すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

算数研、極私的解題

2011年06月18日 | 雑記帳
 さすがと言うべきか、何ゆえと言うべきか。

 全国算数授業研究会の夏の全国大会の案内が学校に届き、そのテーマを見て、少し驚いた。

 言語活動の評価 ~なぜ、今「話す」「聞く」を重視するのか~

 テーマだけ見たなら、国語科と思うのが自然だ。
 もちろん「言語活動」「言語力」と声高に叫ばれていることは承知だが、なにしろ算数だからと声を接ぎたくなる。

 趣旨にはこう書かれている。

 算数における「言語を主とする表現力とは?」ということを考えていきたい

 言語活動が、表現力を育てるための手段なのか、あるいは活動そのものが目的となり得るのかも分かれるところでしょう


 単純に「教科のことば」を使えば、それで言語活動たりえるというレベルでもなさそうだ。
 教科としての目標、その授業のねらいに応じて、言語そのものと運用のしかた、さらに非連続テキスト等との関わりといった面を、分析的に見ていくことなのか…。

 「話す」「聞く」というのは運用の仕方であるから、もう一方の「読む」「書く」を取り上げなかったのは何故か。
 そこが算数研の算数研たるところか、などと知ったかぶりで言ってみようか。

 逆に「読む」「書く」を重視する算数があってもいいし、それもまた大事なことには違いない。単純に考えれば、「読む」「書く」から子ども同士の関わりの濃さを求めていくために「話す」「聞く」にシフトしていく面もあるし、コミュニケーション能力うんぬんに直結するから、やはりそこなのか、と思ったりする。

 そう考えると、言語活動とは常に一連の流れであり、そのどこにポイントを置くかを指導者が意識する…俯瞰しつつ凝視する姿勢なのだなと思う。

 いや待て、それより、言語活動の「評価」とは何だ?
 これは評価規準がどうのこうのという見方ではないだろう。
 授業に生かす評価といった方向に違いない。
 そうするともしかしたら、これは!
 「話す」「聞く」を重視するのは教師か!そういうカラクリだったか。

 と、またとんでもない地点に辿り着いてしまった。

 ともあれ8月4日、地域にある算数数学研が坪田耕三先生らをお招きする恒例の研修会がある。今回は本校児童を対象とした特別授業である。楽しみでたまらない。
 どんな言語活動が展開されるものなのか。

無重力が一人歩きする

2011年06月17日 | 雑記帳
 六年生の教室に廻っていったら、廊下側の掲示に今日の日付と共に、記念日や何の日かなど記されている。日直か係の仕事だろうか。

 新潟地震のあった日

 ああ、あの時だと、窓が大きく揺れた風景を幼かったけれどしっかり覚えている。

 和菓子の日

 なるほど。これは何か謂れがあるのかな。どうせ和菓子協会などが絡んでいるだろうな。

 無重力の日 

 えっ…ああ、六月十六日で「ム ジュウロク」から「ムジュウリョク」か。くだらないなあと思いつつ、えっ「無重力の日」って何だと疑問がわく。

 そもそも「○○の日」「○○記念日」とは、何かを祝ったり、何かを盛り上げて振興させたりすることだろう(反対に忘れられないよう、風化させないようというのももちろんあり)。そのものの普及や経済的な価値に結びつけようというねらいがあることも承知だ。だから、非常に多くの「○○の日」があって不思議ではない。

 「豚足の日」「ポストイットの日」「窒素の日」「保留の日」…そんなものがあるかどうかわからないが、それなりの意義を考えてみようということにはなるかもしれない。

 しかし、それにしたって「無重力の日」では、何をどう考えればいいというのか。
 無重力空間があることを発見した日だろうか。無重力という言葉を初めて使ったという日なのだろうか…。ではそれをどう意義づければいいのか。人は重力によって生かされている?重力がなければ大変なことになるから…これでは無重力に感謝することにはならないではないか。
 もしかしたら無重力の発見によって何か画期的なことが起こった日?ニュートン?万有引力?スペースシャトル?…名前だけの知識は浮かぶ。

 で、検索してみたら、なあんだという結末でした。
 http://www.tisen.jp/tisenwiki/?%CC%B5%BD%C5%CE%CF

 上砂川町の地域振興という意味ということでしょうかね。
 でも、その施設そのものは簡単に廃止されてしまって、今名前だけが残っているのも何か空しいね。
 残っていること自体が、振興の妨げにならないといいのだが。

なぜスイッチを切るか、自分レベルで

2011年06月15日 | 雑記帳
 本県でも「節電行動」の試行日ということで,全県的に宣伝がなされ,それなりの行動をとってみた。
 結果がどうなるかにも関心はあるし,もちろん必要であろうことは理解しているが,今ひとつひっかかりを覚えるのはなぜだろう。

 こういう機会こそ便利さに慣れきった生活を見つめるべきだ,積極的に取り組み自分でできることをしようという声は大きいし,確かにそのとおりかと頷く。
 様々な電力消費の工夫をすることは,生産の効率化につながるし,もっと大胆に行ってもよくないかという発想もあるようだ。
 かと思えば,15パーセント節電など無理だ,結局無理なことが証明されて,原発やむなしという結論にもっていくための巧妙な戦略だ,と語る人もいる。
 また,これだけ電化を進めておいて,それを使わない,制限するとは何事か,ペテンではないのか,とこれもある真実をついている発言もある。

 いずれにしても,その行動が何のためなのか,自分なりの結論が大切ではないのか…頭に浮かぶのはやはりそのことだ。

 自分がスイッチをきることが,被災者の誰かの笑顔に結びつく…そんなふうに考えたいが,それもまた遠くから聴こえる声にすぎない。多くの寄付や義援金が今後役立つのは間違いないだろうが,その手前でゴタゴタしている現実が見えることもたしかだ。
 いつも,誰かに指示されたから,勧められたから,みんながやっているからという判断の末の節電であったら,大事なものは見えてこないのではないかな。

 なぜそのスイッチを切るか…案外,外は明るいし,その道具を使わなくともできることはある。
 この判断を繰り返しながら自分には不要だったモノ,コトを見つけられたらいいと思う。誰かからの操作を逃れられたらと思う。

 節電行動を,自分レベルで解決,納得できたら,国の政策に対する向き合い方も決まってくるような気がする。

だから、一人でメシを食えない

2011年06月14日 | 雑記帳
 たまたま回したチャンネルで(こんな言い方は古いなあと思いながらも、選んだとか押したではその時の雰囲気とちょっと違うんだよなあ…それはともかく)
 『カンブリア宮殿』という番組が放送されていた。キャスターが村上龍で経済関係者を招いて話を聞く内容らしいが、その日のゲストは「花まる学習会」の高濱正伸氏。
 ちょっとひき込まれるように観てしまった。

 特に印象深いのは、この言葉。

 「合わない病」

 塾出身者らしい若者を集めてのセミナーの場で、高濱氏が熱く語るのは、「自分に合わない」ことを理由に挙げて、何でも逃げてしまう昨今の風潮に対する批判である。
 どこかに自分を待っている場所があるはずという幻想にとらわれて合わせるための努力をしない若者たち…これは「個性尊重」という言葉が変な拡がり方をするとともに緩みきってしまった教育現場にも、大きな責任がある。

 また、高濱氏は塾に来て三日目ほどの親子の会話を聞くと、続けられるかどうかを判断できると、実に面白い話を再現した。
 つまり、親が「きちんとやったか」と問うたとき、それを受けて答えられる子は、しっかりと育っているというのだ。よく見かけられるは、親が今日のことを訊ねたときに、こんな言葉で返すという。

 「っていうか腹へった」

 それに対して、親がたしなめて「きちんと答えなさい」と言えばいいのだが、親もこんなふうに答えたりする。

 「あっ、そういえば買い物にいかなくちゃ」

 この噛み合わなさが一家庭の中で在り得ても、外には全く通用しないことの自覚があるのだろうか。
 ここにはその時その時の感情を拾って言葉にしている、雑な空気に生きている姿が見える。
 そんな中では、確実に「合わない病」は進行するだろう。

 「一人でメシを食える大人になること」

 高濱氏の掲げるこの教育方針の言葉に異を唱える人は多くないだろう。文科省がキャリア教育を打ち出してねらうこともそういう括り方だって出来る。
 しかし、子どもの現実の捉えやどう迫っていけばいいのかについては、大きな隔たりがある。

 「本当は公教育で…」と高濱氏が語った内容の多くは、実は昔の学校では結構行われていたことだったり、遊びの中で自然に体得できたことだったりする。
 それを思う時、どこか間違った場所へ連れてこられたような感覚を持ってしまう。
 いや、わかっていながら手を振り切ることもできずに、一緒に歩いたと正直に言わねばならない。

下衆な本音でサヨウナラ

2011年06月13日 | 教育ノート
 学校報のネット版として続けていたブログ「三つの輪Web」を閉鎖した。
 詳細については書くべきことでないと判断しているが、自分なりの総括はしてみたい。

 前任校で始めた学校ブログのきっかけは、学校ホームページが盛り上がっていないなあと感じたことだった。ある依頼によって近隣の学校ホームページを隈なく調べたところ、あまりに活気がない。
 紙版の学校報発行だけでは少し物足りなさを感じていた自分にとって、その現状を見たとき頭の隅っこに置かれていた言葉が蘇ってきた。

 情報教育支援員の方が言ったこと。
 「ブログでアップするのがかなり簡単だと思うし、日常的ですね」

 情報教育の研究分科会で、ある校長先生が語ったこと。
 「校長が、自分でやるのが一番いい」

 ある面でかなり単純な性格そのもの、とにかく新しいモノには近寄りたい性向のある私には、むくらむくらとやる気が生じたのだった。

 実施に向けていくつかのハードルはクリアした(いや、これは跳び越えたと言っていいのか、踏み倒してきたのか、定かではないだろう)。広告削除やコメント設定など自分でできそうなこともした。
 何より保護者への説明を事あるごとに行いながら、小さな山沿いの学校でスタートした。
 世帯数や地域性も関わるのでアクセス数は思ったほどは伸びなかったが、いくつかの嬉しい感想をいただき、実感できることがあった。

 ブログを読んでくれる人は、学校の大きな味方となっている

 そして、現任校に来てからも規模は違うがやってみようと考え、準備をして5月半ばからスタートさせ、2年あまり継続できた。
 
 現任校での総記事は全部で452。
 授業日数より多いのでこれは合格点をあげてもいいのではないかと思う。
 記事そのものの形でデータ保存しようと思ったので、一つ一つ貼りつけながら残しておくこととした(もっと簡単な方法があるのかなあなどと思いつつ、約6時間…ああ頑張った)。

 形式は、児童の活動写真中心で構成したのだが、なんだか2年前の方が迫力が感じられる…うっ、これはマンネリか。
 子どもの姿を撮ることは、やはり自分も躍動的でなければならないし、その意味では様々なアングルを試せなくなったことは…惰性?老化?限界?…怖いことばが浮かんでくる。

 毎日ブログにかける作業時間は20分ほどだったが、日課的になっていたので、正直少し寂しい気持ちがある。
 ただ、閉鎖を決めた問題点について議論を避けたのは、ネット活用推進そのものに有効でないと考えたこともあり、自分としては早く切り換えて、また違う形でホームページに関わろうと既に決めている。

 それにしても更新率で秋田県1位(日本の学校・全国の学校サイト検索)は一回でいいから取りたかったなあと、万年3位だった悔しさという下衆な本音を出して終わる。

言葉でつなぎとめる自分

2011年06月12日 | 読書
 この地を離れていた学生時代を除けば、おそらく私は二軒の理容店しか利用していないと思う。
 一軒は親に連れていかれた近所の店で、中学以降はもう今行っている店にしか通っていない。
 いつの頃からか、「床屋」という場所はずいぶんと話の弾むものだなあと感じていた。それに世間一般の見方もそうであるような、映画やテレビでみる床屋でもそんな風景が映し出されていた。

 そもそも話好きな人がその職業に就くものなのか、「床屋は地域の社交場」という言い方があるようだし、話好きにならざるを得ないものなのか…。
 もちろん無口な理容師もいるにはいるだろうが、ただ黙々と鋏や髭剃りを動かされたとしたら、想像するとちょっと怖い気がする。

 なぜ、床屋では話が行き交うのか。
 それは理容師が話しかけ、相槌をうち、語り始めることがきっかけであり、職業に付随したサービスのようなものかなあなどと漠然と考えていたが…。

 『未見坂』(堀江敏幸 新潮文庫)

 久しぶりに堀江作品を読んだ。印象が奥深く残っている『雪沼とその周辺』と同じ連作短編集である。

 その一つに「方向指示」という理容店を舞台にした短編があり、作家の作家たる視点に、思わず感心してしまった。

 理容師や美容師には、二つの現実がある。

 と始まるその一節には、目の前のお客さんの頭と、鏡に写る風景を行き来している存在の小さな危うさが描かれる。

 確かに、自分が直接に働きかけている対象を見つめる目と、その対象が映し出される架空を見つめる目(そこには対象者がどう判断するかという複雑な重なりもあるような)が必要だし、結構大変な精神活動があるのかもしれない。
 
 むこうとこちら。そのあいだの自分をつなぎとめるのは、ときに、言葉だけになる。

 人一倍手先の器用さが求められる仕事だと思う。
 しかし細心の注意を払って刃物を扱いながら、二つの現実を行き来することには、緊張感を強いられるのだろう。
 いつも自分自身を励ます言葉が必要だ。
 そんなふうに思って聴けば、床屋のしゃべくり話も味わい深い。

 まあ実際疲れている時、妙に付き合わされれば「寝かせてくれよう」と言いたくなったりもするのだけれど。

受けとめる術を身につけて

2011年06月09日 | 読書
 そういえば佐藤正寿先生が先日ブログに書かれていたな、と机上に上げられていた冊子を読んで思いだした。

 http://satomasa5.cocolog-nifty.com/jugyo/2011/06/post-579b.html

 「『保護者は怖い』と身構える先生方へ」と題された小野田正利大阪大学大学院教授の文章である。
 幸せなことに、クレームや苦情などが相次ぐような職場に勤めた記憶はない。この地域全体がそうだろうと予想される。
 しかしまた、問題が皆無だった学校に勤めたこともない。

 「モンスターペアレンツ」という言葉が登場したときは、上手いこと言うもんだなと思った程度で、テレビドラマなんかで取り上げられると、その多くは都会の問題でやや傍観者的な眼差しであったことは否定できない。

 小野田氏の代表的な著書『悲鳴をあげる学校』は、昨夏読んで感想をメモしていた。

 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/1b791e960ba738eb8fe0fdf304f16400

 最終的な心がけしか残せなかったが、今この論考を読み、では具体的にと考えた時に、実に明確な指針が出ていると思う。
 それは、見出しに挙げられた四つに集約される。

 1 保護者アンケートを読み直す
 2 学校の論理と都合を押しつけていないか
 3 「モンスター」という言い方はやめよう
 4 学校だけで解決できない場合もある


 3はともかく、それぞれにキーワードがある。

 1,2を通して、まず大事なことは、「要望として理解すればいい」か「苦情としてうけとめ」るか、その判断である。
 感情的に反応してしまう気持ちは、向き合う場合の姿勢に表れる。

 4では、渦中の親のエネルギーを「分散的に受けとめるシステム」「薄める、あるいは小さくさせていく戦術」がある。
 ここには「誉める」という最大級の技を駆使できるという力量も必要だ。
 そのためには「向き合うべき」「聞き流すだけ」「適切な距離を保つ」という三点で見定めができる経験も必要かもしれない。

 イチャモン、クレーム対応までいかなくとも、今、学校として、問題を抱える保護者への応対は、大きく労力と時間を割かれている現状がある。
 ないことをよしとするのではなく、あって当然のことをどう分類して、どういい方向に向けるかが問われているのである。

 邪魔なものと受けとめるのではなく、「必要だった」「有意義だった」と結果的に思えるような、そんなふうに教師の言動を作っていかなければならない。

自分に引き寄せる戦略~杉渕講座感想②

2011年06月07日 | 読書
 杉渕先生が、講座で繰り返された言葉の中に次の二つが印象深い。
 (表現は少し不正確だが、ニュアンスとしてこんなこと)

 「校長の言うことはテキトーに聞いておけ。」

 「私の真似はしないでください。部分的にはいいと思うが。」


 前者はともかく(まずは棚上げしておいてください)、後者は複合された意味を持つように思う。

 そんな危険(笑)なことすれば、周囲から浮くよ、管理職ににらまれるよといったデメリットが大きいだけではないだろう。

 数々のネタ、スピード感、リズム、圧倒的な声…これらが単独のもので、個々に独立しているわけではなく、総体が杉渕実践であるのだから、なかなかつまみ食い的にチョイスすることは難しいように感じる。
 そして言うまでもなく気づくのは、その実践が杉渕鐵良という強い個性に支えられているということである。
 武闘派とでも形容していいほどの迫力や、凡事を徹底することに強くこだわりを持っているからこそ、指導が行き届く。

 そこまで、いわば人格や体力!まで踏み込んでいこうという覚悟は尋常ではないし、本当に限られた人のみしか歩めまい。

 だから我々凡教員には無理なのですよ…
 
 と簡単には引きさがるまい。
 今回の講座で紹介された中でも、部分的に取り上げられる指導法はいくつでもあるはずだ。

 例えば、詩の音読では、「一つの言葉を掘る」「一つの言葉を拡げる」指導があった。

 どんな「木」ですか?  どんな「あめ」ですか?

 例えば「状況を定める、変える」「背景を定める、変える」指導があった。

 バック音楽を流す   恋人同士ではどう言う?

 これらは教師が自己表現さえしっかりやれるのであれば(一緒に考える、一緒に楽しむ)、かなり効果的に違いない。

 九九の指導やテスト指導における、練習の頻度と達成状況把握の発想は、単に指導法としてだけではなく、児童観・指導観に拠るものだが、共鳴できれば、追試可能な範囲でもあるように思う。

 その昔、杉渕先生の「基礎の時間」を複式学級で2年ほど追試したことがあった。一定の手ごたえも感じたことを覚えている。
 今振り返ってみれば、複式という特殊状況に応じてこの部分を取り上げるという限定がよかったのかと思う。

 要は、自分という個性、そして置かれている立場に引き寄せられるのは、どのエッセンスなのか吟味し、取り入れていくという戦略である。そしてそれはどんな年齢やキャリアであっても、遅すぎることはないだろう。

 都会と地方の教員採用状況には差があり、それによる教育の思想や技能の伝達という面でも違いがある。
 しかし、いずれにしろ同じ教える立場の者として、刺激し合う関係を維持していくことの重要性に疑問符はつかない。

 その意味で、杉渕鐵良という実践者、それを迎えた東北青年塾という存在の有り難さをしみじみと感じている。

人を動かすのは身体~杉渕講座感想①

2011年06月06日 | 雑記帳
 伝わるのはエネルギー

 今から8年前に勤めていた学校で、ある保護者と語っていたときに不意に心に浮かんだこの言葉は、それ以後自分の大きな観点となっている。

 杉渕鐵良先生の授業や指導は、まさにその強さや重みを直接的に感じさせてくれるものだ。
 今回の東北青年塾での講演でも、ひしひしと伝わってくるものがあった。

 参観、拝聴するたびに、私なりの切り口をもって感想をメモしてきた。スピード、リズム、イメージ、耳の鍛え…が思い浮かぶ。
 今回はやや抽象的であるが「身体性」という面から記してみたい。

 一見してわかる「声の重視」「スピードへのこだわり」「繰り返し」「小刻みな変化」「集団による揃え」…いずれも、身体反応抜きには考えられないことであり、その要求の強さが何よりの特徴である。
 指導原則の一つとして、端的に語られたのは、例えば次の言葉である。

 説明すると、にごっちゃう

 やり方を何度も繰り返すことによって、わからせる、伝えていくことがベースになる。

 説明後に「質問はありませんか」と問いかけ、何度も問答をしたりする場面はありがちなことで、そういう手法が丁寧でわかりやすい指導とされがちだが、実際はどうなのか。
 時間的なロスに留まらず、学びの流れがぎくしゃくしどこか散漫になる傾向が少なくない。
 それよりは何度も行うことで、頭でわかるより身体に沁み込ませることがより効果的ではないか。

 読み方の強弱や工夫についても、子どもの思いつきのような発想を取り上げるのではなく、どんどん教えていく。一定量を超えた頃にこんな姿が表れるという。

 子どもが自分から言うようになる

 この発想こそが「解放」された姿を希求する杉渕実践の核ではないか。
 教え込みにみえるその手法には、子どもへエネルギーを注ぎ込む指導の熱さ、そして冷静に看取り、診断する力に裏打ちされた自信がみなぎっているように思う。

 もちろん、微細な技術も見逃せない。

 例えば「超高速読み」の個人読みからペア、グループでの交互読みへの変換一つとっても、意識されていることは綿密だ。
 個別に速さを要求したときに表れる語尾の不徹底、それが交互読みにすることで、語尾への集中が増し、さらにレベルが上がる。

 子どもが喰いついてくる面白教材への扱いについては、全体的には途中でストップとわざと制限をかけ、自主的な取組みへの仕掛けをつくる。おそらくその後の声かけも指導として折り込みずみだろう。

 エネルギー燃費のいい身体づくり、頭脳づくりなどという突飛なことばも思い浮かぶ。
 「全力を出し切る」毎日を送っている杉渕学級の子どもたちにはちょっと似合いそうではないか。

 人を動かすのは身体である

 この逆説めいた言葉も自分の大きな観点になりそうだ。

ホトトギスの句から考えた

2011年06月05日 | 読書
 『リーダーになる人に知っておいてほしいこと』(松下幸之助 PHP研究所)から、もう一つ考えたことを。

 名高い三人の武将の性格を、ホトトギスの句で喩えている逸話は、あまりに有名である。

 「鳴かずんば殺してしまえホトトギス」(信長)
 「鳴かずんば鳴かせてみようホトトギス」(秀吉)
 「鳴かずんば鳴くまで待とうホトトギス」(家康)

 個人的には「鳴くぬなら」という上句で覚えていたが、まあそこは同じでいいだろう。
 これらが実際にそう詠まれたものかどうか定かではないにしろ、松下ならどう続けると問われて、このような句を語る。

 鳴かずんばそれもなおよしホトトギス

 個人の性格はまた、対象をどう見るべきかという視点でまとめることもできる。

 信長は、対象を選別する。必要のあるものしか見ない。

 秀吉は、対象に働きかける。強制する、揺さぶる、あれこれ工夫する。自分の動きを見ている。

 家康は、対象を信じる。対象自らが鳴きだすまで、待つ、見ているよというアプローチを続ける(実際は、そこに何かの表現法がある)

 そして、松下は、対象を誉める。

 対象のよさに目をつけ、それを掬いあげる。こちらが何をねらうかはおかまいなしの姿をみせる。(少なくとも素振りを見せる)
 ホトトギスには鳴くよさ以外にも他の面があるのではないかと探す幅の広さを感じることもできる。

 戦国武将と経営者の比較をするのもなんだが、家康を一歩進めた形が松下かと思う。

 対象を常に誉める心がけを持てたら、経営者に限らず、生きていくうえでの宝になるとも思う。