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『反教育論』を読み続ける②

2019年10月11日 | 読書
 この著は「反教育」と「反の教育」という二面性を持つようだ。


2019読了91
 『反教育論』(泉谷閑示 講談社現代新書)


 人間が育つために、本当に必要なことは「教育」か「学習」か。単純な二択がそもそも困難という考えもあるだろうが、どちらかを選ばねばならないとすれば、どう答えるか。「教育はなくとも学習はある」場は至る所に見られる。しかしまた「教育なしに育った」悲惨さについても、歴史上に数多の例が残っている。


 かの斎藤孝氏はかつて「教育欲」という語で日本人のある特性を示した。様々な場で「教育しなくては」という思いは充満し、善意として語られる。しかし、本来「学習」が好奇心に基づいて自発的に行われるのに対して、「教育」は対象者の興味・関心よりも、一定の目的のために体系的になされることを指している。


 そう考えると、自分も含めて教育を不可欠なものと捉え、直接的間接的を問わず当事者として子どもに接する大人は、根本に立ち戻って自らの行為を振り返る必要がある。著者はその下地として、「性悪説的人間観」を挙げている。学校教育の場は年々「やさしく」なっているとはいえ、その観点は払拭されてはいない。


 教師からの懲罰的指導が禁止され、表層的・形式的な平等感が蔓延して、集団による教育の場は揺らいでいる。また家庭という個別の場でも、親自体の経験をもとに反動として「性善説的人間観」を持ってしまい緩くなったり、逆に自己都合を押し付けたり、混乱、混迷の様相を呈している。その現況を冷静に見よう。


 「教育とは強制である」は我が師がよく口にする。この意味をどのレベルで理解し、どう運用するか、折に触れ考えてきた。それは強制してもやらせる価値を明確に認識することが出発点だった。ただし独りよがりにならず、教育という行為の持つ根本的な問題点を絶えず意識することに裏打ちされなければならない。