すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

選挙の日に読み終えた教科書

2019年07月21日 | 読書
 投票率が良くない理由をどう説明するか。一言で言えるようでもあるし、数え上げればきりがない気もする。ただ学校教育に携わった者からすれば、その責任の一端があることは確かと自覚はしている。「自主」「自立」「自治」という面における教育活動のなし崩し的な後退は、目に見えていた。手をこまねいてきた。


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 『あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書』
 (アーネ・リンドクウィスト ヤン・ウェステル  川上邦夫・訳 新評論)


 国語科教科書なら多少は概観できるが、社会科は自信がない。だから日本の教科書と比較できるわけではない。ただおそらくはここまでは踏み込めていないと思われる「社会の負の面」を臆することなく紹介してある。いじめ、離婚、暴力と犯罪、アルコールと麻薬、社会的弱者等々。13,14歳に向けて語られている。


 章立ては「法律と福祉」「あなたと他の人々」「あなた自身の経済」「コミューン」「私たちの社会保障」。国や自治体の組織についても、例えば「犯罪者更生施設」なども取り上げられており、視点は俯瞰と微視を行き来している。説明の後に課題として、知識をまとめる問い、自分の考えを明らかにする問いが挙げられる。


 現天皇が45歳の誕生日に朗読した「子ども」(ドロシー・ロー・ノルト)が資料として載っている。「批判ばかりされた 子どもは/非難することを おぼえる」で始まり「可愛がられ 抱きしめられた 子どもは/世界中の愛情を 感じとることを おぼえる」で終わる詩だ。現実を見据える問いかけが課題とされる。


 例えば「激励や賞賛が良くない場合」「無理な要求ではないか」「要求に応えられない場合」…という問いだ。ここに示されるのは、困難や都合の悪いことに対してもあきらめず考えようという習慣づけだ。まさに我が国では希薄な部分だと思う。ステレオタイプで、良い点悪い点を挙げるだけでは能力は培われない。


 「この国では誰しもが、なんとかなると思っている」と語ったのは、かつてのサッカー日本代表監督オシムだった。それはある面では調整に長けていることかもしれないが、結果個の主張を抑え同調していくことに重きが置かれ、過程にある肝心の中身はすかすかだ。だから、選挙や投票もその一つになり下がった。

平凡な処世訓にこそ

2019年07月20日 | 読書
 慣れというものは怖ろしい。
 誰しもが、一度や二度はそんなことを感じた時があるはずだ。
 某週刊誌の連載で、作家橘玲が書いている。

Volume.169
 「幸福(不幸)を定義することができないとしても、そこには歴史や地域を超えた人類に普遍的な傾向がある。それは、『どんなことでも慣れてしまう』だ。」


 たとえば、こんな美味しいカステラは食べたことがないとF屋の五三焼きを口にしたのはいつだったろうか。
 その時は、間違いなく幸福感・満足感に浸ることができたのに…何度目かに食べる時は「やっぱり美味しいね」と言い合うけれど、やはり最初の感動からは著しくダウンしている。
 たとえば、贔屓にしているチームの試合であっても、勝ち負けがあるからこそ、応援に力がこもるのだろう。


 もっと日常的、いや根本的な事柄にも当てはまるに違いない。

 自分の置かれた境遇や身体的特徴など、どう考えどう感じているか、他者にその全貌は見えない。
 世間的な物差しでは測れない、それらは、きっと本人の中で渦巻いている。
 客観的に見て変化がなくとも、本人の中では「慣れ」によって、幸福度が日々違っている。


 とすれば、結論は一つ。

 不幸に慣れよ。幸福に慣れるな。

 そんな甘い、都合のいい言い方がどこにある!
 (自らを叱り、口を滑らす慣れを戒めよ。)

 まあ、別の言い方をすれば、
 仕方のないことはあきらめろ、恵まれたことには感謝せよ、というごく平凡な処世訓だ。

ハイハイ俳句のころ

2019年07月19日 | 教育ノート
 今回、4年生の俳句づくり授業の依頼があったとき、関連本を読んで「取り合わせ」を教材化したいと思ったので、今までの自分の実践は振り返らなかった。ただ、直前になって開いた昔の個人集約冊子に「ハイハイ俳句」という数ページがあり、懐かしく読み込んでしまった。六年生を対象になっなんと5時間扱いだ。


 それも3月の5~12日の日付。当時は担任外だったから、学級担任の意図なのか余裕なのか(笑)卒業式直前の実践だ。21年前、国語の教科書には高学年にしか俳句・短歌は取り上げられていなかったと思う。俳句のクイズ的なことから始まり、段階的な句作をして、最後は句会という結構まとまった展開になっている。


 まず「ハイハイ俳句」という単元名がいい(自画自賛だ)。こんなふうに書いている。「ハイハイと名づけたのは、赤ちゃんが這うような初歩的というイメージから、そしてさらに『High』へ向かえればいいなあ」。短詩型の楽しさを味わわせるため、名作俳句だけでなく児童作品も、黛まどかの作品まで登場させている。


 句会方式も今でこそやる人は多いが、当時は稀だったと思う。習作的なことで取り組んだ「物語俳句」も、句会で取り上げた。新美南吉の『手ぶくろを買いに』を読み、そこから五七五をひねり出す。今読んでもなかなかいいと感じる作品もある。「冬の道母が恋しく走りだす」「かじかむ手やさしくつつむ母のいき


 わずか5ページだが「句集」と名づけ、まとめとして配布した。六年間の思い出をたどって、十七音に仕上げた。例えば(1年春・入学式)とあり「ランドセル胸をはれよと背中おす」、(5年夏・保呂羽山)では「ちょうちんのゆれる炎で道を行く」など。Highに少しは向かえたか。ちなみに我が長女のクラスだった。

ダマシダマシの一日か

2019年07月18日 | 雑記帳
 数日前の朝、起きた時に体調に異変があり、ああまたかと思った。頼まれていた俳句づくりの授業の準備もしなくてはと焦りつつ、はかどらないままだった。それでも学習シート類をなんとか仕上げ、どうにか昨日を迎えたが、満足にはほど遠い。当然だが、数少ない「引き出し」も錆びつきぎくしゃくしていた。


 午前の2校時、3校時と二つの学級を相手にした。達成度は半分ほど。わずかに経験値を高める時間にはなったかと、ショボい総括をするしかない。ただ、子どもたちとの一緒に居る空間は、やはり気持ちが高揚する。我が身にとってはいい若返り(笑)活動かもしれない。スピーカーとしての役割ならまだできそうだ。


 職場へ戻り昼食後は、役場に出向いての会議が待っていた。昨年度の事業評価に関するものである。当然、数値評価・ランク評価が示されるわけで、そのやり取りに耳を傾けるとなかなか難しい。「量は質である」と自分も言ってきたが、量では表しにくい質の存在をどう顕在化させるか、考えてもなかなか名案はない。


 やはり「質」とは、一人一人の中で感得するものだから、現場体験・即時評価だろうな、と到底現実的ではないことが浮かぶ。1時半定刻前に始まった会議の終了は4時40分を過ぎた。3時間を超した会議は珍しい。学校の時でも最近は記憶にないなあ、結構集中できていた自分に感心してしまう(って当たり前のことだが)。


 この頃「ダマシダマシ」という気持ちを持つことが頻繁だ。築15年経過した我が家でも様々な器具が故障や破損するが、一挙に部品交換や新品購入とはいかず、なんとか調整して間に合わせることが多い。以前はそれが嫌いだったのに。生まれ変わる願望が叶わないことを知り、生き延びる欲望を持ったからだろうか。

知恵を冒険させる遊び

2019年07月16日 | 読書
 学習モード第二弾ということで、書棚に残っていた本を探したら「ネンテンさん」のものが残っていた。読んだ記憶はあるが、このブログに残ってないとすれば結構前だ。発刊は1999年とある。その後もエッセイなど読んだのだろうか、感想メモが残っていた。→「未熟性の回路」 →「たまには戯作遊び」

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 『坪内稔典の俳句の授業』(坪内稔典 黎明書房)



 読み進めると、今自分が試みようとする活動の励ましになる言葉が本当に多く出てくる。かつて読んだ時はこんなに頷いただろうかと思うほどだ。句作を続けてきたわけではないが、何かの度に少しずつ考えが醸成されていたのだろうか。著者が言い切ったいくつかの文章に、強く同感している自分に気づいた。


 「俳句は、感動がまずあって、その感動を表現するという表現形式ではない」

 「『感動をそのまま表現する』にはおそらく高度の技術と才能がいります。ですから、たいていの人はこの目標を達成できません。」

 「断片的な表現の持つ多義性を取り出し、言葉の意外な働きに注目する」


 かつて桑原武夫は、俳句・短歌を「第二芸術」と称しその未熟さを指摘した。著者は、それでよいとし、「むしろ、意図的・積極的に第二芸術であるべき」と述べている。それは近代文学の目指した個人の重視から、一歩開かれた他者との共同による個の変革を、俳句などの短詩型文学が切り開く可能性を示唆している。


 短詩型に限らず作文教育を進めていた頃の自分の深い根っこの部分とも共通する。お笑い系、フィクション系が好きだったのは何故か。第4章のエッセイで柳田国男の母親のエピソードが紹介されている。母が弟の嘘を見破りながら笑って認めたことに対して、柳田は「最初の知恵の冒険」という素敵な言葉を使った。

「若返り」破門

2019年07月14日 | 雑記帳
 昨日は「老いるとは人間にとって何を意味するかについて、どんな自分の考えを持っているか、いないかで左右される」という言葉に圧倒されたと書いておきながら…、なんと翌朝行ったコンビニで、とある雑誌の表紙特集名に目を奪われ、思わず購入してしまうとは…。どうしようもない。その名は「『若返り』入門」。


 この手の結論は決まっている。「運動」「食事」そして「心の持ち方」、ほとんどの場合、三要素であることは健康オタクの自分でなくとも、常識化しているのだ。予想される内容を今さら読もうとしたのは、ひょっとして「若返り」というこの頃あまり聞かない言葉に惹かれたか。考えれば身体的には絶対無理なことだ。


 端的な比喩だろうが、見果てぬ夢だからこそ多くの人間は、言葉だけでも求めてしまうのだろう。ちなみに本町にはかつて、その名をつけた清酒があった。現在は饅頭がある。結構な人気商品である。「わかい」は広辞苑では「稚い」の漢字も当てられている。小ささや幼さに価値を求めるのは、成長が止まった証拠か。


 ところで肝心の雑誌のなかみはぺらぺらめくってみたが、案の定健康雑学的な話が多い。一昔前に流行ったアンチエイジングの焼き直しなのだ。そんななか、齋藤孝教授の連載「古典の名言」で取り上げられた西行の歌。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」…難所を越えられたのは命あったからだ。


 若き日に旅した場所を再び歩いた心境だろうが、なんと言っても「命なりけり」の響きが強い。結局好きなことを続けたから、そこにつながったのではないか。茂木健一郎は「『賢さ』よりも『愚かさ』が大きな価値を生む」と書く。磨くべきは他から愚かに見えることかもしれない。若返りなど凡策か。さっそく破門だ。

またここでも圧倒される

2019年07月13日 | 雑記帳
 研修と会議が終了してから、後日予定した事業のお願いで隣接の施設へ出向いた。横手市雄物川図書館である。そういえばここには「むのたけじ」の展示スペースがあったことを思い出した。用事を済ませ、しばし2階にあるコーナーを見学することにした。まず、直筆の色紙が20枚ほど並んでいるのが目に入る。




 達筆とは言えないだろうが、迫力ある書きぶりである。中には赤マジックで書かれた文章もある。いろいろな時期の筆跡があり見応えを感じる。ふっと目についたのは、この言葉だ。

 バガタレ、アキタ
 こめづくり 日本一の地名を
 ドゴサ 捨てた
 バガタレよ



 稲作農業についての見解は様々だろう。しかし、現段階でその議論は空しい。ただ、もっと早く強みを生かす発想を持ち、それを貫くことで新たな展開へと結びつく可能性はあったに違いない。さて、選挙も近い。候補者にはこの機会に(無理か)ぜひ足を運んで心に感じてほしい一言もあった。目を向けてほしい。

 「数は力」は暴言
 「質こそ力」が本物
 デモクラシー。



 初見本や雑誌も並んでいた。その中の少し分厚い冊子が目についた。『孫づきあいの知恵』という書名、扇谷正造責任編集とある。今の自分にぴったりだ。発行は1982年。執筆者の一人として、むのは「百年を単位として~孫づきあいの社会学」という50ページほどの文章を寄せている。冒頭を読みだして圧倒される。

「孫との間にどんな関係が成り立つかは、孫との関係を問題とするより先に、祖父母の立場にある者が自分自身の人生について、とりわけ、老いるとは人間にとって何を意味するかについて、どんな自分の考えを持っているか、いないかで左右される。これが前提である。」

 前提にたどり着くまで時間が必要なようである。来月訪問時に読み直してみたい。

学習モードへの助走

2019年07月12日 | 読書
 来週に某小学校でゲストティーチャーを頼まれていることがあり、頭を学習モードにしようかなと、関連ある図書を調べてみた。児童用は実際あまりないが夏井いつきが目立つ。雑誌にも登場するし、テレビで見る機会も多い。バイタリティがありエネルギーが強そうだ。この二冊もあの語り口そのままであり楽しい。


2019読了70
 『100年俳句計画』(夏井いつき そうえん社)


 西日本を中心に各地で行っている「句会ライブ」の様子などが描かれている。ぜひ一度参加してみたいなあと思わせられた。そして、この中に収められているいくつかの感動的な場面は、「表現の本質」を教えてくれるような気がする。人間は表現手段によって心の底をさらけ出せる、他者の心を揺さぶることができる。


 「言葉あそび」を人より多く取り上げてきた自分にとっても励まされる言葉があった。そうした類に疑問を呈する方も多いので、夏井はこう答えるという。「『言葉あそび』もできない子どもが、どうやって自分の『真の感動』を表現することができますか。」言葉をあやつる技術と楽しさを知ってこそ、力を発揮する。


2019読了71
 『世界一わかりやすい俳句の授業』(夏井いつき PHP研究所)



 夏井の俳句づくりは、取り合わせを主に進められる。当然前著の句会ライブでもそのパターンが多い。自分も授業として幾度となく試みたが、その手法を初めから強く出したことはなかった。確かに季語、十七の音数という限定のあるなかで、言葉の持つイメージを機能させるとしたら、有効と言えるかもしれない。


 当たり前だが「経験などから発見・気づき→言語表現」が常道、本筋であることは間違いない。しかし、逆に「言語表現→解釈(発見・気づき)」という流れもあるわけで、その双方向が表現・理解の楽しさにつながるのではないか。短い俳句だからこそ、想像の余地が豊富にあり、その特性を生かして楽しめればいい。

「正の字」が教える正しさ

2019年07月11日 | 雑記帳
 何年ぶりにこんな集計作業をしたかなと思いつつ、アンケート結果を「正の字」に表していった。今どきこんな手作業でなくともエクセルや関連ソフトに詳しければ、簡単にできるのだろう。画面で操作を覚えるよりも、手を動かした方がと自分なりの言い訳を考える。ともあれ、1000人を超したデータ集計は終わった。


 ところで「正の字」集計。我々にとっては学級委員の選挙シーンなどを思い出す懐かしい感覚だ。5画なのでカウントしやすいことは誰でもわかる。外国にも様々あり、星のマークを書く方式、斜め線4本に横線を通す欧米式、四角マスに対角線の南米式などが挙げられる。いずれも5画。画線法と名づけられている。


 日本では昔は「玉」だった。金銭、そろばんなどからの連想か。なぜ廃れたかというと、最後の「、」が汚れで勘違いされたり、意図的に誤魔化されたりするおそれがあるかららしい。そう思うと「正の字」は直線のみで理に適っている。集計計算では5でなくともパッと数字が頭に入ってくることに、今さら感心する。


 総数がきちんとあっているかを計算するとき電卓も使ったが、暗算でやるように努めてみた。数を足していって1の位があっていれば確実だろうという見通しを持っている。最終的なチェックはするにしても、頭の中で行うアバウトな作業はいつも大事だ。大雑把に見たり、部分のみ見たり、自在に切り替えられる。


 自由記述もスキャンなどせずに、ちゃんと打ち込む。千差万別の内容になるが、その一瞬だけは一人一人の書き手と向き合える。手を止めてふと考えさせられる記述もあり、それもまたいい時間だ。選択肢につけられたマルの形一つとっても、こちらが汲み取ろうとすれば、なんとなく気持ちや心は伝わってくるものだ。

納豆の比喩を信じよ(笑)

2019年07月10日 | 雑記帳
 移動中につけていたカーラジオから「納豆」の話題が聞こえてきた。今日7月10日が語呂合わせで「納豆の日」らしい。納豆は好き嫌いのことや何を味付けにするかなど、どこでも話題になりやすい食品だ。ラジオでは、かき回さずに一粒一粒味わうという食べ方をする人がいて驚いたが、それもありかとふと思う。


 朝食にご飯を食べなくなって久しいので、ぐっと消費量が落ちている。その栄養価については喧伝されていて、時々思い出したように夕食に並んだりするが、やはり白米と一緒でないと習慣化とまではいかないようだ。たまにスーパーなどに陳列されているのを見ると、その種類の多さにやはりこれも国民食と納得する。


 昔、我が実家でも手作りをしていた。わらに包んだそれを「ちちこなっとう」と呼んでいた。各家々のわらの中にある納豆菌で発酵させたのだ。それから徐々に市販の三角納豆になった。今のようにプラ容器全盛になってずいぶんと経つが、種類は増えてもやはり納豆は納豆という味は揺らいでいない。偉いもんだなあ。


「なっとう」の「」の漢字が気になったことがあった。語源を調べると「寺の『納所』(金銭や米の出納を行うところ)でつくられたからか。」とある。私たちがふだん食べている糸引き納豆とは別に、大徳寺納豆など「寺納豆」も由緒あるものだし背負っている歴史も深い。調味料ばかりでなく、組み合わせも自在だ。


 こう書いてくると、「納豆のように」という比喩はあまりお目にかからないが、使ってもよくないか。「ねばり強さ」「他との相性もよいし自ら主張もする」「自然食としての手作り感がある」など、実に多様である。ただし「臭い」と言われればそれまでか。しかし、発酵とは臭気が放たれるに決まっている。力を信じよ