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誰が子どもを疲れさせるか

2019年07月29日 | 雑記帳
 過日、地元の学校を訪れた時、教室へ向かおうとした時に廊下で出会った子が「オツカレサマデス」と声をかけてくれた。見知った顔の一年生であり、おそらくは大人の声かけの真似をしたのだと思い、顔がほころんだ。ただ、よく考えるとこの現象?は単純に笑えない、そんな気持ちが残る。ある意味では伝染だ。


 そういえば、今は母親となった我が娘たちが、友達と会ったときに「オツカレー」などと言っていると聞いたのは高校生の頃だったろうか。その時もいやはやと感じた。十数年前だったから、それ以前から蔓延していたのだろう。小中学生も昔から忙しかったはずだが、その質が徐々に変化していったようにも思える。

 
 最近、今年小学校へ入学させたばかりの方から、夏休みのことを尋ねられた。長期休みに入って何もしていないように見える子が不安だという。忙しく働く親世代が共通して抱く思いなのかもしれない。これは一種の同化なのだろうか。活発にあれこれ働きかけ、何か生産的なことをしていなければ無駄と感じてしまう。


 そんなふうに子どもを追い詰めていくのは、大人だ。大人自身が疲れているから、その原因を振り返ってみればいいことなのに、あたかもその気分を子どもにも要求しているようだ。単純に過干渉と言っていいのかもしれない。放任を社会が許さなくなって、調節加減に困難を生ずるから、縛りや強制が多くなる。


 小椋佳の名曲で布施明が唄った『シクラメンのかほり』に、♪疲れを知らない子どものように…♪という一節がある。これは子ども全体への形容だったと思うが、今だとほんの一部の子どもにしか該当しなくなったか。子どもの時間感覚は大人のそれより、ずっと長い。「オツカレ」の子ども時代が長いのは、苦しい。