4冊、3つの小説を読んだ。
 発刊されたときから気になっていた本だが、文庫化に合わせて買い込んだものだ。

 『告白』(湊かなえ著 双葉文庫)
 『カシオペアの丘で(上・下巻)』(重松清著 講談社文庫)
 『東京島』(桐野夏生著 新潮文庫)
 
 どれもそれなりに楽しく読めた。

 『告白』はさすがに本屋大賞という作品で、我が子を殺された女教師の告白から始まる展開は読み手を惹きつけるし、ところどころに仕掛けがあってミステリっぽさも十分だ。

 『カシオペアの丘で』は、重松にとっての一番の長編らしい。長編といえば私には『疾走』が印象深いが、その時の息苦しさとは違う感傷めいた気分にさせられたのは、どこかノスタルジアめいたものだったろうか。

 『東京島』はとにかく設定の面白さ。そして読んでいくうちに人物になんとなく同化させられていくような…初めての桐野作品だったが、筆力が高いんだなと感じた。

 三冊目でふと思ったのは、三冊とも話者が複数で章立てされているということだった。
 最近はこうした形態をとる小説が多いのだろうか。たくさん読み込んでいるわけではないのでなんとも言えないが、他にもずいぶんあるような気がする。

 カテゴリーとして「群像劇」と言えるのかもしれない。
 複数の視点で語るメリットは様々あるだろう。
 まあ、書き手にしてみればそれなりの考えで設定すると思うが、読み手としてはそれらの中に自分にフィットする箇所がある可能性は高くなるわけで、受け入れやすくなるのかな、などと単純に考えてみる。
 そうすると、言ってみれば安易な手法という批判もできるか。

 この三作品のどれかが悪いとは思わないが、そうした形をとる必然性ははたしてあったのか(この必然性を何に求めるか、ということだろうけれども)と考えてみれば、自分の中では評価めいた感想も出てくる。