すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

読書してさえずって

2013年08月06日 | 読書
 『こころの栄養』(イズミヤ出版 2008)

 なぜこの書名なのかわからない。「秋田県を日本一住みよい県にするには?」というテーマに寄稿された文章が集約されている。県民性、産業、教育、政治などへの諸々の提言。バラエティに富んでいるし、「栄養」にはなるかもしれない。しかし改革、改善のために必要なのは、それをエネルギーにすることだ。


 『マボロシの鳥』(太田光 新潮社 2010)

 短編小説集である。2編目の「タイムカプセル」を読んでいたら、ふと「賢治?」と思った。3編目「人類諸君!」では「談志?」と感じた。そのどちらも当たっているようで、本当はズレているのかもしれない。素人小説読者にもぱっと悟られるようじゃ、まだその世界がこなれていないのか。でも面白かった。


 『子どものこころが動きだすことば』(七田眞 ぜんにち 2006)

 久しぶりの七田本。主に母親からの子どもへの言葉かけを取り上げて、7章に分けて好例、悪例を紹介している。根本は「信頼」だなとはっきりわかった。子どもの心、力を絶対的に信ずること。そこから言葉が紡ぎだされる。対照的に信じていけないのは、常識という名の鎧。その中に学校や学力も見え隠れする。


 『僕は結婚できますか?』(三戸学  無明舎出版 2010)

 筆者は脳性マヒの中学教師。本県教員である。以前の本より本音が赤裸々に語られている。その素直さに正直面食らってしまう感覚があった。これはきっと奥底にある差別意識がそうさせているのだろう。バリアフリーを進める世界保健機構「医学モデルから社会モデルへ」の提起を、今頃しみじみと考えている。

ようやくちょっとふりかえり

2013年08月05日 | 教育ノート
 関わりの深い二つの研修会が終了したので、なんとなくひと息ついた感じがする。ようやく夏休みらしい?仕事ができる。といっても結局一学期になかなか進められなかったことに手をつけただけだが…。今日は午前中に職員面談を行い、それから継続発行を目指している校内報の六月、七月分をPDF化してみた。


 校内報は自分のホームページにアップすることにしている。「塵も積もれば」という気持ちなので、いったん休むとどうもリズムが崩れるから月3回程度を最低ノルマとして課している。そうなると参加した会などの感想も必要になり、7月は震災や人権関連も入れてみた。報告中心であっても自分の考えは必須だ。


 講座や研修会への参加報告に必要な事項は、公的に決められている。当然それを満たしたうえでだが、何を学んだか常に明確にしたい。体裁のいいことを並べたてるのではなく、今の仕事、現状と照らし合わせて考えるべきことにピックアップしてみるべきだ。その作業を怠らずやることで形作られることがある。


 その意味では、校内報という場を設けて、職員という読者を抱えていることはこのうえなく幸せなことだ。一方的になるのは仕方ないが、何かの話題の折に書かれた内容が出てきたりすることもあり、それなりの役割も果たしている。構成や表現が拙いのは仕方がないが、基本は自己開示、協働意識。継続に意義あり。


 金曜日の報告として、自分の学びを校内報に書いてみた。限られたスペースで何を伝えるか、そして伝わるように書けるか、いつも不安はあるが、今回は特に自信がない。それはきっとライブ感が強かったからだ。自分の文章力は棚に上げるが、やはり声にのせた文字、表情を伴う言葉は威力が違う。会は成功した。

学力と幸せとメタ認知と

2013年08月04日 | 雑記帳
 地区の所属研究会組織で主催している夏恒例の研修講座を終えた。今回の講師は照井孝司先生と堀裕嗣先生。一日たっぷりと模擬授業,講話,トークなどでお二人の話を聴くことができた。運営上の反省は多いが,十分に刺激的な時間になったと思う。参加者各々の視点で何かを学び取っていただいたとすれば嬉しい。


 個人的に印象深い講師発言は,堀先生の言われた「学力が幸せを保障しなくなってきた」という一言。もちろんずいぶんと流布している言辞だが,改めて考えざるを得なかった。かつて心に強く印象づけられた「学力とは,幸せをつくる力」という大先輩の声をまた思い出すこととなった。このページに挙げていた。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP058.html


 前者の「学力」はいわゆる「試験学力」と置き換えてもいいだろう。そして後者はそれとは異なる。あるべき学力を問う形といってよい。そして教師という立場であれば,子どもたちが幸せを形作っていくための力としての「学力」に正対したい。今,「学力日本一」が「幸せ日本一」になるとは誰も思っていない。


 また「学力」観は,人生観や価値観と大きく関わっていることを今さらながらに思う。ただ自分はかくあるべきという強い信念は,教育を担う立場としては諸刃の剣と言えるかもしれない。学習者に伝わっていくのはエネルギーではあるが,その感化は常に不易なる価値に結びつくわけではないという危険性を孕む。


 結局のところ,教師にとって自分の学び方が学力観を左右するのではないか。一つのことを懸命に追いかける,幅広く吸収する,また「答」のあり方をどこに位置づけるか,どんな評価を得たいのか…。ここは研修会参加者の発言をみても,濃淡がでたように思う。それこそ「メタ認知」してみることが貴重になる。


 メタ認知は照井先生のお話のキーワードであった。堀先生が著書で何度も強調されていることでもある。授業や研究を進めるうえで有効なことは間違いない。また仕事,日常生活においても自らの足どりの支えになるだろう。しかし,メタ認知が幸せを保障するわけでもないことも,メタ認知するべき一つなんだと思う。

学習用語の学習の問題

2013年08月02日 | 読書
 先月末の「学習用語」をテーマとした研究大会に出る前に、ほんのちょっぴり資料に目を通したが、その中で印象深いものを書きとめておきたい。

 2005年に出版された『言語技術教育14』~特集 この言語技術を「この授業」で身につける~ が一番面白かった。
 この本は、「鍛える国語」の柳谷直明氏が著書を出した翌年であり、第二部に「学習用語」が特集として組まれていた。

 なかでも納得できたのは、宇佐美寛氏の言葉だった。
 「万事金の世の中だ ~警句こそが学習用語なのだ~」と題して書かれた文章である。当時もこれを読んで納得したなあということがすぐ思い出された。

 単語に含まれる概念だけを与えるだけでは学習は促されない。
 その単語を含みこんだ、目的を示す強い警句を与えるべきである。

 単語としての学習用語の学習が、学習者自身の目的の意識を欠いて先走りし独走するのを危惧する



 学習用語を単語の形で表すか、そうでなくともよいかは議論が必要だろう。その点に大きく関わりを持つが、結論として学習者に言語技術を定着させることだとすれば、上の言葉の正しさは揺るがないと思う。


 第二部から離れるが、第三部の「読み」に書かれた横田経一郎氏の『「宣言的知識」「手続き的知識」をスキーマ化することで読む能力が向上する』と題された論文も興味深かった。

 技能を上達させるための知識を「宣言的知識」と「手続き的知識」の二種類とし、それらの体系化、スキーマ化を図ろうというものである。

 具体的に説明文指導の例として、宣言的知識では段落、接続詞等のいわゆる用語を挙げている。また手続き的知識として、問題と答えを探す、まとまりの関係を考えるなど、活動とされていることを挙げている。

 いずれ、学習用語の指導を強く推進していく考えを持っていても、単なる単語指導と同じであるという認識を持っている者はいないだろう。
 問題は授業場面で、「用語」がどのように出され、どのように説明され、どのように使われるかである。さらに言えば、一定期間の指導(担任をイメージしている)で、どう繰り返され、どう定着させているか、である。

 国語科の学習用語について、昨今の出版物から推進傾向は見られるようだ。詳しい内容についてはごく一部しか理解していないので、もう一歩勉強してみたい。

憧れの非功利的な知性

2013年08月01日 | 雑記帳
 再びラジオデイズの放送から。大瀧詠一を師匠と慕う内田樹、平川克美らが大瀧氏のスタジオ兼自宅を訪れて雑談?している。かなりコアな話だが、随所に知性を感じさせられる。典型的なのが書棚に様々な分野の本が並んでいることについて語る箇所。大瀧氏は「CIAに後れをとってはいけない」と語って笑った。


 もちろんそれは冗談だろうが、そこで知識をいつでも「間髪入れずに」引き出してくることの重要性が語られる。何がどこにあるかを自分で把握するために、多くの本にはたくさん付箋が貼られている。そして全部を見渡せる場所に置くという。階層的に整理するのではなく、横に這うイメージで知識が広がっていく。


 連想で知識を広げる、つなげるという見方は昔からあったが、あまり奨励されてはいない。拡散的にならざるをえないので、授業として考えたときも扱いにくいことは確かだ。しかしこれこそ訓練が必要なのかもしれない。常に集中、整理整頓された体系に馴らされると、想定自体が小さくなってしまうのではないか。


 「作品」というものは、分量が決まっていたり、締切があったりするものだという発言にも驚いた。考えてみれば確かにその通り。自分の思考や表現を作品にしようと思えば、避けては通れないことだが、それを嫌う人がいる。これはちょっとした驚きだ。「非功利的な知性」…まさに憧れの世界、ずっと遠くにある。