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『反教育論』③揺さぶることだ

2019年10月12日 | 読書
何はともあれ、揺さぶってみることだ。心も身体も。


2019読了91
『反教育論』(泉谷閑示 講談社現代新書)



 第三章「『教育』に潜む根本的問題」には、今まで書いたことを含めて、「そう言えば」と納得できる事項がたくさんあった。著者は大学教授で講義を担当しているが、「シラバス」にはとらわれず学生から出された問題について考え、心理学的知識に結びつけているという。そこには基礎⇒応用という流れの批判がある。


 かつて「降りていく学び」と称された方法に興味を覚えたことがある。具体的な場や事項を取り上げ、そのためにどんな知識・理解が必要か考え、学んでいく筋である。帰納的方法を取り入れた授業実践もわずかにある。積み上げていく学習とは一線を画し、ずいぶんと魅力的に感じたのは自分の性格とも結びつくか。


 「基礎があって応用が生まれる」と普通に語られることは「まったくの本末転倒である」と言い切っている。音楽の道を志した経験もあるらしい著者の舌鋒は鋭い。特に唸ったのはピアノ演奏者の多くが陥る傾向、つまり「音楽」を奏でるのではなく「ピアノ道」をつき進んでいるという批判には、目を見開かされた。


 以前「自分探し」が流行り、次いで批判も多く出た。私も探すべき自分などあるのかと批判的だった。しかし著者は「自分探し批判」にあるのは、その言説を説く側の「合理化」へのすり替えとする。「自分自身を見出す作業」を逃げず行うことは確かに大事であり、他へ立ち向かうためには必須と言えるかもしれない。


 世阿弥の有名な「守破離」、また弁証法の「正反合」。その段階に照らし合わせれば、「破」や「反」をもっと強調すべきと結論づけたい。言うに易く行うに難い。目指すべき「離」「合」に届かないとしても、「守」や「正」だけに留まるような教育のあり方では、幸せは遠のく。オオカミ性を目覚めさせ、伸ばすことだ。