すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「○○人」入門シリーズ完

2016年10月05日 | 読書
『昨夜のカレー、明日のパン』(木皿泉  河出文庫)


 面白い小説だった。単行本は2014年の本屋大賞第2位だったそうで、納得できる。木皿泉という作者が夫婦ユニット名であることは、以前読んでいた雑誌に連載があったので知っていた。実質の書き手は妻らしいが、そのあたりの発想や連携など実に興味深い。こうしたスタイルの仕事の仕方はもっと広がっていい。



 もともとはテレビの脚本家らしいが、その割に?この物語の出来事は平凡と言ってよい。しかし一種の群像劇であり、人物視点だけでなく、時間も前後して書かれてあり、物語がつながって理解が深まり心地よい。何よりそれぞれの登場人物の語る言葉が実にいい。自称キニナルキハンターにとって読み応えがあった。


◆「オレ、くたくたになるまで生きるわ」

◆「人は変わっていくんだよ。それは、とても過酷なことだと思う。でもね、でも同時に、そのことだけが人を救ってくれるのよ」

◆「動くことは生きること。生きることは動くこと。この世に、損も得もありません」


 流れや背景が見えないとごく平凡に見えるだろう。ただ普通の人間の暮らしで芯となるのは、こうしたシンプルな言葉ではないか。そしてそんな一言は、結局、個に徹しなければ出てこない。「○○人」入門と題して「新老人」「野蛮人」と続け、最後を締め括るのは「『この人』入門」とする個性だ…そんなオチとなった。

「○○人」入門シリーズ2

2016年10月04日 | 読書
『現代、野蛮人入門』(松尾スズキ  角川SSC新書)


 松尾の演劇を直接見たことはない。様々な媒体の情報や本人が出演する映画やテレビで想像するのみだが、この新書を読んで、ああそうだろうなと思うことがたくさんあった。幼少期から他者と安易に交わることができない、ウケをねらって周囲を笑わせたりするが、疎外感も強く感じている。それゆえ俯瞰者である。


 俯瞰者としてのキーワードは「偽善」である。「やさしい偽善のすすめ」「偽善の目的は『自己肯定』と『世界平和』」といった小見出しが示すように、行動論理としての偽善を積極的に認め、自信を持って居直っている。そのうえで「自由の本質」は「野蛮」にあることを様々な例を引き述べている。この言葉は秀逸だ。

◆心の中に、楳図かずおを。



 何も破天荒なことを奨励しているわけではない。しかし、誰しも心にある野蛮性に正直である時間があっていいということだ。それは怠惰であったり、逆に猛烈であったりするわけだが、強烈に管理が進む世の中とのすり合わせが実際には難しい。もしストレスに覆われたら、この言葉を思い出してみよう。

◆軽くうつ。くらいが、この先の人間の基本的な塩梅。

「○○人」入門シリーズ1

2016年10月03日 | 読書
『「新老人」のススメ』(弘兼憲史  徳間書店)

 弘兼は1947年生まれ。いわゆる団塊世代だ。その層をねらった本を今までもたくさん書いたはずだ。この新書は今年発刊だが、結局「新老人」というキーワードで括り、従来からの主張を繰り返した形だ。ただ、日常生活そして死に対する「準備」「心構え」をしっかりという論はもっともであり、次の言葉は納得した。

◆たとえ役立たなくても、役立つことを信じて準備しておくべきではないでしょうか。(中略)「備える」とはきっとそういうことだと思います。




 巻末にある同齢の作家北方謙三との対談。こうしたいわば「不良老人」には一種憧れを感じるが、自分も含めて多くの中高年は指をくわえて読んでいるだけかもしれない。それにしても、いわば「老後の指南本」の類で、北方が放った言葉は強烈であり、そして実にシンプルでありながら、生きる本質をついていた。

◆「食えなくなったら死ねばいい」

 これは、端的に「稼ぎ」がなくなったら「暮し」を減少、消滅させればいいということを言っている。確かにその通り。さらにまた、人間は「食べる」という行為が出来なくなったら、生物学的な死を迎えるという捉えもできるなあと感心した。そういう単純明快さを忘れてはいないけれど、あまりに周りが五月蠅い。

螺旋を描きながら進化する

2016年10月02日 | 雑記帳
 横手市民会館で開催された「鼓動」を観に行った。以前の湯沢文化会館での公演も印象深かった。記録をみると2002年の秋とある。あれから14年。メンバーの構成も変わっていることだろう。しかし相変わらずその躍動的な姿に魅せられた。「鼓動ワン・アース・ツアー」と名づけられた公演のテーマは「螺旋」である。

 鼓動をご存じない方は こちらのyoutubeへ




 一幕、二幕合わせて10曲。一幕のラストが「モノクローム」と名づけられた曲で、聴いたことがあるなあと連れと話した。小太鼓を使い、ごく小さな音の重なりから入り盛り上げていく。初めての時、へええこんな叩き方もあると聴き入った曲は、さらに洗練されているような気がした。1977年作という重みも感じた。


 個人的に楽しく思えたのは、「明けの明星」という曲だった。踊りながら叩き、歌い、幻想的なイメージを作っていた。男女各々3名ずつのバランスがよく、照明効果と相まって総合的なエンターテイメントになっていた。かつて私は「音へのこだわりを強く感じた」とこんなふうに感想メモを締めくくっていた。

 それはきっと旋律を捨てることによって深まっていくものだろう。今さらながらに「限定して、徹底する」ということの大切さを教えられた。


 この時の印象がそうであっても、現在はもうワンステップもツーステップも進んでいるのだ。歌舞伎の坂東玉三郎を演出に迎え、そういう意味での注目もあるのだろうが、それ以上に自分たちのポリシーをしっかり持っている集団だと思う。パンフレットにはプロデューサー西村信之氏が、こんなふうに記している。

 (前略)「新しい」という言葉の語源は「あらたし」つまり「改める」という言葉から来ているということでした。新しいといっても全く無から新しいものが生まれることではなく、すでにあるものを改めていくことで新しいと感じるものが生まれてくるというものでした。


 これはまさに「鼓動」という集団が、徐々に幅を拡げた過程そのものではないか。打楽器集団としての峰をさらに高くしているイメージだ。ラストはテーマである『螺旋』。この構成、迫力、多彩な響きは圧巻であった。観衆は中高年が多いように見えたが、拍手がなかなか鳴りやまなかったことがそれを証明していた。