あるアクティビティの入門本を読んでいたら、次のような文章が書かれてあった。特に目新しい考えではないけれど、わかってはいるがなかなか実現できない。
ひょっとしたら今の時代、一番難しいことかなと改めて考えてしまった。
Volume.177
大人たちの側からの「やらせたい」という思惑が透けて見えるうちは、子どもたちが心の底から「楽しい」という気持ちにはならないのではないでしょうか。子どもたちに「やらせたい」という態度で接するというのは、実は大人の側の勝手な都合でしかありません。
「教育は強制である」「困難なことに打ち克ってこそ力がつく」という一方の考え方がある。
それを承知していれば、上掲の論など何ほどのことかと思うのだが、同時に垣間見える真実の存在に多くの人は気づいている。
若い頃、学びの動機付けは「楽しさ」と「必要感」だと考えていた。今もそれは間違いだとは思わないが、二つに分けて組み立てていくことはしないだろう。
二つはイコールではない。
しかし重なるように意味づける思考こそが肝要だ。
授業づくりならそこが鍵となり、教える側の醍醐味ともなる。生徒指導でも同じかもしれない。
「取り上げるものの楽しさを知っていますか。実感していますか。」
と問いかけてみて、そうだなあ3割を目指そうかと、現実的な思いも湧いてくる。
その程度のアバウトさでいないと楽しさも近づいてこない、と勝手な自論を仕立て上げようか。
ひょっとしたら今の時代、一番難しいことかなと改めて考えてしまった。
Volume.177
大人たちの側からの「やらせたい」という思惑が透けて見えるうちは、子どもたちが心の底から「楽しい」という気持ちにはならないのではないでしょうか。子どもたちに「やらせたい」という態度で接するというのは、実は大人の側の勝手な都合でしかありません。
「教育は強制である」「困難なことに打ち克ってこそ力がつく」という一方の考え方がある。
それを承知していれば、上掲の論など何ほどのことかと思うのだが、同時に垣間見える真実の存在に多くの人は気づいている。
若い頃、学びの動機付けは「楽しさ」と「必要感」だと考えていた。今もそれは間違いだとは思わないが、二つに分けて組み立てていくことはしないだろう。
二つはイコールではない。
しかし重なるように意味づける思考こそが肝要だ。
授業づくりならそこが鍵となり、教える側の醍醐味ともなる。生徒指導でも同じかもしれない。
「取り上げるものの楽しさを知っていますか。実感していますか。」
と問いかけてみて、そうだなあ3割を目指そうかと、現実的な思いも湧いてくる。
その程度のアバウトさでいないと楽しさも近づいてこない、と勝手な自論を仕立て上げようか。