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歩く、その人生論は…

2019年10月05日 | 雑記帳
 日曜日に最終回だった「盤上の向日葵」というドラマは、主人公がタイトルを賭けた将棋対局の詰めの場面で、「二歩」という禁じ手を打ち、一気に終末を迎える展開だった。それはもちろん単なるミスではなく、過酷な運命に翻弄された挙句の果てと言えるだろう。よく喩えられるが何事も「歩」によって決着する。


 まったく関係ないが、確かめたいことがあって「」を辞書で調べた。「止」の4画で、忘れていたが「左足+右足」の形で左右で踏み出すという会意文字であった。止は左足、少は右足の象形なのである。歩く意味は今さら書くまでもないが、野球用語(四球)でもあるし、辞書によっては「月日・年月を経る」もある。


 そうかと思い、シソーラス(類語)で「歩く」を出してみた。三つに分類される。「歩く」「生きる」「処世」である。なるほど。実際の動きとして「生」に直結するのは「歩く」だよなと思う。齢をとったら転ぶな!ともはや合言葉のように使われているし、身体の不自由な方には申し訳ないが、歩くは生の基本的要素だ。


 歩くが意味するのは「移動」である。それが空間的か時間的かはともかく、移動によって変容することの価値を見つける、それが人生というものだ、なんて急に文学めいてしまった。「あなたの歩き方は見られていますよ」「君の歩んできた道は正しかったか」…こういった比喩表現が、今さらながら重く感じてしまう。


 さて「盤上の向日葵」。唐突に「なぜ二歩は禁じ手なのか」と疑問が浮かぶ。ルールの成立した理由は「認めると優劣がはっきりするから」らしい。人生論的に勝手な解釈をすれば、同じルートを重ねて通ることは避けよか。ただ取られた時や成金となった場合、また何度も打てるわけだからそれもまた暗示的だ。