すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

何かあったか生まれたかを問う

2019年10月18日 | 読書
 器でも料理でも、絵でも彫刻でも、あるいは形のない身体表現のようなものでも、ある二つの事物が全く同じという場合はあるかもしれない。

 しかし、それはあくまで見る側使う側のとらえであることも確かだ。


Vol.179
 「他の人と同じことをして作品を作っても意味がないのは、そこに至る思想を持たないからです。自分とその手法の間に関係性は何もない。何もないところには何も生まれないからです。」


 料理人土井善晴の連載の中で、美術家篠田桃紅に関するあるエピソードが紹介されていて、「表現する理由」について考えさせられた一文である。

 これを読み唐突に思い出したのが、その昔「教育技術」を吸収しようと励んでいた頃の自分だ。

 「ゴミを10個拾いなさい」という指示は、当時(1980年代)、教育技術の法則化運動に多少であっても関わった者なら忘れられないフレーズである。
 数を示して目標化することさえ一般化していると言えなかった時代に、効果のある指導言とはいかなるものかを教えてくれた。


 それを真似た教師たちは、そこから「考えた」のか。


 「子どもを動かす」とはどういうことなのか。

 その指示で、子どもはどんな力を身につけるのか。

 教育における教師の立ち位置はどうあるべきか。

 今、社会の中で学校はどんな役割をはたしているのか。
 ・・・・・・・


 跳び箱を一人残らず跳ばせることができた。

 算数のテストで学級全員100点を達成したこともある。

 素晴らしい学習発表に、涙を浮かべて喝采してくれた方もいた。


 そうした実践、ある意味の表現活動について、自分は思想を持ちえたのだろうか。

 むろん、対象となった子どもたちは作品ではないし、一人の人間同士として関りを持っただけなのだが、限られた時間に自分はどんな思いでその技術を駆使したのだろうか。

 その場に何か生まれていたのだろうか。


 今頃になって妙に気にかかる。