すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

この男のナメ方の意味

2013年08月21日 | 読書
 『いまなんつった?』(宮藤官九郎  文春文庫)

 宮藤官九郎の名前を知ったのはいつ頃だったのだろう。
 たぶん新進の脚本家としてずいぶん以前からその名は聞いていたのだと思う。

 はっきり、その顔と名前が一致した作品は今でも覚えている。
 NHKのドラマ『蝉時雨』だった。2003年頃だろう。
 
 主人公の友人島崎与之助役で出ていた、およそ俳優らしくないその姿を「おおう、この男か」と思った記憶がある。

 なんといっても今をときめく人である。
 脚本家としても、今までの映画や民放人気ドラマのときとはかなり様相が違うのではないかと思うし、マスコミの露出度も順調に?上がっているのではないか。

 この文庫は「セリフ」のことを書いている。
 とはいっても、舞台、映画、ドラマなどに限ったことではなく、日常目にした耳にした出来事、家庭内のことまで含めて、「いまなんつった?」と一瞬耳を疑うような、驚きの(というより、笑いやあきらめや呆然さに満ちている)セリフが紹介しながら、周辺の出来事を彼独自の視点で綴っている。

 その一つ一つはともかく、かの『あまちゃん』に見られる多数のギャグや展開の奇抜さは、彼の本質を表しているものだと、はっきりわかる文章がある。
 映画『GO』で本編に関係ないエピソードを入れることの顛末をふり返りながら、クドカンはこんなふうに告白!している。

 常日頃、自分の周りで起こっている事をシリアスに受け止めるか冗談と受け止めるか。まあ僕は後者なんですけど。どっかでナメている。常に冗談を探している。

 『あまちゃん』はいわばそんなふうに人生をどっかでナメている男の、真骨頂が出ている作品なのかもしれない。
 
 アイドルなどという題材を、伝統あるNHKの朝ドラに持ち込んだこと。
 まるでパロディとしか思えない設定で、楽屋オチのようなセリフを連発すること。
 「わかるやつだけ、わかればいい」といった居直りとも言えるエピソード挿入…。

 テレビの前の民は、もうナメられっぱなしで、うひゃうひゃと喜んでいるのである。もちろん自分もその一人。

 そうして、この話が(つまりクドカンが)どんなふうにあの大震災に向きあうのだろうか、という漠然とした思いは多くの人が持っているに違いない。
 人生をどっかでナメている男が、どんなふうに描くのだろうか。
 そこに着いたとき、この男のナメ方の本当の意味が浮かび上がってくるのかもしれない。

 ナメたらしょっぱく苦い味…今年の夏の自分の肌だよ。

 いま、なんつった?

小さく外言化する効用

2013年08月17日 | 雑記帳
 勤務している市の成人式があった。開始時刻より少し早めに会場に入ると、出身中学ごとの記念写真撮影が行われていた。中学卒業時の担任も招いて氏名点呼をしながらステージに上らせるのはなかなかの企画だ。しかし点呼する声がマイクで響いても、さすがに返事は周りに届かない。どこか象徴的な風景である。


 来賓代表の市議会議長挨拶。前置きなしに突然語り出したのは、歌のナレーションらしい。歌い始めたのは「雨の中の二人」(by橋幸夫)。参加者は手拍子を取り場が和む。インパクトが強いだけに肝心の挨拶がかすむのではと心配になる。しかしこの選曲はなぜ?去年は「美しい十代」でそれなりに理由はあったが…。


 記念講演講師は隣県岩手のフリーアナウンサー後藤のりこさん。「心の筋トレ!1,2,3」と題して、弁舌さわやかに新成人に語りかけた。カウンセラーの資格を持っている方なので、わかりやすく日常のストレス解消術的なことを紹介してくださった。プロフィールにあった「ほめ達1級取得」。えっ、なんだそれ。

 「ほめる達人協会」という団体があった。様々な商売?があるものだ。まず思いつくところがスゴイ。また「ほめ達」というネーミングもサスガ。自己啓発系だがプラス思考への特化がスバラシイ。以上習った「ほめ言葉3S」を使ってみた。すぐ使える自分って素敵。こんなふうに自分をほめるのが筋トレのコツだ。

 後藤さんによると,もう一つのコツは3Sを三回に一回は「つぶやく」ように発することらしい。言われてみればもっともなことだが,元気よく大きな声で連発するのはやや過剰表現とも受け取られる。内言に近い形での外言化はある意味での強調であり,本音と同一と感じられる要素が強い。小さく言う効用だ。

「しっかりしないと大変」の行方

2013年08月16日 | 雑記帳
 いつものようにyahooのトップページを見たら,終戦記念日にちなんだ企画があった。「日記で知る『子どもたちが見た太平洋戦争』」というページに入ってみる。こうした資料を見ると職業意識が出てしまい,どうしても教師の朱書きに目がいってしまう。何気なく見えるコメントに,ほほお,ううむと思った。


 12月8日の開戦を伝える「ニュウス」を聞いた子の日記に対して,担任教師が入れた赤ペンは「しっかりしないとたいへん」。そうとしか書きようのない一言である。その女教師(たぶん)がどんな境遇にありどんな考えを持っていたか想像できないけれど,しっかりしないと大変という心は万民共通だったろう。


 終戦の日の日記。文章に添えられたカップとビスケット?の絵に「今日の繪としてはいけませんね。もっと他にかくものがあったはずね」というコメント。敗戦に涙し,日本の立て直しを心に誓った子が,そのあと案外淡々とした暮らしを綴った子の気持ちがなんとなく理解できるし,返答する側の心も想像できる。


 開戦,敗戦,その両日の日記もコメントも同一人物ではない。ただそれを比較し想像してみると興味深い。誰もが持っていた「しっかりしないと大変」の行方は大人の見え方を狭くしてしまったが,子どもは坦々と時代を生き抜いている。それは未熟のたくましさであり,途上の輝きか。厳しい時代ゆえ育まれた。

すみませんと言ってスミマセン

2013年08月14日 | 読書
 先日読んだ,鷲田・内田両氏の対談部分に,こんな会話がある。

 鷲田  だから詫びるときに,「すまん」というのも,そういうことなんですかね。済まない。済んでいない。
 内田  確かにそうですね。だから,詫びや陳謝が成就した場合は,「済んだ」わけです。


 ここを読んで思い出したのが,愛読している「とかなんとか言語学」(by橋秀実)。
 橋は柳田国男の説を紹介しながら,次のような解釈をする。

 実は「済みません」ではなくて,「澄みません」。物事が済まないということではなくて,自分の気持ちが澄まない。いうなれば「私は濁っております」という気持ちの表明なのである。

 なんという発想の転換。
 「すみません」と頭を下げながら,自分の気持ちの濁りを相手に訴えているのか。それがその通りに伝わったら,当然,言われた方も気持ちは濁るわけで,これじゃあ,ほんとうに物事はスミマセン。

 かように,謝罪に使う言葉は結構面白い。

 例えば「あやまる」。「謝る」ということだが,古語大辞典によると「誤る」からの転義らしい。「誤りについての自覚」がもとになっているそうだ。
 つまり「私はあやまりましたので,あやまります」ということか。それにしたって「あやまります」という言い方を「間違えます」ととられれば,これはもうボケである。「あやまれ!」も「間違え!」ということになって,これもコントのようである。

 「申し訳ありません」…これは「申し訳」がないということ。弁解できませんということは,いったい謝罪の姿なのだろうか。
 「お詫びいたします」…もともとは「侘び」からきているという。「侘び寂び」である。自分の侘しい気持ちを表明してどうする,という気もする。

 そう考えてくると,いずれも自分の状態をさらけ出して,許しを請うということなのかもしれない。
 結局,謝罪とは,相手がこちらのダメージを確認してそれで納得していくような傾向があると思う。
 そうすると,ありきたりの言葉そのものよりも,疲れ切った表情,泣き腫らした顔,崩れんばかりの低頭,そんなボディアクションの方がより効果的か。
 そんな演技のようなとらえ方でどうするの,と思うが,人間の感情的な部分と対峙するためには,一つ心得ておくことも大事だろう。

 何度も手を合わせる機会のある,このお盆の時期。
 ご先祖様にも時々心の中で「すみません」と言ったりする。
 しかし,それも結局「澄みません」であって,こんな繰り言をしている自分にまさにぴったりだなと侘しく笑ってしまう。
 本当にどうもスミマセン。

お盆に「もてなす」を考える

2013年08月13日 | 雑記帳
 通勤途中で聴くラジオで、ある缶コーヒーのCMが流れていた。宇宙人ジョーンズが登場する例のアレである。
 結構長めのCMでストーリーがわかるようになっている。

 先日はなかなかのユーモアバージョンで、思わず笑った。
 たしか旅館か何かの接客が設定で「おもてなし」の大切さについて話した後、ジョーンズがお客とやり取りしている時に、客がこんなオチをつけた。

 「『おもてなし』っていうことは、『ウラはある』ってことかな」

 うーん、巧い。座布団2枚である。

 この洒落は解説するまでもないが、あれっ「おもてなし→『表』じゃない→『もてなし』だろう→『もてなす』って何?」と追究モードに入った。

 愛用の『日本 語源辞典』の「もてなす」には次のように書かれてある。

 【他四】もてはやす。大切にする。馳走する。饗応する。世話をする。おもてなし。

 最初に「もてはやす」があるのはちょっと現代の感覚にはそぐわないイメージをもってしまう。次の項の「もてはやす」は以下の通りの意味である。

 【他四】持て囃す・持て映やす=盛んにほめたてる。ほめそやす。歓待する。厚遇する。大切にする。もてなす。

 となると、「もてなす」と「もてはやす」は兄弟のような関係といっていいか。弟はちょっとお世辞が上手である、というような…

 さて、もう一つ意味のなかに「おもてなし」そのものが書いてあることも少しひっかかる。
 大体その語で辞書に載っているのか。

 電子辞書の「見出し語検索」(複数辞書に適応する)で打ってみると…あった!ただし「日本語大シソーラス」という類語辞典だった。まあ、これは予想通りである。

 「もてなす」の「語源」は次のように書かれている。

 持つ・成すの二語からなることば。持つは、取り持つ、取り扱うという意。成すは、為すで、動く、行動する。

 つまりは「取り扱いの行動」である。
 そこに他者に対する歓迎の意味を込めたところに日本人の精神性がある。
 今ふうにいうとホスピタリティーか。
 なるほど、ひとまず解決。

 ところで、「もてなす」「もてはやす」の次が「もてる」という語なのだか、この語源はちょいとした薀蓄になるかもしれない。

 もてるは、「持つ」ということばから派生した動詞。
 持つことができるの意を踏まえて、江戸の遊里から使われたことばという。


 何を持つことができたのか。
 アレか、ソレか、それともナニか。
 いずれにしても縁遠い。

大人のいない国の大人に学ぶ

2013年08月12日 | 読書
 『大人のいない国』(鷲田清一・内田樹  文春文庫)

 知の巨人と称してもいい二人の対談や個々の論考に、何度もページの端を折ることになった。

 改めてその箇所を読み返してみる。
 心に響く部分を書き留めて、自分の足取りの向きを見つめ直してみたい。


 1 ちょうど子育てや教育において、子どもをどのように育てるかではなく、子どもが勝手に育つ環境をどのように作ったらいいかと腐心することのほうが大事
 (第5章  鷲田)


 どこかに何かに限定された目的を持つのではなく、学びの本質において学校という場もかくありたいと思う一言だ。
 しかし、現実はそれとは違う社会が強固になっていく日常を抱えていることも事実だろう。

 2 家庭でも学校でもメディアでもネット上でも、子どもたちはどこでも同じ明快で非情なメッセージを浴びている(「社会的能力とは金の稼ぐ能力のことである」、「能力のある人間は上位にポスティングされ、ない人間は下位に釘付けされるのがフェアな社会だ」などなど)
 (第6章 内田)


 それに自分は加担していないなどと誰が言えよう。
 知らず知らずのうちに作り上げてきたメンタリティは、次のような一言にはっとさせられる。

 3 ケアがもっとも一方通行的に見える「二十四時間要介護」の場面でさえ、ケアはほんとうは双方向的である。
 (第3章 鷲田)


 それは建前や教条主義ではなく、「誰もが『じぶんを担いきれない』状況にあるのだ」という認識をもっているかどうかによって決定する。
 そういう大きな相互依存のなかを生き抜くという自覚こそ、「大人」の必要条件になってくる。

 それをなかなか認められない者は、どうしても感情に走る。しかも狭く、偏執であり、周囲の情報によって操作されたり、誘導されたりしている現実がある。
 この著には,政治や言論の自由と絡ませて論述されている。そしてこの状況は私たちの仕事の現場にも当てはまる。

 具体的にどうこう書ける事柄ではないが、何が正しく何が誤りかは、見る側の視点によって、そしてまた「成熟度」によって異なることは肝に銘じたい。
 ただ、それは斜に構えたりするということではなく、次の言葉を深く刻み、正対することだ。

 4 正しさを担保するのは正否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。この付託によってのみ、真偽正否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができる。
 (第4章 内田)



 今年の春に行われた対談が終章に収められていて、これも実に面白い。
 「身体感覚と言葉」と題された内容は、鈍った日常の動きや感覚に対する警告である。

横たわって考えた横の正体

2013年08月11日 | 雑記帳
 なかなか寝付けない夜半に,ふと頭に浮かんだ「下手の横好き」という慣用句。まあそんな趣味をいろいろ持っているなあ自分は…という思いが種になっているのだろうが,その芽がこんなふうに巡る。「横好き」って何だ。「横」はいい意味ではないのだな。だって横やり,横恋慕,横しま…。いったい横の正体は?


 寝ぼけたような頭で起きてから,辞典で調べてみる。広辞苑では「⑤正しくないこと。また無理にすること」の意味がある。古語辞典でも同様だ。明鏡には「見当外れで無関係な(また道理に合わない)方向や場所」という意味もある。可哀相な字である。これは対語である「たて」を調べてみる必要があるだろう。


 「たて」は広辞苑では「縦・竪・経」という見出しである。いかにも強い,正義というイメージである。当然「方向」を表す意味が主であるが,⑤⑥として次の言葉が…「時間の流れに沿った面」「年齢・身分の上下の関係」。つまり横はそれに棹差す存在ということか。この国の歴史的な感覚でいつも虐げられる。


 救いはないかと字源を探ってみる。木偏に「黄」である。形声だけでなく会意という線もありそうだぞと予想する。そもそも「黄」は光系の字であるはずだ。調べると「火をつけた矢」そこから「光が四方に広がる」という意味を持つ。木偏と組み合わせて「中心から四方に向けて広がったよこ木」という解釈になる。


 少しいいイメージで終われそうだと一瞬思ったが,その後に続く文はこうだ。「また,かってに広がる意味も表す」。ははあん,ここらあたりがポイントだな。広がることを「かって」と思われるかそうでないか。横ばかり向いていては駄目,縦も見極めて,斜めにも気を配る。それをできないことを「横行」という。

いつも風が吹いている

2013年08月10日 | 雑記帳
 知り合いもかの先生もあの大先生も観たというので,遅れてはなるまいと,いざ『風立ちぬ』へ。ジブリだけれどこれはもう子ども向けではないわな。相変わらず画像の美しさ,特に冬の風景の描き方など本当に見入ってしまう。写真や実映像でも感動はできるが,絵に描く深さのような感覚が今回も迫ってきた。


 テーマは「風」だ。おっとそんなこと言いきっていいか。いろいろなシーンで吹く風は物語を誕生させ,象徴的な役割を果たす。だからアニメとして風の描き方に十分注意が払われている。登場人物への局地的な風が作りだす世界は,時代の大きな風のうねりの中に巻き込まれるが,人はそれを見逃してはならない。


 改めて声優の使い方が絶妙だなと思う。主人公二郎にああいう人の声を持ってくるセンス,いや世界観があるのだろう。声の持つ存在感が人物を決定づけている。バック音楽はトーンの違いに最初あれっと思わせておいて,マッチングさせていく妙を感じた。主題歌『ひこうき雲』は正直なところ,ぴんとこなかった。


 おおうっと思ったのは,二回登場した「天上大風」という書。この良寛の言葉を題名とした雑誌が発刊されていたことを思い出した。映画の字は良寛の書ととても似ていた。公式サイトによると鈴木敏夫氏の筆という。使い方は何気なかったが,宮崎監督は「風」を最終的に善なるものという捉え方をしているのか。

細かな気づきの枝をわたる

2013年08月09日 | 雑記帳
 県国語研の主催する夏季研修会に参加した。午前の講演はかの工藤直子氏で,いかにも詩人だなあという内容。二十年以上前に聴いた記憶があるが,その時とあまり変わらない気がする。しかし自分の数少ない実践群で,この人の詩は大きな位置を占めるのは事実だ。今の時点で振り返るのも悪くないなとふと思った。


 午後からの分科会では発言せずに,どんなことが話題になるか観察モードだった。キーワードとして「対話」がでた。数年前から浸透してきているこの言葉の意味は,当然直接的なそれを指すよりもっと広義になっている。広辞苑にはないが明鏡に書いている「精神的な交感」。交感かあ。それだと広がりすぎるか。


 面白いエピソードが発表者からあった。対話の意味を説明していたら,子どもから「ツッコミ」という言葉が出たそうだ。段階を踏んで指導すれば,この発想はもしかしたら使えるかもしれない。「どういうこと」「なんでやねん」「何言うてんねん」「ありえへんやろ」…理由と具体を求める問いに溢れている。


 「目的意識をもってしっかりと…」というまとめに関して,目的意識のあり方が質問された。よく取り上げられる話題である。子どもが自ら目的を持って単元に取り組むことができるとすれば,それはもう一つ二つ上のスケールを踏まえてのことだ。「意識」をつけているのは作為的であってよい証しかもしれない。


 グループ学習における話し合いの見取り,そして最後に出た国語辞典の与え方の話題,この二つに共通する感覚は,やはり正答主義の域を脱していないのではないか…そんな思いにとらわれた。もちろん自分もそれに近いと認識しながら,口ばかりで「多様性」を唱えている現状との落差を今さらながらに感じる。

写真展,簡捷,鑑賞,感傷

2013年08月08日 | 雑記帳
 県立美術館で開催されている篠山紀信展に行ってみた。写真家としての篠山紀信に特に興味があるわけではないが,なんといってもGORO世代(笑)である。十代で知っていた写真家はわずか数人だったろうし,なんと言っても「激写」シリーズは,単なるグラビアと一線を画す写真があることを教えてくれた。


 写真ってこんなに拡大できるものなの,というほどのサイズだった。新しい美術館のシンプルな構造にも似合っている。しかし,大きければ大きいほど作品数は少なくなるわけで,この写真家の世界に浸りたいと考えれば,もうちょっと点数が多い方が個人的には好きだなあ。ああこれは自分の小物感を露出したか。


 ほとんど名前がすぐ浮かぶ有名人のなかで,あれっ誰だと思ったのは一人の少女の写真。目に宿る意思の強さが少女の持つ危うさと相まって独特の世界を醸し出している。パンフで名前を確認すると「満島ひかり1997」とある。なるほど。「ええっ,そうだそうだ,あの人」と隣で若い女性同士が言い合っていた。


 一番気にいった作品は,SPECTACLEと題された歌舞伎役者を写したコーナーにあった。海老蔵や玉三郎の艶やかさも見事ではあったが,ずんと心に響いた片岡仁左衛門「道明寺」の拝む姿である。原色の世界が展開されているなかで,そこだけ地味な色合いが基調となり,祈りを強烈に感じさせる一枚だった。


 震災で被災された人々の写真を見ながら「紀信のテーマは,顔なんだな」と思った。後から見たパンフの文章にもそんなふうに書いてあった。人には数えきれないほどの顔があり,それらは正直に,心や,場や,時や,空気を映す。被災された人々の肖像は全員が正面直立。その顔が物語っている全てが迫ってきた。