すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

山頭火が見えてさみしい

2019年07月24日 | 読書
 先週の俳句学習とはまったく関わりないのだが、今週は訳あって種田山頭火の本を見ている。そういえば自分には、何年かごとに尾崎放哉やら山頭火などを読む時がくるようだ。香川県小豆島にある、放哉の晩年過ごした家を訪ねたのは夏休みだったなあ、何年前だったかなあとぼんやり思い出している。探したら…。


 それはともかく山頭火。別に詳しいわけではない。知っているのは「分け入っても~」と、「うしろすがたの~」「どうしやうもない~」程度だ。こうした自由律の句は訳がわからん、なんのこっちゃと捨ててしまえばそれまでだが、少し真面目に向き合えば、想像を働かす楽しさは、また定型句と一味違って楽しい


 投げ出した足へとんぼとまろうとする

 いかにも山頭火らしい。自分がだらしなくだらりと投げ出した足にも、ひと時の慰安を求めてトンボが停まろうとしている。役立ち感と程遠い行為、そういう生き方であっても、何かの支えになることもある、ヨカッタネいやドウシヨウモネエナアというところだろうか。毛むくじゃらの汚れた足が見えてくる。


 まっすぐな道でさみしい

 「まっすぐ」を「さみしい」ととらえる感性とは何か。一つの見方を示せば、見通せるゆえのさみしさはわかる気がする。安心感はあるにしても次に目にする景色への期待が微塵もなければ、やはり人はさみしい。だが「わかれてきた道がまっすぐ」という句もあると知る。これは「もう分かれられない」さみしさか。


 ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

 不眠症に患う自分には、ふくろうに耳を傾ける余裕がうらやましい。ふくろうという動物が本当に眠い生き物かよくわからないので、詠んだ気持ちの芯は共感か、はたまた孤独感か。「ねむる」行為の価値づけも少し気になる。「わたし」は果たして眠ろうとしているのか…。ふくろうのように目を丸くする顔が見える。