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サルが書くオオカミの事①

2019年10月08日 | 読書
 今読んでいる『反教育論』(泉谷閑示)という新書のなかに「われわれの内なるオオカミとサル」と題された章があり、強く触発された。全体の感想は後日にして、ともかく今までのオオカミに対する印象がかなり揺さぶられた。動物の生態等に詳しい人以外であれば、似たり寄ったりかもしれないと書き出してみる。


 動物園で実際のオオカミを見たことがある。また当然小さい頃から写真や映像で目にしているが、それほどの威圧感は感じない。しかしイメージとして恐ろしさが付きまとっているのは常だ。その多くは、童話や物語の世界で印象付けられたといっていいかもしれない。オオカミが人を襲い、食べる場面がよくあった。


 辞書でオオカミを引いてみると、第二義の「表面はやさしそうだが、すきあれば襲いかかろうとする恐ろしい人」(明鏡)は、どれも共通しているだろう。例語「送り狼」は、今や懐かしい響きがある。石野真子のヒット曲『狼なんてこわくない』♪あなたも狼に変わりますか♪のフレーズが微笑ましく思い出される。


 歌つながりで浮かぶのは『狼になりたい』という中島みゆきの名曲だ。♪夜明け間際の吉野家では♪と始まるこの曲を、二十代の頃何度も聞いた。いつぞやカラオケで唸ったこともある。サビは♪狼になりたい、狼になりたい ただ一度♪。この狼は、石野真子が歌う「狼なんてこわくない」と一緒に語っていいか。


 どちらの曲も若い男女を登場させている。そして狼という語を一種の欲望の象徴として使っている。しかし阿久悠の書いた「狼」と、中島みゆきの「なりたい狼」とはその質が違うだろう。野生の質や幅が大きく異なる。『反教育論』で取り上げられたのは、後者だ。「内なるオオカミ」の意識とは陳腐なものではない。
~つづく~