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ガラクタの大人のミカタ

2019年10月17日 | 読書
 シリーズ累計が200万部にも届きそうな『大人の流儀』。どんな層が読んでいるかは自分のことを考えてみても想像がつく。傍から見れば外見上は、十分「大人」なはずなのに「大人」になり切れていない感覚の強い者たちだろう。だから、ちょっとでも近づきたい、何かヒントを得たいとページをめくるのではないか。


2019読了92
『誰かを幸せにするために』(伊集院静  講談社)


 最近刊行されたのは「9」でこの著は昨年に出された「8」である。ここにも「大人とは何か」と一つの定義的な文章がある。「己以外の誰か、何かをゆたかにしたいと願うのが大人の生き方ではないか」。かなり格好いい句である。ギャンブルや酒にのめり込んだ著者でありながら、他の所でカバーしているからそう言える。


 この作家の小説やエッセイは7,8割読んでいると思うが、スタイルはほぼ一貫している。週刊誌の連載エッセイのタイトルで言えば「それがどうした」であり、この著ではもう少し詳しく述べていて「異論もあろうが、そんなことは、私の知ったことではない」。つまり、自分で決着させるのが大人だよということだ。


 原則そうでありながら、妙に揺らいでいるように感じる文章もある。大相撲の日馬富士の事件、引退について書かれた項がある。ここでは過ちに対する世間の怖さ、謝り方などに触れている。それでも自分は贔屓するという独特の結びをしつつ、題を「優しい時間」と表した。私には筋目より感情優先に思えたのだが…。


 「ガラクタの人生」という項で、改めてガラクタについて考えた。語源は「ガラは物の触れて鳴る音。クタはアクタ(芥)の約」。値打ちのない、役立たないモノを指すが「或る人にはかがやくものに見える」と著者は言う。日々、幼子と接していてつくづく思う。存在意義を決めつける権利は誰にもない。