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他者の他者であること

2019年09月20日 | 読書
 「からだのじぶん」と「こころのじぶん」がどうにも一致しなくなった、と思うのは齢をとると誰しも同じだろうか。いや、そもそもそんなふうに分けることの無意味さはわかっているのだが、どうにも別々であると思い込みたいのか。老化の一つの典型なのだろう。それにしても「じぶん」はいつも悩ませてくれる。


2019読了85
『じぶん・この不思議な存在』(鷲田清一  講談社現代新書)



 このロングセラー新書は間違いなく名著に数えられるはずだ。五年前に初読した時も90年代の発刊と感じさせないほど、問題意識にフィットしていた。それはきっと、自分の中で頻繁に湧き上がってきた問いだから、と言えるだろう。そう結論づけたときに、このプロローグの結びの文章の意味はとてつもなく重い。

「わたしはだれ?」という問いは、たぶん<わたし>の存在が衰弱したときにはじめてきわ立ってくる。ということは、ここで、<わたし>の意味というより、<わたし>が衰弱している事実とその意味をこそ問うべきではないのだろうか。


 いつ頃からか、たぶん小学校高学年か。「じぶんを変えたい」と思うようになったのは。そのうち思春期を迎え、「わたしはだれ?」と幾度となく問いを向けたので、衰弱しっぱなしだったのだろうか。問いはきっと何かに夢中であったときや必死に駆けていたときは現れないから、何事も長続きしなかったのだなと思う。


 若い時分の繰り言を重ねてもしようもない。今を生きる糧とするために、言葉を拾ってみよう。この著の一つの結論は、第四章のタイトル「他者の他者であるということ」と言えるだろう。「わたしは『なに』」を問うより「わたしは『だれ』」を問うべきなのだ。つまり「だれにとっての特定の他者でありえているか」だ。


 そこを起点とすると、家庭、職業、地域等々に持つ「役割」を越えた意味を考えねばならない。つまり代替可能でない固有の存在として成立しているか。極端な仮定を立ててみないと、見えにくい問いだろう。ただ言えるのは、言葉以上に身体で受けとめる感覚が、よりかけがえないものと言えるのは確かなようだ。