すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

I先生の表現と矜持

2015年07月11日 | 雑記帳
 過日、I先生の講演を拝聴した。
 イニシャルにしなくともいいと思ったが、なんとなく格好がつく?ような気がする。
 I先生からお話を聴くのは四年ぶりになるだろうか。
 退職したあと大学へ入られ、客員教授をなさっていた頃、本町に招いたことがある。

 この先生にはとても敵わないなあといつも思う。

 何がそう感じさせるだろうか、今回の講演を聞きながら自問してみた。

 ポイントを二つ挙げてみる。

 一つは、全身による誠意表現。
 いつも何か意外なモノを準備して、聞く者を驚かせる方だが、今回の導入は違っていた。
 参加者一人一人との握手である。
 最前列だけだったらあり得るかもしれないが、70名近い参加者一人一人と握手をして回った。「これで時間を稼げる」といったジョークを交えながら、握手していく。
 他の人がすれば嫌味と感じられる場合もあるかもしれないが、I先生であればおそらくそうは感じる人はいないだろう。
 それは、きっといつの場合も腰低く挨拶をする、そのやり方が徹底していて、心がこもっていると、多くの人が感じてきたからだ。

 二つ目は、直接モノを通して語る姿。
 理科がご専門であり、今回もブザーやだるま落としなどを持ちこんで、実際に体験させながら感想や考えを聞き、論を進めていった。
 ここはいつの場合も徹底している。机上の理論ではなく、目の前にある現象のとらえ方と現実を結びつけることで語りを進めていく。
 初めての出会いは、指導主事訪問だったことを記憶している。
 予定時刻より1時間も早く来校し、理科室にこもって準備している姿を忘れられない。
 そして、そういう人は他には一人もいなかった。

 細かい部分に目を向ける視点、恐るべき程の行動力、他を巻き込んで動く姿勢…まだまだいくつか強調できる点はある。

 しかし、おそらく上の二つが基盤となって、I先生の持つエネルギーが伝わってくるのだと思う。

 今回の演題は「たくましい子どもの育成とリーダーの役割」であった。
 先生の口から、筋道立ったまとまった形でその答えが示されたか、と言えば、けしてそうではなかった。
 それはおそらくは意図的であるし、それが基本的な姿勢なのだ。

 つまりは、現象を見て自分の言葉で導きだし、自分で行動するしか、その命題には対していけないということだ。
 こういう言葉はないかもしれないが、「理科人」としての矜持はそこにある。

反省と謝罪の距離感

2015年07月10日 | 雑記帳
 「反省と謝罪」と言えば、今ならまだ、ああアメリカ議会での我が国の首相演説のことかと思い出す人は少なくないだろう。「反省しているが、謝罪はしない」という名言?は、今年の流行語大賞の一つとなるか…。それはともかく、私の頭にはあの有名CMのフレーズが少し重なった。「反省だけなら、サルでもできる


 名コピーライター仲畑貴志の作。確か「チオビタドリンク」。印象的な映像とマッチしていた。この「反省だけなら」に対応するのは、謝罪ではなくきっと「改善」なのだろう。では今回の発言と関係ないか…いや、そうではなくて、目指すところは改善なのだ。改善のために謝罪が必要かどうかということではないか。


 政治的な点については言及するだけの知識や観点がないので、目についた批評から興味を持ったものを拾い上げてみる。『図書』7月号で、作家の高村薫はこう書いた。「言語表現の構造上、これでは反省と謝罪が対立関係もしくは別の範疇に置かれることになり、常識に反する。」と、反省という一般的な語感にこだわる。


 一方、『本』7月号の連載で、平田オリザは「好意的に考えれば」と前置きして、「状態」を重んずる日本文化、日本語の言語構造を取り上げてこう言う。「反省は『状態』であり、謝罪は『動作』『行動』だ」。変わらない限りは、変わらないとだけ言えばいい、という行動様式は確かに自分の中にもある。意図的ではない。


 しかし、首相の発言が意図的でないわけがない。それは、納得できる過半数の日本人と、ポイントとして欲しい隣国の大多数に向けられて発せられる。とすれば、その発言そのものは広義の行動であり、きっと「反省」と「謝罪」の間が広がったということを意味している。その距離感こそが語られなければならない。

心に留めておくと決める

2015年07月09日 | 雑記帳
 ファイルにもぐり込ませた「モラロジ―」の会報が出てきた。その表紙に野口芳宏先生が「利他の心で生きる」という題で書かれている。文章の一節に「幸福の正体」という箇所がある。それを先生は「『人から大事にされること』ではないかと思うに至った」と記されている。この平凡に見える結論の深さに心打たれる。


 『ハーバードの人生を変える授業』(タル・ベン・シャハ― 成瀬まゆみ訳 だいわ文庫)を読み始めた。「はじめに」に書かれてある「生産的知識」という言葉に惹かれる。知識は財産と同じく、使わなければ何も生み出すことはない。52ある項目の最初は「感謝する」。ただ心で思っているだけでは何も生産されない。


 家族との会話で、周囲の方々との接し方の話題となった。「あの人は、いつも誉めてくれる」「○○のことを話題にしたら、嬉しそうだった」…人は言い方一つで印象づけられると改めて思う。加えて表情が加わればなおさらだ。毎朝の挨拶指導で特にこの頃感じるのは、声や表情の明るさこそが心を和ませるということ。


 偶然にネットで見かけたエピソードだが職員会議で引用した。それだけ心に沁みる風景だ。ある空港で疲れた様子でトランクに腰掛ける男に、係員が声をかける。その返答は「体はここに着いたが、心がまだ着かないので待っている」。私たちの日常にもそういうことがないか。心の存在と位置を見失っていないか。

母性で女性は分たれる

2015年07月08日 | 読書
 【2015読了】61冊目 ★★★
 『母性』(湊かなえ 新潮文庫)

 単行本が出版されたとき、作者の言葉がキャッチコピーとして使われていた。「これが書けたら、作家を辞めてもいい。その思いを込めて書きあげました。」当時、湊かなえの文庫(告白やら少女やら)にはまり始めていた時期なので印象深い。ようやくの文庫出版、作者が込めた思いとはいかほどか…。読み終えて、他作品と比べて飛びぬけた感はなかった気がする。


 ただ、語り手を複数にするお得意の形式とはいえ、主たる「母」と「娘」の持つ感情の食い違い、そして女性特有?のどろどろ感はいつもより強かったかな、という気がする。これまでも多くは女性の語り手だったが、ここまでの切実さが繰り返し出てくるのはなかったかもしれない。対比されられているのは、言うまでもなく「母」と「娘」。女性の区分だ。


 そう考えると「母性」を「母の手記」と「娘の回想」という形で語らせるのはなるほどだし、「もう一人」の登場がその対照性をうまく束ねている。そこの辺りの仕掛けが上手だ。それにしても解説にもあったが「母」という語の多様な意味、比喩としての波及性に比べ、「父」の単純さである。登場する男たちも、皆ある意味単純であり、どうにも共感してしまう。


 仕掛けといえば、話のクライマックスシーンで、娘の名前が叫ばれ、その固有名詞の登場が初めてであることも、そこで気づかされる。その象徴性は案外単純なものだろう。自分とは○○である、というテーゼを立てようとするとき、そこに「名前」と入れることは実に簡単で、実に奥深い。他と自分を分かつものは「名」でしかない。ゆえに「命名」というか。


 全体を貫く印象的な台詞として「愛能う限り」がある。どういう意味か、わからなかった。本を読み終えてから辞書を開くと「能う限り(あたうかぎり)」は「できる限り」と載っている。「愛能う限り」…言葉として綺麗で語感もいい。しかし、その響きに酔ってしまいそうな印象がある。物語の台詞としては秀逸だが、現実では酔ったり溺れたりする語は警戒する。

忙殺とまでは言わないが

2015年07月07日 | 雑記帳
 月曜日。校門前指導を終えて校舎内に入り、あっ8時だと思ってテレビをつけてみたら、その瞬間にアメリカの初ゴール。すぐさま、職員に「とられちゃったよ」と知らせたら、すぐに追加点。今日の楽しみがしぼんだ感じ…。それはともかく今日はやるべきことが満載だと、リストアップしてみる。忙殺の日か。


 昨日の県少年少女陸上での賞状を持って3名の子が来る。うち1名は優勝で全国大会出場を決めた。学校報にそのことも入れ込んで完成。印刷に回す。写真をブログアップする。10時より臨時の校長会が開かれるので役場へ。学校統合に絡む物品処理の計画など、すでに年度末を意識しての取組が本格化してくる。


 学校にもどり、実施されていたカウンセリングの結果を聞きながら、明後日の職員会議後に打ち合わせすることを決める。午後からの読み聞かせの下読みを少々。給食の検食、今日は「羽後町まるごと給食」なので、写真に収める。その後、低学年の教室を回る。「チャプチェ丼」って言いにくいなあと話しかけてみる。


 1時から企画会。時間がないので行事確認と大きい箇所だけ話す。そうしているうちに読み聞かせボランティアの方々来校。今日は自分も5年生対象に読み聞かせ当番である。選んだのは『ぼくのニセモノをつくるには』(ヨシタケシンスケ)。PCに取り込み、プロジェクターで映す。面白いし考えさせてくれる作品だ。


 一息して、2日の研修のまとめを同封して、講師の照井先生に礼状を出す。その後給食のメニューと食べている様子をブログアップ。4時からは隣校との統合に関する運営部会である。準備が進まず、変更して担当者同士で原案づくりをする。まずは教育目標。先週練っていた文案をもとにようやく決着する。一安心。

「病」を考えるという病

2015年07月06日 | 雑記帳
 「『力』本に続く出版界のトレンドは『病』本」という文章を、さる方のブログで目にした。雑誌編集長の言葉らしい。先日、行きつけの小さな書店でどうかなと思って見回してみた。まだまだ「力」本は多いなあ…さてさて「病」本は…。あった『家族という病』。他には『父という病』『母という病』…だけか。


 まだそれほどとは思えない。しかしネットで調べたら確かに他に5冊ほどあった。それにしても、これは確かにつけやすいネーミングだ。「~~~という病」。職業上あっさり考えれば…「学校という病」「教師という病」「校長という病」…おおうっ、これなら自分にだって書けるかもしれないという気になる。


 それは「病」と比喩できるものが、目の前にたくさんあるという証拠か。学校を例にすると、「症状」を書きだせる。結構、様々な様相がある。いくつかの具体的な「症例」も挙げることができるだろう。そして、その「原因」となる要素も書きだせる。複数の要因があって、それが絡み合って対象を蝕んでいく。


 書いていくうちに「生活習慣病」に近いのかもしれない、なんて想像する。加齢が大きな原因だが、これらは外的な環境からの影響が大きく、それに対する日常がどうあればいいかと関係するか。いや、ひょっとして精神的疾患に近いのかな…いずれ長い治療期間が必要になってくるのか。おっ、治療プランも書けるぞ。


 手術もある、特効薬もある。しかしそれを誰が認可する。そもそも「病」であることを自覚していない。ちょっと顔色悪いよ、調子がよくないんじゃない、この薬飲めば治るよ…という程度にしか見られていない。つまり、病人がほおっておかれる社会そのものが「病」。『日本社会という病』…もう既に出ているか。

「実は」で掘り進めばいい

2015年07月05日 | 雑記帳
 自称健康オタクがはまりそうな特集名に、まんまとは引っかかってしまった。『Tarzan』誌の今号は「実は、カラダに悪いコト。」なかなか考えられたキャッチコピーである。「実は」がポイントであり、一般的にはそうだとされているが本当のところは…と知識欲を駆り立てられる。立ち読みもせずに買い求めた。


 と、読んでみると、これがほとんど目新しいものなどない。小項目を見ればもはや予想のつきそうな記事ばかり。NGとされているのは、例えば「太るのはイヤだから、カロリーゼロの飲料を飲む」「初心者は初心者用シューズを履いていれば間違いない。」…結局「実は」とは、但し書きをつけ加えていくことだ。


 世の中とはだいたいそんなものだろう。何ごとにも表があれば裏があり、利点があれば欠点があり、正しく清いことでもやりすぎれば酷く不気味になることもある。何事も程々にしときなさい、という教訓が全面から伝わってくるのだ。しかし、それだけではあまりにも寂しいので、何かしら「実」を身につけたい。


 後半にミニコーナーのように「実は、アタマに悪いコト。」というページがあった。この中に「手慣れた趣味」という項目が出てくる。一定のレベルを超えた趣味人たちがターゲットであり、他者に驚きを与えてくれる腕前、手さばきなどは実は「慣れている」だけで、脳が活性化しているかとは別問題だと言う。


 鼻歌交じりで苦にせず出来るのは、仮に生産的に見えたとしても脳が楽していること。そう言えば、あれもそれも、これも…。別に楽してもいいじゃないかと居直りたくなるが、それじゃ加齢に対抗できない。要は深掘りしていくことか。「実は」と但し書きをつける姿勢ではなく、「実は」で掘り進めばいいのだ。

畑の野菜と地雷と

2015年07月04日 | 雑記帳
 久しぶりに買ってみた雑誌『ソトコト』。ちょっと興味深い特集だった。
 その内容については、ちょっと心の中で温めておくこととして、「こといづ」と題された連載なのだろうか、1ページのエッセイに心惹かれた。
 高木正勝という方の文章らしい。

 相手に何かを求めるなら、先に自分の心と躰でその希望を実現してしまえば、自分にとっての相手はそのようになってくれる。

 30代半ばでこんなふうに言えるとは…いや、だからこそそういう感覚を持てるのかもしれない…要はどんな生き方をしてきたかなんだよなあ、と果てしなく羨ましく思える。

 『ソトコト』らしく野菜づくりのことにも触れていて、面白い
 友人から「野菜を育ててるなら水に触れてその水を畑に撒けばいい」と教えられた著者は、こんなふうに理由づけしている。

 僕の躰で起こっているプラスやマイナス、過剰や足りてないの情報を水が記憶してくれて、それを野菜が読み取って調整してくれるらしい。

 ほおおうっ。そんなことがあるのかと半信半疑ではあるが、おそらく科学的に証明はされていないと思うが、そんな心持で生き物に接することができれば、安らかだろうなとは想像できる。

 それは食べる物を美味しく感じさせるし、自分自身も美味しく育つという比喩は、かなり響くなあと思う。


 ところで、巻末に田中康夫、浅田彰という二人の論客の「憂国呆談」という対談があり、そこで田中がこんなことを語った。

 権力という地雷を巧みに避けながら、人々に届く言葉を発信つづけてこそメディアであり、表現者なんだから

 昨今の施政者側のマスコミへの関与などを言っているのだと思う。ふむふむ、確かにと思いつつ、この勇ましさは少し権力に近い気もする。

 当然ながら、最初のエッセイとはずいぶんと距離のある文章であり、比べることなど到底適わない。

 ただ、結局は地続きである現実はこの田舎に住んでいても感じる。
 例えば「人口減少率」の問題であったり、安保関連の決議に関する議会対応であったりする。

 「表現者」であろうとするならば、自らの立つ場所の位置は明確にしておくべきである。畑の野菜の下に、地雷が埋まっていることもあるかもしれない。

らしい言葉

2015年07月03日 | 雑記帳
 ある会議の資料に載っていた言葉に、みんなで笑い合った。単なる誤植なのだが、妙に格好がいい。「キュアリア教育」…当然「キャリア教育」の間違いだろう。ごく普通のミスに過ぎないが、それを「そうかあ、キュアリアかあ、いいねえ」と場を和ませたのは、かの言葉にみんな食傷気味で、調味料が欲しいらしい。



 1日は「うるう秒」が入った日らしい。なんとなく意味はわかるが、どうも明確な答えも出せない気がする。その瞬間、つまり午前8時59分60秒という時間は、いったい自分にとって何かと考えたりすると、それってほんとに欲しいものなのという気になる。「閏(うるう)」は「潤う」の書き間違いがもとらしい。



 5年生が宿泊学習の班に分かれ、グループ名を考えていた。即決できる班は少なく、わいわいと言い合っている。一つの名前に笑った。「何か流行っているものは…」と助言すると、「ラッスンゴレライ」がすぐ出て、次に歴史好きなのか「本能寺の変」という子がいた。それから思いついた「本能寺の班」。不採用らしい。



 家族との会話で、何気なく口をついて出た「ほったっこ」。接尾辞の「こ」を外し「ほった」という場合もある。「へそくり」のことである。方言辞典にもある。この言葉はしばらく使わなかった気がする。祖母が生きていた頃のことば、些細なお金を家のどこかに隠していた時代…語源は?だが、いかにもらしい言葉だ。

「効力感」に自らツッコミ

2015年07月02日 | 教育ノート
 今日本校で実施した授業研修セミナーのテーマは「効力感のある国語科授業づくり」だった。
 
 講師に、岩手より照井孝司先生をお招きし、児童対象の特別授業そして講話をしていただいた。充実したひと時になった。
 この後、職員の感想をまとめながら、詳しく振り返ることになるが、講話の途中にぼやっと頭に浮かんだのは、「効力感ってなかなかやっかいな言葉だな」ということ。
 自分自身にツッコミを入れたくなった。

 このテーマそのものは、照井先生の発行された私家版『国語教室』にあったものだ。その折の内容は主として1時間の授業について記したものだった。
 今回の講話では、主に一定期間を通しての焦点化された実践について語っていただいたと思う。

 いずれにしても「効力感」の主体は、教師そして子どもと両面のとらえ方がある。
 しかし、その点を明確に区分、関係づければ、もう少し具体的な例をつなげることができたかもしれない。

 つまり、A「子ども」に「効力感」を「持たせる」。
 そして、B「教師」が「効力感」を「持つ」。

 この二つは、同義ではないだろう。
 「効力感」という言葉のねじ繰りまわしではない。
 BがあってのAであるということだ。

 教師が、「学習の効果」を意図的に活用、波及させようと思い、そういう仕掛けや仕組みを作らない限り、子どもは「学習の効果」を実感できない。

 仕掛けは主として授業の場が大きい。
 仕組みは、学級経営や教科等全体の指導とも大きく関わる。

 仕掛けとしては、一単位時間で言えば学習過程の工夫や学習用語の取り上げなどが考えられるだろう。また今回のような単元を見通した導入による意欲の喚起も当てはまる。
 仕組みは、今日の講話で言えば、日記指導や聴写、辞書活用などとも関わる。長いスパンでの設定、評価などが絡んでくる。さらには学習の足跡の掲示なども該当するかもしれない。

 教師がこの二つをしっかり意識することによって、子どもの「学習技能」が高まり、国語科学習中における効力感つまり前に学習したことを生かしていると実感したり、他教科の学習などにおける効力感つまり、国語科で学んだことが使えると思ったりするのではないか。

 と言いつつ、子どもはいちいちそんなことを実感しながら学習するわけではないので、これもまたその時点で教師が意識づけする必要がある。

 その往復運動のようなものを頻繁に動かすのが効力感か…と、ひとまず当日の思いを書いておこう。